本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





冨永朝堂

没年月日:1987/12/12

 日展会員の彫刻家冨永朝堂は、12月12日午前10時、肺炎のため福岡市の三信会原病院で死去した。享年90。明治30(1897)年8月4日、福岡県に生まれ、本名良三郎。大正4年上京し、山崎朝雲に師事、木彫を学ぶ。8年日本美術協会展に初入選し、昭和4年より同会審査員をつとめた。また大正13年第5回帝展に「雪山の女」が初入選して以後、帝展に出品し、昭和7年第13回帝展「五比賣命」、翌8年第14回帝展「踊女」がともに特選を受賞。9年第15回帝展に「女子円盤」を無鑑査出品した。その後、新文展、戦後日展に出品。25年第6回日展で審査員をつとめ、33年日展会員となっている。戦後は郷里福岡に住み、福岡県文化財調査委員をつとめたほか、地域文化の向上にも尽力。50年西日本文化賞、51年福岡市文化賞を受賞し、59年地域文化功労者に選ばれた。代表作に、「谷風」(昭和15年ニューヨーク万博)、三部作「歩く」「歩く」「生れる」などがあり、戦後は抽象的感覚を生かした作風を展開した。

河野秋邨

没年月日:1987/12/03

 社団法人日本南画院会長・理事長の日本画家河野秋邨は、12月3日午前6時50分、急性心不全のため京都市上京区の自宅で死去した。享年97。明治23年8月8日愛媛県新居浜市に生まれて本名循。明治40年京都に出て、45年京都の田辺竹邨に師事し、南画を学ぶ。大正4年日本美術協会に出品した「赤壁舟遊図」が伏見宮買上げとなった。同6年第11回文展に「夏雨新霽」が初入選、帝展にも15年第7回展より入選し、昭和2年第8回帝展「月下敲門」、3年第9回「山光欲暮」などを出品する。この間、大正10年水田竹圃らと発起し、富岡鉄斎を顧問として、田辺竹邨、山田介堂、池田桂仙ら京都南画壇の元老とともに日本南画院を結成。同人として出品する一方、その運営にあたる。同院は昭和11年に解散となったが、松林桂月、矢野橋村らとともに35年日本南画院を再興、理事長となった。また大正12年中国を巡遊して以後、たびたび中国、朝鮮半島に渡航。戦後43年にはアメリカ各地で講演と実技指導を行なう。日本南画院再興後は、46年パリ、47年ボストン、53年オーストラリアのシドニー、キャンベラ、58年ブエノスアイレスなどで日本南画院展を開催。このほか、57年日中国交回復10周年記念合同展、58年、60年の日ソ合同美術展、61年日中ソ三国合同展の開催など、国際文化交流にも大いに尽力した。「寒影湛」「寒風嶺」(以上40年)、「富獄騰霊」「幻想★湖」など大作を多く描き、近年は「コーカサス紀行」など、ソ連コーカサス地方の風景を描いている。51年日本学士会名誉会員となり、59年京都府文化功労賞を受賞した。没後の同年5月中国東方美術交流協会より最高栄誉賞を受賞した。

森卯一

没年月日:1987/11/21

 国選定・本藍染技術保持者、滋賀県無形文化財保持者の森卯一は、11月21日急性肺炎のため滋賀県守山市の県立成人病センター付属病院で死去した。享年84。明治36(1903)年8月25日滋賀県野洲郡に生まれる。号紺九。15歳の時から、明治3年創業の生家の染色業に従事し藍染に携わった。和紙の染色を得意とし、昭和34年桂離宮琴亭ふすまと壁紙の市松藍染紙を制作したのをはじめ、同43年には皇居新宮殿の連翠の間、無双窓明障子の市松模様紙の藍染を担当した。この間、同33年滋賀県文化財に認定され、同54年には国選定の技術保持者(本藍染)となった。

江藤純平

没年月日:1987/11/16

 日展参与、光風会名誉会員の洋画家江藤純平は、11月16日午後10時43分、脳出血のため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年89。明治31(1898)年3月25日大分県臼杵市に生まれる。大正7年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助に師事して同12年同校を卒業。同年第5回帝展に「アトリエにて」で初入選。昭和3年第9回帝展に「S氏像」、翌年第10回帝展に「F君の像」を出品し、2年連続特選となる。同8年第14回帝展出品作「室内裸婦」でも特選受賞。同12年光風会に会員として参加。戦後、日展、光風会展に出品し、44年第1回改組日展に「小豆島」を出品して内閣総理大臣賞を受ける。50年より日展参与となる。戦前は人物画を中心に研究したが、戦後は風景画を多く描く。セザンヌに傾倒し、その画風は「セザンヌの草書風」とも評される。

藤沢典明

没年月日:1987/11/11

 二科会理事で和光大学教授をつとめた洋画家藤沢典明は、11月11日午後2時24分、胆のうガンのため東京都新宿区の国立医療センターで死去した。享年71。大正5(1916)年1月16日福井県勝山市に生まれ、郷里での在学中に福井県美術協会や北荘洋画展に出品し受賞する。昭和10(1935)年福井師範学校卒業。翌11年第1回新制作派協会展に「遊園地風景」を出品、以後21年まで同展に出品する。12年に上京し、18年神田今川国民学校図工科に通う。21年東京美術学校に研究派遣生として入学し安井曽太郎に学ぶ。22年より26年まで美術文化協会に出品し会員となるが27年に退会。29年アートクラブ会員となる。30年第40回二科展に「脱出」「かけ」を初出品し二科賞受賞。34年同会会員となり、40年第50回同展に「夜明け」を出品して会員努力賞受賞。41年第18回国際美術教育会議日本代表として渡欧、43年より和光大学人文学部芸術学科で教鞭を取る。初期にはシュール・レアリスム風の作品を描いたが、昭和30年代に抽象へと移行し、抽象表現主義的作風から40年代後期には幾何学的図形による都市図へと展開し、50年代には正方形によって画面を構成する幾何学的抽象画を描いた。59年二科会理事となる。60年福井県立美術館で「藤沢典明の世界展」を開催。61年第71回二科展に「道諦」を出品して総理大臣賞受賞。小学校教員の経験から子供の美術教育にも関心を持ち財団法人教育美術振興会理事、美育文化協会理事、幼児造形教育委員、色彩教育研究会理事などをつとめ、『造形教育のこれから』『子どもの美術』などの著書がある。

洲之内徹

没年月日:1987/10/28

 美術評論家、小説家、画廊経営主の洲之内徹は、10月28日脳こうそくのため東京都文京区の駒込病院で死去した。享年74。大正2(1913)年1月17日、愛媛県松山市に生まれる。昭和5年東京美術学校建築科へ入学したが、左翼運動に加わり中退、帰郷し日本プロレタリア文化連盟愛媛支部を結成する。同10年雑誌『記録』同人となり、以後文芸評論を展開する。戦後は、日中戦争の体験などを主題に小説を発表、3回芥川賞候補にあげられた。同33年戦友で小説家の田村泰次郎が始めた現代画廊に入社し、のち経営を引き継ぎ、この間から美術評論の分野でも意欲的に執筆した。また、新人の発掘とともに、定評のある作家より世に知られない画家たちの優品を集めた“洲之内コレクション”でも有名であった。14年間165回にわたって『民芸新潮』誌上に連載した「きまぐれ美術館」でも、忘れられた作家たちへの熱い思いをつづった。著書に『絵のなかの散歩』(昭和48年)、『きまぐれ美術館』(同53年)、『洲之内徹小説全集』(全2巻、同58年)などがある。

佐藤助雄

没年月日:1987/10/19

 日展監事の彫刻家佐藤助雄は、10月19日午後7時15分頃、東急世田谷線宮坂第2号踏切で轢死した。享年68。大正8年(1919)年4月22日山形市に生まれる。仏師だった父に木彫を学び、昭和11年上京後、後藤良の内弟子となり同じく木彫を学んだ。14年日本美術協会展で「ことり」が銅賞を受賞。次いで16年第4回新文展に「後庭菜果」が初入選し、18年第6回新文展で「従軍看護婦」が特選を受賞、政府買上となる。戦後、塑像に転じ、23年山形県展で「女の顔」が市長賞、27年「男の首」が日本彫塑家クラブ奨励賞を受賞。29年以後、北村西望、富永直樹らに師事する。30年第11回日展「布を纒ふ女」、翌31年同第12回「清立」がともに特選を受賞。34年日展会員、39年評議員となり、しばしば審査員をつとめている。51年第8回改組日展「地と風」は文部大臣賞となり、54年の第3回グループ絆展出品作「振向く」により翌年日本芸術院賞を受賞、56年日展理事、62年同監事となった。この間、37年ヨーロッパに旅行し、また日本彫刻会にも出品、51年同会委員、55年理事、57年委員長となっている。おおらかで詩的な人物像を得意としていた。

勝公彦

没年月日:1987/10/09

 「幻の紙」とされていた芭蕉紙を復活させた紙製造家の勝公彦は10月9日午前零時5分、肺炎のため、沖縄の琉球大学医学部付属病院で死去した。享年40。昭和22(1947)年1月3日、神奈川県足柄下郡に生まれる。同44年日本大学芸術学部美術学科を卒業し、同47年より手漉和紙の人間国宝安部栄四郎に師事する。同51年、八重島、西表島の青雁皮紙を調査し、翌52年琉球紙の復興を志して沖縄に移住する。同53年「幻の紙」とされていた芭蕉紙の抄造に成功。56年より個展を開くほか、芭蕉紙、琉球紙製造の指導にあたり、その復興に尽くした。著書に安部栄四郎著・勝公彦抄造『沖縄の芭蕉紙』(同54年)がある。

毛利久

没年月日:1987/09/10

 文学博士、元奈良大学教授、文化財保護審議会専門委員、京都国立博物館名誉館員の毛利久は9月10日午前9時14分、脳動脈硬化症のため自宅で死去。享年70。大正5年10月4日、愛媛県宇和島市笹町に生れる。昭和13年京都帝国大学文学部史学科に入学、国史を専攻し、16年、論文「飛鳥寧楽時代仏教彫塑の研究」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、日本美術考古学を研究するとともに、京都府寺院重宝臨時調査事務の嘱託となる。22年京都帝国大学大学院を退学、恩賜京都博物館鑑査員補、24年同鑑査員となる。27年京都国立博物館学芸課資料室長、37年美術室長を経て、42年神戸大学文学部教授に転任する。48年から50年まで文学部長を務め、55年停年退官の後、奈良大学文学部教授に迎えられる。 日本仏教彫刻史を専門とし、実証的な作品研究と緻密な文献考証により、仏像はもちろん肖像や仮面など幅広く研究し、多くの業績をあげる。30年京都国立博物館において担当した特別展「日本の仮面」は仮面史研究にとって画期的であり、また仏師研究に力を注ぎ、とくに鎌倉時代の名匠快慶の芸術とその母胎としての奈良仏師の体系的研究は代表的で、37年、その成果をまとめた論文「仏師快慶論」により京都大学より文学博士の学位を受ける。神戸大学に転じた頃から東アジアという文化背景のなかで日本の初期仏教彫刻を巨視的に捉えるべく、しばしば訪韓、現地実査を行ない、その成果を逐次発表した。これらの業績とともに、26年以来、美術史学会常任委員として学会に貢献し、さらに45年より国の文化財保護審議会専門委員を務めたほか、滋賀県、京都府、兵庫県、奈良県などの文化財保護審議会委員として文化財保護行政にも貢献し、61年勲三等旭日中綬章を受章する。死去により従四位に叙される。(主要著・編書)新薬師寺考 河原書店 22年快慶の研究 大勝堂 29年日本の仮面 京都国立博物館 30年仏師快慶論 吉川弘文館 36年(同増補版62年)六波羅蜜寺 中央公論美術出版 39年運慶と鎌倉彫刻 平凡社 39年能面選 京都国立博物館 40年奈良の寺院と天平彫刻(共著) 小学館 41年日本彫刻史基礎資料集成(共編) 中央公論美術出版 41~46年肖像彫刻 至文堂 42年奈良六大寺大観(共編) 岩波書店 43~48年天平彫刻 小学館 45年日本仏教彫刻史の研究 法蔵館 45年正倉院の伎楽面(共著) 正倉院事務所 47年興福寺八部衆と十大弟子 岩波書店 48年大和古寺大観(共編) 岩波書店 51~53年日本仏像史研究 法蔵館 55年

松久朋琳

没年月日:1987/09/01

 京仏師の第一人者松久朋琳は、9月1日午後3時43分腹部動脈リゅうのため京都府宇治市の大和六地蔵病院で死去した。享年86。明治34(1901)年10月22日京都市の守護職の家に生まれる。本名茂次。4歳で京仏師松久家の養子となり10歳の頃から仏像制作を始める。昭和19(1944)年京都市佐京区の大悲山峰定寺三滝上人像を制作したのをはじめ、30年代には大阪四天王寺仁王像、比叡山延暦寺大日如来像、弥勒菩薩像、十一面観音像などの代表作を次々と制作。同37年京都仏像彫刻研究所を設立して後進の指導に当たる。38年大阪四天王寺より「大仏師」の称号を受け、54年には延暦寺より「法橋大仏師」の称号を受ける。動感のある仏像を得意とし、51年のアメリカ建国記念に際しニューヨークに建立された大菩薩禅堂金剛寺の本尊菩薩像をも手がけている。自ら主宰する研究所のほか竜谷大学名誉教授として仏教美術を講ずるなど教育面にも尽くし、『仏教彫刻のすすめ』『京仏師六十年』などを著した。

岩野勇三

没年月日:1987/08/25

 東京造形大学教授、新制作協会会員の彫刻家岩野勇三は、8月25日午前11時30分、肺ガンのため東京都千代田区の九段坂病院で死去した。享年56。昭和6(1931)年7月9日新潟県高田市に生まれる。同24年新潟県立高田高校在学中に佐藤忠良にデッサンを学び始め、25年同校を卒業して上京。ひき続き佐藤忠良に師事するうち彫刻家を志し31年第19回新制作展に「タケダ君の首」「立つ女」で初入選。35年同会会員となる。37年第1回宇部野外彫刻コンクールに入選。41年東京造形大学教授に就任する。44年第4回昭和会展で林武賞受賞。49、50年、彫刻の森美術館大賞展に指名出品。51年上越市庁舎前広場に『おまんた』を設置。53年横浜市羽衣町広場に『笹と少年』を、55年第一勧業銀行本店に『まつり』を設置する。55年第1回高村光太郎大賞展優秀賞、61年裸婦像「なほ」で第17回中原悌二郎賞を受賞する。一貫して堅実な写実的追求の姿勢を貫き、人物をモティーフとして内面性のにじみ出る作風を示す。初期には「母」「待合室」などの、風俗的主題の着衣像を主に制作し、のち裸婦を多く手がけるようになり「くみ」「あい」「なほ」など少女の面影の残る、若く清新な生命感ある作品を制作した。著書に『彫刻を始める人へ』(アトリエ出版社)、『彫像』(日貿出版社)がある。63年8月東京、現代彫刻センターで「追悼 岩野勇三」展が開かれた。

杢田たけを

没年月日:1987/08/08

 独立美術協会会員の洋画家杢田たけをは8月8日午前2時1分、胆管がんのため東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年77。明治43(1910)年2月25日兵庫県豊岡市に生まれる。昭和2年今里中学校を卒業、僧侶で日本画家でもあった祖父の影響で画家を志し小泉勝爾に日本画を学ぶ。日本美術学院にも通い、のち洋画家須田国太郎に師事する。同10年第5回独立展に「鉄屑等ある風景」で初入選し、以後同会に出品を続ける。同22年独立賞を受け、24年同会会員に推される。38年上京。朝日秀作美術展(26年~32年)、日本国際美術展(28年~36年)、現代日本美術展(29年~42年)などにも出品。初期には穏やかな田園風景を多く描いたが、のち前衛的な制作へと移行し、板、布、金属などの廃材を使ったアッサンブラージュで知られた。没後の63年練馬区立美術館で遺作が特別陳列された。

浅見隆三

没年月日:1987/07/23

 日展参事の陶芸家浅見隆三は、7月23日胃がんのため京都市の国立京都病院で死去した。享年82。中国宋時代の青白磁を基調に現代的感覚を盛った独自の作風を生んだ浅見は、明治37(1904)年9月26日三代浅見五良助の次男として京都市東山に生まれた。本名柳三。大正12年京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主に祖父の二代五良助に手ほどきを受け、昭和4年第10回帝展に「三葉紋花瓶」で初入選する。同10年第1回京都市美術展に「彫彩紋花瓶」を出品。戦後は同20年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、翌年の第1回展から日展へ出品、第2回日展に「象嵌 干柿の図皿」で特選、同26年第7回日展にも染付「鶏頭ノ図花瓶」で特選を受け翌年無鑑査となる。同28年第2回現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)に「けしぼうず花瓶」で朝日新聞社賞を受賞。同30年日展会員となる。また、同36年から45年まで京都工芸繊維大学講師をつとめた。同37年、プラハ国際陶芸展に「条」で受賞し、同年日本現代工芸美術家協会設立に会員として参加し、のち常務理事、同46年参与となる。同39年日展評議員に挙げられ、第7回日展出品作「菁」で文部大臣賞を受賞した。同41年、京都工芸美術家訪中視察団団長として中国を訪れる。翌42年、前年の第9回日展出品作「暢」で日本芸術院賞を受けた。その後も日展、現代工芸展、日本陶芸展などで制作発表を行い、同54年日展参事となる。京都府美術工芸功労者、京都市文化功労者表彰を受けたのをはじめ、同56年紺綬褒章を受章する。

大須賀喬

没年月日:1987/07/14

 日展参事の彫金家大須賀喬は、7月14日午前0時30分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年85。明治34(1901)年8月24日香川県高松市に生まれる。大正8年香川県立高松工芸学校金工科を卒業後、東京美術学校金工科に入学し、14年卒業する。昭和2年北原千鹿を中心に、信田洋、田村泰二、村越道守、山脇洋二らと工人社を創立、同人となる。昭和4年第10回帝展に「壁面花挿」が初入選し、8年第14回帝展で「彫金花瓶」が特選を受賞する。11年改組帝展に「仙人掌香盆」を出品、推奨となり、新文展にも、17年第5回「象嵌文壷」、18年第6回「蝶文香盆」(文部省買上)などを出品した。17年以降、新文展、戦後は日展でたびたび審査員をつとめ、日展には29年第10回「蝶文手筥」、33年第1回新日展「金彩透彫飾皿」、42年同第10回「鉄布目象嵌大皿」、53年第10回改組日展「金彩虫の壷」、55年同第12回「双蝶文色紙筥」、58年第15回「四神文鉄壷」、60年第17回「昆蟲文額」、61年第18回「昆蟲文飾皿」などを出品する。33年の日展出品作により、翌34年日本芸術院賞を受賞、33年日展評議員、44年同理事、55年参事となった、この間、30年日本金工制作協会を創立、同人となり、33年同会を解散、日本金工作家協会を設立し、会長をつとめた(49年まで)。このほか、現代工芸美術家協会評議員などもつとめた。昆虫をあしらった作品を好んで制作し、62年第19回日展「甲蟲文小筥」が絶作となった。

木村忠太

没年月日:1987/07/03

 元独立美術協会会員でパリに在住しフランスを中心に活躍した洋画家木村忠太は、7月3日午前3時(日本時間同日午前10時)、肝硬変のためパリのサンタントワーヌ病院で死去した。享年70。大正6(1917)年2月25日香川県高松市に生まれる。昭和5年香川県立工芸学校に入学するが病気のため中退する。同11年画家を志して上京し洋画研究所に通う。翌12年独立展に初入選。同17年独立賞受賞。同18年高畠達四郎の推薦により帝国美術学校本科に入学。同23年独立美術協会会員となる。28年渡仏し、以後パリに定住する。30年にコタボやフサロらと共に具象画の新鋭としてフランスの画界にデビューし、鮮やかな色彩と即興的な筆致で東洋的油彩画として注目される。41年日本で初めての個展を開き好評を博す。44年のサロン・ドートンヌ出品作「ル・クロ・サンピエールの家」がパリ国立近代美術館買上げとなり、45年にはサロン・ドートンヌ会員となった。パリを中心にニューヨーク、スイスの主要都市、東京などで個展を開催。50年には『木村忠太画集』(日動出版)が出版された。58年フランス政府よりシュヴァリエ・ド・ロルドル・デ・アール・エ・デ・レトル勲章が贈られた。

麻田鷹司

没年月日:1987/07/01

 創画会会員、武蔵野美術大学教授の日本画家麻田鷹司は、7月1日午後零時6分心不全のため、東京都板橋区の帝京大学附属病院で死去した。享年58。昭和3年8月8日京都市に日本画家麻田弁次の長男として生まれ、本名昂。父に絵を学び、京都市立美術工芸学校絵画科を経て、24年京都市立美術専門学校を卒業。この間、23年第1回創造美術展に「夏山」が入選し、同年より雅号を「鷹司」とした。25年第3回創造美術展で「ボートを造る」が奨励賞を受賞、翌26年創造美術が新制作派協会と合流し、新制作協会日本画部となって以後、同会に出品する。34年第5回日本国際美術展出品作「小太郎落」は文部省買上げとなり、35年第4回現代日本美術展「雲烟那智」は神奈川県立近代美術館賞を受賞した。42年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、第7号壁を担当。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱、新たに創画会を結成して以後、同会に出品した。金箔、銀箔、金泥などを多用し、ナイーヴな感性と堅固な画面構成の風景画を制作、47年第36回新制作展「天橋雪後図」、49年第1回創画展「松嶋図」、50年同第2回「厳島図」の日本三景や、佐渡、琵琶湖、沖ノ島など各地に取材した作品を発表する。また、10年がかりの予定の京都シリーズの第1回展として56年「洛中洛外・麻田鷹司展」(洛東編)を京都の何必館・京都現代美術館で開催、洛東風景の新作10点等を発表した。この間、38年ヨーロッパ、54年日中文化交流協会代表団の一員として中国をそれぞれ旅行。54年作「雲崗石窟仏」により第4回長谷川仁賞を受賞している。また、41年武蔵野美術大学講師となって以後、43年同助教授、45年教授となり、後進の指導にあたった。『新潮』の表紙原画(53~54年)や、記念切手(59年「銀閣」、62年「奥の細道シリーズ・華厳」)なども制作。35年以来たびたび個展を開催し、52年日本橋高島屋「麻田鷹司-わが心の京都」、54年銀座松屋「麻田鷹司-今日と明日」を開催。没後63年何必館・京都現代美術館で「追悼・麻田鷹司素描展」が開かれた。画集に『麻田鷹司画集』(50年、講談社)がある。

高田博厚

没年月日:1987/06/17

 求道的制作で知られた彫刻界の長老、高田博厚は6月17日午前1時5分、心不全のため神奈川県鎌倉市の鈴木病院で死去した。享年86。明治33(1900)年8月19日石川県七尾市に生まれ、父の郷里福井で育ち福井中学を卒業。大正7(1918)年絵を学ぶために上京し、高村光太郎、岸田劉生を知る。同8年東京外国語学校イタリア語科に入学。光太郎との交遊からロダンの作品にひかれて彫刻を試みるようになり、同10年東京外国語学校を中退。翌年コンディビの『ミケランジェロ伝』を翻訳し出版。昭和2(1927)年光太郎に促されて大調和展に初出品。同年光太郎らと東京府下牟礼(現・三鷹市)に「新しき共産村」を建設するが失敗。同4年国画会展に参加し「トルソ」など10点を出品するが、「無産者新聞」の記者らをかくまったとして逮捕され、同6年単身パリに渡る。ルオー、ロマン・ロラン、マイヨールらと交遊し、サロン・ザンデパンダンに出品。同10年国画会会員となる。12年パリ日本美術家協会を設立し、第二次世界大戦中も滞欧して、15年毎日新聞嘱託となり、パリ、ヴィシー特派員をつとめ、また、パリのレジスタンス運動を支援する。滞欧中はロダン、マイヨールらを研究して西欧彫刻界の動向を評論や自らの制作を通じて紹介し、日本に新風を吹き込んだ。同32年、28年ぶりに帰国するに際し滞欧作を全てこわし、東京にアトリエを構えて制作を再開する。37年新制作協会会員となったほか、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事をつとめ、39年には東京芸術大学講師をつとめる。41年鎌倉に転居。明治44年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、インド独立の父マハトマ・ガンジーと滞欧中に出会ってから交友を深め、その救ライ事業に共鳴して無償でガンジー像を制作するなど、求道の人として知られた。代表作にロマン・ロラン、ルオー、川端康成、武者小路実篤らの肖像があり、自己を追求しつつものを存在させていくことの安らかさを制作の意義とし、真摯な写実にもとづく知的で詩情ある作風を示した。著者に『人間の風景』(朝日新聞社、昭和4)、『薔薇窓から』(筑摩書房、昭和47)などがある。

笹岡了一

没年月日:1987/06/08

 日展評議員、光風会常任理事の洋画家笹岡了一は、6月8日午前5時、心不全のため千葉県松戸市の恩田病院で死去した。享年79。本名秋元了一、明治40(1907)年8月23日、新潟県中蒲原郡に生まれる。新潟県三條中学校卒業。昭和5(1930)年第7回白日展に「みそれの後」で初入選。同6年第8回同展に「風景」3点と「粟島と冬の海」を出品して白日賞受賞。同年第12回帝展に「三人の少女」が初入選したのをきっかけに上京し、同郷の洋画家安宅安五郎に師事する。同7年第9回白日展に「海辺風景」「晴れたる大夫濱」を出品して再び白日賞を受賞する。同8年同会会員となる。同12年佐分賞受賞。同15年白日会を退会し翌年創元会の第1回展に「降伏」を出品して受賞する。21年光風会会員となる。帝展、新文展、日展と官展への出品を続け、34年日展会員となる。53年第10回日展に「ウィリアム物語」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。聖書の物語を主題とし、中世キリスト教絵画を思わせる画風を示す作品、また、中国、西欧を描いた風景画で知られる。日比谷図書館壁画を描いたほか、朝日秀作展、国際具象展にも出品。戦後は千葉県に住んで千葉県美術会に参加し常任理事をつとめるなど同県の美術振興にも尽くした。

三上次男

没年月日:1987/06/06

 日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長の三上次男は、6月6日肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。号白水子。東洋史、考古学の権威で、陶磁史においても陶磁貿易史という研究分野を確立した三上は、明治40(1907)年3月31日京都府宮津市に生まれた。昭和7年東京大学文学部東洋史学科卒業後、1年間東亜考古学留学生として中国に滞在する。翌8年外務省文化事業部満蒙文化研究部研究員となり、同14年東京大学文学部講師、同23年東京大学東洋文化研究所研究員、同24年東京大学教授となった。同36年文学博士。同42年東京大学を停年退官し、同年同大学名誉教授の称号をうけ、同年から同52年まで青山学院大学教授として教鞭をとった。この間、同47年1月から50年12月まで日本学術会議会員、同47年8月から56年7月まで日本ユネスコ国内委員会委員、同41年9月から没年まで出光美術館理事をつとめた。戦後、南アジア、中近東さらにエジプトなどで発掘調査を精力的に行い、中国古陶磁器が元時代にはエジプトにまで到達していたことを明らかにし、東西文化交流の経路として、陸路による「絹の道」とは別に、南海路である「陶磁の道」の存在を唱え陶磁貿易史の研究分野を確立した。同44年、岩波新書に『陶磁の道』を著し、これがシルクロード・ブームの先駆けとなった。同49年、『金史研究』(全3巻)により日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同53年3月から中近東文化センター理事長に就任、同61年には日本から初のトルコ古代遺跡発掘隊の隊長をつとめた。同年、日本学士院会員となる。『三上次男著作集』他の著述がある。

磯矢陽

没年月日:1987/05/30

 東京芸術大学名誉教授の漆芸家磯矢陽は、5月30日胃がんのため東京都青梅市の市立総合病院で死去した。享年83。号阿伎良。明治37(1904)年2月1日東京市小石川区に生まれる。大正15年東京美術学校漆工科を卒業。戦前は帝展、新文展、日本工芸作家協会展、日本漆文化展等に出品、また、昭和8年東京美術学校講師となり、のち助教授として教鞭に立った。戦後は生活工芸集団に所属し同展に出品、また、日本デザイナークラフトマン協会、三艸会、日本漆工協会などに所属する。昭和46年東京芸術大学教授を停年退官し名誉教授となる。退官後は、生活に根ざした漆工芸を唱え、朱文筵工房を主宰した。

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