本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





高田克己

没年月日:1989/12/19

 元大阪市立大学教授、元関西女子美術短大学長の高田克己は、12月19日午前8時29分、脳こうそくのため、大阪府済生会茨木病院で死去した。享年83。明治38(1905)年12月25日、福岡県朝倉郡に生まれる。昭和5(1930)年、東京美術学校図画師範科を卒業して、同年大阪市立西華高等女学校教諭となる。同22年同市立女子専門学校教授となり、24年より大阪市立大学助教授を兼務。翌25年女子専門学校を退く。37年3月工学博士となる。同43年大阪市立大学教授となり、翌44年停年退職。同年より非常勤講師として同大学で教鞭を取り、また大手前女子大学文学部哲学科美学美術史学科教授となって50年まで在職。同50年5月、関西女子学園短期大学教授兼学長となる。(同年6月、同大学は関西女子美術短期大学と改称。)同61年、同大学を退いた。「動宜均斉的観察の対象例 茶室(一)~(三)」(昭和27年3月)、「営造意匠と規矩法」(同29年3月)、「『孝工記』にあらわれた営造意匠の法式の研究」(同36年9月)、「伝幡した意匠」(同40年11月)などを著し、日本建築学会、日本デザイン学会、色彩科学協会、関西意匠学会、美術史学会に所属した。

田河水泡

没年月日:1989/12/12

 代表作「のらくろ」で広く知られる漫画家田河水泡は12月12日午前2時半、肝蔵ガンのため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年90。明治32(1899)年2月10日、東京市本所区に生まれる。本名高見澤仲太郎。同44年深川区立臨海尋常小学校を卒業。1歳で母に、15歳で父に死別し伯母のもとで育てられ、従兄の高見澤遠治が浮世絵版画師であったところから、その仕事を手伝ううち絵に興味を持ち油絵を描き始める。大正8(1919)年陸軍に入営。同11年除隊し、同年日本美術学校図案科に入学する。翌12年村山知義らを中心とする前衛美術運動MAVOに参加するが、同14年日本美術学校を卒業後は高澤路亭の名で新作落語の台本作家として活躍。昭和2年漫画にも筆を染めるようになり、同6年講談社の雑誌『少年倶楽部』新年号に「野良犬黒吉」を主人公とする漫画「のらくろ」を発表。自らの体験を投影し、不遇の野良犬が明るく生きていくユーモアとペーソスあふれる内容と、大胆に簡略化した黒い体と独特の顔を持つ斬新なキャラクターで人気を博し、軍部の禁止令によって停止させられる同16年10月号まで連載を続けた。戦後は同36年から雑誌『丸』に「のらくろ中隊長」の連載を始め、のらくろの後日譚を描いた。同42年『のらくろ漫画全集』の刊行により再評価の熱が高まり、同55年の「のらくろ喫茶店」まで、大戦をはさんで約半世紀の間、同一のキャラクターを描き続けて人気を保った。このほか「凸凹黒兵衛」「蛸の八ちゃん」などの漫画でも知られる。また、関野凖一郎にエッチングを学び昭和26年第1回東京ビエンナーレ展に入選したほか一線美術展にも出品。同34年に同会委員となった。著書に『人生面白説法』『滑稽の構造』『滑稽の研究』などがある。長谷川町子、滝田ゆう、永田竹丸らの後進を育て、児童漫画の礎を築くとともに現代漫画の育成にも寄与した。夫人は評論家小林秀雄の妹で文芸評論家の高見澤潤子(本名富士子)。

粟津慈朗

没年月日:1989/12/10

 粟津画廊社長、元東京美術商協同組合理事の粟津慈朗は12月10日午後零時24分、肝硬変のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年76。大正2(1923)年に北海道札幌市に生まれ、昭和5(1930)年、京都市山内春静堂美術店に入る。翌年同店東京店に移り、同15年独立。19年応召し、20年に復員して下北沢で開業。同22年日本橋で営業を始め、41年株式会社粟津画廊として組織改革を行ないその社長となった。二朗とも号す。戦後間もない時期から現代日本画を中心に作家に活動の場を提供しその振興に寄与した。

館林源右衛門

没年月日:1989/11/27

 有田焼・源右衛門窯会長の陶芸家館林源右衛門は、11月27日午前11時40分、急性腎不全のため福岡市東区の九州大学付属病院で死去した。享年62。昭和2年4月2日、佐賀県西松浦郡に生まれる。本名金子源。同20年3月、佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業と同時に家業の源右衛門窯で作陶に従事。35年六代目館林源右衛門を襲名する。伝統的有田焼のひとつ「古伊万里」の技法、作風に興味を抱き、同45年に江戸時代に海外へ渡った日本陶磁器を調査するためドイツのドレスデン美術館蔵古伊万里第一次調査員に加わる。その成果である「古伊万里の里帰り展」開催に協力したほか、作陶においても古伊万里の伝統を生かした現代陶磁を模索する。洋食器に古伊万里の技法・様式を取り入れる試みから、布製品、服装、インテリアなどに古伊万里のデザインを生かした「源コレクション」の発表へと展開し、同56年には米国ミネアポリス、シカゴ、サンフランシスコで個展を開催。同63年12月、日本文化振興会から国際芸術文化賞を贈られた。著書に『古伊万里のこころ館林源右衛門作品抄』(学研、昭和58年)がある。

宗廣力三

没年月日:1989/11/21

 紬縞織、絣織の人間国宝宗廣力三は、11月21日午前7時57分、ジン不全のため神奈川県小田原市の小田原市立病院で死去した。享年75。大正3年4月25日岐阜県郡上郡に生まれ、昭和7年岐阜県立郡上農林学校を卒業する。12年青年の修養道場凌霜塾の主事として塾生の指導にあたり、13年大日本青少年独逸派遣団員として渡欧、ドイツを中心に半年間各地を巡遊する。18年羊の飼育からホームスパンを試作。兵役で満州に渡ったのち、戦後帰還し、大正中頃にすたれていた郡上紬織の復興を志す。郷里の郡上郡は、古くからの絹産地であった。22年京都市染織試験場長浅井修吉に染料についての指導を請い、天然染料と絣を研究する。郡上郡那留ケ野で大平開拓農場を営みながら、古い縞帳や手織機から紬織を研究。インドのエリ蚕を飼育し、家蚕の手紡糸、玉糸に一部エリ蚕を使う。28年には郡上工芸研究所を開設、研究生の育成にあたるとともに、郷土産業としての郡上紬の振興に尽力した。32年同研究所を八幡町初音に移転。また30年、河井寛次郎を知る。33年中央公論画廊で初の個展郡上織展を開催し、翌年には河井寛次郎の推薦で京都高島屋で第2回個展を開催。市場開拓にもつとめ、43年には郡上染織資料館を開館、内外の染織資料を展示する。また40年第12回日本伝統工芸展に「紬織着物・素」「紬織着物・やすらぎ」、同年の第2回伝統工芸日本染織展に「エリ蚕紬・残光」「エリ蚕紬・たそがれ」「エリ蚕紬・早春」がともに初入選した。以後両展に出品を続け、42年第4回伝統工芸日本染織展で「紬格子着物」が東京都教育委員会長賞、翌43年同第5回「紬織着物・待春」が文化財保護委員会委員長賞を受賞。45年第17回日本伝統工芸展「紬織着物・流動文」は日本工芸会長賞を受賞し、44年日本工芸会正会員となった。この間、36年岐阜県芸術選賞、40年岐阜県芸術文化賞、43年岐阜県知事表彰を受賞し、57年八幡町名誉町民章を受ける。また52年岐阜県無形文化財保持者に指定され、57年には、紬縞織、絣織により国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。主要個展には、上記のほか、47年大阪の阪急百貨店、58年の東京銀座和光での個展がある。また58年、アメリカ各地を巡回した「人間国宝米国展」、東京国立近代美術館「伝統工芸30年の歩み」展に出品し、60年同じく東京国立近代美術館で開催された「現代染織の美-森口華弘・宗廣力三・志村ふくみ」展には26点を出品している。タテとヨコの方向性を基調とした端整な構図と紋様に、微妙な濃淡と繊細な色彩感覚による染色を施した優品を、数多く残した。55年健康上の理由から神奈川県南足柄市に移り、「南足柄工芸研究室」を開設、門下生とともに同地方の草木を染料とした「足柄紬」を創り出した。61年、画集『宗廣力三作品集』(日本経済新聞社)が刊行されている。

森野圓象

没年月日:1989/11/08

 日展参与の彫刻家森野圓象は11月8日午後零時35分、心不全のため東京都世田谷区の三軒茶屋病院で死去した。享年85。明治36(1903)年12月18日、神奈川県横須賀市に生まれる。本名円蔵。工学院大学を卒業し、大正11(1922)年より木彫家内藤伸に師事。同14年第6回帝展に「旅」で初入選。以後、新文展、日展と出品を続ける。昭和6(1931)年内藤伸を中心とする日本木彫会の創立に参加する。同8(1933)年第14回帝展にボールを追う男性3人の群像「蹴球」を出品して特選となり、翌年第15回帝展には牛と組み合う人物をあらわした彩色木彫「力闘」を出品して2年連続特選受賞。運動する力強い人体群像を彫り出す木彫家として注目される。戦後は人々の生活に取材した制作が続くが、昭和30年代に入って東洋の古話、伝説に取材するようになり、同38年第6回改組日展出品作「このはなさくや姫」で文部大臣賞を受賞する。裸体像、着衣像ともに対象にデフォルメを加え、ノミ跡を残して素材の質感と木彫技法の性格を生かした。ブロンズ像の制作も行ない「池田勇人像」等の作品がある。同55年日展参与となった。 帝展・新文展、日展出品歴第6回帝展(大正14年)「旅」、7回「夕陽」、8回「かへり」、9回「馬鍛冶」、10回(昭和4年)「獵」、11回「武人像」、12回不出品、13回「豺」、14回「蹴球」(特選)、15回(同9年)「力闘」(特選)、文展招待展(同11年)「篭球」、第1回新文展(同12年)「レスリング」、2回「人柱架橋」、3回「錬金」、紀元2600年奉祝展(同15年)「火神」、戦時特別展(同19年)「小楠公」、第1回日展(同21年春)「石狩の女」、2回(同年秋)「秋の夜」、3回「カメラの前」、4回「文殊」、5回(同24年)「ラグビー」、6回「朝」、7回「火の幻想」、8回「石狩の娘」、9回「風と家族」、10回(同29年)「都會の女」、11回「石狩の男」、12回「美術展にて」、13回「きくじどう」、第1回新日展(同33年)「制作する私」(以下略歴)、5回(同37年)「イザナギとイザナミ」、10回(同42年)「虎渓山の乙女」、第1回改組日展(同44年)「なたでらのにわの此女たち」、5回(同48年)「ある僻地の青年医」、10回(同53年)「フラメンコ」、15回(同58年)「白秋」、20回(同63年)不出品

吉田芳夫

没年月日:1989/11/04

 新制作協会創立会員で和光大学教授の彫刻家吉田芳夫は、11月4日午後8時2分、急性心不全のため東京都中野区の自宅で死去した。享年77。明治45(1912)年2月7日、東京都本郷区に生まれる。祖父島村俊明、父吉田芳明(本名芳造)、伯父吉田白嶺と代々彫刻家を家業とする。昭和11(1936)年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業。同13年第13回国画会展に「農婦木彫原型」で初入選しK氏賞を受けるが、翌年、東美校同級生で国展での同志であった柳原義達らと共に新制作派協会彫刻部を創立し、その創立会員となる。工匠、芸術家など深い内面性を含んだ人物塑像を主に制作し、同51年には第40回新制作展出品作「白道」で中原悌二郎賞受賞。一貫して具象彫刻を制作し、実在感のある物の生成を追求してレアリストを目指した。的確な観察にもとづき、制作の跡の残る生気あるモデリングを行ない、静かな緊張感と精神性を秘めた作風を示した。 新制作展出品歴第4回(昭和14年)「演技者」、5回「生(四つの門の内)」、6回「畫家の像」、7回「肖像試作」「青年像」、8回「青年像」、10回(同20年)「首」、11回「首」、12回「首」、13回「婦人像」、14回(同24年)「S嬢」、15回(同26年)「童子像」、16回「少女」、17回「青年」、18回「村松梢風氏像」、19回(同30年)「少女」「青夫人」、20回「青年」、21回「K氏像」、22回「老匠試作」、23回「工匠」「本庄氏像」、24回「老匠」、25回「残菊」「父の像」、26回「女」、27回「少年」、28回「吉田石松翁の記録A」「吉田石松翁の記録B」、29回(同40年)「楽匠宮本金八」、30回「オカリナ」、31回不出品、32回「演技者」、33回「H君」、34回「演技者」「梅根先生」、35回不出品、36回「秋艸道人会津八一」、37回「書人」、38回「彫刻家G氏」、39回(同50年)「哭 山内壮夫」「吟遊詩人T」「画作する禾雨亭」、40回「白道」、41回「林生」「林生」「薄墨」、42回「抜海」「杜良」「クレ」、43回「林生」、44回「馬山の漢」「彫刻十戒」、45回「哲学者O氏」、46回「青年」「青年」、47回「演技者」、48回「陶人K」、49回(同60年)「演技者」、50回「若き日の内田巌」、51回「建築家佐藤次夫」、52回「鶴化」「鶴化」、53回「曼珠沙華抱くほどとれど」。

下川都一朗

没年月日:1989/10/28

 独立美術協会会員の洋画家下川都一朗は、10月28日、不明熱のため福岡県久留米市内の病院で死去した。享年77。大正3(1914)年10月18日、福岡県筑後市に生まれる。昭和8(1933)年日本大学文学部西洋哲学科を中退。同13年応召して病を得、後脊椎カリエスとなり長く病床生活にあって絵画に志す。坂本繁二郎の指導を受け同17年第12回独立展に「村」で、同年第29回二科展に「鶏と家族」で初入選。のち独立展へは出品を続け、同25年第18回展に「黄色の庭」「盆地風景」を出品して独立賞を受け、同35年同会会員となる。同39年より2年間パリに滞在し、アンデパンダン展などにも出品する。同51年にも再渡欧した。現代日本美術展、日本秀作美術展などにも出品。風景、人物も描いたが、晩年には動物、特に牛、馬をよく描いた。対象の写実的描写にとどまらず、色彩、形体ともに心象を表わすよう変更を加えて静謐な作風を示した。

原米洲

没年月日:1989/10/21

 国指定無形文化財の人形師原米洲は10月21日午後2時50分、心不全のため東京都台東区の自宅で死去した。享年96。明治26(1893)年7月18日、栃木県宇都宮市に生まれる。本名原徳重。宇都宮商業学校を卒業して18歳で上京。三世玉秀(沢栗長五郎)の門下生となり、その師であった二世玉秀(沢栗元次郎)や三浦銀次郎にも師事して、江戸初期から作例の現れる伝統工芸である胡粉仕上の人形を修得する。大正11(1922)年、米洲と号して独立。御所、木目込み、武者、おやま、三つ折れなど多くの種類の技法を持ち、木彫を主とした人形の頭造りを得意とし、桐塑、紙などを応用する多彩な手法を用いるが、特に人形の肌に胡粉を塗ってつやを出す「胡粉仕上げ」に長じ、昭和41年、人形師では初めて国の無形文化財に指定された。同48年、パリ、ニースにおける日本の伝統工芸展に出品、56年、オーストラリアでの日本伝統工芸展に出品するなど海外展へも参加し、パリ人類学博物館、スウェーデン極東美術館などにも作品が所蔵されている。

小牧源太郎

没年月日:1989/10/12

 国画会会員で日本の前衛絵画の先駆者の一人小牧源太郎は、10月12日肺炎のため京都市北区の北病院で死去した。享年83。ダリやミロらのシュール・レアリスム絵画の影響を受けつつ、日本人の土俗信仰に根ざした民俗性を加え独自の画風を築いた小牧源太郎は、明治39(1906)年7月16日京都府中郡に生まれた。京都府立宮津中学校卒業後、龍谷大学予科(在学1年)、大谷大学専門部(同2年)を経て、昭和8年立命館大学経済学部を卒業。この頃皮膚病に悩まされ療養生活を余儀なくされるなかで画家を志し、同10年北脇昇がその開設に尽力した独立美術京都研究所に入り須田国太郎らの指導下に同14年まで学ぶ。この間、精神分析学や土俗的な民間信仰に関心を寄せ、同12年第7回独立展に「夜」で初入選した。同作はすでにシュール・レアリスムの傾向を示す作風によっていた。一方、同13年の「民族系譜学」や、第8回独立展に入選しながら反戦的であるとして撤去された「民族病理学、祈り」などの作品で、日本的土俗性を画面に盛りこむ特異な作風も示した。同14年、北脇昇、福沢一郎らと美術文化協会を創立、日本におけるシュール・レアリスムの草分けとなった。第1回展に「多義図形」を発表。戦後は、同22年日本アバンギャルド美術家クラブ結成に会員として参加、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展などに制作発表する。同29年には、美術文化協会を退会し無所属となったが、同36年国画会に会員として加わった。この間、「稲荷図(三)」(同23年)、「道祖神図(一)」(同25年)、「オシラ神図(四)」(同24年)、「ハヂチ・プリシャムリ」(同30年)など、日本人の土俗信仰に根ざした民俗的題材の連作を経て、仏教的な主題を曼荼羅風に描き、深い精神世界をユーモラスに表現する画風へ向った。同32年、サンパウロ市近代美術館での個展開催を機にブラジルを訪ね、翌年欧州を巡遊し帰国する。同56年、「軌跡の断章・小牧源太郎展」が京都朝日会館で、同60年、「小牧源太郎-その軌跡と展望-展」がいわき近代美術館他で、同63年「小牧源太郎展-非合理の美を求めて」が伊丹市立美術館でそれぞれ開催された。また、同62年には画集『小牧源太郎・シュルレアリスムの実証《貌》』が刊行された。

濱達也

没年月日:1989/10/11

 日展会員の彫金家濱達也は10月11日午後2時59分、心不全のため長野県諏訪市の諏訪赤十字病院で死去した。享年76。大正2(1913)年3月21日、長野県諏訪市に生まれる。昭和2(1927)年長野県立諏訪中学校を卒業して上京。清水南山、帖佐美行、鹿島一谷に彫金の指導を受け武井直也に彫刻を、石井柏亭に絵画を学ぶ。同15年紀元2600年奉祝展に「瑞祥手筥」で初入選。以後、官展、光風会展に出品して、同23年第4回日展に「のうぜんかつら壷」を出品して特選受賞、同33年第43回光風会展出品作「花器」でK氏賞、35年第45回同展では「鉄花器」で工芸特賞を受賞し同年同会会員となる。同42年日展会員となった。花、鳥、魚を好んでモチーフとし、象嵌技法を用いて素材の色を生かした色彩豊かな作風を示す。筥や壷など普遍的な形の日用器物に新味あるデザインの文様をあらわし、伝統技術と現代生活との接点を追求した。 日展出品歴2600年奉祝展(昭和15年)「瑞祥手筥」、第5回新文展(同17年)「銅こがね蔓草匣」、第1回日展(21年)「鑞銀合子」、2回「黒百合の箱」、3回「月見草の壷」、4回「のうぜんかつら壷」、5回「金工芍薬の筥」、6回(25年)「彫金象嵌波の壷」、7回「真鑄、銀、赤銅、銅象嵌金彩細口之壷」、8回「秋草之壷」、9回「蝋銀象眼花瓶」、10回「彫金盛花器」、11回(30年)「彫金花瓶」、12、13回不出品、第1回新日展(33年)「金彩銀線文花器」、2回「ホールの装飾」、3回「ロビーの為の作品」、4回不出品、5回「作品C」、6回「作品F」、7回「作品F」、8回(40年)「作品H」、9回「作品K」、10回「囁」、11回「晩夏」、第1回改組日展(44年)「望む」、2回「魚紋」、3回「魚」、4回「白夜」、5回「北の唄」、6回「淡水の幻」、7回(50年)「鵜」、8回「白鳥」、9回「日々」、10回「蘭奢待」、11回「晩秋」、12回「時を知らせる盛器」、13回「盛器(鷺草)」、14回「コンポート(わさび)」、15回「層」、16回「南の鐘乳洞」、17回(60年)「層追想」、18回「層無想」、19回「レインボー」、20回「水動く」、21回「層」

森兵五

没年月日:1989/10/09

 独立美術協会会員の洋画家森兵五は10月9日午後2時45分、食道がんのため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去した。享年65。大正13(1924)年1月2日、神奈川県横浜市に生まれる。父親も時折独立展に出品していた関係で、独立美術協会の講習会などに参加し、昭和16(1941)年第11回独立展に「花」で初入選。以後同展に出品を続ける。同18年まで多摩美術学校専科に学ぶ。戦後も同協会に参加し、30年第23回展に「樹木の在る風景」「港ノ市街」を出品して独立賞受賞、同35年同会会員となる。同46年南ヨーロッパに渡りルネサンス期、およびそれ以前の美術を研究したのに続き、翌年もスペインのマドリッド大学内に滞在してエル・グレコの研究を行なう。風景画を得意とし具象画から出発したが、昭和30年代に抽象画へと移行し、大胆な色彩と即興的筆致を特色とする作風を示した。同51年ニューヨークを、翌52年はパリを訪れる。最晩年は再び具象画へともどり、対象の形体を簡略化してとらえ、鮮やかな色面で画面を組み立てた明快な作風へと変化した。郷里であり在住地であった横浜に多く取材し、昭和34年から37年まで横浜美術協会会員であったほか、横浜の美術振興に寄与し、独立美術協会にあっては十数年間にわたり協会事務局となって会の活動を支えた。 独立展出品歴第11回(昭和16年)「花」(初入選)、15回「風景(二)」「風景(五)」、20回(同27年)不出品、25周年展(同31年)「樹木B」「樹木D」、25回(同32年)「八月(1957)」「八月(1957)」、30回「太陽のある風景」、35回「60~10」、40回(同47年)「2」「1」、45回「Sept 1977」、50回(同52年)「カーテン」、55回「風景〈愛川〉」

桜井悦

没年月日:1989/10/03

 光風会会員、女流画家協会創立委員の桜井悦は、10月3日腎不全のため東京都中野区の中野総合病院で死去した。享年79。明治43(1910)年8月27日、福岡県遠賀郡に生まれ、昭和3年女子美術専門学校に入学、伊原宇三郎に師事し同7年卒業した。卒業後、関西女子美術学校講師となり、この頃、小磯良平の指導を受けた。同10年の第二部会以後官展に出品を続け、同18年第6回新文展に「朝」で特選を受賞した。新文展出品作には「花を持つ少女」(1回)、「舞台横」(4回)などがある。戦後は、同21年女子美術専門学校助教授(同24年女子美術大学助教授)に就任、同年光風会会員に推された。翌22年、女流画家協会創立に参画し、第1回展から出品する。日展、光風会展等の他、同24年には鬼頭鍋三郎らの青季会にメンバーとして参加し制作発表を行った。同30年から翌年にかけ渡欧したが、途中病を得て帰国し、以後ながい闘病生活を強いられながら制作を続けた。日展出品作に「室内」(同24年)、「街角」(同42年)などがあり、同53年には資生堂ギャラリーで個展を開催した。また、新聞小説の挿絵や絵本などにも筆をとった。

谷川徹三

没年月日:1989/09/27

 哲学者で、思想、芸術、文学など広範な領域で評論活動を行い、平和運動にも積極的にかかわった文化功労者、日本芸術院会員の谷川徹三は、9月27日虚血性心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年94。帝室博物館次長、法政大学総長、財団法人明治村理事長などを歴任した谷川徹三は、明治28(1895)年5月28日愛知県知多郡に生まれた。愛知県立第五中学校、第一高等学校を経て、西田哲学にひかれ京都帝国大学文学部哲学科へ進み、大正11(1922)年卒業した。その後、竜谷大学、同志社大学、京都市立絵画専門学校などで講師をつとめ、昭和3年法政大学教授に就任、のち文学部長となる。また、和辻哲郎、林達夫らと雑誌「思想」の編集に携わる。戦前の著作に『感傷と反省』(大正14年、岩波書店)、『生活・哲学・芸術』(昭和5年、岩波書店)などがあり、宮沢賢治の研究、紹介は戦後にも及んだ。戦後は雑誌『心』同人に参加。同20年11月から翌年11月までの間中央公論社理事、同21年11月から同23年6月まで帝室博物館(のち国立博物館)次長、同38年2月から同41年8月の間、法政大学総長をつとめた。同50年日本芸術院会員となり、同62年には文化功労者に顕彰された。この間、柳宗悦らとの交際をはじめ、はやくから映画を含む芸術活動全般に深くかかわり、卓越した鑑賞能力により芸術作品へもすぐれた洞察を示し、多くの評論、随想を残している。戦後の著作に、『東と西の間の日本』(昭和33年、岩波書店)、『芸術の運命』(同39年、岩波書店)、『茶の美学』(同52年、淡交社)、『生涯一書生』(同63年、岩波書店)などがある。没後、従三位勲一等瑞宝章が追贈された。

加藤陽

没年月日:1989/09/07

 独立美術協会会員の加藤陽は、9月7日心不全のため東京都狛江市の慈恵医大第三病院で死去した。享年83。明治40(1907)年4月17日東京に生まれる。麻布中学校卒業後、光彩会洋画研究所、本郷絵画研究所で岡精一、岡田三郎助にそれぞれ指導を受けたのち、一九三〇年協会洋画研究所に転じ中山巍に師事、また、小島善太郎にも学んだ。同協会展、ついで独立美術協会展に第1回から出品し、昭和15年第10回独立展に「洗濯」で独立賞を受賞した。翌年の第11回展には「蛮童」を出品し独立美術協会会友となる。また、同17年には、文展無鑑査展にも出品、同年軍報道部に従軍し中国へ赴いた。戦後は、同23年独立美術協会会員となる。戦後の独立展出品作に、「静物」(19回)、「化身(月・ランプ・女)」(25回)などがあり、後年は「浅間山」や「八ケ岳」などの風景画をよくした。

浮田克躬

没年月日:1989/08/30

 日展評議員、一水会会員の洋画家浮田克躬は、8月30日午後6時13分、心筋こうそくのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年59。昭和5(1930)年2月17日、東京都杉並区に江幡寛夫の長男として生まれる。実母が病身のため幼少期から母方の祖父浮田和民に養育され、のち両親離婚のため浮田姓を名のる。昭和19年第1回聖戦美術展を見て洋画家を志し、同17年神奈川県高座郡茅ケ崎尋常高等小学校尋常科を卒業して藤嶺学園藤沢中学校に入学し、同校の図画教師灘波秀二(新制作協会)および一水会の画家石川真五郎の指導を受ける。また19年より小林萬吾のもとで石膏デッサンを学ぶ。翌20年藤沢中学校を修了して東京美術学校油画科に入学。安井曽太郎、伊藤廉に師事し、25年同校を卒業。同年第14回新制作派協会展に「集荷場」で初入選、翌年第3回日本アンデパンダン展に「雪降る窓」「高原」を出品。29年より一水会運営委員の田崎廣助に師事し、同年より一水会展に出品。32年には一水会のほか日展にも入選。33年第20回一水会展に「場末の河」「ガード下の風景」を出品し安井奨励賞を受け、同年の第1回日展に「丘の工場」を出品して特選受賞。34年春北海道を初めて訪れ、その雪景色に画因を見出して以後、しばしば足を運ぶ。同年一水会会員となり、39年第26回一水会展出品作「龍飛岬」で会員佳作賞、翌40年同展に「冬(一)」「冬(二)」を出品し会員優賞を受賞する。42年3月、渡欧しフランスを中心に8ケ国を巡遊。以後たびたび渡欧、外遊し、西洋の都市を描いた堅牢で構築的な作品が多く描かれる。同年の第10回日展出品作「サンマルタン水路」で特選受賞、43年第3回昭和会展に「バスティーユの冬」を出品して昭和会賞を受賞。同年一水会会員に推挙される。また、49年日伯美術連盟評議員となって50年の第2回日伯現代美術展に際し渡伯。この後、西欧に加えて中南米の風景が描かれるようになる。56年第13回日展出品作「シシリーの家」で会員賞受賞。61年、前年の第17回日展出品作「城砦の島」で第4回宮本三郎記念賞を受けた。初期から風景画を中心とし、絵具を塗り重ねた重厚なマチエルを特色とする画面には、構図、色彩に対する鋭利な感性がうかがえる。61年5月、宮本三郎記念賞受賞を記念した浮田克躬展が行なわれており、年譜、文献目録等はその図録に詳しい。

小松均

没年月日:1989/08/23

 仙境の画人小松均は、8月23日午後4時10分、急性心不全のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年87。明治35年(1902)1月19日、山形県豊田郡に、曹洞宗延命寺住職小松梅男を父に生まれる。本名匀。幼時に父を失い、大正8年上京、川崎市の洋服店で働く。いったく帰京したのち、翌9年再び上京。新聞配達のかたわら、同年川端画学校に入学、岡村葵園に学ぶ。大正12年中央美術展に「嫁して行く村の乙女」が入選し、翌13年第4回国画創作協会展に「晩秋の野に死骸を送る村人たち」が入選、奨学金を受けた。これを機に土田麦僊の知遇を得、同14年京都の東山に転居、麦僊の山南塾に入塾する。また東山洋画研究所でデッサンを学び、宮本三郎らを知る。この頃から内貴清兵衛の援助を受け、15年の第5回国画創作協会展にも「秋林」「夕月」を出品、国画賞を受賞し会友となる。しかし、昭和3年国画創作協会日本画部が解散となり、同部会員が新たに結成した新樹社に参加した。この間、昭和2年大原に転居、翌3年の「八瀬」など、大原に取材した作品を描き始める。同4年第10回帝展に「渓流」が初入選し、この頃より水墨画を描き始めた。翌5年第11回帝展で「櫟林」が特選を受賞。一方、院展には、大正14年の春季展に「倉のある雪の日の子守子」が入選していたが、秋季展では、同じく昭和5年第17回院展に「もや」が初入選。以後、帝展、院展の双方に出品する。9年第21回院展にも「緑蔭」を出品したが、同年福田豊四郎、吉岡堅二らと山樹社を結成、以後公募展出品を暫時中止する。12年には津田青楓らと墨人会を結成。また、11年には、内貴清兵衛の紹介で横山大観、小林古径を知った。14年より再び院展に出品し、16年には新文展にも出品しているが、17年第29回院展に「黒牡丹」を出品。以後院展にのみ出品し、戦後21年第31回院展で「牡丹」が日本美術院賞を受賞、同人に推挙された。大原で自給自足の生活をしながら、大原の自然を題材に制作。40年第50回院展「吾が窓より(夏山)」が文部大臣賞を受賞する。43年山形美術館で個展開催後、翌年から郷里の自然に取材した最上川シリーズを開始。44年第54回院展「最上川(三ケ瀬、渦巻、はやぶさ)」、45年同第55回「最上川源流」、46年第56回「栗の花さく最上川」、48年第58回「最上川難所、三ケ瀬・碁点」、49年第59回「春の最上川」と出品し、このシリーズによって、50年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。54年第64回院展「雪の最上川」は内閣総理大臣賞となる。また52年第62回院展「富士山」以降の富士山シリーズ、58年第68回「岩壁」以降の岩壁シリーズなどを発表。墨を主体に、細かく、しかし綿々と描き込み積み上げていく画風は、素朴さと大地のエネルギーを伝える力強さに溢れ、“大原の画仙”と称された。55年郷里大石田町の名誉町民、61年文化功労者となる。また画塾甲辰会を主宰し、『おのれの子・作品集』(43年)『おのれの子・素描集』(46年)などの著書を残している。 略年譜明治35年 1月19日、山形県豊田郡に小松梅男、フヨの長男として生まれる。父は曹洞宗延命寺の住職であったが、均の生後1年余で死去したため、山形県白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子は身を寄せる。母は均の8歳の時再婚、均はその後も細谷家で養われた。大正3年 白鳥小学校を卒業し、富並尋常高等小学校に入学。往復16キロの山路を学校に通う。大正5年 富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝う。大正8年 この頃、川崎市に出、洋服屋の小僧となる。のち東京・神田の書籍店、菊屋に移る。この頃から画学生に憧がれたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公する。大正9年 再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学ぶ。画学校の友、藤井茂樹(無縁寺心澄)の水彩の直感的写生を見て野獣派の描法を日本画に取り入れることによって、新しい日本画を創るヒントを得る。大正13年 6月、第5回中央美術展に、再婚の際の母の姿をテーマに「嫁して行く村の乙女」を出品し、入選する。第5回帝展に「姐妃」を出品したが落選する。11月、第4回国画創作協会展に、父の死を追想して描いた「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選する。大正14年 京都に移り、土田麦僊の山南塾に入る。東山洋画研究所でデッサンを学ぶ。宮本三郎、橋本徹太郎らを知る。この頃から、土田麦僊の紹介で、京都の実業家で美術に理解の深かった内貴清兵衛の援助を受ける。2月、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選する。大正15年 3月、第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し、奨学金を受け、会友となる。昭和2年 4月、第6回国画創作協会展に「花(一)」「花(二)」を出品。昭和3年 4月、第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品。7月、国画創作協会日本画部解散。11月、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立する。昭和4年 6月、第1回新樹社展に「秋野」を出品。10月、第10回帝展に「渓流」を出品し入選する。この頃から水墨画を試みる。昭和5年 6月、第2回新樹社展に「薄」を出品。10月、第11回帝展に「櫟林」を出品し、特選となる。昭和6年 9月、第18年院展に「鯰」「牛」を出品。10月、第12回帝展に「山路」を出品し入選する。昭和7年 10月、第13回帝展に「花の森」を出品。昭和8年 10月、第14回帝展に「洛北早春」を出品。昭和9年 9月、第21回院展に「緑蔭」を出品し、この後一時公募展への出品を停止する。昭和10年 満州に渡る。昭和11年 6月、土田麦僊没。内貴清兵衛の紹介で、横山大観、小林古径に会う。昭和12年 津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、6月25日~7月4日、第1回展を大阪・朝日会館で開催。昭和13年 傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡る。福田豊四郎、吉岡堅二と三樹社を結成、のち会名は新美術人協会と改名され、太田聴雨、森田沙伊、横尾深林人らも参加する。昭和14年 ★々人と号す。11月、麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこす。昭和15年 法隆寺金堂壁画模写事業が始まったのに刺激され、仏画の大作制作を志す。昭和17年 9月、第29回院展に「墨牡丹」を出品。昭和18年 9月、第30回院展に「牡丹」(2点)を出品。10月、第6回新文展に「雪後」を出品。昭和19年 「蓮池」「大原女少女」を描く。黙音洞人と号す。昭和20年 仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎える。昭和21年 9月、第31回院展に「牡丹」を出品。谷中の日本美術院で描く。日本美術院賞を受け、同人となる。昭和22年 9月、第32回院展に「花菖蒲」を出品。昭和23年 9月、第33回院展に「山三題」を出品。昭和24年 9月、第34回院展に「松」を出品。昭和25年 9月、第35回院展に「神津島の娘」を出品。昭和26年 9月、第36回院展に「蓮」を出品。昭和27年 9月、第37回院展に「大原の春」を出品。昭和28年 9月、第38回院展に「花(一)(二)」を出品。昭和29年 9月、第39回院展に「裸婦素描(一)(二)」を出品。昭和30年 9月、第40回院展に「即現婦女身」を出品。昭和32年 9月、第42回院展に「夏山」を出品。昭和33年 9月、第43回院展に「夏の大原」を出品。他に「東尋坊」を描く。昭和34年 5月、第5回日本国際美術展に「岩山の月」を出品。9月、第44回院展に「鯉」を出品。昭和35年 9月、第45回院展に「雄島岩壁」を出品。「不動尊(青)」を描き始める。昭和36年 9月、第46回院展に「藤間美知踊る幻お七・三態」を出品。昭和37年 9月、第47回院展に「白日夢」を出品。昭和38年 9月、第48回院展に「はぢらひ」を出品。昭和39年 9月、第49回院展に「雪壁」を出品。昭和40年 9月、第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品。文部大臣賞受賞。昭和41年 9月、第51回院展に「戸隠の春」を出品。昭和42年 9月、第52回院展に「蓬莱峡全図」を出品。昭和43年 9月、第53回院展に「池の朝(鯉)」を出品。昭和44年 9月、第54回院展に「最上川(三ケ瀬、鍋巻、はやぶさ)」を出品。最上川連作を始める。昭和45年 9月、第55回院展に「最上川源流」を出品。昭和46年 9月、第56回院展に「栗の花咲く最上川」を出品。昭和47年 9月、第57回院展に「鯰の池」を出品。他に「三十六童子」を描く。昭和48年 9月、第58回院展に「最上川難所(三ケ瀬・碁点)」を出品。画業50年記念展を大阪阪神百貨店で開催。他に「吾が家への道」を描く。昭和49年 9月、第59回院展に「春の最上川」を出品。他に「白糸の滝」「黒富士」を描く。昭和50年 9月、第60回院展に「吾が窓より(大原春雪)」を出品。最上川シリーズで芸術選奨を受賞。この頃、「舞妓」「牡丹」「鯉図」を描く。昭和51年 9月、第61回院展に「吾が窓より(田園の夕暮)(田園の朝)」を出品。昭和52年 9月、第62回院展に「富士山」を出品。他に「赤富士(一)(二)」を描く。昭和53年 9月、第63回院展に「赤富士」を出品。小松均展を東京、京都大丸で開催。他に「七媛富士」を描く。昭和54年 9月、第64回院展に「雪の最上川」を出品。内閣総理大臣賞受賞。昭和55年 9月、第65回院展に「豊茂富士」を出品。昭和56年 9月、第66回院展に「大原早春」を出品。小松均展を高知県立郷土文化会館で開催。昭和57年 9月、第67回院展に「白富士図」を出品。昭和58年 9月、第68回院展に「岩壁」を出品。昭和59年 画業65年記念、小松均展を神戸大丸、新潟伊勢丹、仙台十字屋で開催。9月、第65回院展に「大原風景」を出品。昭和60年 9月、第70回院展に「岩山雲烟図」を出品。他に「岩山」を描く。昭和61年 6月、自然への感応・15年の足跡 小松均展を東京池袋、西武アート・フォーラムで開催。(小松均展図録 1986年 池袋西武アート・フォーラムより抜粋)

矢内原伊作

没年月日:1989/08/16

 法政大学名誉教授の文芸、美術評論家矢内原伊作は8月16日午前5時8分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年71。大正7(1918)年5月2日、愛媛県に生まれる。経済学者で元東京大学学長の矢内原忠雄の長男。昭和16(1941)年京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、戦後、同22年宇佐見英治らと『同時代』を創刊する。同29年C・N・R・S(フランス国立科学研究所)の招聘により渡仏し、31年に帰国。この間、ジャコメッティと交遊し、その作品のモデルともなったほか、ミロ、ザッキン、シャガールなど美術作家たちを知る。学習院大学、大阪大学、同志社大学などで教鞭をとり、同45年より法政大学教授となる。サルトル、カミュの実存主義哲学を紹介する一方、西欧の作家たちとの交遊と独自の視点にもとづく芸術評論を行なった。著書に『ジャコメッティとともに』『芸術家との対話』『抵抗詩人アラゴン』『京都の庭』『宝生寺』『サルトル』『矢内原伊作の本』などがあり、訳書にはジャコメッティ著『私の現実』、カミュ著『ジンフォスの神話』、アラン著『芸術について』などがある。

沢井一三郎

没年月日:1989/08/02

 昭和20年代までは漫画家として活躍し「ゲンキノゲンチャン」などで知られ、その後童画に専念して絵本、教科書、児童雑誌などに筆をふるった童画家沢井一三郎は、8月2日午後4時、肺炎のため東京都三鷹市の野村病院で死去した。享年77。明治44(1911)年11月10日、東京都千代田区に生まれる。伊東深水の主宰する朗峯画塾で日本画を学び、はじめ日本画家を志すが、当時の児童雑誌における漫画の流行を背景に、昭和12(1937)年から講談社の『少年倶楽部』などに漫画や挿絵を描き、同14年から16年まで同社の『幼年倶楽部』に「ゲンキノゲンチャン」を連載して人気を博した。戦後も同24年4月号から『漫画少年』に「てるてる日記」を連載し始めるが、漫画執筆は同28年秋で打ち切り、以後童画家として活動。同37年には童画家の著作権を確立することを目的に現在の日本児童出版美術家連盟の前身である教科書執筆画家同盟を結成し、その代表となった。日本画の修学にもとづく落ち着いた、情趣ある画風を示し、絵本の代表作に『千羽づるのねがい』『大きくなあれ みどりになあれ』『うみへいった山へかえってきた』『はしれ山のきかんしゃ』などがある。同58年、日本児童文芸家協会の児童文化功労賞を受賞。晩年は、自然の大切さ、美しさを訴える作品が多く描かれた。

武田範芳

没年月日:1989/07/29

 昭和37年に渡仏しヨーロッパを中心に活躍した洋画家武田範芳は、7月29日午前1時6分、尿毒症のため神奈川県川崎市宮前区の聖マリアンナ医大付属病院で死去した。享年76。大正2(1913)年4月28日北海道旭川市に生まれる。現在の北海道立旭川農業学校林学科を卒業して上京し、本郷絵画研究所に学ぶ。上野山清貢、牧野虎雄に師事。同37年渡仏し、43年までの間にフランス国立美術研究所、アカデミー・グラン・ショーミエールに学んで38年よりル・サロン、サロン・ナシオナール、サロン・ドートンヌに出品。国際展にも参加し、38年シュビジー国際展に招待出品して最優秀作品賞、41年シュビジー賞受賞。42年サロン・インターナショナル、コートダジュール展佳作賞を受けたほか、ル・サロン展でも金賞、銀賞などの受賞を重ねる。デュッセルドルフ、ハンブルグ、ロンドン、香港、バンコクなどで個展を開催する一方、日本国内でも三越、小田急、西武、東武などの百貨店を中心に展覧会を開く。日本美術家連盟会員、フランス美術家連盟会員で、昭和40年から描き続けたピエロやサーカスのシリーズ、同50年以降に描くようになったギリシア風景などで知られる。対象を簡略化された形体としてとらえ、輪郭線と大胆な色面で画面を構成する。色面の明度と色価によって空間を描き出し、哀愁を含みながら明るく華やいだ画風を示した。

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