陶磁器関係官会議

1938年05月

商工省主催陶磁器関係技術官会議は五月十一日から四日間京都陶磁器試験所に於て開かれ、商工省関係官初め全国の技術官等五十六名出席、輸入原料に対する合理的使用、国産代用原料の研究その他の問題につき協議が行はれた。

南京入城図作製

1938年05月

鹿子木孟郎は南京入城図を描く為陸軍省嘱託として三月下旬発南京に赴き、多数の写生を作つて五月三日帰国した。

国際庭園展覧会出品

1938年05月

四月十五日から七月十五日迄ジユネーヴで国際庭園都市計画展覧会が開かれ、わが国では日本造園協会、国立公園協会、国際文化振興会等の諸団体が協力して出品資料を選定国際文化振興会の手によつて発送した。出品は京都を初め全国の諸名園の写真、実測図、鳥瞰図等の外石灯籠名品の写真、国立公園の写真、及び名園紹介の映画、幻灯板等である。五月七日審査発表があり、わが国の出品に対しては第一等賞の銀製カツプが授与された。

日米交換洋画展計画

1938年05月

本年一月サンフランシスコ美術協会から在米中の二科会員国吉康雄を介し、美術を通じて日米親善を図る為、相互交換の洋画展を両国同時に開催する提案があつたので、二科会ではこの程開かれた在野洋画五団体懇話会に付議、満場一致の賛成を得、更に近く懇話会を開いて具体案を考究することとなつた。

満州国美術展開設

1938年05月

満洲国では昨年訪日宣詔記念美術展覧会が開かれたが、新に官設美術展覧会を開設することとなり、民生部の主催として第一回満洲国美術展覧会を五月二日から十日間、新京記念公会堂並に大経路国民学校に於て開催した。会長、副会長、顧問、審査員長、審査員、相談役、幹事長、幹事等を置き第一部東洋画、第二部油画水彩画、第三部彫刻及美術工芸、第四部法書の四部とする。会長は民生部大臣孫其昌、審査員長は羅振玉で、審査の相談役として前田青邨及び藤島武二が招聘された。 第一回展の統計は左の通りである。 搬入数 入選数 特選 佳作 第一部 二五六 六八 四 一〇 第二部 三四九 一六一 五 一三 第三部 七一 五一 二 七 第四部 一二九 七二 三 九 合計 八〇五 三五二 一四 三九

大阪絵画会結成

1938年05月

谷福太郎外五名の作家により五月、大阪絵画会が結成された。「進歩的である為には先づ芸術作品の価値を広汎な総体的聯関性に於て発見する所から出発せねばならぬと考へ「科学的創造の線に沿つて」努力するものである。

紀淑雄胸像除幕

1938年04月

故日本美術学校長紀淑雄の胸像が同校々庭に建設され四月二十九日除幕式があげられた。

日本文化中央連盟ポスター図案募集

1938年05月

同聯盟では時局に方り東洋平和の確立に邁進すべき我が国民の自覚と奮起に資する為、本年二月ポスター図案、歌詞、標語三種の懸賞募集を行つた。ポスターは四月六日締切、応募数一二三九点の中から五月一日左の通り当選を発表した。 優秀(賞金一千円)大阪市沖原薫 佳作(賞金各一百円)多仲孝次、萩清、湯田泰次、富阪健、轟周平

大日本陸軍従軍画家協会結成計画

1938年04月

支那事変開始以来北支及び中支戦線の陸軍に従軍した画家は数十名の多数に及ぶので、その中の有志が発起して四月二十六日九段軍人会館に会合を開き協議した結果、大日本陸軍従軍画家協会を結成することとなつた。団体として時局に適した事業を行はうといふのである。発起人として当日参集したのは向井潤吉瀬野覚蔵、古城江観、小林喜代吉、鶴田吾郎寺本忠雄、等々力巳吉、長谷川春子等で陸軍省新聞班の柴野少佐も加はつた。

陶磁による金属代用の試み

1938年04月

銅鉄の使用制限規則が公布されて様々の波紋を描いてゐるが、日陶聯では金属代用の陶磁器製品を懸賞募集したところ家庭用品六百五十八点、土木建築用品二百十八点、機械器具用品三百五十点、その他四百八十一点、総計千七百七点の応募があり、東京工業試験所熊沢技師が審査長となり慎重審査の結果四月二十八日入選者を発表した。二等三名、三等三名、選外佳作十五名。

オリンピツクポスター図案

1938年04月

オリンピツク東京大会宣伝用のポスター図案は、昨年懸賞募集を行ひ当選作品も決つたが、組織委員会では更に和田三造に委嘱し新な図案が出来たので四月二十五日之を発表、大会の公式ポスターとして作製し海外へ宣伝することとなつた。又札幌の冬季大会の為のポスター図案は伊原宇三郎に委嘱、五月二十四日完成された。

藤島武二従軍

1938年04月

藤島武二は事変勃発以来戦線観察を希望してゐたが、第一回満州国美術展審査の為四月二十五日新京に向つて出発、用向をすませて後上海南京方面スケツチの為陸軍省から派遣されることになつた。

創紀美術協会結成

1938年04月

前進的洋画青年作家等十九名によつて、創紀美術協会が四月二十五日結成された。「従来前衛絵画の若さに見られたる形式の追随及意識の先行を矯め我等が伝統の母体たる此の祖国の土に立ち飽く迄豊かなる肉体を備へたる新日本の洋画を創造」したいといふのである。

SPA集団解散

1938年04月

洋画団体S・P・A・集団は一先づ事業を終了したものとして解散することとなり、四月二十三日その旨を発表した。

銑鉄鋳物制限令

1938年04月

商工省では鉄鉱の民間消費を制限する為昨年輪出入品臨時措置法に基き鉄鉱工作物築造許可規則を制定、特に建築につきある程度の制限をなしたが、更に民間における鉄鉱消費節約の徹底を図ることとなり、四月二十五日省令を以て銑鉄鋳物の製造制限を発令した。商工大臣の指定する物品は特別の事情により地方長官の許可を受けたる場合の外銑鉄を以て鋳造することを得ずとなすもので、五月十五日より施行される。同時に商工省告示を以て左の通り禁止の物品を指定した。 文鎮、鉛筆削、インク壷、ホチキス、貯金箱、火鉢、茶道用風呂釜、天水鉢、扇風機(工鉱業用ノモノヲ除ク)、鏡台、煙草セツト、灰皿、花器、水盤、灯篭、火消壷、玩具、鋏、柱掛、額縁、茶卓、菓子皿、置物、電気スタンド、電灯支柱用腕木、門柱、扉、瓦、持送り、看板、風窓、窓枠分銅、椅子、金庫(手提金庫ヲ含ム)、帽子掛、掃除器、手摺、格子陳列台、街頭照明柱、電柱、欄干、棚、交通標識、街路樹保護板、溝蓋、紙屑箱

銅使用制限規則改正

1938年04月

商工省では昨年十一月から百瓩以上の建築物の屋根、庇、樋その他に銅の使用を禁止してゐたが、愈々銅不足を告げるに至つたので、五日一日から銅及び銅合金を用ひた物品は輸出品以外は総て地方長官の許可を得なければ製造出来ぬこととし、省令第十八号を以て銅使用制限規則を改正、四月二十三日の官報で公布した。

オリンピツク競技場駒沢に決定

1938年04月

オリンピツク東京大会主競技場は明治神宮外苑に建設することに昨年決定されたがその後駒沢移行案が唱へられ関係方面で種々検討中の所、愈々その実現性が確められたので四月二十三日組織委員会に上程、遂に神宮外苑案を棄てて駒沢案に決定した。競技場の構築には東京市が当り競技終了後は東京市の所有とするものである。尚同競技場の設計も東京市建築課で完成された。総坪数十四万坪、総工費は村を入れて九百五十万円。

日本万国博会場模型完成

1938年04月

紀元二千六百年記念日本万国博覧会の東京会場は広袤四十五万坪の東京湾埋立地に総建坪六万坪の建物を作る計画で、その全体の模型が四月十九日完成された。

佐分賞授賞

1938年04月

佐分賞本年度受賞者は予て委員の間で銓衡中であつたが、左記五名に決定。四月二十一日数奇屋橋東京ニユーグランドに於て関係者参列の上披露した。今回の銓衡は特に戦線に活躍する出征画家の中から選び、その労を犒ふ意味が含まれてゐるものである。 笹岡了一(白日会)、中村節也(独立美術協会)、原精一(春陽会)、平通武雄(東光会)、山田正(国画会)

日本万国博総裁奉戴式

1938年04月

日本万国博覧会秩父総裁宮殿下奉戴式は、四月二十一日午後日比谷公会堂で盛大に挙行され殿下より優渥なる令旨を賜はつた。

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