上海戦表忠塔

1939年10月

世界戦史に輝く上海陸戦隊を記念するため、上海広中路の戦跡に海軍上海戦表忠塔が建設されることになり、設計の委嘱を受けた日名子実三は現地を視察中の所十月三十一日帰国した。

市川市芸術家慰霊祭

1939年10月

市川市葛飾倶楽部では十月二十九日午後同市真間山弘法寺書院で、太田南岳、桐谷洗鱗、同天香、瀬川独活等の慰霊祭をかねて遺墨展を開催し、知人遺族らが集つて追憶談に先輩を偲んだ。

興亜美術展覧会開設

1939年10月

中華民国新民会中央指導部では、興亜精神に基き華北美術振興を目的として興亜美術展覧会を北京に開設することとなり、その第一回を十月二十八日から十一月三日まで、北京中央公園内新民堂、董事会、水?亭の三会場で開いた、わが国からは石井柏亭その他洋画家二十余名の賛助出品があつた。同展覧会は名誉会長に湯爾和臨時政府教育部総長、会長に繆斌新民会中央指導部長、賛助員に臨時政府、日本大使館関係者、北京、天津両市長等を推すもので、審査員は第一部中国国画学会長周肇祥、溥儒、斉白石、黄賓虹、第二部天津博物館院長厳智開、北京美術学校長服部亮英、第三部国立北京芸術専科学校長王石之、同教授鹿島英二らである。

文展批評座談会

1939年10月

東京美術研究所では、十月二十六日午後銀座松風陳列所階上で文展批評座談会を開いた。

芸術学会開催

1939年10月

文部省では十月十八日から四日間、日本諸学振興委員会第一回芸術学会を同省内で、又十月二十一日同公開講演会を日比谷公会堂で開いた。同学会の趣旨は「国体、日本精神の本義に基き芸術、芸術に関する諸学の内容、方位並に教授の実際を研究討議して之が創造発展に資せんとす」るにあり、研究発表主題は「我が国家と芸術」である。研究発表者は二十九名、毎研究発表毎に十分づつの質問討議を行つた。参加者は諸大学及び学校の芸術関係諸学科担任教職員、教育関係官、民間研究者等で、盛会であつた。なほこの機会に同学会参加者の為に、毛利公爵家、細川侯爵家及び岩崎男爵家で所蔵品の特別展観が行はれた。

彫刻をニユーヨーク市に寄贈

1939年10月

ニユーヨーク万国博覧会に出陳された藤野舜正作塑像「銃後工場の護り」は、ニユーヨーク市の希望で永く同地に残し寄贈されることになつた。この作は昨秋の第二回文展で特選を得たものである。

芸術研究座談会

1939年10月

第一回芸術学会開催を機とし、日本文化協会では十月二十日夜日比谷法曹会館で同学会委員を中心として芸術一般に亙る研究座談会を開いた。

石川県美術協会創立

1939年10月

石川県美術工芸界の健全なる発逹を計る指導助成機関として石川県美術協会が創立され、十月十六日県庁内で関係者約三百名出席の下に盛大な発会式が行はれた。総裁に前田利為候、会長に成田知事を推し、来賓正木直彦、島田佳矣らの祝辞があつた。

ニユーヨークに工芸品出張所設置

1939年10月

わが国工芸品の輸出振興を計るため、日本輸出工芸聯合会では商工省から本年度補助金十四万円、来年度十八万円を交付されることになり、ニユーヨークのロツクフエラー・センターにあるインターナシヨナル・ハウスに輸出工芸品海外出張所を設置し、宣伝販売の常設機関とすることになつた。

戦地で絵画展開催

1939年10月

〇〇部隊報道班及び大毎社主催で十月十一日から二十日まで安慶〇〇兵站部で野戦絵画展覧会が開かれた。出品者三十名、出品二百余点専門家をも交えた将兵が陣中の余暇に描いたスケッチで好評を博した。

日本建築模型海外へ寄贈

1939年10月

国際文化振興会では、印度パチアラ候国マハラジヤ・ヤダピンダー・ジン殿下へ日本風宮殿及び庭園二百分の一模型を贈進、又スエーデン首都ストツクホルム王立民族博物館へ日本風現代住宅及庭園二十分の一模型を寄贈することとなり、製作中の所完成したので発送に先ち十月十三日丸の内明治生命館内同会で展示会を開いた。

図案関係技術官会議

1939年10月

第四回全国図案関係技術官会議は十月十一日より四日間、麹町区三年町の特許局で開催され、全国各地方関係技術官百余名並に商工省その他の関係官二十余名出席、左の協議事項につき熱心な討議が行はれた。 一、輸出振興上地方特殊工芸技術の改善指導に関する件 二、海外市場別による工芸品の意匠図案等の調査に関する件 三、東洋意匠に関する件

岡田三郎助胸像建設

1939年10月

十月二日渋谷区伊達町の岡田家で故人の十日祭が知友門下等百五十余名列席の下に執行されたが、この日故人の青銅胸像が庭前に建設された。この像は一昨年文化勲章拝受の栄を祝して門下生一同から贈つたもので同じ門下の吉田久継の作である。

菱田春草記念公園計画

1939年10月

菱田春草の生地飯田市では、その誕生の屋敷跡に記念公園を建設する為春草生誕地保存会を作り、その計画を決定した。

児童画の慰問えはがき

1939年09月

恩賜財団軍人援護会東京支部では、市内各小学校、中等学校生徒の絵の中から、小学生作品二十点、女学生作品十一点、中学生作品一点計三十二点を選び、これをオフセット刷のゑはがきとして四十万枚を作製、十月三日からの銃後後援強化週間に際し児童生徒などから前線への慰問文に使用させることになつた。

池上秀畝入選

1939年09月

ニユーヨーク万国博覧会の美術館に出陳された池上秀畝作の「黎明」が、二十九ヶ国から出品された七十余点の中四等に入選し、賞金三百ドルを贈られることとなつた旨、九月二十八日通知があつた。この作品は昨秋国際文化振興会の斡旋でニユーヨークの国際商工会議所会頭T・J・ワツトソンの画廊に納めるため、八木岡春山の「暮靄」と共に送られたものである。

造型芸術発刊

1939年09月

先般アトリエ社を退いた藤本韶三により新に美術雑誌造形芸術が九月号を以て発刊された。

平福百穂記念碑建立

1939年09月

平福百穂の七周忌を迎へ、故人と親交のあつた鏑木清方結城素明川端竜子川合玉堂田口掬汀の五名の発起で、故人の生地秋田県角館町に記念碑が建設され、九月九日遺族、関係者ら参集、除幕式を行つた。碑は黒の水成岩で幅四尺、高さ十一尺、表面に田口省吾の描いた肖像素描と、川端竜子筆「百穂先生之碑」の文字を刻み裏面に略歴その他を刻んだものである。

忠霊塔設計図案募集

1939年08月

支那事変二周年記念日の七月七日発会式をあげて創立された財団法人大日本忠霊顕彰会では、その事業として今次聖戦に護国の華と散つた将士の分骨を安置して忠霊の顕彰と国民の感謝を表徴するため、内国各地の市町村及び満支両国の戦跡に忠霊塔を建設することとなり、その設計図案を広く一般から募集することとして八月二十四日その懸賞募集規程を発表した。 設計は、第一種主要会戦地に建設するもの、第二種内地大都市に建設するもの、第三種内地市町村に建設するものの三種に分ち、第一種は敷地約五万平方米、塔建設費用約五十万円、第二種は塔建設費約百万円、第三種は概ね同一様式の大型中型、小型の三とし、大型は敷地約六千平方米、建設費約五万円、中型約三千平方米、約二万円、小形約一千平方米、約五千円のものとする。応募図案の締切は昭和十四年十一月三十日。賞金は全額朝日新聞社の提供により、三種を通じて各一等(各一名)総理大臣賞(賞牌)並に賞金一千円、各二等(各二名)総理大臣賞(賞牌)並に賞金七百円、各三等(各三名)総理大臣賞(賞牌)並に賞金五百円、他に佳作約十名賞金各二百円と定めた。なほ審査員は左の通り発表された。 工学博士伊東忠太、同内田祥三、同岸田日出刀、同小林政一、同佐藤功一、同佐野利器正木直彦、陸軍技師柳井平八、海軍省建築局長吉田直、陸軍省兵務局長中村明人少将、海軍省人事局長伊藤整一少将、内務省警保局長安藤狂四郎

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