本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





浜口陽三

没年月日:2000/12/25

 銅版画家で、日本版画協会名誉会員の浜口陽三は、12月25日午後5時41分、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年91。1909(明治43)年4月5日、和歌山県有田郡広村に生まれる。父浜口儀兵衛は、ヤマサ醤油十代目社長。幼少時、父が家業の醤油醸造業に専念するため、一家で千葉県銚子市に移る。上京して中学に通い、1928(昭和3)年中学を卒業、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。30年同学校を中退し、渡仏。パリ滞在中は、アカデミー・グラン・ショーミエールなどの美術学校に一時通うが、もっぱら自室で油彩画を描き、海老原喜之助、村井正誠、岡本太郎、森芳雄など、パリの日本人画家たちと交友する。39年、第二次世界大戦勃発のため帰国。戦後、銅版画の技法を学び、51年、銅版画による最初の個展を開催(東京銀座、フォルム画廊)。53年、私費留学生として再渡仏。55年、4色版を使用した最初のカラーメゾチント作品「西瓜」を制作。57年6月、第1回東京国際版画ビエンナーレに「青いガラス」、「水さしとぶどう」を出品、東京国立近代美術館賞受賞。同年10月、第4回サンパウロ・ビエンナーレに「西瓜」等を出品、日本人として初めて版画大賞を受賞。58年1月、第9回毎日美術賞特別賞を受賞。61年6月、第4回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「キャベツ」等を出品、グランプリ受賞。このように果物や身辺の静物をモティーフにした作品は、カラーメゾチンという独自の技法によって、親密でより深い情感をもたらすようになり、それによって国際的にも一躍注目されるようになった。81年、パリから、米国サンフランシスコに移住、同年和歌山県文化賞受賞。85年、日本国内で最初の回顧展となる「浜口陽三展-静謐なときを刻むメゾチントの巨匠」が開催される(東京、有楽町西武アート・フォーラム、国立国際美術館)。86年、勲三等旭日中綬章を受賞。1998(平成10)年、浜口の作品を常設展示する施設として「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が、東京都中央区日本橋蛎殻町に開館した。没後の2002年9月から03年9月まで、生前作家夫妻により国立国際美術館に寄贈された作品をもとに構成された「浜口陽三展」が、国立国際美術館をかわきりに、千葉市美術館、足利市立美術館、都城市立美術館、熊本県立美術館を巡回している。エスプリにあふれた、簡潔な構図のなかで、奥深い情感をたたえたその版画作品は、技法もふくめて他に類例がないものとして今後も、評価されつづけていくことだろう。

畦地拓治

没年月日:2000/12/18

 現代美術家の畦地拓治は、12月18日午後10時25分、くも膜下出血のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年52。畦地は、1948(昭和23)年11月、木版画家畦地梅太郎の二男として、東京に生まれた。70年、東京芸術大学美術学部彫刻科を卒業。73年、同大学大学院修士課程修了。個展での発表活動をはじめた頃より、CARVINGと題した作品では、木をグラインダーで削っただけの行為の痕跡と素材そのものを提示しようとしたものであった。これは、同時代の「もの派」といわれるコンセプチュアル・アートの興隆を背景としており、この作家の起点をしめすものであった。75年の第10回ジャパン・アート・フェスティバル(東京、上野の森美術館)で通産大臣賞を受賞。82年には第16回日本国際美術展で、栃木県立美術館賞を受賞。85年から1年間、文化庁在外研修員としてニューヨーク州立大学の各員芸術家として滞在した。すでに、この頃には、木、金属、大理石などの断片を組み合わせた平面に、波の写真をシルクスクリーンで転写し、さらにグラインダーで波動の形に呼応するように削る作品CARVING -WAVEのシリーズを制作していた。イメージ、素材、身体性が重層的にかさなりあい、虚実の折り重ねをしめす、きわめてコンセプチュアルなものとなっていた。個展の活動のほか、83年、「現代美術における写真」(東京国立近代美術館等)、87年、「現代美術になった写真」(栃木県立美術館)、1991年「マニエラの交叉点-版画と映像表現の現在」(町田市立国際版画美術館)など、現代美術における写真、版画などを用いた先鋭的な試みを検証しようとする企画展に出品していた。

山岸純

没年月日:2000/12/17

 日本画家で日展常務理事の山岸純は12月17日午後11時48分、脳溢血のため京都市上京区の病院で死去した。享年70。1930(昭和5)年9月14日、京都市に生まれる。53年京都市立美術大学日本画科を卒業し、55年同校専攻科を修了、徳岡神泉に師事した。56年第8回京展「池」、57年第9回京展「村」がともに京都市長賞、58年第10回京展「河」は記念賞を受賞する。また55年第11回日展に「室戸」が初入選し、以後新日展で61年第4回「樹」、65年第8回「石段」がいずれも特選・白寿賞を受賞、66年第9回「晨」は菊華賞を受けた。68年以降たびたび審査員をつとめ、翌69年日展会員、74年評議員となる。75年第7回改組日展で「風聲」が文部大臣賞を受賞。77年朝日会館で個展を開催、また昭和世代日本画展(79年)、日本秀作美術展(80年)等のほか、遊星展をはじめとする各種のグループ展に出品、穏やかで静謐な風景作品を発表する。そのいっぽうで68年より京都市立芸術大学教授の講師をつとめ、助教授を経て75年教授となり、後進の指導に力を尽くした。1990(平成2)年に京都府文化賞功労賞に表彰され、92年に第23回日展出品作「樹歌」で第48回日本芸術院賞を受賞。93年日展理事、96年京都市文化功労者となり、同年京都市立芸術大学を定年退職して同校の名誉教授となる。翌年には名古屋芸術大学教授に就任。99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

内山昭太郎

没年月日:2000/12/14

 デザイナーで、広島市立大学大学院教授、東京芸術大学名誉教授の内山昭太郎は、12月14日死去した。享年69。1931(昭和6)年4月17日に生まれ、56年、東京芸術大学美術学部工芸科図案部を卒業、日本テレビ放送網株式会社に入社。73年、同社を退社し、多摩美術大学美術学部デザイン科講師となる。同大学には、87年まで教授としてつとめ、同年から東京芸術大学美術学部デザイン科教授となる。1999(平成11)年に同大学を退官し、同年から広島市立大学大学院芸術学研究科教授となる。主として電波媒体を中心にしたアートデザインから、マルチメディアによるデザイン教育研究をおこなった。著書に『コングラのすべて』(共著、誠分堂新光社 82年)、『パーソナル・グラフィックス』(共著、誠分堂新光社 82年)がある。また、展覧会には、94年に「電脳魚類図鑑」(天王洲オフィスアートギャラリー)、98年に「退官記念展“電視芸上”」(東京芸術大学陳列館)、2000年に「電脳遊園地」(東京銀座、松屋ギャラリー)などがある。

鴨政雄

没年月日:2000/12/06

 彫金作家の鴨政雄は12月6日午前1時37分、肺炎のため香川県高松市の病院で死去した。享年94。1906(明治39)年8月31日、香川県高松市に生まれる。彫金作家の鴨幸太郎は実兄。1925(大正14)年、香川県立工芸学校を卒業し上京。1930(昭和5)年、東京美術学校金工科を卒業して研究科に進学し、清水南山、海野清に師事(33年修了)。在学中の27年に北原千鹿らの「工人社」結成に参加し、新しい工芸を目指して制作活動を繰り広げる。足の切断で一時活動を休止したこともあったが、30年「彫金小筥」で第11回帝展に入選し、以後文展、日展を通じて入選を重ねる。戦前は飛行船や抽象文様などを用いた近代的な作風で注目された。43年に高松へ疎開し、戦後は高松で制作に励む。52年の「トカゲと蝶紋花瓶」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。59年から日展会員。66年に四国新聞文化賞を受賞し、67年から香川県明善短期大学にて教鞭を執る(69年から教授)。73年に山陽新聞文化賞を受賞し、同年香川県文化功労者表彰を受けた。85年、「彫金花瓶〈花と蝶〉」で第24回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞。1994(平成6)年には香川県文化会館で回顧展「彫金の世界・蝶と草花-鴨政雄展」が開催され、96年には北海道立近代美術館ほかを巡回した「日本工芸の青春期1920s-1945」展に出品した。日本美術工芸界の最長老のひとりとして、晩年の第32回改組日展(2000年)まで制作・発表を続けた。

石川響

没年月日:2000/12/05

 日本画家で日展評議員を務めた石川響は12月5日午後3時31分、くも膜下出血のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年12月3日、千葉県長生郡長柄町に生まれる。本名宣俶(のりよし)。狩野芳崖筆「悲母観音図」(東京芸術大学美術館蔵)に感動して画家を志したという。1942(昭和17)年、東京美術学校図画師範科を卒業し、岩手県立黒沢尻中学校にて教鞭を執りながら日本画を描き、47年「悠遠」にて第3回日展に入選。50年には千葉県立長生高等学校を退職して画業に専念し、54年からは結城素明の紹介で加藤栄三に師事。66年「昼の月」にて第9回新日展特選・白寿賞を受賞し、67年の中央公論新人展、71年の第1回山種美術館賞展に推薦出品した。73年「原野」にて再び第5回改組日展特選を受賞。76年からはたびたび日展審査員を務め、77年から日展会員、1990(平成2)年から日展評議員を務めた。98年の第30回改組日展では「夕山河」で内閣総理大臣賞を受賞、2000年には千葉県芸術文化功労賞および勲四等瑞宝章が授与された。この間、安房小湊誕生寺に88年、94年、96年の三度にわたって仏伝壁画・天井画を奉納する一方、数度にわたって、インド・東南アジア・韓国・中国等へ仏教遺跡・宗教文化の源流を訪ねる旅行をし、90年に日本橋高島屋にて個展「生生の旅」を開催、95年には「素晴らしき地球の旅-人間仏陀の生涯-」(NHK衛生第2放送)にインド各地をスケッチする旅人として出演、また『ニルバーナ・ロードの風景-釈尊最後の旅-』(中村元編著、東京書籍 88年)や『インド四季暦春・夏そして雨季-』・『インド四季暦-秋・冬そして寒季-』(ともに阿部慈園共著、東京書籍 92・93年)、『インド花巡礼-ブッダの道をたどって-』(中村元・三友量順共著、春秋社 96年)、『心のともしびを求めて-仏教文化へのいざない-』(阿部慈園共著、春秋社 98年)といった画文集を出版した。90年には東方研究会・インド大使館より東方学術賞を授与されている。

西村計雄

没年月日:2000/12/04

 洋画家西村計雄は、12月4日老衰のため東京都品川区内の病院で死去した。享年91。1909(明治42)年6月29日、北海道岩内郡小沢村に生まれる。1929(昭和4)年、東京美術学校西洋画科に入学、在学中は藤島武二に師事した。36年の文展に「ギター」が初入選。新文展には、39年の第3回展から43年の第6回展まで連続して入選し、とくに第6回展に出品した「童子」は特選となった。戦後も、日展、創元会展に出品をつづけていたが、51年に渡仏。53年には、ピカソの画商カーンワイラーのすすめで、パリの画廊ベルネームジュンヌで第一回の個展開催。その後、パリを中心に、ロンドン、西ベルリン、ウィーンで個展を開催。淡い、洗練された色彩と躍動感あふれる抽象表現によって、高い評価を受けていた。79年、沖縄県南部、摩文仁ヶ丘の国定公園内に建設された沖縄平和記念堂内を飾る連作「戦争と平和」の第一作を完成させ、それまでの取材をふくめ八年間をかけて、沖縄とパリを往復しながら、連作20点を86年に完成させた。これが、画家の代表作となった。1999(平成11)には、郷里に共和町立西村計雄記念美術館が開館した。また、没後の2002年4月からは、東京都大田区北千束の自宅を「西村計雄のアトリエ」として一般公開をはじめた。

歌川豊國

没年月日:2000/11/13

 日本画家の歌川豊國は11月13日午後、大阪府東大阪市の自宅で死亡しているのを知人によって発見された。享年97、急性心疾患とみられる。1903(明治36)年2月3日、東京都麻布区笄町で浮世絵師二代歌川国鶴の次男として生まれ、国春と名付けられる。母向山ゆた(号玉峯)も四条派の画家。幼いころより父から浮世絵・美人画の手ほどきを受け、親に従って東京から大阪、堺、京都と転居を重ねる。尋常高等小学校時代を過ごした京都では、二条柳馬場に住み、中井汲泉からも絵を学んだという。1920(大正9)年に父が没すると叔父の歌川国松に引き取られて大阪に移るが、やがて叔父の弟子に連れられて東京に出、そこで写真背景画を描くようになる。23年の関東大震災を期に大阪に転居し、写真背景画で独立自営をはじめる。終戦直前直後は物資不足もあって画業を中断し、写真機材製造輸出会社を経営したりした。1967(昭和42)年ころに画業復帰を決意し、72年ころから石切神社に勤務しながら日本画家中村貞以のもとで修行を積み、父や叔父の遺志を継いで六代豊国を名乗るようになる(76年、戸籍上でも「国春」から「豊国」へと改名し、91年には「豊國」と改めた)。「最後の浮世絵師」と呼ばれて東京日本橋三越をはじめ数多くの百貨店で個展を開催、76年文化功労部門で大阪市より市民表彰を受けた。画業に専念させるという父親の意向で尋常高等小学校しか卒業しなかったが、晩年になって自身の経験と浮世絵の歴史を書きのこすため一念発起、1996(平成8)年に93歳で大阪府立桃谷高等学校定時制夜間部に入学、99年には近畿大学法学部法律学科二部に合格し、「現役最高齢の大学生」として話題になった。没後、次男の博三が七代豊國を継いだ。

平賀敬

没年月日:2000/11/13

 洋画家の平賀敬は、11月13日午前6時54分、食道ガンのために神奈川県小田原市の病院で死去した。享年64。1936(昭和11)年、東京に生まれ、57年に立教大学経済学部を卒業。64年、シェル賞で第三席を受賞、同年の第3回国際青年美術家展で大賞(パリ留学賞)の受賞を機に渡欧。74年の帰国までに、ヨーロッパ各地で個展を開催するとともに、66年には「フィギュラシオン・ナラティーヴ」展に参加、69年には第10回サンパウロ・ビエンナーレの日本部門にも選抜出品した。帰国後も、個展での新作発表をつづける一方、82年の「現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館)、翌年の「現代美術の動向 1960年代-多様化への出発」(東京都美術館)など、現代美術の史的位置付けをこころみる企画展にも出品していた。渡欧中から、あたかも「戯作者」のエスプリをもったかのような目で、エロチックでユーモラスな男女の群像を描きつづけた。亡くなる直前の2000(平成12)年9月には、平塚市美術館で本格的な回顧展が開催された。

渡辺学

没年月日:2000/11/11

 日本画家で創画会会員の渡辺学は11月11日午前0時、急性虚血性心疾患のため千葉県銚子市の自宅で死去した。享年84。1916(大正5)年1月26日銚子に生まれる。本名冨雄。1936(昭和11)年東京美術学校日本画科に入学、結城素明、川崎小虎らに学び、41年卒業する。49年第2回創造美術展に「枝庭」が初入選、同会が51年新制作派協会に合流して新制作協会日本画部となったのち、57年第21回新制作展「網」「廃船」、59年第23回展「海苔とる浜」がともに新作家賞を受賞、60年第24回展に「加工場の午後」等を出品し新制作協会会員となる。また日本国際美術展(61年より67年まで)、現代日本美術展(62年より68年まで)にも連続出品、62年第5回現代日本美術展に「魚・人」で優秀賞を受賞する。65年マヤ遺跡研究のためメキシコに滞在。68年松屋で「朝倉摂・渡辺学二人展」を開催。71年新鋭選抜展で優秀賞受賞、同年東京造形大学講師となる。74年新制作協会日本画部が同会を離脱し結成した創画会にも出品、最後まで生地の銚子に腰を据え、そこに生きる漁師やその家族を題材に骨太な作風を貫いた。85年には創画会が次第に初期の目標を見失っていくことの危機感から結成された地の会に参加。87年に横浜高島屋で個展を行い、没後の2001(平成13)年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。

大久保婦久子

没年月日:2000/11/04

 皮革工芸家で日本芸術院会員の大久保婦久子は11月4日午後5時25分、心不全のため、東京都新宿区の病院で死去した。享年81。1919(大正8)年1月19日静岡県加茂郡下田町(現 下田市)に生まれる。本名ふく。1931(昭和6)年下田尋常高等小学校を卒業し静岡県立下田高等女学校に入学。35年に同校を卒業して女子美術専門学校(現 女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。39年、同校を卒業。在学中に皮革染織を学んだことがきっかけとなり、皮革工芸を制作し始める。50年に東京銀座資生堂で個展を開催。翌年から山崎覚太郎に師事する。52年第8回社団法人日展第四科工芸部に「逍遥」(3枚折りスクリーン)で初入選し、以後同展に入選を続ける。53年第9回日展に「四季」(4枚折りスクリーン)を出品。また、同年第39回光風展に「向日葵」を出品し、以後同展に出品を続ける。55年第1回新日展に「春昼」(キャビネット)を出品して北斗賞受賞。58年6月から7ケ月間、皮革工芸研究のためイタリアに滞在。50年代の作品は家具などの装飾に皮革を素材とした造型作品を用いたものが多かったが、60年代に入ると皮革を素材とする造型作品自体を独立させるようになる。61年第4回日展に「うたげ」を出品して特選および北斗賞受賞。翌年日展無鑑査となる。また62年第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選。64年第7回日展に「まりも」を出品して菊華賞受賞。65年日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員、66年日展会員となる。69年総合美術展「潮」を結成。以後、同展にも出品を続ける。60年代後半に、皮革表面を打つことによる凹凸の表現のみならず、編みこみ、張り込みなど多様な技法を用いるようになり、70年代のはじめにはイタリアの作家ルーチョ・ファンタナのキャンバスを鋭利に切り裂く作品に学んだ皮革造型を試みる。また、70年代後半からは縄文など古代のモティーフに興味を抱き、縄目やうねりを作品に取り入れるようになる。79年中国へ旅行。80年現代女流美術展に招待出品し以後同展に出品を続ける。また、同年光風会を退会。81年第20回現代工芸展に「折」を出品して内閣総理大臣賞受賞。82年第14回日展に「神話」を出品し、翌年この作品により第39回恩賜賞日本芸術院賞を受賞し、85年日本芸術院会員となる。87年皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となり、以後毎年同展に出品を続ける。1989(平成1)年郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催。95年文化功労者に選ばれる。2000年「大久保婦久子展」を大丸ミュージアム・東京、大丸ミュージアム・KYOTOで開催。同年文化勲章を受章し、11月3日に皇居で行われた文化勲章親授式に出席した直後の死去であった。洋画家の故・大久保作次郎夫人で、作次郎の母校東京美術学校に学んだ工芸家とも広く交遊し、伝統技術の伝承にとどまらない新しい工芸を模索する動きの中にあって、江戸時代まで仏具や武器・武具の制作に持ちられていた皮革工芸技術を、自立的な造型作品の制作に生かして、新境地を開いた。

林功

没年月日:2000/11/04

 日本画家で愛知県立芸術大学美術学部助教授の林功は11月4日、中国西安市郊外で交通事故のため死去した。西安国立歴史博物館の招待を受け、章懐太子墓の復元壁画研究の最中であった。享年54。1946(昭和21)年2月22日千葉県茂原市町保に生まれる。千葉県立長生高等学校在学中に、美術教師だった洋画家山本文彦に感化されて絵の勉強を始め、千葉県美術展で県美術会賞、市長賞を受賞。その後東京芸術大学日本画科に進み、69年に卒業、その年の院展に初入選する。東京芸術大学大学院保存修復技術研究室で吉田善彦の指導を受け71年に修了、同年日本美術院院友となる。72年に新人画家の登竜門であるシェル美術賞展で「朝・落葉の音」が一等賞を、81年第6回山種美術館賞展で「汎」が優秀賞を受賞。戦後世代の日本画家による横の会にも84年結成時から93(平成5)年解散まで参加、画壇の枠を越えた連携活動は注目を集めた。この間、87年から2年をかけて法隆寺聖霊院厨子絵「蓮池図」を制作。90年に愛知県立芸術大学美術学部講師となり、94年より同学部助教授を務める。96年には横の会のメンバーだった伊藤彬・中島千波・中野嘉之とグループ「目」を結成、屏風等の大作を試みる。意欲的な創作活動の一方で76年より文化庁の文化財修復模写事業に参加して以来、科学的調査研究をも踏まえた古画模写の第一人者として活躍。78年神護寺蔵伝源頼朝像、89年同寺蔵伝平重盛像、91年法隆寺金堂壁画飛天図、99年源氏物語絵巻等、多くの国宝、重要文化財の模写事業を手がけ、原画と同技法・同素材にこだわる姿勢は、修復の現場にも大きな影響を与えた。模写によって培われた技法や精神は創作活動のほか『日本画の描き方』(講談社 84年)、『名画の技法 水墨画』(日本経済新聞 89年)といった著書執筆にも反映されている。画集には『林功画集』(求龍堂 92年)、『林功 人と作品 追悼画集』(2001年)があり、回顧展としては没後の02年に茂原市立美術館・郷土資料館で「日本画家 林功展」が開催されている。

関主税

没年月日:2000/11/01

 日本画家で日展理事長の関主税は11月1日午前5時14分、肺がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年81。1919(大正8)年1月4日、千葉県長生郡に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科を卒業後、応召。45年復員し、48年結城素明、のち素明の紹介で中村岳陵に師事した。48年第33回院展に「植生の風景」が初入選するが、翌年第34回展に「南總の夕べ」を出品後、師岳陵に従い院展を脱退し日展に移籍。同年の第5回日展に「道廟の朝」が入選したのち、54年同第10回「粟生野」、翌55年第11回「訪春」がともに特選となった。次いで58年新日展委員、68年同評議員となり、68年第11回新日展「山路」は内閣総理大臣賞を受賞する。潤んだ大気に包まれた詩情豊かな風景画に秀作を生み、その後も71年第3回改組日展「鳥」、73年第5回「蒼」、77年第9回「潤声」、80年第12回「星辰」、81年第13回「信濃残雪」等を発表。82年には毎日新聞社よりリトグラフ集『信濃春秋』を刊行する。85年第17回日展「野」により、翌86年日本芸術院賞を受賞した。1992(平成4)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章を受章。99年より日展理事長を務める。日展を主な活躍の場とする一方で、54年加山又造、濱田台兒、松尾敏男らと不同社を結成、56年まで銀座松坂屋で展覧会を開催した。

真鍋博

没年月日:2000/10/31

 イラストレーターの真鍋博は、10月31日午後4時40分がん性リンパ管症のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年、愛媛県宇摩郡別子山村に生まれる。57年、多摩美術大学大学院美術研究科を修了、在学中の55年には、池田満寿夫等と「実在者」を結成。60年、週刊誌『朝日ジャーナル』に連載された「第七地下壕」で、第一回講談社さしえ賞を受賞。翌年、久里洋二、柳原良平とともに「アニメーション三人の会」を結成、草月アートセンターで上映会を開催。以後、イラストレーターとして、SF小説の挿絵、装丁など、多方面で活動をつづけた。ことに、60年代から70年代にわたる高度成長期の時代のなかで、精緻な描写と繊細な感覚をあわせもつ近未来的なイメージは、ひろく受け入れ、親しまれた。しかも、その作品でも、発言でも、そこには鋭い文明批評的な視点を欠くことがなく、近年は、エコロジーに感心を寄せていた。80年代からは、郷里別子山村、および新浜市内の公共施設に数々の壁画やモニュメントを制作し、新居浜では「真鍋博 アートピアロード」と称されている。1996(平成8)年、池田20世紀美術館で個展を開催、また没後の2001年には、郷里の愛媛県美術館で「真鍋博回顧展」(会期:7月27日~9月9日)が開催され、ポスター、本等の印刷物から、アニメーション、原画等が展示され、その多彩な活動が回顧された。

市橋とし子

没年月日:2000/10/26

 人形作家の市橋とし子は、10月26日午前11時15分、老衰のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年93。1907(明治40)年8月21日、東京都千代田区神田に生まれる。本名登志(とし)。1925(大正14)年、東京女子高等師範学校保育実習科を卒業。1938(昭和13)年に横浜へ転居し、40年、近所の洋装店で見た人形作家今村繁子の人形に感動。すぐさま今村の家を訪問して弟子となり人形制作を学んだ。戦中から終戦直後にかけては制作をやめていたが、49年、偶然路上で今村に再会。今村の強いすすめで出品した同年の第1回現代人形美術展で、「午下がり」が特選第一席を受賞。翌年の同展でも「おしくらまんじゅう」が特選第一席を受賞。桐塑(桐のおが屑と生麩糊をこねたもの)技法により、身近な生活に取材した人物の姿を繊細かつ詩情豊かに表現する清麗な作風を確立した。54年からは全日本女流美術展にも出品。このころ、より人肌に近い質感を求めて、仕上げに和紙を用いた紙張りの手法を取り入れるようになる。61年、第8回日本伝統工芸展に出品、以後同展に出品を続け、日本工芸会人形部長および理事を務めた。65年からは彫刻家金子篤司に師事して彫刻デッサンや木彫を学び、人形制作においても、一層、的確な構成力を見せるようになった。85年、勲四等瑞宝章を受章。1989(平成1)年、重要無形文化財「桐塑人形」保持者(人間国宝)に指定される。90年、横浜文化賞を受賞。94年、銀座の和光にて個展を開催。98年から翌年にかけて新宿伊勢丹美術館などを巡回した回顧展「市橋とし子人形展-人形はだませない-」が開催された。次男奥村昭雄は建築家、四男徹雄はピアニスト。

三芳悌吉

没年月日:2000/09/10

 行動美術協会会員の洋画家三芳悌吉は9月10日午後6時58分呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年90。1910(明治43)年6月23日、東京向島に生まれる。幼少時に新潟県新潟市に一家で転居。1927(昭和2)年、新潟医科大学解剖学教室で顕微鏡図を描く職に就くかたわら、絵画を独習。翌年、上京し、東京帝国大学医学部の森於兔教室に就職し、また太平洋画会研究所に学んだ。34年の第21回二科展に「裏町の子」が初入選。以後、戦前期は同会に出品をかさね、43年の第30回展に「防空服の婦人」が入選後、会友となった。戦後は、46年の行動美術協会創立にともない、その春季第一回展に出品協力者として出品、同会会員に迎えられた。以後、同展に一貫して出品をつづけた。1990(平成2)年には、新潟県美術博物館で「三芳悌吉の世界」展が開催され、その芸術が回顧された。画風は、街頭の情景などの風景画を中心に、堅実な描写ながら、その色彩の暖かさは人を惹きつけるものがある。一方では、はやくから多数の絵本の制作しており、その功績により、83年には日本児童文化功労賞を受賞、86年には『ある池のものがたり』(福音館書店)によって日本絵本賞を受賞。そのほか、晩年に出版した『砂丘物語』Ⅰ・Ⅱ(福音館書店 96年)は、幼年期をおくった大正期の新潟市をこどもの視点でえがいたものとして、多くの人に読みつがれている。

清川泰次

没年月日:2000/08/06

 洋画家清川泰次は、8月6日午後10時、虚血性心疾患のため世田谷区成城の自宅で死去した。享年81。1919(大正8)年5月6日、静岡県浜松市に生まれる。1944(昭和19)年、慶応義塾大学を卒業。戦後、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各地を訪れた。58年以後は無所属となり、独自に発表活動をつづけ、抽象絵画の世界をきづいていった。また59年には、『絵と言葉』(美術出版社)を刊行。さらに73年には、『清川泰次画集-白の世界』(ブロネード)を刊行、以後も画集を刊行している。83年には安田火災東郷青児美術館大賞受賞。国内外の美術館に作品が収蔵されているほかに、慶応義塾大学構内や、天竜市玖延禅寺(共同納骨堂)などにもある。1995(平成7)年5月、静岡県榛原郡御前崎町に自作約400点を寄贈し、これをもとに清川泰次芸術館が開館した。99年に、『芸術とは何か』(美術出版社)を刊行した。没後、本人の遺志により、自宅兼アトリエと、自作を世田谷区に寄贈し、将来的に公開施設になる予定である。白を基調にした、簡潔な構成の抽象絵画を旺盛に描きつづけ、その発展として立体作品も制作した。

小林昭夫

没年月日:2000/07/24

 画家、現代美術家で、現代美術の教育機関のひとつであるBゼミスクーリングシステム所長であった小林昭夫は、7月24日、胸部大動脈りゅう破裂のため横浜市南区の病院で死去した。享年71。特色ある教育機関を自営し、多くの現代美術家を輩出した小林は、1929(昭和4)年2月18日、横浜本牧に生まれた。横浜市立南太田小学校を経て、45年神奈川県立第一中学校(現 同県立希望ヶ丘高校)を卒業。同年海軍経理学校に入学するが、国立東京商科大学予科(現 一橋大学)に転入学する。同学在学中の46年ハマ展に初入選。翌47年第15回独立展に「風景」で初入選し、同年より児島善三郎に師事。50年第18回独立展に「風景(河)A」を出品する。51年東京商科大学を、卒業論文「セザンヌ論」を提出して卒業し、野沢屋(現 横浜高島屋)に入社。同年第19回独立展で新人賞を受賞するが、次第に団体展への疑問を抱く。53年野沢屋内に美術売り場が設置され、その仕入れを担当し、また、同社包装紙・ポスター等を手がける。54年から雑誌や書籍のイラストを描き、翌年には雑誌「文学界」「文芸」等のイラストを描いたほか、雑誌「あるびよん」に「ウイリアム・ブレイク論」を発表する。一方でアメリカ留学を志し、56年、アメリカのペンシルベニア美術学校などから奨学金支給の許可を受け、アメリカ文化センターで個展を開催。同年12月サンフランシスコ・スクール・オブ・ファインアーツに奨学生として入学する。米国滞在中、デ・クーニング、アシル・ゴーキーなどアメリカ抽象表現主義に触れ、岡田謙三を知る。58年Printmakers National Exhibit in Oaklandに出品して受賞し、同年サンフランシスコのFiengarten Gallery in San Franciscoで個展を開催して好評を博す。59年Fiengarten GalleryのCarmerl支店で個展を開催。同年デヤング美術館の無給助手となり、シンシナティでの国際版画ビエンナーレに招待出品。60年サンタバーバラ美術館で個展を開催し、ヨーロッパ旅行を経て同年帰国する。帰国に際し、全作品をFiengarten Galleryに売却。帰国後の61年「青年抽象作家展」(村松画廊)に出品。62年小林昭夫洋画研究会を横浜市中区相生町進交会館に設立。デッサン、油彩画の指導の一方で多くのゲスト講師を招き新しい美術のための多角的アプローチを模索する。67年、同年4月に開校予定であったデザイン専門学校「富士芸術学院」での現代美術講座が頓挫し、これを契機として同年10月「現代美術ベイシックゼミナール(Bゼミ)」を横浜に開設する。これに先立ち9月に同ゼミの開設を記念してシンポジウム「現代美術とは何だ」(参加者:小林昭夫、斎藤義重、城山三郎、日夏露彦、黛敏郎)を開催する。同時に斎藤義重とのディスカッションとスタジオ制作を中心とするAゼミも発足。当時のAゼミ受講者に小林はくどう、小清水漸、菅木志雄、吉田克郎らがいる。68年2月「九紫友びきひのえさる、今日は歴史の終りで始め、隙間で行うFace to Face」というイベントを開催。同年8月、後のBゼミ展につながる「にっぽんかまいたち展」を小林はくどう、小清水漸らと企画し、旧横浜市民ギャラリーで開催する。60年代後半から70年代のBゼミ専任講師には小清水漸、斎藤義重、関根伸夫、宇佐美圭司、高松二郎、李禹煥、柏原えつとむ、中原佑介、彦坂尚嘉、多木浩二らがいる。80年代に入ると、諏訪直樹、岡崎乾二郎、川俣正、鷲見和紀郎、戸谷茂雄、安斎重男らが選任講師をつとめた。そのうちの幾人かはBゼミ出身者であり、そのことにも現れるように、80年代のBゼミは、現代美術家として社会的認知を得る作家を輩出する独自の教育機関として注目を集めた。90年代には、赤塚祐二、海老塚耕一、小山穂太郎、Azby Brown、笠原恵実子、宇波彰、西雅秋、丸山直文、蔡国強、鈴木理策、青木野枝らが専任講師をつとめている。この間、小林はBゼミ所長としてその講義内容、Bゼミ展の企画などの指揮をとった。講師陣の人選にも見られるように、小林は常に変化していく社会の中で鋭敏な感性を働かせ、その時々の造形の問題と取り組み続けた。写真、ビデオ、コンピュータなど、狭義の「美術」には容れられなかったメディアにも逸早く注目し、Bゼミの講義内容に盛り込んでいる。この間、同ゼミの名称は86年にBゼミSchooling Systemとなり、1991(平成3)年には有限会社となっている。戦後の日本美術界において、戦前に結成された団体の相次ぐ復興が大きな流れを形づくって行く中で、新しい造形のあり方を真摯に考え、それを自らの制作の問題にとどまらず、共同で学びあい、模索しあうBゼミというシステムへ結実させた小林の仕事は、20世紀後半の日本美術史の中で特筆すべきものである。なお、Bゼミは99年に副所長に就任した昭夫の長男晴夫によりBゼミLearning Systemと改称されて、現在に至っている。

小倉遊亀

没年月日:2000/07/23

 日本画家で院展同人の小倉遊亀は7月23日午後10時11分、急性呼吸不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年105。1895(明治28)年3月1日、滋賀県大津市丸屋町(現 大津市中央1丁目)に、溝上巳之助、朝枝の長女として生まれる。本名同じ。奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)国語漢文部に学びながら、図画の科目を履修。そこで横山常五郎に絵を学び、また歴史研究者の水木要太郎により古美術への関心を啓発される。1917(大正6)年同校を総代で卒業。その後京都市立第三高等小学校、19年名古屋市の椙山高等女学校、20年横浜のミッションスクール、捜真女学校(36年まで)等で教鞭をとりながら絵を独学する。20年大磯に住む安田靫彦に入門し、22年日本美術院第8回試作展に「静物」が入選。25年第12回院展に出品するも落選した「童女入浴」を、26年靫彦のすすめで小堀鞆音社中の革丙会第1回展に出品、小林古径、速水御舟らの注目を受ける。26年第13回院展に「胡瓜」が初入選。この頃一時、“游亀”の号を用いている。作風としては、細密描写による写実的な姿勢がうかがえるものが多い。1928(昭和3)年第15回院展に草花を写生する少女たちを描いた「首花」を出品、院友となった。次いで29年第16回「故郷の人達」等を経て、32年女性として初の日本美術院同人となり、第19回展に「苺」を出品。一方、35年より熱海長畑山の修養道場、報恩会主宰の小林法運のもとへ通い始め、38年法運没後、その衣鉢を継いだ武田法得に師事する。また38年山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、神奈川県大船町の鉄樹庵に住んだ。44年鉄樹没後は京都大徳寺管長・太田晦厳に師事したが、禅の修養は作画にも大きな影響を与えた。47年には報恩会理事、50年同監事となっている。この間35年より39年まで東京府女子師範学校で教え、36年第1回改組帝展「静思」、38年第25回院展「浴女 その一」、39年第26回「浴女 その二」、42年第29回「夏の客」等を発表。日常生活のなかの女性を題材に、知的で爽快な印象を与える画面を生み出す。戦後は47年第32回院展に故郷近江の民話を題材とした「磨針峠」を出品したのち、51年第36回「娘」、52年第37回「美しき朝」と、現代的女性を明るい色彩と自由で力強いフォルムの中に描き出した。54年前年の第38回院展出品作「O夫人坐像」により第4回上村松園賞を受賞、55年には前年の第39回院展「裸婦」により芸能選奨美術部門文部大臣賞を受賞。次いで56年第41回院展「小女」により翌年第8回毎日美術賞、61年第46回院展「母子」により62年日本芸術院賞を受賞した。裸婦のシリーズとともに子供や孫といった家族を描いた作品は多くの人々に親しまれたが、他にも67年第52回「菩薩」、73年第68回「天武天皇」などの仏像・神像や、静物画・風景画にも取り組んでいる。58年日本美術院評議員、78年同理事、また76年日本芸術院会員、78年文化功労者となり、75年神奈川文化賞、79年滋賀県文化賞、80年文化勲章を受ける。1990(平成2)年日本美術院理事長に就任、96年より名誉理事長となる。92年頃より糖尿病のためしばらく絵を描くのを控え、書を試みるが、97年から年に数点のペースで再び作画活動を開始、100歳を越えてもなお制作にたずさわる姿は話題となった。回顧展は滋賀県立近代美術館をはじめとする美術館・デパートで度々開かれ、海外でも99年にパリの三越エトワールを会場に行われた。没後も2002年に「小倉遊亀展」が東京国立近代美術館・滋賀県立近代美術館で開催されている。著書に『画室の中から』(中央公論美術出版 79年)、『画室のうちそと』(読売新聞社 84年)がある。

渡辺義雄

没年月日:2000/07/21

 写真家で文化功労者、日本写真家協会名誉会長、日本大学名誉教授の渡辺義雄は、7月21日肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年93。1907(明治40)年4月21日新潟県三条町(現 三条市)に生れる。1920(大正9)年新潟県立三条中学校の入学に際し、父から祝いとしてカメラを贈られたことをきっかけに写真を撮り始め、独学で現像・印画などの技術を習得する。25年中学を卒業し上京、小西写真専門学校(翌年に東京写真専門学校と改称。現 東京工芸大学)に入学し写真を学ぶ。1928(昭和3)年同校を卒業、オリエンタル写真工業に入社、写真部に配属され乾板のテスト撮影などを担当する。30年同社が発行していた『フォトタイムス』誌の編集主幹木村専一を中心に新興写真研究会が結成されるとこれに参加し、31年宣伝部に異動、『フォトタイムス』の編集などに従事する。同誌などを拠点に30年代に急速な盛り上がりを見せた新興写真の運動の中、同誌上に小型カメラによって都市風俗を躍動的に捉えた「カメラウヮーク」と題する組み写真のシリーズ(32年から34年にかけて6度にわたり掲載)や、初期の代表作となる「御茶の水駅」(33年1月号掲載)を発表。日本におけるグラフ・ジャーナリズムの先駆というべき前者、建築家・堀口捨巳の示唆により、幾何学性を強調することで当時の代表的なモダン建築であった御茶ノ水駅舎の造形を大胆に描写した後者などによって写真家としての評価を確立する。34年にオリエンタル写真工業を退社し、外務省の外郭団体・国際文化振興会写真部、中央工房の外郭団体・国際報道写真協会に参加、国際文化振興会の依嘱による37年のパリ万国博会出品の写真壁画「日本観光写真壁画」(構成・原弘)や、同年外務省の依嘱で木村伊兵衛らと取材した中国大陸での写真による38年の国際報道写真協会主催の「南京・上海報道写真展」など、各種対外宣伝や報道に携わる。45年東京大空襲によりネガやプリントを焼失。  終戦後は次第に建築写真を専門とするようになり、53年伊勢神宮の第59回式年遷宮に際して、写真家として初めて許可を受けて内宮、外宮の御垣内を撮影。以後73年、1993(平成5)年の式年遷宮に際しても撮影を行った伊勢神宮(写真集に共著『伊勢 日本建築の原型』朝日新聞社 62年など)をはじめ、「奈良六大寺大観」として知られる法隆寺、東大寺などを撮影した一連の作品(『奈良六大寺大観』岩波書店、68~73年、全14巻のうち6つの巻を担当)など、多くの古社寺を撮影し日本の古建築写真の第一人者となった。また東宮御所(『東宮御所』毎日新聞社 68年)、皇居宮殿(『宮殿』毎日新聞社 69年)、帝国ホテル(『帝国ホテル』鹿島研究所出版会 68年)など近・現代建築を撮影した写真にも優れた仕事を残した。写真の機械的機能に立脚した表現を目指した新興写真の運動を通じて確立された写真観は戦後の建築写真の仕事にも引き継がれ、その建築写真はつねに、細部や質感の明解・精緻な描写、建築のフォルムの的確な把握、理想的な光線条件のもとでの豊かな諧調表現など、写真の機能を厳格かつ十分に生かしきることを基礎として、対象の造形美に迫ろうとするものであった。  50年に日本写真家協会が結成されると総務委員となり、53年には副会長に就任、58年から81年まで会長を務めた。日本著作権協議会の活動にも携わり71年に日本写真著作権協会が設立されると会長に就任、また78年発足の日本写真文化センター設立準備懇談会(のち日本写真美術館設立促進委員会と改称)の代表を務めるなど、写真著作権や写真の文化的価値の確立といった社会的な活動においても尽力し、90年に開館した東京都写真美術館の初代館長を務めた(95年退任)。58年より77年まで日本大学芸術学部写真学科教授として教鞭をとり、78年名誉教授となる。89年に新潟県美術博物館、91年に横浜美術館、96年には東京都写真美術館で回顧展が開催された。69年に紺綬褒章、72年に紫綬褒章、78年に勲三等瑞宝章を受章、90年には写真家としては初の文化功労者に選定された。

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