本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





加藤唐九郎

没年月日:1985/12/24

 現代陶芸の第一人者で数々の話題を残した加藤唐九郎は、12月24日午前10時5分、心筋梗塞のため名古屋市の自宅で死去した。享年87。10月末より心臓病のため名古屋大学医学部附属病院に入院、退院後自宅で静養していた。明治30(1897)年7月19日(戸籍では31年1月17日)愛知県東春日井郡の半農半陶の窯屋に生まれ、初名加納庄九郎。幼い頃よりロクロや土で遊び、44年中根塾に入門、中根聞天に私淑する。大正3年父の窯を譲り受け、製陶業を開始した。また20歳の時加藤きぬと結婚し、加藤唐九郎と名を改める。当時陶業界は第一次世界大戦後の好景気で大量生産時代に入ったため、経営に失敗、一時実業家や文学を志したこともあったが、一方で瀬戸や美濃地方の古窯を発掘調査。志野、織部、黄瀬戸などの桃山古陶に出会い、自らもその復元研究に努める。昭和4年瀬戸市祖母懐町に窯を築き本格的に志野、織部に挑戦。また同年瀬戸古窯調査保存会を設立し理事長に就任する一方、美濃古窯の窯下窯で「文祿二年銘」の黄瀬戸陶片を発見する。5年志野茶碗「氷柱」で注目され、6年第12回帝展に「魚文花瓶」が初入選。8年桃山期美濃陶芸に対する新見解の原点となった著書『黄瀬戸』(宝雲舎)の中で、いわゆる瀬戸焼が瀬戸より美濃で古く焼かれたことを主張、瀬戸市民の反発を買い“焚書騒動”に発展する。これを機に瀬戸を離れ、10年小幡翠松園に窯を移した。以後、安土桃山期の古窯発掘を通じて織部焼が真の日本焼であると考え、その復活に努力する。17年頃初の個展「志野・織部新作展」を開催し、18年には西加茂郡猿投村(現豊田市猿投町)に越戸窯(古志戸窯)を再興。戦後23年芸術陶磁器認定委員会、25年日本陶磁器協会を設立する。26年パリ・チェルヌスキ博物館で開催された日本陶芸展に「織部向付」6点を出品し、これを機縁にピカソと作品を交換、話題となった。27年織部の技法で第1回無形文化財記録保持者に選定される。31年文化芸術使節団一員としてアジア・ヨーロッパを歴訪、33年ソ連国立東洋博物館で日本工芸美術展を開催するなど、海外文化交流にも尽力した。しかし35年、鎌倉時代の古陶として重要文化財に指定されていた「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」が偽作ではないかとの疑問が瀬戸の古陶器研究家などから出され、自作の模倣作であることを表明、重文指定が取り消された「永仁の壷」事件が起こる。これを機に日本陶磁協会、日本工芸会理事など一切の公職から離れ、以後制作に専念する。39年「一無斎加藤唐九郎個展」(九栄百貨店)、「東京オリンピック記念陶芸展」(伊勢丹)、59年「志野・黄瀬戸・織部-桃山と加茂唐九郎展」を開催し、40年毎日芸術賞を受賞。志野、織部のほか、黄瀬戸、高麗、唐津、伊賀、信楽と幅広いジャンルに精通し、豪放な作風で現代日本の代表的陶芸家として活躍した。一ム歳、陶玄、野陶などの号を用い、代表作に前記「志野茶碗・銘氷柱」(昭和5年)のほか、「鼠志野茶碗・銘鬼ケ島」(44年)「志野茶碗・銘紫匂」(54年)「黄瀬戸輪花鉢」(58年)など。また昭和5年以降建築と陶芸の融合を目指した陶壁を制作し、主なものに加山又造との共同制作になる富士宮市大石寺大宮殿陶壁、愛知県労働者研究センター陶壁「野竜共に吠く」、愛知県公館玄関「八ツ橋」などがある。陶磁研究者としても造詣が深く、16年『陶磁大辞典』(全6巻、宝雲舎)をはじめ、『やきもの随筆』、54年『紫匂ひ』(立原正秋と共著)、56年『私の履歴書』等の著書、36年『加藤唐九郎作品集』、52年『陶藝唐九郎』等の作品集、47年『原色陶器大辞典』編纂などがある。その作品は、54年に落成した翠松園陶芸記念館に多く所蔵される。

坂崎乙郎

没年月日:1985/12/21

 美術評論家で早稲田大学政治経済学部教授の坂崎乙郎は、12月21日心臓マヒのため東京都国立市の自宅で死去した。享年57。わが国へのドイツ表現派、ウィーン幻想派などの紹介で先駆的役割を果し、また、短編小説を思わせる語り口による独自の評論活動を展開した坂崎は、昭和3(1928)年1月1日美術史家で朝日新聞社学芸部長、早稲田大学教授をつとめた坂崎坦の次男として、東京都新宿区に生まれた。同26年早稲田大学文学部独乙文学科を卒業、引き続き大学院へ進み美術史を専攻しマネを研究、同29年修了した。同30年から32年まで西ドイツに留学、ザールブリュッケン大学でシュモル教授につき、近代美術を研究する。帰国後、いちはやく美術評論活動に入り、ドイツ表現派やウィーン幻想派などを紹介、とくに幻想芸術の紹介や評論に最も意を注いだ。同34年にはリオン・フォイヒトヴォンガー著『ゴヤ』を翻訳、翌年には著書『夜の画家たち』を刊行、同43年ブリヨン著『幻想芸術』を翻訳刊行、さらにその評論領域は近代日本作家へと拡がり、池田淑人ら異色画家の作家論も手がけた。美術評論家連盟会員でもあった。著書は多く、主なものに『ヨーロッパ美術紀行』(同40年)、『幻想芸術の世界』(同44年)、『イメージの狩人-絵画の眼と想像力』(同47年)、『イメージの変革-絵画の眼と想像力』(同年)、『終末と幻想-絵画の想像力』(同49年)、『絵を読む』(同50年)、『現代画家論』(同年)、『象徴の森』(同年)、『幻想の建築』(同51年)、『視るとは何か』(同55年)、『エゴン・シーレ』(同59年)などがある。

音部幸司

没年月日:1985/12/05

 国画会会員の洋画家音部幸司は12月5日午前7時54分肺炎のため名古屋市瑞穂区の新生会第一病院で死去した。享年67。大正7(1918)年2月28日愛知県蒲郡市に生まれる。杉本健吉に師事し、昭和18(1943)年第18回国画会展に「春日」で初入選。以後同会に出品を続ける。戦後の同22年第21回同展に「椿と梅」「裏の道」「池畔雪景」を出品して国画奨学賞受賞。同24年同会会友、同28年同会員に推される。初期には風景画を多く描いたが、昭和30年代中頃から抽象画を国画会展に出品する。名古屋に住み、昭和26年中部美術展最高賞受賞、40年代中頃には中部国際形象展に出品。同26年より28年まで名古屋金城女子大学美術講師をつとめるなど美術教育にもたずさわった。

各務鑛三

没年月日:1985/12/03

 硝子工芸家で日展参与の各務鑛三は、12月3日肺炎のため神奈川県藤沢市の藤沢脳神経外科病院で死去した。享年89。ガラス工芸を工芸美術の一分野へ高めるのに先駆的役割を果した各務は、明治29(1986)年3月3日岐阜県土岐郡に生まれた。愛知県立陶器学校から東京高等工業学校図案科選科に進み大正5年に卒業、その後5年間同校窯業科に勤務した。同9年満鉄窯業試験所に入社し窯業研究に従事、昭和2年には満鉄からドイツ留学を命じられ国立シュツットガルト美術工芸学校へ入り、校長のアイフ教授に師事してグラビール、カットなどガラス彫刻を1年半の間学んだ。同4年に帰国。翌5年工房を新設し独立、同7年13回帝展に初入選し、同9年には東京市蒲田区西六郷1-7に各務クリスタル製作所を設立、同年の15回帝展では特選を受けた。東京府工芸品展、商工省主催輸出工芸展等の審査員をつとめた他、同13年、16年の新文展でも審査員となった。岩田藤七の色ガラス、各務のクリスタルガラスで、岩田と共に硝子工芸の先駆的役割を果し、硝子工芸を工芸美術の今野にまで高めた。戦後は日展に出品、審査員をつとめ日展評議員、日展参与を歴任した。同28年芸術選奨文部大臣賞を受賞、同33年のブリュッセル万国博覧会ではグランプリを受けた。同35年日本芸術院賞を受賞する。

橋本高昇

没年月日:1985/11/29

 日展参与の木彫家橋本高昇は、11月29日午後5時56分、肺炎のため東京都杉並区の杉並病院で死去した。享年90。明治28(1895)年9月9日福島県二本松市に生まれ、本名留治。高等小学校卒業後上京し、大正11年木彫家三木宗策に入門する。14年第6回帝展に「春の日を受けて」が初入選、昭和2年第8回帝展後連年入選し、鹿や牛を好んで題材とした作品を多く発表する。同7年第13回帝展で「雄牛」が特選を受賞、11年文展招待展出品後、新文展に出品し、18年第6回「大道宣明」などを発表する。また16年正統木彫会展に「心音」を出品し、18年松戸市万満寺蔵「聖観音」を制作している。戦後28年第9回日展で「牡鹿」が特選・朝倉賞を受賞し、翌29年第10回日展でも「緑蔭」が特選となる。30年日展依嘱、31年・37年と審査員をつとめ、33年日展会員、39年評議員、45年参与となった。53年第10回改組日展「牡鹿」を最後に、日展には出品していない。 大正14年第6回帝展「春の日を受けて」、昭和2年同第8回「鹿」、3年同第9回「双鹿」、4年第10回「牡牛」、5年第11回「聖牛」、6年第12回「母性」、7年第13回「雄牛」(特選)、8年第14回「春光」、9年第15回「牡鹿」、11年文展招待展「親子の鹿」、13年第2回新文展「大和の利劍」、14年同第3回「三人の兄弟」、16年第4回「澄心」、18年第6回「大道宣明」、19年戦時特別展「闘魂」、21年第2回日展「鯉」、22年同第3回「観音」、23年第4回「神鹿」、24年第5回「関大僧正」、26年第7回「母牛」、27年第8回「春暁」、28年第9回「牡鹿」(特選・朝倉賞)、29年第10回「緑蔭」(特選・無鑑査)、30年第11回「牡鹿鳴く」(依嘱)、31年第12回「鹿」(審査員)、33年第1回新日展「野性」(会員となる)、34年第2回「丘」、35年第3回「コリー」、36年第4回「かもしか」、37年第5回「猛ける」(審査員)、38年第6回「求道者」、39年第7回「なく」(評議員となる)、40年第8回「仔鹿」、41年第9回「山羊」、42年第10回「白夜」、43年第11回「躍」、44年第1回改組日展「双鹿」、45年第2回「馬」(参与となる)、46年第3回「鷹」、47年第4回「親鸞」、48年第5回「善無畏三蔵」、49年第6回「鵜」、50年第7回「靭生」、52年第9回「仔連れの鹿」、53年第10回「牡鹿」

伊勢正義

没年月日:1985/11/18

 新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡に生まれる。昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。

北原義雄

没年月日:1985/11/11

 雑誌『アトリエ』を創刊し、アトリエ出版社長として美術図書の刊行に尽力した北原義雄は、11月11日午前3時7分心不全のため東京都中野区の小原病院で死去した。享年89。明治29(1896)年1月31日福岡県柳川市に生まれる。詩人北原白秋の実弟。旧制麻布中学校卒業。義兄山本鼎と美術雑誌『アトリエ』を企画し大正13年にアトリエ社を創立。月刊誌『アトリエ』のほかゴッホ、ルノアール、セザンヌらの画集を翌14年に刊行して以来、西洋美術画集、油絵、水彩、パステルなどの各種技法書、個人作家画集など多くの美術書を編集、出版する。戦時中、雑誌統合のため実兄北原鉄雄が社主となっていたアルス社と合併し北原出版株式会社とするが、戦後の昭和26年アトリエ社を復活し月刊『アトリエ』を復刊。同誌は『みづゑ』『中央美術』とならぶ美術専門雑誌として作家を啓発するところが大きく、また、同社は美術書を専門とする出版社として確かな位置を占めた。

高田義男

没年月日:1985/11/10

 装束製作家、有職装束研究家の高田義男は、11月10日午前2時45分、心不全のため、東京都新宿区の駒ケ嶺病院で死去した。享年88。明治30(1897)年6月2日、東京市麹町区で生まれた。父は茂、母はテル。代々京都で禁中、公家、神社の装束の調製に当ってきた家で、父の茂は22代、明治維新東京遷都で東京に移り住むことになった。23代の義男は、明治41年、11歳の小学生ながら松岡映丘の門下生となって大和絵を学びつつ、明治44年に東京市立番町小学校を、大正6年に大倉商業学校を卒業した。家業に専念、先代に引続き宮中の装束の製作(山科流)に従事、昭和元年(1926)の大正天皇大葬、同3年の天皇即位の装束、同4年の伊勢神宮神宝装束などの調進に当ったほか、帝室博物館の委嘱によって「正倉院染織品」「鶴岡八幡宮」「熊野速玉大社」「熱田神宮」などの神宝、神服類の復元模造を行い、戦後は「歴世服装美術研究会」「日本甲冑武具研究会」などを興して、服飾風俗の研究指導を行うなど、日本の染織・服飾界に盡した。略年譜大正8年 株式会社高田装束店設立代表取締役就任 その頃、上代裂の調査・研究にも傾注、復元模造を試みて学ぶ。上代の綾・錦・更に文羅の復元模造にも昭和初年には成功している。大正15・昭和元年(1926年)昭和2年 大正天皇大葬御用装束調進昭和3年 天皇即位大礼装束調進、黄櫨染復活、紅染復活。昭和4年 伊勢神宮御神宝大礼装束調進。昭和5年より帝室博物館の委嘱により正倉院宝物染織品調査と復元模造。秩父、高松、三笠各親王成年式装束調進。同各宮殿下婚儀儀服調進。皇族宮殿下御着袴、成年式装束調進。昭和7年より鶴ケ岡八幡宮御神宝装束をはじめとする国宝・重要文化財染織品調査と復元模造熊野速玉大社御神宝装束熱田神宮御神宝装束御嶽神社伝来大鎧大塔宮護良親王鎧直垂毛利家伝来鎧直垂宇良神社伝来縫箔小袖手向山神社新靺鞨袍天野社舞樂装束高台寺豊公所用綴織陣羽織調査復元等昭和33年 シルク博物館(横浜市中区山下町1シルクセンタービル2階)展示の中世・近世初期等服装を復元製作。昭和47年 紫綬褒章受章主要著書昭和2年 和染鑑 編著昭和10年 大楠公六百年祭写眞帖 関安之助と共編昭和18年 かさね色目 編著昭和39年 日本の服装上 鈴木敬三と共著 吉川弘文館発行昭和44年 服飾史図絵 共編著 駸々堂発行長男の高田敏男は株式会社高田の後継者で社長。現在は24代。弟の高田倭男が研究面の後継者で研究所長。

熊倉順吉

没年月日:1985/11/10

 前衛陶芸家集団走泥社の同人熊倉順吉は、11月10日午前0時半、心不全のため大津市の堅田病院で死去した。享年65。大正9年8月8日京都市東山区に生まれ、昭和13年京都市立第一工業学校建築科を卒業。次いで17年京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)図案科を卒業する。兵役の後、20年復員。翌年京都松斉陶苑に入門し、福田力三郎に師事。また同苑で制作中だった富本憲吉にも師事する。23年富本を中心とする新匠工芸会展に出品し、24年第5回日展に「陶器色絵薊紋壷」が初入選、翌年も入選するが、以後日展には出品していない。26年東京銀座のフォルム画廊で初の個展を開催、同年新匠会会員となる。27年第1回現代陶芸展、29年同第3回展で受賞し、30年には第1回日本陶磁協会賞を受賞。同30年新匠会を退会した後、翌年モダンアート協会会員(33年退会)となり、更に32年八木一夫らの前衛的な陶芸家集団走泥社に参加。同人となり、以後同展に出品する。33年ベルギー、ブリュッセル万国博覧会でグランプリ、37年チェコスロバキア、プラハ国際陶芸展で「凝固する炎」が銀賞を受賞、43年日本での万国博覧会で迎賓館ラウンジの陶壁画レリーフを制作する。東京・壱番館画廊(41、43、46年)、伊勢丹(47、52、55、56年)ほか、東京、京都などでたびたび個展を開催。この間、34年滋賀県立信楽窯業試験場嘱託となり信楽陶のデザイン指導にあたり(55年まで)、45年より京都工芸繊維大学工芸学部意匠工芸学科非常勤講師、47年より多治見市立陶磁器意匠研究所特別講師、59年より京都市立芸術大学美術学部非常勤講師をつとめた。人間のエロスを表現主義的な手法で追求する陶影をよくし、主な作品に「暦日」(42年)「風人」(42年)「座」(47年)「みつからぬ愛」「Jazz」(51年)「誘惑者」「夏の雲」「楽想」などがある。

森暢

没年月日:1985/11/04

 大阪工業大学名誉教授で美術史家の森暢は11月4日、心筋こうそくのため京都市左京区の川越病院で死去した。享年84。森は明治36(1903)年7月、和歌山県に生まれ、京都大学文学部選修科に学んだ後、美術雑誌『宝雲』の編纂に携わる。また外務省研修所、大阪外語大学の講師(美術史担当)、京都国立博物館の嘱託をつとめ、その後大阪工業大学教授として教鞭をとり、同大学定年退職後、東洋大学大学院国文科の講師をつとめる。専攻は日本中世絵画史。特に力を注いだのは歌仙絵の研究で、現存する歌仙絵・歌合絵作品・断簡を博捜、整理分類してまとめられた著書に『歌合絵の研究・歌仙絵』(昭和45年角川書店)がある。また、鎌倉時代の肖像画作品・作家、歌仙絵作品について発表された論考を集録した『鎌倉時代の肖像画』(昭和46年みすず書房)、『歌仙絵・百人一首絵』(昭和56年角川書店)などがある。

中村勇二郎

没年月日:1985/10/20

 伊勢型紙彫刻師の人間国宝中村勇二郎は、10月20日午後0時10分老衰のため、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年83。明治35(1902)年9月20日三重県に生まれる。父兼松は、型紙業を営む中村家の3代目、小学校6年頃より父の手伝いを始め、高等科卒業後、大正4年頃から他の弟子とともに父に伊勢型紙の道具彫り技術を本格的に学ぶ。伊勢型紙の起源は明確でないが、中世末には既に国内の紺屋でかなりの型紙が使用され、江戸期には型売株仲間が紀州藩の庇護を受けて隆盛した。維新後、暫時不振の状態が続いたが、紙業組合や工業徒弟学校の創立、糸入れにかわる紗張り法などの技法が創案され、再び活況を呈するようになる。型紙の文様には小紋と中形があり、また彫りの技法には突彫、錐彫、道具彫、縞彫などがある、道具彫は刃物自体の形がひとつの小さな文様単位となっているもので、小紋用に最も用いられる彫法である。昭和27年伊勢型紙は、文化財保護委員会より「江戸小紋伊勢型紙」技術保存の指定を受け、30年中村勇二郎は他の5名とともに、重要無形文化財伊勢型紙技術保持者として認定された。この間、同28年伊勢型紙彫刻組合組合長となっている。38年伊勢型紙伝承者養成事業の道具彫り講師となり、39年より60年まで人間国宝新作展に出品した。58年三重県の県民功労者として表彰を受け、59年大阪市北浜の三越アートギャラリーで個展を開催。精緻で優美な型紙を制作し、主な作品に「古代菊の図」(55年、)「瑞雲祥鶴の図」「四君子の図」「壮龍の図」などがある。

中野素昂

没年月日:1985/10/18

 日展会員の彫刻家中野素昂は、10月18日午前4時45分、肺炎のため東京都板橋区の常盤台病院で死去した。享年88。明治31(1898)年3月21日福岡県豊前市に生まれ、本名昂。東京美術学校彫刻科で関野聖雲、建畠大夢、水谷鉄也らに学び、大正15年卒業する。昭和3年第9回帝展に「立命」が初入選。7年日本美術協会展で「羽衣」が奨励賞が受賞し、16年第4回新文展に「思ひ」、18年同第6回展に「使命」を無鑑査出品する。戦後31年第12回日展に「水泳選手」を依嘱出品、以後依嘱出品し、39年第7回日展で審査員をつとめ、40年日展会員となる。この間36年豊島区新庁舎落成記念に「希望」を制作、39年には北九州合併記念として戸畑区若戸大橋公園に「大気」を制作した。人物を多くモチーフに、確実な写実力を示した。

浜田観

没年月日:1985/10/06

 日本芸術院会員、日展顧問の日本画家浜田観は、10月6日午前1時半、肝臓ガンのため京都市右京区の花房病院で死去した。享年87。明治31(1898)年2月20日兵庫県姫路市に生まれ、本名仙太郎。神戸の画家大谷玉翠に絵の手ほどきを受けた後、大正8年頃大阪に移り、洋画も学ぶ。昭和4年金島桂華の紹介で竹内栖鳳に入門。また同8年京都市立絵画専門学校に入学し、16年同校研究科を修了する。この間、同8年第14回帝展に「八仙花」が初入選し、12年より新文展に出品。同12年栖鳳門下で葱青社を結成する。また15年春、紀元2600年奉祝日本画大展覧会(大阪毎日主催)で「南紀梅林」が大毎東日賞、秋の同展で蒼穹賞を受賞した。戦後第2回より日展に出品し、22年第3回日展「芥子」、24年第5回日展「蓮池」が特選となる。翌25年より依嘱出品、買上げとなった31年第12回日展「樹映」を経て、33年第1回新日展より評議員をつとめた。38年同第6回「朝」が文部大臣賞を受賞し、39年第7回出品作「彩池」により翌40年日本芸術院賞を受賞する。46年日展理事、48年同参与、55年参事に就任、その後同顧問となった。一貫して花鳥画の世界を追求し、幽遠な画境を拓いた。49年京都府美術工芸功労者、50年京都市文化功労者、59年日本芸術院会員となった。 出品歴:昭和8年第14回帝展「八仙花」、12年第1回新文展「初夏の花」、13年第2回「花芥子」、14年第3回「牡丹」、15年紀元2600年展「罌粟」、16年第4回「花菖蒲」、17年第5回「芥子」、18年第6回「紅蜀葵」、21年第2回日展「朝」、22年第3回「芥子」(特選)、23年第4回「牡丹」、24年第5回「蓮池」(特選)、25年第6回「白椿」(依嘱)、26年第7回「芥子」(依)、27年第8回「牡丹」(審査員)、28年第9回「黄蜀葵」(依)、29年第10回「牡丹」(依)、30年第11回「菖蒲」(依)、31年第12回「樹映」(審、買上げ)、33年第1回新日展「細雨」(審、評議員)、34年第2回「晨」(評)、35年第3回「朝」(評)、36年第4回「池」(審、評)、37年第5回「蓮池」(評)、38年第6回「朝」(文部大臣賞、評)、39年第7回「彩池」(評)、40年第8回「芙蓉」(評)、41年第9回「蓮池」(評)、42年第10回「双鯉」(評)、43年第11回「朝の庭」(評)、44年第1回改組日展「晨明」(評)、45年第2回「鯉」(評、審)、46年第3回「芥子」(理事)、47年第4回「古壷再び」(理)、48年第5回「午の花」(参与)、49年第6回「湖底」(参)、50年第7回「陽影」(参)、51年第8回「花菖蒲」(参)、52年第9回「鯉」(参)、53年第10回「清晨」(参)、54年第11回「鯉」(参)、55年第12回「花芥子」(参事)、56年第13回「湖底」(参)、57年第14回「初夏」(参)

村田治郎

没年月日:1985/09/22

 財団法人建築研究協会理事長、京都大学名誉教授で東洋建築史学の第一人者村田治郎は、9月22日午前9時50分、脳動脈硬化症のため京都市北区の富田病院で死去した。享年90。明治28(1895)年9月23日山口県大島郡に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校、第一高等学校を経て、大正12年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1年間の兵役の後、翌13年南満州鉄道株式会社に入社、南満州工業専門学校教授を命ぜられ、大連市に赴任する。同地滞在中、満州鉄道沿線各地の回教寺院を調査し、昭和5年「満州における回教寺院建築史の研究」を発表。また同4年より11年まで満州の廟、仏塔、陵、宮殿なども幅広く調査し、6年「東洋建築史系統史論」を著し、同論文により7年工学博士の学位を取得する。11年会社より欧米各国の建築歴史、工業教育の調査を命ぜられ、1年間出張。翌12年4月京都帝国大学工学部講師を嘱託され、満州鉄道を退社、京都に移る。同年8月同教授となり、13年より15年まで毎年中国河北省、山西省、山東省に出張調査、16年「支那建築の研究」により建築学会より学術賞を受賞する。18年北京郊外の居庸関雲台保存のための現地調査隊隊長となり、2週間にわたった調査。戦後その資料の整理が進められ、30年、32年の2度にわたって『居庸関』本文編、図版編全2冊を京都大学工学部より出版。その事業の業績に対して、33年日本建築学会より学会賞、34年日本学士院より日本学士院賞が贈られた。この間、中国建築に対する造詣をまとめた大系的著作『東洋建築学』(建築学大系4)を32年に刊行。また日中間の建築文化交流に対する視点から、21年「支那建築史より見たる法隆寺系建築様式の年代」(『宝雲』)を発表、その後も法隆寺に強い関心を持って研究を続け、24年『法隆寺の研究史』、35年『法隆寺』(野上照夫と共著)、40年「二つの法隆寺様式論」、43年「法隆寺創立の研究史」、23年より43年まで前後4編にわたる玉虫厨子に関する論文を著している。また建築の文化財保存にも尽力し、25年に制定施行された文化財保護法下で文化財専門審議会専門委員、25年から31年までの宇治平等院鳳凰堂解体修理の修理委員会修理委員長、47年桂離宮御殿整備工事のため組織された桂離宮整備懇談会座長などをつとめている。滋賀県(32年)、兵庫県・京都府(39年)などの文化専門委員もつとめたほか、28年日本建築学会副会長、33年京都大学退職に伴ない同大名誉教授、37年国立明石工業高等専門学校初代校長、43年日本建築学会名誉会員、58年京都府文化特別功労者となる。没時、京都府文化財保護審議会会長、京都市文化財保護審議会会長、京都市埋蔵文化財研究所理事長、財団法人建築学研究協会理事長、御所離宮懇談会委員、法隆寺文化財保存協議会協議員、東寺奉讃会理事などをつとめていた。

春日部たすく

没年月日:1985/09/16

 水彩連盟の創立会員春日部たすくは、9月16日東京都豊島区の要町病院で死去した。享年82。昭和初年以来一貫して水彩画を描いた春日部は、明治35(1903)年5月26日福島県会津若松市に生まれた。本名弼(たすく)。会津中学校卒業後、大正13年に上京、川端画学校洋画部に学ぶ。昭和3年日本水彩画会展に入選。翌4年10回帝展に水彩画「山湖」が初入選し、同年日本水彩画会会員となる。同5~8年の12~14回帝展に連続入選、同11年の文部省美術展に「早春」、同13年の2回新文展に「五月の高原」が入選するなど、官展における水彩画家として活躍した。同15年小堀進、荒谷直之介、小山良修、萩野康児ら7名と水彩連盟を結成、以後官展、日本水彩画会への出品を止め戦後も水彩連盟及び個展で制作発表を行った。水彩連盟委員の他、日本美術家連盟委員、日本山岳画協会会員、日本ガラス絵協会会員でもあった。水彩画壇を代表する作家の一人で、風景画を得意とし鮮かな色彩と情趣ある画情を持ち味とした。代表作に「回想の四季」「たそがれ」などがある。

中村翠恒

没年月日:1985/09/08

 日展参与で九谷焼の陶芸家中村翠恒は、9月8日午後6時20分、老衰のため金沢市の石川県立中央病院で死去した。享年82。明治36(1903)年4月3日石川県加賀市に生まれ、本名恒。大正13年石川県立工業学校を卒業。板谷波山、河村蜻山に師事する。昭和3年第9回帝展に、「彩釉彫牡丹文壷」が初入選し、以後帝展、新文展に入選。戦前は多く「秋塘」(3代)の名で出品している。戦後22年第3回日展で「魚譜手附花器」が特選となり、28年第9回日展「海濱の譜花瓶」が特選・朝倉賞を受賞する。翌29年無鑑査、30年依嘱出品し、32年審査員をつとめたのち、33年日展会員となる。その後もたびたび審査員をつとめ、45年第2回改組日展で「融心」が文部大臣賞を受賞、43年日展評議員、55年参与となった。魚や鳥を多くモチーフに用い、代表作に上記のほか48年第5回日展「光花」などがある。帝展・新文展・日展出品歴昭和3年第9回帝展「彩釉彫牡丹文壷」、6年同第12回「筒形八角花瓶」、8年第14回「染付六角三生果文花瓶」、14年第3回新文展「双魚文磁花瓶」、15年紀元2600年奉祝展「菱形豊實文花瓶」、16年第4回新文展「蝶文様花瓶」、18年第6回「魚紋花瓶」、21年第2回日展「成熟水注」、22年同第3回「魚譜手附花器」(特選)、24年第5回「磁器鷺三態釣花瓶」、25年第6回「陶器おしどり花器」、26年第7回「不老文壷」、27年第8回「水蓮壷」、28年第9回「海濱の譜花瓶」(特選・朝倉賞)、29年第10回「陶磁罌粟花瓶」(無鑑査)、30年第11回「梟花瓶」(依嘱)、31年第12回「群鶏文花瓶」、32年第13回「鶏冠飾壷」(審査員)、33年第1回新日展「躍動文壷」(会員)、34年第2回「ヒルと夜(壷)」、35年第3回「金彩流泑花器」、36年第4回「潮変壷」、37年第5回花器「研粧」、38年第6回「花影壷」(審査員)、39年第7回「化石」、40年第8回「条刻」、41年第9回「回想花器」、42年第10回「和」(審査員)、43年第11回「伸」(評議員)、44年第1回改組日展「融和壷」、45年第2回「融心」(文部大臣賞)、46年第3回「融韻」、47年第4回「韻律」、48年第5回「光花」、49年第6回「連」、50年第7回「融緑壷」、51年第8回「彩容」、52年第9回「色絵双魚壷」、53年第10回「飛翔壷」、54年第11回「不老長寿」、55年第12回「鹿文壷」(参与)、56年第13回「不老長寿」、57年第14回「『叢中の双鹿』壷」、58年第15回「魚文壷」、59年第16回「湖畔」

鴨居玲

没年月日:1985/09/07

 元二紀会委員の洋画家鴨居玲は9月7日午前4時半頃自宅で死去した。享年57。持病の狭心症によるものと見られる。孤独な人間を卓抜な描写力で描いた鴨居玲は、昭和3年2月3日長崎県平戸に生まれた。姉はデザイナーの鴨居羊子。新聞記者であった父の赴任に伴って、韓国京城で小学校卒業、金沢の旧制中学を経て、同地に疎開中であった宮本三郎に師事。同23年金沢美術工芸大学洋画科在学中に、第2回二紀会「青いリボン」で初入選し、翌年同大を卒業。同年第3回二紀会で褒賞を受け同会同人に推される。同29年第8回同展に「空気の層」「あるく」を出品して同人努力賞受賞。同34年渡仏。同36年パリのジュヌ・パントゥールに入選して帰国する。同40年ブラジルへ渡り、のち渡欧。翌41年イタリアより帰国。同43年二紀会会員に推挙される。翌44年「静止した刻」で第12回安井賞受賞、同年昭和会優秀賞受賞、翌年より52年までスペイン、フランスに滞在。この間の同48年第27回二紀展で文部大臣賞を受けるが、同56年会員でありながら長く出品していなかつた同会を退く。同59年在住地である兵庫県より兵庫県文化賞受賞。素描集『酔って候』を54年刊行し、『鴨居玲画集夢候 作品1947-1984』が60年7月に刊行されて間もなくの急逝であった。酔っぱらい、廃兵、流し、老婆など人生の悲哀を滲ませるモチーフを、褐色や暗い青緑色などの染み入るような色彩と洗練されたタッチで描き、長い滞欧中に培った確かな素描力にはスペインの画家ゴヤ、ベラスケスらの影響が指摘されていた。二紀展出品歴 第2回(昭和23年)「青いリボン」、4回「赤い裸婦」、5回「夜」「夜の風景」、6回「三人」「二人」、7回「不安」、8回「空気の層」「あるく」、9回(同30年)「順を待つ」、10回「時計」「コワレタ時計」、11回「喜劇日本(B)」「喜劇日本(C)」、12回「腕時計」「食事時」「夜の海」「昼寝」、13回「ひるね」「象使い」「月と魚」「鳥」、14~19回(同35~40年)出品せず、23回「サイコロ(A)」「サイコロ(B)」、24回(同45年)「ドアはノックされた(アンネの日記より)」、25~30回(同46~51年)出品せず、31回「ダイス(A)」「ダイス(B)」、32回「教会(A)」「教会(B)」、以後出品せず。

野崎利喜男

没年月日:1985/09/04

 元一水会会員でフランスでも活躍した洋画家野崎利喜男は、9月4日午後3時42分、肺がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年75。明治42(1909)年11月21日横浜市に生まれ、昭和4(1929)年本郷絵画研究所、二科技塾などで洋画を学ぶ。翌5年硲伊之助に師事。同12年フランスに渡り翌年より第二次世界大戦勃発によって同15年に帰国するまでアンリ・マチスに師事する。帰国の年第4回一水会展に初出品し、同22年同会会員に推される。同27年第14回同展に「朝食の後」「春雨」を出品して会員佳作賞(1賞)受賞。同33年同志数名と斑会を結成。同41年10月再び渡仏し、同年12月のニース南仏展でグランプリ金賞を受ける。翌42年一水会を退会。同年のカンヌ・ビエンナーレ国際美術展に「ロゾレンの家」を出品してグランプリ・カンヌ市賞を受賞する。同43年帰国し三越等で滞欧作展を開く。同51年第3回目の渡欧。同年のコート・ダジュール国際美術展に招待出品する。初期には師硲伊之助の影響を強く見せたが、渡仏後フォービスムに学んで明るい色彩を使うようになり、陽光の降り注ぐヨーロッパ風景を穏やかな筆致で描いた。代表作に受賞作のほか「卓上静物」「飛翔」などがある。 一水会出品略歴-第10回(昭和23年)「きび」「むくげ」、15回(同28年)「嵐」「吾が家族」、20回(同33年)「桜並木」、25回(同38年)「三宝寺の水蓮」

土岐国彦

没年月日:1985/09/02

 二紀会参与の洋画家土岐国彦は、9月2日午後5時、肺炎のため兵庫県西宮市の熊野病院で死去した。享年78。明治40(1907)年1月13日福岡県小倉市に生まれる。小倉中学校卒業後、太平洋画会研究所に学んで昭和11(1936)年第23回二科展に「黄昏れ」で初入選。以後同展に出品を続けるが、同22年二紀会の創立に参加して同会同人となり二科会を退く。同37年渡欧しパリのアカデミー・グラン・ショーミエールに学びアメリカを経由して帰国。同47年第26回二紀展に「若草山」「斑鳩」を出品して菊花賞、同51年第30回二紀展に「東大寺」「三月堂」を出品して総理大臣賞を受賞する。同56年より二紀会参与をつとめる。風景を主に描き奈良などの古い鄙びた社寺や家を好んだ。柔かいオークル系の色調で歴史を思わせるモチーフを描きしみじみとした趣を画面に漂わせた。 二紀展出品略歴-第5回(昭和26年)「朝のバルコニー」「あぢさい」「静物」、10回(同31年)「杉の木」「森」、15回(同36年)「円形劇場」「壁の断片」「コロセウム」、20回(同41年)「村の中」「田園」、25回(同46年)「東大寺残照」「若草山と東大寺」、30回(同51年)「東大寺」「三月堂」、35回(同56年)「陽だまり」「土蔵と柿の木」

杉山司七

没年月日:1985/09/02

 元東京都美術館館長の美術教育家杉山司七は9月2日午前9時30分、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年90。明治28(1895)年7月28日富山市に生まれ、大正4(1915)年同県師範学校本科を卒業。同8年東京美術学校師範科を卒業して、郷里の神通中学校、県立商業学校図画教師となり、以後、和歌山県立中学、山口県師範学校、同高等学校、高等女学校、帝国美術学校等で教鞭をとる。この間の昭和12(1937)年国際美術教育会議出席のため渡欧し、1年間欧米の美術教育を視察。同15年には朝鮮、満州の美術教育を視察する。同20年美術教育奨励事業、美術教科書編纂に携わる。同25年より30年まで東京都美術館館長を務め、同52年には太平洋美術学校校長となった。教育者の立場から美術関係の著述にも力を注ぎ『クレヨン画の描き方』『綜合美術史要』『現代特選図案集』などを刊行して制作およびその鑑賞の指導に尽力した。

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