本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





森英

没年月日:1976/01/23

 洋画家、二紀会理事森英は、1月23日午後10時14分肝臓ガンのため東京、関東中央病院で死去した。享年68。明治40(1907)年3月31日香川県三豊郡に生まれ、昭和7年東京美術学校西洋画科卒業。同年からニ科会に出品したが、戦後同21年ニ紀会創立に参加し、以後同会の主要なメンバーとして活躍した。この間、同31年渡欧、同36年から38年までは壁画研究のため欧州、アメリカ、メキシコに滞在、帰国後同41年にかけて油絵としては世界最大の高さ3m幅33mの壁画「ル・ソレイユ」を宇都宮市の足利銀行本店に完成したのをはじめ、同45年観音寺市民会館壁画「タクロボ、宇宙賛歌」、同49年新宿住友ビル壁画「太陽」、同年成田ビューホテル壁画「星座」、同51年成城学園講堂壁画「武蔵野早春」など、つぎつぎに巨大な壁画を完成した。このほか代表作に「星座」三部作など。

佐久間藤太郎

没年月日:1976/01/20

 益子焼の陶芸家佐久間藤太郎は、1月20日午後1時15分胃ガンのため宇都宮市荒井胃腸科病院で死去した。享年75。明治33(1900)年8月10日栃木県芳賀郡に益子焼の窯元の子として生まれた。大正7年益子町立陶磁器伝習所を卒業、同13年浜田庄司が益子へ移って以来浜田に師事し、浜田に次ぐ益子焼の代表的作家として活躍、民芸陶器としての益子焼の隆盛に貢献した。この間、昭和2年国画会工芸部に入選、戦後は、同24年国画会会員となったほか、東京高島屋をはじめ各地で個展をしばしば開催、主なものに同31年作陶三十年記念展(栃木会館)、浜田・島岡・佐久間三人展(京都大丸)、同41年浜田庄司・佐久間藤太郎二人展(土岐市)などがある。同28年栃木県民芸協会理事に就任、同34年栃木県文化功労賞を受賞、同48年には勲五等瑞宝章を受けた。

白井烟嵓

没年月日:1976/01/19

 日本画家白井烟嵓は、1月19日肺ガンのため東京・世田谷の国立大蔵病院で死去した。享年81。本名白井龍。字瀧司。明治27(1894)年2月8日愛知県豊橋市に生れ、二松学舎を卒業した。大正6(1917)年南画家松林桂月に師事し、同9(1920)年第2回帝展に「幽栖」が初入選した。以後も帝展に出品をつづけ、第6回「山靈★雨」、第10回「秋林」、第14回「残★」、第15回「雨」、改組帝展「冰松」などがあり、新文展では第3回雨意」、第5回「松籟」などがある。戦後は日展に出品し、主もな作品として第2回「雨後」、第3回「山峡」、第4回「峡壁飛泉」、第5回「雲行雨施」(特選)があり、第6回では依嘱により「雪暮」を出品した。ついで第7回「蒼然暮色」、第8回「雪峰隔谷深」(白寿賞)、第10回「山湫雨余」、があり第11回「雨岫」以後依嘱出品になる。昭和33(1958)年社団法人日展となってから以後も委嘱出品として、第1回「一鳥不飛天地寒」、第2回「雨亦奇」、第3回「煙山晩鐘」、第4回「山雨将来」、第5回「浄池霜暁」、第6回「飛雪」、第7回「名号池」、第10回「竹林幽趣」、第11回(1968)「松」などの出品がある。またこの間、昭和15(1940)年には日本橋三越に、同32年及び35年には渋谷東横に個展を開催し、同36(1961)年第1回日本南画院出品「秀弧松」は文部大臣賞となった。官展のほか、日本画会、松子社展、日本南画院、後寿会、静賞会、南画院、日月社などにも出品した。画風は写生をもとに、古雅な風趣をもつ。なお青年時代(1918)外海家と養子縁組したが、のちこれを解消(1933)した。したがって帝展出品は外海烟巖とされるが、第14回展以降白井烟巖となり、新文展第3回展より、烟嵓を用いている。又渡辺崋山事蹟関係の功績により、豊橋市文化賞を受賞し、崋山出身地田原町名誉町民となる。

高橋楽斎

没年月日:1976/01/17

 陶芸家、滋賀県指定無形文化財信楽焼技術保存者高橋楽斎は1月17日午前8時40分老衰のため甲賀郡の自宅で死去した。享年77。本名光之助。明治31(1898)年10月31日甲賀郡に信楽焼の窯元の家に生まれ、大正4年京都陶磁器研究所に学び、翌5年から信楽町で製陶業に従事、同6年楽斎を襲名し古信楽焼の再現につとめた。昭和15年近畿工芸展、日本工芸会展で夫々特賞、大臣賞を受賞、翌16年商工省から信楽焼技術保存者の認定をうけた。同34年現代日本陶芸展に入賞、翌35年日展入選、同年ブルュッセル万国博陶磁器部門でグランプリを受賞した。同39(1964)年8月滋賀県指定無形文化財信楽焼技術保持者に認定された。上田直方とともに信楽焼の代表的作家で、ろくろ、焼成技術にすぐれた。

上野照夫

没年月日:1976/01/17

 京都大学名誉教授、嵯峨美術短期大学教授上野照夫は、1月17日午後0時8分心不全のため京都大学附属病院で死去した。享年68。明治40(1907)年10月22日徳島市に生まれ、大阪市立築港小学校、同府立市岡中学校、大阪外国語専門学校仏語科をへて、昭和4年大阪高等学校文科乙類卒業。同年京都帝国大学文学部に入学、哲学科美学美術史を専攻し植田寿蔵教授に師事、同7年卒業し大学院へ進んだ。翌8年京都帝大文学部副手(12年まで)となり、同12年京都大学勤務(15年までと17年から18年まで)を嘱託さる。同26年4月京都大学教養部教授となり、同43年6月に京都大学文学部教授に配置換え、同46年3月退官した。同年4月京都大学名誉教授の称号を受け、嵯峨美術短期大学教授となり没年まで教鞭をとった。この間、同23(1948)年『仏教芸術』創刊号に「印度仏教美術の研究―アルベルト・グリュンヴェ-デルの業績」「一印度美術史徒の感想」を発表、仏教芸術学会委員として、以後同誌の編集に携わったのをはじめ、同33年11月から翌年3月まで、京大関係者で組織されたインド仏跡踏査隊に参加し、長尾雅人らとインド各地の美術調査を行ったほか、関西大学、京都市立美術大学などでも教鞭をとり、また同46年から京都国立近代美術館、京都市美術館の評議員もつとめた。インド及び日本、東洋の美術史家として、とくにインド美術史研究者の草分けとして知られ、多くの論文、著書を残したが、一方同23年10月に結成されたパンリアル美術協会の指導的立場に立つなど、現代美術に対しても理解と影響力をもった評論家としても知られる。京大を退官するにあたって関係者によって出版された『ある停年教授の人間像』(永田書房、昭和46年)に、よくその人柄が偲ばれる。没後正四位に叙せられ勲三等瑞宝章が贈られた。主要著書目録『日本肖像画』(弘文堂 昭和15年)『日本美術図譜』(共著 弘文堂 昭和19年)『西洋美術図譜』(共著 弘文堂 昭和24年)『世界美術全集22 オリエント(3) イスラム』(共著 角川書店 昭和37年)『インド-カラーガイド』(保育社 昭和38年)『インドの美術』(中央公論美術出版 昭和39年 毎日出版文化賞受賞)『世界の文化3 インド』(編集 河出書房新社 昭和40年)『インド美術』(共著 日本経済新聞社 昭和40年)『世界の美術館32 カルカッタ美術館』(編集 講談社 昭和45年)『芸術の理解・美術芸術学編』(精華社 昭和45年)『インドの細密画』(中央公論美術出版 昭和46年)『インド美術論考』(平凡社 昭和48年)

月岡勝三郎

没年月日:1976/01/06

 日本の伝統工芸である切金砂子(きりかねすなご)の数少ない技術保持者である二代月岡勝三郎は、前年末自宅仕事場で、脳いっ血のため倒れたが、1月6日入院先の神田和泉町の三井記念病院で逝去した。享年70。本名仙太郎。明治38(1905)年12月11日初代月岡勝三郎の長男として東京神田に生れ、幼時から父に「切金砂子」の技術指導を受けた。昭和3(1928)年に初代没してのちは、二代目を継承し、現在に至る。この間昭和31(1956)年10月には、日本伝統工芸展に初入選し、正会員となり、また東京芸術大学、愛知県立芸術大学、武蔵野美術大学、女子美術大学日本画科講師をつとめ、工芸技術指導所専属作家并に指導員でもあった。主要作品に明治宮殿東車寄の戸襖、壁張りの金雲形砂子、霞砂子蒔、鎌倉円覚寺白竜誕生(前田青邨監修、守屋多々志画)の砂子蒔などがある。「切金砂子」は、「金銀砂子」ともいわれ、襖や屏風、色紙、短冊、扇子などに金箔や銀箔、金銀泥を膠で定着させる技術で、古くは「平家納経」や、近代では「熱国之巻」(今村紫紅筆、重文指定)などにその秀れた技術が示される。しかし、作品に格調高い装飾的効果をもたらすものの、美術史の上では、その技術者を明示することもなく、職人芸として永く扱われてきた。近来その技術を高く評価する人たちから、無形文化財(人間国宝)に推薦されたが、氏はそれの実現を見ずして死去した。

伊原宇三郎

没年月日:1976/01/05

 日本美術家連盟名誉会員の洋画家伊原宇三郎は、1月5日午前9時5分、糖尿病、肺炎のため東京都狛江市の東京慈恵医大病院で死去した。享年81。伊原宇三郎は、明治27(1894)年10月26日、徳島市に生まれ、大正4年大阪府立今宮中学校を卒業、藤島武ニに師事して、大正10(1921)年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中の大正9年第2回帝展に「明装」が初入選、翌10年第3回帝展に「よろこびの曲」が入選した。大正14(1925)年の春に渡欧、フランスに4年半ほど滞在し、帰国後、昭和4(1929)年に第4回1930年協会展に出品、また第10回帝展に出品した「椅子によれる」、第11回展「二人」、第12回展「榻上ニ裸婦」が連続特選となった。昭和9年以降は帝展文展審査員を十数回にわたりつとめた。また昭和5年から7年まで帝国美術学校教授、昭和7年から19年まで、東京美術学校油画科の助教授として後進の指導にあたったが、一方、昭和13年には貴族院に依頼されて「憲法発布50年祝賀式典」の制作、また報道画家として昭和13年には北中国に従軍して「圧倒」、14年中部中国、15年から16年には南中国から東南アジヤの各地に従軍し「サイゴンに於ける艦上の停戦協定」、17年にはマライ、ジャワ、ビルマに従軍し、「マンダレー入城とビルマ人の協力」を制作、18年には香港で「酒井・キングの会見」、同年ビルマの「バーモ長官像」を制作した。戦後は、昭和23年から3年間多摩造形芸術専門学校教授をつとめ、翌24年日本美術家連盟の設立に尽力し、設立後は代表理事、委員長などをつとめ、日本著作権協議会委員としても美術家の権利擁護のために、また昭和26年には国立近代美術館設置準備委員としても活躍した。その後も日本ユネスコ国内委員会、28年には国際造型美術家連盟日本委員会委員長となり、29年ヴェニス・ビエンナーレ日本館建設につくし、ビエンナーレ日本代表として渡欧、約1年間ヨーロッパに滞在した。そのほか、ブリヂストン美術館運営委員、美術家会館建設委員などをもつとめた。昭和35年フランス政府よりオルドル・デザール・エ・レトル勲章をおくられている。戦後の作品には「由利子とミミ」(昭和27年)「丘」(昭和33年)などがある。

別車博資

没年月日:1976/01/02

 洋画、水彩画家、一水会会員、日本水彩画会評議員別車博資(本名繁太郎)は、1月2日心筋こうそくのため死去した。享年75。明治33(1900)年9月2日神戸市で生まれた。兵庫県立工業学校機械科卒業。大正9年から油彩、水彩画の独習をはじめ、昭和5年から日本水彩画会に出品するとともに、国枝金三、石井柏亭に師事、同7年日本水彩画会第19回展で第一賞受賞、会員に推挙され、また二科会にも出品した。同9年関西水彩画会の創立に参画、同12年一水会第1回展に出品、以後同会に所属し同25年一水会会員となった。また、同49年には、日本水彩画会評議員に推された。水彩による風景を得意とし、神戸をはじめ兵庫県下の風物を多く描いた。同41年には兵庫文化賞を受賞した。

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