本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





中川千咲

没年月日:1976/12/23

 共立女子大学家政学部教授、元東京国立文化財研究所美術部長中川千咲は、肝不全のため、12月23日午後11時30分、東京大塚の癌研究所附属病院で死去した。享年66。わが国美術史学及び文化財保護事業の先覚者中川忠順の次男として、明治43(1910)年4月3日、東京で出生、昭和9(1934)年3月早稲田大学文学部史学科を卒業し、同年4月帝国美術院附属美術研究所(現在の東京国立文化財研究所の前身)に入り、47(1972)年3月定年により退官するまで38年間在職した。この間昭和16(1941)年6月応召して21(1946)年6月まで兵役にあり、また官制改正により美術研究所が国立博物館の附属機関となった22年(1947)5月から26年(1951)1月まで、兼任で東京国立博物館陳列課に勤務したが、再び組織規程の改正によって同年2月から研究所に戻った。30(1955)年6月、東京国立文化財研究所美術部資料室長、44(1969)年4月美術部長となったが、一貫して研究資料の充実に尽瘁し、また、美術部の運営と発展に不撓の努力を続けた。 専門の工芸史の分野では研究を凝集した「日本の工芸」の著があり、特に古陶磁を中心とする意匠と文様に関して新分野の開拓につとめ、古九谷、古伊万里、仁清等の色絵から中国陶磁に及ぶ別項の如き多数の論考が見られる。開国百年記念事業会編「明治文化史美術編」に執筆した「明治の工芸」は、従来等閑視されていた時代の工芸史に体系的整理を加えた画期的な労作であったが、これを機に伝統的技法による現代陶芸に研究領域を拡げ、「板谷波山」などの作家論を著わすとともに、29(1954)年以来日本伝統工芸展の審査委員として、現代工芸の発展と技術者の育成に尽力するに至った。35(1960)年11月には東京都文化財保護審議会専門委員となって都文化財の調査指定に協力し、36(1961)年4月より43(1968)年6月まで文化財保護委員会事務局に併任、45(1970)年3月文化庁文化財保護審議会臨時専門委員、47(1972)年7月には専門委員として、無形文化財の調査指定、保護活用にあたり、49(1974)年12月からは通産省伝統的工芸品産業審議会専門委員として、伝統産業の育成繁栄に指導的役割を果した。 また23年(1948)以来順次早稲田大学、慶應大学、東京芸術大学、武蔵野美術大学、工学院大学、東京造形大学等諸大学の非常勤講師として、48年(1973)4月からは共立女子大学家政学部教授として、永年にわたり広く後進の指導育成にもつとめた。没後、勲四等旭日小綬章の追贈を受けた。主要編著書目録書名 出版社 年月古九谷(陶器全集8) 平凡社 33.7日本の工芸 吉川弘文館 38.11板谷波山伝(吉沢忠共著) 茨城県 42.4原色日本の美術19・陶芸(田中作太郎共編) 小学館 42.10板谷波山(出光美術館選書)美術出版社 44.6明治の工芸(日本の美術41) 至文堂 44.9赤絵(日本の美術71) 至文堂 47.4陶器講座11日本5江戸前期2 雄山閣 47.12仁清(陶磁大系) 平凡社 49.3九谷焼(日本の美術103) 至文堂 49.12板谷波山(近代の美術33) 至文堂 51.3現代の陶芸 1.2.5.8.9 講談社主要論文目録巻 年月古九谷色絵花鳥文大平鉢解説 美術研究 44号 10.8能作生塔 解説 美術研究 46号 10.10古九谷花鳥文中皿 解説 美術研究 49号 11.1孔雀文磬 解説 美術研究 49号 11.1長尾氏蔵五鈷鈴解 美術研究 52号 11.4色鍋鳥芙蓉菊文様大皿 美術研究 62号 12.2所謂南蛮唐草の一種について 美術研究 159号 26.2織部銹絵角皿 ミュージアム 5号 26.8九谷焼 ミュージアム 20号 27.11紫外線による古陶磁の実験 美術研究 168号 28.2中国古陶磁の文様 ミュージアム 25号 28.5高麗青磁と青磁象嵌の文様について 美術研究 175号 29.5高麗青磁と象嵌鳳凰雲鶴文小箱 解説 美術研究 175号 29.5古九谷意匠瞥見 陶説 18号 29.9光学的方法による古美術品の研究―工芸 東京国立文化財研究所 30.3古九谷意匠の一考察 美術研究 180号 30.3高麗象嵌青磁の模様(世界陶磁全集13 朝鮮) 河出書房 30.10嘉靖万暦の模様(世界陶磁全集11元明) 河出書房 30.12高麗青磁透彫筥 大和文華 19号 31.3織部焼の意匠 美術研究 185号 31.3明治の工芸(明治文化史美術篇) 開国百年紀念事業会 31.3再興九谷および九谷系(世界陶磁全集6 江戸下) 河出書房 31.5清朝陶磁の画題(世界陶磁全集12清朝) 河出書房 31.8明治期窯業と宮川香山 美術研究189号 31.11江戸時代の工芸上・下(日本文化史大系) 小学館 32.5青白磁水注 大和文華 27号 33.9古瀬戸の文様 美術研究 201号 33.11法花茄紫地牡丹孔雀文壺 大和文華 31号 34.1柿右衛門・古伊万里・鍋島の文様 陶説 74号 34.5いわゆる祥瑞丸文装飾のある古九谷について 美術研究 207号 34.11明治・大正期の陶芸(日本美術大系) 講談社 35.1仁清作色絵罌粟文茶壺 ミュージアム 111号 35.6安土桃山時代―現代の陶芸(日本美術史下) 美術出版社 35.12日本・東洋の陶芸(玉川百科大辞典) 誠文堂新光社 36.5仁清意匠の一考察 美術研究 216号 36.5伝統工芸と民芸(世界美術全集11(日本近代) 角川書店 36.9染付の文様 ミュージアム 126号 36.9工芸と意匠(世界美術全集5 日本平安2) 角川書店 37.1嘉靖襴手瓶の意匠 美術研究所 223号 37.7呉須赤絵の蓮と牡丹の模様 ミュージアム 138号 37.9青白磁童子模様瓶について 美術研究 229号 38.7いわゆる高台寺蒔絵の一硯箱と高台寺の蒔絵 美術研究 235号 39.7近世の工芸(世界美術大系日本美術近世) 講談社 39.7織部焼の意匠 日本美術工芸 320号 40.5明治後期陶磁工芸の一動向 美術研究 240号 40.5古九谷 月刊文化財 24号 40.9桃山のデザイン(世界美術全集8 日本桃山) 角川書店 40.10平安の工芸意匠 日本美術工芸 326号 40.11古伊万里色絵婦女図壺の一作品 美術研究 246号 41.5明治期の陶芸 ミュージアム 203号 43.2仁和寺蔵宝相華蒔絵宝珠箱の文様について 美術研究 256号 43.3明治末大正初期の陶芸 美術研究 261号 44.12江戸時代陶芸の流れ ミュージアム 235号 45.10明治百年の古九谷研究 (古九谷) 集英社 46.7丸文のある古九谷の二作品 美術研究 275号 46.11古九谷色絵蓮にかわせみ図解説 国華 968号 49.5「仁清」京文化を土で焼出した名匠 歴史と人物 42号 50.2

幸田春耕

没年月日:1976/12/16

 日本画家幸田春耕は、12月16日心筋こうそくのため京都市の鞍馬口病院で死去した。享年79。本名賢。明治30(1897)年1月15日徳島県名西郡に生れ、大正8(1919)年山元春挙に師事した。昭和9年京都市立絵画専門学校卒業、官展に出品、帝展第9回「軍鶏」、第10回「群鶏」、第15回「睡蓮」などがあり、昭和16年第4回新文展「水禽」、昭和22(1947)年第3回日展「蓮池」、第3回「立木」があり、新日展第1回では「向日葵」、第3回「向日葵」、第4回「睡蓮」などがある。そのほか、紀元2600年奉祝展「蓮」がある。昭和49年無所属となったが、専ら花鳥画を描きつづけた。カトリック教徒。

川上拙以

没年月日:1976/12/03

 日本画家川上拙以は、12月3日心筋こうそくのため京都の専売公社病院で死去した。享年75。本名昌薫。明治34(1901)年5月1日愛媛県新居郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。西山翠嶂に師事し、第4回帝展に「淨瑠璃寺」(二曲屏風一隻)が初入選した。ついで第5回「平和」、第6回「浅春余情」、第8回「馬郎婦」、第11回「孟母」(二幅対)、第12回「青葡萄」、第13回「池畔」などがある。昭11年文展招待展には「清風聽声」を出品し、京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。戦後は、第6回日展(1950)に「浦上の廃堂」(出品依嘱)、第9回「姉妹」(出品依嘱)、第12回「斎座」(出品依嘱)などがあり、昭和33年改組後も第1回展(1958)「緑衣の女」(出品依嘱者)、第3回「赤い作業場」などの作品がある。以上のほか所属画塾の塾展青甲社展にも出品し、戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。

駒井哲郎

没年月日:1976/11/20

 銅版画家、東京芸術大学教授駒井哲郎は、11月20日肺ガンのため東京築地の国立ガンセンターで死去した。享年56。大正9(1920)年6月14日東京都中央区に生まれた。慶応義塾普通部在学中にエッチング研究所に銅版画の技法を学び、昭和13年東京美術学校油画科に入学、在学中の同16年第4回文展に銅版画を出品入選し、翌17年卒業した。同23(1948)年日本版画協会展に銅版画を初出品して受賞、会員に推され、同25年には春陽会展に初出品受賞、翌26年同会会員になるとともに、この年国際展としては日本が戦後はじめて参加した第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」で受賞し、版画家としての地歩を築いた。同27年ルガーノ国際版画展で受賞、パリのサロン・ド・メイに出品、翌28(1953)年浜口陽三らと日本銅版画家協会を設立、同29年3月渡仏しパリ国立美術学校版画科に学び翌年12月帰国した。また同46年には東京芸術大学助教授に就任、翌47年教授となった。鋭い線をもつ独自の技法でわが国銅版画界に新境地をひらいたが、とくに詩画集にすぐれた仕事を残し、安東次男との『人それを呼んで反歌という』などがある。没後その技法を明らかにした『銅版画のマチェール』(美術出版社昭和51年)が刊行された。略年譜大正9年(1920) 6月14日東京都中央区に生まる。大正12年 9月1日関東大震災に会い五反田にあった家へ移る。昭和9年 麹町にあった室内社画廊で、メリオン、ホイッスラー、ムンクなどの銅版画を見る。同所にあったエッチング研究所(西田武雄主宰)で銅版画の技法を習う。昭和13年 慶応義塾普通部卒業。東京美術学校油画科入学。昭和16年 第4回文展に銅版画入選。この頃より麻布桜田町に住む。昭和17年 東京美術学校油画科卒業。昭和18年 東京外国語学校フランス語専修科卒業。昭和19年 平田重雄に建築設計の教えを受ける。応召。昭和20年 復員後、軽井沢の疎開先に落着き、油絵、銅版画を制作。年末から世田谷区駒沢に住む。昭和23年 日本版画協会展に戦中、戦後に製作した銅版画を初出品し受賞、恩地孝四郎らに注目され会員に推挙さる。昭和25年 春陽会展に初出品し受賞。「現代フランス創作版画展」(東京国立博物館)の批評を『みづゑ』に書く。昭和26年 第28回春陽会展に「夜の魚」「人形と小動物」他10点を出品、同会会員になる。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」受賞。第7回サロン・ド・メイ出品。『マルドロールの歌』(ロオトレアモン 青柳瑞穂訳木馬社)の銅版挿絵を制作。昭和27年 第2回ルガーノ国際版画展に出品優秀賞。第8回サロン・ド・メイ「時間の迷路」出品。春陽会「裏庭」他4点出品。実験工房に参加。昭和28年 第2回日本国際美術展、「Radio activity in my room」「エチュード」出品。第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「Poison de la unit」他5点出品。資生堂画廊で銅版画による最初の個展を開催。日本銅版画家協会設立に加わり理事になる。昭和29年 養清堂画廊で個展。3月渡仏、長谷川潔を訪ねる。5月にエドモン・ド・ロチルドコレクションの素描と版画展を見る。パリ国立美術学校のビュラン教室(ロベール・カミ教授)へ入る。昭和30年 レバークーゼン美術館での「パリの日本人画家展」、リュブリアナ国際版画ビエンナーレに出品。12月帰国。昭和31年 第2回現代日本美術展に「作品A、B」を出品。南画廊で個展、久保貞次郎を知る。昭和32年 日本国際美術展に「或る終曲」出品。小山正孝と『愛しあふ男女』(ユリイカ)刊行。昭和33年 現代日本美術展に「夜の森」「樹木」出品。ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「思い出」「束の間の幻影」「樹木」出品。南画廊で個展、安東次男を知る。昭和34年 日本国際美術展に「鳥と果実」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。第5回サンパウロ・ビェンナーレ展に「調理場」他9点出品。渡仏。昭和35年 南画廊で個展。現代日本美術展に「置かれた首」「静物」を出品。安東次男との詩画集『からんどりえ』(ユリイカ)、青柳瑞穂との『睡眠前後』(大雅洞)刊行。昭和36年 日本国際美術展に「二つの円周」、春陽展に、「青い家」出品。昭和37年 東京芸術大学美術学部、多摩美術大学の非常勤講師を委嘱される。フィレンツェ美術アカデミアの名誉会員となる。現代日本美術展に「受難」「晩餐」を出品。昭和38年 10月20日交通事故にあう。日本国際美術展に「版画」を出品。昭和39年 詩画集『距離』(永田茂樹 昭森社)、『断面』(馬場駿吉 昭森社)を刊行。昭和40年 日本国際美術展に「大洪水」出品。昭和41年 詩画集『人それを呼んで反歌という』(安東次男 ギャルリー・エスパース)、『詩集』(福永武彦 麦書房)、『鵜原抄』(中村稔 思潮社)を刊行。現代日本美術展に「食卓にて」「洪水」を出品。昭和42年 日本国際美術展に「孤独」、近代日本の版画展(東京国立近代美術館)に「束の間の幻影」「木ノ葉と飛んでいる鳥」出品。昭和43年 石川淳作『一目見て憎め』(俳優座公演)の舞台装置、衣裳を担当。『エッチング小品集』(版画友の会)を刊行。現代日本美術展に「オーフォルト1、2」を出品。昭和44年 現代日本美術展特別陳列「現代美術20年の代表作」に「森」出品。『季刊芸術』第3号から「銅版画の技法」を書き始める。『野間宏全集』第一巻に銅版画挿絵10点を制作。昭和45年 自由が丘画廊で個展。野間宏『夜のコンポジション』(青地社)、埴谷雄高『九つの夢から』(青地社)、金子光晴『よごれていない一日』(弥生書房)のため銅版画制作。昭和46年 東京芸術大学助教授となる。金子光晴の書画との銅版画展開催(小田急百貨店)。現代日本美術展に「星座A,B,C」出品。昭和47年 東京芸術大学教授となる。昭和48年 自由が丘画廊、渋谷西武百貨店で個展。詩画集『蟻のいる顔』(中央公論社)刊行。『駒井哲郎銅版画作品集』(美術出版社)刊行。昭和50年 7月渡仏、長谷川潔を訪ねる。11月パリのジュンヌ・グラビュール・コンタンポレーヌに招待出品。『恩地孝四郎画集』特製本(形象社)のために銅版画作成。自由が丘画廊で個展開催。昭和51年 11月20日死去。没後『銅版画のマチェール』(美術出版社)刊行。「アトリエC-126プリントショウ-師駒井哲郎に捧ぐ」展が銀座みゆ画廊で開催される。

森井健介

没年月日:1976/11/18

 建築学者、日本建築学会名誉会員森井健介は、11月18日午後3時2分脳軟化症のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年88。明治20(1887)年12月23日東京市小石川区で生まれ、同44年東京帝国大学工科大学建築科を卒業、同年早稲田大学理工学部講師となり、大正3年10月東京美術学校教授に就任、昭和19年6月まで教鞭をとった。昭和25年から同32年までは法政大学教授をつとめ、その後もひきつづき同大学講師のほかその他の機関で教えた。その間、大正6年からと同9年から各2ヶ年日本建築学会理事として、昭和3年から同16年までは同会管事として同会の運営に尽力、同36年日本建築学会名誉会員に推挙された。また、宮内省内匠寮臨時蟻害調査事務嘱託(大正3年10月―同9年12月)、日本工学会事務嘱託(昭和5年1月―同9年12月)もつとめた。専門の建築学のほか、幅広い活動の中には関西地方風水害対策委員会委員なども含まれる。

鈴木盛久

没年月日:1976/11/15

 南部釜師の記録選択重要無形文化財南部茶の湯釜の技術者、鈴木盛久は、11月15日午前0時25分、肝臓ガンのため岩手県盛岡市の盛岡赤十字病院で死去した。享年80。鈴木盛久は本名を繁吉(はんきち)といい、明治29(1896)年2月14日盛岡市に生まれ、15才のときから父の先代盛久に鋳造技術を学んだ。以後、盛岡にあって伝統的な南部鉄器製法の技術を研究し、大正13(1924)年、釜師として第13代盛久を継ぎ、その活躍は海外にも知られた。昭和49(1974)年には南部鉄器の伝統的技術保持者として国の重要無形文化財の技術者の指定をうけている。略年譜明治29年(1896) 2月14日、盛岡市に生まれる。大正12年 盛岡市長より模範技術士の称をうける。昭和4年 ベルギーのリエージュ万国博に出品、金賞をうける。昭和21年 日展に入選、以後毎回入選昭和27年 日展出品作「八卦文独楽釜」特選となる。第5回岩手日報文化賞をうける。昭和31年 秩父宮妃献上の茶の湯の湯釜を制作昭和32年 日ソ国交回復記念日本工芸美術展に出品、その技術をソ連から高く評価され、その作品はソ連の美術館へ収蔵される。昭和33年 岩手県紫波郡高金寺の梵鐘を制作。昭和34年 ベルギー・ブリュッセル万国博に出品、グラン・プリをうける。盛岡市制70周年記念文化芸術功労者に選ばれる。黄綬褒章をうける。昭和35年 日展委嘱となる。アメリカ・ウォーカー美術館現代デザイン展に出品。昭和36年 東京日本橋三越において第1回茶の湯釜展。昭和37年 大阪・好友クラブにおいて茶の湯釜展。昭和38年 東京日本橋三越において第2回茶の湯釜展。昭和39年 北九州市小倉区の浄土寺の梵鐘を制作。昭和40年 東京日本橋三越において第3回茶の湯釜展。昭和41年 岩手日報90周年記念行事として同社主催の茶の湯釜展を開催。この年、勲六等単光旭日章をうける。昭和44年 東京日本橋三越において第4回茶の湯釜展。昭和47年 東京日本橋三越において第5回茶の湯釜展。昭和48年 盛岡市にて喜寿記念茶の湯釜展。昭和49年 文化庁より記録選択重要無形文化財の技術者の指定をうける。昭和50年 岩手日報社主催の重要無形文化財指定記念展を開催。盛岡市本誓寺の梵鐘を制作する。昭和51年 11月15日、盛岡赤十字病院にて没。勲五等雙光旭日章をうける。

楠田撫泉

没年月日:1976/11/14

 皮革工芸(革染)作家の楠田撫泉は、肺炎のため、11月14日、京都市の平松外科病院で死去した。享年82。本名は信太郎で、明治27(1894)年2月14日、京都市に生まれた。始め日本画家の三宅呉暁に師事し、後、革染の製作を専門とするようになった。昭和2年帝展以降、帝展、文展、日展等に出品して独得の技法を生かした革染作品を発表した。日展依嘱作家。戦前のパリ万国博で金賞を受賞(外務省買上げ)した。

木村斯光

没年月日:1976/11/10

 日本画家木村斯光は、11月10日心筋こうそくのため、京都市の鞍馬口病院で死去した。享年81。本名健吉。明治28(1895)年5月9日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校卒業。大正7(1918)年菊池契月に師事した。同10年第3回帝展に「春宵」が初入選し、以後連年入選をつゞけ、第10回展に「牟礼の義経」では特選となり、翌年には無鑑査出品となった。帝展末期の頃には病がちのため出品もなく、その状態が戦後28年までつゞいた。昭和29年第10回日展に「静謐」を出品、第12回展では依嘱出品として「薄暮」を出品した。新日展にも委嘱出品し、「イヤリング」(第1回)、「序ノ舞」(第3回)、「鼓」(第6回)、「応接間の女」(第10回)などがある。昭和44(1969)年日展改組後は出品を止めたが、同48年には「京の百景」(京都府主催)のために「時代祭」を描いている。また昭和26年から29年にわたり東京三越で個展を開催、同42年には悠采会を設立し、京都高島屋で展覧会を開き、10回に及んだ。作品は専ら人物画を描き、ことに美人画を得意とした。主要作に「立華」(第6回帝展、京都市美術館蔵)、「牟礼の義経」(第10回帝展)などがある。

南部芳松

没年月日:1976/11/05

 重要無形文化財・伊勢型紙突彫技術保持者の南部芳松は、脳血栓のため、11月5日、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年82。三重県鈴鹿市出身で、明治27(1894)年9月20日生まれ、明治39年4月、小学校を卒業してすぐから実兄の南部藤吉に師事して地元の伝統産業、伊勢型紙の彫刻師として厳しい修業を積み突彫の技術を受け継ぎ、その第一人者であった。昭和30年2月にその技術の重要無形文化財保持者に指定された。自身の技術研究を行う傍ら後継者の育成にも努め、昭和14年から昭和18年までと昭和21年から昭和29年まで伊勢染型紙彫刻組合長を務めた。昭和35年11月紫綬褒章受章、昭和40年11月勲五等雙光旭日章受章、昭和46年11月三重県民功労賞受賞。

南部正太郎

没年月日:1976/11/05

 漫画家南部正太郎は、脳内出血のため11月5日兵庫県宝塚市の大室病院で死去した。享年57。大正7(1918)年11月23日大垣市に生まれ、昭和12年大阪市立都島工業学校建築科を卒業した。卒業後置塩建築事務所に勤務し、戦後漫画家となる。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、当時、大阪新聞と朝日新聞に連載した「ヤネウラ3ちゃん」は人気を得、代表作となった。作品にはそのほか「アブ山8之助」「のんびり君」などがあり、日本漫画家協会(関西支部)に所属する。生涯独身。

土井栄

没年月日:1976/10/31

 洋画家、挿絵画家土井栄は、10月31日急性心衰弱のため埼玉県入間市の原田病院で死去した。享年60。本名栄司。大正5(1916)年1月9日山形県飽海郡に生まれ、昭和9年から本郷絵画研究所で岡田三郎助、辻永、中村研一らに師事、同13年菊池寛の小説の挿絵でデビュー以来、主に新聞、雑誌小説の挿絵画家として活躍した。はじめ自由美術協会に属したが、同39年退会し、同年の主体美術協会創立に参加、会員として制作活動を続けた。この間同40年以来3回にわたり欧州・地中海方面へスケッチ旅行にでかけ、たびたび個展を開催した。主体美術展の主な出品作に「牛と馬とA」(第8回)「轍」(第11回)「コンポジション」(第12回)などがある。

長谷川仁

没年月日:1976/10/27

 日動画廊社長の長谷川仁は、10月27日午前1時45分、心不全のため東京・代々木中央鉄道病院で死去した。享年79。長谷川仁は、明治30(1897)年10月9日、牧師の家の14人兄弟姉妹の第7子として東京市牛込区に生まれ、明治43年茨城県笠間町立尋常小学校をおえ、私立聖学院中学をへて大正14(1925)年3月明治学院神学部を卒業。同年10月には長野県飯田の教会に牧師として赴任したが翌年東京へ帰り、横浜の海岸教会牧師から東京千住の食堂手伝いなどのあと、昭和3(1928)年友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し、秋に横浜貿易会館で洋画大展覧を開催、翌4年洗足幼稚園、5年多摩川園で日本洋画綜合展などを開いて基礎をつくり、昭和6(1931)年東京日本橋3丁目高能ビル1階に画廊「大雅城」を開いたが、同年9月には閉鎖、続いて11月3日に日本動産保険会社社長粟津清亮の援助で京橋区銀座5丁目の同保険会社ビル1階に「東京画廊」を開いた。翌7(1932)年1月に店名を「日動画廊」と改称、以後、同所でほとんど洋画だけ(一時期、工芸品も扱った)の画商として活動し、今日の洋画商界の先駆となった。個展としては昭和7年4月の草光信成水彩・油絵展を第1回展として、その後、鈴木千久馬展、高間惣七展、翌8年には木下義謙・雅子滞欧作品展(3月)、大沢昌助展(9月)など、9年にはブラジル経由で帰国した藤田嗣治の個展(2月)、海老原喜之助展(6月)などを開催した。特に、藤田嗣治展は大成功をおさめて注目された。その後の戦前の主な個展をあげると、毎年の藤田嗣治、海老原喜之助展などのほか、猪熊弦一郎展(10年11月)、中西利雄展(11年5月)、北川民次メキシコ展(12年11月)、野田英夫展(13年4月)、佐伯祐三遺作展(同9月)、松本竣介展(15年10月)などがあり、そのほかに個展を開いて画家としては、岡田謙三、山本鼎、三雲祥之助、児島善三郎、津田正周、熊谷守一、野間仁根、桂ユキ、林倭衛、福沢一郎などがある。また、個展開催はないが作品を扱った重要な画家としては藤島武二があった。戦後も、昭和20年9月の三岸節子展を皮きりに、各個展、画廊企画によるグループ展などをつぎつぎと開き、洋画界の発展に寄与した。昭和23年国際美術協会を組織してジュネーブ、パリで日本現代美術展を開き、28年藤島武二顕彰会を組織して本郷新作藤島武二像を東京芸術大学に寄贈、31年日本洋画商協同組合が設立されたとき理事長に就任し5期にわたってその任にあった。昭和39年銀座7丁目に新たに日動本店を開き、それを記念して太陽展を企画、第1回展を開催、同42年には若い世代の美術家のために昭和会をおこし昭和会賞を設け、以後両展とも毎年継続して開催した。昭和39年(1964)には月刊美術雑誌『絵』を創刊し、また個人画集などの美術書の刊行にもあたった。昭和40年(1965)には私財を投じて郷里の茨城県笠間市に財団法人笠間美術館を設立、多くの画家の自画像、パレットを蒐集した特色ある美術館として知られるにいたっている。東京銀座の画廊のほか、大阪、名古屋、熊本、仙台、米子などに支店を開設、昭和48(1973)年10月にはパリに進出してフォブール・サントノレ街にパリ日動を開設した。 美術界・美術市場におけるこうした功績によって、昭和42年藍綬褒賞をうけ、翌43年笠間市名誉市民となり、51年にはフランス政府よりコマンドール文化勲章をおくられた。著書に、『洋画商』(昭和39年)『へそ人生』(昭和49年、読売新聞社刊)がある。

岩野市兵衛

没年月日:1976/10/07

 越前奉書紙づくりで重要無形文化財和紙づくり保持者(人間国宝)である岩野市兵衛は、10月7日脳血せんのため福井県今立郡の自宅で死去した。享年75。明治34(1901)年9月14日福井県今立郡に生れ、大正5年高等小学校卒業後、15才で家業の越前奉書の製紙に従事し、60年近く奈良時代と同じ伝統的な製法を守った。越前奉書は、木材パルプなどを混入せず、原料はコウゾだけによる手すき和紙で、武家の公用紙に使われた格調高いものである。今でも記録用紙や版画用紙として使われる。昭和43年手すき和紙の越前奉書をすくことで人間国宝に指定された。現在この伝統的な越前奉書をすくのは岩野のところだけで、伝統的製法を深く研究し、その長所を守り、優れた越前奉書をすくことに専念していた。昭和35年(1960)には桂離宮松琴亭の襖壁紙をつくっている。昭和46年11月勲四等瑞宝章。同51年11月従五位叙位。

岡田捷五郎

没年月日:1976/10/02

 東京芸術大学名誉教授、建築家の岡田捷五郎は、10月2日午前5時30分、急性肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年81。岡田捷五郎は、号を蕉巴(しょうは)、明治27(1894)年11月24日、東京市牛込区に生まれ、大正2年早稲田中学校卒業、同4年4月東京美術学校図案科第2部(建築科)に入学、9(1910)年3月卒業、卒業制作によって日本美術協会より銅牌をうけた。大正9年3月~11月滝川工務店に勤務して建築設計に従事したが同年12月~11年11月まで赤羽工兵第一大隊に服務、除隊後は、兄岡田信一郎の建築設計事務所で設計を担当、大正13年11月から同15年1月まで建築視察のためヨーロッパ、アメリカを歴遊した。帰国後も岡田信一郎事務所において設計監理に従事し、一方、昭和2年(1927)6月から母校の東京美術学校建築科講師となり後進を指導、同18年5月には同校教授となった。また、昭和5年6月から11月には北アメリカ、カナダの各地を視察旅行し、昭和7年兄信一郎没し、そのあとをうけて建築設計事務所を自営した。昭和24年6月、東京芸術大学教授、37年3月停年のため退職、名誉教授となった。退職後は、南建設株式会社相談役、信建築事務所顧問、日本建築士会理事、及び理事長などをつとめた。昭和39年7月建設大臣より表彰状並びに銀盃、同40年11月には勲三等瑞宝章をうけ、没後、正五位に叙せられた。 設計監理に当った主なる作品に、銀座伊東屋、明治生命保険会社本社々屋、黒田清輝記念館(以上、兄信一郎設計に協力)、琵琶湖ホテル、高千穂ビル、京都田付商店、太陽生命保険会社京都支社、日本出版クラブ、旺文社本館などがある。

鈴木翠軒

没年月日:1976/09/26

 日本芸術院会員鈴木翠軒は、9月26日、心不全のため東京都港区の済生会中央病院で死去した。享年87。本名春視。号は翠軒のほか、送夢、流萍、剪燭庵など。明治22(1889)年1月5日愛知県渥美郡に長尾久治郎の五男として生まれ、大正2年鈴木た志と結婚、改姓した。明治44年愛知県第一師範学校第二部を卒業、大正5年文部省習字科検定試験に合格、同8年上京し、丹羽海鶴に師事する傍ら府立五中教諭、開成中学教員を経て、昭和5年二松学舎修業、同年泰東書道院理事となる。同7年から13年まで文部省嘱託として「国定甲種手本」を揮毫、また同8年から24年まで文部省中等教員検定試験委員をつとめ、小中学校の書道教育に大きな影響を与えた。戦後も昭和27年、高等学校検定教科書「現代書範」、28年、小学校検定教科書「新書き方」を揮毫した。23年日展審査員、25年日本書作院会長、33年日展評議員、35年日展常務理事をつとめたが、44年日展改組に伴い、日展役員を辞した。31年から青雲会を主宰し、雑誌「青雲」を刊行した。32年第12回日展出品作品「禅牀夢美人」によって芸術院賞受賞、34年芸術員会員、43年文化功労者、49年勲二等瑞宝賞を受賞した。漢字は初唐の楷書をもとに空海、橘逸勢、嵯峨天皇の三筆を研究し、かなは寸松庵色紙をもとに枯淡な中に力強い書風を生みだした。著書に「翠軒書談」、「新講書道史」、「新説和漢書道史」、「翠軒いろは」などがある。参考「書人翠軒」(伊東参州編・昭和36年 二玄社)。

石橋正二郎

没年月日:1976/09/11

 ブリヂストンタイヤ(株)の創業者、ブリヂストン美術館創立者、久留米市名誉市民の石橋正二郎は、9月11日午前1時24分パーキンソン氏病のため東京日比谷病院で死去した。享年87。明治22(1889)年2月1日福岡県久留米市に生まれ、同39年久留米商業卒業。昭和6年ブリヂストンタイヤ(株)を設立、同38年まで社長をつとめたのち会長に就任、同48年からは相談役となった。東西の美術品の蒐集家としても知られ、レンブラント、モネ、セザンヌ、ゴッホなどのヨーロッパ絵画や、青木繁、坂本繁二郎ら日本作家の著名な作品は、昭和27年に設立されたブリヂストン美術館に収められ親しまれている。また、同29年ヴェネツィアのビエンナーレ日本館、同44年に東京国立近代美術館の建設費を寄贈したほか、久留米市の石橋文化センターの寄贈、私立久留米大学の設立など、文化、教育事業に尽した功績は大きく、この間、共立女子学園理事、津田塾大学監事、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、東京国立博物館の各評議員、日伊協会会長などをつとめた。これらの活動に対し、同33年藍綬褒賞、35年仏国よりレジョン・ドヌール勲章、36年伊国よりメリスト勲章を、39年には勲二等瑞宝章を受けた。没後従三位に叙し勲一等瑞宝章を追贈された。

名井萬亀

没年月日:1976/09/01

 もと二科会会員、無所属の洋画家、名井萬亀は、9月1日午前7時50分、脳軟化症のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。名井萬亀は、明治29(1896)年2月1日、広島市に生れ、広島中学校から海城中学校に編入学、卒業後上京して本郷洋画研究所に学んだ。兵役に服務したあと家事に従事するかたわら絵画にたずさわったが、大正15年(1926)渡仏し、昭和8年(1933)まで滞在しサロン・ドートンヌ、アンデパンダン展など出品した。昭和11年東京上野で滞欧作による個展を開催、翌12年第24回二科会展に「静物」「風景」の2点を出品入選している。戦後は一時二科会に属したが直に脱退した。読売アンデパンダン展にも出品したが、その後は主として個展を開催して作品を発表していた。

小野木学

没年月日:1976/08/24

 洋画家、版画家のアート・クラブ会員、小野木学は、8月24日午前3時30分、じん臓がんのため東京・千代田区の九段坂病院で死去した。享年52。小野木学は、大正13年(1924)1月13日東京都杉並区に生まれ、戦中から病弱であったため療養生活にあって絵画を独学独習、昭和28年(1953)第17回自由美術展に初めて作品「民話」を出品入選となった。昭和32年自由美術協会会員に推挙されたが、同38年退会し、以後は主として個展で発表活動をつゞけ、また版画でも国際展に出品授賞するなどの活躍をみせた。沈んだ色彩と簡潔なフォルム、独特の幾何学的な抽象絵画で注目され、また、絵本作家としても知られ、絵本挿画の制作も多いが、文・絵ともに作者の自作による『さよならチフロ』(こぐま社刊)、なかでも『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)は昭和45年度(1970)の第19回小学館絵画賞を授賞した。内外のいくつかの美術館にも作品が収蔵され、今後の活躍が期待されていた。略年譜大正13年(1924) 1月13日、東京・杉並区に生まれる。昭和28年 10月、第17回自由美術展に「民話」入選。大村連、加藤一らとグループ金曜会を結成。昭和30年 10月、第19回自由美術展「説得」出品。昭和31年 5月、村松画廊で第1回個展を開催。5月村松画廊で第2回個展。昭和32年 10月、第21回自由美術展「木馬と少年」、佳作賞を受け、会員に推挙される。昭和33年 8月、第2回シェル美術賞展に入選、佳作賞。10月、第22回自由美術展「装馬」「かほ」昭和34年 6月、村松画廊で第3回個展。10月、第23回自由美術展「戦史」。シェル美術展出品、2等賞をうける。昭和35年 秋山画廊で第4回個展。第4回安井賞展に出品。昭和36年 渡欧。10月、第25回自由美術展「ユニコーン」。昭和37年 渡欧。10月、第26回自由美術展「普通の風景」1、2。駿河台画廊企画展に出品。昭和38年 6月、秋山画廊で第5回展個展。自由美術協会を脱会。グループ金曜会を退会。昭和39年 5月、第6回現代日本美術展コンクール部門に「普通の風景」入選。秋山画廊で第6回個展。この年、埼玉県熊谷市駅前の藤間病院に砂岩によるレリーフの壁画装飾「生成」を制作する。昭和40年 4月、椿近代画廊で早川重章との二人展。7月、秋山画廊で第7回個展。昭和41年 9月、秋山画廊タブローによらない作品展に出品。昭和42年 9月、秋山画廊で第8回個展。昭和43年 7月、秋山画廊で版画展。11月、第6回東京国際版画ビエンナーレ展に「風景―RO」「風景―Y」出品。昭和44年 6月、秋山画廊で第9回個展。この年、第8回リュブリアーナ国際版画ビエンナーレ展に出品、ユーゴスラビア買上げ賞。この年、アメリカ、シンシナティ美術館に作品収蔵される。昭和45年 アメリカ、ロックフェラー財団に作品収蔵される。自作絵本『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)により第19回小学館絵画賞をうける。昭和46年 5月、第七画廊で第10回個展。7月、ギャラリー・ムカイで版画による個展。ブリュッセル現代日本画展に出品。昭和47年 東京国立近代美術館に版画「風景(点)―A」「風景―706」「風景―S.H.I」購入収蔵される。ポンベイ現代日本版画展、ワルシャワ現代日本版画展にそれぞれ出品する。雑誌『群像』の装幀を年間担当する。11月、第七画廊で第11回個展。昭和48年 横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。11月、みゆき画廊で版画による個展。昭和49年 1月、第七画廊で第12回個展。同月、くぼた画廊で第13回個展“小野木学の軌跡”開催。11月、横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。同月、アテネ画廊版画グループ展“伍人”に出品。メキシコ現代日本版画展に出品。第6回日本芸術大賞候補にあげられる。昭和50年 1月、第七画廊で第14回個展。3月、九州サン画廊(久留米市)作品展に出品。7月、ギャラリー・ココ、スルガ台画廊のグループ展に出品。10月、大分O.B.S美術サロン作品展に出品。この年、文化庁、熊本県立美術館に作品収蔵される。昭和51年 7月、スルガ台画廊のグループに出品。ベルギー・ゲント現代日本版画展に出品。イタリア・フェラーラ現代版画展(南天子画廊企画)に出品。8月24日、東京・千代田区九段坂病院において死去。

池田幸太郎

没年月日:1976/08/16

 日本画家、日本画府理事池田幸太郎は、8月16日老衰のため東京都世田谷区で死去した。享年81。明治28年(1895)3月28日佐賀郡に生まれ、大正2年佐賀中学卒業後上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。大正10年東京美術学校日本画科卒業、在学中から同14年頃まで本郷洋画研究所に通い人体デッサンを続けた。同14年帝展に「染井釣堀の図」が初入選し、徳田秋声の推奨を受けるなど、昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、昭和8年頃から官展出品をやめ、専ら独自の制作活動を行った。この間、外房他に毎年写生に出かけ風景画を多く残したほか、昭和38年には請われて日本画府に所属、理事として同展に出品を続けた。代表作に「咏子の座像」(1921年)「朝市」(1927)「隅田川」(1933)など。

茨木杉風

没年月日:1976/08/12

 日本画家茨木杉風は、8月12日胃炎のため中野区の自宅で死去した。葬儀は新宿区信濃町の千日谷会堂で新興美術院葬をもって行われた。享年78。本名芳蔵。明治31(1898)年2月8日滋賀県近江八幡市の海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れ、八幡商業学校を卒業した。大正9(1920)年3月水墨画に新境地を展開した近藤浩一路に師事し、4月太平洋画会研究所に入学した。大正11年第9回院展に「八木節」が初入選し、昭和5(1930)年日本美術院院友となった。翌年2月渡欧し、エジプト、フランス、スペイン、イタリアなどを巡遊し、この年帰国した。昭和12(1937)年、日本美術院院友を辞して、同志10名、(茨木杉風、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、保尊良朔、吉田澄舟、内田青薫、田中案山子、森山麥笑)と、「自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する」目的をもって、あらたに公募団体新興美術院を創立した。以後、同院を主もな発表の場として制作活動をつづけた。戦時中は海軍報導班員として南方に派遣され、海軍記録画「潜水艦の出撃」を制作した。戦後は、戦争のため中絶していた新興美術院を同志8名(旧同人6名に他2名。)で再興、再興新興美術院第1回展を昭和26年6月東京都美術館に開催した。戦後も専らここを舞台に活動をつづけた。代表作に「近江八景」(6曲4双、1943)「南海驟雨」(6曲1双、1944)「しぶき」(4曲1双、1951)などがある。その作品はいづれも写生にもとづく水墨画で、郷里琵琶湖の風景を好んで描いたが、そのほかにも欧洲風物や、京洛風景など幅広く取材され、色彩をほどこした一種粘りのある筆致は、清雅な特有の作風を示した。略年譜明治31年(1898) 2月8日、近江八幡市、海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れる。大正9年 3月、近藤浩一路に師事。同年4月、太平洋画会研究所へ入学。大正11年 第9回院展「八木節」入選昭和5年 日本美術院院友となる。昭和6年 2月渡欧、エジプト、フランス、スペイン、イタリーを主に西欧美術研究、同年帰朝。昭和12年 日本美術院院友を辞して同志10名と公募団体新興美術院を創立、その会員となる。昭和13年 第1回展「漁村冬日」出品。昭和18年 第6回展「近江八景」6曲4双出品。昭和18年 6月1日、海軍報道班員として南方に派遣され、海軍省委嘱の記録画作成の写生をなし8月帰還す。昭和18年 11月末、海軍記録画「潜水艦の出撃」横6.9米、竪2.5米の大作を完成、海軍省納入。昭和19年 大東南宗院に「奥州平泉桜」(2曲1双)、「三千院の初夏」出品。海洋美術展に「南海驟雨」(6曲1双)出品。昭和20年 4月、郷里近江八幡に疎開す。11月、郷里に於て紙本小品個展開催。昭和21年 東京の画室、無事のため3月帰京す。5月、越後与板にて「与板十二景」完成。7月、三越にて同志と小品展を開催。昭和25年 10月、戦争のため中絶せる新興美術院を同志8名と再興、その創立会員となり、事務所を自宅に置く。昭和26年 6月、再興第1回新興美術展を東京都美術館にて開催、「しぶき」(4曲1双)出品。同年11月同院秋季展を銀座三越にて開催、「雪晨」出品。昭和28年 1月、朝日新聞社秀作美術展に「浅草」出品。昭和30年 12月、社団法人新興美術院の認可あり同法人理事となる。昭和45年 漱石文学全集(集英社)「我輩は猫である」(第1巻)の挿絵を描く。昭和51年 8月12日、自宅にて逝去。昭和51年 10月26日、日本橋三越本店に於て、個展を開催。

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