本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:1973/03/17 日本芸術院会員の石井鶴三は、3月17日午後10時20分、心臓衰弱のため東京都板橋区の自宅で死去した。享年85歳。4月2日正午から2時まで、葬儀及び告別式が春陽会葬(委員長・中川一政)として青山葬儀所で行われた。明治20年6月5日、東京・下谷に日本画家石井重賢(号・鼎湖)の三男として生れた。祖父は鈴木我古、長兄は柏亭と三代にわたる画家の家系である。数え12歳の時、千葉・船橋の農家、矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となったが、この頃、馬と遊ぶうちに馬体の不思議な触感に感動したのが彫刻を志す契機となったという。明治37年には実家石井へ戻り、4月から小山正太郎が指導する洋画塾「不同舎」へ通学してきびしい素描力を養い、また7月から長姉の嫁ぎ先の縁故にあたる加藤景雲の門に入り木彫の手ほどきを受け、翌年38年9月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、43年同校卒業、さらに研究科へ進み大正2年ここも修了した。彼が明治末期から美術界の多方面にわたって活躍してきたのは、この青少年時代の基礎勉強と独自な探求姿勢によるもので、油彩・水彩画、版画、挿絵などにも多彩に秀れた才腕を発揮してきたが、それはとりもなおさず彼の芸術の本領が最もよく発揮された彫刻造型の追究に帰されるものと考えられよう。東京美術学校在学中、荻原守衛の彫刻に感動し、一時は「荒川嶽」に代表される文展出品があり、大正3年再興の日本美術院の彫刻部に入り、その研究所で中原悌二郎、戸張孤雁、佐藤朝山、平櫛田中、保田竜門らと研鑽を重ねた。明治の末期、荻原のフランスからの帰国を契機として漸く近代の扉を開いた日本の彫刻界では、荻原の夭折後その系譜がごく少数の同志が残る院展彫刻部に引き継がれ、官展流とは違った内省の強い写実主義が誠実に追究された。なかでも石井は、対象の表面的で安易なまとまりを避け、内面的な造型の骨格を明示しようとつとめた稀有な存在であり、その実現は「母古稀像」「俊寛」「藤村先生」「風(試作)」などの代表作に窺われるように、峻厳な造型の内発力を示す作調となって、昭和期院展或いは別の場でながく指導的役割を果した。同じく昭和19年から34年まで東京芸大教授として「石井教室」で指導された門生たちの中には、学生時代、造型の原理をきびしくたたきこまれた師恩の深さを今に感謝しているものが全く多い。その業績の大体は、下記の略年譜(信濃教育第1044号の特集・石井鶴三先生追悼号に所載の岡田益雄編のものを主に参照した)で推察されたい。 略年譜明治20年(1887) 6月5日東京市下谷区に生れる。父は重賢(号鼎湖)、母ふじの三男。兄は満吉(柏亭)。明治30年 父重賢没。明治31年 千葉県船橋町の農家矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となる。明治37年 実家石井家に戻る。小山正太郎の画塾不同舎に学ぶ。加藤景雲に師事。明治38年 9月東京美術学校彫刻科選科に入学。この頃より肺結核にかかり、20歳のとき医療を廃し、みずからの養生法をおこない快方に向う。明治39年 東京パックに入社、漫画をかく。苦学生の生活が続く。浅間山に登る。明治41年 第2回文展で荻原守衛の「文覚」に感動する。この頃から推古仏に関心を抱き、また埴輪の美にひかれる。明治42年 はじめて日本アルプスに登る。以後しばしば登山し山岳のもつ彫刻美にうたれる。明治43年 東京美術学校卒業、同校研究科に進む。明治44年 第5回文展に「荒川嶽」入選。大正2年 東京美術学校研究科修業。大正4年 日本美術院同人佐藤朝山のすすめで、日本美術院に入り、研究所で彫塑研究をはじめる。福田美佐を知る。第2回二科展に「縊死者(水彩)」入選。第2回日本水彩画会展に「溪谷」「小学校」他2点入選。大正5年 日本美術院同人に推される。第3回二科展に「井戸を掘る」「行路病者」(共に水彩)入選。大正6年 第4回日本水彩画会展に「峠」「山茶花」出品。大正8年 福田美佐と結婚し、東京・田端に移り住む。大正9年 個展(兜屋画廊)を開く。大正10年 東京・板橋中丸の新居に移る。日本水彩画会の会員に推挙される。上司小剣作「東京」に挿絵を描く。大正13年 日本創作版画協会の会員となる。上田彫塑研究会の講師となり、以後毎年夏期講習会において指導する。昭和45年(第46回)まで毎年続ける(但し昭20休講)春陽会会員となる。大正14年 中里介山作「大菩薩峠」の挿絵をかく。以後断続して昭和2年に及ぶ。大正15年 自由学園に美術を教える。(昭和15年まで)。「婦人像」(上田における第1回講習会の作品)を院展に発表。昭和4年 伊那の彫塑講習会の講師となる。(翌年まで2回、3回目からは有志による)昭和5年 院展に「俊寛頭部試作」「踊」を出品。「石井鶴三素描集」を刊行する。直木三十五「南国太平記」の挿絵をかく。昭和6年 院展に「浴後」「信濃男坐像」(上田彫塑講習作)を出品。昭和7年 子母沢寛作「国定忠治」の挿絵をか。昭和8年 長野の彫塑講習会の講師となる。3年続くが昭和11年から上田に合流する。昭和9年 「石井鶴三挿絵集」第1巻(光大社刊・「大菩薩峠」の挿絵)刊行。昭和11年 院展に「針塚氏寿像」「老婦袒裼」(上田の作)を出品。昭和12年 長野美術研究会の絵画講習の講師をつとめ、昭19・20休講しただけで昭和33年まで毎年続く。昭和13年 随筆集「凸凹のおばけ」刊行。吉川英治「宮本武蔵」の挿絵をかく。上田で春陽会絵画講習を開き、3年継続する。昭和14年 日本版画協会会長となる。昭和18年 北中国旅行。上田で「石井鶴三小品展」を開く。院展に「藤村先生坐像」出品。随筆集「凹凸のおばけ」(増補版)刊行。「宮本武蔵挿絵集」刊行。昭和19年 美術学校改組により、東京美術学校教授となる。昭和20年 8月7日妻美佐病没(58歳)甲州棡原の山荘へ往来、以後数年に及ぶ。和田光子(妹)と同居。昭和23年 岩手県に高村光太郎をたずねる。院展に「仕舞」(鷹野悦之輔像)を出品。昭和24年 上田彫塑研究会25周年記念展・講演会開催。昭和25年 院展に「肖像」(石黒忠篤氏)を出品。坂本繁二郎を九州にたずねる。日本芸術院会員に任命される。横綱審議会委員になる。昭和26年 「木曽馬1・2」を院展に出品。「藤村先生木彫像」の第二作に着手する。昭和27年 法隆寺金堂再建修理にあたる。翌28年まで続く。院展に「小学校教師像」(松尾砂氏像)を出品。昭和29年 6月、「石井鶴三彫刻展」を中央公論社画廊で開催。上田彫塑30年記念展・講演会を開催。昭和30年 子母沢寛「父子鷹」の挿絵をかく。和泉保之師につき、狂言、小舞などのけいこを続ける。昭和31年 信濃教育会発行「彫刻家荻原碌山」刊行。昭和33年 兄柏亭没する。院展に「校長像」(山浦政氏)を出品。中国旅行をする。昭和34年 東京芸術大学教授退官。同名誉教授となる。上田で35周年記念「石井鶴三作品展」開催(上小教育会主催)。昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。昭和37年 腸閉塞をわずらい、入院手術。昭和38年 和田光子の孫蹊子(昭和22年より同居)を養女とする。法隆寺中門仁王修理にあたる。昭和41年 ヨーロッパ旅行。昭和44年 相撲博物館長となる。昭和46年 2月病気のため入院。翌年4月退院、自宅で療養。昭和48年 3月17日午後10時20分、自宅で心臓衰弱のため死去。
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没年月日:1973/03/17 独立美術協会会員の女流画家佐川敏子は、乳ガンのため3月17日午後、東京・千代田区の宮内庁病院で死去した。享年70歳であった。佐川は旧姓で本名中間敏子、同じ独立美術協会会員で武蔵美大教授中間冊夫の妻であった。佐川は、明治35年(1902)10月3日、東京牛込区に生れている。父佐川栄次郎は地質学者であった。幼年時代を本郷で過し、誠之小学校に入り、のち仙台に移り、再び東京に帰ってお茶の水高等女学校をへて大正12年3月東京女子大学国文科を卒業した。初め日本画を椎塚蕉華に学んだが、1930年協会洋画研究所に通って洋画をはじめ、1930年協会展に出品した。昭和6年、独立美術協会第1回展から出品、以後、毎年出品し、その間に中間冊夫と結婚、一子荘介をもうけている。昭和14年第9回独立美術展に「樹海」「山峡」を出品して独立美術協会賞をうけ、昭和16年同会友に推された。戦後も同会に作品を発表、昭和24年会員に推挙された。独立展発足当初から唯一の女流作家で、初期の静物や風景からしだいに身辺の樹木や鳥などの親密感にあふれた主題に内省的で深みのある作風をみせてきた。作品略年譜(独立展出品作)昭和6年(1931)・静物 同7年・駒込風景、卵のある静物 同8年・ウクレレ、樹 同9年・名膏、梳る女、窓辺静物 同10年・風景と少女、静物 同11年・姉妹、夜の裸婦 同12年・砂地、女達 同13年・岩に倚る、女達 同14年・樹海、山峡 同16年・庭の雑草、高原に春来る 同17年・樹々、切通し 同18年・丘、森の下草 同19年・桃、森の下草 同22年・習作 同24年・石庭、樹と石 同25年・欅の庭、窓外、学院 同26年・厨房静物、窓 同27年・夜明け、ユリウス、壺 同28年・レモン絞り、画架、ストーブ 同29年・白い家、月夜 同30年・白い鳥、夜の鳥 同31年・少女と鳥、眠る踊子、裸婦 同32年・女、うづくまる女 同33年・白い鳥、鳥は夜とぶ 同34年・北方の鳥、山の風 同35年・けやき、日没けやき 同36年・月と鳥、日没けやき 同37年・雲と鳥、風の中の樹 同38年・冬の日、裸木 同39年・朝やけ、暮れてくる山
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没年月日:1973/03/15 二紀会同人の洋画家田中猛夫は、3月15日心臓マヒのため京都市の自宅で死去した。享年54歳。大正8年10月4日米領ハワイ州ヒロ市ワイアケアに生れ、1938年ヒロハイスクールを卒業した。1940年洋画勉学のため来日し、関西美術院に学んだ。1951年二紀会展に「朝」が初入選し、57年二紀会同人に推挙された。以後同会を中心に活躍をつづけ、10回展で奨励賞13・14・15回で引続き同人賞を得ている。また、1959年には安井賞候補の出品があり、60・61・62年には毎日選抜美術に出品している。なお、1962年グループ「生」展結成に際し、これに参加し、没する前年までこゝに所属した。作品は、暖色系の抽象画或いは具象画で、関西学院で後進の指導にあたっていた。二紀展出品主要作品次の通り。「朝」(5回)。「けし」(7回)。「漁港」母子(10回)。「姉妹」「猫と少女」(11回)。「漁村」「かまきり」「親子」(13回)。「無題」「年輪」(14回)。「年輪」「火の鳥」(15回)。「年輪」(17回)。「作品緑-A」(18回)「作品No.1」「作品No.3」(19回)。「かまきり」(26回)等。
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没年月日:1973/03/06 二科会会員の洋画家、松島蘇順泉は3月6日午後5時、心筋コウソクのため埼玉県北埼玉郡の自宅で死去した。享年73歳。松島蘇順泉は、本名を順、医師でもあった。医学生時代から絵を学び、郷里で開業医のかたわら牧野虎雄に師事して、戦前には帝展、槐樹社展などに出品、戦争中は軍医として従軍、戦後は、主として二科展、埼玉県展に作品を発表していた。 年譜明治32年(1899) 10月18日、埼玉県北埼玉郡の医家の長男として生れる。大正1年 原道尋常小学校を卒業、埼玉県立粕壁中学校に入学。大正6年 4月、粕壁中学校を卒業、東京慈恵会医学専門学校予科に入学。大正8年 葵橋洋画研究所に入り素描を学び、また辻永に作品をみてもらう。慈恵会医専の2年先輩吉田忍、1年先輩の鈴木良三と3人で踠土魔社を創立、毎年秋に講堂で展覧会を開く。大正10年 第2回中央美術展に「裸木の陽」入選。大正11年 10月、三科インデペンデント展に出品。大正12年 東京慈恵会医学専門学校を卒業、附属東京病院外科助手となる。第4回新光洋画会展に入選。第4回中央美術展に「玉乗り」入選。大正13年 第5回新光洋画会展入選。大塚つる子と結婚。大正14年 第12回光風会展に「画室の午後」「静物」入選。医業を継ぐために郷里埼玉へ帰る。昭和2年 第1回大調和展に「夢を行く人」入選。昭和3年 牧野虎雄に師事、第5回槐樹社展に「冬の静物」「残んの花」入選。第2回大調和展「冬近し」昭和4年 第6回槐樹社展「冬の静物」「金魚針」。第10回帯展に「秋立つ頃」入選昭和5年 第7回槐樹社展「金魚」「猫」。第17回光風会展「自画像」「秋晴れ」。第11回帝展「曇り日」入選。昭和6年 第8回槐樹社展「秋立つ頃」「初秋の庭」昭和8年 第20回二科展に「名残の花」入選。昭和10年 第3回東光会展「秋立つ頃」。第22回二科展「春浅き頃」。昭和11年 第23回二科展「秋晴れ」昭和12年 第24回二科展「野火」。12月召集を受け、2週間、軍医教育をうける。昭和13年 第25回二科展「秋立つ頃」。12月、軍医として南中国地方広東に出征する。昭和14年 広東近郊にて砲兵伍長の二科会会員野間仁根と会う。2月、海南島に赴任、「海南島だより」を内地の新聞に送る。7月、第1回聖戦美術展に「新海南島」入選。9月、海南島で個展。10月、汕頭に赴任。昭和15年 10月15日~20日、日本橋三越で南支那風景画展を日本ビクター主催で開催。昭和16年 7月・中国東北区(旧・満州)のハルピンへ赴任。昭和17年 満州建国10周年記念展に「開拓地の五月」を出品。特選金賞を受賞。第29回二科展「井戸端(満州風景)」。昭和18年 ビルマのラングーンへ赴任。日緬美術展に「パゴダの見える丘」出品、1等賞を受賞。昭和20年 ビルマで敗戦を迎え、英軍の収容所に入る。昭和21年 12月、ビルマより復員。昭和25年 第2回読売アンデパンダン展に「南の街」「男と女」出品。昭和30年 第40回二科展「スケッチブック」入選。昭和32年 第42回二科展「死の灰」。昭和33年 第43回二科展「ネット裏の六億」。昭和34年 第44回二科展「レーダーで見た画室」昭和36年 第13回読売アンデパンダン展「流水」「早春溪流」昭和37年 第14回読売アンデパンダン展「作品A」「作品B」。第12回埼玉県展に「早春」招待出品。第47回二科展「ゲリラ」。昭和38年 第15回読売アンデパンダン展「湖畔の秋」。埼玉県展「田園の詩」。第48回二科展「舞台裏」昭和39年 埼玉県展「卓上静物」。第49回二科展「幕内楽師」。昭和40年 埼玉県展「静物」。第50回二科展「房内」、創立50周年記念賞を受賞。昭和41年 埼玉県展「人々」。第51回二科展「建売住宅」、会友に推挙される。昭和42年 埼玉県展「五月の県北風景」。第52回二科展「新居の月」。昭和43年 埼玉県展「県北の秋」。第53回二科展「屋根裏の画室」。昭和44年 埼玉県展「窓外の花」。愛54回二科展「建売住宅」。昭和45年 埼玉県展「地生えの人」。第55回二科展「回顧展」、二科会会員に推挙される。昭和46年 埼玉県展「県北の秋」。第56回二科展「姑娘」、審査員となる。昭和47年 埼玉県展「マカオ寸景」、県展審査員。第57回二科展「バラエテイ」。昭和48年 3月6日、自宅にて逝去。本年譜は『赤蝶』19号に掲載されている「松島蘇順泉年譜」による。
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没年月日:1973/02/28 日展顧問、新世紀美術協会創立会員の大久保作次郎は48年2月28日逝去した。享年83歳。明治23年11月24日大阪市に生れた。明治44年氏原家より叔父の大久保家を継ぐ。大正4年、東京美術学校西洋画科本科を卒業、同級に鍋井克之がいた。更に同校研究科に進み、大正7年終了、大正12年2月渡仏、現在奈良国際ホテルのロビーにあるボチチェリーの壁画模写は滞欧中の作品である。昭和2年5月帰国、第8回帝展審査員となり、また、昭和13年創立の槐樹社に同16年まで会員として在籍した。官展審査員をつとめるかたわら、昭和14年、鈴木千久馬、中野和高、安宅安五郎らと創元会を結成し、17年迄同展に出品していた。戦後は日展に出品、審査員となり、他に旺玄会々員となり、30年には、和田三造、川島理一郎、吉村吉松、柚木久太と共に新世紀美術協会を結成している。昭和34年日本芸術院賞を受賞、38年芸術院会員となった。風景画の他、明るい室内やテラス、樹下のベンチといった明るい外光の射す下での人物像を好んで描いている。作品はいづれも外光派の穏健な作風によっている。
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没年月日:1973/02/23 大阪市立大学文学部教授の西垣雄太郎は、2月23日午後1時50分、脳浮腫のため牧方市民病院で死去した。享年53歳。西垣雄太郎は大正8年(1919)5月27日、兵庫県豊岡市に生まれ、昭和19年(1944)9月東京帝国大学文学部教育学科を卒業、同24年9月東京大学部美学美術史学科大学院を修了、西洋美術史を専攻した。昭和26年(1951)4月、大阪市立大学文学部助手となり、同30年専任講師となった。主要な研究対象は17世紀スペイン絵画史で、昭和35年(1960)8月から翌36年8月までスペイン・マドリッド大学に留学し、昭和38年大阪市立大学文学部助教授に就任、同年教授に昇任した。主要な研究論文に「ベラスケス作の肖像について」(『人文研究』昭和41年)、「ベラスケスとエル・エスコリアールのパンテオン」(『人文研究』、昭和42)などがある。
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没年月日:1973/02/22 洋画家、国画会々員土田文雄は2月22日脳軟化症のため、東京都中野区の自宅で逝去した。享年72歳。明治34年2月22日山形県米沢市絹織物製造業土田志賀蔵、母千代の長男として生れる。大正7年、米沢中学卒業後上京、川端画学校に入り藤島武二に師事する。大正10年、日本美術院洋画部に「海」を出品、画壇への初入選であった。大正12年から春陽会展に作品を出して毎回入選する。大正15年国画会創立とともに、傾倒していた梅原龍三郎の勧めによって国画会に出品するようになり、昭和4年、第4回国画会展「河岸の丘」他四点展入選、樗牛賞をうけ、昭和18年同会々員となった。この間文展の招待出品作家となって信州風景を出品していた。戦後も、国展の他、毎日新聞社主催の連合展、現代日本美術展等に出品、没年迄活発に制作をつづけ46年長年勤務の武蔵野美術大学を定年退職し、翌年渡仏、同地で暫く制作の予定であったが、体の調子悪く10月に帰国、そのまま病床の人となり誕生日の2月22日逝去した。 略年譜明治34年 2月22日山形県米沢市に生れる。大正7年 米沢中学卒業後上京、川端画学校に入学、藤島武二に師事する。大正10年 日本美術院展に「海」を出品する。昭和12年 第1回春陽会展に出品。大正14年 10月、松山市の錦織物製造業大西熊吉次女、次枝と結婚。大正15年 国画会の創立に際し、梅原龍三郎のすすめで同会に出品するようになる。昭和4年 第4回国画会展に「河岸の丘」昭和7年 国画会々友となる。昭和13年 この頃信州を好んで安茂里などに毎春旅行し、高原、湖畔などの作品を数多くつくる。昭和16年 文展に出品。昭和18年 第18回国画会展に出品、国画会々員となる。昭和22年~28年 毎日新聞社主催連合展に「緑林」、「新緑」「山湖」「中国服の女」「画室」「風景」等出品。昭和29年 武蔵野美術大学教授となる。(46年退職)昭和31年~38年 現代日本美術展及国際美術展に「風景」「海浜の朝」「秋の道」等出品。昭和32年 米沢市より功績賞を受ける。昭和47年 渡仏昭和48年 2月22日没
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没年月日:1973/02/12 日本童画家協会会員・日本版画協会名誉会員の初山滋は、2月12日午後0時5分、肺炎のため東京・板橋区の日大板橋病院で死去した。享年75歳。明治30年7月10日東京浅草に生れた。本名繁蔵。浅草田原町田島小学校を卒業、まもなく染物屋に奉公、染物下絵で才能を示し、明治44年井川浩崖に弟子入りして風俗画や挿絵の指導をうけた。大正8年以後、北原白秋、浜田広介、小川未明らの児童文学興隆期に、その童謡・童話集の装釘、挿絵に幻想的抽象的な画風で名声を確立した。また、昭和5年頃から木版画の制作もはじめ、個展や日本版画協会展で作品を発表した。昭和35年には、スイス、ルガノ国際版画展に出品した。42年6月、童画「もず」(至光社絵本)で国際アンデルセン賞の国内賞を受けた。41年には紫綬褒章、45年には勲四等旭日小綬章を受けた。
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没年月日:1973/02/09 元東大教授で、美術史のほかにも幅広い活躍をした團伊能は、2月9日心不全に肺感染症を併発し、神奈川県横須賀市民病院で死去した。享年80歳。号疎林庵。宗鳥。明治25年2月21日福岡県大牟田市に團琢磨の長男として生れ、大正6年7月東京帝国大学文学部を卒業した。翌7年3月、宮内省嘱託として海外に留学、同10年8月帰国した。同年11月欧米視察実業団随員として外遊、翌年5月帰国した。大正12年4月東京帝国大学講師となり、美術史を講じ、昭和3年助教授となった。昭和8年5月同職を退官し、国際文化振興会に入り常務理事となった。その後、昭和13年にはパリ万国博覧会理事として渡仏し、また同15年にはニューヨーク万国博覧会日本事務総長として渡米した。戦後は、昭和21年5月貴族院議員、翌年引続き参議院議員となり、厚生政務次官をつとめた。同25年参議院議員再選となり、同年冨士精密工業KKの社長となった。そのほか、日本美術協会々長(29年)、国際文化振興会副会長(30年)、ブリジストンタイヤKK取締役、プリンス自動車会社々長、九州朝日放送会社々長を歴任した。勲二等瑞宝章、スエーデン勲二等。仏オフシエアカデミー章(昭3)、ニューヨーク名誉市民。イタリー・グランド・オフシエ勲章等受領(昭6)。著書―「伊太利美術紀行」(大正13年)、「概観欧洲芸術史」(昭和7年)。
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没年月日:1973/01/25 二紀会会員の洋画家、鳥取敏は、1月25日、死去した。享年67歳。鳥取敏は、明治39年(1906)9月1日、福岡市に生まれ、旧制山口高等学校中退後、上京して二科会美術研究所に入り、安井曾太郎、石井柏亭らの指導をうけ、昭和14年第26回二科会展に「店頭の剥製」を出品入選、以後、昭和18年第30回展まで出品した。戦争中は長野県上水内郡に疎開して農村美術運動をおこし、水内村(新町)は“絵をかく村”として知られるにいたった。昭和24年(1949)、新潟大学教育学部芸術科の教官となった。戦後、二紀会の創立以来出品し、昭和23年第2回展に「陶房の午睡」を出品、同人賞を受賞、第3回展では「古志の闘牛」で同人優賞をうけた。昭和27年第6回展で委員に推挙された。
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没年月日:1973/01/24 日本画家、日展会員の福田翠光は、1月24日急性心不全のため京都市の天神川病院で死去した。享年77歳。本名稔。明治28年4月30日京都に生れ、京都市立美術工芸学校卒業、西山翠嶂の青甲社に所属し、昭和16年退塾し、以後無所属となる。帝展第7回に「鷹図」が初入選し、以後連年入選し、第12回「はぐゝみ」が特選となった。その後新文展、日展等に出品したが専ら鷹を描くことを得意とし、またタカの翠光として知られた。晩年は徳岡神泉に師事し、得意の花鳥画から「池」「水辺花」等内面的方向に追求を深めた。
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没年月日:1973/01/01 文化財保護審議会専門委員で漆工研究家溝口三郎は、1月1日じん臓しゅようのため東京都狛江市の慈恵医大第三分院で死去した。享年76歳。旧新発田藩主新発田直正の孫で、明治29年8月10日東京麻布に生まれた。大正10年3月、東京美術学校漆工科本科を卒業、後研究科に在学した。同12年12月帝室博物館の依頼により国宝蒔絵の模造に従事し、昭和3年帝室博物館美術課嘱託を経て、同列品課勤務となった。同16年漆工区主任となり、22年帝室博物館は文部省所管となり国立博物館となったので、これにともない文部技官となった。同27年文化財保護審議会専門委員となり翌年東京国立博物館工芸課長となった。同34年東京芸術大学講師となり、36年には東京国立博物館を辞職し、後同館調査員となった。また中尊寺金色堂修理委員、正倉院御物漆工芸の調査等に従事し、日本工芸会評議員、ホテルオークラ意匠委員、大倉文化財団顧問、明漆会特別会員等の役職にもあった。
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