フランス美術作品の版権料取立て

1951年05月

戦後フランス美術作品の複数掲載に関する事務はすべてフランスミツシヨンで取扱われていたが、一昨年末総司令部とフランスミツシヨンによつて新たにフランス著作権事務所が設置され、三月中旬パリのフランス芸術財産組合から来た申込みによつて日本におけるフランスの彫刻、絵画などの複製版権問題に関する事務を一手に行うことになり従来の無干渉主義を改め、このほど各雑誌社、美術出版社、アトリヱ社などに対し「ブラツセル条約にもとづいて版権料を取立てる」と厳重な通告を発した。

「平和の群像」除幕さる

1951年05月

昨年七月創立五〇周年を迎えた日本電報通信社の記念事業の一つとして昨年五月一日から新制作派会員菊地一雄によつて製作されていた「平和の群像」は三宅坂角旧寺内元帥銅像跡に据付けられ、一日除幕式を行つた。

美術雑誌「ミユーゼアム」創刊

1951年04月

国立博物館では世界各国の博物館、美術館の出版物との交換をかねて日本美術の正しい紹介をするために月刊美術雑誌「ミユーゼアム」を編集し、四月号を創刊号として宗達、光琳派を特集、美術出版社で発行した。

「美術教育ゼミナーレ」に招請

1951年04月

国連主催で七月イギリスのプリストル大学で開かれる「美術教育ゼミナーレ」に代表一名を派遣するよう本月中旬、ユネスコ本部から駐日代表部を通じて文部省に招請状が届いた。この招請は始めてで七月七日から二八日まで各国代表約三〇名を集め美術教育上の諸問題について活発な討議が行われることになつており、代表者資格は美術教育関係の教職員、博物(美術)館、図書館の美術教育計画の指導者に限定されているという。

文部大臣賞決る

1951年03月

美術、文学、映画、演劇、音楽五部門にわたる二五年度美術芸能関係の文部大臣賞受賞者が三一日決定した。美術部門次の通り。▽日本画=吉岡堅二「楽苑」(創造美術)▽洋画=三岸節子「山梔(くちなし)」(新制作派)▽彫刻=横江嘉純「大悲に歩む」(日展)▽工芸=信田洋「金工芙蓉置物」(日展)

アンリマチス展ひらく

1951年03月

待望のアンリ・マチス展は読売新聞社と国立博物館の共催で三一日より五月一三日まで表慶館において開催された。陳列はヴアンス礼拝堂のための作品三六点、油絵一六点、デツサン四〇点、挿絵本八点、切紙絵一点。(なお会期四四日間の入場者は一五万一千八百人におよんだ。)

イサムノグチ再び来日

1951年03月

昨年来日した日系米人彫刻家イザム・ノグチは二八日羽田空港着で再度来訪した。

芸術院賞受賞者決る

1951年03月

日本芸術院では二五年度恩賜賞、芸術院賞受賞者一〇名を決定三一日発表した。美術部門では次記の通り。▽恩賜賞(一名)=洋画三宅克己 ▽日本芸術院賞(九名)=〔日本画〕鯉(第六回日展出品)徳岡神泉、〔洋画〕横臥裸婦(第六回日展出品)寺内万治郎、〔工芸〕硝子「光りの美」(第六回日展出品)岩田藤七〔書〕楷書「酔古堂剣掃語」(第六回日展出品)川村驥山、以下他部門略。

埋蔵文化財初の国営発掘

1951年03月

縄文式文化末期の遺跡として著名な愛知県渥美郡田原町吉胡貝塚発掘調査が文化財保護委員会の手で、明大教授後藤守一(考古学)を主任に、人類学、地質学の官民合同の学者等一八名の調査団を編成二二日から四月一〇日まで二〇日間にわたつて行われることになつた。わが国初の国営調査である。

文部省買上げ美術作品決る

1951年03月

文部省では二五年度中に発表された美術作品の中から次の一四作品を買入れることに二六日決定した。▽日本画=鯉(徳岡神泉)大観先生像(安田靭彦)気球揚る(中村岳陵)▽洋画=千曲川(有島生馬)熱海梅園(高畠達四郎)金魚(三岸節子)静物(林武)▽彫塑=裸像(国方林三)男立像(上田暁)アザレア(船越保武)▽工芸=漆器木蓮額盆(福沢健一)陶器静暁花瓶(楠部弥一)鋳金鳩鈕香炉(杉田禾堂)▽書=唐詩帰田園居(辻村史邑)

ピカソの陶器初公開

1951年03月

喧伝されていたピカソの陶器の現物が日本へ初めて送られて来て、皿一七点、壷一点に石版画六点を加え、一五日より三一日まで文芸春秋新社主催で上野松坂屋で展覧初公開された。

野口英世記念像除幕

1951年03月

野口英世博士のブロンズ像除幕式が二一日午前一〇時GHQサムス准将等来賓多数出席して上野公園内国立科学博物館前の広場で催された。野口博士記念像建設会が昨年四月より全国の小、中、高校四千余校と一般有志から浄財四八〇万円を募り、吉田三郎に委嘱製作した高さ一丈五尺のもの。

「アヒル会」誕生

1951年03月

画家、作家、音楽家が中心となつて絵筆を楽しもうという会員のつどい「アヒル会」が九日午後四時から日比谷山水楼で発会式をかねて第一回の会合を開催した。

文化切手に狩野芳崖

1951年02月

郵政省では第七回目の文化切手として、明治期の大画家狩野芳崖の肖像を画いた暗緑色の八円切手一種を発行、誕生日に当る二七日から全国郵便局で売出した。同時に東京中央、麻布、下谷三局、出身地山口県の三局で芳崖の代表作“悲母観音”の乳びんを持つ手を図案化したスタンプを使用する。

「松園賞」第一回受賞者決る

1951年02月

毎日新聞社が昨春開催した「上村松園とその芸術展」を記念して、日本画女流作家奨励のため設定した上村松園賞の第一回受賞者(一九五〇年度)は二〇日次の通り朝刊紙上に決定発表された。  秋野不矩「少年群像」(第三回創造美術展出品)及び今日までの画績による。

ロツクフエラー声明

1951年02月

ダレス特使団の文化関係担当者として去月二五日来日したジヨン・D・ロツクフエラーは約四週間にわたつて日本の各方面の人々と日米文化の交流について意見の交換を行つてきたが、二一日内外記者団と会見、声明書を発表、二二日夕空路帰国した。声明書では、両国の人事交流、文化センターの設置、日本研究のための研究所設置、各種美術品の交換、書籍その他資料の交換、等を強調した。

国立博物館の機構改革

1951年02月

国立博物館では文化財保護法が施行されてより約半歳、一月三一日、文化財保護法の規定にもとずき、国立博物館組織規程が定められ、文化財保護委員会の付属機関として本二月より従来とは全く面目を一新して発足することになつた。尚人員の配置もきまり、館次長に阪大事務局長田内静三、庶務部長に深見吉之助、学芸部長に石田茂作が任ぜられ、課長以下いずれも三日発令された。

法隆寺壁画移転工事始る

1951年02月

法隆寺金堂壁画が焼けてから二年、この名宝をこれ以上破損せず後世に伝えたいと同寺国宝保存審議会では昨年五月から抜取りのため荷造りに着手していたが、六日朝「抜取安全法要」が工事関係者約一〇〇名が参列して行われ同九時一五分佐伯管長の手により木わくで固められた八号小壁をつるしたトロリーの鎖が引かれ、壁画抜取移転の歴史的作業が開始されることになつた。

to page top