鎌倉芳太郎

没年月日:1983/08/03
分野:, (工,染)

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、沖縄の紅型・藍型等型絵染の研究・伝承者である鎌倉芳太郎は、8月3日午後5時50分、急性心不全のため、東京都中野区の自宅で死去した。享年84。
略年譜
明治31(1898)年10月19日、香川県木田郡に父鎌倉宇一、母ワイの長男として生まれた。
大正7(1918)年3月、香川県師範学校本科第一部を卒業。在学中、竹内栖鳳門下の日本画家穴吹香村に写生の法を学んだ。
大正10(1921)年3月、東京美術学校図画師範科を卒業。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学教諭兼沖縄県立第一高等女学校教諭となる。琉球芸術の研究に没頭し、資料の収集・撮影を積む。
大正12(1923)年4月、東京美術学校研究科(美術史研究室)に入学。琉球研究資料を正木直彦校長に提出、同校長の紹介で東京帝国大学の伊東忠太教授の指導を受け、研究を続ける。
大正13(1924)年4月、伊東忠太博士と共同研究の名義で、財団法人啓明会より琉球芸術調査事業のため補助を受ける。同月東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県に出張。首里市の援助により尚候爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影する。
大正14(1925)年3月、東京美術学校美術史研究室に帰校。9月同校で、財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開催され、「琉球美術工芸に就きて」と題し講演を行った。
大正15(1926)年4月、沖縄本島を中心として、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。
昭和2(1927)年9月、八重山より台湾に渡って調査旅行をし、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校する。同月正木直彦校長担当の「東洋絵画史」のため、有給助手となる。
昭和3(1928)年9月、財団法人啓明会創立10周年記念事業として、東京美術学校に於て展覧会及び講演会を開催、染織工芸資料3000点余を陳列し、「琉球染織に就きて」と題して講演する。
昭和5(1930)年1月、山内静江と結婚、4月、東京美術学校講師となり「風俗史」の講義を担当。
昭和12(1937)年1月、沖縄県に赴き、首里城、浦添城、昭屋城趾等の発掘調査を行う。10月、伊東忠太博士と共著で「南海古陶瓷」を宝雲社より刊行。
昭和19(1944)年6月、東京美術学校退職(当時の官職は助教授)。
昭和20(1945)年3月、自宅が戦災に遇い、蔵書・資料焼失。但し琉球関係資料は東京美術学校文庫に保管のため焼失を免れ、これが琉球染織の本格的研究の契機となった。
昭和33(1958)年9月、第5回日本伝統工芸展に「琉球紅型中山風景文長着」出品入選。以後毎回出品入選する。
昭和34(1959)年5月、「古琉球型紙」5冊を京都書院より刊行。
昭和36(1961)年、社団法人日本工芸会の正会員となる。
昭和37(1962)年5月、日本工芸会理事(2ケ年)に就任、昭和39年に再選。
昭和39(1964)年9月、第11回日本伝統工芸展出品作「藍朧型印金芦文『瑲』紬地長着」が日本工芸会々長賞(奨励賞)を受ける。11月「越後糸型染」3冊、京都書院より刊行。
昭和42(1967)年12月、「古琉球紅型」(色彩論)を京都書院より刊行。
昭和44(1969)年6月、京都書院より「古琉球紅型」(技法論)を刊行。
昭和47(1972)年2月、首里の琉球政府博物館に於て「五十年前の沖縄」の写真展を開く。4月、勲四等瑞宝章を受ける。9月、第19回日本伝統工芸展に「型絵染竹林文上布地長着」を出品、日本工芸会総裁賞を受ける。
昭和48(1973)年4月、重要無形文化財技術保持者(型絵染)の個人認定を受ける。同月第9回人間国宝展に「型絵染霞文上代紬長着」を出品、以後、毎回出品する。7月「琉球王家伝来衣裳」(講談社刊行)を編集し、これに「琉球の染織工」を執筆する。
昭和50(1975)年3月、京都国立近代美術館編「沖縄の工芸」(講談社刊行)に「沖縄の工芸の歴史と特質」、「沖縄の染織について」を執筆。
昭和51(1976)年2月、「セレベス沖縄発掘古陶瓷」(『南海古陶瓷』の再版)を国書刊行会より刊行。4月「鎌倉芳太郎作品並びに琉球紅型資料展」を渋谷・西武百貨店にて開催。
昭和57(1982)年10月、太平洋戦争で失われた沖縄の文化財のかつての姿を再現、集大成した著書「沖縄文化の遺宝」(岩波書店刊)を刊行した。
昭和58(1983)年8月3日急性心不全のため死去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(314-315頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月11日 (更新履歴)
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