本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





田原輝

没年月日:1982/03/06

 日展会員、東京教育大学名誉教授の洋画家田原輝は、3月6日心不全のため東京の板橋区医師会病院で死去した。享年81。本名輝夫。明治33(1900)年3月15日佐賀県佐賀郡に生まれ、大正11年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業。大正14年第7回帝展に初入選、以後、帝・文展に出品し、昭和16年新文展無鑑査となる。また、同14年第3回海洋美術展に「出漁の前」で海軍大臣賞を受賞、同17年東京高等師範学校教授(同24年東京教育大学教授)に就任。戦後は日展に依嘱出品し、同28年第9回展に「吽」で特選、朝倉賞、同30年「寂光」で特選を受け、同34年日展会員となる。その後、主に仏像をモチーフに連作を発表、とくに臼杵の石仏に取材した作品で知られる。日展出品作に「天燈鬼」(同34年)、「臼杵の佛」(同46年)、「大日山石仏」(同52年)などがある。同38年退官後、東京教育大学名誉教授となり、同46年には勲三等瑞宝章を受章する。

松山文雄

没年月日:1982/03/03

 日本美術会(日本アンデパンダン)、日本童画会、日本漫画家協会に属した漫画家まつやまふみおは、3月3日午後0時48分急性心不全のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した。享年79。1902(明治35)年5月18日長野県小県郡に生まれ、17(大正6)年大門村高等小学校を卒業後、25年東京・本郷絵画研究所に入り絵を学んだ。翌年から日本漫画家連盟に参加、29(昭和4)年には「戦旗」に徳永直『太陽のない街』の挿絵を描く。プロレタリア運動に参加し諷刺漫画を描き、1931年共産党に入党。翌年6月から35年2月まで3年間、治安維持法違反で入獄した。45(昭和20)年共産党に再入党し「赤旗」に政治漫画を描き始める。46年、日本美術会、日本童画会の創立に参加。戦前、戦後を通じて生涯、民衆を愛し、民衆の中に入っていこうとする態度を崩さず、ドーミエ、ロートレックらの伝統の上に漫画を位置づけ、芸術としての漫画、童画を目指した。主要作品に、画集『漫画でみる戦後史』(67年、新日本出版社)、『画集まつやまふみおの世界』(80年、愛真出版)、『漫画でみる現代史』(80年、新日本出版社)、絵本『まけうさぎ』(斎藤隆介作、71年、新日本出版社)、『かさこじぞう』(松谷みよ子作、73年、童心社)、自伝『赤白黒-諷刺画40余年』(69年、造形社)がある。

鈴木貫爾

没年月日:1982/02/24

 南部釜師、東京芸術大学教授の鈴木貫爾は、2月24日午後7時4分、肺炎のため盛岡市の岩手医大付属病院で死去した。享年62。1919(大正8)年10月14日、岩手県盛岡市に、南部藩お抱え釜師である「南部釜師」第13代盛久の長男として生まれる。本名鈴木信一。42年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。師は香取秀真であった。46年東京美術学校工芸科鋳金部講師となり、同年第2回日展に「壷」を出品して初入選する。翌47年香取秀真より貫爾の号を受ける。57年第13回日展に「テラスの為の装飾火蛾の踊り」を出品し、特選、北斗賞を受賞以来同展無鑑査、出品委嘱、67年には日展会員となり、審査員も2度つとめている。50年及び70-73年2度にわたり正倉院金工品の調査にあたり、著書『正倉院の金工』を76年に発刊する。73年より東京芸術大学教授をつとめ、77年には第13代盛久の死去により第14代盛久を襲名する。南部釜師の伝統を守り古典研究をする一方、現代に鋳金を生かす道を求め続ける。代表作に「塁壁華盤」(62年第5回日展)、「天山路の几」(69年第1回改組日展)、「喚鐘・雲共我無心」(75年第7回改組日展)等がある。

岩田栄吉

没年月日:1982/02/24

 サロン・ナシオナール・デ・ボザール審査員、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダン会員の洋画家岩田栄吉は、81年9月パリで肺ガン手術を受けた帰国後、療養していたが、2月24日午後5時20分川崎市立井田病院で死去した。享年53。1929(昭和4)年1月27日東京市大森町に生まれる。慶應義塾普通部に入学し中学時代から示現会会員中村新次郎に素描を学び、画家を志す。しかし、父親の意を汲み、慶應大学工学部電気工学科へ進み、51年同科を卒業する。大学在学中も画業は捨てず、寺田春弌、久保守に油絵を学ぶ。51年慶應大学を卒業した年、東京芸術大学油画科に入学、1-2年は小磯良平、3-4年は山口薫、伊藤廉に師事。55年同科を首席で卒業する。卒業制作「ナルシス」はサロン・デ・プランタン賞を受賞。57年同校専攻科伊藤廉教室を修了し、同校油画科副手となる。同年9月、芸大入学と同時に通学し始めたアテネ・フランセを修了し、フランス政府給費留学生として渡仏する。フランスではパリ国立美術学校スーヴェルビー教室に学び、59年同校を修了する。その間エコール・デ・ルーブルにも通う。渡仏後数年間は風景画を描いていたが、60年「グランマニエールの静物」を描いて以後、静物画に転ず。62年サロン・ナシオナル会員となり、63年以降はサロン・コンパレゾン、サロン・テール・ラティーヌに招待出品する。また、この頃よりフランス人画家アンリ・カディウとの親交を通じてパントル・ド・ラ・レアリテのグループに入り、トロンプ・ルイユの方向へ歩み出す。65年サロン・アンデパンダン会員となり、69年サロン・ナシオナルでドロワ賞、75年同ファルマン賞を受賞。日本においては、70年日本橋三越で個展、70、71年国際形象展、71年安井賞候補展、大橋記念展、76年大橋賞展に出品し、77年セントラル絵画館で第2回個展を開く。73年東京芸術大学油画科、創形美術学校で講師をつとめる。芸大在学中から岡鹿之助を尊敬し、渡仏後親交を結び、また、フェルメールの作風に影響されるところが大きい。代表作に「十字架の人形」(1966)、「赤いジャケットの人形」(1968)、「ローソクと地球儀」(1976)がある。

水谷淳

没年月日:1982/02/24

 大調和会創立運営委員の洋画家水谷淳は2月24日午前7時37分、胆管炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年61。茨城県行方郡に1920(大正9)年11月17日に生まれ、工学院大学卒業後、44(昭和19)年、里見勝蔵、武者小路実篤に師事する。61年には、1927(昭和2)年11月に高村光太郎、武者小路実篤らによって設立され翌年10月の第2回展を最後に解散した大調和会を再興すべく創立委員となった。再興大調和会第1回展は翌1962年2月上野公園都美術館において開かれ現在に至っている。66-67年単身ヨーロッパへ写生のため自動車旅行。69年富士短期大学美術部顧問を務めた。71年には群馬県六合村小倉にアトリエを構え制作に没頭し、画風に一転機を画した。73年渡欧、又75-76年香港で制作し、海外の展覧会にも出品している。78年には和光ギャラリーにおいて「画業35年展」が開催された。翌79年、水上勉著作になる新聞小説『椎の木の暦』の挿絵を担当、原画展は81年小田急新宿店に於て開かれた。黒の輪郭線と厚く塗り重ねた原色による明るく輝くような画面には、フォーヴィズム及びルオーを日本に紹介した師里見勝蔵の影響がうかがえる。

畑正夫

没年月日:1982/02/13

 名古屋芸術大学教授のデザイン家畑正夫は、2月13日午前4時20分、急性胆道炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。1914(大正3)年1月30日、東京都文京区に生まれ、36年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。37年8月より商工省工芸指導所(工業技術院製品科学研究所)に勤務。60年より多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造型大学の講師を歴任し、79年4月名古屋芸術大学美術学部デザイン科教授となる。また、60年10月より日本クラフトデザイン協会理事長をつとめる。電々公社によって制定された電話器のデザインなどを手がけ、65年より73年まで日本工業新聞の「今週のデザイン」「デザイン・コーナー」に執筆している。

佐藤真一

没年月日:1982/02/11

 行動美術協会会員、武蔵野美術大学教授の洋画家佐藤真一は、2月11日午後3時30分、肺ガンのため、東京都狛江市の慈恵医大付属病院で死去した。享年67。1915(大正4)年12月8日、愛知県瀬戸市に生まれ、40(昭和15)年3月、京都大学経済学部を卒業する。京大在学中、美術部に属し、須田国太郎の指導を受け、37年第24回二科展に「黒衣坐像」で初入選する。同展には40年第27回展まで出品し、後、応召。終戦後、47年第2回展より行動美術協会に参加し、翌48年、同会会友に推挙され、52年、同会会員となる。57年渡仏し、パリを中心として1年あまり滞在する。帰国後、人物を主要モチーフとし、垂直、水平に物を配置する従来の構図をさらに充実させ、人間味あふれる作品を描いて画壇における位置を確かなものとする。74年4月より死去するまで武蔵野美術大学教授として教鞭をとる。76年9月、不慮の交通事故にあい、約2年間、制作活動の中断を余儀なくされ、78年ころから後遺症に苦しみながら制作を再開する。「男たち」(54年)、「浜」(56年第11回行動展出品)など、働き、生きることを見つめ、安定した構図と堅牢なマチエールを持つ作風を示す。

高橋誠一郎

没年月日:1982/02/09

 文化勲章受章者で、昭和23年以来30年間日本芸術院長をつとめた経済学者高橋誠一郎は、2月9日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。芸術への造詣が深く、とくに浮世絵の個人コレクターとしては第一人者であり、浮世絵研究家でもあった高橋は、明治17(1884)年5月9日新潟の廻船問屋の一人息子として生まれた。横浜での少年時代から、すでに絵草紙屋で清親や芳年の錦絵を見とれていたという。同41年慶応義塾大学政治科を卒業、英国留学後、大正3年母校の理財科教授に就任、経済学部長などを経て、昭和19年名誉教授となった。戦後間もなく、慶応義塾長事務取扱いとして難局を処理したのち、同22年の第一次吉田内閣の文相に就任、戦後教育の骨格づくりに尽力した。その後、東京国立博物館長(同23-25年)、日本芸術院長(同23-54年)、文化財保護委員会委員長(同25-31年)、映倫管理委員長(同32-53年)、国立劇場会長(同41-52年)など文化・学術面の要職を歴任、また、同37年から没年まで日本浮世絵協会会長もつとめる。同37年文化功労者に選ばれ、同48年勲一等旭日大綬章を受章、同54年には文化勲章を受けた。この間、情熱を注いで収集した浮世絵は、写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」、北斎の「凱風快晴」、歌麿の「高島おひさ」など多くの逸品を含む総計六千三百余点にのぼり、これらは一括して没後慶応大学図書館へ入った。『浮世絵講話』(昭和23)、『浮世絵と経済学』『新修浮世絵二百五十年』(同35)、『浮世絵随想』(同41)などの浮世絵に関する著述があり、また、同50年から52年にかけて、『高橋誠一郎コレクション・浮世絵』(全七巻)を刊行した。

岸田勉

没年月日:1982/02/07

 石橋美術館長、元九州芸術工科大学教授、国際美術評論家連盟会員の美術史家、美術評論家の岸田勉は、2月7日心不全のため福岡県久留米市の自宅で死去した。享年66。大正4(1915)年3月5日久留米市に生まれ、昭和14年九州帝国大学法文学部法科を卒業、同16年同学部文科を卒業する。福岡師範学校教授、佐賀大学教授、九州芸術工科大学教授を歴任し、同53年から石橋美術館館長に就任する。東洋美術史研究から出発し、「李公麟論考」(同30年)、「米元章論」「五代に於ける庶民画の性格とその意義」(同32年)、「田能村竹田の人間的性格」などの論文の他、同37年には文部省在外研究員として欧米に出張し、報告書「ボストン美術館蒐集の日本絵画調査報告」をまとめた。また、はやくから美術評論も手がけ、戦後間もない同20年11月に自ら発起人となり坂本繁二郎を委員長に西部美術協会を創立、翌年春には美術雑誌「西部美術」を創刊、積極的な評論活動を展開した。郷里出身の青木繁、坂本繁二郎をはじめ、日本近代作家研究でも知られ、著書『坂本繁二郎』(昭和49年)などがある。

料治熊太

没年月日:1982/02/01

 古美術研究家、評論家の料治熊太は、2月1日脳血栓のため東京都新宿区の河井病院で死去した。享年82。明治32(1899)年7月10日岡山県都窪郡に生まれ、関西中学卒業後大正8年上京、国学院大学で折口信夫の講義を受講、翌年雑誌記者として研究社に入社し、関東大震災後は博文館の雑誌「太陽」の編集に携わる。昭和3年、博文館退社後著述活動に入り、また、この頃会津八一の門下となり古美術の研究に専念する。同4年から16年まで、版画雑誌「白と黒」、「版芸術」などを手がけ、棟方志功、前川千帆、谷中安規らと親交を深める。戦後は古美術の評論に専念、「茶わん」等の諸雑誌に執筆する。また、民俗雑器の収集家としても知られる。著書に『会津八一の墨戯』『日本の土俗面』『古陶の美』『そば猪口』などがある。

三浦巖

没年月日:1982/01/30

 日本水彩画会会員、パリ、ル・サロン無鑑査の水彩画家三浦巖は、1月30日午後6時、食道ガンのため東京都港区三田の済生会中央病院で死去した。享年65。1917(大正6)年大阪市に生まれ、弘前中学校、第三高等学校を経て、41(昭和16)年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。大学院在学中の42年より本郷絵画研究所に学び、49年第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞し、日本水彩画会会員となった。51-54(昭和26-29)年同会委員を務め、64(昭和39)年渡仏、一年間パリに滞在する。70(昭和45)年「薬師寺の塔」がル・サロンで銀賞を受け、翌71年「パリ風景」が金賞を受賞、以後無鑑査となる。主に風景をモチーフとし、日仏両国で活躍。また、63(昭和38)年以降、文筆にも親しみ、画文集『絵になる時』(63年、七曜社)『大空画室』(68年、美術出版社)『白日夢』(私家版)を著し、77(昭和52)年には『東大石版画集』を刊行、また、技法書として『水彩画法十二ケ月』(80年、渓水社)を出版している。

伊東卓治

没年月日:1982/01/25

 元東京国立文化財研究所美術部第一研究室長、元神奈川大学教授の日本書道史研究家伊東卓治は、1月25日急性肺炎のため千葉市の柏戸病院で死去した。享年80。従来、愛好者の恣意的鑑賞にまかせられ、かつ、美術史研究上閑却され勝ちな書道史研究の開拓に多大な学問的貢献をなした伊東は、明治34(1901)年11月12日静岡県浜松市に生まれ、静岡県立浜北中学、第一高等学校を経て、昭和3(1928)年京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業した。引き続き同大学大学院へ進むが、同9年中退し、同年帝室博物館研究員となり東京帝室博物館美術課に所属、同13年帝室博物館鑑査官補、同16年同鑑査官に任じられたが同年退官。同17年中華民国国立北京大学文学院副教授に就任、翌年同教授となる。戦後は同21年帝室博物館へ復帰し、翌同22年から附属美術研究所に勤務、同37年東京国立文化財研究所美術部第一研究室長となった。同38年退官後は、同40年から同50年まで神奈川大学教授として教鞭をとる。この間、永年にわたって、書道史の学術的方法による研究に力を注ぎ、漢字書道の部門において「過去現在因果経絵巻」研究で、従来閑却されていた書の面の性格を明らかにし、また、それまで書道史の材料が美術的制作の観察に傾いていた弊を是正し、紙背文書として存する仮名消息に注目し考察した。さらに、日本書道史の重要遺品の一つである墨蹟について禅僧の書の綜合的観察を試みるとともに、戦後復活された光学的方法による古美術の研究で、書道作品を担当し、技法・筆法の特殊性解明に新機軸を出した。特に、東京国立文化財研究所において京都の醍醐寺五重塔の綜合研究を行った際、創建当初の落書が発見され、これの国語史、文学史上の価値を明らかにし、同塔の文化史的意義の考察に資した功績は大きい。この研究は『醍醐寺五重塔の壁画』と題して刊行され、共同研究者の一人として昭和35年日本学士院恩賜賞を受けた。また、同47年には、勲三等瑞宝章を受章する。

前田泰次

没年月日:1982/01/16

 東京芸術大学名誉教授、文化財保護審議会専門委員、前田泰次は、1月16日午前10時45分急性心不全のため、東京都大田区の自宅で死去した。享年68。1913(大正2)年9月21日東京に、父鋳金家田中後次の次男として生まれ、母方の家を嗣いで前田姓となる。東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業し、1936(昭和11)年帝室博物館(現東京国立博物館)研究員として勤務し、1938(昭和13)年には大阪市立美術館学芸員として転じ、1944(昭和19)年には東京美術学校助教授となる。ついで同校に併設されていた工芸講習所講師を兼任する。大戦後の学制改革に伴い東京芸術大学に改制され、1949(昭和24)年同大学美術学部助教授となり、1959(昭34)年同教授となる。大学では日本金工史、東洋工芸史、工芸論を講義する。その後同大学附属図書館長、同資料館長、および同大学評議員を併任する。1981(昭和56)年定年退官し名誉教授となる。この間に美術史学会々員、美学会々員、美術評論家連盟会員として活躍し、さらに、日本工芸会の特別会員として、伝統工芸展の審査員をつとめる。文化財保護審議会第1専門調査会工芸品部会、第4専門調査会工芸技術部会の専門委員となり、重要文化財の指定、ならびに工芸技術関係の重要無形文化財の指定ならびに保持者および保持団体の認定や記録作成、また選定保存技術の選定ならびに保持者、保持団体の認定などに力をつくした。さらに通産省の伝統的工芸品産業審議会専門委員、東京都文化財保護委員となり主として工芸品関係の調査保護に関係し、また現代工芸の評論にも活躍した。 主著 日本の工芸(大八州出版 1944)、工芸概論(東京堂 1955)明治の工芸(洋々社 共著1956)、金工・日本美術大系第9巻(講談社 共著1961)、金工・日本の工芸第3巻(淡交社 共著1966)、近代の工芸・原色日本の美術第28巻(小学館 1972)校註工芸志料(平凡社 1974)大仏と大仏殿(岩波書店 1974)現代の工芸(岩波書店 1975)工芸とデザイン(芸艸堂 1978)茶釜の旅(芸艸堂 1979)。

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