本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





相原求一朗

没年月日:1999/02/05

 新制作協会会員の洋画家相原求一朗は、2月5日午後4時、肝不全のため埼玉県川越市砂の自宅で死去した。享年80。1918 (大正7)年12月3日、埼玉県川越市本町2丁目5番地に生まれる。本名茂吉(もきち)。生家は雑穀、乾物、青果などの卸問屋として古くから知られており、25年に同業の合名会社となった。31(昭和6)年、川越市立第二尋常小学校を卒業する。この頃から絵画に興味を持ち始め、東京美術学校入学を志すようになる。病弱であったため、この年、求一朗と改名する。36年、川越商業学校(現、川越商業高等学校)を卒業し、実家の家業に携わる一方、独学で油彩画を描き始める。40年、召集により入営し、中国東北部へ渡り、翌年ルソン島へ渡る。44年、フィリピンから空路帰還途中、搭乗機が沖縄沖に不時着し、重症を負って漂流しているところを救出される。47年から48年にかけて日本橋の北荘画廊で開かれていたデッサン研究会に参加、48年に新制作協会の画家大国章夫を知り、その紹介により猪熊弦一郎の田園調布純粋美術研究所に入所する。50年、第14回新制作協会展に「白いビル」で初入選。以後、同展に出品を続けるが、50年代半ばにアンフォルメルが日本に紹介されたことなどが契機となり、絵画制作に疑問を抱き、制作に行き詰まる。60年、61年には新制作協会展に出品するが連年落選。61年秋に北海道を旅行し、その風景に抽象表現に通う幾何学的な構成を見出し、具象画の新たな指針を得る。62年、第26回新制作協会展に狩勝峠を描いた「風景」を出品し、再入選を果たす。63年第27回同展に「原野」「ノサップ」を出品して新作家賞を受賞、同会会友となる。以後、冬枯れの北の大地は、相原の原風景となり、生涯のモティーフとなった。64年カナダ、フランス、イタリア、アラブ連合へ旅行。65年「ヨーロッパを主題として」と題する個展を銀座・日動サロンで開催する。また、同年第29回新制作協会展に「白い教会」「赤い教会」を出品して新作家賞を受賞。同年11月から12月までアメリカ、中南米を旅行し、翌年、その成果を日動サロンでの個展で発表する。68年、新制作協会会員となり、同年、池袋・西武百貨店で北海道に取材した作品で構成した個展「北の詩」を開催する。69年、パリ、スペインへ、72年、イギリス、フランスへ、77年アメリカへ、78年にはフランスへ取材旅行するなど70年代末までは積極的に海外を訪れ、それぞれの旅行の成果を個展で発表する。80年代以降は国内での制作を中心とし、北海道のほか佐渡、津軽、富山などを訪れ、毎年「北の風土」と題する個展を開催。この個展が90年代半ばから「私の風土」と改名されたように、風景に作家の内面を反映し、画面化する制作が続いた。青灰色、白、黒といった色数を限った寒色を用い、原野や原生林など、大地と気候・風土がせめぎ合う地形を安定感のある幾何学的構図で捉え、厳しさ、そこに芽吹く一脈の明るさを表現した。画集に『相原求一朗画集』(1977年、日動出版)、『相原求一朗画集』(1984年、講談社)、『相原求一朗画集』(1991年、日動出版)などがある。96(平成6)年、北海道河西郡中札内村に「相原求一朗美術館」が開館。また、97年には北海道帯広市に「相原求一朗デッサン館」が開館する。97年、郷里の川越市立博物館で「相原求一朗展」、98年、飯山市美術館で「相原求一朗展」、99年「相原求一朗の世界展」が丸広百貨庖川越庖で開催されるなど、90年代後半には画業を回顧する大規模展が相次いで開催され、没後の2000年、本格的な回顧展「相原求一朗の世界を顧みて」が川越市立博物館で開催された。年譜は同展図録に詳しい。

加賀美勣

没年月日:1999/01/31

 愛知県立芸術大学教授で、洋画家の加賀美勣は1月31日午前5時38分、急性肺腫のため長野県茅野市の病院で死去した。享年59。1939 (昭和14)7月9日、山梨県甲府市に生まれる。58年、甲府第一高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部絵画科(油絵)に進学、63年に卒業、65年に同大学大学院を修了した。在学中には、大橋賞を受賞。66年に愛知県立芸術大学に赴任、また同年第40回国画会展に「食後に(1)」、「食後に(2)」 2点を初出品、国画賞40周年記念賞を受賞した。翌年の第41回同展に「一人で昼食」、「早朝の食事」2点を出品、国画賞を受賞するとともに同会友となった。68年にフォルム画廊で初の個展開催、また同年、国画会会員となった。92(平成4)年に愛知県立芸術大学教授となった。その間、同大学で後進の指導にあたるとともに、国展に出品をつづけ、東京のフォルム画廊、日動画廊、泰明画廊、また名古屋市の丸栄などでたびたび個展を開催した。鋭角的なフォルムと鮮やかな色彩によって構成された室内風景や田園風景を制作した。

角谷一圭

没年月日:1999/01/14

 釜師の角谷一圭は1月14日、肺炎のため大阪市の病院で死去した。享年94。1904(明治37)年10月12日大阪市に生まれる。本名辰治郎。17(大正6)年釜師の父巳之助より茶の湯釜の制作技法を習得。のち大国藤兵衛、香取秀真に茶釜、鋳金全般を学ぶ。また細見古香庵からも茶釜制作上の影響を受けた。47(昭和22)年昭和天皇大阪行幸の際に釜を献上する。52年第8回日展に初入選、以後56年第12回日展まで出品するが、58年第5回日本伝統工芸展に「海老釜」を出品して高松宮総裁賞を受賞し、以後は同展に出品、61年には同8回展出品作「独楽釜」で朝日新聞社賞を受賞、その間58年布施市文化功労賞、同年大阪府芸術賞を受けるなど受賞を重ねる。終戦直後に出回った名釜修理・修復に携わり、茶釜の形態、地紋、鉄味を調査、その成果に基づき鎌倉期の筑前・芦屋釜を範とし、のち和銑釜を研究、優雅で格調高い作風を確立した。73年第60回伊勢神宮式年遷宮神宝鏡31面を鋳造、93(平成5)年第61回遷宮の折も制作を手がけた。76年勲四等瑞宝章を受章、78年国の重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(人間国宝)となる。84年文化庁企画「茶の湯釜」記録映画で「馬ノ図真形釜」を制作。著書に『釜師―茶の湯釜のできるまで』(1974年 浪速社)がある。弟莎村は釜師、長男征一は金工作家。

安西啓明

没年月日:1999/01/11

 日本画家の安西啓明は1月11日、老衰のため東京都大田区の病院で死去した。享年93。1905 (明治38)年4月15日、東京府八王子に生まれる。本名正男。1920(大正9)年荒木寛畝門下の広瀬東畝に師事したのち、21年川端龍子に入門。26年第13回再興院展に「学校」が初入選するが、29(昭和4)年龍子が青龍社を結成するに及んでこれに参加、同年の第1回展に「アパート」「本門寺風景」を出品した。以後同展で36年第8回「集鹿」がY氏賞、39年第11回「埴輪」が奨励賞、40年第12回「游亀」が蒼穹賞を受賞し、30年青龍社社子、翌年社友、42年社人となる。また龍子の画塾御形塾の塾頭もつとめた。45年6月満州(中国東北部)に開校した新京芸術院の教授として同地に渡るが、終戦とともに帰国。48年より全国の建築をテーマにした風景連作を青龍展に発表、60年からは急速な勢いで変貌していく東京の街や建物に思いを寄せ、連作「東京シリーズ」に着手する。またその一方で坂口安吾「信長」(52年)、室生犀星「杏っ子」(56年)、庄野潤三「夕べの雲」(64年)といった新関連載小説の挿絵を描く。57年以後毎年個展を開き、61年には自ら主宰する青明会の第一回展を開催。同66年龍子死去に伴い青龍社は解散、以後、無所属で活動する。日本美術家連盟理事もつとめる。98(平成10)年3月大田区ほかの主催で「安西啓明日本画展」(於太聞区民プラザ)を開催。

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