本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





星野眞吾

没年月日:1997/12/29

 日本画家の星野眞吾は12月29日午前2時3分、呼吸不全のため愛知県豊橋市の病院で死去した。享年74。大正12(1923)年8月15日、愛知県豊橋市に生まれる。昭和19(1944)年京都市絵画専門学校図案科を卒業後、同校日本画科に入学。同23年卒業し、研究科に進む。在学中より三上誠と親交し、24年三上、下村良之助、大野秀隆(俶嵩)ら京都市立絵画専門学校卒業生でパンリアル美術協会を結成、伝統的な日本画と決別すべく、敢えて“膠絵”と称し、現代美術としての可能性を摸索する。同24年同協会展第3回「巣」、翌年第五回「割れた甕」などの具象表現から、同35年第18回「厚紙による作品」、同37年第20回「心象」など抽象的表現に移行。同39年、矢野純一・針生一郎が主宰した日本画研究会に参加。同年の父の死を契機に身体を画面に押しつけた“人拓”による作品を多く制作。同49年中村正義らとともに日本画研究会を発展させて先鋭的な作家集団として从会を結成、個性的な展覧会を開催する。この間、同26年中村正義、平川敏夫、高畑郁子らと画塾中日美術教室をはじめ、同37年第5回中部日本画総合展で最優秀賞を受賞。日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、同46年には東京造形大学非常勤講師となる。同60年福井県立美術館で三上誠・星野眞吾二人展、平成8(1996)年には豊橋市美術博物館、新潟市美術館で星野眞吾展が開催された。

佐多芳郎

没年月日:1997/12/16

 日本画家の佐多芳郎は12月16日午後5時17分、心筋こうそくのため横浜市港北区の病院で死去した。享年75。大正11(1922)年1月26日、東京麹町に医師の長男として生まれる。昭和14(1939)年より日本画家北村明道に基礎を学び、翌15年より安田靫彦に師事、同16年にはその研究会である一土会に参加する。その後チフス等で療養を余儀なくするが、同19年に入営、終戦まで軍隊生活を送る。同25年の第35回日本美術院展覧会に「浪切不動」が初入選。翌年、『読売新聞』連載の大佛次郎『四十八人目の男』の挿絵を担当、その後、山本周五郎の『樅ノ木は残った』、池波正太郎の『鬼平犯科帳』といった数々の時代小説の挿絵を手がけた。同54年より宿願の絵巻物制作の準備に入り、翌年小下絵を制作、同60年に三巻からなる「風と人と」を完成させた。平成元(1989)年に日本美術院を退院。同4年、毎日新聞社より『風霜の中で 私の絵筆日記』を出版。

竹田道太郎

没年月日:1997/12/10

 美術評論家で元女子美術大学教授の竹田道太郎は12月10日午前2時58分、肺炎のため川崎市幸区の病院で死去した。享年91。明治39(1906)年11月6日新潟県柏崎市に生まれる。早稲田大学文学部独逸文学科を卒業後、昭和7(1932)年4月、都新聞第二部(社会部)に入り警視庁、裁判所詰めを経て文部省クラブに所属、金井紫雲のあとをうけて美術記者を務めた。同10年帝展改組の折には改組反対の立場から精力的に記事を書き、なかでも小杉放庵の芸術院会員辞退の特ダネを抜き、注目された。同11年2月より朝日新聞社会部、学芸部、雑誌編集室(週刊朝日)で美術関係を担当。昭和36年11月定年退職以後、武蔵野美術大学教授、女子美術大学教授を務める。主要編著書『新聞における美術批評の変遷』(朝日新聞調査研究室報告 昭和30年2月)『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(鈴木進と共著 雪華社 昭和32年12月)『画壇青春群像』(雪華社 昭和35年4月)『美術記者30年』(朝日新聞社 昭和37年7月)『日本近代美術史』(近藤出版社 昭和44年)『小林古径』(集英社 昭和46年12月)『続日本美術院史』(中央公論美術出版 昭和51年1月)『今村紫紅とその周辺』(至文堂 昭和51年11月)『大正の日本画』(朝日新聞社 昭和52年9月)『原三溪』(有隣新書 昭和52年11月)『巨匠達が生れる迄』(真珠社 昭和60年6月)『安田靫彦』(中央公論美術出版 平成元年10月)

浦田正夫

没年月日:1997/11/30

 日本芸術院会員で元日展事務局長の日本画家浦田正夫は11月30日午前9時15分、肝臓ガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年87。明治43(1910)年5月1日熊本県山鹿市に生まれる。大正4(1915)年東京市小石川区音羽に転居。昭和3(1928)年松岡映丘に入門、また本郷絵画研究所にも通う。翌年東京美術学校日本画科に入学し、同9年に卒業。この間、津田青楓洋画研究所の夜学に通い一年あまり洋画を学ぶ。同8年第14回帝展に「展望風景」が初入選。同9年映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を、15年には高山辰雄、野島青茲らと一采社を結成、その中心的役割を果たす。同13年には現地嘱託として満蒙地区に赴き、四ヶ月の間巡遊、また同17年には大同雲崗石仏研究のため一か月間滞在する。戦後は同26年より山口蓬春に師事し、同28年第9回日展で「関口台」が白寿賞、同30年第11回日展出品作「湖映」、同32年第13回日展出品作「磯」がともに特選・白寿賞を受賞。さらに同35年第3回新日展で「池」が菊華賞、同45年第2回改組日展で「双樹」が桂花賞、同48年同第5回展で「蔓」が文部大臣賞を受け、同53年には前年の第9回改組日展出品作「松」により日本芸術院賞を受賞。自然景をモチーフに穏やかで温かな、その中に質朴な自然感を滲ませる作調を展開した。昭和47年より日展評議員、同54年より同展理事をつとめ、同63年日本芸術院会員、平成元年には日展事務局長となった。

平塚運一

没年月日:1997/11/18

 日本版画界の長老であった木版画家の平塚運一は11月18日午後6時17分、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年102。明治28(1895年10月17日、島根県松江市の宮大工の家に生まれる。大正2(1913)年、松江商業学校を中退。同年、石井柏亭の洋画講習に参加して絵に興味を抱き、同4年に上京して柏亭に師事し、また、版画技術を伊上凡骨に学ぶ。同5年第3回二科展に「出雲のソリツコ舟」「雨」で初入選、同年第3回院展に「出雲風景」「麓の小山」で初入選する。版画の全制作過程をひとりで行う「自画自彫自摺」により、作品のオリジナリティーを高める近代版画の先駆者のひとりであり、同7年日本創作版画協会の創立に参加した。昭和2(1927)年、『版画の技法』を出版。このころから山本鼎の農民美術運動に参加して版画講師として全国をめぐった。同3年棟方志功らとともに版画雑誌「版」を創刊。同5年国画会会員となり、同6年国画会版画部を創設した。同10年より東京美術学校で講師をつとめ、木版画を指導する。戦後は黒と白のコントラストを生かした力強い作風で裸婦や風景を多く描いた。同37年に米国に渡り、ワシントンに定住して制作、発表を続けるとともに、日本の伝統的な木版技術の普及につとめた。平成3(1991)年、長野県須坂市に平塚運一版画美術館が開館。同7年に帰国。翌8年横浜の平木浮世絵美術館で「平塚運一展百寿記念」が開かれた。

斎藤清

没年月日:1997/11/14

 郷里会津地方の風景に取材した版画で知られた版画家の斎藤清は11月14日午後8時30分、肺炎のため福島県会津若松市の病院で死去した。享年90。明治40(1907)年4月27日、福島県河沼郡会津坂下街に生まれる。同45年父の事業の失敗により北海道夕張に移る。大正10(1921)年尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、同13年北海道ガス小樽支店の見習い職工となる。昭和2(1927)年、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営。同4年、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う。同5年に一時上京したのが翌年の東京移住の契機となり、宣伝広告業のかたわら絵画の勉強を続けた。同7年第9回白日会展に「高圓寺風景」で初入選。翌8年、第1回東光会展に入選、同11年第11回国画会展に「樹間雪景」で初入選する。同年第5回日本版画協会展に「少女」で初入選。翌12年第12回国画会版画部門に「郷の人」「子供坐像」で初入選する。同14年第26回二科展に「裸婦と少女」(油彩)で初入選。同17年東京銀座鳩居堂で初めての版画個展を開催し、「会津の冬」などを発表し、叙情的な作風で注目される。同19年朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当する。また、同年第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となる。戦後も日本版画協会、国画会版画部に参加。同21年第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品。また第20回国画会版画部に「会津の冬(A)(B)(C)」を出品して同会会友となり、同24年には会員となった。同26年サンパウロ・ビエンナーレに「凝視(花)」を出品して、サンパウロ日本人賞を受賞。同29年朝日新聞社を退社して版画制作に専念することとする。同31年アメリカ国務省アジア文化財団の招きで渡米。同32年第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「館」を出品して受賞し、同年アジア・アフリカ諸国国際美術展に「ハニワ(婦人」を出品して受賞する。同34年渡仏してパリに滞在。同37年アメリカ・ニューヨークのノードネス画廊での個展のために渡米し、この頃日本版画協会を退会する。同39年ハワイ大学芸術祭に招かれてハワイを訪問し、翌年はオーストラリアに渡り、帰途タヒティに立ち寄った。同42年インド文化省主催の「斎藤清版画展」のためインドへ渡り、同44年にはアメリカ・カリフォルニアのサンディエゴ美術館での個展のために渡米。同45年東京の日本橋三越で「斎藤清墨画・版画展」を開催する。また、同年神奈川県鎌倉市に移住。同52年プラハでの個展のためにチェコスロバキアを訪問。同56年「福島県立美術館収蔵記念斎藤清展」(福島県文化センター)が開催される。同58年神奈川県立近代美術館で大規模な「斎藤清展」が開催され、初期から新作にいたる245点が出品されて制作の歩みが回顧された。同62年鎌倉を離れ、福島県河沼郡柳津町に転居する。翌63年アメリカ・オレゴン州のポートランド美術館で「斎藤清展 会津の冬とそのほかの版画」、平成3年「斎藤清-その人と芸術」展がいわき市美術館で開催され、同4年には福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展が開催された。画集には『斎藤清版画集』(大日本雄弁会講談社 1957年)、『斎藤清版画集』(講談社 1978年)、『斎藤清版画集 会津の冬』(講談社 1982年)、『斎藤清の世界』(あすか書房 1984年)、『斎藤清墨画集』(講談社 1985年)、『斎藤清スケッチ画集』(講談社 1987年)、『斎藤清画業』(阿部出版 1990年)などがあり、単行書に『私の半生』(栗城正義編 角田行夫刊行 1987年)がある。郷里・会津の冬景色を好んで主題としたほか、奈良京都など古都の風景や花鳥を題材に木版画に新境地を開いた。また、欧米に日本の伝統的木版画技法の解説、実技指導を行うなど、国際的な普及活動にも寄与した。年譜、参考文献は福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展図録に詳しい。

森芳雄

没年月日:1997/11/10

 主体美術協会会員で武蔵野美術大学名誉教授の画家森芳雄は11月10日午前8時20分、老衰のため東京都世田谷区のアトリエで死去した。享年88。明治41(1908)年12月21日、東京麻布区北新門前町に貿易商社社員福與藤九郎の第7子三男として生まれる。幼時に叔母森ふみの養子となるが、渡欧時まで実家で生活した。父の職業柄、幼少時から西洋美術の図録に親しみ、大正14(1925)年、慶應義塾普通部に通学する一方、白瀧幾之助に木炭デッサンを学ぶ。翌年慶應義塾普通部を修了し、東京美術学校を受験するが失敗したため、本郷絵画研究所に入り、デッサンを中心に学ぶ。翌年も東京美術学校を受験するが、再度失敗し、東京近郊の農園に1年あまり勤務した。昭和3(1928)年1930年協会絵画研究所で中山巍に師事し、あらためて油彩画とデッサンを学び、翌年第4回1930年協会展に初入選する。同5年第17回二科展に初入選。同6年第1回独立美術協会展に入選した。同年渡仏し、今泉篤男、山口薫、浜口陽三を知る。同7年サロン・ドートンヌに入選。同9年に帰国して、翌年東京銀座の近代画廊で「渡仏作品展」を開催した。同11年第6回独立美術協会展に「日時計」「晴日」「広告塔」「ローマ郊外」を出品してD賞を受賞、同13年同会第8回展に「母子」「坐像」を出品するが、同14年第9回展の出品を最後に同会を退会する。同年第3回自由美術家協会に出品し、同会会員となる。同18年東宝映画撮影所特殊映画部に入り、同23年まで勤務した。この間、同22年日本美術会主催第1回日本アンデパンダン展に出品。同26年より武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に勤務し、後進の指導にあたった。同37年ヨーロッパに渡り、パリを中心に5ヶ月滞在。同年同教授となり、同56年に退職するまで長く美術教育にあたった。同37年、神奈川県立近代美術館で麻生三郎との二人展を開催する。同39(1964)年、麻生三郎、糸園和三郎、寺田政明らを含む38名とともに自由美術家協会を退会し、同年主体美術協会を結成してその代表となった。同40年日中文化協会による日本美術家訪中団の一員として中国へ渡る。同44年ヨーロッパ旅行。同46年インドへ、同47年モンゴル・シルクロードへ旅行。同年より東京芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとった。同49年、『森芳雄画集』(日本経済新聞社)を出版。同55年、『森芳雄素描集』(朝日新聞社)を刊行。同50年、東京渋谷の東急百貨店、大阪の梅田近代美術館で「森芳雄展」が開催された。同53年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「森芳雄教授作品展」が開催される。同54年には東京銀座の松屋および仙台の藤崎で「森芳雄デッサン展」が開催される。同56年には渋谷区立松涛美術館で「森芳雄展」が開催された。同61年、名古屋画廊で「森芳雄展」、平成4(1992)年にも同画廊で「森芳雄近作展」が開催された。平成元(1989)年、東京日本橋高島屋で「森芳雄展」が開催され、また、写真集『画家森芳雄平成元年80歳』(森芳雄写真集刊行会)が刊行された。平成2年には茨城県近代美術館で「森芳雄展」が開催されている。かたちを簡略化した象徴的人体像を画面内に配置することにより、かたち相互の拮抗や調和に、造形上の整合性と論理性を求め、「母子像」を多く描いた。

難波田龍起

没年月日:1997/11/08

 洋画家の難波田龍起は、11月8日午後5時49分、肺炎のため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年92。明治38(1905)年8月13日、北海道旭川市に生まれ、翌年一家は東京に移った。大正2(1913)年、本郷区駒込林町に転居、ここは高村光太郎のアトリエの裏隣であった。同12年、早稲田第一高等学院に入学、同年9月の関東大震災にあたり、町内の夜警に立ち高村光太郎と知己となった。翌年頃から、自作の詩を携えて、光太郎のアトリエを訪れるようになった。同15年早稲田大学政経学部に入学したが、翌年退学。太平洋画会研究所、ついで本郷絵画研究所で一時学んだ。昭和3(1928)年、光太郎に川島理一郎を紹介され、川島が主宰し、青年画家たちが作品を批評しあう金曜会に参加するようになった。同4年、第4回国画会展に「木立(中野風景)」が初入選した。同8年頃、松本竣介、鶴岡政男らと親しくなる。とくに松本とは、その死(同23年)にいたるまで親交した。一方、同10年には金曜会のメンバーとともに「フォルム展」を結成した。同12年、自由美術家協会結成にあたり、会友として参加、翌年会員とり、同会を同34年に退会するまで毎回出品した。戦中期には、古代ギリシャ、ローマの芸術への憧憬を表現した作品を描いていた。しかし、戦後になると、自律的に抽象化を試みるように、幾何学的な構成による叙情的な抽象絵画を描くように展開した。しかし、次第に無数の鋭く、しなやかな線が交錯する表現へ、さらに60年代にはドロッピングによる表現へと変化し、「コンポジション」(同40年、東京国立近代美術館)などに代表される独特の抽象絵画を生み出すにいたった。70年代からは、再び意志的な線による構成がとられるようになり、青や茶を基調にした画面は静かだが、奥深い情感たたえるようになった。同57年に北海道立近代美術館で「形象の詩人 難波田龍起展」として、初めての本格的な回顧展が開催された。つづいて同62年には、東京国立近代美術館で「今日の作家 難波田龍起展」が開催され、回顧と同時に、新作「原初的風景」のシリーズも出品され、深いい精神性をただよわせた新たな表現が示された。この展覧会によって、翌年第29回毎日芸術賞を受賞した。平成6(1994)年、世田谷美術館でも「難波田龍起展 1954年以降ー抽象の展開・生命の響き」が開催された。同8年には、文化功労者に選ばれた。難波田は、抽象表現への一貫した思考と詩人的な叙情性によってうらづけられた、純度の高い作品を数多く残した。

日原晃

没年月日:1997/10/12

 洋画家で、日展参与をつとめた日原晃は、10月12日午後10時48分、胸部大動脈りゅう破裂のため死去した。享年87。明治43(1910)年2月19日、岡山県津山市に生まれ、昭和19(1944)年、日本大学芸術科を卒業、翌年の第1回日展に初入選した。28年の第9回日展に「田舎の町」を出品、特選及び朝倉賞を受賞した。また、光風会にも終戦後から出品をつづけ、29年に会員となり、後には評議員、名誉会員となった。日展では、41年に審査員をつとめ、翌年会員となり、評議員、参与を歴任した。45年には、岡山県文化賞、平成元(1989)年には津山市文化賞をそれぞれ受賞した。瀬戸内海や日本海などの港の風景や海景などを、おだやかな色彩と剛胆な筆致で描きつづけた。

井上武吉

没年月日:1997/09/26

 東京都庁舎など多くの公共建築にモニュメントを残した彫刻家井上武吉は、9月26日午後10時34分、急性心筋梗塞のため横山市内の病院で死去した。享年66。昭和5(1930)年12月8日、奈良県宇陀郡室生村字瀧谷368番地に生まれる。同26年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)彫刻科に入学。同年第15回自由美術家協会展に「若きヴァイオリニストの手」「若者の首」で初入選する。同28年第17回同展に「悲哀」「女の首」で入選し、以後連年同展に出品する。同30年武蔵野美術学校彫刻科を卒業。同年第19回自由美術家協会展に「生」を出品し、同会会員となる。同32年11月新宿風月堂で「田中稔之・井上武吉 絵画と彫刻作品展」を開催し、「昆虫(ファッションモデル)」「人」など4点を展示する。同35年8月「集団現代彫刻」の結成に参加し、その第1回展に「虚脱」を出品する。同36年第1回宇部市野外彫刻展に出品。同年自由美術家協会を退会する。同37年第5回現代日本美術展に「間」を出品して優秀賞を受賞。翌年第7回日本国際美術展に「面への参加」を出品して優秀賞を受賞する。また、同年に開催された第7回サンパウロ・ビエエンナーレに「円とその周辺」(1958年)、「貌」(1960年)、「面と凸」(1961年)などを出品する。同40年第8回日本国際美術展に「鬆 65」を出品して再度優秀賞を受賞。同41年アントワープ国際野外彫刻展に「Question No.180-66」を出品。同42年、大規模モニュメントの設計としては初めての仕事として靖国神社の無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」を完成させる。同43年第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「浮いた箱」を出品して大原美術館賞を受賞。同44年井上武吉空間造形研究所を設立。同所を基盤に、同年開館の箱根彫刻の森美術館、同50年開館の池田20世紀美術館などの建築・都市計画の設計監理を行う。同年東京・フジテレビ、「メイン広場のためのモニュメント」を制作したほか、翌年にはシンガポールのロイヤルホテルの前庭基本計画、箱根彫刻の森美術館「子供の広場」の設計監理を行う。同47年第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「都市論のための拡大定規」「The Outer Space Test Box」を出品し、前者で神戸教育委員会賞を受賞。同年米国国務省の招待により渡米する。同48年第1回彫刻の森美術館大賞展に「The Outer Space Test Box」を出品。同49年ドイツ文化庁の招きにより西ベルリンのベタニアン芸術家会館に滞在し同年54年に帰国。この間、同50年アントワープ国際野外彫刻展に「Plus and Minus No.53」「Plus and Minus No.55」を出品、同年第2回彫刻の森美術館大賞展に「コンパクト・モニュメント”ボックス17”」を出品した。同年に母校武蔵野美術大学教授となったが翌年辞任。同51年には西ベルリンのベルリン美術アカデミーで<Box>と題して大規模な個展を行い同展をユトレヒト現代美術館に巡回したほか、ベルリン市プトリッツ橋南側芸術家アイデアコンペティションで1等賞となり翌年にかけて同橋に作品を制作するなどドイツを主要な活動の場とし、同53年9月より翌年3月まで国立ベルリン美術学校客員教授となって教鞭を取った。同54年第1回ヘンリー・ムア大賞展<招待部門>に「溢れる No.8」を出品して優秀賞を受賞。同年秋、ベルリンからパリへ移住し、パリのポルト・ド・ベルシーで行われた「若い彫刻」に後年のテーマとなった「My Sky Hole」のコンセプトを出品する。同55年パリ・ポンピドー・センターで「My Sky Hole」(1979年)の映画上映が行われ、翌56年アーヘン市立ノイエ・ギャラリー=ルードヴィッヒ・コレクションで大規模な個展「My Sky Hole」が開催された。同57年日仏日本人美術クラブの結成に参加。同59年10年にわたる滞欧生活を終えて帰国する。翌60年東京都美術館で大規模な個展「井上武吉新作展-My Sky Hole 迷路宇宙 イメージ」が開催され、同62年には国立国際美術館と三重県立美術館の共同主催で「井上武吉 My Sky Hole 87 道-宇宙」が同2館を巡回して開催された。平成3(1991)年中原悌二郎賞、翌4年吉田五十八賞、同7(1995)年芸術選奨文部大臣賞を受賞。自己の原風景を郷里室生とそこで過ごした幼年期に求め、昆虫などの具象的イメージから内面を表象する「My Sky Hole」へと展開し、抽象彫刻に新たな面をもたらした。

間部学

没年月日:1997/09/23

 ブラジル、サンパウロ在住の画家間部学は9月23日午前1時(現地時間2日午後1時)、ひ臓ガン手術後の合併症により、サンパウロの病院で死去した。享年73。大正13(1924)年9月14日、熊本県宇土郡不知火村高良に生まれる。生家は旅館ののち理髪店を営んでいた。昭和6(1931)年、不知火尋常小学校に入学。翌年当尾尋常小学校に転校し、同校在学中クレヨン画に熱中する。同9年豊川尋常小学校に転校するが、同年8月18日、一家でブラジルサンパウロ州に入植する。日系人が共同で営む私立学校でポルトガル語、日本語の勉強を続け、コーヒー園での父の仕事の手伝いなどをして少年時代を送る。同15年サンパウロ州リンスに移転し、コーヒー園の仕事に従事する。同20年、油絵具を購入し、石油で絵具を解き、独学で油彩画を描き始める。同年中、写真屋を開業していた熊谷悌助に月1回の指導を受ける。同23年父の死去を契機にコーヒー園主として独立。一方で絵画の制作を続ける。同26年国立美術展(リオデジャネイロ国立美術館)に初入選し、以後同展に毎年出品。同28年第2回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、同展で展示された抽象画に刺激を受ける。また、同年日系画家による聖美会の行うコロニア展の第2回展に出品し、コロニア賞受賞。この年から、作風が構成主義的抽象へと移行する。翌年第4回サンパウロ近代美術展で小銀賞、翌30年の第5回同展では大銀賞、同31年の第6回同展では再度小銀賞を受賞。同32年第7回同展で大銀賞を受賞し、同年国立美術展(ブラジル・サロン・デ・ナシオナル・ベラス・アルテス)無鑑査となる。同33年第8回サンパウロ近代美術展で州知事賞受賞。同34年ブラジルにおける美術の年間総合最優秀賞であるレイネル賞の第1回目の受賞者に選ばれ、日系画家として注目されるようになる。同年第5回サンパウロ・ビエンナーレ展で国内大賞受賞を受賞。アンドレ・マルローに注目され、第1回パリ青年ビエンナーレ展のブラジル代表として推薦するようにとの要請を受けて、同展に出品し、最高賞(ブラウン賞)を受賞する。同35年、ブラジル代表としての作品発表が多くなったため、ブラジルに帰化する。同年第30回ヴェネツィア・ビエンナーレにブラジル代表として出品し、フィアット賞受賞。同40年代には作風にアンフォルメル的傾向があらわれ、即興的な制作を思わせる点などに東洋的との評もよせられた。同50年サンパウロ美術館で回顧展が開催され、同53年には熊本県立美術館を皮切りに、神奈川県立近代美術館、国立国際美術館を巡回する「マナブ・間部展-ブラジルの巨星=その熱い★(手へんに矛)」が開催されて、初期から近作までの100点が展示された。初期には遠近法などを踏まえた再現描写が試みられたが、1950年代に入ると、具象表現でありながら、自然の形態や色彩から離れ、単純な幾何学的色面に対象を分解したのち再構成する作風へと展開し、1960年代には抽象的作風へと移行した。数を限って明快な色彩を用い、大胆な構図で「生命」「望郷」「雄飛」などの抽象概念を表現した。ニューヨークやパリなどでも個展を開き、国際的に活躍する一方、日本とブラジルの文化的架け橋としても尽くした。平成8(1996)年には郷里熊本で回顧展を開催している。

太田良平

没年月日:1997/09/18

 日展参与の彫刻家太田良平は9月18日午前10時23分心不全のため福島県国見町の公立藤田総合病院で死去した。享年83。大正2(1913)年7月13日福島県伊達郡梁川町元陣内1に生まれる。昭和6(1931)年三木宗策の主宰する彫刻塾に入門して彫刻を学び、後、北村西望塾および藤野舜正にも学ぶ。同11年文展鑑査展に「浴後」で初入選し、同14年第3回新文展に「苑」で入選して以来、一貫して官展に出品を続け、戦後も第2回展から日展に出品する。同28年第9回日展に「双華」を出品して特選朝倉賞受賞。翌29年第10回日展に「修道尼ヴィンセンチヤ」を出品して二年連続特選となる。翌年より日展に依嘱出品。同35年日展会員となるとともに同展審査員をつとめる。同年日展評議員、同年参与となった。穏やかな写実的女性像に季節感や抽象的な概念を託した作品を多く制作した。

牛島憲之

没年月日:1997/09/16

 文化勲章受章者の洋画家牛島憲之は9月16日午前0時27分、呼吸不全のため東京都港区の虎ノ門病院で死去した。享年97。明治33(1900)年8月29日、熊本市二本木町に地主牛島米太郎の4男として生まれる。大正2(1913)年古町小学校を卒業して熊本県立熊本中学校に入学。同8年同校を卒業して上京し、東京美術学校を受験するが失敗、白馬会葵橋研究所に入る。同11年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍する。同級に荻須高徳、小磯良平、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らのいる優秀なクラスであったが、在学中はあまり登校せず、歌舞伎に興味を抱き、藤間流舞踊、常磐津などに凝った。昭和2(1927)年同校を卒業。卒業制作は「自画像」「猿芝居」。同年、同研究科に進学する。また、同年東京美術学校西洋画科の同級生全員で親睦・研究団体「上杜会」を結成し、その第1回展から晩年まで同会への出品を続ける。同3年、第9回帝展に「あるサーカス」で初入選。翌年の第10回帝展に「春爛漫」を出品。同5年第2回聖徳太子奉賛美術展に「二人像」を出品するが、同年より同7年まで帝展には落選を続ける。同5年、デッサン力の不足を感じ小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に通う。同8年、東光会が結成されるとその第1回展から出品、また、同年第14回帝展に明るい色彩を点描風に用いた「貝焼場の風景」が入選する。同10年第4回東光会展に「貝焼場」「午後(貝焼場)」を出品してK氏奨励賞を受賞。翌11年東光会を退会した高間惣七、橋本八百二らと主線美術協会を結成し、同会会員となるが、同14年同会絵画部が解散。同16年創元会が結成されると第1回展に「元朝」「昼」を出品して受賞し、以後同展に出品を続ける。同21年日展が開催されると第1回展から出品し、第2回日展に「炎昼」を出品して特選となる。「炎昼」は、これ以後の画風の特色となる、写生をもとにデフォルメを加えた独自の形態と淡い色調による静謐な趣をそなえ、新たな展開を示したものであった。同24年、須田寿、山下大五郎らとともに創元会を退会し、日展をはじめ在来の公募展を排して会員だけの研究の場として立軌会を結成。第1回展に「家」「風景」「道」を出品し、以後、没するまで同会を活動の主要な場とした。同27年第1回日本国際美術展に「水辺(水門)」「早春」「午後(タンク)」を出品し、以後第9回展まで同展に出品を続ける。同28年第2回サンパウロ・ビエンナーレに「早春」「午後」「麦を刈る」を出品。同29年、第1回現代日本美術展に「樽のある街」「橋の風景」を出品し、以後同展に出品を続ける。同30年東京芸術大学講師となり、同34年助教授、同40年教授となる。以後、同43年、東京芸術大学を停年退官し、同校名誉教授となるまで、長く美術教育にたずさわり、後進の指導にあたった。同44年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。同53年京都国立近代美術館・日本経済新聞社主催で開催された「牛島憲之の芸術-五十年の歩み」展(神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館に巡回)は、初期からの代表作108点および素描・版画が出品される大規模な回顧展となった。同55年東京銀座松屋で「牛島憲之展-現代洋画家デッサン・シリーズ」(朝日新聞社主催)を開催。同56年、日本芸術院会員、同57年文化功労者に選ばれ、翌58年文化勲章を受章した。1930年代の「貝焼場」などに見られる鮮やかな色面による画面構成から、戦後は抽象絵画運動を傍らに見つつ、「水門」「タンク」といった幾何学的形態を淡い色調で描く具象絵画へと移行し、晩年は初期から貫かれている独特の形態感覚をもとに、写生にもとづきながら構図・色彩などに画家の造形的意図が明快に表出される画面に至った。平成2(1990)年世田谷美術館、熊本県立美術館、山梨県立美術館で「牛島憲之展-静謐なる叙情」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。また、昭和27年の第3回目の個展以後、東京のフジカワ画廊を会場としてたびたび個展を行っており、図録も刊行されている。画集としては、『牛島憲之版画集(第一、二輯)』(加藤版画研究所、同42、43年)、『牛島憲之画集』(同画集刊行会、同44年)、『牛島憲之画集(第二輯)』(同画集刊行会、同47年)、『牛島憲之素描集』(求龍堂、同50年)、『牛島憲之素描集』(平凡社、同50年)、『牛島憲之画集』(日本経済新聞社、同53年)、『牛島憲之素描集』(朝日新聞社、同56年)が刊行されている。

音丸耕堂

没年月日:1997/09/08

 人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家音丸耕堂は、9月8日午前9時8分、肺炎のため高松市の病院で死去した。享年99。本名芳雄。明治31(1898)年、6月15日、香川県高松市に生まれる。小学校を卒業後、13歳で讃岐彫りを専門とする石井磬堂に弟子入りし、4年間讃岐彫りを学ぶ。16歳で独立自営しつつ、独学で彫漆を学び、20歳のときに香川漆器の玉楮象谷(たまかじしょうこく)の作風にひかれて私淑した。漆芸家の磯井如真、金工家の北原千鹿、大須賀喬らと交友し、大正期から昭和10年ころまで堆朱、堆黒、紅花緑葉など古来の色漆を用いた彫漆を行い、さらに緑漆と黒漆の色彩的コントラストをいかした西洋風の作風へと移行した。昭和7(1932)年第13回帝展に「彫漆双蟹手箱」で初入選。以後官展を中心に出品し、同12年上京してからは、色漆の色彩の幅を広げ、新色を用いる試みを行った。同17年第5回文展に「彫漆月の花手箱」を出品して特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年第5回日展に「彫漆小屏風」を出品して特選を受賞する。工芸家の地位の向上を目指して香川県の工芸家たちと香風会を設立。同30年重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定される。日本工芸会の創立に参加し、日本伝統工芸展にも出品を続け、同48年第20回日本伝統工芸展に「彫漆菊水指」を出品して20周年記念特別賞を受賞。昭和51年2月東京・板橋常盤台の日本書道美術館で20余点の作品を展示する展覧会を開催した。色漆を数十回から数百回塗り重ねた厚い漆の層に文様を彫り込む彫漆の技法を完成させ、昭和52年ころから色彩の断層面を表に出した平行しま模様を用いた作品を多く制作して、伝統的工芸技術による斬新な作風を打ちだした。色漆に金銀粉を混入して塗り、漆の固まる間に金銀が沈澱して層をつくるのをいかし、文様があらわれるように研ぎ出す技法や、彫り口の傾斜の角度により、重ねた色漆の層の断面を加減して微妙な文様をあらわす技法など、彫漆による多様な表現の可能性を引きだした。同57年、後進の育成に寄与すべく「公益信託音丸漆芸研究奨励基金」を設立した。同63年東京池袋の西武アートフォーラムで「音丸耕堂鳩寿記念回顧展」が開催され、平成6(1994)年に回顧展が開催されている。

村松貞次郎

没年月日:1997/08/29

 東京大学名誉教授で博物館明治村館長の建築史家村松貞次郎は8月29日午前5時52分、心不全のため千葉市中央区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年6月30日静岡県清水市の材木屋の次男として生まれる。昭和17(1942)年静岡県立静岡工業学校機械科を卒業。同20年旧制第八高等学校理科甲類を卒業し、同年東京帝国大学第二工学部建築学科に入学した。同23年東京大学第二工学部建築学科を卒業して東京大学大学院(旧制)に入学、特別研究生に選ばれる。同28年3月同大学院を修了し、同年4月から東京大学工学部建築学科助手をつとめる。同36年同大学生産技術研究所助教授となり、同年東京大学より工学博士の学位を授与される。同48年『大工道具の歴史』(岩波新書)を刊行し、これにより毎日出版文化賞を受賞。同49年同大学教授となり、同60年3月に停年退官するまで教鞭を取った。この間、幕末、明治から昭和までの日本近代建築の全国調査に尽力し、その成果を戦前の洋風建築の戸籍台帳にあたる『日本近代建築総覧』(昭和55年)に結実させるとともに、高度経済成長によって消えつつあった近代建築物の保存運動の原動力となった。同59年日本建築学会業賞を受賞。東京大学退官後は同60年4月より法政大学工学部教授となり、引き続き後進の指導にあたった。同年東京大学名誉教授の称号を受ける。また、同56年より博物館明治村評議員をつとめ、同60年財団法人明治村理事となった。同63年明治村賞受賞。平成3年6月から博物館明治村館長となって、建造物の外観保存だけでなく、建築内部の復元展示などの新機軸を打ちだした。また、昭和63年からは迎賓館赤坂離宮顧問を、平成元(1989)年からは竹中大工道具館理事もつとめた。平成6年日本建築学会大賞受賞。同7年法政大学教授を退任する。「手考足思」を提唱し、実地に足を運び、実際の建造物にあたっての調査・研究を進め、また、道具や職人技を重視して『道具曼荼羅 全3巻』(毎日新聞社 昭和51年)、『やわらかいものへの視点』(岩波書店 平成6年)、『道具と手仕事』(岩波書店 平成9年)などを著した。著書にはほかに、『日本建築技術史』(地人書館 昭和34年)、『建築史学』(『建築学大系』37巻 彰国社 昭和37年)、『日本科学技術大系 17巻 建築技術』(第一法規 昭和39年)、『日本建築家山脈』(鹿島出版会 昭和40年)、『日本近代建築の歴史』(NHKブックス 昭和52年)などがある。

加藤金一郎

没年月日:1997/08/24

 新制作協会会員の洋画家加藤金一郎は8月24日午後10時23分、心不全のため名古屋市昭和区の病院で死去した。享年75。大正10(1921)年10月21日名古屋市に生まれる。昭和10(1935)年尋常小学校を卒業し、同15年頃、鬼頭鍋三郎に師事して緑ケ岡洋画研究所に通う。同15年光風会展に初入選。同23年第12回新制作協会展に「サボテン図」で初入選し、以後同会創立会員である猪熊弦一郎に師事したほか、坂本範一にも学ぶ。同27年第16回新制作展に「白の作品」「白と黒の作品」を出品して新作家賞受賞。同37年同会会員となる。同40年欧米を巡遊し、同45年フランス、イタリア、スペインへ旅行、翌46年スペインを中心に欧州を旅する。同48年エジプト、トルコ、ヨーロッパに旅行。同50年および53年メキシコへ渡り、その成果を同52年の「メキシコ紀行展」(名古屋日動画廊)、同54年の「メキシコ・グアテマラの旅」個展(日動サロン、名古屋日動画廊)などで発表した。ガラス絵も描き、同52年日本ガラス絵協会会員に推挙されている。同63年松坂屋本店で「画業45年記念展」が開催され、平成9(1997)年同じく松坂屋本店で「加藤金一郎新作展」が開かれた。初期から具象画でありながら、描く対象の持つ形と色彩から離れ、自在に画面を構成する作品を描いたが、晩年の「SANKAKUYAMA」のシリーズでは白を基調とし、明快な色彩を用いた抽象的な作風へと展開した。

岡村辰雄

没年月日:1997/08/20

 額装店岡村多聞堂の創業者で全国額縁組合連合会初代会長の岡村辰雄は8月20日午後4時36分、前立せんガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年92。明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。

阪口一草

没年月日:1997/08/19

 日本画家の阪口一草は8月19日午後5時35分、急性肺水腫のため東京都町田市の病院で死去した。享年95。明治35(1902)年2月28日、大阪市港区に生まれる。本名政次郎。初め友人の竹内未明らが絵を描くのに刺激され、大正6(1917)年藤田紫雨に手ほどきを受けた。翌7年上京し、新聞配達などをしながら一年ほど太平洋画会研究所に通う。9年御形塾に入り川端龍子に師事。昭和2(1927)年第14回院展に「静閑」が初入選するが、翌3年龍子の院展脱退に際してこれに随伴、青龍社結成に参加する。 翌年第1回青龍社展に「新粧」「雨煙る」を出品、昭和6年第3回展に「炎風」「爽風」を出品し、社人となる。以後塾頭もつとめ、同16年第13回「大仏寺」、同19年第16回「潮を待つ」、同24年第21回「千手観世音」などの大作を発表。洋画的表現もとりいれながら豪快な作風を展開した。しかし同25年愛娘を失ったことに端を発して龍子と意見を違え、青龍社を脱退。日展出品ののち、32年新興美術院に移り、同34年には同志と青炎会を結成、以後57年に解散するまで毎年展覧会を開催し、また同50年より日本画院の客員となった。なお姓は昭和31年頃まで“坂口”を使用、その後戸籍の記載に従い、“阪口”を用いた。

衛藤駿

没年月日:1997/08/01

 慶應義塾大学名誉教授で、茨城県立歴史館長、川崎市民ミュージアム館長をつとめた美術史家の衛藤駿は8月1日午前0時24分、いん頭ガンのため東京都目黒区中根1-3-15-301の自宅で死去した。享年66。昭和5(1930)年12月3日、東京千駄ヶ谷に生まれる。番長小学校卒業後、慶應義塾大学附属普通部に入学するが、戦災にあい、戦後、父の郷里であった大分県に移る。同24年大分県日出高等学校を卒業し、同年慶應大学医学部に入学。在学中、医学部から文学部へ移り、同28年同大学文学部を卒業する。同31年大和文華館研究員となり、同39年同館学芸課長となった。同40年9月米国ロックフェラー三世財団による在欧米東洋美術調査・研究のため欧米に留学し翌41年3月に帰国する。同46年3月、大和文華館を退職して、同年4月に母校慶應大学工学部助教授となり、同52年同大学理工学部教授となる。この間、同37年奈良女子大学非常勤講師として東洋美術史を、同43年には京都市立芸術大学非常勤講師として中国絵画論を講じ、同47年には武蔵工業大学非常勤講師として美術を講じた。同53年成城大学文芸学部大学院非常勤講師、同54年東京大学非常勤講師としてアジアの美術を講じた。同57年から同63年9月まで慶應大学日吉情報センター所長を、同63年からは慶應義塾大学中等部長を兼務、平成2年(1990)10月より慶應義塾大学高等学校長を兼務した。同8年慶應大学を停年退職し、同大学名誉教授の称号を与えられた。同年茨城県歴史館館長となり、翌9年に川崎市民ミュージアム館長となった。主要著書として『相阿弥・祥啓』(集英社 1979年)、『禅と水墨』(共著、講談社、1982年)、『雪村周継全画集』(編著、講談社、1982年)、『解釈の冒険』(共著、NTT出版、1988年)、『美術における右と左』(共著、中央大学出版部、1992年)などがある。

奥村光正

没年月日:1997/07/11

 新制作協会会員の洋画家奥村光正は7月11日午前0時4分、肝臓がんのためパリの病院で死去した。享年55。昭和17(1942)年6月4日、長野県に生まれる。同42年東京芸術大学油画科を卒業し、同大学大学院油画科に進学。同年第31回新制作協会展に「前段階」で初入選する。同43年第32回同展に「コンポジション」を出品して新作家賞受賞。同44年東京芸術大学大学院油画科を修了して同年より同46年まで小磯良平教室の助手として勤務する。同年第33回新制作展に「カルテ」「カムフラージュの為の講義室」を出品して再度新作家賞受賞。また同45年第13回安井賞展に「カモフラージュのための講義室」を出品する。同45年第34回新制作展、翌46年第35回同展でも連続して新作家賞を受賞する。同47年、渡仏しパリで制作を始める。同年より国際形象展に出品。また同年第15回安井賞展に「一族の挽歌」「部屋の中の使者群」を出品する。同53年第13回昭和会展に「貝殻のある静物」を出品して昭和会賞受賞。同53年一時帰国し東京銀座の日動画廊で個展を開催する。同54年第22回安井賞展に「貝と枯葉」を出品。同59年、新制作協会会員となる。同年および平成元(1989)年、日動画廊(東京銀座、大阪、名古屋)で個展を開催。花、果物などの静物を主要なモティーフとし、簡略化した形態と洗練された中間色を多用する色彩で構成力の強い作風を示した。

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