本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





松丸東魚

没年月日:1975/06/09

 日展評議員、篆刻家松丸東魚は、50年6月9日、くも膜下出血のため、東京都中央区の京橋病院で死去した。享年73歳、本名長三郎。明治34年9月8日、東京市に須山助次郎・とくの三男として生まれ、その母方松丸氏を継いだ。大正8年、中央商業学校(現中央学院大学)を卒業。少年時代から篆刻に親しみ、10代の終り頃、大正印会に入り、新間静邨、常盤瓮丁などの影響をうけ、東方展に第1回から参加、第12回解散まで毎回出品し、第10回展(昭和16年)では特別賞を受賞した。東方展を通じて河井筌盧に親炙し、多くの教えをうけたが、もっとも影響をうけたのは呉昌碩からである。昭和24年毎日書道展審査員、同運営委員となり没年までその任にあった。また、同年第4回日展五科委嘱となり、以後没年まで毎回出品した。同28年には皇后陛下の御印を刻した。同33年日展評議員となり、没年までその任にあった。その間、昭和14,15,16年、毎年華北、満州を歴遊した。昭和33年には第1回訪中書道代表団として中国各地を歴訪し、同40年には西独政府招待により西独各地を訪問、次いで英、仏を歴遊した。また、昭和11年には知丈印社を創立し、戦後は主幹として後輩の育成に当った。また同30年には篆刻普及のため白紅社を興し、篆刻書道関係図書を刊行した。作品集に東魚印存初集14集、東魚刻印初集がある。早くから呉昌碩作品の紹介と収集につとめ、昭和39年には日本橋白木屋で呉昌碩生誕百年記念展を主宰し、呉昌碩書画集、呉昌碩印譜初集14集を編集、刊行した。

鈴木満

没年月日:1975/06/08

 洋画家の鈴木満は、6月8日午後4時25分、原発性肝ガンのため、東京・築地の国立がんセンター病院で死去した。享年62歳。鈴木満は、大正2年(1913)3月5日、静岡県田方郡に父留吉、母もとの三男として生まれた。船原小学校(のち中狩野小学校)高等科から準教員養成所に入所。準教員養成所時代の図画教師大城鎮雄に画才を認められ、画家を志す。昭和3年、準教員養成所を卒業して上京、太平洋画会研究所に入所、同研究所は翌昭和4年太平洋美術学校となっている。昭和6年、第27回太平洋画会展に「婦人像」が初入選、翌7年28回展「果実を持てる」、8年29回展にも入選、この年太平洋美術学校本科を卒業した。また、この昭和8年第14回帝展に「首飾りの女」が入選となった。昭和9年30回太平洋画会展で奨励賞をうけ、翌10年31回展では「女」「猫と娘」を出品して中村彝賞を受賞し、太平洋画会会友に推挙された。昭和11年には32回太平洋画会展に「春」「恵美ちゃん」「寓話によるコンポジション」文部省美術監査展に「姉妹」が入選した。昭和12年、肺結核を病み、1年間療養生活をしいられる。昭和13年ころ、向井潤吉の第2アトリエを借りて制作をはじめ、昭和16年37回太平洋会展に「画室にて」を出品して受賞し、会員にあげられた。同年4回文展に「妹の肖像」、17年5回文展「青年士官」が入選となった。昭和18年39回太平洋画会展に「暮れゆく冨士」「習作」、陸軍美術展に「坑底に戦ふ」、6回文展に「武人古老」入選、後者は特選となった。昭和19年40回太平洋画会展「第一線」を出品、陸軍美術展に「学徒出陣」を出品、情報局長賞をうける。また文部省主催戦時特別美術展に「神芒」を招待出品。昭和20年敗戦のあと9月に喀血し、郷里の伊豆に帰って療養生活に入る。昭和22年10月、示現会結成に病気療養中ながら創立会員として参加した。(昭和31年に退会)。昭和23年5月、再度上京し、青木純子と結婚、町田市に居住した。静養のかたわら玉川学園出版部発行の図書の挿図などを描いた。昭和26~29年に日展に出品、第7回展「裸婦」、第8回展「路傍」、第9回展「玉葱と女」、第10回展「或る日のA先生」がそれぞれ入選となった。昭和30年には町田市中央劇場の緞帳の原画を制作したが、31年結核が再発し再び療養生活に入り、かたわら自由なデッサンなどをとりはじめる。昭和35年に約1年間入院生活をおくったが、その間の化学療法のために肝炎を併発した。昭和43年3月、2ヶ月間の予定で妻、義妹とヨーロッパ旅行に出発したが、同行者の帰国後もパリに滞在し、パリを根拠地にしてイタリア、スペインなどを旅行し、昭和44年秋に帰国した。帰国後は制作に没頭し、昭和46年3月、向井潤吉の推めで第1回個展を東京日本橋の高島屋で開催、また日動画廊第1回三月会展に「吟遊詩人と城」出品。昭和47年4月第1回八珠会展(織田広喜、中村直人、宮崎進など。日本橋高島屋)に「雪後の母子」「月の出の人々」出品。昭和48年第2回八珠会展「雪後」出品。兜屋画廊で月と母子を主題にした作品により個展開催。昭和49年3月陽炎展(佐野繁次郎、中村直人、野間仁根など。上野松坂屋)に「青い樫と少女」「雪後の母子」「雪後風景」出品。第3回八珠会展「満月と母子」「水辺の女」出品。6月日本橋高島屋で“雪明りの人々”を主題した作品で個展開催。3月から10月までサンケイ新聞の連載小説遠藤周作『彼の生き方』の挿絵を担当する。昭和50年4月上野松坂屋で中村直人との二人展開催、その直前に入院。6月8日、国立癌センターで死去した。)

水戸敬之助

没年月日:1975/06/07

 洋画家水戸敬之助は、6月7日死去した。明治36年7月9日秋田県に生れ、東京高等工芸学校卒業後太平洋画会研究所に学び、その後文部省中等教員西洋画科検定に合格し、戦前は東京中和国民学校に図画教員として勤務した。太平洋画会々員で、同会に出品のほか文展にも発表し、昭和5年には詩集「氷河」を発刊している。主要出品目録日展少年 昭和22年(1947)聖書の話 昭和29年(1954)ヴァイオリン 昭和35年(1960)オルゴール 昭和41年(1966)室内 昭和46年(1971)ピノキオなど 昭和50年(1975)示現会日蝕の頃 昭和33年(1958)人物 昭和43年(1968)公園 昭和48年(1973)あやつり人形のある室 昭和51年(1976)

大場磐雄

没年月日:1975/06/07

 文化財審議会専門委員の大場磐雄は、6月7日食道ガンで死去した。享年76歳。大正11年国学院大学史学科を卒業、昭和4年以来同大学に講じ、昭和25年教授となった。その間、内務省神社局、厚生省国立公園部等にも勤務した。「日本考古学新講」「日本文化序説」などの著書がある。

伊藤弥太

没年月日:1975/05/31

 国画会会員の洋画家、伊藤弥太は、5月31日午前0時5分、秋田県大館市で死去した。享年83歳。伊藤弥太は、明治25年(1892)4月6日秋田県大館市に生まれ、秋田県立大館中学校を卒業後、明治44年(1911)に上京した。明治45年ころ友人らと美術雑誌『美の廃墟』を発行、6号までつづいたが、その後、岸田劉生に師事し、大正3年二科第1回展に入選、大正4年(1915)、現代の美術社主催第1回美術展(草土社第1回展にあたる)に「自画像」「風景1」「風景2」を出品した。劉生筆鉛筆デッサン「若き男の頭」(“Head of ayoung man, Riusei Kishida, 16th Feburuary 1915” の記入がある)のあることが知らされている。このころ、家財道具一切を盗難にあい、それが原因となって岸田劉生とのあいだに誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。昭和2年(1927)若山牧水らにうながされて再出発を決意し、上京、国分寺村に住み、同年の第8回帝展に「秋景」入選、翌3年9回帝展「山村風景」入選、同4年には千葉県に転居、さらに同5年には秋田市に転じ、同年11回帝展に「フォートイユによりて」を入選となった。昭和6年郷里の大館市に転じ、翌7年第2回独立美術展に「少女と金魚鉢」「室内裸婦(意匠風なる)」「窓に椅る人」入選、以後、3回展「紫姿」、4回展「肖像」「裸婦」、5回展「婦人像」、6回展「ピアノ」を出品入選となった。昭和14年(1939)からは国画会展に出品し、昭和33年32回展のとき会友、同39年に会員に推挙された。昭和44年(1969)秋田県文化功労賞をうけた。また、昭和24,25年ころから水墨画を描きはじめ、昭和46年には『伊藤弥太郎水墨画集』が出版されている。国展出品作品年譜昭和14年(1939)13回展「窓辺婦人」、14回展「楽人(夕映の部屋にて)」、15回展「裸婦花模様」、16回展「秋庭」、17回展「山」、18回展「駿河の春」、19回展「鶏」、昭和21年20回展「雪の森吉山を望む」「農夫」、21回展「炉辺」、24回展「梟」「村のNさん」、25回展「壜と枯向日葵」、26回展「梟と女」、27回展「画家と梟」、28回展「作品A、C」、29回展「絵画」、30回展「作品」、31回展「作品」、32回展「昆虫」「魔鳥」、33回展「作品1、2」、34回展「作品」「わが幼き日」、35回展「舞楽」、36回展「伝説の岩」「白い座」、37回展「考える木立ち」「石」、38回展「絵画」、明治40年39回展「ある天体」「作品」、40回展「男鹿夕瀬崎」、41回展「口野漁港」、42回展「北国の街」、43回展「松と岩」、44回展「長津呂港」、45回展「北国の街その2」。

矢代幸雄

没年月日:1975/05/25

 もと文化財保護委員で文化功労者、矢代幸雄は、5月25日午前2時35分、心不全のため杏雲堂平塚病院で死去した。享年84歳であった。矢代幸雄は、明治23年(1890)11月5日、神奈川県横浜市に、父、もと讃岐高松藩士矢代宗勝、母、神戸出身の美佐の長男として生まれた。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭を職業としていた。横浜市に育ち、横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、明治41年に卒業、第一高等学校英法科に入学、明治44年(1911)6月同校を卒業した。明治44年9月東京帝国大学法科大学商業学科に入学したが、翌大正元年9月文科大学英文学科に転科した。一高時代から日本水彩画研究所に通って絵を学び、大学時代の大正2年(1913)第7回文展に水彩画「草原の赤い傘」を出品、入選となり、世論の話題となった。大学時代は実家があまり裕福ではなかったこともあって、水彩画を描いて売り学資の足しにしたり、また小島烏水のすすめでラスキン著『近世画家論』の一部を翻訳したりしたが、成績優秀で学資免除の特待生となっている。大正4年(1915)7月、卒業論文「感情主義の芸術論」(Emotional Principles of Art.)を提出して東京帝国大学文科大学を首席で卒業、下賜銀時計をうけた。大学院へすすんだが、同年9月東京美術学校講師となり、英語、西洋彫刻史、西洋美術史を担当、講義した。と同時に、西洋画科研究科の教室に出入りして黒田清輝に実枝の指導をうけたりしている。大正5年(1916)夏、インドの詩人タゴール(Rabindranath Tagore)が来日し、横浜の原富太郎(三渓)宅に滞在したとき、その通訳をつとめ、原家と親交した。大正6年3月、第一高等学校講師となり、翌7年12月東京美術学校教授、兼第一高等学校教授となった。大正10年(1921)3月、西洋美術史研究のためにヨーロッパに留学、初めイギリスに滞在、秋にイタリアへ行きフィレンツエのベレンソン教授(Bernard Berenson)に師事、ルネッサンス美術、特にサンドロ・ボッティチェリーの研究に従事した。大正12年秋、関東大震災で父宗勝死亡の報をうけたが帰国を延ばして翌年(1924)2月から秋にかけて英文の論文『Sandro Botticelli』を執筆、完成させ、大正14年(1925)2月帰国し、東京美術学校に復帰、高等官6等、3月正七位に叙せられた。『Sandso Botticelli』3巻は同年、ロンドンのMedici Society から刊行された。同書は、昭和4年(1929)、1巻本として普及版が刊行され、その際にイギリスの批評家ロージャ・フライの批判的な書評に対して反論し、論争が交わされた。 昭和2年(1927)1月、黒田清輝遺産による事業遂行のための委員会委員となり、美術研究所(現・東京国立文化財研究所美術部)の設立に参画し、同年3月ヨーロッパ、アメリカ、カナダへ出張、昭和3年5月帰国した。美術研究所設立にあたっては、作品写真資料を主とした東洋美術研究のための基礎的な施設を提案し、実行に移された。第1回滞欧から帰国後は、しだいに日本・東洋美術に対して研究範囲をひろげ、国際的視野にたった観点から日本古美術の対外的紹介にも意を用い、昭和5年(1930)10月、再度ヨーロッパへ出張し、昭和6年(1931)には、帝国美術院、日独協会、ベルリン東西美術協会、プロシア芸術院共同主催によりドイツとハンガリーでの現代日本画展を実現させた。一方、昭和6年11月、正木直彦のあとをうけて、帝国美術院附属美術研究所主事(昭和10年5月まで)となり、昭和10年(1935)6月同美術研究所所長に就任し、現代の東京国立文化財研究所の基礎づくりに尽力した。昭和7~8年、カーネギー財団とハーヴァード大学に招かれて、「日本絵巻物論」を講義し、帰国後に財団法人啓明会主催の会合で「世界における日本美術の位置」を講義した。昭和10年5月から翌11年にかけて、派遣教授としてイギリスへ行き、コートールド・インスティテュート・オブ・アート(Courtauld Institute of Art)ほかイギリスの諸地方の大学で講演した。昭和17年(1942)春の宣戦の詔勅誤読事件をきっかとして6月28日に美術研究所所長を辞任し、また、昭和19年には東京美術学校教授を退官した。昭和17年以降は、日本交通公社文化担当常任参与となり、その便もあってしばしば中国に旅行した。その間に、華北交通総裁宇佐美完爾の紹介によって近鉄社長種田虎雄を識ったことがのちの大和文華館設立のきっかけとなった。美術学校退官以後は、いっさいの公職をはなれて神奈川県に籠居していたが、昭和20年敗戦のあとの11月、奈良・京都など日本古美術文化の遺蹟が空襲による破壊からまぬがれたのはラングトン・ウォーナーなどハーヴァード・グループの働きかけによって空襲目的地から除外されたことなどを朝日新聞紙上(11月10日)に発表して話題をよんだ。昭和24年(1949)1月、法隆寺金堂壁画の焼失をへて、昭和25年8月、文化財保護法が制定され、文化財保護委員に任命された。昭和26年(1951)11月インド経由でイギリス、フランス、イタリアを歴遊してアメリカへ渡り、日本古美術展開催について交渉、翌27年帰国、同年4月、文化財保護法一部改正に伴い美術研究所改組、東京国立文化財研究所組織規定が定められ同研究所所長に就任し、翌28年10月までその職にあった。昭和31年(1956)5月、日伊文化協定による文化使節としてローマ大学、イタリア中亜極東協会の招きで渡伊し、ヴェネチア・ビエンナーレ展日本館開館式に出席、またパリでフランス、オランダ、イタリア、イギリス巡回の日本古美術展開催準備会を4ヶ国代表を集めて開催、主宰し、その計画は、昭和33年(1958)実現された。これらの功績によって同33年10月、イタリア政府より勲章(メダリア・ドォーロ・ペール・イ・ベーネメリティ・ベラ・クルトゥーラ・イタリアーナ)を授与された。こうした対外的な活動と同時に、近鉄社長種田虎雄からついで佐伯勇社長へとひきがれた大和文華館設立とそのための作品蒐集に意をそそぎ、昭和35年(1960)10月、奈良市学園前に美術館大和文華館が創設され、初代館長に就任した。昭和40年(1965)9月、フリーア・ギャラリー・オブ・アートより、日本美術及び中国美術の理解を進めるうえに貢献した生涯の仕事に対して、第3回フリーア賞(Chadles Lang Freer Medal)を授けられ、その受賞式には出席した。また、同年秋に勲二等瑞宝章を叙勲した。翌41年1月第2版『日本美術の特質』によって朝日賞を授賞し、同年2月15日、文化財保護委員会委員を辞任した。その後、昭和45年(1970)11月文化功労者に選ばれ、同年30日には大和文華館館長を辞して隠退していた。その生涯の主要な著作目録はつぎのとおりである。著作目録大正5年(1916) 「奈良彫刻思慕」『人文』1巻11号、樗牛会事務所大正10年(1921) 『西洋美術史講話 古代篇・古代篇図録』、岩波書店大正14年(1925) 『太陽を慕ふ者』、改造社 ”Sandro Bootticelli.”3 Volumes , Medici Society , London ”A Botticelli Drawing in the British Museum.゛ Vasari Society Publications, London”A newly Discoved Botticelli” Burlington Magazine , Vol . 46, London昭和2年(1927) 『西洋名彫刻 古代篇』、福永書店 『受胎告知』(初版)、警醒社 ”A New Botticelli in Detroit.” Art in America, Vol. 15, No.5, New York昭和3年(1928) 『日本の立場より見たる西洋美術』(講演集) 財団法人 啓明社昭和4年(1929) ”Sandro Botticelli.” 1 Volume, Second popular edition, Medici Society, London昭和5年(1930) “Die Japanische Malerei der Gegenwart.” (Introduction to the Catalogue of the Exhibition of Contemporary Japanese Painting Held in Berlin and Budapest, 1930-31) Wurfel Verlag, Berlin昭和6年(1931) 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『レダ』に就て」 大塚博士還暦記念論文集 『美学及芸術史研究』、岩波書店昭和7年(1932) 「美術研究所の設立と『美術研究』の発刊」『美術研究』No.1 美術研究所「模造及模写の蒐集に就て」『美術研究』No.2昭和8年(1933) 「吉備大臣入唐絵詞」『美術研究』No.21昭和9年(1934) 「世界に於ける日本美術の位置」(講演集)(初版)、財団法人啓明会「宋搴周文矩宮中図」『美術研究』No.25「天竜山浮彫飛天像其他」『美術研究』No.26「唐代彫刻三種」『美術研究』No.29「隋開皇十三年造阿弥陀銅像一具」『美術研究』No.31「大和十三年造金銅釈迦多宝二仏並坐像」『美術研究』No.33昭和10年(1935) ”Einfuhrung in die Japanische Malerei” Japanisch-Deutsches Kultur-Institut, Tokyo「法華堂根本曼陀羅」『美術研究』No.37「徽宗搴張萱搗練図」『美術研究』No.41昭和11年(1936) ”Artists of Japan Speak to the Soul Through Symbols; Their Art Through the Ages is Presented in an Extraordinary Exhibition at Boston.” The New York Times Magazine , September 6「細川候爵家蔵陶製唐立女像」『美術研究』No.54「宋搴周文矩宮中図の断片」『美術研究』No.56「ボストン美術館所蔵の銘記ある日本彫刻」『美術研究』No.57「法華堂根本曼陀羅追記」『美術研究』No.58昭和12年(1937) 「米国に於ける二大仏画」(上・下)『美術研究』Nos.61,63「馬寛百雁図巻」『美術研究』No.64「細川家蔵白玉弥勅半跏像」『美術研究』No.65「推古仏如来立像一驅」『美術研究』No.66「銅造菩薩立像一驅」『美術研究』No.68「東洋美術総目録事業に就いて」『美術研究』No.70「唐石彫不動明王像」『美術研究』No.71昭和13年(1938) 「宗達筆松島屏風」『美術研究』No.73「フリーア画廊の地蔵縁起」『美術研究』No.76「支那鎚鍱像」『美術研究』No.78「唐鎏金七仏像」『美術研究』No.81「病草子の新残欠その他」『美術研究』No.82昭和14年(1939) 「伯林東亜美術館所蔵光悦色紙帖」『美術研究』No.85「朝鮮金銅二種」『美術研究』No.90「慶長11年11月11日銘ある光悦色紙」『美術研究』No.93昭和15年(1940) 「画巻芸術論」『国華』3月号―5月号、国華社”The Passing of George Eumorfopoulos.” Bulletin of Eastern Art , May, No.5、 Tokyo “Laurence Binyon.” Bulletin of Eastern Art, July - August , Nos. 7 - 8,Tokyo”Arthur Waley. ” Bulletin of Eastern Art, September , No.9, Tokyo「宗達筆伊勢物語帖に就いて」『美術研究』No.98「宗達下絵光悦短冊貼交屏風」『美術研究』No.102昭和16年(1941) “The Present State of the Yunkang Caves.” Bulletin of Eastern Art , March, No.15, Tokyo”Dr Otto Kummel ,” Bulletin of Eastern Art ,May, No.17, Tokyo”On the ’Eight Scenic Views of Hsiao-Hsiang’ by Mu-ch’i.” Bulletin of Eastern Art, September, No.21, Tokyo「劉宋元嘉年間の金銅仏」『美術研究』No.109「山口市長谷観音堂十一面観音像」『美術研究』No.112「揵駄羅式の金銅像」『美術研究』No.117昭和17年(1942) 『東洋美術論考・欧米蒐儲の名品』(二巻)、座右宝刊行会 「宗達四季草花下絵光悦書歌巻」『美術研究』No.121「唐三彩立女俑一驅」『美術研究』No.121昭和18年(1943) 『日本美術の特質』(初版)、岩波書店昭和19年(1944) 「燉煌出土塑造半肉仏像」『美術研究』No.135「五星二十八宿神形図巻」『美術研究』No.139昭和23年(1948) 『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第二版)、 東京堂 『随筆 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(初版)、朝日新聞社昭和24年(1949) 『随筆 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(再版)、朝日新聞社昭和25年(1950) 『随筆ヴィナス』(初版)、朝日新聞社。昭和26年(1951) 「創刊の辞に代へて」『大和文華』NO.1 大和文華館「歎美抄 法隆寺天人繍・百済観音・乾山夕顔茶碗」『大和文華』No.1「歎美抄 李迪筆雪中帰牧図・四天王寺金銅菩薩像・笠置曼茶羅」『大和文華』No.2「歎美抄 一字蓮台法華経普 賢勧発品・仁清鴛鴦香合」『大和文華』No.3 「奈良日記思い出」(初めての芸術巡礼)『大和文華』No.4 『太陽を慕ふ者』(改訂版)、角川書店昭和27年(1952) 「再説宋搴周文矩宮中図」『美術研究』No.169「奈良日記思い出」(奈良への空中訪問)『大和文華』No.5 「歎美抄 万暦赤絵小壷」『大和文華』No.7「歎美抄 宗達筆伊勢物語芥川図・光琳の団扇画」『大和文華』No.8『受胎告知』(改訂版)、創元社 『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第三版)、三笠文庫、三笠書店『随筆ヴィナス』(縮 刷版・再版)、朝日新聞社”The ’Oriental’ Character in Italian Tre-and Quattrocento Paintings.” East and West, Year III ,No. 2, Roma昭和28年(1953) 「歎美抄 西域樹下人物図『大和文華』No.9 『安井・梅原・ルノアール・ゴッホ』、新潮社「随筆 宗達」(1-3)『大和文華』No.12「歎美抄 青磁雑感」『大和文華』No.12昭和29年(1954) 「歎美抄 唐三彩立女俑」『大和文華』No.13[忘れ得ぬ人 その一 大村西崖]『大和文華』No.14「歎美抄 酒盃集」『大和文華』No.15昭和30年(1955) 『近代画家群』、新潮社 「三渓先生の古美術手記」(その1-その4)『大和文華』Nos.17-20昭和31年(1956) 「三渓先生の古美術手記」(その5)『大和文華』No.21『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第四版)、新潮社 『随筆ヴィナス』新潮文庫、新潮社昭和32年(1957) 「法華堂根本曼陀羅の回想」『美術研究』 No.192「歎美抄 柳絮飛ぶ・小林古径と鍍金鏡断片」『大和文華』No.24昭和33年(1958) 『芸術のパトロン』、新潮社”2000 Years of Japanese Art.” edited by Peter C .Swann , Thames and Hudson, London”2000 Years of Japanese Art.” edited by peter C .Swann, H. N. Abrams, New York”Japanische Kunst.” von Professor Yukio Yashiro und Peter C. Swann, Aus dem Englischen ubertragen von Dr. Roger Goepper, Droemersche Verlagsanstalt, Th. Knaur Nochf., Munchen-Zurich”Deux Mille Ans d’Art Japonais.゛Teste francais de Judith Cotte, Editions du Pont-Royal , Paris”Duemila Anni di Arte Giapponese.” Traduzione di Lucia Pigni, Garzanti, Milano「歎美抄 海棠・牡丹・丁香・合歓花」『大和文華』No.25「歎美抄 元末明初青磁いろいろ」『大和文華』No.28「日本美術の再検討」『芸術新潮』1月号より12月号まで12回連載、新潮社昭和35年(1960) ”Art Treasures of Japan .” As Editor in Chief, 2 Volumes and a supplement, Kokusai Bunka Shinko-Kai, Tokyo「随筆 光琳」(その1-その2)『大和文華』Nos.33,36昭和36年(1961) 『ルネッサンスのイタリア画家』(ベレンソン原著 日本語版監修)新潮社 『日本美術の恩人たち』、文芸春秋社昭和37年(1962) 「歎美抄 金村出土の宝器と鷹を持つ胡人」『大和文華』No.37 「美術館としての実験」『IDE』10月号、民主教育協会 「児島喜久雄の思出」『図書』10月号、11月号、岩波書店昭和38年(1963) 「鉄斎所感」『大和文華』No.40昭和39年(1964) 『随筆ヴィナス』(第三版)、朝日新聞社昭和40年(1965) 『日本美術の特質』(第二版)、岩波書店 「うるし随筆」『世界』7月号、岩波書店昭和41年(1966) 「日本美術の紹介者チャールズ・L・フリーア」『世界』3月号、岩波書店「東洋の美、西洋の美」(脇村義太郎との対談)『図書』3月号・4月号、岩波書店「フリーア氏と日本の実業家・美術蒐集家」(Mr.Freerand the Japanese Businessmen-Collectors) フリーア・メダル受賞記念講演(日英対訳)『日本フォーラム』4月号、永晃社「美のための美術館の構想」『世界』5月号、岩波書店昭和42年(1967) 「ヨーロッパの日本美術」(Basil Grayとの対談)『朝日ジャーナル』、朝日新聞社昭和44年(1969) 『水墨画』岩波新書、岩波書店昭和45年(1970) 『歎美抄』、鹿島研究所出版会昭和47年(1972) 『私の美術遍歴』、岩波書店昭和48年(1973) 『受胎告知』、新潮社昭和49年(1974) 『随筆ヴィナス』朝日選書、朝日新聞社昭和51年(1976) 『サンドロ・ボッティチェルリ』岩波書店、(刊行予定)(この著作目録は、日伊協会『日伊文化研究』14号より転載させていただきました。)

今泉今右衛門

没年月日:1975/05/02

 陶芸家、重要無形文化財、色鍋島技術保存会長の今泉今右衛門は、5月2日午前8時40分、入院先の佐世保市の同仁会病院で急性じん不全のため死去した。享年77歳。明治30年9月25日佐賀県の十一代今右衛門の長男として生まれた。県立有田工業学校卒業。江戸時代からの伝統を誇る有田焼「色鍋島」の上絵付け技法を伝承し、昭和23年、約300年続く今泉今右衛門の十二代目を襲名した。同27年にはその伝承技法に対し文化財保護委員会より重要無形文化財の指定を受けた。同29年、第1回日本伝統工芸展に招待出品し、翌年の第2回同展では、それを主催する日本工芸会の正会員に推せんされた。同32年の第3回同展出品作「更紗文八角皿」が政府より印度ネール首相に贈呈された。翌33年には「更紗文八角大皿」が宮内庁買上げとなった。また同年に一水会陶芸部が新設され審査委員に推挙された。この年はブラッセル万国博覧会でも金賞を受賞した。同42年に紫綬褒章、46年に彼が会長の色鍋島技術保存会に対し重要無形文化財の総合指定を受けた。翌47年勲四等旭日章をうける。48年には技術を記録するため、文化庁より映画「色鍋島」が制作された。50年5月2日死去、内閣より従五位をうけ、有田町名誉町民の称号を受けた。

根来實三

没年月日:1975/04/30

 重要文化財・茶の湯釜(肌づくり)技術保持者で日本工芸会正会員の鋳金家根来實三は、老衰のため、4月30日、横浜市の自宅で死去した。享年86歳。明治21年11月20日和歌山県生まれ、明治38年大阪郵便局通信生養成所を卒業。茶の湯釜の美しさにひかれ当時裏千家の御用釜師であった佐々木彦兵衛の門に入り修行し、後に裏千家の御用釜師となった。大正14年8月末に上京し、同年9月始めから当時帝室技芸員で東京美術学校教授の香取秀真に師事する。文展無鑑査となる。戦後、昭和21年の第2回展で「四方釜」が特選となる。昭和27年の第8回日展では出品依嘱、その時の作品は「濤々釜」。茶釜づくりの名工として昭和48年3月27日重要無形文化財に指定され、同年勲四等瑞宝章を受章した。自らを「未熟者だから」と弟子はとらなかった。

井上治男

没年月日:1975/04/18

 日展評議員・日本現代工芸美術協会理事・陶芸作家の井上治男は、心筋梗塞のため、4月18日、京都市の自宅で死去した。享年65歳。明治42年12月1日京都市生まれ。京都市立陶磁器講習所終了。5,6代清水六兵衛に師事。磁器に秀で、昭和7年第13回帝展に初入選、以後連続入選。戦後昭和27年の第8回日展で「白磁花瓶」が北斗賞、昭和29年の第10回日展で「白磁花瓶」が特選、第4回現代日本陶芸展で「青白磁花器」が朝日新聞社賞を受賞した。昭和32年の第13回日展からは出品依嘱となる。その後関西綜合美術展、京都府・京都市美術展の審査員をつとめ、昭和34年第2回展昭和39年の第7回日展の審査員、第3回現代工芸美術展の審査員もつとめた。第1回個展を昭和39年に日本橋・三越で、第2回個展を昭和40年に同じく日本橋・三越で行った。代表的な主要作品は前記第10回日展で特選となった「白磁花瓶」及び第4回現代日本陶芸展で朝日新聞社賞受賞の「青白磁花器」である。

坂倉新兵衛

没年月日:1975/04/17

 日本工芸会正会員で陶芸作家の萩焼14代、山口県指定無形文化財萩焼保持者の坂倉新兵衛(本名治平)は、胃癌のため、4月17日、山口県長門市の長門病院で死去した。享年58歳。大正6年2月28日、山口県長門市に於いて、萩焼12代坂倉12代坂倉新兵衛の三男として生まれた。昭和9年山口県立萩商業学校を卒業。昭和21年長兄光太郎戦死のため、家業に従事する。昭和25年12代新兵衛死去によって14代新兵衛を襲名する。昭和36年の「第8回日本伝統工芸展」に入選し、以後10回入選、昭和41年に日本工芸会正会員となった。昭和36年より大阪の高島屋で、昭和37年より東京の高島屋で、双方で毎年個展を開催した。昭和39年には東京国立近代美術館主催の「現代国際陶芸展」に招待出品、昭和42年には山口県芸術文化振興奨励賞を受賞、昭和43年には山口県美術展の審査員、昭和44年の毎日新聞社主催の「日本陶芸展」に招待出品、以後連続して同展に招待出品、昭和46年に中国新聞社の中国文化賞を受賞、昭和47年に山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定された。昭和49年には芸術文化功労者として山口県知事選奨を受賞した。主要作品には、東京国立近代美術館蔵(昭和50年買上)の「萩八角菊文様食籠」、文化庁蔵(第16回日本伝統工芸展出品作、昭和44年買上)の「茶碗」、山口県立美術館蔵の「平水指」、迎賓館展示室へ山口県献納品として献納された(昭和49年)「茶入」、滋賀県立琵琶湖文化館蔵(昭和46年買上)の「茶碗」、紀州博物館蔵(昭和45年買上)の「茶碗」「水指」「茶入」等があり、萩焼技法の古式を継承する第一人者で、端正な気品と温かみの溢れるような柔らかな美しさが「新兵衛茶陶」といわれ愛好されている。

須山計一

没年月日:1975/04/17

 一水会会員、日本美術会員の洋画家、また漫画家、漫画研究家の須山計一は、4月17日午後11時58分、脳出血のため東京世田谷奥沢の大脇病院で死去した。享年69歳。須山は、明治38年(1905)7月17日、長野県下伊那郡に生まれ、昭和5年(1930)東京美術学校西洋画科を卒業。在学中は藤島武二教室に属し、一方、松山文雄にさそわれて麻生豊、柳瀬正夢らの日本漫画連盟に参加、昭和2年(1927)、柳瀬、松山の紹介でプロレタリア文芸連盟美術部に加盟し、学内では研究会五月会にはいって活躍した。その間に発表した作品には宇野計の名で出品した昭和3年(1928)第1回プロレタリア美術展「トーマを排撃せよ」、翌4年第2回プロ美術展「戦争」「宗教」「社会民主主義者A、B、C」、5年第3回展には無産者新聞連載の漫画「アジ太プロ吉世界漫遊記」、6年第4回展「アムステルダムの手先共」、7年第5回展「祖国」「村」などがある。美術学校卒業制作は「労働者」(のち、昭和38年“昭和初期洋画展”神奈川県立近代美術館、昭和46年4月“近代日本美術における1930年”展に出品された)であった。昭和8年ヤップ(日本プロレタリア美術家同盟)書記長、コップ(日本プロレタリア文化連盟)書記局員などをつとめ、同年12月検挙され、治安維持法違反で起訴、約1年間の未決生活をおくり、懲役3年執行猶予5年の判決をうけた。昭和16年(1941)第5回一水会展に「宿駅」入選、その後毎年出品し、昭和21年一水会会員となった。また、昭和12年には満州・朝鮮旅行、また、昭和17年には石井柏亭が主宰した双台社の同人となっている。戦後は、一水会展に出品すると同時に、昭和22年日本美術会会員となり同会主催日本アンデパンダン展に毎回出品、昭和34年には同志と草炎会を結成した。昭和36年にモスクア、レニングラードで開催された現代日本美術展に「伊那の山村」「出漁の朝」を出品、同40年には招待されて新中国を旅行した。一水会展への出品は一時中断したが、昭和46年以後再出品している。漫画評論、漫画史研究にもたづさわり、『現代世界漫画集』(昭和11年)、『ドーミエ、政治風俗漫画』(昭和28年、青木書店)、『漫画の歴史』(昭和30年、美術出版社)、『日本漫画100年』(昭和31年、鱒書房)、『日本の戯画』(昭和35年、社会思想社)、『漫画博物誌・世界、日本』2冊(昭和47年、番町書房)などの著書がある。一水会展出品作品略年譜昭和16年(1941)5回展「宿駅」、17年6回展「山の道」、18年7回展「仕上げの女達」「伊那谷の初夏」、22年9回展「志賀の渓流」「山池」、23年10回展「街」、24年11回展「ミシンをかける妻」、25年12回展「焼跡工場から」、26年13回展「姨捨駅」、27年14回展「絵をかく子供」「伊那谷の生家」、28年15回展「六郷橋畔」「造船所付近」、29年16回展「瓦斯橋の辺り」「南信駒場の宿」、30年17回展「南信の夏」「伊那の山村」、31年18回展「峠の部落」「大平街道」、32年19回展「馬籠への道」、33年20回展「荷揚げ場」、46年33回展「竜門石窟」、47年34回展「奥信濃の火祭」、48年35回展「天竜渓谷の村」、49年36回展「白樺林とつつじ」。

野村光司

没年月日:1975/04/16

 洋画家野村光司は、4月16日死去した。享年81歳。明治29年9月23日福島県に生れ、第一高等学校を経て大正11年(1922)東大農学部を卒業した。大正13年(1924)にブラジルに渡り、同国官吏として農事試験場に勤務し、後拓務省官吏として総領事館に勤務した。ブラジルに約9年、北アメリカに約1年滞在した。帰国後一水会の中村琢二に師事し、一水会、日展等に出品、昭和22年(1947)一水会々員、同35年(1960)委員となり、同46年(1970)日展審査員、翌年会員となった。この間、昭和28年(1953)第9回日展「店頭」では特選及び朝倉賞を得、同37年(1962)第5回日展「ある洋品店」では特選となった。そのほか、主要作品としては、「ヨットハーバー」(第32回一水会)、「晩秋の伯耆大山」(第30回一水会)、「白鳥のある店」(第31回一水会)、「那須高原の秋」(第34回一水会)、などがある。

山内壮夫

没年月日:1975/04/11

 彫刻家、新制作協会会員の山内壯夫は、4月11日午前5時7分、胆のう炎のため東京都大田区の荏原病院で死去した。享年67歳。山内は明治40年8月12日札幌市に生まれた。大正14年札幌第二中学校を卒業、上京して東京高等工芸学校彫刻科に入学、昭和4年3月同校を卒業した。続いて同校研究科に進み、昭和5年その課程を修了した。卒業の年、第4回国画会展に「女の首」が初入選、以来同郷出身で同じ東京高等工芸の一年先輩にあたる本郷新らと共にこの彫刻部の若い行動力の中心となり、第7回展(昭和7年)には「男の坐像」で国画奨学賞を受けた。翌年第8回展では会友に推され、昭和12年度には、同会従来の会員・会友制が同人制に改められ、本郷新や明田川孝、柳原義達らと共に新同人に推薦された。昭和14年の第14回展終了後の7月、国画会彫刻部同人全員と共に脱会して新制作派協会彫刻部設立に際し創立会員となった。以後、新制作協会運営委員長を度々つとめるなど会の運営に重要な役割を果たした。戦後の晩年には、中原悌二郎賞選考委員、建築美術工業会評議員などをつとめた。殊に戦後も早い時期から<建築と彫刻との協働>についての幾多のすぐれた実績があげられる。昭和24年北海道夕張市の労働会館に具象的なテラコッタ作品を設置したのを皮切りに、平和の母子像(長崎国際文化会館中庭)、産業祈念像(宇部市)、意志と思索(栃木文化会館ピロティー)、家族(アルミニウム・1958年新潟市庁舎)、本庄陸男文学碑(当別市)、新潟港震災復興記念碑(新潟市)、ソンミの慟哭(作者蔵)、子を守る母たち(箱根彫刻の森美術館)など主要な作品がある。

中川雄太郎

没年月日:1975/04/10

 版画家中川雄太郎は、4月10日死去した。享年65歳。明治43年静岡市に生れ、県立庵原中学校を卒業した。昭和8年第8回國画会展、同年第3回日本版画協会展より出品し、昭和13年日本版画協会々員となった。昭和18年より同20年迄静岡県清水女子商業学校、並に静岡城内高等女学校図画教員をつとめた。昭和19年より同21年迄静岡県庵原郡西奈村助役に就任し、同22年農地調整法に依り不耕地主より文具小売商に転じた。日本版画協会々員、國画会版画部会員、静岡県版画協会々員、静岡市美術展審査員で、そのほかきつつき会、童土社(静岡)、七凡社(静岡)等にも関係をもつ。なお、戦前には版画誌「ゆうかり」を編集し、著書に「版画手帖」(昭和24年)がある。

矢野鐵山

没年月日:1975/03/31

 日本画家矢野鉄山は、3月31日急性心機能不全のため大阪府茨木市の病院で死去した。享年81歳。本名民雄。明治27年2月5日愛媛県県今治市に生れ、18歳の年上京し小室翠雲に師事した。24歳で大阪に移住し、大阪美術学校に入学、またこの年第2回帝展に「春靄・松壑」(対幅)が初入選している。翌大正10年日本南画院に「穣媚・霜晨」を出品、1等となり同人に推され、以後16年間同人として出品した。昭和12年乾坤社を興して展覧会を開催、5回展を迎えたが戦争のため中止するに至る。帝展はその後、昭和4年第10回「孤琴涓潔」、同8年第14回展に「荒凉」が特選となり、昭和18年第6回文展では審査員となった。また戦後昭和43年全日本水墨画協会を設立、同46年新しい水墨画の発展に尽くした功績によって、紫綬褒章を受章した。その他、日展会員でもあり、審査員もつとめた。作品は東洋独自の水墨画を現代に発展させたもので、作品は上記のほか「晴れ行く驟雨」「長江万里」「韓非子」「蘇秦張儀」などがある。

高島常雄

没年月日:1975/03/30

 洋画家高島常雄は、3月30日急性心不全のため死去した。享年53歳。大正11年(1922)1月10日高知市に生れ、昭和19年(1944)東京高等師範学校芸術科を卒業した。卒業後直ちに海軍予備学生として軍務に服し、昭和29年(1945)復員、同23年(1948)上京し、翌年創元会に初入選した。以来出品を重ね、昭和27年(1952)「母子像」で創元会賞を得、翌年「群像」で創元会準会員賞となり、この年会員に推挙され、同29年(1954)には運営委員となり、以後会の運営に当った。また、日展にも出品し、昭和26年(1951)「磯」が初入選以来、毎年日展に出品し、昭和30年(1955)「水禽舎」で特選となった。そのほか、昭和33年(1958)以後、同36(1961)、38(1963)、45(1970)年には安井賞展への出品がみられ、46年(1971)「時計」は、彫刻の森美術館買上げとなった。この間、屡々渡欧し、昭和40(1965)年には南欧、同47年(1972)には主としてスペイン南フランスに、翌48年(1973)には主として北欧に旅している。また昭和39年(1964)以後7人会に参加し、個展も開催し、昭和43年(1968)にはサンフランシスコで個展を開いている。昭和50年(1975)創元展出品の「精華」が絶筆となった。

前川博人

没年月日:1975/03/29

 洋画家前川博人は、3月29日心筋梗塞のため死去した。享年52歳。大正12年広島県福山市に生れ、独学で絵を学んだ。戦後、第6回日展に「青い顔の女」を出品、翌年第15回自由美術展に「昇天」をはじめて出品、翌第16回には「はばたき」「冬」「人々」を出品し、自由美術家協会々員となった。昭和30年代には写真も手がけ、「世界主観主義写真展」(西独)、「抽象の感覚展」(ニューヨーク近代美術館)等の出品がある。昭和36年(1961)第15回自由美術展に「宇宙の顔」を出品したが、同39年には自由美術家協会を退会し、主体美術協会に参加し、同協会々員となった。昭和41年(1966)第2回主体展に「脱却」を出品、49年(1974)第10回主体展に「赤い雲」を出品した。主体美術展の主もな出品はつぎの通りである。「飛ぶもの」1回(1965)「木」3回(1967)、「立っている木」5回(1969)、「樹と山」7回(1971)、「無題」(1973)等。

阪本勝

没年月日:1975/03/22

 兵庫県立美術館館長の阪本勝は、3月22日午後4時3分、食道ガンのため芦屋市の自宅で死去した。享年75歳。阪本勝は、明治32年(1899)10月15日、尼崎市に生まれ、明治45年(1912)大阪府立北野中学校(現・北野高等学校)に入学、のちに洋画家となった佐伯祐三と同級生であった。大正9年3月第二高等学校を卒業、東京帝国大学経済学部にすすみ、大正12年(1923)3月卒業。東大時代には新人会に加入した。大正12年4月~同13年3月まで福島県立福島中学校で英語教師をつとめ、大正13年4月大阪毎日新聞社に入社、学芸部記者となった。大正15年3月新聞社を退職し、昭和2年4月から8月には関西学院大学講師、そのころ麻生久、河上丈太郎らの日本労働党に参加し兵庫県議会議員に立候補した。また、処女作の戯曲『洛陽餓ゆ』(福永書店、昭和2年)を発表し、昭和3年から2年間、ヨーロッパに留学した。帰国後、戯曲『資本論』(日本評論社、昭和6年)を発表、また兵庫県議会議員から、昭和17年4月には衆議院議員となっている。その後尼崎市長(昭和26~29年)、兵庫県知事(昭和29~37年)を経て、昭和45年6月、兵庫県立近代美術館創立と同時に館長に就任した。戯曲、詩歌、書、絵画と多彩な活動をみせたが、美術関係の著作活動では、訳書『裸体芸術社会史』(ハウゼンシュタイン原著)、友人佐伯祐三の評伝『佐伯祐三』(日動出版、昭和45年)がある。

小堀進

没年月日:1975/03/16

 水彩画家、日本芸術院会員の小堀進は、3月16日午後零時2分、ガン性胸膜炎のため東京都北区の大蔵省印刷局東京病院で死去した。享年71歳。明治37年1月22日茨城県に生れた。大正11年3月千葉県立佐原中学校を卒業。翌年上京して葵橋洋画研究所に入り晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。中学時代から土地柄の水郷風景などを水彩で描いていたが、昭和7年の第9回白日会展「うすれ日」、第19回日本水彩画会展「画室の一隅」「盛夏の海」などの公募団体展への初入選は共に水彩画で始まっている。以後、終始一貫して水彩画家として大成したことは周知の通りである。昭和9年1月の第11回白日会展では受賞して会友に推せんされ、同年2月の第21回日本水彩展ではキング賞を受けて会員に推挙された。同じく昭和11年第13回白日会展では新会員となった。一方同時期には二科展にも作品を発表し、昭和8年第20回展に「高原」が初入選以来昭和14年第26回展「遊覧船」まで毎年出品した。その間の出品作の画題は、「蒼原」(21回展)、「斜陽」(22回展)、「山麓」(23回展)、「海」(24回展)、「陶業の町」(25回展)である。 昭和15年5月には、洋画界の中に占める水彩画の位置の極めて不安なこと、しかも日本水彩画会のような保守的な行き方に慊らず、故に水彩画の向上発展を期して、荒谷直之介、春日部たすくら同志8名とともに水彩連盟を結成、同年12月、第1回展を東京・銀座三越で開催した。以後第5回展まで東京・大阪の三越で開催。戦後22年2月の第6回展からは一般公募展となし東京者美術館で開催、現在に及んでいるが、彼はその水彩画新開拓運動に挺身してきた中軸的存在であった。戦中の第5回文展(昭和17年)に「初秋水郷」、第6回文展に「水が咲く」が入選した。同19年より郷里へ疎開したが、同22年に再上京、第3回日展に「驟雨」が入選した。日本芸術院・日展運営会の共同主催となった昭和24年第5回日展に無鑑査で「湖畔」を出品、以来死去前年(同49年)の改組第6回日展「晨」にいたるまで1回も休むことなく連続出品、精力的な発表を重ねた。その間、第7回展(26年)・第11回展(30年)・第2回新日展(34年)・第5回展(37年)・第8回展(40年)・第11回展(43年)に審査員を歴任した。同32年には、日展が社団法人と改組されその評議員となり、更に同44年再改組日展理事に就任した。この改組日展第1回展の出品作品「初秋」によって、昭和44年度(第26回)の日本芸術院賞を受賞した。その授賞理由として、「氏は、その表現技法の洗練とともに、内面描写の領域にまで深厚な観照を加え、昭和水彩の一典型ともいうべき新技法の画風を確立して、広く後進に影響を与えてきた。この作品は、その集大成ともいえる独得の賦彩処理と水郷風景の把握にその充実した力量を示した優作であると認める」と発表されたが、殊に戦後の四半世紀をこの画家が、すぐれた現代感覚と創意・工夫を重ねて樹立した独自な作風の特色を正に語り得て妙というべきであろう。昭和49年11月、水彩画家として初めて日本芸術院会員に選ばれたが、その後数ヶ月を経ずして病魔に倒れたことは誠に惜しまれる。他に、同36年に結成された日展水彩作家協会の顧問や、同45年来名古屋芸術大学教授をつとめていた。

西岡楢光

没年月日:1975/03/12

 法隆寺大工棟梁西岡楢光は、3月12日老衰のため、奈良県生駒郡の自宅で死去した。享年90歳。昭和9年から20年間かかりで行われた五重塔、金堂など法隆寺の「昭和の大修理」の大工棟梁を務めるなど宮大工一筋に生きた。昭和30年紫綬褒章、同40年には勲四等瑞宝章を受章、昭和49年3月、後継者の長男常一、二男楢二郎とともに「宮大工一家」として吉川英治賞を受賞した。

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