建築学会創立五十周年記念講演会 

1936年04月

建築学会では四月九日を以て同会創立五十周年記念日に相当する為、同九日及十日に亙り祝賀会、記念放送、記念講演会等を催し、又同一日から十日迄帝大建築科教室及び建築会館で記念展覧会を開いた。

シドニー国際美術展覧会出品 

1936年04月

濠洲シドニーの国立美術館では、本年七月各国の出品を求めて国際借款美術展覧会を開催することとなり、予て外務当局を通じて我が国にも現代美術を代表する絵画及び工芸品の出品を、点数を予定して依頼して来たので、文部、商工当局及び国際文化振興会等で協議の上同会の事業として之に応ずることとなり、出品の銓衡中であつたが、絵画六点、工芸品十二点、合計十八点を決定し、四月十三日横浜発の加茂丸でシドニーに向け発送した。品目は左の通りで、絵画は文部省所蔵、工芸品は商工省所蔵品中より貸し出したものである。 日本画 窈冥(荒木十畝)、カンナ(常岡文亀)、夕(三谷十糸子)、母子(上村松園) 洋画 裁縫女(小磯良平)、夏の内海(金山平三) 工芸 方形狂獅子模様刀漆画香盆(六角紫水)、布目象眼鋳銅瓶掛(香取正彦)、拘橘模様漆器手箱(真鍋光男)、陶試紅磁染附花瓶(商工省陶磁器試験所)、御所車桜模様花瓶(香蘭社)、真葛焼磁製青海波彫色附遊鯉図花瓶(宮川香山)、「引阮長鳴」鋳銅置物(津田信夫)、鉄刀木飾壷(稲木春千里)、花籠(飯塚琅?斎)、つづれ錦花輪図四曲屏風(川島甚兵衛)、振袖キモノ(高島屋)、カキツバタの図袋帯(竜村平蔵)

エコールド東京組織 

1936年03月

洋画の最尖端を目指す青年作家達に依つて、合同的な新団体エコール・ド・東京が組織され、三月二十九日発会式が挙げられた。

オリンピツク芸術競技参加 

1936年03月

今夏ベルリンに開催の第十一回国際オリンピツク大会芸術競技に参加の為、大日本体育芸術協会では昨年来準備中であつたが、東京科学博物館に一般参加希望者の出品を求めて三月十六日其の審査を行つた。出品総数百九十三点の中、日本画三点、洋画十一点、版画十五点、彫塑一点、合計三十点を入選と決定、此の外に審査員等無鑑査の作品を加へて都合絵画六十三点、彫刻十一点、建築五点、総計七十九点が競技に参加することとなつた。是等の出品は三月二十九日から四月三日まで東京府美術館で国内展覧会開催、同十二日横浜出帆の照国丸でベルリンに向け発送された。尚造型芸術の外、今回からは音楽も参加した。日本より出品の目録は左の通りである。 絵画 犬追物 伊藤竜涯 印地打 伊藤竜涯 羽根つき 伊藤鈴子 鞠つき 石田重子 打球 太田天洋 相撲 太田秋民 駒競 荻生天泉 水泳 加藤栄三 釣り 山田申吾 バスケツト 間宮正 アイスホツケー 藤田隆治 雪合戦 小林立堂 競泳 佐藤永芳 射弓 岩淵芳華 スキー 三浦文治 少年氷走 東山魁夷 古典的競馬 鈴木朱雀 征服 石丸一 柔道 豊藤勇 群像B 陳? ゴール前 加藤隆久 柔道 金子博信 マラソン 神田周三 二ツのフオルム 高田力蔵 薙刀 高根沢政子 剣道 鶴田宏 自転車練習 中出三也 薙刀 中村琢二 タツクル 浪江勘次郎 ドリブル前 倉田三郎 用意 草光信成 スタート 草光信成 相撲 山本徳生 テニス 山本徳生 排球 後藤繁喜 日本の女性 古淵正信 パチナージユ 海老原喜之助 版画 水泳 石井鶴三 雨中競争 石井鶴三 射的 猪熊弦一郎 フツトボール 伊勢正義 櫓 硲伊之助 アイスホツケー戦 春村ただを スケーテイング 春村ただを オリンピツクの眺 脇田和 村童野球戯の図 川上澄生 スキーの人々 田坂乾 高跳 長坂春雄 合同競争 棟方志功 市民体操 棟方志功 鉄槌投 山口進 女子砲丸投 山口進 ジヤンプ 前川千帆 ゴルフ 古川竜生 タツクル 深沢索一 相撲 深沢索一 学生相撲 小磯良平  学生相撲 小磯良平 スケート 小林朝治 スキー 小林朝治 跳ぶ 児玉篁 競馬 荒井東留 スキー 佐藤敬 彫刻 馬場に出た嬉しさ 池田勇八 打球 池田勇八 スタート 畑正吉 横綱両構 長谷川義起 国技 長谷川義起 ゴルフ 長谷川義起 バトンタツチ 宮島久七 木練坊 日名子実三 流鏑馬 日名子実三 工芸 仕切 長谷川義起 硯屏 清水亀蔵 建築 野球塔 石川純一郎 野球塔設計図 石川純一郎 プール 内田祥三 弓場 内田祥三 日本のゴルフ 岸田日出刀

平生文相就任 

1936年03月

広田内閣成立後内務大臣潮恵之輔が文部大臣兼任中であつたが、三月二十五日附を以て平生釟三郎が文部大臣に任ぜられた。 尚文部大臣秘書官として岩井尊人が三月二十七日附任命された。

長谷川昇春陽会脱退 

1936年03月

春陽会々員長谷川昇は三月二十四日、拘束なき自由な境涯にあつて芸術に精進したいとの意味の声明を発し、春陽会を脱退した。

彩々会結成 

1936年03月

八名の洋画家が三月新団体彩々会を結成した。

高間惣七等東光会脱退 

1936年03月

洋画団体東光会の会員高間惣七堀田清治橋本八百二、会友中尾達、益山雅衛等は、三月八日同会を脱退し、同志二十六名を以て新団体主線協会を結成、十日左の声明書を発表すると共に日動画廊で其の披露を行つた。 「最近私達は社会情勢や画壇の動揺に鑑み各自の真摯な芸術的精進の必要に迫られてゐることを痛感してゐます。顧れば私達の現在は芸術目的の追求以外の団体的の雑事に煩はされ擬装的な政策に悩まされ、ために純粋な絵画研究の妨げとなることが極めて多いのであります。今度はこの煩雑な団体的雑事から離別して一意各個の純粋な芸術的精進に全力を尽すことに決心しました。現在の有為の画家達は芸術目的を離れた団体の経営や其の他画壇的な政策に煩はされることなく真実な芸術研究者として反省すべき秋に際会してゐると信ずるのであります。私達はこの趣旨の旗のもとに新しい第一歩を踏み出すことに決心しました。 主線協会」

第二部会総会 

1936年03月

反帝展を標榜する洋画団体第二部会では、三月十二日丸之内マーブルに委員会を開き、今秋の同会展覧会の問題等に就き協議したが、同十四日午後五時同所で総会を開催し、今後の態度方針に就き協議の結果、今秋も昨年同様の方法を以て展覧会を開催すること帝展と時期が衝突する為会場難の惧れがあるが飽くまで既定方針を堅持して進むこと等を決した。

夢二の会設立 

1936年03月

故竹久夢二の才能と芸術とが忘れられてゐることを惜み、有島生馬恩地孝四郎等十五名が発起人となつて夢二の会を設立することとなり三月八日上野の勘兵衛酒屋で創立相談会を開いた。

帝国美術院常議員会 

1936年03月

帝国美術院常議員会は三月九日午前十時から東京府美 術館で開催本年五月大阪に於て帝展陳列会開催の件を協議した。

ジユネーヴ日本版画展覧会 

1936年02月

日本版画協会では現代日本版画の海外紹介に努めてゐるが、文部省、外務省等の援助の下にジユネーヴで展覧会を開くこととなり、会員等の作品約二百五十点を送附、之に同地キヤシエー・アルバレ夫人蒐集の日本古版画等を加へた日本版画展覧会が同市博物館で二月二十九日から四月五日まで開催され、多大の成功を収めた。

麗交会組織 

1936年03月

東京及び京都の工芸家十九名(東京一〇、京都九)は新団体麗交会を組織し、三月一日京都で発会式を行つた。

東邦彫塑院二科制廃止進言 

1936年03月

東邦彫塑院では、帝展第三部の彫塑を甲乙二種に分つ新制度に予てより反対して其撤廃を進言し、第一回帝展には不出品の態度に出でたが、帝展開催の成績に鑑みて再び其の主張を繰返すこととし、三月四日同院常議員長谷川、国方、後藤、北村、関野等は文部省に石丸学芸課長を訪問して其の趣旨を説き、「帝展三部の分科に就て文部当局並に帝院会院諸賢に再び進言す」と題する意見書を提出した。尚其の文書は関係方面に送付した。

十七会結成 

1936年02月

昨秋構造社を脱退した寺畑助之丞を中心として、従来構造社に出品してゐた彫刻家有志が新団体十七会を結成し、二月十七日声明書を発した。

平櫛田中鑑査を棄権 

1936年02月

帝展第三部の鑑査は二月十六日から行はれたが、最終日の同十八日に至り平櫛田中は他の審査員と意見衝突の結果、中途退場して鑑査を棄権した。

帝国美術院常議員会 

1936年02月

帝国美術院常議員会は二月十四日正午から帝国学士院で開催、京都出品延着問題に就いて協議した。

岡田三郎助抗議 

1936年02月

帝展第一部の鑑別は二月十五日から始められたが、之に関聯して、同夜岡田三郎助は第一部審査主任小室翠雲に対し、去る五日横山大観小林古径等が日本美術院々友等の帝展出品画を下見したことに就き抗議を申し込んだ。小室主任は翌十六日鑑査続行に先ち横山審査員の説明を求めた所、問題とする程度でない実情が判明した為他の審査員等も之を諒解し、同日夕小室、岡田両名と会見の結果此の問題は打切られることとなつた。

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