本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





横田忠司

没年月日:1999/11/29

 日本美術史家で多摩美術大学教授の横田忠司は、11月29日午後1時32分くも膜下出血のため東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年54。1945(昭和20)年1月3目、横田敏夫・ハル子の四男二女の四男として下関に生まれる。彦島中学、県立下関西高校を卒業後、早稲田大学へ進み、67年3月第一文学部心理学専修を卒業、さらに美術史へ進路を変え、69年3月同美術史専修を卒業、72年3月同大学院文学研究科芸術学専攻修土課程を修了後、博士課程へと進み78年9月に同博土課程を退学。その間、74年4月から78年3月まで文学部助手を務めた。78年4月から多摩美術大学非常勤講師、81年4月に専任講師となり、87年4月から助教授、93(平成5)年4月から教授。また、中央大学理工学部兼任講師、早稲田大学文学部非常勤講師などを務めた。82年3月、岡崎ちづ子と結婚、88年7月に長男啓吾をもうけた。 実家は病院だが、高校時代から絵を好み、外科医にという父の意に反して、この道に進んだ。専門は、室町時代の水墨画。当初心理学を専攻したことからも知れるように、措く者の内面への興味を持ち、「室町水墨画における画僧の制作意識について」では、数少ない史料から画僧の意識へ踏み込み、その美意識に考察を加えている。また「室町水墨画における画僧について」では、画僧を分類しながら彼らの在りようについて語っている。こまめな史料収集に基づいて特定の事像の全体像を浮かび上がらせようとするのも研究上の特徴の一つで、「中世実景図研究」では五山文学から実際の土地を描きまたそれらとのイメージ連鎖をもつ絵画関係史料を網羅して丹念に分類し、この問題を考えるための基本情報を提供した。近年は、地方志から絵画関係史料を博捜した「日本中世における地方絵画についての基礎研究」を地域別に発表中の急逝だった。実景図関係史料とともに、日本中世絵画史の基礎史料集となったはずであり、それを基礎として浮かび上がる諸々の問題を語る準備途上での急逝でであっただけに惜しまれる。また、「禅林画讃」(共著)は毎日出版文化賞特別賞を受賞した。 著述以外にも、多摩美術大学が主催する宗教美術研究会の運営にあたり、また室町水墨画研究会のメンバーとして多くの作品調査に加わった。晩酌を欠かさず、酒宴ではにこにこしながら最後までつきあう寡黙な酒豪だった。 主著『墨蹟と禅宗絵画』(共著)(『日本美術絵画全集』14、学習研究社、1979年)『禅林画讃』(共著)(毎日新聞社、1987年) 主要論文住吉広行(伝記研究)―屋代広賢撰『道の幸』と関連して(美術史研究1、1973年)初期水墨画家の落款について―主に禅林の画家を中心として(古美術50、1976年)『東寺百合文書』にみえる法橋長賀について―宅磨派の良賀、長賀に関連して(美術史研究15、1977年)室町水墨山水における「境」について(古美術59、1980年)室町水墨画における画僧の制作意識について―とくに愚渓右慧のそれを中心にして(多摩美術大学研究紀要2、1985年)室町水墨画における画僧の位置づけ―その性格と役割(美学171、1992年)室町水墨画における画僧について―その性格と役割(宗教美術研究1、1994年)日本中世における地方絵画についての基礎研究―中部編1静岡(多摩美術大学研究紀要12、1997)伝明兆筆羅漢図(国華1231、1998年)日本中世における地方絵画についての基礎研究―中部編2岐阜(多摩美術大学研究紀要13、1998)中世実景図研究(『日本美術襍稿』佐々木剛三先生古稀記念論文集、明徳出版社、1998年)日本中世における地方絵画についての基礎研究―中部編3山梨(多摩美術大学研究紀要13、1999)

西村昭二郎

没年月日:1999/11/25

 日本画家の西村昭二郎は11月25日、肝臓がんのため千葉県市川市の病院で死去した。享年72。1927(昭和2)年8月23日京都市で生まれる。44年京都市立美術工芸学校絵画科を修了し東京美術学校日本画科に入学。同校を卒業した49年に第2回創造美術展に初入選、以後新制作展、創画展と出品を続ける。53年第17回新制作展を皮切りに57、59、60年と新作家賞を受賞して61年新制作協会日本画部会員となる。67年法隆寺金堂壁画模写に従事。82年から91年まで筑波大学芸術学系(日本画)教授をつとめる。花鳥画を得意とし、繊細な描写力を基礎に清冽な色彩感あふれる画風に特色があり、安定した制作ぶりを示すと同時に、個展においては77年屏風作品展(銀座松屋)、80年花鳥12ヶ月展(銀座・内山画廊)など意欲的な発表を行った。77年画集『西村昭二郎集』(ふたば書房)刊行、83年には「雪はな鴛鴦」(前年第9回創画展出品)が文化庁買上げとなっている。

鷹山宇一

没年月日:1999/10/25

 二科会名誉理事の画家鷹山宇一は、10月25日午後2時13分、種性血管内凝固症候群のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年90。1908 (明治41)年12月10日、青森県七戸町に生まれる。15年七戸尋常高等小学校に入学。在学中、代用教員として赴任した歌人青山哀囚を知り、青山が生徒に回覧した童話雑誌「赤い鳥」によって文学や児童画に興味を持つようになる。特に初山滋の児童画にひかれる。22年旧制青森中学校に入学。翌年棟方志功、松本満史らの結成した青光画社に参加し絵を描き始める。青光画社は当時19歳の棟方を中心に10代の作家たちが設立した美術家集団で青森県で初めての公募展を開催しており、鷹山も出品した。27年(昭和2)旧制青山中学を卒業して上京し、川端画学校に入学。都会風景を好んで描き、この頃の画風にはフォービスム風の再現描写が認められる。同年9月日本美術学校洋画科へ編入する。30年同校を卒業し、同年の第17回二科展に「都会風景」「風景を配せる静物」の2点の木版画を出品して初入選。この頃からフランスの超現実主義に学び、エルンストの表現方法を研究。31年第18回二科展に「ラ・リュヌ・サンボルエ」「街ノ上」「風景を配せる静物」「風景と鳥」の4点の木版画を出品。33年、二科会の前衛的若手作家である高井貞二、伊藤久三郎、山口長男らと美術団体「新油絵」を結成しその第1回展を銀座資生堂で開催。38年同じく二科会の前衛作家たちによる「九室会」に参加。また、同年に結成された美術文化協会に参加し、40年その第1回展に「日高川(民族ノ移動ノ内(情炎))を出品し、以後も二科展と同展に出品を続ける。これら戦前の公募展に出品された作品は、おおむね木版画である。43年海軍航空隊員として召集される。45年、美術団体としていち早く再建された二科会に参加。戦後は木版画から油彩画へ転じ、非現実的な幻想の世界を描くようになる。二科展へ出品を続ける一方、50年代、60年代は日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。40年代後半から後に鷹山の作品を特徴づける蝶のモティーフが登場し、60年代には青く澄んだ宇宙的空間を背景に幻想的な花と蝶を描く一群の「遊蝶花」をテーマとする作品が描かれた。64年第6回現代日本美術展に「遊蝶花」「草原・静物」を出品して最優秀賞受賞。66年第51回二科展に「海と貝殻」を出品し青児賞受賞。翌67年第52回同展に「高原・湖」「高原と花」を出品し総理大臣賞受賞。「遊蝶花」で確立された画風は晩年まで引き継がれ、油彩の透明感を生かした独自の明澄な青を基調とする作品で知られた。61年二科会理事、79年同会が社団法人として発足した際も同会理事に就任。90(平成2)年七戸町名誉町民の称号を受け、94年に同町に七戸町立鷹山宇一記念美術館(七戸町荒熊内67―95)が設立された。

西川新次

没年月日:1999/09/18

 9月18日午前3時40分、脳腫瘍のため入院先の千葉県柏市内の病院で死去。慶應義塾大学名誉教授、佐野美術館館長、醍醐寺霊宝館館長。享年78。日本彫刻史。 西川は1920(大正9)年12月11日、福井県武生市蓬莱42の商家に生まれた。幼少年時代から慶慮義塾大学で日本彫刻史の研究を志す頃までの一端は「読書遍歴―少・青年時代のころ―」(『三色旗』312号、慶慮義塾大学、1974年)に詳述される通りで、日本彫刻史の研究を志すきっかけについても、和辻哲郎『古寺巡礼』の名文に刺激されて日本美術ことに仏像に興味を覚えたことを回顧している。そして、慶應義塾大学文学部2年の頃に、生涯の師となる丸尾彰三郎(当時、慶應義塾大学に非常勤講師として招かれていた)の門を敲く。その折、古代彫刻を学ぶにあたって読むべき本を尋ねたところ「先ず『六国史』を読んで自分なりの年表や索引を作ることを薦められ、論文集ではと語を継ぐと津田左右吉の『文学のあらわれたる我国国民思想の研究』・『黒川真頼全集』・平子鐸嶺の論文集など、直接関係なさそうな、一見古くさい本を挙げられたのには驚いた」が「それぞれを読み進めながら、いずれも根本的な思考や研究につながる、大きな意味を含んでいることを、改めて思い知らされた」と述べている。このあたりに後年、文献を緻密におさえ論を構築していく西川の学風の淵源が求められそうである。学問にかける情熱は日本彫刻史にとどまらず中国石窟芸術にも及び「召集直前に広告の出た水野清一、長廣敏雄氏の『竜門石窟の研究』は、父に頼んで、先輩・松下隆章氏を患わして買って貰った。生きて読めるかどうかわからないのに、呑気な話である。幸いに戦が終って、その本に接した時の喜びは、なににも優る思いであった」と記すことに窺うことができる。そして、満州四乎街の予備仕宮学校時代に現地の本屋でその頃発行された足立康の『日本彫刻史の研究』を購入し「ベットの上の整理箱にしまって置いたところ、教官に見つかって散々に油を絞られた」が「断固として反抗し、妥協することを止めた」ために「本は学校を卒業するまで教官におあずけとなってしまった」という逸話も、日本彫刻史にかける情熱と意志の堅さを示すであろう。43(昭和18)年9月、慶應義塾大学文学部哲学科(芸術学専攻)卒業。同月、東京帝室博物館に採用。列品課勤務(技術雇員)。なお、この頃、丸尾彰三郎の紹介で東京・品川寺に下宿し、住職の子息・仲田順和(現、醍醐寺執行長)と文字通り寝食をともにする。後年、西川が醍醐寺と格別関係が深かったことも、この頃にまで遡る。47年5月、国立博物館陳列課勤務(文部技官)。 50年9月、文化財保護委員会保存部美術工芸課に配置換。58年1月から11月、外務事務官兼務(外務省文化情報局勤務)。同3月から9月、ヨーロッパ巡回日本古美術展開催のためパリ・ロンドン・へーグ・ローマに出張。62年8月より文化庁文化財保護部美術工芸課修理主査。67年4月より東京国立博物館学芸部資料課長。69年12月より71年3月まで文化庁文化財保護部美術工芸課長。71年4月、慶應義塾大学文学部教授となり、86年3月、定年退職。この問、慶應義塾大学において指導を仰ぎ、仏教美術を志した学徒のなかから中川委紀子、紺野敏文、片山寛明、関根俊一、林温、塩澤寛樹、金子信久、浅見龍介、山岸公基が輩出することとなった。なお、慶應義塾大学における門弟への指導は非常に厳しいものがあったことはあまり知られていない。慶應義塾大学三田校舎での最終講義は「藤原彫刻の成立」についてであった。このテーマを最終講義に選んだのは当時、責任編集に当たった『平等院大観』第2巻・彫刻篇(岩波書店、1987年)において大仏師定朝と平等院鳳風堂の彫刻について改めて取り組んだことによるところが大きいものとみられるが、一方で、西川の関心の中心が平安彫刻史にあったことを示すものでもあろう。同年4月慶應義塾大学名誉教授となる。そして、84年7月より91年3月まで山梨県立美術館長を勤める。また、学習院大学文学部、中央大学文学部、東京芸術大学大学院美術研究科、静岡大学教育学部、早稲田大学大学院文学研究科、東京大学文学部、成城大学大学院文学研究科、仁愛女子短期大学、慶應義塾大学大学院文学研究科の非常勤講師を勤め、紳土の品格を備えた西川を慕い慶應義塾大学以外においても指導を仰ぐ学徒が多く慕い集まった。学術審議会専門委員、文化財保護審議委員会専門委員(第一専門調査会絵商彫刻部会長、第二専門調査会建造物部会を兼ねる)、東京国立博物館客員研究員、美術史学会常任委員、仏教芸術学会委員、密教図像学会委員、千葉県・静岡県・岩手県・新潟県・東京都・山梨県の各文化財保護審議会委員、柏市文化財保護委員会委員長、新潟県三条市史および山梨県史の編纂委員会委員、福井県史編纂文化財部会参与、中日共同敦煌莫高窟修復委員会委員、東大寺南大門修復委員会委員長、臼杵磨崖仏修理委員会委員、福井県立博物館建設委員会委員、福井県立美術館運営協議会委員、出光美術館評議委員、三井文庫評議委員、佐野美術館常任理事を勤める。死亡時には佐野美術館館長、醍醐寺霊宝館長の職にあった。西川の学風は現場での知見を重んじるとともに、文献を押さえた緻密な論の構築にあったが、前者は博物館および文化庁時代に現場で調査・修理に携わった経験を通じて培われた。学問領域は飛鳥時代から鎌倉時代にまで及ぶ。しかも発表されたどの論考も今日でも遜色なく、その後の研究の指針となっている。業績において特筆されるのは師・丸尾彰三郎を中心に毛利久・井上正・水野敬三郎と『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代造像銘記篇・全8巻(中央公論美術出版、1966~71年)を刊行したことで、その刊行によって日本美術の研究分野において彫刻史がいち早く作品の調査方法、記述の仕方、写真の撮影カット等の確立をみた。まさに近代にはじまる日本彫刻史研究を今日のスタイルに固めた業績は大きい。そしてこれを承けてさらに田辺三郎助と西川杏太郎が参加して『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代重要作品篇・全5巻(中央公論美術出版、1973~97年)を完成させている。また、これと併行してはじまった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店、1968~73年)や『大和古寺大観』全7 巻(岩波書店、1976~78年)において日本彫刻作品の鑑賞のあり方に一つの指針を示した。さらに、文化庁美術工芸課の課長時代の国宝・重要文化財修理の経験と文化財行政で得た信用は、88年から93年にかけて行われた文字通り世紀の大修理となった東大寺南大門金剛力士像の大修理において保存修理委員会委員長を務め、指導を行ったことは記憶に新しい。そして、最後の論考は『密教図像』17号(1998年)に発表した「重源と醍醐寺・村上源氏(上)―大蔵卿栢杜堂と醍醐寺の三角五輪塔を巡って―」であった。これは前年、四日市市立博物館で開催された特別展『重源上人』の会期中、同館を会場として行われた密教図像学会全国大会における記念講演をもとに執筆したものである。自らが修理に関わった東大寺南大門金剛力士像の造像勧進者と知られる俊乗房重源と、霊宝館長を務めた醍醐寺とを視野にいれて、重源と醍醐寺の関わりを信仰に及んで論じたものである。99年2月に上梓し、その抜き刷を各方面に送付すべく書斎で自ら作業を行っている時に倒れたが、その後、回復・退院する。4月末頃より同年秋に東京・東武美術館と大阪・市立美術館において開催される『役行者と修験道の世界』図録のための執筆にとりかかったのが最後の仕事となった。七月初旬に再入院。『平等院大観』刊行後、西川の念願であった『醍醐寺大観』全3巻の刊行が漸く実現へと動きだした9月18日、78歳の生涯を閉じる。『醍醐寺大観』刊行の遺志は水野敬三郎(東京芸術大学名誉教授、新潟県立近代美術館長)が引き継ぎ、2001年冬、漸く刊行がはじまる。その監修者として山根有三とともに名を連ねることとなった。編著書・論文かの述作については『日本彫刻史論集』(中央公論美術出版、1991年)に総目録がある。それ以後に執筆された論考は以下の通り。「中道町円楽寺の役行者像」〔植松先生頒寿記念論文集刊行会編『甲斐中世史と仏教美術』(名著出版、1994年)〕、「七百九十年目の甦り その尊容と平成修理の概要」〔東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、1997年)〕、「役行者像から見た修験の世界」(役行者神変大菩薩一三00年遠忌記念特別展図録『役行者と修験道の世界』、1999年)「重源と醍醐寺・村上源氏(上)―大蔵卿栢杜銅と醍醐寺の三角五輪塔を巡ってJ (『密教図像』17号、1998年)。なお、没後、莫大な蔵書・抜刷・調書・写真資料の行方について各方面から関心が寄せられたが、学閥にとらわれることなく後進の研究者の育成を願った西川の遺志を汲んだ夫人の配慮により、生前、霊宝館長を勤めた醍醐寺に西川文庫を創設し、研究者に公開し研究の進展に益すべく移管され、西川が館長時代に進め、2001年秋に開館された下醍醐の新宝物館内の、国宝薬師三尊像が鎮座する隣室に開設が予定されており、目下、公開すべく作業が進められている。

吉田克朗

没年月日:1999/09/05

 武蔵野美術大学教授の美術家吉田克朗は9月5日午後2時39分食道がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年55。1943(昭和18)年9月23日、埼玉県深谷市に生まれる。68年、多摩美術大学絵画科を卒業、在学中は斎藤義重の指導をうけた。同年、第8回現代日本美術展のコンクール部門に、机を二つに切りはなした作品「cut-1」が初入選した。その後、個展によって発表活動をするかたわら、69年の「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)、翌年の「現代美術の一断面」展(東京国立近代美術館)などの企画展に出品した。作品は、紙、石、綿、角材、電球、ロープなど、未加工のままの素材をつかい、それらを組み合わせることで、日常での意味からも、物質性からも「もの」そのものを解きはなち、存在を提示することで表現たらしめようとするもので、題名には「cut-off」(切り離す)という言葉がつかわれていた。この当時、すでに「もの派」という呼称が生まれており、吉田もその中核的な活動をする作家のひとりとして評されていた。一方、版画制作を同時期からはじめており、身辺のスナップ写真をつかったシルクスクリーンによる作品を制作し、70年の第1回ソウル版画ビエンナーレでは、大賞を受賞した。以後、制作の中心を版画制作にうつし、国内外の版画コンクールに出品をつづけた。73年から翌年にかけて、文化庁海外芸術研修生としてイギリスに滞在。70年末には、個展において、傘、衣服、建物の一部に絵の具をつけて、麻布の平面に押し当てる作品を発表した。これも、いわゆるフロッタージュとはことなり、日常の認識からはなれた「もの」としての事実を表現しようとした作品であった。しかし、こうした手の行為による制作は、80年代後半から、手の指、手のひらに直接黒鉛をつけて、画面にむかう平面作品に展開していった。作品は、いずれも大画面に、肉塊のようなフォルムがかさなりあったような圧倒的なイメージを示しつつ、そこに手の行為の痕跡をとどめていくというものであり、この制作方法は最後までつづけられた。「もの派」のひとりとして出発したこの美術家は、行為としての表現、ものそのものとしての表現を採りつづけたことで、現代美術に新しい地平をきりひらき、確かな足跡を残したといえる。

楢原健三

没年月日:1999/08/14

 日本芸術院会員で日展顧問をつとめた洋画家楢原健三は8月14日午前6時36分肺がんのため東京都板橋区の病院で死去した。享年92。1907 (明治40)年6月30日、東京に生まれる。28(昭和3)年、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事した。同学校在学中の30年、第11回帝展に「数寄屋橋風景」が初入選する。33年同学校を卒業、翌年関東庁立大連神明高等女学校に図画教師として赴任、43年まで同校で教鞭をとった。46年、文部省主催第1回日本美術展覧会(日展)に「街頭にて」が入選。翌年の第2回展では「書斎の一隅」が入選し、岡田賞を受賞した。また、同年、示現会が創立され、その創立会員として参加した。56年、第12回日展において審査員をつとめる。同展の出品作「燈台遠望」の頃より、それまでの手堅い写実による、日常の生活のなかから取材した室内風景から、漁村など生活の匂いのする情景と自然をたくみに構成し、豪胆な筆致による風景画を描くようになった。79年に、示現会理事長につき、81年には、前年の日展出品作「漁港夜景」により日本芸術院賞を受賞し、また日展理事に就任した。88年に日本芸術院会員となった。96(平成8)年には、練馬区立美術館で「ねりまの美術’96 楢原健三・鳥居敏文」展が開催され、初期から新作まで45点が出品された。

吉井忠

没年月日:1999/08/05

 洋画家吉井忠は、8月5日午後1時27分、肺炎のため、東京都渋谷区の病院で死去した。享年91。1908年(明治41)7月25日、福島県福島市陣場町に生まれる。福島第四尋常小学校から、福島県立中学校に進学し、同校で英語教師をしていた阪本勝(後の兵庫県立近代美術館館長)に影響を受ける。同校を26(大正15)年に卒業して上京し、東京美術学校を受験するが失敗。中村彝の出身校であることを理由に、太平洋画会研究所に入学。当時の所長は中村不折であった。同学に、井上長三郎、鶴岡政男、靉光、寺田政明、麻生三郎、松本竣介らがあった。彼らの活動および、当時活躍中の、佐伯祐三、前田寛治、長谷川利行らの画風に刺激を受ける。28(昭和3)年第9回帝展に「祠」で初入選。翌年より太平洋画会展に出品を始め、また第10回帝展に「雨の日」で入選する。31年第27回太平洋画会展に「荒れの後」を出品して弘誓賞受賞。翌年の同展に「信濃の春」などを出品して中村彝賞を受賞する。太平洋画会研究所で学んだ、対象の再現描写を重視する写実的な画風が世に認められるものとなったと言えよう。36年第6回独立展に「女」を出品。同年寺田政明、麻生三郎らと新宿・天城画廊で「前へ展」を開催し、この頃、寺田、麻生らによって結成されたエコール・ド・東京に参加する。画風は、シュールレアリズム風に変化している。同年秋、シベリア経由で渡欧。パリを拠点にオランダ、ベルギー、イタリアを訪れる。滞欧中、ピカソの「ゲルニカ」を見て感銘を受ける。37年夏に帰国し、東京池袋に居を定め、同年11月、東京丸の内の安田倶楽部で「吉井忠滞欧作品展Jを開催。38年、寺田政明、糸園和三郎、古沢岩美、北脇昇らと創紀美術協会を結成。翌年、同会の寺田、北脇、また、福沢一郎らと美術文化協会を結成して、以後同展に出品を続ける。44年福島連隊司令部に派遣され、1ヶ月ほど中国へ渡る。45年、空襲により郷里福島の郡山市郊外へ疎開するが、46年に上京。47年、佐田勝、井上長三郎、丸木位里、赤松俊子らと前衛美術会を結成。また、同年美術文化協会を退会して、自由美術家協会に参加し、以後同展に出品。また、同年冬に第l回展が開催された日本アンデパンダン展に出品を続ける。戦中から、古典研究を基礎とする人物群像を多く制作するようになっており、50年代初めまでの作品にはセザンヌやピカソを研究した跡が認められるが、50年代半ばから再現描写を重視して描いた人物像を群像として構成し、生きることの厳しさ、力強さ、安らぎなどを表現する独自の画風を展開する。絵画制作を社会と密接に結びつけて位置づけ、60年秋、同年1月から始まった三井三池炭鉱争議の支援に出かけている。64年寺田政明、麻生三郎、大野五郎ら38名とともに自由美術家協会を退会し、主体美術協会を結成して以後、同展に出品を続ける。社会における造形表現の位置を考察しつづけ、自己表現よりも社会が絵画に求めるものを優先しようとする姿勢を貫き、常に生活に根ざした表現を模索した。86年メキシコ、キューバへ、88年敦煌、トルファンへ旅行するなど、世界各地を訪ねたことも、様々な土地の人々の生活を知り、自らの位置を確認する作業とつながるものであった。60年以上におよぶ画業を、油彩画120点、水彩・素描14点によって回顧する「吉井忠展―大地に響く人間の詩」が92(平成4)年に福島県立美術館で開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。著書に『水彩画入門』(造形社、1966年)、『吉井忠画集』(愛宕山画廊刊、1973年)、『クロッキーの魅力』(大野五郎と共著、美術出版社、1977年)などがある。

岩橋英遠

没年月日:1999/07/12

 日本画家で、東京芸術大学名誉教授・日本美術院常務理事の岩橋英遠は7月12日午前7時31分、肺炎のため神奈川県相模原市の病院で死去した。享年96。1903 (明治36)年1月12日、北海道空知郡江部乙村(現滝川市)の屯田兵の家に生まれる。本名英遠(ひでとお)。初め農業に従事しながら油絵を描くが、24(大正13)年上京し、山内多門に師事する。塾展の若葉会に毎回出品し、32 (昭和7)年多門没後は、青龍展や34年吉岡堅二、福田豊四郎らの結成になる新日本画研究会に出品する。34年第21回院展に「新宿うら」が初入選、36年再び入選し、37年日本美術院院友となる。36年日本美術院も参加しておこなわれた改組帝展にも「店頭囀声」を出品している。38年新日本画研究会が新美術人協会として発展的解消をとげたのを機に同会を離れ、馬場和夫、船田玉樹らと歴程美術協会を結成、抽象的傾向を示して新たな日本画の可能性を模索した。一方37年安田靫彦を訪ねて以後しばしばその指導を受け、45年終戦後、正式に入門する。49年第34回院展で「砂丘」が奨励賞を受賞し、続いて50年第35回「明治」、51年第36回「眠」が連続して日本美術院賞を受賞、53年に同人に推挙された。また53年第38回院展に、それぞれ異なる石に雪と雨、月、水を配した四部作「庭石」を出品、機知的な着想で称賛を集め、翌年同作品により芸術選奨文部大臣賞を受賞する。59年第44回院展「蝕」は文部大臣賞を受賞、61年日本美術院評議員となった。この間、58年東京芸術大学講師、65年同助教授、68年教授となり、70年の退官まで後進の指導にあたる。一方、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、72年には前年の第56回院展出品作「鳴門」により日本芸術院賞を受賞した。79年には前年の「岩橋英遠展」(北海道立近代美術館)により毎日芸術賞を受賞、また78年日本美術院理事、81年日本芸術院会員となる。北海道の四季を描いた絵巻「道産子追憶之巻」(78年)や79年第64回院展「彩雲」、80年第65回院展「北の海(陽)(氷)」など、大自然に正面から取り組んだ雄大かつ神秘的な作風を展開した。86年に東京芸術大学名誉教授、89(平成元)年に文化功労者となり、94年に文化勲章を受章。回顧展は90年「岩橋英遠展J(Bunkamuraザ・ミュージアム)、93年「画業70年岩橋英遠」(日本橋三越)等が開催されている。

佐治賢使

没年月日:1999/06/14

 漆芸家の佐治賢使は6月14日、急性心不全のため市川市の病院で死去した。享年85。1914 (大正3)年1月1日岐阜県に生まれる。本名は正。東京美術学校工芸科に在学中の36(昭和11)年文展に「漆盛器」が初入選。38年同校を卒業。43年第6回新文展で「漆ひるがほ小屏風」が特選となり、以後出品、特選を重ねる。51年日本冶金株式会社勤務を経て、58年第1回新日展で「追想スクリーン」が文部大臣賞、61年に前年の第3回新日展出品作「二曲屏風 都会」が第17回日本芸術院賞を受賞。同年日展会員となり、78年帖佐美行らと日本新工芸家連盟を設立。色漆や乾色粉、金蒔絵、螺鈿など多様な技法を駆使し、なおかつ現代的な感覚を取り入れた絵画的表現で独自の世界を確立した。81年日本芸術院会員、89(平成元)年文化功労者となり、95年文化勲章を受章。長男は漆芸家ヒロシ。

藤田吉香

没年月日:1999/05/25

 京都造形芸術大学名誉教授、国画会会員の画家藤田吉香は5月25日午後7時54分、拡張型心筋症のため横浜市金沢区の病院で死去した。享年70。1929(昭和4)年2月16日、福岡県久留米市櫛原町37に生まれる。49年、久留米在住の画家松田実の主宰する松田画塾で洋画を学ぶ。松田は古賀春江の師でもあり、油彩画の写実性を重んじ、再現描写の指導に重点を置いていた。55年、東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業。59年第33回国画会展にデフォルメした人物を描いた「すわる」、および「ほおむる」で初入選し、国画賞受賞。翌年、第34回同展に抽象的な表現を含む「はたじるし」を出品して同会会友となり、以後、同展に出品を続ける。62年スペインに渡りサン・フェルナンド美術学校に学ぶ。滞欧中、プラド美術館に所蔵されているヒエロニムス・ボッシュの「七つの大罪」「快楽の園J等の模写に専念し、西洋絵画の古典技法を研究する。66年に帰国。滞欧中の古画の模写を西洋古典画との絶縁のための作業と位置づけた藤田は、帰国後、習得した技術を生かし、身近な題材をモティーフとして、克明に描写された人物や静物と平板な色面による背景を組み合わせた独自の画風を確立。67年、国画会展に「空」を出品してサントリー賞を受賞し、同会会員となる。また、この作品を第11回安井賞展に出品する。68年昭和会に「連雲」を出品して優秀賞受賞。同年の第12回安井賞展に「村」「連雲」を出品し、70年同展に「春木萬華」を出品して第13回安井賞受賞。72年再度渡欧。74年東南アジアへ旅行。76年、3度目の渡欧。70年代後半から、背景に金銀箔を用い、背景の奥行き空間を否定した画面を多く制作するようになる。79年ソヴィエト旅行。80年、「藤田吉香―今日と明日」展を東京松屋銀座、京都高島屋で開催。81年宮本三郎賞を受賞し、翌年「第1回宮本三郎賞受賞記念展」を東京・大阪の三越で開催する。85年、中国を訪問。87年には高島屋美術部80周年記念展として東京・大阪・京都・横浜の同店で個展を開催。67年より70年まで女子美術短期大学で講師、69年から73年まで東京芸術大学で非常勤講師を務めたほか、91(平成3)年より98年まで京都造形芸術大学教授、98年退職して同大学名誉教授となり、後進の指導にあたった。克明に描写された花や静物を空間性を排除した背景に配する画風で知られたが、その試みは、西洋画法を駆使して、坂本繁二郎の追及した「物感」に連なる、ものの存在の不思議さや神秘性を表出することにあったと解釈される。

正井和行

没年月日:1999/05/12

 日本画家の正井和行は5月12日、脳こうそくのため京都市上京区の病院で死去した。享年88。1910 (明治43)年11月29日兵庫県明石市の商家に生まれる。本名幸蔵。隣家が美人画家、寺島紫明の実家だったこともあり、小学生の頃から絵に関心を寄せる。関西学院中学部を経て28(昭和3)年京都市立絵画専門学校に入学、同校では福田平八郎に師事する。33年研究科に進み、翌年第15回帝展に「淡路島餞暑」が初入選となるが、37年胸を患い療養のため大分に転居、翌年京都市立専門学校研究科を病臥のまま修了。大分では同地出身で生家にア卜リエを構えた師、福田平八郎のもとへ通う。戦後しばらくは大分県美術協会で活躍。50年より再び京都で本格的に活動を再開、52年第8回日展に「陶瓷」で入選を果たす。翌年福田平八郎の勧めもあり池田遥郎の主宰する青塔社に入塾、遥邨に師事。56年、第6回関西総合展で「エトルスクの土器」が南海賞を受賞。60年代後半より船の残骸や漂着物といった朽ちゆく造形をモティーフに展開、沈んだ色調のなかにうかぶ内省的風景画の世界を確立。72年改組第4回日展で「沢渡」、82年改組第14回日展で「補陀落の海」が特選となり、85年日展会員となる。87年京都府立文化芸術会館で京都府企画展シリーズによる回顧展開催。89(平成元)年京都市芸術功労賞、翌年京都府文化賞功労賞を受賞。95年大分県立芸術会館において回顧展「正井和行―静誼のなかの心象の世界」が開催された。

東山魁夷

没年月日:1999/05/06

 日本芸術院会員、文化勲章受章者日本画家東山魁夷は、5月6日午後8時、老衰のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。1908(明治41)年7月8日、横浜に生まれる。本名新吉。11年父が船具商鈴木商店横浜支店長を退職し、神戸に移住したのに伴い転居。兵庫県立第二神戸中学校を経て26(大正15)年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、川合玉堂、結城素明らに師事する。同級生には橋本明治、加藤栄三、山田申吾らがある。在学中の29(昭和4)年第10回帝展に「山国の秋」で初入選。翌年第11回帝展に「夏日」で入選し、以後、官展に出品を続ける。在学中、実家のあった神戸に隠棲していた村上華岳の人と作品に惹かれる。31年、東京美術学校日本画科を卒業して同研究科に進学。この頃からドイツ留学を志し、翌年からドイツ語を学ぶ。33年東京美術学校研究科を修了し、同年秋よりベルリンに滞在。34年ベルリン大学哲学科美術史部に入学し、ドイツ・イタリア中世からルネサンスの美術史およびキュンメル博士による日本美術史の講座を聴講する。35年、父危篤の報を受け、1年間残っている留学を断念して帰国。36年、帝展に出品するが落選。同年の第1回新文展に「高原秋色」で入選し、以後同展に出品を続ける。39年第1回日本画院展に「冬日(三部作)」を出品して日本画院賞第一席を受賞。40、41年と同展で3年連続同賞を受賞する。この間の40年11月日本画家川崎小虎の長女すみと結婚。43年北京にいる友人の勧めにより奉天、承徳を経て北京へ旅行し、京城を経由して帰国する。44年から45年まで山梨県、岐阜県、長野県などに疎開。45年末から千葉県市川市に居を定め、46年の第1回日展に出品するが落選し、同年の第2回日展に「水辺放牧」で入選を果たす。47年第2回日展に「残照」を出品して特選となる。この作品の制作を契機として風景画に専念することを決意。50年第6回日展に出品した「道」により、画壇における地位を確立するとともに、社会的知名度も高まった。55年第11回日展に「光昏」を出品し、この作品により翌年第12回日本芸術院賞を受賞。59年宮内庁から東宮御所の壁画制作を依頼され翌年「日月四季図」を完成。62年4月から7月にかけてデンマーク、スウェーデン、ノルウェ一、フィンランドを写生旅行し、北欧の風景に自己の根源に響き合うものを見出す。63年、杉山寧、高山辰雄、西山英雄、山本丘人とともに五山会を設立する。65年日本芸術院会員となる。68年皇居新宮殿の大壁画「朝明けの潮」を完成。翌年この制作と東山魁夷展の業績により第10回毎日芸術大賞を受賞し、この受賞を記念して「東山魁夷展」(毎日新聞社主催、大丸神戸店、大丸大阪店)が開催される。同年春から秋にかけてドイツ、オース卜リアを旅行。同年11月文化勲章を受章し、また、文化功労者として顕彰される。71年に唐招提寺障壁画制作を受諾し、唐招提寺と鑑真についての研究を始め、山と海を主題に選んで「山雲」「涛声」を75年に完成。同年、唐招提寺障壁画習作展をパリ吉井画廊、ドイツ・ケルン日本文化開館で開催のため渡欧。76年中国を訪れ、北京、西安、南京、桂州などを歴訪する。この旅以降、水墨表現が試みられ、その成果が青を基調とする彩色画にも認められるようになる。70年代後半からは、大規模な展覧会が相次ぎ、78年千葉県立美術館で「東山魁夷展」、79年東ベルリン国立美術館およびライプチヒ造形美術館で東山魁夷展、81年東京国立近代美術館で「東山魁夷展」、83年西ドイツのミュンヘン・フェルカークンデ美術館、デュッセルドルフ・クンストハレ美術館、ブレーメン・ユーバーゼー美術館を東山魁夷展が巡回、88年代表作80点による「東山魁夷展」が京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立近代美術館を巡回、89(平成元)年西ベルリン、ハンブルグ、ウィーンで東山魁夷展が開催されている。93年「東山魁夷―青の世界―展」が北海道立近代美術館、名古屋松坂屋美術館、姫路市立美術館で開催され、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。その画業は、初期から人のいない風景画を中心に展開され、対象の再現描写を離れて、画面を独立した平面として形や色彩で構成し、心象を表現する姿勢に貫かれていた。学生時代から写生に訪れた長野県に自作、画集など約650点を寄贈し、これを受けて、90年、長野市城山公園に長野県信濃美術館東山魁夷館が開館した。文章もよくし、著書に『東山魁夷画文集』全10巻(新潮社1978―79年)などがある。

松原三郎

没年月日:1999/05/04

 美術史家で文学博士、実践女子大学名誉教授の松原三郎は、5月4日死去した。享年80。1918(大正7)年9月4目、福井県に生まれる。44(昭和19)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同年同大学院に進み、46年東京大学大学院を修了した。同62年3月には「中国金銅仏及び、石窟造像以外の石仏に就ての研究」により東北大学(亀田孜教授主査)から文学博士号を授与された。70年実践女子大学文学部教授となる。この問、東京大学文学部、同大学院、成城大学、東京女子大学文理学部で講師を兼任する。75年実践女子大学に図書館博物館学講座が設立され主任となる。82年ハーバード大学付属フォッグ美術館客員研究員として招聘される。85年実践女子大学文学部に美術史学科が設立され、学科主任となる。89(平成元)年実践女子大学名誉教授となる。中国仏教彫刻史研究の泰斗として、95年生涯の研究の集大成である『中国仏教彫刻史論』全4冊(吉川弘文館)を上梓した。その研究は、従来石窟寺院中心であった中国仏教彫刻の研究に対して、年記や供養者の姓名、出身地あるいは制作地を示唆する地名などが銘文に記されることの多い単体の石彫像、金銅仏、さらには木彫像について注目し、日本や欧米の美術館・博物館、個人コレクションに所蔵されるそれらの作例を博捜して、仏像様式の地域性と時代性がどのように現れるかを丹念に、しかも繰り返し考察した。学位請求論文となった59年の『中国仏教彫刻史研究』に始まり、その増訂版である66年の『増訂中国仏教彫刻史研究』 (いずれも吉川弘文館)、そして最後の『中国仏教彫刻史論』に至るまで、銘文の解説と作品の真贋に対する検討が続けられた。初期の頃には日本人の誰もが実見することのできなかった中国大陸の作例が多数盛り込まれ、重要な資料を提供したが、同時に、前の出版で掲載されたものでも次の出版ではいくつかが厳しく不採用となった。その修辞法には独特の難解さがあるものの、考察の地域と時代は広範囲におよび、仏像様式の相互の関連や発展の状況が論じられている。この3冊を根幹としながら、初期の雑誌掲載の論文では朝鮮半島の石仏、金銅仏についての研究が行われ、さらにすすんで日本の飛鳥時代の仏像様式との関係を論じている。ついで唐時代と奈良時代の仏像様式の比較検討もおこなった。後半は中国大陸での新発見の報告が増加する中で、積極的に河北省や山東省の作例を調査研究しようとする姿勢が加わった。主な論文に「新羅石仏の系譜―特に新発見の軍威石窟三尊仏を中心として―」 (『美術研究』第250号)、「飛鳥白鳳仏と朝鮮三国期の仏像―飛鳥白鳳仏源流考としてー」(『美術史』68号)、「盛唐彫刻以降の展開」(『美術研究』257号)、「飛鳥白鳳仏源流考(一)~(四) 」(『国華』第931、932、933、935号)、「天平仏と唐様式」(『国華』第967、969号)などがある。また主な著書に上記3冊のほか『Arts of China Buddhist Cave temple』(1969年、講談社インターナショナル)、『小金銅仏 飛鳥から鎌倉時代まで』(田辺三郎助と共著)(1979年、東京美術)、翻訳・解題『埋もれた中国石仏の研究―中国河北省曲陽出土の白玉像と編年銘文―』(楊伯達著)(1985年、東京美術)、『韓国金銅仏研究―古代朝鮮金銅仏の系譜―』(1985年、吉川弘文館)などがある。

三岸節子

没年月日:1999/04/18

 洋画家三岸節子は4月18日3時43分、急性心不全のため、神奈川県大磯町の東海大大磯病院で死去した。享年94。1905 (明治38)年l月3日、愛知県中島郡起町字中島(現、尾西市)に生まれる。生家は富裕な地主で、毛織物製造業を営んでいた。先天性股関節脱臼のため、幼児期に名古屋の病院で手術。小信中島尋常小学校を経て、15(大正4)年起尋常高等小学校に入学し、17年に同校を卒業。名古屋の淑徳高等女学校に入学する。在学中、読書に熱中し、寄宿舎で同室であった先輩戸田すヾが日本画を描いているのに刺激を受けて、上村松園、島成園らの美人画の模写を試みる。21年、同校を卒業して上京し、女子医学専門学校を受験するが失敗。岡田三郎助に絵を学び始め、岡田の指導する本郷洋画研究所に入所する。22年、女子美術学校の第2学年に編入学。23年、二科展に出品するが落選する。同年9月1日は二科展の初日に当たっていたが、関東大震災により被災。この時、三岸好太郎から食糧の援助を受けたことなどが契機となり、24年9月好太郎と結婚。同年、女子美術学校を首席で卒業。25年3月、長女が生まれる。同月の第3回春陽会展に「自画像」「風景」「山茶花」「机上二果」が初入選。以後、同展に出品を続ける。また、同年4月、甲斐仁代、深沢紅子らと婦人洋画協会を結成する。32(昭和7)年、春陽会から独立美術協会へ転じ、その第2回展に「花・果実」「ラガー」を出品。34年、好太郎が31歳で死去した後、3児をかかえつつ制作を続ける。35年第5回独立展に「桃色の布」「窓」「紅の布」を出品しD氏賞受賞。翌年同会会友となるが、39年に同会が会則により女性画家を会員として認めないことに抵抗して、同会を退会。新制作派協会に転じ、同年会員となる。また、同年、婦人の美術的教育のために設立された「美術工芸学院」の教師となる。40年、朝鮮、満州を訪れる。同年の紀元2600年奉祝展に「室内」を出品。43年、美術団体の会友以上の女流画家により女流美術奉公隊が結成され、その役員となる。戦後の45年9月、銀座日動画廊の戦後初の個展として三岸節子展が開催される。46年、藤川栄子、桂ユキ子らと女流画家協会を結成。以後、新制作展、女流画家展に作品を発表。48年、独立美術協会会員の画家菅野圭介と再婚。50年、第14回新制作展に出品した「金魚」が文部省買い上げとなり、「梔子」が芸術選奨文部大臣賞を受賞する。50年随筆集「美神の翼」(朝日新聞社)刊行。51年、第1回サンパウロ・ビエンナーレに「花」を出品。翌年、パリのサロン・ド・メ、同じくパリで開催された20世紀傑作展、米国ピッツバーグで開催された第18回カーネギ一国際美術展に出品するなど、活動が国際的に展開す る。53年菅野圭介との結婚を解消。翌年長男黄太郎の滞在するフランスを訪れ、スペイン、イタリアなどを廻って55年夏に帰国する。この初めての渡欧により、西洋絵画を生み出した土壌を知り、乾燥した風土と色彩の関係に刺激を受ける。50年代、60年代は新制作展、女流展のほか現代日本美術展、日本国際美術展にも出品。64年、神奈川県大磯町の丘陵地にアトリエを構え、それまで静物中心であったモティーフに風景が加わることとなった。65年、北海道を旅行し、その風景を描くが、この旅行体験により、先夫好太郎の作品を北海道に寄贈する決心をし、その実現に奔走。67年、好太郎の遺作216点を北海道に寄贈し、これが基となって北海道立美術館(現、北海道立三岸好太郎美術館)が設立されることとなる。翌68年、黄太郎一家と離日し、フランス・カーニユに居を定めて制作に没頭。69年、片岡球子、大久保婦久子ら9名による女流総合展「潮」を結成し、同展に出品。74年ブルゴーニュのヴェロンに転居し、以後、同地で制作するが、89(平成元)年に帰国。92年米国のワシントン女性芸術美術館で大規模な回顧展が開催された。94年女性洋画家として初めて文化功労者に選ばれる。文章もよくし、著書に『花とヴェネチア―三岸節子』(三彩社 1975年)、随筆集『花より花らしく』(求龍堂、1977年)などがあり、画集には『三岸節子画集・第1集』(求龍堂、1980年)『三岸節子画集・第2集』(求龍堂、1981年)、『三岸節子―花のデッサン帖』(求龍堂、1984年)などがある。女性洋画家の草分けであり、出産、育児、家長の死といった困難に屈することなく制作を続け、美術界における女性の地位の確立に寄与するところが大きかった。

畦地梅太郎

没年月日:1999/04/13

 日本版画協会名誉会員の版画家畦地梅太郎は12日午前3時38分、肺炎のため町田市の多摩丘陵病院で死去した。享年96。1902 (明治35)年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村金銅(ふたなむらかなどう、現在の北宇和郡三間町)に生まれる。18(大正7)年、村役場の給仕試験を受けるが不合格となり、村を出る決心をし、長兄を頼って大阪へ向かう。長兄は中国航路の船員をしており、梅太郎も2年あまり船員となった。その後、新聞配達、配送などの仕事をするが、その問、美術学校の生徒が写生をしているのを見かけ、画家に憧れ、日本美術学院の通信教育を受ける。その受講仲間で「七星会」を結成し、グループ展も開催。しかし、23年9月の関東大震災により帰郷を余儀なくされ、1年あまり宇和島で石版印刷や看板屋につとめる。25年、再度上京。七星会会員の山田辰造の紹介で内閣印刷局に勤務する。職場で手近にある鉛板を用いて版画を制作し、下宿の近くに居住していた平塚運一に作品を見せて激励される。また、同郷の知人の紹介でデッサンを学びに行っていた小林万吾にも版画制作を勧められる。27(昭和2)年第7回日本創作版画協会展に初入選。恩地孝四郎や前川千帆らの仕事を手伝うようになり、同年、内閣印刷局を退職。初期には鉛板に細い線で都市風景を描いたプリミティフな作品を制作したが、これ以降木版画を制作するようになる。都市を主要なモティーフに、再現的な描写が行われている。しかし、36年『伊予風景』全10点を刊行するころから都市風景を離れ、自然な山河を描くようになる。そして、37年、草木屋軽井沢店で木活字本の仕事をすることとなり、浅間山を初めて見たのがきっかけとなり、畦地の生涯を貫くこととなった山をモティーフとする制作が始まる。自ら山に登り、山中を歩いて取材している。40年第15回国画会展で二度目の図画奨励賞受賞。43年、版画家旭正秀の紹介で、東北アジア文化振興会勤務のため満州へ渡り、翌年帰国。戦後一時四国の御荘に居住するが、46年に上京し、同年第1回日展に「伐木」を出品。日本版画協会展には9点を出品したほか、国画会展にも出品する。52年国画会展に畦地自身が初めての「山男」を描いた作品と語る「登攀の前」を出品。53の第2回サンパウロビエンナーレ、56年ルガーノ国際版画ビエンナーレ、57年スイスでの第2回国際木版画ビエンナーレに出品し、いずれも好評を得る。この頃から、人物像を簡略化し独自のデフォルメを加えた山男像で広く知られるようになる。50年代に美術界に吹き荒れた抽象の嵐の中、すでに山の版画で地位を築いていた畦地も、画面を単純な幾何学的形態と明快な色面で構成する抽象表現を試みる。しかし、50年代の国際展によって日本の美術界における版画の位置が急上昇するのに伴い、池田満寿夫の登場などこの世界での動きがめまぐるしくなるなかで、60年代前半に畦地は自らの制作に疑問を抱くようになり、画壇での地位を築き社会的にも広く知られて随筆、挿絵の仕事も増えたことも一因となって、66年の日本版画協会展、国画会展以降、公募展に出品しなくなる。67年から3年間続けて新作展を開催し、制作に専念するが、70年7月電気のこぎりで版木を切断中に右親指を負傷。その後1年あまり制作から離れる。72年2月東京京橋のギャラリープリントアートで個展を開催。73年『畦地梅太郎 人と作品』(南海放送)が刊行され、同年9月郷里の愛媛県立美術館で「とぼとぼ五十年展」が開催される。74年2月ストーブのヤカンを倒し全身に火傷を負う。この事故による精神的ショックからしばらく制作を離れる。自ら山歩きをできなくなったため、山男から家族へとモティーフを変え、85年に「石鎚山」「みどり、さわやか」まで制作を続ける。92(平成4)年、画業を回顧する大規模展が町田市立国際版画美術館で「山の詩人・畦地梅太郎展」と題して開催され、同年『畦地梅太郎全版画集』(南海放送、町田市立国際版画美術館)が刊行された。年譜、文献目録は同書に詳しい。また、2001年9月町田市立国際版画美術館で「生誕百年記念 畦地梅太郎展 山のよろこび」が開催されている。

光森正士

没年月日:1999/03/31

 奈良大学教授、奈良国立博物館名誉館員の光森正士は3月31日午後8時、肝不全のため兵庫県尼崎市の病院で死亡した。享年67。1931(昭和6)年5月9日尼崎に生まれる。55年5月大阪学芸大学を中途退学、翌56年4月龍谷大学に入学する。同大学大学院文学研究科博士課程在学中の64年7月奈良国立博物館学芸課工芸室文部技官となる。65年7月学芸課美術室に配属となり、以来彫刻を担当する。66年3月龍谷大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。72年11月奈良国立博物館学芸課普及室長、77年4月学芸課美術室長、87年奈良国立博物館仏教美術資料研究センター仏教美術研究室長、91(平成3)年4月学芸課長、93年3月学芸課長を最後に奈良国立博物館を退官した。同年5月奈良国立博物館名誉館員になる。95年奈良大学文学部文化財学科教授になり、文化財学研究法、日本彫刻史、日本文化史等を担当した。この間、奈良市史編集委員(64年から88年まで)、奈良県橿原市文化財審議委員(75年)、大阪府松原市史、美原町史編集委員(78年)、奈良県文化財審議委員(85年)、外務省研修所講師(86年から95年まで) 、鳥取県倉吉市博物館文化顧問(90年)、兵庫県姫路市文化財審議委員(91年)、奈良県御所市文化財審議委員、奈良県斑鳩町文化財委員(92年)、文化庁文化財審議会専門審議委員(96年)等を歴任し、また帝塚山短期大学(79年から81年まで)、神戸大学(83年から88年まで)、龍谷大学(89年から90年までと94年から95年まで)等で非常勤講師として仏教美術史、博物館学等の教鞭をとった。大阪学芸大学では絵画を学び、自身は僧籍にあったという環境と、学生時代以来親しく指導を受けた考古学者石田茂作の強い影響のもと、仏教美術を単なる机上や大学の教室における研究の対象としてのみとらえるのではなく、ほんらいの仏教儀礼実践の場にあるものとして見つめようとする姿勢を貫いた。阿弥陀仏に関する研究、礼拝空間としての仏堂の研究、多種類の仏具、仏教工芸に関する研究など、個性ある成果を残した。また、30年におよぶ奈良国立博物館学芸員として多くの展覧会を手がけ、奈良を中心とする古社寺の紹介と保護に尽力した。主な著作に『阿弥陀仏彫像』 (1975年、東京美術)、『山越阿弥陀図』(1976年、同朋舎出版)、『大和路かくれ寺かくれ仏』(1982年、講談社)、『阿弥陀如来像』(1986年、至文堂 シリーズ日本の美術241)、『仏像彫刻の鑑賞基礎知識』(共著、1993年、至文堂)、『仏教美術論考』(1998年、法蔵館)がある。

林美一

没年月日:1999/03/31

 江戸文芸研究家、時代考証家の林美一は3月31日午後11時5分、パーキンソン病のため神奈川県逗子市の病院で死去した。享年77。1922(大正11)年、大阪に生まれる。大阪市立東商業高校を卒業し、大映京都撮影所宣伝部に勤務。溝口健二監督作品の時代考証を手がける。51(昭和26)年、個人研究誌「未刊江戸文学」を創刊する。同誌の刊行は全17冊別巻7冊にのぼった。59年「江戸文学新誌」を創刊し、同誌6冊を刊行。60年、大映京都撮影所を退社し、江戸文学、浮世絵の研究家として独立する。同年、『艶本研究国貞』を刊行。同書は、散逸している艶本を再現した意義と価値は認められながらも、わいせつ図画販売罪で有罪となった。江戸の艶本研究の第一人者として活躍し、著書に『艶本研究シリーズ』(全14巻、有光書房、1960―76年)、『時代風俗考証事典』(河出書房新社、1977年)、『江戸看板図譜』(三樹書房、1977年)、『江戸の枕絵師』(河出書房新社、1987年)、『江戸枕絵師集成』(全20巻、別巻2巻、内既刊5巻、河出書房新社、1989年―)、『江戸の24時間』(河出書房新社、1989年)、『艶本江戸文学史』(河出書房新社、1991年)、『浮世絵春画名品集成』(全24巻、別巻3、河出書房新社、1995年)などがある。映画、舞台、テレビ番組などの時代考証家としても活躍し、「北斎漫画」「キネマの天地」「近松心中物語」などの映画、演劇の時代考証の業績によって日本風俗学会・江馬賞を受賞した。

國領經郎

没年月日:1999/03/13

 日本芸術院会員、日展常務理事の洋画家國領經郎は、13日午前3時50分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年79。1919 (大正8)年10月12日、神奈川県横浜市井土ヶ谷に生まれる。26年、横浜市立日枝第二尋常小学校に入学。同校が火災にあったため、横浜市立共進尋常高等小学校に移り、32(昭和7)年同校尋常科を卒業。同年神奈川県立横浜第一中学校(現、希望ヶ丘高校)に入学する。35年父を、翌36年母を亡くし、長兄のもとで生活する。38年、横浜第一中学校を卒業し、川端画学校に通う。39年東京美術学校図画師範科に入学。小林万吾、南薫造、伊原宇三郎らに油彩画を、矢沢弦月らに日本画を学ぶ。41年、第二次世界大戦により、同科を繰り上げ卒業。42年1月、新潟県柏崎中学校教諭となるが、同年4月に召集を受け近衛師団に入隊、のちに中国中央部へ渡る。46年に復員し、47年4月、再度柏崎中学へ赴任。同年第3回日展に「女医さん」で初入選する。48年冬、柏崎商工会議所で初の個展を開催。50年、東京都大田区立大森第一中学校教諭となり、川崎市へ転居。51年第37回光風会展に「小憩」が初入選。以後、日展と光風会展に出品を続ける。50年代半ばから点描法を用いるようになり、このころから、55年第41回光風会展に出品して光風会賞を受賞した「飛行場風景」に見られるように、実景をもとにしながら、対象を単純な幾何学的フォルムに還元し、再構成する作風へと移行する。55年の第11回日展に出品した「運河」も同様の作品であり、特選となっている。56年光風会会友、57年同会会員となる。58年日展が社団法人となったのちも、同展に出品。60年前後から画面は再現描写を離れて、構成的要素を強めていく。66年横浜高島屋で個展を開催。68年、東京都職員を辞して横浜国立大学教育学部助教授となり、後進の教育に携わる。この頃から後年の國領のイメージを決定づけた砂のモティーフが画中に現れる。69年第1回改組日展に「砂上の風景」を出品して特選となる。70年代の学園紛争を大学という教育の現場で体験し、集団で行動しながら孤独を抱いている若者たちを砂丘に配する作品を多く描くようになる。82年第14回日展に、車の轍が走る砂丘に二人の女性の後ろ姿を配した「轍」を出品し、第2回宮本三郎賞受賞。翌年第2回宮本三郎賞受賞記念「國領經郎展」が東京日本橋、大阪北浜、横浜の三越で開催される。86年「ある静寂の午後」を日展に出品し、内閣総理大臣賞受賞。91(平成3)年「呼」で1990年度日本芸術院賞受賞。91年日本芸術院会員に選ばれる。高度成長を遂げた後、物質的な豊かさの一方で深い孤独を抱くに至った日本人の精神風景を絵画化した作家として注目される。99年4月から横浜美術館で開かれる個展を前にしての死去であった。年譜、関連文献目録は同展図録に詳しい。

濱谷浩

没年月日:1999/03/06

 写真家の濱谷浩は3月6日午後2時57分、肺炎のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年83。1915(大正4)年3月28日東京に生まれる。関東商業学校(現関東第一高校)在学中に写真部をつくるなど写真に熱中する。33(昭和8)年同校を卒業後、実用航空研究所を経て、オリエンタル写真工業に勤務。東京の下町風景を撮影、37年フリーのカメラマンとして独立。翌年瀧口修造、兄の田中雅夫らと前衛写真協会を、また土門拳らとともに青年報道写真家協会を結成する。41年政府の広報機関ともいえる東方社に入社、対外宣伝誌『FRONT』の写真を担当するが、上部と衝突して退社。44年新潟県高田市(現上越市)に移り、ここを拠点に日本海側の風土や人々の営みの記録に力を入れ、55年『カメラ』に「裏日本」を連載した。60年国際的な写真家集団マグナムの会員となる。60年代後半から目を世界の自然に向け、約8年間で六大陸を踏破、自然の妙を撮り続けた。五十年間の活動の軌跡をまとめた『濱谷浩写真集成―地の貌 生の貌』で81年日本芸術大賞を受賞。86年には米国の国際写真センターより世界最高峰の写真家に与えられるマスター・オブ・フォトグラフィー賞を、翌年には日本人写真家として初めてスウェーデン、ハッセルブラッド財団の国際写真賞を受賞した。この間90(平成2)年川崎市民ミュージアム、97年東京都写真美術館で個展を開催。終生反骨精神を貫き、教科書検定に反発、81年度芸術選奨文部大臣賞を返上したほか、戦争の罪滅ぼしの念からアジア諸国に図書を寄贈するなどの活動もした。作品集に新潟県内の村で行われる小正月の行事を民俗学の面からとらえた『雪国』(1956年)、『裏日本』(1958 年)、『見てきた中国』(1958年)、60年安保闘争を徹底取材した『怒りと悲しみの記録』、『日本の自然』(1975 年)、『學藝諸家』(1983年)などがある。

村井正誠

没年月日:1999/02/05

 モダンアート協会の創立者のひとりで、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家村井正誠は2月5日午前6時58分急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年93。1905 (明治38)年3月29日、岐阜県大垣市に生まれる。幼少時、医師であった父の転任にしたがい、現在の和歌山県和歌山市、ついで新宮市に転居した。22(大正11)年、和歌山県立新宮中学校を卒業すると上京、父のすすめる医学校を受験するが不合格となり、また翌年には画家をこころざして東京美術学校西洋画科を受験するが、これも不合格となった。この頃、川端画学校に通いはじめ、ここで盟友となる山口薫、矢橋六郎と出会った。25年、文化学院に新設された大学部美術科の第一期生として入学、28(昭和3)年に同学院卒業と同時に、渡仏した。留学中は、滞仏中の日本人画家と交友するとともに、アンデパンダン展に出品した。32年帰国、34年に初めての個展(銀座、紀伊国屋ギャラリー)で開催、留学中の作品を出品した。また同年、長谷川三郎、山口薫、矢橋六郎等とともに新時代洋画展を結成、第1回展を開いた。同グループは、37年の自由美術家協会創立に際し、参加することで解消した。38年、文化学院の講師になる。戦後は、戦時中、活動が途絶えていた自由美術家協会の再建をはかり、また美術界の民主化などをめざして結成された日本美術会に参加した。47年には日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加し、さらに50年には、山口薫、矢橋六郎、中村真、植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄とともに、モダンアート協会を結成し、以後、同協会展に発表をつづけた。同54年には武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)本科西洋画の教授になった。62年には、第5回現代日本美術展に「黒い線」(油彩)、「うしろ姿」、「人」(石版画)を出品、これにより最優秀賞を受賞、また同年の第3回東京国際版画ビエンナーレに出品した「月影」、「黒い太陽」、「風」(各石版画)によって文部大臣賞を受賞した。73年には、神奈川県立近代美術館において村井正誠展が開催され、初期作から近作までの油彩画104点などによって回顧された。その後も、和歌山県立近代美術館(1979年)、世田谷美術館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(1993年)、神奈川県立近代美術館等5美術館巡回(1995年)などで、たびたび回顧展が開催された。そのほか、長年にわたる美術界への貢献に対して、97(平成5)年には、中日文化賞、世田谷区文化功労者を受賞。98年には、中村彝賞を受賞した。 仏留学時代から、同時代のマチスをおもわせる鮮やかな色面による半抽象的な構成からはじまり、次第に純粋な抽象表現に展開していった。1930年代には、「ウルバン」、「CITE」などの連作にみられるように、白地上に大小の短冊状の色面が点在する抽象表現を試みていた。戦後は、ことに50年代になると、そうした構成にくわえて、黒い帯状の線が、ときには具象的なイメージをともなって画面にあらわれるようになった。60年代には、その黒が画面全体をおおいつくすようになった。以後、再び鮮やかな色面構成にかえるが、黒の線と面は、つねに画面構成の重要な部分をしめるようになり、とくに晩年の90年代には、「東洋的」とも評されるような、独特の深さと緊張感をただよわせる作品を描いていった。近代日本の絵画史において、いち早く抽象絵画を描きはじめた画家のひとりということで、「日本における抽象絵画のパイオニア的存在」と位置付けられている村井だが、一貫して深められつづけたその「抽象」に関する造形思考は、独自のものとして評価されていくだろう。

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