本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





金城次郎

没年月日:2004/12/24

 陶芸家で、「琉球陶器」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された金城次郎は、12月24日午後10時45分、心筋こうそくのために死去した。享年92。1911(明治44)年、沖縄県那覇市に生まれる(入籍は翌年)。25(大正14)年、那覇市壺屋の名工新垣榮徳に師事。この年、新垣を通じて生涯交流を続けた陶芸家浜田庄司と出会う。金城は戦前、沖縄の伝統的な工芸を評価した柳宗悦の民藝論の薫陶を受け制作に励んだという。1939(昭和14)年、雑誌『工藝』第99号以降、同誌でしばしば紹介される。45年召集され、読谷で飛行場建設、その後壺屋の東窯で軍需品の製作に従事する。恩納村で捕虜となり、石川の収容所に収容される。同年11月、陶器製造先遣隊の一員として壺屋に帰る。46年壺屋で米軍よりかまぼこ形兵舎を払い下げて工房を開く。窯は新垣榮徳の登り窯を共同使用した。51年、戦後窮乏した壺屋の陶工を救うべく、浜田庄司ら民芸関係者の尽力により開催された第1回琉球民藝展(於東京、日本民藝協会主催)に出品。54年第6回沖縄美術展覧会(沖展)工芸部門新設に伴い新垣栄三郎、小橋川永昌と出品。この年、新垣と第1回陶芸二人展開催。55年、第29回国画会公募展(国展)初入選。この頃、益子(栃木)、龍門司(鹿児島)の窯を訪問、その後丹波、九州などの窯を機会あるごとに視察。56年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」が新人賞、57年第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞、同年、国展推薦新会友となる。この年、ルーマニア国立民芸博物館に作品が永久保存される。64年第18回全国民芸大会が沖縄で開催され、浜田庄司、バーナード・リーチが壺屋を訪問。66年明治神宮例大祭奉祝第4回全国特産物奉献式に「長型花瓶」奉納。67年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞、日本民藝館展入選。69年リーチの再訪を受ける。同年、第43回国展会友優秀賞受賞。この年、壺屋の登窯から出る煙が公害問題として表面化、壷屋の陶工ら、窯の使用回数を減らす。71年第1回日本陶芸展入選。72年、煙害から読谷村字座喜味に移り、初めて自分の登窯を開く。同年、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定。73年、国画会会員となる。77年、現代の名工百人に選ばれる。78年末、脳血栓で倒れ、約4か月間静養後、手足に麻痺が残るが復帰。81年、勲六等瑞宝章受章。85年、「琉球陶器」の技法により、沖縄で初めて重要無形文化財保持者に認定された。2003(平成15)年、那覇市立壺屋焼物博物館にて「壺屋の金城次郎」展開催。卓越した轆轤の技術、線彫、指描などあらゆる壺屋の伝統的な技法を駆使し、壺屋に伝わる伝統的な器形、文様に基きながら、工夫を凝らしてバリエーション豊かな作品へと昇華させ、素朴で親しみやすい日常陶器を生涯作り続けた。躍動感溢れる魚文、海老文の線彫文様は特によく知られ、浜田庄司は、金城以外に魚や海老を笑わすことは出来ないと絶賛したという。作品集に、『金城次郎の世界』(沖縄タイムス社・読谷村、1985年)、『琉球陶器 金城次郎』(琉球新報社、1987年)、『人間国宝 金城次郎のわざ』(宮城篤正/源弘道監修、朝日新聞社、1988年)、『沖縄の陶工人間国宝金城次郎』(日本放送協会出版、1988年)、著書に『壺屋十年』(上村正美監修・構成、用美社、1988年)がある。

吉田文之

没年月日:2004/12/19

 工芸家の吉田文之は12月19日午後9時50分、肺炎で死去した。享年89。 1915(大正4)年奈良県奈良市に生まれ、16歳より父・吉田立斎に師事して撥鏤や螺鈿など漆芸全般技術を修業した。1935(昭和10)年の入隊から11年間は中断を余儀なくされたが、復員後にふたたび制作に戻り、32歳で独立。以来、撥鏤の制作と研究に専念し、この技術を伝承する国内唯一の工芸家であった。64年日本伝統工芸展に出品、以来同展を中心に香合、小箱、帯留など数々の作品を発表した。撥鏤は成形した象牙を紅・紺・緑色などに染め、細かな陰刻を施す。手前から向こうへ撥ねるように彫るところから「撥ね彫り」とも呼ばれ、彫りの浅深に応じて線に抑揚が生じ、色にも濃淡がもたらされる。また、染料は象牙の上層に留まるため、刻んだ跡に素地の白が冴えて、彩色部分との対比も美しい技法である。彫られた箇所にさらに顔料で色を加えれば華やかさが増し、繧繝の効果も得られる。中国唐代に盛行し、日本へは奈良時代に伝わって正倉院宝物にも作例が見られるが、平安以降衰亡した。明治期、正倉院宝物の復元修理に父の立斎が従事して古代の技術復興を果たしたのである。吉田も修業時代に父の助手として復元修理に参加。自らも78年と83年に宮内庁の依頼により正倉院宝物で「東大寺献物帳」に記述があった紅牙撥鏤尺、紅牙撥鏤撥を復元した。吉田は染まりにくい象牙に熱による変質をできるだけ抑えながら美しい色を呈するために染色工程に工夫を重ね、ぼかしの効果や工具の考案など撥鏤技法をつねに探求し続けた。繊細さを活かしたブローチやペンダントなど現代的な装身具にも積極的に取り組んだが、伝統的な意匠のほか、宇宙や北極の景色など斬新な表現も試みていた。85年4月13日 重要無形文化財「撥鏤」の保持者に認定。

南桂子

没年月日:2004/12/01

 銅版画家の南桂子は、12月1 日午後6時58分、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年93。本名浜口桂子。1911(明治44)年2月12日、富山県射水郡に生まれる。1928(昭和3)年、富山県立高岡高等女学校を卒業。45年、34歳で東京に移り住み、佐多稲子の紹介で壺井栄に童話を学んだといわれる。49年、第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品(出品者名は竹内桂子)。同年油絵を師事した森芳雄のアトリエで浜口陽三と出会う。50年、第2回日本アンデパンダン展、第14回自由美術展に出品する。51年第5 回女流画家協会展に「風景」を出品。その後も同会には52年、53年、55年、56年(出品目録の記載は南佳子)に出品したほか、日本アンデパンダン展(51年、52年)や自由美術展(51年から53年)に、主に油彩画を出品した。52、53年は朱葉会(連立4回と5回)にも出品。53年には東京の丸善画廊で吉田ふじを・友田みね子・南桂子三人展を開催している。54年渡仏、パリでは浜口陽三とともに暮らし、フリードランデルの版画研究所でアクアチントを学ぶようになる。54年に第18回自由美術展に銅版画「占い師」「小鳥と少女」を出品。翌55年、自由美術家協会会員に推される。同年の日本アンデパンダン展にも銅版画を出品した。56年、フランス文部省がアンデパンダン展に出品した「風景」を買い上げる。58年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された。パリにいながら自由美術展には22回まで出品を続ける。50年代末から70年代にかけては東京やリュブリアナの国際版画ビエンナーレ、タケミヤ画廊での銅版画展、国内外で開催される日本の現代版画を扱う展覧会にも多数出品している。この時期、個展はニューヨークやサンパウロ、ハイデルベルグなど各地で開かれ、浜口との二人展を含めて国内でも多数の発表の機会を持った。また、日本版画協会展(59年27回、64年32回、65年33回、66年34回、82年50回)、現代日本美術展(60年4回、64年6回、66年7回、68年8回)、日本国際美術展(61年6回、63年7回、65年8回、67年9回)、国際形象展(69年8回から72年11回まで)などにもパリから出品している。61年から81年まで、パリの画廊と専属契約を交わす。81年にはサンフランシスコに移り、日本に帰国したのは1996(平成8)年だった。南は、硬質な線を用いて少女や樹木、鳥などのモチーフを繰り返し描き、陰影を伴わない静謐で幻想的な空間を作り出した。神奈川県立近代美術館で61年にフリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展が開かれたほか、90年には高岡市美術館で個展が開催された。浜口陽三との二人展は、高岡市美術館では95年に、また練馬区立美術館では2003(平成15)年に、01年には高岡市美術館で宮脇愛子との二人展が開催されている。また、98年には東京・日本橋蛎殻町に美術館「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南作品も常設展示される。05年4月には同館で追悼展、06年4月南桂子―bonheur―展が開かれている。70年に谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』の装画を手がける。作品集は、手のひらに収まる『限定版南桂子の世界 空・鳥・水…』(美術出版社、1973年)のほか、『南桂子全版画作品集』(中央公論美術出版、1997年)、『南桂子作品集 ボヌール』(リトルモア、2006年)がある。

吉井淳二

没年月日:2004/11/23

 洋画家で長く二科会理事長を務めた吉井淳二は、11月23日午後2時23分、肺炎のため鹿児島市内の病院で死去した。享年100。1904(明治37)年3月6日、鹿児島県曾於郡末吉町に生まれる。県立志布志中学の二年時に画家になることを決意し、三年時には油絵の道具一式を与えられる。1922(大正11)年、中学の卒業式を待たず、同級生で生涯の友となった海老原喜之助と上京、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学ぶ。24年東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ三年時には第3回白日会展で白日賞を受賞したほか、第13回二科展には「静物」「花と女」が初入選する。24年第5回展から入選を続けた中央美術展では、1928(昭和3)年第9回展で中央美術賞を受けている。同年には橋本八百二、堀田清治と三人展を開催したほか、翌29年東京美術学校を卒業すると、内田巌、新海覚雄らと鉦人社を結成し第1回展を開いた。同年有島生馬を訪ね、以後指導を受ける。同11月フランスに渡り、海老原と再会する。パリを拠点にイギリス、オランダ、イタリアなどに旅をする。32年帰国し、第19回二科展に滞欧作を特別出品する。初入選以降、二科会には、滞欧中の第17、18回展をのぞいて2004(平成16)年まで連続して出品した。同会では35年会友、40年会員になる。45年10月の二科会再興の呼びかけに応え再建に参加、翌年9月の31回展に「菅笠の娘」「菜園にて」を出品。61年二科会に理事制が設けられ、理事のひとりとなる。65年、前年の二科展出品作「水汲」などに対して日本芸術院賞を、二科展では68年東郷青児賞、69年内閣総理大臣賞を受ける。78年4月の二科会会長・東郷青児の死去後、翌79年同会を社団法人化した後に北川民次を継いで理事長に就任、98年まで努めた。二科会のほかには、33年に鉦人社を前身とする新美術家協会の5回展にも出品。40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品。また、百貨店や画廊で個展を開催したほか、太陽展、日動展などにも出品。90年には鹿児島市立美術館でも展覧会を開催した。一方、46年には海老原とともに南日本新聞社主催で南日本美術展を興し、審査員となり後進の育成にも努めている。この間、45年杉並区南荻窪から郷里に疎開、その後杉並の家が焼けたため作品の多くを失う。51年、鹿児島から荻窪へ再び住まいを移している。65年ヨーロッパへ作品制作の旅行をしたほか、75年の日伯美術展を機にブラジルを訪れ、以後たびたび南米に足を運ぶ。頭巾をかぶり頭上に荷をのせた労働する女性をよく題材にし、その取材対象は内外の市場から水汲みの光景まで多岐にわたった。それらを、写実を基にしつつも簡略化した線と明るい色彩で描いた。58年南日本文化賞、76年日本芸術院会員、77年勲三等瑞宝章、85年文化功労者、89年文化勲章を受けている。92年、鹿児島県加世田市に開いた特別養護老人ホームに隣接する吉井淳二美術館を開館。最晩年は自らも加世田に暮らした。

柳原義達

没年月日:2004/11/11

 新制作協会会員で文化功労者の彫刻家柳原義達は11月11日午前10時7分、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年94。 1910(明治43)年3月21日、神戸市栄町6丁目に生まれる。1928(昭和3)年3月兵庫県立神戸第三中学校(現、長田中学校)を卒業。在学中、神戸第一中学校の教師で日本画家村上華岳の弟子であった藤村良一(良知)に絵を学び、卒業後、京都に出て福田平八郎に師事するうち、『世界美術全集 33巻』(平凡社、1929年)に掲載されていたブールデル「アルヴェル将軍大騎馬像」の図版に感銘して、彫刻家を志す。31年上京して小林万吾の主宰する画塾同舟舎に学び、同年東京美術学校彫刻科に入学。朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らが指導にあたっていたが、高村光太郎、清水多嘉示らに強い影響を受ける。同期生には峰孝、日本画の髙山辰雄、洋画の香月泰男らがおり、3期下の彫刻科に佐藤忠良、舟越保武がいた。東京美術学校在学中の、32年第13回帝展に「女の首」が入選。33年第8回国画会展に「女の首」で入選し国画奨学賞を受賞する。以後同展に出品を続ける。36年3月東京美術学校を卒業。37年スタイル画家小島操と結婚。同年第12回国画会展に「立女(女)」「坐像(女)」を出品して同会同人に推挙される。39年第14回国画会展に「R子の像」「山羊」を出品し国画会賞を受賞するが、同年、本郷新、吉田芳夫、佐藤忠良、舟越保武らとともに同会を脱退し、新制作派協会彫刻部の創立に参加、以後同会に出品を続ける。46年佐藤忠良とともにそれまでの作品を預けていた家が火災にあい、戦前までの作品を焼失。その喪失感と敗戦および敗戦直後の世相に感ずる屈辱感などを背景に、「レジスタンスという言葉の意味をより深く表現しようと思う私の姿であるかも知れない」(『孤独なる彫刻』、筑摩書房、1985年)と後に柳原が語る「犬の唄(シャンソン・ド・シャン)」を制作し、50年第14回新制作派協会展に出品。51年2月、戦後初めて欧州芸術の新動向を紹介するサロン・ド・メ東京展が開催され、その出品作に衝撃を受ける。同年板垣鷹穂、笠置季男らとともに小野田セメント後援の日比谷公園野外彫刻展に際して結成された「白色セメント造型美術会」に参加し、野外彫刻を作成する機会を得る。53年末、版画家浜口陽三と同じ船で渡仏し、グラン・ショーミエールでエマニュエル・オリコストに師事。それまでに学んだ日本近代のアカデミックな彫刻を捨て、「平面的な自分の目を立体的な量の目にすること」(柳原義達「反省の歴史」『美術ジャーナル』24、1961年9月)に努力する。この間、パリに滞在していた建畠覚造、向井良吉らと交遊。57年帰国。58年第1回高村光太郎賞を受賞。また第3回現代日本美術展に「座る(裸婦)」を出品して優秀賞を受賞。60年前後には、鉄くずを溶接した「蟻」や川崎市の向ケ丘遊園のモニュメント「フラワー・エンジェル」など、抽象彫刻も手がける。65年動物愛護協会から動物愛護のためのモニュメント制作を依頼され、烏や鳩をモティーフとした制作を始める。以後、これらのモティーフは柳原自身によって自画像と位置づけられ、自らの人生の足跡と重ねあわせた「道標」としてシリーズ化され、晩年まで繰り返し制作されることとなる。66年第7回現代日本美術展に「風と鴉」を出品。70年神戸須磨離宮公園第2回現代彫刻展に「道標・鴉」を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞。同年菊池一雄、佐藤忠良、高田博厚、舟越保武、本郷新らとともに六彫展を結成し、第一回展を現代彫刻センターで開催した。74年「道標・鳩」で第5回中原悌二郎賞を受賞。83年神奈川県立近代美術館ほかで「柳原義達展」を開催。84年イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダを旅行。70年代80年代には、現代日本彫刻展(宇部市)、神戸須磨離宮公園現代彫刻展、彫刻の森美術館大賞展、中原悌二郎賞などの審査委員をつとめる。1993(平成5)年東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で「柳原義達展」を開催。94年この展覧会によって第35回毎日芸術賞を受賞。95年宮城県美術館から全国8館を巡回する「道標-生のあかしを刻む 柳原義達展」を開催。99年三重県立美術館、神奈川県立近代美術館で「柳原義達デッサン展」を開催。2000年世田谷美術館で「卒寿記念 柳原義達展」が開催された。02年宇部市に柳原義達・向井良吉作品展示コーナーが設置され、03年、作家自身から主要作品と関連資料の寄贈を受けて、三重県立美術館に柳原義達記念館が開設された。柳原は、日本近代彫刻のアカデミズムから発し、1950年代60年代に造形の世界を襲った抽象の嵐の中にあっても、形態の抽象化の本質を見極めて具象に留まり、「自然の動的組みたてを探る」ことに文学や絵では表現できない彫刻特有の性質を見出して、生に対する深い思索を立体に表す試みを続けた。68年日本大学芸術学部美術学科講師、70年同主任教授とり、80年に退任するまで長く後進の指導にあたり、学生時代からの友人である佐藤忠良、舟越保武らとともに日本の具象彫刻界の精神的支柱として、指針を示し続けた。作品集に『柳原義達作品集』(現代彫刻センター、1981年)、『柳原義達作品集』(講談社、1987年)、『札幌芸術の森叢書 現代彫刻集 Ⅷ 柳原義達』(札幌芸術の森、1989年)、『柳原義達作品集』(三重県立美術館、2002年)、著書に『彫刻の技法』(美術出版社、1950年)、『ロダン』(ファブリ世界彫刻集5、平凡社、1971年)、『彫塑2 首と浮彫』(美術出版社、1975年)、美術論集『孤独なる彫刻』(筑摩書房、1985年)がある。

佐藤太清

没年月日:2004/11/06

 日本画家の佐藤太清は11月6日午後7時50分、多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年90。1913(大正2)年11月10日、京都府福知山市に生まれる。本名實。早くに両親が病没し、近所の梶原家で育てられる。1931(昭和6)年東京の親戚を頼って上京。川端画学校や太平洋美術学校に通った後、33年児玉希望に内弟子として入門、雅号を「太清」とする。希望の「花鳥をやれ」という指導に従って研鑽を重ね、入門後十年を経た43年第6回新文展に「かすみ網」が初入選。45年板橋区大谷口に転居し、以後没するまで同地にて制作を行う。46年第2回より日展に出品し、47年第3回日展で「清韻」が特選となった。48年第4回日展に「幽韻」を出品し、52年第8回日展で「睡蓮」が再び特選を受賞。ルドンを愛好し、叙情的な自然景の表現を指向する。この間師希望の国風会と伊東深水の青衿会が発展的解消をとげた50年の日月社結成に際しては委員をつとめ、52年の同会第3回展で「雨の日」が受賞、61年の解散まで毎回出品した。55年第11回日展「冬池」など抽象風の作品も発表した後、58年第1回新日展「立葵」、59年第2回「寂」、64年第7回「花」、65年第8回「潮騒」など、装飾的な花鳥画を制作。66年第9回新日展で「風騒」が文部大臣賞となり、翌年同作品により日本芸術院賞を受賞した。同年上野不忍池弁天堂格天井および杉戸絵を制作。80年第12回改組日展に「旅の朝」を発表して以降、81年第13回「旅の夕暮」、83年第15回「最果の旅」など“旅シリーズ”の作品を発表する。生涯を通じ、とくに花鳥画と風景画を融合させた内面性の強い作風は“花鳥風景”として高く評価された。60年日展会員、65年評議員、71年理事、75年監事、80年常務理事、83年事務局長、85年理事長に就任、また80年に日本芸術院会員となった。84年銀座松屋ほかで「佐藤太清展」が開催。88年文化功労者となる。1992(平成4)年文化勲章受章。93年には故郷福知山市の名誉市民に選ばれた。2004年の逝去にあたっては板橋区文化・国際交流財団より区民文化栄誉賞が贈られた。板橋区立美術館では1994年に文化勲章受章記念展、2006年に遺作展を開催している。

高橋介州

没年月日:2004/10/29

 金工家で、日展参与の高橋介州は、10月29日午後0時13分、肺炎のため死去した。享年99。1905(明治38)年3月、石川県金沢市木ノ新保生まれ。本名、勇。1924(大正13)年金沢市の県外派遣実業実習生として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の聴講生となり海野清に師事、彫金技法を学ぶ。1929(昭和4)年、金沢市産業課の金属業界指導員となる。また同年、第10回帝展に初入選し、以後、帝展、新文展に入選を重ね、戦後は日展に出品を重ねる。48年には日展会員となる。そして、62年には日展評議員となり、80年には参与となる。作家活動の一方で、41年には石川県工芸指導所所長となり、62年からは石川県美術館館長をつとめた(71年3月まで)。そして、75年には加賀金工作家協会を結成し、会長として、若手作家の育成につとめた。76年勲四等瑞宝章受章。82年には加賀象嵌技術保持者として石川県無形文化財に認定された。動物や鳥などをモチーフとした香炉に、石川県の伝統的な彫金技法「加賀象嵌」の技術をいかして模様をあらわした装飾性豊かな作品を制作した。

佐藤多持

没年月日:2004/10/21

 日本画家の佐藤多持は10月21日午前6時40分、心不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年85。1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。

土谷武

没年月日:2004/10/12

 彫刻家で新制作協会会員の土谷武は、10月12日、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年78。1926(大正15)年10月11日、京都府京都市に生まれる。生家の土谷家は、清水七兵衛を先祖とし、「瑞光」の窯名で代々製陶業を営んでいた(3代瑞光は、28年生まれの実弟稔が継ぐ。)。1939(昭和14)年4月、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。44年3月、同校補修科を修了した後、4月に東京美術学校彫刻科塑像部に入学。49年3月に同校卒業、同年世田谷区宮坂に友人たちと共同アトリエ「アトリエ・ド・ムードン」を建て制作する。この頃より、柳原義達と交流を深め、その親交は生涯にわたった。57年4月、日本大学芸術学部美術学科非常勤講師となる、また同年新制作協会会員となる。61年から63年までフランスに留学。68年に多摩美術大学美術学部彫刻科教授となる(73年まで)。75年4月、日本大学芸術学部芸術研究所教授となり、80年から同大学同学部教授となる(96年まで)。79年8月、第1回ヘンリー・ムーア大賞展(箱根、彫刻の森美術館)に招待出品し、優秀賞を受賞。83年10月、第17回サンパウロ・ビエンナーレに出品。大学における後進の指導と同時に、個展、新制作協会展、美術館における各種企画展等に積極的に出品をつづけた。1994(平成6)年3月、芸術選奨文部大臣賞受賞。95年1月、第36回毎日芸術賞受賞。96年11月、紫綬褒章を受章。97年12月、『土谷武作品集』(美術出版社)を刊行。98年9月に東京国立近代美術館において「土谷武展」を開催し、初期から最新作まで87点を出品し、本格的な回顧展となった(同展は、京都国立近代美術館、茨城県近代美術館を巡回)。初期からの具象的表現から、60年代以降には抽象表現に転向するが、その素材は、石、鋼材、木などを組み合わせた野外彫刻によって真価を発揮し、高く評価された。特に後年の作品に顕著に表現されたように、鉄という素材にこだわりながら、重さと軽さ、硬さとしなやかさ、塊と広がりに対する独自の造形感覚によって、現代日本彫刻における抽象彫刻の代表的な作家のひとりにあげられる。

山辺知行

没年月日:2004/10/01

 染織史研究者の山辺知行は、10月1日、肺炎のため死去した。享年97。1906(明治39)年10月27日東京市麹町区(現東京都千代田区)に旧華族の家に生まれる。1931(昭和6)年3月に京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業、35年8月に東京帝室博物館研究員に就任。徴兵から復員後、47年より東京国立博物館初代染織室長に就任し、従来、風俗史研究の中に取り込まれてきた服飾・染織を、初めて美術工芸あるいは服飾文化という観点から美術史の中に位置づけた。処女論文「辻が花染に対する一考察」(『美術史』第12号、1957年3月)では明治期以降、古美術市場で人気急騰した日本中世染模様である「辻が花染」を初めて学術的な立場から定義し、以後の文化財指定の基準ともなった。68年3月に同博物館を退任後は、共立女子大学教授に就任、73年3月に同大学教授を退任、同年4月に多摩美術大学教授に就任。77年3月に同大学教授を退任、同大学客員教授に就任する。78年4月に財団法人遠山記念館館長に就任、88年3月に多摩美術大学客員教授を退任し、同大学附属美術館館長に就任。1991(平成3)年には遠山記念館館長を退任し、同館の顧問に就任した。その他、美枝きもの資料館名誉館長、都留市博物館館長を歴任した。東京国立博物館に就任中から、伝統工芸に携わる職人と連携し、人形を含む同館所蔵の染織の修理や復元にも指導力を発揮した。また、東京国立博物館を退任後は、染織美術の蒐集に力を注ぎ、日本染織のみならず、近世日本の人形、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ各国の染織にまでおよんだ膨大なコレクションは遠山記念館に寄贈された。その全容は『山辺知行コレクション』第1巻 インドの染織、第2~3巻 世界の染織、第4~5巻 日本の染織、第6巻 日本の人形、第7巻 別冊 補遺編(源流社、1984~1985年)に詳しい。国際的にも活躍し、ドイツやフランスで開催された国際学会での藍染めに関する口頭発表、インドで開催されたシンポジウムの講演記録などは『ひわのさえずり 山辺知行染織と私のエッセー』(源流社、2004年)に収録されている。その他、主著を以下にあげる。『染織』(大日本雄弁会講談社、1956年)、『日本の人形』(西沢笛畝と共著、河出書房、1954年)、‘Textiles’, Arts & Crafts of Japan, no.2, C.E.Tuttle, 1957. 『日本染織文様集』Ⅰ~Ⅲ・英文版(日本繊維意匠センター、1959~1960年)、『小袖』(北村哲郎・田畑喜八と共同編集、三一書房、1963年)、『能装束(徳川美術館所蔵品)』1・2巻(東京中日新聞社、1963年)、『能衣裳文様』上・下(中島泰之助と共同編集、芸艸堂、1963年)、『辻ヶ花』(京都書院、1964年)、『小袖 続』(北村哲郎と共著、三一書房、1966年)、『日本の美術7 染』(至文堂、1966年)、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(鈴木 尚・矢島恭介と共著、東京大学出版会、1967年)、『小袖文様』上下巻(北村哲郎と共著、三一書房、1968年)、『紬』(光風社書店、1968年)、『能装束文様集』(檜書店、1969年)、『上杉家伝来衣裳』日本伝統衣裳 第1巻(神谷栄子と共著、講談社、1969年)、『染織・漆工・金工』小学館原色日本の美術20(岡田譲・蔵田蔵と共著、小学館、1969年)、『日本服飾史』(駸々堂出版、1969年)、『縞』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1970年)、『能装束文様集 続』(檜書店、1972年)、『日本染織実物帖』(衣生活研究会、1972年)、『傳統工芸染織篇』全18冊(衣生活研究会、1973~1975年)、『絣』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1974年)、『細川家伝来能装束』永青文庫美術叢書(監修、主婦の友社、1974年)、『ペルシャ錦』(染織と生活社、1975年)、『日本の染織』(毎日新聞社、1975年)、『人形―坂口真佐子コレクション―』(監修、講談社、1976年)、『日本の美術;127 紅型』(至文堂、1976年)、『人形集成』全11冊(西沢笛畝と共著、芸艸堂、1977年)、『キャリコ染織博物館 更紗』(染織と生活社、1978年)、『染織』(角山幸洋と共著、世界文化社、1978年)、『シルクロードの染織 スタイン・コレクション ニューデリー国立博物館所蔵』(紫紅社、1979年)、『瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品』(共著、瑞鳳殿再建期成会、1979年)、『日本の染織』第2巻 武家/舶載裂(小笠原小枝と共同責任編集、中央公論社、1980年)、『琉球王朝秘蔵紅型』(日本経済新聞社、1980年)、『日本の染織』第3巻 武家の染織(責任編集、中央公論社、1982年)、『日本の染織』第9巻 庶民の染織・第10巻 近代の染織(責任編集、中央公論社、1983年)、『染織』世界の美術:カルチュア版;19(共著、世界文化社、1983年)、『染織・服飾』文化財講座日本の美術;11工芸(文化庁監修、岡田譲と共著、第一法規出版、1983年)、『一竹辻が花 OPULENCE オピュレンス』(編集解説、講談社、1984年)、『印度ロイヤル錦 キャリコ染織博物館コレクション;2』(染織と生活社、1988年)、‘Ein blaues Wunder: Blaudruck in Europe und Japan’, Berlin: Akademie Verlag, 1993. ‘Kyoto modern textiles, 1868-1940’, Joint author; Kenzo Fujii, Kyoto Textile Wholesalers Association, 1996.英語に堪能で広範な関心を終生離さず、染織に携わる職人と親交を深めて制作側の立場からも染織工芸を語る独特の視点が、近世武家女性の夏の衣料である茶屋辻を藍の浸染で復元するという壮大な実験や、世界各国の染織蒐集という大きな成果を残す原動力となった。

藤田喬平

没年月日:2004/09/18

 ガラス工芸家で文化勲章受章者の藤田喬平は、9月18日午後10時13分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年83。1921(大正10)年4月28日東京府豊多摩群大久保町(現、東京都新宿区)に生まれる。1944(昭和19)年東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科彫金部卒業。46年第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選。同年染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加し、以後10年間、同会にて作品を発表する。47年岩田工芸硝子に入社。49年同社を退社し、ガラス作家として独立。葛飾のガラス工場を時間単位で借りて、制作を行う。50年代には、同世代の工芸作家グループ展「潤工会新作工芸展」やガラス作家グループ展「PIVOT」に参加、その後多数の個展を開催し、主に百貨店を舞台にガラス作家としての地歩を固めた。64年個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品される。73年個展で飾筥「菖蒲」を発表、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられた。「虹彩」に代表される、流動するガラスが冷えて固まる一瞬を作品に留めた「流動ガラス」シリーズ、琳派の作品に触発され、伝統的な美意識を作品に表出させた「飾筥」シリーズによって、藤田はガラス作家としての個性を明確に打ち出していった。76年日本ガラス工芸協会会長に就任。77年以降は、ガラスの生産地として世界的に有名なヴェネツィア、ムラノ島の工房でも制作をするようになり、ヴェネツィアの伝統的な装飾ガラス技法「カンナ」を多用した作品や大型のオブジェを手がけた。1989(平成元)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章受章、96年宮城県宮城郡松島町に「藤田喬平美術館」が開館、97年紺綬褒章受章、同年文化功労者の顕彰を受けた。国内外の展覧会へ作品を出品し、日本を代表するガラス作家として活躍するとともに、再三に亘り日本ガラス工芸協会会長を務めるなど、多方面から日本におけるガラス・アートの活動を牽引した。2000年12月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、作品集に『藤田喬平作品集:手吹ガラス』(アート社出版、1980年)、『雅の夢:藤田喬平ガラス』(京都書院、1986年)、『藤田喬平美術館・作品集』(藤田喬平美術館、1996年)、『藤田喬平のガラス』(求龍堂、2000年)。

飯塚小玕斎

没年月日:2004/09/04

 人間国宝(重要無形文化財保持者)の飯塚小玕斎は、9月4日、肺炎のため死去した。享年85。1919(大正8)年5月6日、東京市本郷区(現・東京都文京区)に、飯塚琅玕斎の次男として生まれる。本名・成年。1942(昭和17)年東京美術学校油画科を卒業し入隊、出征する。46年疎開先の栃木市に復員し、栃木市立高等女学校で講師を約10年間勤める。その後帰京し、81年群馬県太田市に転居した。復員後に、近代竹工芸の確立に重要な役割を担い工芸界の重鎮であった父琅玕斎の厳しい指導を受けて修業し、飯塚家の伝統のわざはもとより琅玕斎の格調を重んじる制作を学んだ。1947年第3回日展初入選。翌年の第4回日展に成年子と号して出品し、50年亡き兄が号した小玕斎を受け継いだ。53年第9回日展で北斗賞を受賞し、翌年第10回展で特選、60年第3回新日展で菊華賞を受賞、伝統技法による花籃等の制作に加え壁面の制作に挑むなど気鋭の竹工芸家として活躍した。62年日展会員。74年第17回日本伝統工芸展へ出品して以降同展を中心に活動し、第17回展文部大臣賞、翌75年第18回展で朝日新聞社賞と受賞を重ねた。その後、鑑審査委員をたびたびつとめ、理事や木竹部会長を長く勤めた。81年紫綬褒章、89年勲4等旭日小綬章を受章。琅玕斎から継承した伝統のわざを現代的な感性で洗練させ、精緻精細な竹刺し編みや束ね編み等による芸術の格調を基調とする制作を主として独自の力強い荒い編組作品の創作なども繰り広げ、今日の伝統的な竹工芸の基盤を形成した。79年から82年にかけて正倉院宝物の竹工芸品の調査研究に努め、自らの創作の世界を広げた。82年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受け、以降日本伝統工芸展を中心に後進の指導に積極的に努め、その普及と発展に尽力した。

矢口國夫

没年月日:2004/08/20

 元東京都現代美術館学芸部長で、美術評論家の矢口國夫は、8月20日脳出血のため東京都小平市の病院で死去した。享年57。1947(昭和22)年7月11日に栃木県宇都宮市に生まれる。66年に栃木県立宇都宮高校を卒業し、同志社大学文学部に入学。71年に同大学を卒業し、同年西武百貨店に入社。翌年4月、栃木県教育委員会に転出し、同年11月開館の栃木県立美術館開設準備にあたった。同美術館開館後、「清水登之」展(1973年2月)、「青木繁福田たねのロマン」展(1974年8月)、「阿以田治修」展(1976年2月)、「川島理一郎」展(1976年9月)、「小杉放菴」展(1978年2月)等、近代日本美術を中心にした企画展を担当した。79年1月に国際国流基金に転任、同基金において日本の近現代美術を海外に紹介する展覧会等を企画担当し、またヴェネツィア・ビエンナーレも担当し、日本の現代美術紹介にも積極的に参画した。1992(平成4)年4月には、東京都現代美術館開設準備に学芸部長として転任、95年3月の同美術館開館後からは、「アンディ・ウォーホル展」、「ポンピドー・コレクション展」等の企画展を担当した。98年、同美術館在勤中、病に倒れ自宅療養中であった。美術史研究ばかりではなく、国内外の美術の動向にも視野を広げ、活動した美術館人であった。没後、『矢口國夫美術論集―美術の内と外』(「矢口國夫美術論集」刊行委員会編、美術出版社、2006年3月)が刊行され、同書によって生前の研究及び評論等がまとめられた。

松林猶香庵

没年月日:2004/08/14

 陶芸作家で、朝日焼14世の松林猶香庵は、8月14日午後4時20分多臓器不全のため死去した。享年83。1921(大正10)年3月10日、京都府宇治市に生まれる。本名松林豊彦。1936(昭和11)年京都市立第二工業学校陶磁器科を卒業後、国立陶磁器試験所に学ぶ。39年同試験場を修了し、1年間助手を務める。試験所在籍中は、水町和三郎の指導のもとで、多くの名品に学ぶ。46年父の朝日焼13世光斎の死去に伴い、14世豊斎を継承。この頃、陶芸作家の楠部彌弌に師事し、公募展にも出品をする。47年第3回日展には「豊芽の図大鉢」を出品。しかし、松林は、通常他の窯では区別されない窯変による色彩・釉調の変化を「燔師」と「鹿背」と分けて呼ぶ、朝日焼の繊細な茶陶の中に自らの進む道を見出す。その後は朝日焼の伝統的な造形を基調としながら、独学で朝日焼の最たる特徴である御本手の「燔師」・「鹿背」と呼ぶ窯変や、梅華皮・三島などの技法をより深く追求する。52年10月大坂三越で初個展開催。以後、個展を中心に作品を発表する。55年頃から何度か国宝の茶碗「喜左右衛門井戸」を手にする機会を得る。その見事な梅華皮を念頭において梅華皮茶碗の焼成を繰り返し、65年頃自身の理想に近い梅華皮茶碗を作り出し、これによって自らの技への自信を深めていく。また作陶と並行して、窯変を決定づける窯の研究にも没頭し、52年の登窯の築窯をはじめとし、幾つもの窯を築き試行錯誤を繰り返す。75年には、不確定要素の多かった窯変の創出を意識下におくことを目的とした窯「玄窯」を完成させる。「玄窯」は、窖窯と登窯を繋げた他に例を見ない構造に加え、窯内雰囲気を観察・記録できる当時最新の装置を付けた窯である。「玄窯」完成後、松林はさらに窯変の研究を続け、朝日焼の窯変を「土と炎の出会いによる土の窯変」という独自の言葉で表現している。そして80年頃、「鹿背」に用いる土と古朝日の土をあわせることで、従来の朝日焼にはなかった窯変による「紅鹿背」と呼ぶ、ほのかな紅色の発色に成功し、これを用いた作品制作に邁進する。1994(平成6)年11月大徳寺管長福富雪底のもとで得度し、長男良周に15世豊斎を譲り、隠居名の「猶香庵」を名乗る。その後も精力的に制作を続け、各地で個展を開催し、作品を発表する。松林猶香庵の作風は、伝統を踏まえ抑制のきいた造形の上に、窯変による色彩・釉調の変化を加えることで、瀟洒かつ温雅な独自の世界を表出している。こうした松林の作品は、茶を喫するために作られた茶陶の世界において高い評価を得たものである。

坂高麗左衛門

没年月日:2004/07/26

 陶芸作家で萩焼宗家坂窯の十二代坂高麗左衛門(本名、坂達雄)は、7月26日午前7時45分、脳挫傷のため山口県萩市内の病院で死去した。享年54。1949(昭和24)年8月11日、東京都新宿区に山中關とオヨの長男として生まれる。76年に東京芸術大学絵画科日本画専攻を卒業し、同大大学院美術研究科絵画専攻に進学。78年の課程修了後も、同大芸術資料館にて重文「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」の臨模研究や80年の国宝「観心寺木造如意輪観音坐像」復元事業に参加して彩色を担当するなど、日本中世絵画を対象に制作研究を継続した。82年、前年に没した十一代坂高麗左衛門(本名、信夫)の息女素子と婚姻を結び、また彼女の母幸子の養子となって萩藩御用窯の系譜をひく坂窯を後継した。83年の京都市工業試験場窯業科陶磁器研修生を修了後、84年から萩での作陶生活に入った。翌年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展から本格的な発表活動を開始。以降、日本画の制作研究で体得した運筆や賦彩の表現技法を造形思考の核に据え、萩伝統の陶技と絵画的意匠の総体的融合をめざした造形表現を追求し、作陶活動を展開した。個展活動は、86年の柿傅ギャラリー(東京)と玉屋(福岡)での初個展以来、88年5月29日の十二代襲名前に2回、襲名後は生前49回におよんだ。公募展への出品活動では、87年の第34回日本伝統工芸展で自ら開発した「陶彩」技法を用いた径41cmの「萩夏秋草八角陶筥」が初入選し、88年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展ではNHK山口放送局賞を受賞するなど、新進作家として早くから注目された。以後日本伝統工芸展において、89(平成元)年の第36回展に「萩茶碗」、92年の第39回展には「萩茶碗」が、そして94年の第41回展では「萩櫛目面取茶碗」がそれぞれ入選し、同年日本工芸会正会員となった。また、89年には田部美術館大賞茶の湯造形展にも入選している。90年から99年にかけては萩女子短期大学講師として陶芸指導にあたった。97年7月には「やきもの探訪-萩焼に日本画を」が NHKで放送(BS2)されている。2001年に山口県文化功労賞を受賞。作品は、坂窯伝統の井戸形茶碗をはじめ、萩焼の陶胎を用いながらも釉下に多彩な色料を施して器面を華やかに彩った茶碗・水指・香炉・花入・皿・筥・壺など多種の器形を制作し、ことに晩年の装飾は温雅な美質をそなえた抒情性のある絵画的表現を特長とした。

長谷川青澄

没年月日:2004/07/23

 日本画家の長谷川青澄は7月23日午後11時15分、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年9月25日、長野県下水内郡飯山町(現、飯山市)に生まれる。本名義治。飯山中学(現、飯山北高等学校)在学中に日本画家菊池契月の兄、細野順耳に日本画の手ほどきを受ける。1933(昭和8)年一家上京のため飯山中学を中退、翌年吉村忠夫に入門し大和絵を学ぶ。44年郷里に疎開し、戦後長野県展に出品し47年には信毎賞、48年には県展賞を受賞。51年に大阪へ転住し、翌年には美人画家中村貞以に師事、画塾春泥会で研鑽を積む。53年第38回院展に「庭」が初入選、以後毎年院展に入選を続けた。59年第44回院展で「羊飼」が奨励賞次点となり、60年第45回「小鳥の店」が奨励賞、62年第47回「寂」が日本美術院次賞を受賞。60年代末から日本の古典芸能に造詣を深めて能や狂言、舞踊などを好んでテーマとするようになり、69年第54回「京舞花の旅」、73年第58回「朝顔話」、75年第60回「日想観(弱法師)」、77年第62回「狂言」、78年第63回「狂言」、79年第64回「京を舞う」、81年第66回「皎」、82年第67回「京を舞う」が、いずれも奨励賞を受賞し、82年日本美術院同人に推挙された。同年には師中村貞以の逝去により春泥会を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾含翠として継承、師より受けついだ大阪での日本美術院の伝統を守り続けた。1989(平成元)年日本美術院評議員となる。90年第75回院展には石山寺に籠り、源氏物語を執筆する紫式部を描いた「月〈石山〉」で内閣総理大臣賞を受賞。92年郷里の飯山市公民館において作品展、同年から翌年にかけて日本橋と大阪の三越で回顧展を開催。94年には第79回院展に「足柄の山姥」を出品し、文部大臣賞を受賞。99年には東大阪市民美術センターで「長谷川青澄展―その純なる魂の軌跡」が開催されている。

毛利武士郎

没年月日:2004/07/18

 彫刻家の毛利武士郎は、7月18日、内臓疾患で死去した。享年81。1923(大正12)年1月14日、当時の東京市荒川区日暮里渡辺町に、彫刻家毛利教武の次男として生まれる。1940(昭和15)年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学。43年に同学校を卒業、翌年2月に応召、北満州の独立歩兵部隊、後に対戦車砲部隊に配属され、その後沖縄宮古島にて被弾負傷する。45年、終戦を同島の野戦病院で迎える。戦後は、51年2月の第3回読売アンデパンダン展に「小さな夜」を初出品。54年2月、第6回読売アンデパンダン展に「シーラカンス」、「抵抗」を出品。57年6月、サトウ画廊にて個展を開催し、針金と鉛板による抽象彫刻を出品する。59年9月、向井良吉、小野忠弘とともに第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年9月、第1回集団現代彫刻展に「鳩の巣NO.2」、「作品」を出品。61年7月、第1回宇部市野外彫刻展に「鳩の巣」を出品。この頃から、すでに抽象彫刻の作品は、高く評価されていたが、60年代半ばから新作の発表を絶った。その間、73年6月、東京国立近代美術館の「戦後日本美術の展開・抽象彫刻の多様化展」、81年の神奈川県立近代美術館の「日本近代彫刻の展開―開館30周年記念展第Ⅱ部」、同年9月の東京都美術館の「現代美術の動向Ⅰ―1950年代-その暗黒と光芒」など、戦後美術の回顧展にその作品が出品されていた。83年11月、富山県立近代美術館の「現代日本美術の展望―立体造形」展に、およそ20年ぶりにレリーフ状の新作「哭Mr.阿の誕生」を出品。作家の長期間にわたる沈黙の意味を問うものとして注目された。1992(平成4)年5月に東京から富山県黒部市にアトリエ兼住居を移転。99年5月には、富山県立近代美術館にて「毛利武士郎展」を開催、111点からなる本格的な回顧展となった。とりわけ、金属の鋳塊をコンピューターと連動した工作機械で精密に加工した新作は、この作家の独自の表現として話題となった。戦後の日本の抽象彫刻を代表する作家のひとりとして評価されているが、長い沈黙後の晩年である富山県に移住後の制作は、現代彫刻をめぐる技術と造形思考をめぐる独自の哲学に裏付けられた先鋭的な問題を深めた点で、発表時から美術界に少なからず衝撃をあたえ、今後も議論されるべき作品を残したことは高く評価される。

藤代松雄

没年月日:2004/06/12

 刀剣研磨師で人間国宝の藤代松雄は6月12日、脳こうそくのため死去した。享年90。 1914(大正3)年4月21日、刀剣研磨師である藤代福太郎の三男として東京神田に生まれる。「早研ぎの名人」といわれた父に1927(昭和2)年より刀剣の研磨技術を習う。51年より『名刀図鑑』を刊行、写真技術を最高度に利用して茎の銘やこれまで再現不可能であった地の状態、刃中の働きなどを写し、戦後の刀剣愛好家の啓蒙に寄与した。55年日光二荒山神社所蔵の御神刀「山金造波文蛭巻大太刀(禰々切丸)」(重要文化財)を研磨。61年『日本刀工辞典』改訂版を刊行、同書は元来兄義雄の著作(37年刊)であり、これに共著という形で版を重ねることで新たな資料を加え、より完全な銘の辞典の完成を目指した。70年美術刀剣研磨技術保存会を結成、88年からは同会の幹事長を務める。1990(平成2)年 国宝 短刀 来国光(名物有楽来)、93年吉備津神社所蔵の大太刀 法光「吉備津丸」を研磨。96年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。98年勲四等旭日小綬章受章。

山川武

没年月日:2004/06/01

 東京芸術大学名誉教授で、美術史研究者の山川武は、6月1日、肺がんのため死去した。享年77。葬儀は近親者のみで行われ、同年7月3日に「山川武先生を偲ぶ会」(東京上野、精養軒)が行われた。1926(大正15)年11月22日、兵庫県神戸市に生まれる。1949(昭和24)年7月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学、53年3月に卒業、4月に同学部専攻科に入学するが翌年病気のために退学。59年1月に東京芸術大学美術学部助手となり、翌年9月から同大学同学部附属奈良研究室に事務主任事務取扱として赴任し、63年6月、同研究室講師となる。67年4月、同研究室勤務を解かれ、同大学美術学部芸術学科講師となる。69年4月、同大学美術学部助教授となる。78年4月、同大学同学部教授となる。1993(平成5)年9月、東京芸術大学芸術資料館において「退官記念山川武教授が選ぶ近世絵画」展を開催。翌年3月、同大学を退官。同年4月、女子美術大学教授に就任、同月、東京芸術大学名誉教授となる。97年7月、東京銀座にて「山川武写真展―行旅余情―」展開催。翌年、女子美術大学を退職。2002年10月、『山川武写真集』(私家版)を刊行する。本項末にあげる著述目録で了解されるように、山川の研究者としての対象は、近世日本絵画が有する独特の美しさと豊かさの探求であった。研究歴の初めにあげられる業績は、『国華』誌上で特集された長沢蘆雪に関する研究である。これは、従来の近世絵画史から見逃されていた画家と作品を位置づけるものとして、斯界から注目された研究であり、いわゆる「奇想」と目されることとなった画家群をも網羅するその後の絵画史研究に刺激を与え、特筆すべきものであった。その後、円山応挙、呉春等を中心とする近世写生画の研究、さらに光悦、宗達、光琳、抱一等の琳派研究へと展開していった。また、田能村竹田、与謝蕪村、浦上玉堂等の南画研究、宋紫石の長崎派、さらに西郷孤月、長井雲坪、狩野芳崖、高橋由一にいたる幕末明治期の画家研究に領域をひろげていった。ここで一貫していた研究姿勢は、作品に直に接することからの知見をもとに深められるものであり、同時にその折の豊かな感性に裏づけられた経験をもとに論考されていた点である。美術史研究の基本である誠実に「見る」ことを通していた点は、趣味でもあった写真にも生かされ、晩年に刊行した写真集に収められたアジア、欧米各地での調査研究旅行の折に撮られた写真の数々には、人間や自然への暖かい眼差しが感じられる。巨躯ながら、眼鏡に手を添えつつ訥々とした語りで近世絵画の「面白さ」を講義する時、その姿には温和ながら美術への熱い想いが常にこめられていたことを記憶する。 著述目録は、下記の通りである。(本目録は、「山川武先生を偲ぶ会」編によるものである。) 「山姥図」と長沢蘆雪(『仏教芸術』52号、1963年11月) 長沢蘆雪筆 雀図(『国華』860号、1963年11月) 長沢蘆雪とその南紀における作品(同前) 長沢蘆雪伝歴と年譜(同前) 西光寺の蘆雪画(『仏教芸術』60号、1966年4月) 大覚寺と渡辺始興(『障壁画全集 大覚寺』、美術出版社、1967年3月) 正木家 利休居士像(『国華』901号、1967年4月) 表千家 利休居士像(同前) 三玄院 大宝円鑑国師像(同前) 東大寺大仏の鋳造及び補修に関する技術的研究 その一(共同研究)(『東京芸術大学美術学部紀要』4号、1968年3月) 良正院の障壁画(『障壁画全集 知恩院』、美術出版社、1969年1月) 写生画(『原色日本の美術19 南画と写生画』、小学館、1969年2月) 円山応挙について―「写生画」の意味の検討―(『美学』79号、1969年12月) 長沢蘆雪襖絵(『奈良六大寺大観 第6巻 薬師寺 全』、岩波書店、1970年8月) 結城素明作 鶏図杉戸(『昭和45年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1971年9月) 長沢蘆雪筆 墨龍図(『国華』942号、1972年1月) 長沢蘆雪筆 汝陽逢麹車図(同前) 絵画 第5章 江戸時代(『奈良市史 美術編』、奈良市、1974年4月) 円山応挙についての二三の問題(『国華』945号、1972年4月) 呉春筆 群山露頂図(同前) 呉春筆 耕作図(同前) 長沢蘆雪筆 群猿図(同前) 呉春筆 渓間雨意・池辺雪景図(『国華』948号、1972年8月) 光琳―創造的装飾『みづゑ』812号、1972年10月) 長沢蘆雪筆 仁山智水図(『国華』953号、1972年12月) 屈曲初知用―光琳屏風展雑感(『芸術新潮』277号、1973年1月) 早春の画家―渡辺始興展(『みづゑ』818号、1973年5月) 『日本の名画 6 円山応挙』(講談社、1973年6月) 応挙と蘆雪(『水墨美術大系 第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』、講談社、1973年9月) 二つの「槇楓図」屏風(『日本美術』102号、1973年11月) 尾形光琳「槇楓図」(『昭和48年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1974年12月) 松屋耳鳥斎筆 花見の酔客図(『国華』976号、1975年1月) 森狙仙筆 猿図(同前) 森徹山筆 翁図(同前) 源琦筆 四十雀図(同前) 円山応挙筆「牡丹図」他12幅(『昭和49年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1975年12月) 呉春筆「寒木図」、「山水図」、呉春、岸駒合作「山水図」(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅱ』、東京芸術大学、1976年3月) 円山応挙筆 四季山水図(『国華』997号、1977年1月) 『日本美術絵画全集 第22巻 応挙/呉春』(集英社、1977年4月) 円山応挙筆 春秋鮎図(『国華』1002号、1977年7月) 長沢蘆雪筆 岩上小禽図、長沢蘆雪筆 狐鶴図(『国華』1003号、1977年8月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展―創立90周年記念―』(東京芸術大学、1977年9月) 円山四条派(『文化財講座 日本の美術3 絵画(桃山・江戸)』、第一法規出版、1977年11月) 円山応挙筆 蟹図屏風(『国華』1008号、1978年2月) 円山・四条派と花鳥・山水(『日本屏風絵集成 第8巻 花鳥画―花鳥・山水』、講談社、1978年5月) 円山応挙筆 螃蟹図(『国華』1017号、1978年11月) 浦上玉堂筆 青松丹壑図(『昭和52年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1979年3月) 近世市民芸術の黎明『日本美術全集 第21巻 琳派 光悦/宗達/光琳』(学習研究社、1979年8月) 本阿弥光悦(同前) 俵屋宗達(同前) 尾形光琳と乾山(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅰ』、東京芸術大学、1980年3月) 上方の町人芸術(『週刊朝日百科 世界の美術129 江戸時代後期の絵画Ⅱ 円山・四条派と若冲・蕭白』(朝日新聞社、1980年9月) 若冲と蕭白(同前) 蕪村の寒山拾得(『日本美術工芸』512号、1981年5月) 1980年の歴史学界―回顧と展望―日本近世〔絵画〕〔工芸〕(『史学雑誌』90編5号、1981年5月) 「江戸琳派」開眼―抱一・其一について―(『三彩』406号、1981年7月) 長沢蘆雪筆 瀧に鶴亀図屏風 同 赤壁図屏風(『国華』1047号、1981年12月) 呉春筆 白梅図屏風(『国華』1053号、1982年7月) 日本美術史上での南画の位置づけ(『田能村竹田展』、大分県立芸術会館、1982年10月) 彷徨の画家西郷孤月(『西郷孤月画集』、信濃毎日新聞社、1983年10月) (作品解説)(『英一蝶展』、板橋区立美術館、1984年2月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展』、京都新聞社、1984年10月) 一旅絵師の生涯―雲坪小伝―(『長井雲坪』、信濃毎日新聞社、1985年4月) 光琳の生涯(『芸術公論』10号、1985年11月) 宋紫石とその時代(『宋紫石とその時代』、板橋区立美術館、1986年4月) 宋紫石の画業とその時代(『宋紫石画集』、宋紫石顕彰会、1986年9月) 第2章 絵画(『深大寺学術総合調査報告書 第1分冊・彫刻 絵画 工芸』、深大寺、1987年11月) (解題)(『東京芸術大学 創立百周年記念 貴重図書展』、東京芸術大学附属図書館、1987年11月) 化政期の江戸絵画(『東京芸術大学芸術資料館所蔵品による 化政期の江戸絵画』、東京芸術大学美術学部・芸術資料館、1988年11月) 狩野芳崖と、その「悲母観音」について(『特別展観 重要文化財 悲母観音 狩野芳崖筆』、東京芸術大学芸術資料館、1989年10月) 円山応挙筆 秋月雪峽図(『国華』1132号、1990年3月) 近世、伊那谷が生んだ二画人(『佐竹蓬平と鈴木芙蓉』、信濃毎日新聞社、1990年7月) 高橋由一の「鮭」を考える(『特別展観 重要文化財 鮭 高橋由一作』、東京芸術大学芸術資料館、1990年10月) 佐竹蓬平、その生涯と芸術(『佐竹蓬平展』、飯田市美術博物館 1990年10月) 長崎派(『古美術』100号、1991年10月) 円山・四条派における「写生画」の意味について(『美術京都』11号、1993年1月) 「退官記念 山川武教授の選ぶ近世絵画」展列品解説(『退官記念 山川武教授』、東京芸術大学美術学部、1994年1月)

松田正平

没年月日:2004/05/15

 飄逸な画風で知られた洋画家の松田正平は、5月15日午後4時35分、腎機能不全のため宇部市の病院で死去した。享年91。1913(大正2)年1月16日、久保田金平の第三子次男として島根県鹿足郡青原村(現・日原町)に生まれる。17年ころ宇部村恩田の松田家に養子として引き取られるが、望郷のあまり生家へ帰り、19年青原村立青原尋常小学校に入学する。20年養父の迎えにより宇部へ移り、21年山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)の松田家の養子として入籍する。宇部市立神原尋常小学校を経て25年山口県立宇部中学校(現 山口県立宇部高等学校)に入学。1927(昭和2)年、中学3年生在学中に同級生を介して油彩画を知る。30年、中学校の教員免許を取得することを条件として美術学校への進学を許され、2月に上京。川端画学校に学び、3月に東京美術学校を受験するが失敗。引き続き川端画学校に学ぶ。31年春、山口県出身の美術学校志望者が多く住んでいた小石川の日独館に転居し、古木守、香月泰男らと交遊。32年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事する。35年帝展第二部会に「婦人像」で初入選。36年新文展鑑査展に「休憩」で入選する。37年東京美術学校を卒業し、フランス留学のため、知人の協力を仰ぎ、同年10月渡欧して、アカデミー・コラロッシに通う。コローに傾倒し、コローの「真珠の女」を模写したほか、コローが描いた場所を訪れ、また、レンブラントの作品を見るためにアムステルダムを訪れる。39年スイス、ロンドン、ニューヨーク、パナマ、ロサンゼルスを経由して同年12月に帰国。40年第15回国画会展に出品するが落選する。一方、郷里宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催。41年第16回国画会展に「ストーブ」「地図」を出品して入選。42年、宇部に帰郷し、4月から山口師範学校の美術教授となる。同年第17回国画会展に「集団アトリエ」「枯霞草」「或るゑかき」を出品し、国画奨学賞を受賞。43年山口師範学校を辞職して上京し、パリ留学のころから交遊のあった吉川精子と結婚する。同年第18回国画会展に「窓」「家」を出品し、同会会友に推される。45年戦況が厳しくなる中、宇部へ帰郷し、東見初炭坑で抗夫として働く。同年7月の宇部空襲により家が全焼し、パリ時代までの作品を失う。46年復興した第20回国画会展に出品し、以後も同会に出品を続ける。51年第25回同展に「内海風景」「祝島風景」を出品し、同会会員となる。同年よりフォルム画廊で第一回目の個展を開き、以後、ほぼ毎年同画廊で個展を開催。52年上京し、国画会展、国際具象派展、フォルム画廊での個展のほか、宇部市の明幸堂画廊での個展に作品を発表。63年夏、千葉県市原市鶴舞に転居。66年国画会脱退を決意し、この年の同会展には出品しなかったが、原精一、木内廣らの慰留により会員としてとどまる。76年現代画廊主洲之内徹との交流が始まり、78年フォルム画廊と現代画廊で個展を同時に開催する。以後、定期的な個展では油彩画はフォルム画廊で、素描は現代画廊で発表することが定例化する。82年6月、パリを再訪。83年『松田正平画集』がフォルム画廊から刊行され、東京の銀座・松屋で「松田正平画週出版記念展」を開催。同年三度目のパリ訪問。84年新潮文芸振興会主催の第16回日本芸術大賞を受賞。現代画廊で受賞記念展が開催される。87年山口県立美術館で「松田正平展」を開催。1991(平成3)年山口県立美術館で開催された「戦後洋画と福島繁太郎―昭和美術の一側面」展に代表作13点が出品される。95年舞鶴から郷里宇部市に帰り、制作を続ける。97年よりほぼ毎年菊川画廊で個展を開催。2004年1月、宇部市他の主催による「松田正平展」が宇部市文化会館で開催された。アカデミックな画風からコロー、セザンヌなどの学習を経て、対象を単純化した形体でとらえる素朴で飄逸な画風を確立した。1950年代から日本画壇において抽象絵画の受容が盛んになる中でも、具象絵画の可能性を高く評価し、日本人の描く油彩画を追求し続けた。「現代の仙人」と評される人柄を慕う人々も多く、晩年は後援会が組織され、歿後、同会の主催により菊川画廊で追悼展として「松田正平素描展」が開催された。作品集に『松田正平画集』(フォルム画廊、1983、2003年)、『きまぐれ帖』(阿曾美舎、2003年)、『松田正平素描集』(松田正平後援会発行、2006年)があり、年譜は歿後に刊行された『松田正平素描集』に詳しい。

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