本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





桑原住雄

没年月日:2007/12/15

 武蔵野美術大学名誉教授で、美術史研究、美術評論家であった桑原住雄は、病のため長らく療養中であったが、12月15日、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年、広島県広島市に生まれ、幼少時に家族とともに台湾に渡り、旧制台北高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進む。戦中期に応召したが、戦後に復学し美術史を専攻、さらに同大学大学院を修了。東京新聞社、朝日新聞社に勤務。その間の1963(昭和38)年に、アメリカ国務省の人物交流計画と称されたプログラムにより招聘され、ニューヨークをはじめ、アメリカ各地を訪れた。当時は、抽象表現主義の隆盛から、ポップアートが誕生する時代で、アメリカの現代美術に直にふれ、また、19世紀以来のアメリカ美術の歴史のなかにリアリズムの底流があることに強い関心を抱き、以後、アメリカ美術も研究テーマのひとつとなった。77年4月に筑波大学芸術学系に転じて教授として82年3月まで後進の指導にあたった。ついで82年4月から1995(平成7)年3月まで、武蔵野美術大学教授として務め、退任後同大学名誉教授となった。生前の研究、評論活動は、19世紀から現代までのアメリカ美術の歴史、及び古今の日本美術史に及び、旺盛な評論活動を行った。とりわけアメリカ美術については、1886(明治19)年に来日したアメリカ人画家ジョン・ラファージ(1835―1910)の残した滞日記録『画家東遊録』の翻訳(久富貢との共訳)と、同書に付した論文「ラファージと日本美術」に示されたように、それまで日本において紹介されることのなかったアメリカにおけるジャポニスム研究、及び日米の美術交流史研究が特筆される。また、日本美術については、前田青邨、東山魁夷、髙山辰雄、岩橋英遠、荻須高徳、宮本三郎から現代作家まで、多数にわたる作家論、評論を残した。主要な業績は、下記にあげる単行書、翻訳書にあるとおりであるが、なかでも古希を記念して刊行された『桑原住雄美術論集 日本篇、アメリカ篇』(沖積舎、1995・96年)には、生前の研究、評論の成果が集約されている。 編著書: 『東京美術散歩』(角川書店、1964年) 『日本の自画像』(南北社、1966年、改訂版沖積舎、1993年) 『日本画の内景』(三彩社、1974、76年) 中山公男、中森義宗共著『モナ・リザ』(朝日ソノラマ、1974年) 『現代日本の美術5 東山魁夷』(集英社、1974年) 『現代日本の美術7 東山魁夷』(集英社、1976年、普及版) 『アメリカ絵画の系譜』(美術出版社、1977年) 『日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1977年) 『カンヴァス日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1979年) 『東山魁夷の世界』(講談社、1981年) 『東山魁夷ビブリオテカ』(美術出版社、1982年) 『現代日本画全集 第9巻 岩橋英遠』(集英社、1982年) 『日本の近代絵画 伝統と創造(NHK市民大学)』(日本放送出版協会、1985年) 田中穣共編『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン16 東郷青児/宮本三郎』(編著担当「宮本三郎」、集英社、1986年) 『東山魁夷』(講談社、1995年) 『桑原住雄美術論集 日本篇』(沖積舎、1995年) 『桑原住雄美術論集 アメリカ篇』(沖積舎、1996年) 『広場の芸術』(日貿出版社、1998年) 桑原住雄詩、香月泰男画『夢マンダラ』(日貿出版社、2002年) 翻訳書: 翻訳バーバラ・ローズ著『二十世紀アメリカ美術』(美術出版社、1970年) 翻訳ハロルド・ローゼンバーグ著『荒野は壷にのみこまれた 大衆状況のなかの美術』(美術出版社、1972年) 翻訳(桑原未知世共訳)エイブラハム・A・デイビッドソン著『アメリカ美術の歴史』(PARCO出版、1976年) 翻訳(下山肇共訳)マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』(新潮社、1977年) 翻訳(久富貢共訳)ジョン・ラファージ著『画家東遊録』(中央公論美術出版、1981年) 翻訳バーナード・ブリソン・シャーン著『ベンシャーン画集』(リブロポート、1981年) 翻訳監修『ワイエス画集3』(リブロポート、1987年) 翻訳監修『ワイエス画集4』(リブロポート、1988年) 翻訳(斎藤泰嘉共訳)ハーリー・F・ゴーグ著『モダン・マスターズ・シリーズ ウィレム・デ・クーニング』(美術出版社、1989年)

島岡達三

没年月日:2007/12/11

 益子焼の陶芸家で、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)の島岡達三は12月11日午後11時5分、急性腎不全で死去した。享年88。1919(大正8)年10月27日、東京市芝区愛宕町の三代続く組紐師米吉と妻かうの長男として生まれる。父の勧めで1936(昭和11)年東京府立高等学校高等科理科に学び、39年東京工業大学窯業学科に入学、陶磁器を専攻する。東工大の前身、東京高等工業学校には、教官に板谷波山、卒業生に濱田庄司、河井寛次郎らがいた。入学後、益子に濱田を訪ね卒業後の入門を許される。その際に濱田は島岡に対し「大学にいる間から轆轤の勉強をしなさい」と助言をしている。その言葉通り、大学一年の夏期休暇は岐阜県駄知の製陶所で轆轤技法習得、二年目は夏期休暇の前半を益子の小田部製陶所で修行、後半を濱田の勧めで大阪を拠点に西日本の民窯を巡る。三年目には沖縄の壷屋で学ぶ予定となっていたが、太平洋戦争の影響で断念せざるを得なかった。41年大学を繰り上げ卒業し、翌年軍隊へ入営、その翌年にはビルマへ出征。45年ビルマで終戦を迎え、タイのナコンナヨークの捕虜収容所に入る。翌年に復員すると両親を伴い益子の濱田へ弟子入りを果たす。年に6~8回は登り窯を焚く濱田のもとで、昼間は土作りに始まる下仕事に取り組む。50年、濱田の世話で益子の栃木県窯業指導所の試験室へ技師として入所。この指導所時代、粘土や釉薬を徹底的に研究することができたという。また、この時代に濱田に学校教材として販売する複製品の原型作りの仕事が舞い込む。島岡は濱田について古代土器を学ぶために各地の博物館や大学へ赴く。特に東京大学理学部では縄文土器の第一人者である山内清男講師から縄文加工法を学ぶ。この時の経験が島岡の縄文象嵌の着想に大いに役立つ。53年指導所を退職し、独立すると濱田邸の隣に窯を築く。翌年、東京いずみ工芸展で初個展。濱田と同じ土を使い、同じように窯詰めをすると自ずと濱田と同じような作品が生まれる。島岡は名もない職人的な仕事をしようと考えていたが、濱田は個人作家として自分のものを作るように諭した。濱田のこの指摘と朝鮮李朝の古典的な彫三島の技法が縄文象嵌の着想となった。縄文象嵌は縄文土器に見るような縄目部分に泥將を埋め装飾する技法である。島岡は組紐師である父親に紐を組んでもらい素地に転がし加飾した。60年から縄文象嵌技法を本格的に行い、この技法に地元の素材を使った柿釉や黒釉などの六種の釉薬と、独自に工夫した釉薬を組み合わせ多彩な表現を展開していく。その後、個展を東京丸ビルの中央公論社画廊、大阪阪急百貨店、広島福屋等で開催。62年には日本民藝館新作展にて日本民藝館賞受賞。64年にはカナダ・アメリカで個展並びに作陶指導を行う。その後も海外での活躍が続き、68年にはロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ渡米、72年にはオーストラリア政府の招聘で渡豪、視察指導をする。74年にはボストンでの個展、トロントでの講義のため、アメリカ・カナダへ歴訪。その後も精力的な活動を続け、多くの展覧会へ出品し活躍を続ける。80年、栃木県文化功労章を受章。1994(平成6)年には日本陶磁協会賞金賞を受賞。若くから陶芸指導や講演などの後継者育成や陶芸普及に尽力し、96年にはNHK教育テレビ趣味百科「陶芸に親しむ」に講師として出演、同年、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)に認定される。その後、97年には益子町陶芸メッセにて「重要無形文化財保持者認定記念島岡達三展」、98年には銀座松屋にて「傘寿記念―陶業55年の歩み島岡達三展」を開催する。99年には文化庁企画制作の工芸技術記録映画「民芸陶器(縄文象嵌)―島岡達三の技―」が完成。同年、勲四等旭日小綬章を受章、2002年栃木名誉県民の称号を授与される。翌年、第40回記念島岡達三陶業展を松屋銀座にて開催。執筆作品に『カラーブックス日本の陶磁7 益子』(保育社、1974年)、NHK趣味入門『陶芸』(日本放送出版協会、1998年)がある。

桑原甲子雄

没年月日:2007/12/10

 写真家、編集者、写真評論家の桑原甲子雄は12月10日、老衰のため死去した。享年94。1913(大正2)年12月9日、東京市下谷区に生まれる。1931(昭和6)年第二東京市立中学校(現、東京都立上野高校)卒業。家業の質店の仕事に従事するかたわら、隣家に住む幼友達でそれぞれ写真評論家、写真家となる濱谷雅夫(のち田中)・浩兄弟の影響で写真趣味にとりくみはじめた。34年にライカC型を入手してからは熱心にカメラ雑誌への作品投稿をするようになり、『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』など各誌で入選を重ね、37年には『カメラアート』2月号が「桑原甲子雄推薦号」として特集を組むなど、昭和戦前期を代表するアマチュア写真家のひとりとなる。戦時下、40年には南満洲鉄道主催「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に加わり満洲にて撮影、44年には太平洋通信社に入社、対外宣伝用の写真撮影に携わる。終戦後の47年写真家集団銀龍社の結成に参加。48年アルスに入社し『カメラ』9月号より編集長を務める(54年3月号まで)。以後、『サンケイカメラ』(54年創刊、59年発行元が産業経済新聞社から東京中日新聞社に移り『カメラ芸術』に誌名変更、64年に廃刊)、『季刊写真映像』(69年創刊、71年10号で休刊、写真評論社)、『写真批評』(73年創刊、74年7号で休刊、東京綜合写真専門学校)で編集長を歴任。『カメラ』では50年に土門拳を月例写真の選者に起用、その選評と土門の実作により展開されたリアリズム写真運動は、戦後の写真表現の再出発にあたって画期となった。また『カメラ芸術』編集長時代には、荒木経惟をいちはやく評価するなど、編集者としてつねに先進的な姿勢を示した。65年に東京中日新聞社を退いて以降、再び写真撮影に本格的にとりくみはじめる。68年日本写真家協会が主催した「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(西武百貨店、池袋)において戦前の写真が再評価され、73年個展「東京1930-40―失われた都市」(銀座ニコンサロン)開催。74年写真集『東京昭和十一年』、『満州昭和十五年』(ともに晶文社)を刊行。76年の個展「東京幻視」(フォトギャラリー・プリズム)では戦前の作品とともに新作を発表、以降90年代半ばまで、作品発表と評論活動を並行して行う。1993(平成5)年には荒木経惟との二人展「ラブ・ユー・トーキョー」(世田谷美術館)、95-96年には「桑原甲子雄写真展 東京・昭和モダン」(東京ステーションギャラリー)、2001年には「桑原甲子雄写真展 ライカと東京」(東京都写真美術館)が開催された。二・二六事件の翌日、戒厳令下の皇居周辺を隠し撮りした写真がよく知られるが、戦前および60年代半ば以降に撮影された作品はともに東京を中心とした街中でのスナップショットによるものがその大半を占める。下町を中心とした市井の風俗や生活を、過度に表現的になることなく撮影した戦前の作品は、当時としては異色であり、70年代以降の再評価の時期には、貴重な時代の記録であることとともにその現代性が注目された。75年『東京昭和十一年』に対して第25回日本写真協会賞年度賞、91年第41回日本写真協会賞功労賞を受賞。写真集として前記の二作の他、『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也との共著、晶文社、1975年、岩波現代文庫版、2000年)、『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年)、『ソノラマ写真選書15 東京長日』(朝日ソノラマ、1978年)、『東京1934~1993』(新潮社、1995年)、『日本の写真家19 桑原甲子雄』(岩波書店、1998年)、『桑原甲子雄 ライカと東京』(朝日ソノラマ、2001年)、『東京下町1930』(河出書房新社、2006年)、評論集に『私の写真史』(晶文社、1976年)がある。

風倉匠

没年月日:2007/11/13

 1960年代に「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加し、ハプニングやパフォーマンスによって既成の概念を揺るがした風倉匠は、11月13日、肺がんのため大分市の病院で死去した。享年71。1936(昭和11)年1月23日、大分市大字津留696番地に生まれる。本名橋本正一。幼少期より正巳と呼ばれる。津留国民小学校に入学するが、戦争により大分県内に疎開。48年4月大分市立城東中学校に入学し、51年に同校を卒業して大分県立大分工業高校に入学する。52年、腹膜炎の後、結核に罹り、翌年5月まで休学。この間、読書に没頭し詩人を志す。また、地元の演劇活動を手伝い、新世紀群アトリエに出入りして、デッサンや油彩画を描くようになる。「凡倉惰作」の名を用いるが、風倉と誤読され、以後、風倉と称する。56年4月武蔵野美術大学油絵科に入学。同年、第19回大分県美術展に風倉省策の名で出した「女」が初入選。同年10月砂川闘争に参加し、赤瀬川原平を知り、赤瀬川を通じて吉村益信を知る。57年、春休みの帰省中に大分県総合文化祭(大分県教育会館ホール)で行われた演劇で、椅子から何度も落ち続けるハプニングを行う。58年3月第10回読売アンデパンダン展に「陣地」を出品。同年7月の第11回日本アンデパンダン展には「人工庭園」を出品する。59年、吉村益信らのグループ「オール・ジャパン」の結成に参加。60年、第13回日本アンデパンダン展に「眠らされた」を、第12回読売アンデパンダン展に「城」他2点を出品。同年、吉村益信、赤瀬川原平、篠原有司男らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加し、同年4月の第1回ネオ・ダダ展(銀座画廊)にビニール作品などを出品。同年7月の第2回展(吉村アトリエ)にトタンのロボット、モビール、ドローイングなどを出品。この頃から、風倉匠と名乗るようになる。同年9月の第3回ネオ・ダダ展(日比谷画廊)にロープによる作品等を出品。61年3月第13回読売アンデパンダン展に「ムード屋」「K2」を出品。同年6月、安保闘争で死去した樺美智子追悼統一集会にVAN映画科学研究所の所員と共に乱入し、バルーンを膨らませるハプニングを行った。同年10月に第1回個展(村松画廊)を開催し、初日に椅子のハプニングを、会期中にバルーンを膨らませるハプニングを行う。62年第14回読売アンデパンダン展にフーコー振り子、サイレン、バルーン等による「サイレン」「祖堂人命救助法」を出品。同年8月15日、「敗戦記念晩餐会―芸術マイナス芸術」(国立市公民館)に参加し、「サドの遺言執行式」を土方巽と共演。同年11月「九州派の英雄たちの大集会」(博多湾・百道海水浴場)に参加する。63年、第15回読売アンデパンダン展に「アウグスチヌスの道具の時間」「事物は何処から来て何処へ行く」を出品。同年5月大分市キムラヤギャラリーで個展「リリパッド王国」を開催。同年11月第32回大分県美術展で「作品二の一」(旧名「陣地」)が大分県美術協会賞を受賞。64年、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之によるグループ「ハイレッドセンター」の「ドロッピング・イヴェント」(池坊会館)、「首都圏清掃促進運動」(銀座並木通)に参加。71年第10回現代日本美術展にフーコーの振り子による「魔術によって宇宙の一部を証す道」を出品。73年11月から北海道網走に移り住みカフカの『流刑地にて』を映画化する試みを開始する。以後2年撮影を続けるが未完に終わり、帰京。同年、個展「リリパッド王国秘宝展」を開催。76年から美術学校夜間部で教鞭を取る。78年、ホワイトクロス個展(国分寺画廊9)、風倉匠個展―WHITE CROSS EXHIBITION(大分市、府内画廊)を開催。79年塩商人の語本指(大分市、府内画廊)に赤瀬川原平、田中信太郎らとともに参加。同年9月、大分に帰郷し絵画塾を開く。80年大分県立芸術会館で「風倉匠個展―絵画の基点を探す点検作業」を開催し、絵画、オブジェなど150点を出品。86年、パリのポンピドゥ・センターで行われた「前衛芸術の日本1910~1970」に参加し、小杉武久とバルーンなどを用いたパフォーマンスを行い、同展後、ドイツでも小杉とのパフォーマンスを行う。88年4月より福岡市内の会社に勤務し、以後1994(平成6)年まで福岡に単身赴任。92年「巨大都市の原生 東京―大阪行為芸術1992年ヨーロッパ・ツアー」に参加し、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスを巡りパフォーマンスを行う。93年、福岡市美術館で「流動する美術Ⅲ ネオ・ダダの写真」が開催される。95年第7回バングラディシュ・アジア美術ビエンナーレに参加し、バルーンによるパフォーマンス等を行う。2002年大分市美術館で「風倉匠展」が開催され、初期からのしごとが跡づけられた。年譜は同展図録および『時計の振り子 風倉匠』(佐野画廊、1996年)に詳しい。

萩原英雄

没年月日:2007/11/04

 版画家の萩原英雄は11月4日、虚血性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年94。1913(大正2)年2月22日、甲府市相川町に生まれる。21年警察署勤務であった父の赴任地である韓国定州に家族で移住するが、1929(昭和4)年に単身、日本に帰国し日本大学第二中学(現、日本大学附属第二高校)に転入。30年耳野卯三郎に油彩画を学ぶ。32年日本大学第二中学校を卒業し、同年4月に文化学院美術科に入学。同年第9回白日会展に油彩画「雑木林」で、第19回光風会展に油彩画「上り道」で初入選。また、同年の第19回日本水彩画会展に「アネモネ」で初入選を果たす。33年4月東京美術学校油画科に入学。この年にも白日会、光風会に入選するが、東京美術学校の規則として在学中の公募展出品は禁止されていたため、以後、出品していない。この頃は対象を写実的に描写するアカデミックな訓練を受ける一方、セザンヌに心酔し、近隣に住んでいた長谷川利行と34年から知りあって行動を共にして芸術に対する姿勢などに影響を受けるなど、反アカデミズムの傾向を強めた。38年、東京美術学校油画本科を卒業し、高見沢木版社に入社。日本の浮世絵版画の技法等について多くを学ぶ。43年応召により高見沢木版社を退社する。戦災でそれまでの作品を焼失するが、戦後の51年、銀座・資生堂で油彩画による初個展を開催する。53年、肺結核にかかり以後56年1月まで療養生活を送る。この間、リハビリテーションの一環として木版画を手がけ、日本の造形の伝統を再認識して、東洋的な表現を求めるようになる。56年3月に版画による個展を開催。同年、第24回日本版画協会展に「雲」「風」「傷つける牛」で入選。57年第25回日本版画協会展に「渡り鳥」「陽炎」で入選し、同会会友となる。58年第26回同展に抽象的画面を、木版画の平面性から脱した新技法による版で摺り出した「コンポジション≪E≫」ほかを出品し、同会会員となる。同年の第1回国際色彩版画トリエンナーレ(スイス)に「コンポジションR」を出品したほか、第29回ノースウエスト国際版画家展(米国シアトル)に「コンポジションL」を出品するなど、国際展に作品を発表する。60年、第2回東京国際版画ビエンナーレに「石の花(黒)」「石の花(灰)」「石の花(赤)」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。62年、第7回ルガノ国際版画ビエンナーレに「赤の幻想」「藍の幻想」「白の幻想No.1」「緑の幻想」を出品し、浮世絵の空摺り技法を用いたエンボス表現を活かした「白の幻想No.1」でルガノ市長賞(グランプリ)を受賞する。62年第5回現代日本美術展に「鎧える人No.1」「鎧える人No.2」を招待出品。63年、第7回国際日本美術展に「作品A」を招待出品。同年の第5回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「白の幻想No.2」「鎧える人No.6」「鎧える人No.11」を出品し、「白の幻想No.2」でユーゴスラビア科学芸術アカデミー賞を受賞。同年、リュブリアナ近代美術館で「萩原英雄個展」を開催し「石の花(白)」ほか版画30点を展観する。64年には米国フィラデルフィア美術館で個展を開催。65年、第4回クシロン国際木版画ビエンナーレ(スイス)、第6回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレに出品。66年には第1回クラコウ国際版画ビエンナーレ、第5回東京国際版画ビエンナーレに出品し、後者では「お伽の国No.1」で文部大臣賞を受賞する。67年4月、米国オレゴン州立大学客員教授として招かれ、版画技法の指導をして7月に帰国。同年、第7回リュブリアナ国際版画ビエンナーレで「お伽の国No.12」がリエカ国立近代美術館賞受賞、また、同年チェコスロヴァキア国際木版画展に「お伽の国No.1」「お伽の国No.2」「お伽の国No.17」を出品し、グランプリを受賞する。68年、第1回ユーゴスラビア国際素描展に素描「天使と曲芸Ⅰ」「天使と曲芸Ⅱ」「花の天使」を出品して受賞、70年、第1回バンスカ国際木版画ビエンナーレ(チェコスロヴァキア)に「天使昇天No.3」「天使昇天No.5」を出品して受賞する。86年、郷里の山梨県立美術館で「現代木版画の巨匠・萩原英雄の世界展」が開催され、木版画、油彩画、コラージュなど200点が出品された。1991(平成3)年、日本版画協会名誉会員となる。92年、北海道登別市民会館で「萩原英雄の世界―現代木版画の巨匠展」が開催される。また、同年、第12回バンスカ国際木版画ビエンナーレに「追憶No.11」を招待出品し、名誉賞を受賞する。96年武蔵野市民会館で「萩原英雄―無垢なる世界Vol.1」展、97年、同館で同展Vo.2が開催される。2000年に山梨県立美術館に自らの作品2637点と、収集品のコレクション760点を寄贈。翌年、同館で寄贈品をもとに「作家の眼差し―萩原英雄コレクション展」が開催され、01年には同館で「色彩の賛美歌 萩原英雄全仕事」展が開催された。浮世絵など日本の伝統的木版画技法を踏まえつつ、従来は平面性の強い、複数制作のもの、とされてきた版画に、コラージュによる版木の制作やモノタイプの試みなどにより新たな展開をもたらし、戦後、日本の版画が国際的評価を高めていく中で、その一翼を担った。1977年から84年まで東京学芸大学講師として教鞭を取ったほか、以下のような著書がある。『版画のたのしみ方』(主婦と生活社、1966年)、『現代版画入門』(主婦と生活社、1972年)、『木版画―基礎から創作まで』(主婦と生活社、1980年)、『萩原英雄版画集』(講談社、1982年)、『萩原英雄木版画作品総目録Vol.2』(ギャラリー壱山、1986年)、『萩原英雄木版画作品総目録Vol.1』(ギャラリー壱山、1988年)、『日本現代版画 萩原英雄』(玲風書房、1992年)、『美の遍歴』(日本放送出版協会、1996年)

鶴岡義雄

没年月日:2007/10/27

 日本芸術院会員で洋画家の鶴岡義雄は10月27日、直腸がんのため東京都目黒区の病院で死去した。享年90。  1917(大正6)年4月13日、茨城県土浦市中城町に生まれる。父は義太夫の名手、母は三味線の師匠、芝居小屋や映画館を経営してきた芸能一家に育つ。旧制茨城県立土浦中学校(現、茨城県立土浦第一高等学校)在学時より絵画に興味を抱き、同校の先輩にあたる熊岡美彦の講習会に参加したおり勧められて画家を志すようになり、1937(昭和12)年日本美術学校(現、日本美術専門学校)に進学、林武に師事して洋画を学んだ。ここで織田広喜、鷹山宇一ら後の二科会幹部らとも知り合う。41年同校卒業、第28回二科展に「台湾蛮女」を出品し初入選を果たす。44年関東軍報道班としてハルピンに赴任、帰国後まもなく土浦で終戦を迎える。46年、服部正一郎を中心に二科会茨城支部を結成、創立会員として参加し、以後二科には毎回出品する。47年、第32回二科展に「化粧」ほか連作3点を出品し二科賞受賞。49年、服部正一郎らとともに創立会員として茨城洋画会を結成(54年の茨城美術家協会結成に伴い発展的解消)。同年二科会準会員。50年二科会員推挙。戦時中は風景・人物の写実描写が多かったが、50年代半ばからシュルレアリスムやキュビスム風の描写、ジオメトリックな構成絵画などに次々取り組む。初めてのスケッチ旅行で57年に北・中米、60年には西欧各国を訪れ、粗目のタッチではあるが細かに計算された構図・配色によるモダンな風景画を多数制作。66年、日本美術学校講師、69年サロン・ドートンヌ会員となる。70年、第55回二科展に「愛」「ムーラン・ルージュ」を出品して東郷青児賞受賞、翌71年二科会委員となる。73年、パリにアトリエを構えマドモアゼル・シリーズに取り組む。74年第59回二科展に「ソワル・ド・パリ」を出品し内閣総理大臣賞を受賞、この作品で同シリーズの耽美様式が確立され、この頃から舞妓も描くようになる。舞妓を描いた数ある作家の中でも鶴岡は、西洋的造形思考に立脚して描写を行ったところにその独自性がみとめられる。舞妓を描いた主な作品には、シュルレアリスム的手法による「舞う」「京の四季」、また遊びに興じる素顔の舞妓や出番待ちの場面を幻想的に描いた「歌留多」「合わせ鏡」などがある。80年二科会常務理事就任。81年インターナショナルアメリカ展グランプリ。86年『鶴岡義雄画集』(日動出版)が刊行される。第74回二科展に「舞妓と見習いさん」を出して翌1990(平成2)年日本芸術院賞を受賞。93年、日本美術学校名誉教授就任、勲四等旭日小綬章受章。94年日本芸術院会員。96年日本美術学校名誉校長に就任。2002年二科会理事長、06年同会名誉理事就任。90年代以降は日本の初期シュルレアリスムを想わせる作風が現れ、再び幾何学的、抽象的な作品が多くなる。主な個展に「鶴岡義雄展」(日動サロン、1971年)、「“京洛四季の舞妓”鶴岡義雄展」(日動画廊、1980年)、「画業60年鶴岡義雄の世界展」(茨城県つくば美術館、1996年)、「卆寿記念・鶴岡義雄展」(しもだて美術館、2007年)などがある。

内藤ルネ

没年月日:2007/10/24

 戦後の少女画を代表するイラストレーター内藤ルネは10月24日、心不全のため静岡県伊豆市の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年11月20日、愛知県岡崎市に生まれる。本名、内藤功。第二次大戦末期の混乱のさなか、偶然みつけた中原淳一の雑誌口絵の美しさに感動する。16歳で岡崎中学を卒業後、住み込みで紳士服洋裁店に勤務、その傍ら、絵や詩をつけた手紙を中原に送るようになる。その画才に目をつけた中原に呼ばれ19歳で上京、ひまわり社に入社する。中原に師事しながら雑誌『ひまわり』『それいゆ』の編集・挿絵に携った後、54年の『ジュニアそれいゆ』創刊から主力に加わりイラストやエッセイを発表、雑貨デザインも手がけるようになる。この頃ペンネームを「内藤瑠根」としていたが、56年頃から「内藤ルネ」も用いるようになり、これが定着する。58年『少女』(光文社)の付録別冊漫画の表紙に自作の人形が写真掲載され出すなど、この頃から他社の仕事も受け始め、64年頃まで『少女クラブ』(講談社)、『りぼん』(集英社)、『なかよし』(講談社)、『女学生の友』(小学館)といった少女雑誌の口絵・付録・イラスト作品を多数手がける。59年、中原が病に倒れると代わって表紙を担当、以後ひまわり社のスター的存在となる。61年、個人的に制作を依頼した陶器のビリケン人形を、発注先である大竹陶器が強く希望して商品化。これが大ヒットし同社は後に株式会社ルネと改名してルネグッズを多数製作するが、これらはいわゆるファンシーグッズの先駆となった。64年から『服装』(婦人生活社)に手芸やインテリア等をテーマにエッセイを書き始め、後に「私の部屋」に引き継がれ断続的に92年まで連載される。65年頃には、『装苑』(文化出版局)、『non-no』(集英社)等若い女性向けの雑誌でも仕事をする。70年代にはトマトやイチゴなどをモチーフにしたステンシールが大流行。今日のパンダキャラクターの原型となっているルネパンダも、中国からのパンダ来日前年の71年に商品化されている。74年、南青山に「薔薇色雑貨店・ルネハウス」をオープン。84年2月より1998(平成10)年9月まで『薔薇族』(第二書房)の表紙を担当。2001年静岡県修善寺に住まいを移し、内藤ルネ人形美術館を開館、森本美由紀を中心とする「RUNE DOLL ASSOCIATES」がルネの人形を復刻し展示を行うようになる。02年、宇野亜喜良等7名と銀座スパンアートギャラリーで「2002―少女頌」を、弥生美術館にて初の回顧展「内藤ルネ展~ミラクル・ラヴリー・ランド~」を開催。また05年には同館にて「内藤ルネ初公開コレクション展―日本の可愛いはルネから始まった」を開催。主な著書に『こんにちは!マドモアゼル』(ひまわり社、1959年)、『幻想館の恋人たち』(山梨シルクセンター、1968年)等がある。

鈴木敬

没年月日:2007/10/18

 日本学士院会員で東京大学名誉教授の鈴木敬は、10月18日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年86。1920(大正9)年12月16日、静岡県伊東市に生まれる。旧制水戸高等学校を卒業後、1942(昭和17)年4月に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、44年9月、学徒動員令により同大学を繰り上げ卒業。同年12月に現役兵として入隊し、46年に復員。49年1月に国立博物館(現、東京国立博物館)調査員となり、52年9月からは文化財保護委員会(現、文化庁)美術工芸品課に勤務。59年11月には東京芸術大学助教授となり、65年に東京大学東洋文化研究所助教授となった。この間、52年12月から8ヶ月間渡米、58年1月より翌年4月まで渡欧。67年9月には定年退官した米澤嘉圃にかわって東京大学教授となり、70年12月から72年3月まで東洋文化研究所長および同研究所附属東洋学文献センター長を務めた。81年3月に東京大学を定年退官して同年4月に名誉教授となった。この間、1975(昭和50)年6月から1979(昭和54)年2月まで美術史学会代表委員を務めた。鈴木が東京大学で教鞭を執った時期は大学紛争の混乱期を含んでいるが、北宋・元の李郭派を中心とする自身の研究および戸田禎祐・嶋田英誠をはじめとする後進の指導育成、海外の研究者との交流には余念がなく、これによって世界における日本の中国絵画研究の水準を飛躍的に高めた。また東洋文化研究所の美術史・考古学部門を中国絵画の写真資料センターとすべく、数次にわたって中国、台湾、アメリカ、ヨーロッパ等での中国絵画悉皆調査を敢行して20万点を越える膨大な資料を収集。これを整理して内外の研究者に公開し、あらゆる研究者がアクセスし得る強固かつ開かれた研究基盤を構築したことは特記される。79年から郷里である静岡県立美術館の設立準備に携わり、翌年には静岡県教育委員会事務局参与、86年1月には同美術館の初代館長となり(同年4月に開館)、1993(平成5)年6月末まで館長を務めた。同館の研究活動重視の姿勢は主として鈴木による情熱的な指導の賜物であり、同館は今日にいたるまで日本の地方公立美術館の中で随一と言うべき企画力を持っていることで知られているところである。これらの功績により、84年11月に紫綬褒章、91年4月に勲二等瑞宝章を受章。88年1月には皇居で「講書始の儀」の進講者を務めている。東京大学定年退官後も、「両宋画院について」(『美術史論叢』23号、2007年)にいたるまで、その探求心は衰えることがなかったし、緻密で真摯な研究態度も終始崩れることがなかった。鈴木は実証的で系統的、基礎的かつ網羅的な研究で戦後の日本における中国絵画研究を生涯にわたり主導し続けた。従来等閑視されがちであった明代宮廷画人たちに光をあて、「プレ浙派」を提唱した『明代絵画史研究・浙派』(木耳社、1968年)、膨大な作品と文献資料を緻密に組み上げることで中国絵画史全体を俯瞰した大著『中国絵画史』(上、中之一、中之二、下、吉川弘文館、1981~95年)、各所に分蔵される中国絵画を悉皆的に調査して逐一基礎データと図版を掲げた『中国絵画総合図録』(全5巻、東京大学出版会、1982~83年)は、鈴木が美術史学界にうち立てた金字塔と言うべきものである。このうち『中国絵画史』で、85年6月に(その時点で未完結であったにもかかわらず)日本学士院賞を受賞し、1990(平成2)年12月には日本学士院会員となっている。また『中国絵画総合図録』については、引き続き東洋文化研究所で『同 続編』(全4巻、東京大学出版会)がつくられ、さらに『同 三編』の準備も進行している。さらに同様の手法をとった『中国古代書画図目』(全24冊、1986~2002年、文物出版社)や『故宮書画図録』(刊行中、1989年~、台北故宮博物院)が刊行されるなど、鈴木の理念と手法が中国絵画研究の基礎として多くのコンセンサスを得、日本国内外で継承発展されていることは特筆すべきであろう。その他にも著書、共著、研究論文等多数がある。主要業績は「鈴木敬教授略歴・主要著作目録」(『東京大学東洋文化研究所紀要』85冊、1981年)および、東京大学東洋文化研究所東アジア美術研究室/東洋学研究情報センター「中国絵画所在データベース」の沿革にある「歴代教授略歴および主要論文」(http://cpdb.ioc.u―tokyo.ac.jp/suzuki.html)を参照のこと。また、追悼記事には東洋文化研究所「訃報 鈴木敬名誉教授」(『東京大学学内広報』1367号、2007年12月14日)、小針由紀隆「鈴木敬初代館長を偲んで」(静岡県立美術館ニュース『アマリリス』88号、2007年冬)、武田恒夫「故鈴木敬会員追悼の辞」(『日本学士院紀要』631号、2008年)などがあるので、あわせて参照されたい。なお、2008年12月、遺族により、故人の蔵書のうち『景印文淵閣四庫全書』『四部叢刊初編縮本』『大清歴朝実録』が東京文化財研究所に寄贈された。

前田常作

没年月日:2007/10/13

 曼荼羅を参考に、密教図像や抽象的形態を組み合わせた絵画を描いた前田常作は10月13日、小磯記念大賞展の審査のため大阪市内のホテルに滞在中、心臓発作のため死去した。享年81。1926(大正15)年7月14日、富山県新川郡椚山村に生まれ、病弱な幼年期を過ごす。1933(昭和8)年、椚山村立尋常小学校尋常科に入学し、39年に同校を卒業して、同小学校高等科に入学。41年、同科を卒業し、富山師範学校予科に入り、44年同科を修了して本科に入学する。同科では丸山豊一に美術を学ぶ。45年に応召して富山69歩兵連隊に入隊。同年8月の富山大空襲で市中の惨状を目の当たりにし、人間の生死について深く感ずるところがあった。47年、富山師範学校本科を卒業し、同年4月から富山県下新川郡の上青中学校で図工科を教える。48年、東京都台東区忍岡中学校に移り、この頃から鶴田吾郎洋画研究所と中央美術研究所に通う。同年8月、美術出版社主催の夏期洋画講習会に参加し、安井曽太郎の指導を受けて感銘を受ける。49年、本格的に画家を志して武蔵野美術学校西洋画科に入学し、デッサンを清水多嘉示、洋画を三雲祥之助に学ぶ。同年8月、鶴岡政男を知り、アトリエを訪れるようになった。同年9月、忍岡中学校を退職して画業に専念し、同年10月第13回自由美術家協会展に「水蓮」など2点が初入選する。52年、黒色会展に出品。53年、武蔵野美術学校西洋画科を卒業し、東京都北区滝野川第一中学校の図工専科教員となる。同年秋、美術、映画、写真等の実作者による「制作者懇談会」に入会し、同会で池田龍雄、河原温などと交遊。55年第8回日本アンデパンダン展に「狂った人」「偶像」「アリバイ」など6点を出品。同年6月、瀧口修造の推薦により最初の「前田常作個展」をタケミヤ画廊で開催する。同年10月第19回自由美術家協会展に「目撃者」など2点を出品し、会員に推挙される。57年、「今日の新人」展に「城」「夜」「前兆」を出品し、佳作賞を受賞。また、同年第一回アジア青年美術展に「殖」を出品して大賞および国際美術賞を受賞し、副賞としてパリ留学費用を得る。58年春にパリに渡り、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スイス等を巡遊。59年に批評家ジェレンスキーにより≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評され、自らを現代美術家と考えていたため虚を突かれるが、以後、曼荼羅を意識した制作を行うようになり、パリで注目される。62年長女の誕生をきっかけに≪人間誕生≫≪人間空間≫シリーズの制作を始める。63年、一時帰国し、東寺の両界曼荼羅に感銘を受ける。同年、自由美術家協会を退会し、山口勝弘らによる団体アート・クラブに参加。65年1月に再渡仏し、翌年3月に帰国するが、この間、仏教的思想の現代的意義について考えるところがあり、アジアの仏教国への関心が高まる。また、伝統的な曼荼羅の様式から離れ、今日的な展開を試みるようになる。70年、インド、ネパールを旅行し、人間の生死や輪廻について考えを深めた。この頃から≪青のシリーズ≫≪インド旅行シリーズ≫を始め、72年、東京セントラル美術館で「前田常作展」を開催して、初期から近作までを展示する。73年≪須弥山界道シリーズ≫、74年≪須弥山マンダラ図シリーズ≫の制作を開始。77年、日本美術家連盟の派遣により1月にネパール、インド、スリランカを、9月に中国を訪れ、帰国後、≪観想マンダラ図シリーズ≫の制作を始める。79年、77年の訪中の成果の発表と長年のマンダラ研究が評価され第11回日本芸術大賞を受賞。また、同年より西国巡礼を始め、リトグラフによる≪西国巡礼シリーズ≫を開始する。1989(平成元)年富山県立近代美術館で「前田常作展」が開催され、初期から近作までを展示。93年、「天曜≪瞑想マンダラ図シリーズ≫」により第16回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。初期の抽象表現を志向する時代から、特定の幾何学的パターンの繰り返しを行い、東洋の曼荼羅を意識して以後はかたちに思想的背景が盛り込まれるようになった。曼荼羅研究が進む中で、伝統的曼荼羅の様式から離れ、宇宙や悠久のイメージが絵画化されるようになっている。美術教育にも尽力し、1970年に東京造形大学美術科助教授、72年から73年まで同教授として教鞭をとったほか、79年7月より83年3月まで京都市立芸術大学美術学部教授、83年4月からは武蔵野美術大学教授となり94年からは同学長を務めた。著書に『曼荼羅への旅立ち』(河出書房新社、1978年)、『マンダラの旅―前田常作対話集』(法蔵選書、1982年)、『私とマンダラ』(精神開発叢書、1983年)、『世紀末の黙示録』(酒井忠康と共著、毎日新聞社、1987年)、『心のデッサン』(佼成出版社、1989年)、『前田常作のアクリル画』(河出書房新社、1995年)、『前田常作版画作品集』(佼成出版社、1989年)、『前田常作 観音マンダラ―南養寺大悲殿天井画』(里文出版、2005年)などがある。

黒川紀章

没年月日:2007/10/12

 建築家の黒川紀章は10月12日午前8時42分、東京女子医科大学病院にて心不全のため死去した。享年73。1934(昭和9)年、愛知県名古屋市に生まれる。53年東海高校卒業後、京都大学工学部建築学科に進学。57年に卒業後、東京大学大学院に進み、64年同博士課程単位取得退学。在学中の62年に株式会社黒川紀章建築都市設計事務所を設立、死去まで同社代表取締役。東大大学院では磯崎新らとともに丹下健三研究室に所属し、この時期からスケールの大きい都市計画構想を発表し始める。とくに、世界デザイン会議が60年に東京で開催されるにあたり、その企画に関わった他の若手建築家らとともに結成したメタボリズム・グループによる『METABOLISM/1960―都市への提案』で、建築界の枠を超えて注目を集めた。「メタボリズム」とは新陳代謝を意味し、高度成長期の激変する社会状況を受けて、その変化に有機的に対応しうる都市と建築の在り方を提唱しようとする建築運動であった。黒川は、菊竹清訓と並んで、この思想を最も直截的に具現化した建築作品を設計した。工場生産された交換可能なユニットが縦動線や設備を収納したコンクリートシャフトに挿し込まれた中銀カプセルタワービル(1972年)がその代表例である。丹下の全体構想のもと、黒川たち門下生が多くのパビリオン設計を担った70年の大阪万博を最後に、このような未来志向的な巨大都市構想は現実社会から受け入れられずに終わるが、近代主義の超克はその後も黒川の問題意識の核心にあり、「共生の思想」と言葉を変えて、社会に向け発信され続けた。持続的発展の必要性が共通認識となった昨今、彼らの運動の先駆性を再評価する動きもみられる。黒川紀章は、ある時代において日本人に最も知られた建築家であった。女優若尾文子との再婚など、華やかな「建築家」のイメージがメディアを通じて流布され、日本におけるこの職能の認知に果たした役割は大きい。その一方で、保守政治との接近なども手伝って、プロフェッショナルな建築界からは厳しい評価を浴びることも多く、むしろ海外での評価が高かった。手掛けた建築作品は数多いが、一貫して大規模な公共施設を得意とした。80年代からは、広島市現代美術館(1990年、日本建築学会作品賞)、奈良市写真美術館(1992年、日本芸術院賞)など、博物館や美術館を次々と設計している。また、90年代からは海外プロジェクトに積極的に参画し、クアラルンプール新国際空港(1998年)やゴッホ美術館新館(アムステルダム、1999年)など単体の建築にとどまらず、国際コンペで優勝したカザフスタンの新首都計画や中国広州市の珠江口地区都市計画など、若き日に実現できなかった壮大な都市構想を追い求め続けた感がある。上記以外の主な受賞歴に、86年フランス建築アカデミーゴールドメダル、1989(平成元)年フランス芸術文化勲章など。98年日本芸術院会員、2006年文化功労者。また、英国王立建築家協会国際フェロー、米国建築家協会名誉会員など、諸外国からの顕彰も多い。『都市デザイン』(紀伊国屋書店、1965年)、『メタボリズムの発想』(白馬出版、1972年)、『共生の思想』(徳間書店、1987年)、『建築論Ⅰ・Ⅱ』(鹿島出版会、1985・90年)、『新・共生の思想』(徳間書店、1996年)など、著作多数。

山本正男

没年月日:2007/10/10

 元東京芸術大学長、元沖縄県立芸術大学長で、美学研究者であった山本正男は10月10日、急性肺炎のため神奈川県逗子市の病院で死去した。享年95。1912(明治45)年1月12日、長野県長野市に生まれる。1930(昭和5)年4月、第三高等学校文科乙類に入学。33年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科(美学専攻)に入学、同級生に西洋美術史研究者となった摩寿意善郎がいた。36年3月、同大学卒業、卒業論文は「アリストテレスのテクネーについて」。38年3月、同大学大学院修了。40年4月、文学部副手に採用され、大西克礼教授の美学研究室に勤務することとなった。戦中期には、勤労動員の学生の引率出張をしながらも、文学部における研究課題「明治文化の総合研究」において「明治時代の美学思想」を担当した。47年、同大学文学部助手となる。49年大西教授退官後、竹内敏雄助教授が後継となる。同年、全国規模の美学会設立にあたり、その準備に参加し京都にて発会式をかねた総会を迎えた。50年4月、横浜国立大学助教授に就任。また同年より東京文理科大学(後年の東京教育大学)講師に併任され、同大学哲学科の下村寅太郎主任教授の薫陶を受ける。同大学在任中の53年、戦中期からはじめた明治期の美学思想研究を「明治時代の美学思想」(『国華』722、726、727、729号)と題して発表した。同論文は、移入された学問として美学を歴史的に検証した先駆的な論文であった。また54年、『美の思索』(美術出版社)を刊行した。同書は、美学の啓蒙書であるばかりでなく、学術的、論理的な考察が戦後の美学研究のなかで高く評価されている。58年には、「東西芸術の比較方法」(『国華』793、794号)を発表、同論文からは後年の「比較芸術学」確立にむけた関心の萌芽を読みとることができる。62年、学位論文「芸術史の哲学」を東京教育大学に提出、文学博士号を取得し、同論文をもとに『芸術史の哲学』(美術出版社)を刊行。65年、『東西の芸術精神の伝統と交流』(理想社)を刊行、同年10月、東京芸術大学教授に転じた。66年、編著『現代の芸術教育』(三彩社)を刊行。71年、『美学への道』(理想社)を刊行。73年、改訂増補版として『美の思索』(美術出版社)を刊行。74年、東京芸術大学美術学部の美学研究室を中心に国際研究交流の成果として『比較芸術学研究』全6巻の刊行を開始した。完結した80年までに、第1巻「芸術と人間像」、2巻「芸術と美意識」、3巻「芸術と宗教」、4巻「芸術と様式」、5巻「芸術と表現」、6巻「芸術とジャンル」からなる同論文集の監修にあたり、国内外の多数の美術史、美学研究者の寄稿を仰ぎ、新しい美学の研究領域の確立を図ることとなった。その間の77年に同大学美術学部長に選任された。79年に同大学を退官、同大学名誉教授となる。同年12月、同大学の学長に選出され、85年までその任にあった。82年、美学会の会長代行となる。86年4月、創設された沖縄県立芸術大学の初代学長となる。また同年、長野県信濃美術館長を委嘱された。同年、『芸術の森の中で』(玉川大学出版部)を刊行。さらに『生活美学への道』(勁草書房、1997年)では、「東西の風景画と東山芸術」、「現代と生活の美学」等において、東西芸術の比較と現代における芸術を視野に入れながら、新たに「生の場に立ち戻って、機能・生態重視の生活美学」を提唱した。また、『芸術の美と類型―美学講義集』(スカイドア、2000年)では、その序文において、自らの半世紀に及ぶ美学研究をふりかえりながら、現代における美学の学術的な展望をつづっているので、その一節をつぎに引用しておきたい。「わたくしは我が国美学の世代史からすれば、まさに講壇美学の時代に教育を受け、大戦後の大学改革の中に、新たな人間性開示の教養美学を芸術実践の場に展開すべく務めてきた一人である。しかしそれから半世紀の時代の進展は激しく、国際的な芸術・芸術文化の影響とともに、終戦後の教養美学の『世代』もすでに転回を示し、美や芸術の問題関心は、その文化的・社会的機能へと移った。それはもはや環境美学とも称すべき新世代を生みつつある。この『講義集』がかつての教養美学の『世代』を語る資料として、我が国での美学史的反省に与り得ればまことに幸いである。」(なお、故人の経歴については、同書巻末の「筆者 略年譜」を参照した)常に現代に開かれた美学、芸術学を目ざそうとした学究として、同時に多くの学生が深い薫陶を受けていることからも、慈愛あふれる優れた教育者として、実に誠実に研究と教育に向き合った生涯であったといえる。

若桑みどり

没年月日:2007/10/03

 美術史家でジェンダー文化研究でも多くの業績を残した千葉大学名誉教授の若桑みどりは10月3日、虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年71。1935(昭和10)年11月10日、英文学者山本政喜、ふじゑの次女として東京都品川区に生まれる。41年4月谷中国民学校入学。45年4月、宮城県栗原郡若柳町に疎開し、その地で敗戦を迎える。同年9月、世田谷区山崎小学校に編入。47年4月玉川学園中等部入学、50年4月同高等部入学。同年9月都立駒場高校芸術科に編入学。53年4月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学。摩寿意善郎教授に師事し、イタリア美術を専攻する。58年、カラヴァッジオをテーマに卒業論文を提出し同大学を卒業後、同大学芸術学科専攻科に入学。60年3月同専攻科卒業、同年4月同学科副手就任。61年より63年の間、イタリア政府留学生としてローマ大学哲学・考古学科、美術史学科に留学し、カルロ・アルガン教授に師事。イタリア滞在中に仏文学者若桑毅と結婚(後に離婚)。帰国後の63年9月東京芸術大学美術学部芸術学科副手就任。翌年4月より同大学音楽学部講師、78年同教授。87年4月千葉大学教養部教授に就任、1994(平成6)年4月同大学文学部に配置替え。2001年3月同大学を定年退官。一年間のイタリア・ローマ滞在を経て、翌02年川村学園女子大学教授着任。06年には同大学を退職し、ジェンダー文化研究所を設立、所長を務める。この他、東京外国語大学、聖心女子大学、清泉女子大学、大阪大学、神戸大学、北海道大学、東京大学等で非常勤講師を務め、また、広い観客層を対象とした講演なども積極的に行い、40年以上にわたる「教師」生活により多くの後進を育てた。自宅にアトリエを有し、油絵を描いていた父政喜の影響もあってか幼少の頃より絵をよく描き、第13回行動美術展(58年)に作品を出品するなど、一時期までは画家を志望していた。加えて、中高等部と通った玉川学園はキリスト教教育で知られ、若桑の仕事の大きな柱の一つとなったキリスト教美術研究にはこのような背景があったとみられる。戦時中には下谷区(現、台東区)で空襲により防空壕で生き埋めとなり、また、母の縁で宮城県に疎開するが、後年、これらの戦争体験が自らにとっての原体験であったと若桑は述べている。「60年安保闘争」にも身を投じ、芸大音楽学部時代には明治村(愛知県犬山市)への移築が決定されていた旧東京音楽学校奏楽堂の現地保存運動に取り組む(奏楽堂は台東区管轄のもと上野公園へ移築され、88年には重要文化財に指定される)。芸大ではイタリア語教師としての採用であったが、この間、イタリア美術を中心として、ルネサンス、マニエリスム、バロックと幅広く、かつ多くの論考を著す。最初の単著『マニエリスム芸術論』(岩崎美術社、1980年)をはじめとして、ハウザー『マニエリスム』全3巻(岩崎美術社、1970年)他、多くの基本となる研究書の翻訳も手がける。80年には編著となった『美術のなかの裸婦 寓意と象徴の女性像』(集英社、1980年)で第2回サントリー学芸賞を、85年には日本におけるイコノロジー研究の嚆矢とも言える『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年)により第35回芸術選奨文部大臣賞を受賞。『女性画家列伝』(岩波書店、1985年)では、女性画家の発掘・紹介にとどまらない、女性画家の置かれた社会史的・文化史的背景に踏み込んだ分析を発表する。82年~89年にかけては、ヴァティカン・システィーナ礼拝堂修復調査グループに参加。その成果は、『光彩の絵画―ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画の図像解釈学的研究』(哲学書房、1993年)に結実する。芸大から千葉大へと移籍する前後には、女性研究者としての日常を綴るエッセイ集『レット・イット・ビー』(主婦の友社、1988年)も出版。90年代に入ると、これまでの若桑の主たるフィールドであった西洋のみならず、日本近代にも分析の対象を広げ、美術史研究の枠組みにとどまらない精力的な研究活動を進める。イコノロジー研究を基盤としつつ、様々な分析の視点を交錯させるその手法は一言でまとめられるものではないが、とりわけフェミニズム/ジェンダーの視点に立った視覚表象研究、戦争や政治/権力と表象をめぐる文化史的研究、世界システムの中でのキリスト教文化の研究といったテーマそのものが、若桑の大きな問題意識とそのスケール感を物語っているだろう。91年10月には、美術史学会「フェミニズムと美術史」の第1回シンポジウムで「フェミニズムと美術史の諸問題」、93年1月には同第2回シンポジウムで「フェミニズム美術史の新地平」、94年5月の第47回美術史学会全国大会のシンポジウム「戦争と美術」では「戦争と女性イメージ」と題して発表し、美術の持つ政治的側面を鋭く突いた。95年3月には千野香織らとともにイメージ&ジェンダー研究会を設立。97年12月東京国立文化財研究所国際シンポジウム「今、日本の美術史学をふりかえる」での千野の発表「日本の美術史言説におけるジェンダー研究の重要性」をめぐって、稲賀繁美との間で美術史における「ジェンダー論争」を展開する。その後も、中国、韓国、インドといったアジア各国における視覚表象へと関心の対象を広げ、また、男女共同参画、バックラッシュに関する積極的な講演活動を行う。この間、イメージ研究とその解釈に関する『絵画を読む―イコノロジー入門』(日本放送出版協会、1993年)、『イメージを読む―美術史入門』(筑摩書房、1993年)、『イメージの歴史』(放送大学教育振興会、2000年)の他、『戦争がつくる女性像―第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房、1995年)、『岩波近代日本の美術(2)隠された視線―浮世絵・洋画の女性裸体像』(岩波書店、1997年)、『象徴としての女性像―ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』(筑摩書房、2000年。80年刊行の『寓意と象徴の女性像』の全面改訂版)、『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』(筑摩書房、2001年)、『お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(筑摩書房、2003年)、『戦争とジェンダー―戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』(大月書店、2005年)等を著わす。上記書籍のうち、『イメージを読む』、『皇后の肖像』、『戦争とジェンダー』は韓国語訳された。96年にはイタリア共和国カヴァリエーレ勲章、03年には紫綬褒章を受章。04年には戦国時代の天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』(集英社、2003年)で第31回大佛次郎賞を受賞。遺著となった『聖母像の到来』(青土社、2008年)は学位請求論文として準備されたもので、若桑の死後、多くの同学や教えを受けた研究者たちの尽力によって出版され、07年10月3日に遡って、提出先であった千葉大学より名誉博士号が授与された。ロシア文学者で東京大学名誉教授の川端香男里は実兄。なお、この他の若桑の業績に関しては、池田忍編「若桑みどり先生を送る」(『人文研究(千葉大学)』30号、2001年3月)、および「若桑みどりさんの業績一覧(暫定版)」(『イメージ&ジェンダー』9号(若桑みどり追悼特集)2009年3月)を参照されたい。『イメージ&ジェンダー』9号には、未発表論文、ブックレビュー、および各誌に掲載された若桑への追悼文なども掲載されている。

江里佐代子

没年月日:2007/10/03

 截金師で人間国宝の江里佐代子は、滞在先のフランス東北部アミアンで10月3日、脳出血のため死去した。享年62。1945(昭和20)年7月19日、京都市の刺繍工芸京繍の老舗に生まれる。64年に京都市立日吉ヶ丘高校美術課程日本画科、66年に成安女子短期大学意匠科染色コースを卒業。74年に仏師江里康慧と結婚したことで、工房に出入りする職人から技術を学び始め、夫康慧がつくる仏像に彩色や金泥をほどこした。その後、江里は、截金技法が途絶えることを危惧していた江里家の希望をくみ、78年に北村起祥のもとに弟子入りして截金の技法を学んだ。截金は、本来、仏像や仏画を荘厳する技法であるが、江里はそれを棗、香盒、筥などの工芸品に応用し、截金技法の新しいあり方を追求していった。そうした工芸品の小さな平面には、金、銀、プラチナなどの截金線や截箔が自在に組み合わされて精緻かつ可憐な文様に結実し、完結した小世界が生み出されている。自身は、あるインタビューのなかで、高校や大学では日本画家を目指したが、女流画家の道は厳しいため、身近であった工芸美術の分野に進もうと考えていたと語っている。江里がかねてから抱いていた希望と新たに習得した截金技法とが見事に結びつき、伝統技法が現代に息を吹き返したと言えるだろう。江里は、81年のアメリカ・サンタフェでの「截金展」をかわきりに個展を開き、作品を発表していった。最初の3回までは工芸の個展であったが、1990(平成2)年からは夫康慧と合同で作品を発表し始め、伝統技法の原点と発展との二つの側面が伝えられるよう努めたという。公募展にも積極的に参加しており、82年の京都府工芸美術展では、初出品にして截金彩色屏風「萬象放輝」が大賞に選ばれたのをはじめ、86年の京展には截金衝立「コスミックウェーブ」を出品し、京都市市長賞を受賞した。83年、第30回日本伝統工芸展で、截金彩色飾小筥「たまゆら」が初入選、以降、毎年連続出品した。91年、同展において、截金彩色八角筥「花風有韻」が最高賞の日本工芸会総裁賞、2001年には截金飾筥「シルクロード幻想」が高松宮記念賞を受賞した(いずれも文化庁所蔵)。この間、86年に日本工芸正会員に認定、93年には、第40回日本伝統工芸展鑑査員、また04年には第51回同展鑑・審査員を務めている。90年「心と技―日本の伝統工芸」(北欧巡回展、文化庁主催)、「江里佐代子截金展」(ドイツ・フランクフルト JALプラザ)など国外の展覧会にも出品、截金の実演を披露するなど、よりひろく截金の魅力を伝えた。2000年以降、江里は、次々と截金の新たな展開と可能性を追求していった。頻繁に使用される香盒や棗などには、金箔が矧がれるのを防ぐために截金と漆芸を融合させた技法を応用。また、公共施設などの壁面装飾やスクリーンなどの大規模な作品にも、意欲的に取り組んだ。2000年には第13回京都美術文化賞受賞、02年に重要無形文化財「截金」保持者(人間国宝)に認定されたが、当時最年少での人間国宝認定であった。同年、第22回伝統文化ポーラ賞、03年第21回京都府文化賞功労賞、06年京都市文化功労者受賞ほか受賞多数。05年「金箔のあやなす彩りとロマン―人間国宝江里佐代子・截金の世界展」(佐野美術館ほか巡回)を開催した。07年、イギリス・大英博物館で開催された展覧会「Crafting Beauty In Modern Japan」で截金の実演と講演を行い、その後、次作研究のために訪れたフランス・アミアンで急逝。アミアン大聖堂を訪問直後のことだったという。

髙山辰雄

没年月日:2007/09/14

 日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。1912(明治45)年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しむ。1930(昭和5)年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受け、31年東京美術学校日本画科に入学する。33年松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品し、翌34年、在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。36年卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業した。37年、映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加、40年同会解散後、41年旧会員を中心として新たに一采社を結成する。また43年川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続く。戦後、46年春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受ける。46年秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。続いて49年第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていく。51年第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。次いで53年第9回日展「月」、54年第10回「朝」、56年第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。59年第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞し、65年には64年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。62年第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフとし、69年第1回改組日展「行人」、72年第4回「坐す人」、74年第6回「冬」、75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開し、その後77年第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」、81年第13回日展「二人」、83年同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。73年には個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、85年、2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。70年日本芸術大賞を受け、72年日本芸術院会員、79年文化功労者となり、82年文化勲章を受章した。59年日展評議員となってのち、69年同理事、73年常務理事、75年理事長(77年まで)となり、82年東京芸術大学客員教授となる。87年から『文芸春秋』の表紙絵を担当(99年まで)。89年東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼ぶ。90年平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。93年「聖家族 1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示す。95年には海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。99年、構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては80年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、84年に山種美術館、87年に世田谷美術館、89年に東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館、98年にメナード美術館、2000年に日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回)、04年に茨城県近代美術館で開催。没後の08年には練馬区立美術館で遺作展が開催されている。

小林斗盦

没年月日:2007/08/13

 篆刻家で日本芸術院会員、日展顧問の小林斗盦は8月13日午後9時頃、心不全のため東京都千代田区の自宅で死去した。享年91。1916(大正5)年2月23日埼玉県川越市に生まれる。本名庸浩(ようこう)。小学校5年の時、手工の授業で蝋石に印を刻らされたことから印に興味を持つ。くわえて書が好きだったことから、1931(昭和6)年書法を比田井天来、篆刻を石井雙石に師事。37年東方書道会展に初出品、38~42年特選受賞。41年河井荃廬に篆刻を学び、45年より西川寧に師事。48年第4回日展に「摩苔除菊蠧移蘭飴」が初入選、50年第6回日展、59年第2回新日展では特選を受賞。この間、49年加藤常賢に文字学、漢籍、53年太田夢庵に中国古印学の指導を受ける。古典に対する知識研究がなければ篆刻とはいえないと主張し、早くから古印の研究に着手。日本現存の中国古印を探訪するとともに、古銅印譜の蒐集に傾注。67年には東洋文庫での講演「漢代官印私見」で、「漢委奴国王」金印の真偽論争に終止符を打つ。また近代中国の印学を究め、明代から近代までの名印を集大成した『中国篆刻叢刊』40巻の編集を担当、中国でも高く評価され、研究者に大きな影響を与えた。制作においても“実事求是”に基づく、高い知性と新しい風格を備えた篆刻の美は中国近代篆刻の正統に連なるものであり、76年改組第8回日展で「大象無形」が文部大臣賞、84年には「桑遠能邇」(1983年、改組第15回日展出品)により日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年日展理事に就任。85年中国杭州の印学団体である西冷印社名誉理事に推薦。1990(平成2)年日本篆刻会(93年全日本篆刻連盟と改称)結成、初代会長に就任。93年篆刻家で初の日本芸術院会員となる。94年北京で初個展(中国美術館)。98年文化功労者となり、2004年に篆刻家として初めて文化勲章を受章。晩年、長年収集した中国稀覯印譜及び篆刻資料423件を東京国立博物館に寄贈した。編著書に『篆書千字文』(二玄社、2000年)、『篆刻全集』(二玄社、2001~02年)等がある。

髙橋榮一

没年月日:2007/08/07

 西洋中世美術史研究者で早稲田大学名誉教授であった髙橋榮一は、8月7日、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。享年75。1932(昭和7)年2月5日、大分県杵築市に生まれる。56年早稲田大学第一文学部卒業、同大学院修士課程入学、その後同大学院博士課程、59年同大学文学部助手を経て、64年同学部専任講師、67年同学部助教授となり、74~2002(平成14)年の29年間にわたり同学部教授を務めた。98~2002年には同大学會津八一記念博物館長も兼務した。2002年3月に同大学を定年退職、同年4月に同大学名誉教授となった。学部・大学院学生時代にはロマネスク彫刻を中心とした研究を行い、12世紀ロマネスク着衣像の特色の一つである衣襞表現の多様な表現形式に着目し、装飾写本挿絵を参考にしながらその様式展開を明らかにした。大学院では西洋美術史家・板垣鷹穂に師事し、その後生涯を通じてビザンティン美術についての研究を深めた。千年の歴史を有するビザンティン帝国の美術は、西洋美術史の形成に大きな役割を果たしているにもかかわらず、波乱に満ちた帝国の状況と滅亡後の政治・宗教の激変により現存作例が少ないために、研究上の難題を宿命的に抱えている。髙橋の研究の基盤は数々の現地調査によって形成され、ギリシアなど地中海地域のみならず、ビザンティン美術の流れを汲むロシアや東欧スラブ諸国など広域をその対象としていた。地理的あるいは社会経済的にも孤絶した各地の美術は、日本ではもちろん、当時は西洋でも研究が十分に進められておらず、こうした分野に実践的な美術史研究の光をあてた功績は大きい。68年に早稲田大学ソ連・東欧美術調査隊隊長として渡欧、74~5年にはギリシア政府招聘研究員として現地に滞在、アトスをはじめ各地のビザンティン遺蹟の調査を行った。また80~81年にはギリシア・カストリアを対象として「ギリシア中世教会堂壁画調査」(早稲田大学の科研調査)を実施した。これらの調査研究活動は下記の公刊書籍等にまとめられている。 訳著R.マルタン『ギリシア(世界の建築)』(美術出版社、1967年) 共編著『ビザンティンの世界(世界の文化史蹟11)』(講談社、1969年) 編著『ローマ(世界彫刻美術全集5)』(座右宝刊行会、1976年) 編著『初期キリスト教・ビザンティン(週刊朝日百科36)』(朝日新聞社、1978年) 編著『ロシアの聖堂』(講談社、1980年) 編著『聖山アトス(世界の聖域13)』(講談社、1981年) 編著『ビザンティン美術(世界美術大全集 西洋編6)』(小学館、1999年) 髙橋は、現地で作品と真摯に向き合う研究スタイルを終始堅持し、後進の育成・指導においても尽力した。没後、早稲田大学美術史学会より遺稿集『ビザンティンへの船出』(2007年)が編集・刊行されている。

深見隆

没年月日:2007/07/29

 洋画家の深見隆は7月29日、心筋梗塞のため神奈川県川崎市の病院で死去した。享年80。1926(大正15)年10月22日、長崎県壱岐郡に生まれる。1952(昭和27)年、第7回行動美術協会展(以後、行動展と記す)に、半抽象的な表現による「造船所」が初入選。以後、同展に出品を続ける。54年2月、第1回四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を養清堂画廊で開催。55年1月、行動四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を上記画廊にて開催、同年、10回行動展に「人間の風景(A)」、「人間の風景(C)」を出品、これにより行動美術新人賞を受賞、会友に推挙される。56年1月、第7回朝日新聞社選抜秀作美術展(会場、日本橋三越)に出品、同年2月、朝比奈隆と前川桂子とともに3人展を村松画廊で開催。また同年の第11回行動展に「孤独の部屋」外2点を出品、これにより行動美術賞を受賞。57年2月、田中稔之、朝比奈隆、前川桂子とともに村松画廊にて4人展を開催。59年、行動美術協会の会員となる。60年、「風化」により第4回安井記念賞を受賞。同作品(東京国立近代美術館蔵)は、多層的でニュアンスに富んだマチエールにおおわれた画面の中央に鋭い亀裂が走り、同時代の心象風景を思わせる表現であった。受賞の際に語られた作者自身の言葉の一節をつぎに引用しておきたい。「私は、長崎の壱岐の小島に生れましたので、子供の頃、海というものが、私達の生活とは切り離せない、むしろ、生活の殆どといってもいい程の親しみをもっていました。荒浪にたたかれ、蝕まれた海岸で、貝を拾ったり、白砂の上に打ち上げられた、魚介の残骸を無心に眺めたりした頃の事を、今も忘れることが出来ません。制作の途中で、ふっと、思い浮かべ、何かしら和やかな郷愁を憶えます。此の度の『風化』も、これと共通な、風雨にさらされ、傷めつけられながらも、いかにも忍耐強く、しかし決して烈しくなく、力まず、てらわず、それでいて厳しさを秘めた、壁や、岩石の中に、豊かな、つきることのない、詩情を感じたので、私には到底充分表現するだけの力はありませんが、いくらかでも自然の秘密に近づければ、と思って描きました。」(「受賞にあたり」、『現代の眼』74号、1961年1月)ここで語られた自然に対する取り組みは、その後も変ることがなかったが、70年代から画面に円環が象徴的に描かれるようになった。そうした作品のシリーズである「条紋」について、当時作者は、「きびしい自然環境に長い間ひっそりと耐えている姿に、限りない豊かな詩情を感じます。只製作する場合、情感におぼれると構成の厳しさが失われがちになるので、自分の中で再構築して描くように心掛けてはいますが。情感と構成がお互いに密度を深め、響き合う作品をと願っているのです」(「コメント「条紋(A)<私の制作意図>」『美術グラフ』(27巻9号、1978年10月)と語っている。この円環のモチーフは、以後一貫して画面上で追求され、「石紋」のシリーズに展開していった。82年11月、ギャラリー・ジェイコで「深見隆自選展」を開催。2007(平成19)年9月、第62回行動展への「石紋(環)」が最後の出品となり、没後の翌年9月の第63回展には、遺作として「石紋」が出品された。

久野健

没年月日:2007/07/27

 仏教彫刻史研究者の久野健は7月27日午前2時58分、膵臓がんで東京都新宿区内の病院で死去した。享年87。  久野は1920(大正9)年4月19日に久野亀之助の三男として東京府下滝野川田端に生まれた。1942(昭和17)年3月に水戸高等学校を卒業し、同4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。44年9月には同大学院に進学するも翌年5月31日付で中退し、同日に文部省美術研究所に助手として採用。52年4月には東京文化財研究所の組織規定にともない同研究所美術部文部技官となる。67年2月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、69年4月には同所美術部第一研究室長に昇任。78年4月には同所情報資料部の初代部長に就任。82年3月に退官。退官後は自宅に隣接して仏教美術研究所を設立・主宰し、同学を志す若い研究者に開放し、若手の育成を行った。久野の研究が戦後日本の仏教彫刻史を牽引したことは衆目の認めるところである。ことに長く在籍した美術研究所から東京国立文化財研究所時代の研究では、仏像のX線透過撮影を推し進めるとともに、その成果を踏まえながら卓抜した彫刻史のビジョンを示した。すなわち、『日本霊異記』の記述と照らし合わせて平安初期の木彫像の発生およびその支持推進が民間の私度僧による造像にあったことを提唱し、この学説は多少の修正は加えられながらも今日でも支持されている。また、都鄙を問わず現地での調査研究を行ったことも研究の特色であり、成果の公表は『美術研究』を中心に行われ、『東北古代彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1971年)や『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年)といった大著として結実している。さらに、上述の光学的研究手法を援用しながらの研究は、金銅仏を中心とする古代彫刻研究の分野では、76年の『押出仏と磚仏(日本の美術118)』(至文堂)、78年の『白鳳の美術』(六興出版)、79年の『古代朝鮮仏と飛鳥仏』(東出版)などへと結実し、中世彫刻の分野では、静岡・願成就院および神奈川・浄楽寺の作例群が運慶作であることを解明したことも大きな成果である。研究活動と並行して教育普及活動にも携わり、美術研究所着任の二年後の47年4月からは女子美術学校(現在の女子美術大学)において日本美術史を講義する(同校での講義は67年3月まで続いた)とともに、62年に新潟大学をはじめとして、その後も名古屋大学、東京大学、静岡大学、東京芸術大学で日本彫刻史を講義した。76年6月には東京大学より文学博士の称号授与を受けた(博士論文は『平安初期彫刻史の研究』)。この他にも編集委員を多く引き受け、56年には『図説日本文化史大系』全13巻(小学館)、66年には『原色日本の美術』全30巻(小学館)、68年には『日本の歴史』全13巻(読売新聞社)、79年には『図説日本文化の歴史』全13巻(小学館)の刊行に携わり、79年の『日本古寺美術全集』全25巻(集英社)、86年からの『仏像集成』(学生社)には監修として名を連ねた。

岡本彌壽子

没年月日:2007/06/25

 日本画家で日本美術院同人の岡本彌壽子は6月25日午前4時30分、老衰のため死去した。享年98。1909(明治42)年7月16日、東京青山に生まれる。1926(大正15)年東京府立第三高等女学校本科卒業。1930(昭和5)年女子美術専門学校高等師範科を卒業し、奥村土牛に師事、翌31年土牛の紹介で小林古径に入門する。34年第21回院展に「順番」が初入選し、以後終戦までの約10年間は横浜共立学園教諭として美術を教えながら制作、院展に出品を続ける。戦後は画業に専念。51年第36回「花供養」、52年第37回「秋雨」で奨励賞、53年第38回「無題」(後に「歩道」と改題)は佳作、55年第40回「猫と娘たち」、57年第42回「夕顔咲く」、60年第45回「聖夜の集い」、61年第46回「千秋」で奨励賞を受賞、62年第47回「初もうで」で日本美術院次賞を受賞。この間57年に小林古径が死去し、以降は再び奥村土牛に師事。さらに64年第49回「みたまに捧ぐ」、65年第50回「無題」(後に「集う」と改題)がいずれも奨励賞を受賞。67年第52回「花供養」は日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。日常的な出来事を背景にした女性をテーマに、女性的な淡い色彩と繊細な描線からなるナイーブな画風を展開し、76年第61回「夢のうたげ(1)」は内閣総理大臣賞を、86年第71回「折り鶴へのねがい」は文部大臣賞を受賞した。88年に回顧展を横浜市民ギャラリーで開催。1992(平成4)年横浜文化賞、97年神奈川文化賞を受賞。

白鳥映雪

没年月日:2007/06/15

 日本画家で日本芸術院会員の白鳥映雪は6月15日、心筋梗塞のため長野県小諸市の病院で死去した。享年95。  1912(明治45)年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現、小諸市)の農家に生まれる。本名九寿男。1932(昭和7)年周囲の反対を押し切って上京し、遠縁にあたる水彩画家丸山晩霞の紹介で伊東深水の画塾に入門、美人画を学ぶ。夜間は川端画学校、本郷洋画研究所でデッサンを学んだ。深水や山川秀峰らが結成した日本画院展に39年「母と子」が入選したのち、40年から41年にかけて報知新聞社委嘱特派員を兼ね従軍画家として中国に渡る。43年第6回新文展に「生家」が初入選。戦後47年より日展に出品。50年第6回「立秋」が特選・白寿賞となり、57年第13回「ボンゴ」が再び特選・白寿賞を受賞する。その後も美人画や人物群像を中心に制作しながら、仏像と美人画を組み合わせた72年第4回改組日展「掌」、74年同第6回「追想(琉球ようどれ廟)」などを制作。86年には名古屋の尼僧堂に参禅して取材した「寂照」を第18回展に出品して内閣総理大臣賞を受賞。この間65年日展会員、82年評議員となる。女性の人物画を中心に清新な作品を数多く残した。また51年新橋演舞場での日本舞踊「大仏開眼」をはじめ、5年間にわたり舞台考証を手がけ、66年林芙美子の小説挿絵(『現代日本文学館』30 文芸春秋)を描いた。85年佐久市立近代美術館で「日本画の歩み50年―白鳥映雪展」が開催。晩年はとくに能楽をテーマにした作品を発表し、1994(平成6)年には前年制作の「菊慈童」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。97年に日本芸術院会員となる。2003年には脳梗塞で倒れ右手が使えなくなるものの、左手で再起をはかり日展への出品を続けた。故郷の長野県小諸市には、代表作を展示する市立小諸高原美術館・白鳥映雪館がある。

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