本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





佐藤信弘

没年月日:1973/12/18

 色彩研究家の佐藤信弘は12月18日脳出血で急逝した。号亘宏。大正2年12月10日東京に生れ、群馬県中之条高等小学校高等科2年を卒業した。昭和15年和田三造会長の日本標準色協会配色部主任となり、同16年5月日本色彩研究所(会長和田三造)配色部主任となった。同18年陸軍技術本部第十一研究所嘱託となる。戦後は、21年3月東京配色研究所を創立し、その所長となった。23年現代美術協会会員となり、35年10月には現代美術家協会代表者となる。なお、これより先の30年には武蔵野美術学校に色彩学を講じ、さらに教授となった。また同大学短大通信部色彩学講師となった。38年より43年に至り、建設省建設大学講師をする。主要作品―「D日」「黒い柱」「紫の沸」(現代美術協会展)ピンクシリーズ。雑草シリーズ。ハートの一連の作品。反体制的テーマ(公害他)。

村田徳次郎

没年月日:1973/12/17

 旧日本美術院彫塑部同人・粲々会会員の村田徳次郎は、12月17日午前8時、膵臓癌のため、東京都板橋区の日大病院で死去した。享年74歳。明治32年10月15日大阪市南区心斎橋筋の半エリ専門店「ゑ里徳」の長男として生れた。父村田徳松、母ハマ。はじめ家業をつぐため私立大倉商業学校に入学したが、大正3年3月、同校2年修了で中退、4月京都市立美術工芸学校、本科4年制の準備過程予科2年に編入され、翌年4月同校本科(図案科)へ進学、大正8年4月同校を卒業した。本科2年生になってから卒業まで特待生に選ばれたという。卒業の年、徴兵適齢に達し、同年12月一年志願兵として輜重第四大隊へ入営し、翌9年12月現役満期除隊した。同年末の12月30日父徳松が死去したので2年あまり家業に従事した。大正13年4月より家業を義兄にゆずり日本美術院に所属、専ら彫刻研究をはじめた。大正15年第13会院展に「小児像」が初入選してより毎回入選した。昭和2年東京府北豊島郡にアトリエを新築して住居を移し、12月5日から日本美術院研究会員となった。昭和5年5月には日本美術院院友に推挙された。同7年、第19回院展出品の「女座像」他2点で日本美術院賞を受け、同13年第25回院展に「肘つける少女」「女立像」「男半伽像」を出品、同人に推挙された。以後第二次大戦中をはさみ昭和36年2月、日本美術院彫塑部解散にいたるまで、その中堅作家として、とりわけ石井鶴三に尊敬私淑し、また同門の喜多武四郎、松原松造らと共に研鑽、終始きびしい製作態度をもって、対象の外形よりも内面性追究に重きをおいた作品を発表し続けた。戦後は、昭和23年2月末東京美術学校講師に任ぜられ、昭和40年3月31日、定年で東京芸大美術学部基礎実技≪工芸科・建築科≫塑造担当(昭和34年4月以来)を退官するまで後進の指導に尽力した。昭和34年5月には、同士相寄り粲々会(第1回展を日本橋三越で開催)を結成し、昭和47年10月の第12回展開催の晩年にいたるまで中心的存在として活躍した。殊に、かねて会員の分担によって読売ランドに仏教祖師像(村田は「親鸞聖人像」を担当)を建立するため製作中だったのが、いよいよ完成の運びとなり、昭和40年10月の第5回展(読売新聞社主催・新宿京王百貨店)をその成果披露の場となした。また昭和47年10月の第12回展「巨人軍を彫る」(読売新聞社主催・東京読売巨人軍後援)を渋谷東急百貨店で開催、「オーナー正力氏像」「長島選手」「渡辺投手」を出品して、いわば「彫刻と一般大衆との結びつき」を計るなど、会員相互の研究と共に一種の彫刻普及運動を積極的に行った。没後、昭和49年5月の第13回白呂会展(旧称粲々会・銀座ゆうきや画廊)には、「腰かけた女(絶作)」「足を組む」など6点が遺作として出品された。なお故人の全貌は、東京芸大講師時代の教え子たちが中心となった作品集編纂会による『村田徳次郎作品集』昭和50年7月15日発行に詳しいことを附記しておく。

伊藤善

没年月日:1973/12/02

 春陽会々員の洋画家伊藤善は、12月2日死去した。大正5年1月12日宮城県黒川郡に生れ、東京美術学校に学び、昭和18年帝國美術学校西洋画科を卒業した。終戦まで海軍航空隊に従軍、昭和21年第1回日展に「冬の日」及び第24回春陽会展に出品した。春陽会には以後毎年出品をつづけ、昭和26年準会員、同28年会員となった。そのほか東京大丸、資生堂、兜屋等で屡々個展を開催し、20数回に及ぶ。また昭和38年より40年にかけ北アフリカ諸国及び欧州9ヶ国を歴遊し、主としてイタリアに滞在した。春陽会出品主要作品―「女とパイプ」(26回)「木の葉」「化石」「手をくむ三人」(29回)など。

植田寿蔵

没年月日:1973/11/27

 京都大学名誉教授、美学会顧問の植田寿蔵は、11月27日、老衰のため吹田市の自宅に死去した。享年87歳であった。植田寿蔵は、明治19年(1886)2月26日、京都府綴喜郡に生まれ、私立奈良中学校、大阪の私立桃山中学校、奈良県立郡山中学校をへて、明治38年(1905)第三高等学校入学、同41年に卒業し同年京都帝国大学文科大学哲学科に入学、明治44年(1911)に卒業し、大学院へすすんだ。明治45年6月大学院を退学し、京都帝大文学部助手となった。大正8年文学部講師となり、同11年(1922)2月助教授、同14年(1925)5月、美学美術史研究のためヨーロッパに留学、ドイツ、フランス、イタリアに滞留し、昭和2年(1927)10月帰国、11月九州帝国大学文学部教授となり美学美術史講座を担当した。昭和4年4月九州帝大教授のまま、京都帝大教授を兼任、同7年5月九州帝大教授の兼任を解かれ、京都帝大教授を専任することとなった。昭和19年12月正四位に叙せられ、同20年12月勲二等瑞宝章をうけ、同21年7月13日、京都帝国大学教授を定年退官した。昭和22年11月、京都帝国大学名誉教授。京都大学における初代美学教授深田康算のあとをうけて二代目教授としていくたの後進の育成につとめ、退官後は著述に専念し、多くの著作を発表した。主要著書目録『芸術哲学』(改造社、大正13年)『近代絵画史論』(岩波書店、大正14年)『美学』(岩波講座・哲学、岩波書店、昭和2年)『芸術史の基礎』(弘文堂書房、昭和10年)『日本美術』(弘文堂書房、昭和15年)『視覚構造』(弘文堂書房、昭和16年)『日本の美の精神』(弘文堂書房、昭和19年)『美をきはめるもの』(弘文堂書房、昭和22年)『佛教美術論』(弘文堂書房、教養文庫、昭和22年)『美の批判』(弘文堂書房、昭和23年)『美学短篇』(角川書店、昭和23年)『ミレエ』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和24年)『文芸の存在・小説をとほして見出された文芸の根源的構造』(弘文堂書房、昭和24年)『セザンヌ以後―フランスの絵画』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和24年)『ファン・ホッホ』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和25年)『近代の絵画の方向―絵画における美の歴史的構造』(弘文堂書房、昭和26年)『西洋美術史』(弘文堂書房、アテネ新書、昭和28年)『傑作と凡作との論理』(弘文堂書房、昭和29年)『芸術の論理』(創文社、昭和30年)『絵画の論理』(創文社、昭和42年)『日本の美の論理』(創文社、昭和45年)『絵画における南欧と北欧』(創文社、昭和47年)

六角穎雄

没年月日:1973/11/25

 東京芸術大学教授・漆芸家の六角穎雄(号は大壤)は心臓マヒのため、12月25日、奈良・東大寺二月堂で絵馬奉納式の席上死去した。享年59歳。大正2年12月21日名古屋に生まれ、昭和12年3月東京美術学校漆工科卒業、日展、伝統工芸展、日本工芸会、ウルシクラフト体などに出品、審査員を歴任し、日本漆工協会常任理事、日本工芸会理事であった。代表作は乾漆蒔絵提盤虚空蔵、和合食篭二段龍鳳文朱溜。 略歴大正2年12月21日 名古屋に生まれる昭和12年3月 東京美術学校漆工科卒業昭和12年~同18年 文部省美術展覧会出品、特選昭和18年昭和21年~同33年 日展出品、特選2回昭和22年5月 東京美術学校工芸科漆工部講師嘱託昭和24年4月 東京芸術大学助教授昭和33年~同34年 日本工芸会出品昭和35年 ウルシクラフト体設立運営委員長昭和37年5月 社団法人日本漆工協会理事長昭和38年以降 日本伝統工芸展、日本工芸会出品昭和43年5月 社団法人日本工芸会理事昭和47年 盛岡産業会館にて個展昭和48年11月 東京芸術大学教授同年11月25日 奈良二月堂にて死亡、正四位勲四等

木村辰彦

没年月日:1973/11/13

 一水会会員の洋画家、木村辰彦は、11月13日、死去した。木村辰彦は、大正5年(1916)9月6日、東京、銀座に生まれ、昭和8年(1933)東京都立第四中学校を四学年で中途退学し、二科会美術研究所に入所、同12年以降は安井曽太郎に師事し、昭和13年一水会展に初入選、以後、毎回出品、昭和16年には岡田賞を受賞した。昭和18年文展無鑑査となった。

浜田三郎

没年月日:1973/11/10

 彫刻家、日展会員の浜田三郎は、11月10日死去した。享年80歳。明治25年12月21日北海道函館市に生れた。大正7年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。大正15年第7回帝展に「母」が初入選してより、終始官展系作家として活躍した。その間、帝展・新文展時代には、無鑑査出品を重ねた。また斎藤素巌・日名子実蔵らで彫刻の単一団体として起こされた構造社展には、創立当初の昭和2年より参加し、様式化の強い個性的作品を発表して注目された。戦後は専ら日展で活躍、昭和39年には菊華賞をうけ、40年には審査員をつとめて、翌年から日展会員となった。その主要作品には、「少女と猫」(昭7、構造社)、「ジャズ」(昭33、日展)、「楽人」(昭39、日展)、「仮面」(昭40、日展)などがあり、他に「藤村詩碑」がある。死去した折が第5回日展開催中であり、その出品作「陽」が絶作となった。

山下摩起

没年月日:1973/11/07

 日本画家山下摩起は、11月7日老衰のため西宮市の自宅で死去した。享年83歳。本名正直。明治23年4月21日兵庫県有馬町の旅館「下大坊」山下庄衛門の長男として生れた。明治43年京都市立美術工芸学校絵画科を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入り、大正4年同研究科を卒業した。在学中第4回文展に「溪風」が初入選し、以後文、帝展に出品する。また国画創作協会展、院展、独立展等にも作品を送っている。昭和3年ヨーロッパに渡り、フランス、ベルギー、イタリア、イギリス、オランダ等を巡り5年に帰国した。昭和10年以後は中央への公的な展覧会出品を止め、専ら個展を制作発表の場とした。昭和35年には大阪四天王寺五重塔壁画を揮亳し、朝日賞(35年度)を受賞した。そのほか代表作として41年東本願寺難波別院南御堂後門壁画「音声菩薩」同じく43年には東本願寺名古屋別院後門壁画「弥弥」等がある。また、昭和14年以降美術雑誌の表紙絵、口絵等も担当し、主なものに「画室」「新美」「八潮」等がある。なお号は最初馬山で大正11年摩耶と改め、ついで昭和25年摩起と改めた。昭和49年兵庫県立近代美術館で「山下摩起展」を開催、107点が出品され、同展の図録が刊行されている。

木和村創爾郎

没年月日:1973/11/06

 木版画家、木和村創爾郎は、明治33年1月松山市に生れた。本名正次郎。大正13年京都市立絵画専門学校を卒業、昭和17年東京に居を移し、翌年から版画に転向し、21年第1回日展に「霊廟好日」、第14回版画協会展に「浅草観音」また20回国画会展に「浅草観音内陣」の版画を出品、版画家として活動をはじめた。以後、毎年日展に出品、また、25年からは光風会展に作品を毎年出品している。33年からは、日展、光風会、日本版画協会の各展覧会が出品の場となっている。44年には2月から11月迄渡欧、巴里に滞在し、ル・サロンに出品し「帝釈峡」が同展で受賞した。45年再び渡仏、ル・サロンで「蝶々夫人の家」で受賞、46年4月3回目の渡欧で、各地を写生し、ル・サロンで「Lopera」が受賞した。47年4回目の渡欧、ル・サロンで「Cast’s Angero」が金賞となり、同展の無鑑査待遇となった。48年、30年に亘る全作品集製作を企画、作製に当り8月刊行となったが惜しくも11月逝去した。自宅は東京都葛飾区。主要作品は、「霊廟好日」(21年)「海辺麦秋」(25年)、「野ばらの園」(26年)、「ステンド・グラス」(31年)、「連峰妙義」(33年)、「帝釈峡」(39年)、「蝶々夫人の家」(41年)「Cast’s Angero」(47年)等。

村田潔

没年月日:1973/11/03

 東北大学名誉教授、武蔵野美術大学教授、西洋美術史専攻の村田潔は、11月3日午前11時8分、東京・武蔵野市の森本病院で心筋硬ソクのため急逝した。享年64歳であった。村田潔は、明治42年(1909)2月28日、長野県松本市に生まれ、昭和7年(1932)東北大学文学部美学美術史学科を卒業、児島喜久雄の指導をうけ、卒業と同時に同学科の助手となったが、同年10月、美学・美術史研修のためにヨーロッパに留学した。主としてイギリスに滞在して古代ギリシャ・ローマ美術を研究、昭和12年(1937)5月帰国した。帰国後は直に東北大学文学部講師に就任、同14年助教授、同22年教授に昇任、同25年「印象派美術の研究」で文学博士の学位をうけた。昭和37年、東北大学評議員、大学院研究科教授を兼任、同47年(1972)3月、退官して名誉教授となった。同年4月武蔵野美術大学教授に迎えられて、東京に転居、同大学西洋美術史教科の中心として今後の活躍が期待されていた矢先に急逝した。著書には『ギリシャの神殿』(昭和19年、築地書店)、『希臘芸術試論』『ギリシャ・ローマの美術』(昭和23年、東京堂)、『岩波小辞典・西洋美術』(昭和31年)、『西洋古代美術論』(昭和46年、岩波書店)。

早川芳彦

没年月日:1973/09/22

 旧日展委員の洋画家早川芳彦は、9月22日東京新宿の東京医大病院でジン不全のため死去した。享年77歳。明治32年8月6日山梨県東山梨郡に生れ、川端画学校で洋画を学んだ。昭和10年春洋会に「室内」「窓辺の静物」が初入選し、同会に昭和12年~15年までの出品がみられる。ついで、昭和13年太平洋画会に「絵を描く女」「椿のある庭」「卓上の花」を出品、NYK賞を受ける。同会では、また15年に「婦人座像」「椅子に倚る女」「子供」「荏」などを出品、太平洋画会賞となった。同15年には会員となり、28年委員に推された。昭和29年同会有志を中心に光陽会が創立され、その創立会員となった。そのほか、紀元二千六百年奉祝展、戦争美術展等の出品があり、戦後第2・3回日展委員を依嘱されている。代表作―「浅間山」「昇仙峡」「赤城」など。

小林敏夫

没年月日:1973/09/15

 國画会会員小林敏夫は、9月15日死去した。明治37年11月姫路市に生れ、昭和6年長崎医科大学を卒業した。同28年第27回國画会展に「老シリヤエフ像」(A)(D)(B)の三点が初入選となり、國画賞になった。同30回展で会友、同34回展で会員に推された。絵画は独学だが、初期には野口弥太郎に私淑した。長崎県展、同美術協会事務局長をつとめ、長崎県文化団体協議会、長崎国際文化協会、世界連邦建設同盟等に関与する。医学博士。

元橋音治郎

没年月日:1973/09/12

 日本工芸会正会員、染色作家の元橋音治郎は、腸閉塞のため、9月12日、京都市の第二日赤病院で死去した。享年75歳。京都市の出身で、小学校を卒業後60余年手描友禅一筋に打ち込み、京都市伝統産業技術功労者となる。元喜屋会長。

八木一艸

没年月日:1973/09/02

 陶芸家の八木一艸(本名榮二)は、心肺機能不全のため、9月2日、京都市の京都桂病院で死去した。享年79歳。大阪市出身で、大正初め京都市陶磁器試験所で陶磁を学び、京都陶芸界の古い指導者である。大正9年、楠部弥一らと共に「赤土社」を結成し、わが国近代陶芸の道を開いた。戦後は無所属を通し、特に中国宋風の青磁、均窯などに優れた作品を残した。端正な作風で知られ、ロクロ技術は名人芸といわれた。

長谷川昇

没年月日:1973/08/26

 日本芸術院会員の洋画家、長谷川昇、8月26日午前11時、心不全のため東京・新宿の社会保険中央総合病院で死去した。享年87歳。長谷川昇は明治19年(1886)5月11日、長谷川直義の長男として福島県会津若松市に生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育され、明治36年(1903)札幌中学校を卒業、医師を志望して上京、第一高等学校受験に失敗して、明治38年東京美術学校西洋画科に入学、同43年同校を卒業した。同級に藤田嗣治、山脇信徳、田辺至などがいた。在学中の明治41年第2回文展に「海辺」が初入選となり、同43年第4回文展に「白粉」入選、褒状を受けた。明治44年(1911)ヨーロッパに行きパリに居住して、イタリア、スペイン、イギリスなどに旅行、セザンヌ、ルノアールの作品にひかれ、ヴァン・ドンゲンらと交友、大正4年(1915)帰国した。小杉放庵の勧誘で日本美術院洋画部同人となり、大正4年再興院展洋画部に「オランヂユ持つ女」「オペラの踊子」を出品した。大正10年(1921)、再度フランスに遊学、スイス、ベルギー、オランダを歴遊して翌大正11年帰国、旧院展洋画部同人を中心とする春陽会の創立に同人として参加した。ヴァン・ドンゲン風の色調をもった裸婦像、人物像を発表、大正14年春陽会第3回展「髪あむ少女」「安息」「裸女」、同15年第4回展「べに」「髪」「つめ」「書見」などを出品、大正15年聖徳太子奉讃展に出品した「母性」は当時の摂政官の買上げとなり、また、同年明治神宮絵画館に「大婚二十五年祝典」を制作した。昭和2年(1927)、第3回外遊、パリの画廊ベルネイム・ジュンヌで日本の題材による紙カンパスに描いた作品で個展を開催、さらに翌年同画廊で滞欧中の作品による個展を開催し、「裸婦」がフランス政府の購入するところとなった。昭和3年帰国、翌4年第7回春陽会展に「裸体」「若き女」「小憩」「レクチュール」「オペラに於けるブルガ嬢」「髪むすぶ女」「ブランシュ・エ・ノアール」「プティ・ラ」などの滞欧作品を出品した。 昭和6年第9回春陽会展「ロバと少女」「髪」「レヴューの女」「鴨遊ぶ池」「女優恵美子」出品、この年第4回目の外遊。 昭和7年、帰国。第10回春陽会展に「熱帯梅林」「S嬢」「伊豆風景」出品。 昭和8年、第11回春陽会展「桃の節句」「オリーヴの樹」「アフガニスタンの女」「ゴードの小村」「ピアニスト」「裸体」「立てるアフガニスタンの女」「パリジェンヌと愛女」「ゴード風景」を出品。 昭和9年・第12回春陽会展「少女と子猫」「緑蔭」「裸体」「Y夫人」出品。 昭和10年、第13回春陽会展「モデル」出品。 昭和13年、春陽会を脱会し、昭和16年の文展に審査員として参加、以後、文展、日展に出品し、昭和18年第6回文展出品作品「おをぎ」が文部省買上げとなった。日展では参事となり、昭和32年(1957)日本芸術院会員に選ばれた。昭和30年の第11回日展に「戸浪に扮する福助」を出品、以後、歌舞伎役者絵の制作に情熱を傾け、昭和38年には連作歌舞伎役者絵101点による個展を日本橋三越で開催、さらに同39年には文楽人形絵を開催した。昭和41年、勲三等旭日中綬章を受章。昭和42年1月、日本経済新聞社主催による回顧展が日本橋三越において開催された。

村上鉄太郎

没年月日:1973/08/24

 白日会会員、日本水彩画会会員、日展委嘱の洋画家村上鉄太郎は、8月24日、死去した。享年73歳。村上鉄太郎は明治32年(1899)12月23日、東京に生まれ、太平洋美術学校に学んだ。中沢弘光に師事し、白日会展に出品、昭和4年(1929)第6回白日会展に「鱒の静物」を出品して白日賞を受賞、その後静物の連作を出品、昭和7年に白日会会員に推挙された。昭和39年(1964)第40回白日会展では「訪春」「雪どけの川」、で中沢賞を受賞した。日展にも出品し、昭和26年第7回展「河岸」、同27年「晴れた日」、同28年「窓ぎわ」、同30年「山手雪景」、同32年「残雪」など連続入選して昭和42年日展委嘱にあげられた。

菊地精二

没年月日:1973/08/20

 独立美術協会々員、菊地精二は48年8月20日、脳出血のため逝去した。享年65歳。葬儀は世田谷区のカルメル会修道院カトリック教会で独立美術協会葬を以て行われた。明治42年8月15日、北海道札幌市に生れた。昭和2年頃、上京、同舟社洋画研究所に油絵を学び、昭和4年二科会展に初入選となったが、昭和6年1931年、独立美術協会の創立に際し同会へ出品と決め、同8年第3回展でD氏賞、さらに10年第5展で独立賞を受け、15年に独立美術協会の会員となった。

大久保為世子

没年月日:1973/08/12

 女流画家協会会員、朱葉会会員の大久保為世子は、8月12日死去した。享年76歳。明治30年(1897)1月東京に生まれ、実践高等女子学校を卒業、昭和7年(1932)より洋画を小林万吉、耳野卯三郎に就いて学び、光風会展、朱葉会展に出品した。昭和22年には、国際親善のために在日外国婦人と交友、協力して芸術を探究することを目的とした青葉会を創立し、その理事をつとめた。

安島雨晶

没年月日:1973/08/10

 日本画家安島雨晶は、8月10日急性肺炎のため京都市第一日赤病院で死去した。享年66歳。本名理作。明治40年石川県に生れ、京都絵専を卒業した。西山翠嶂画塾青甲社に入り、師没後は同志と牧人社を結成した。この間、新文展、日展等に出品し、昭和45年には伏見稲荷大社の祭礼絵巻を完成した。

中津瀬忠彦

没年月日:1973/08/10

 独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦は、8月10日、交通事故のため死去した。享年57歳であった。中津瀬家は京都伏見の公家の出といわれ、中津瀬忠彦は大正5年(1916)1月18日、滋賀県大津市に生まれ、昭和11年(1936)、岡山師範学校本科(美術・音楽)を卒業、同13年第8回独立美術協会展に初入選した。その後、昭和18年文展に出品入選したほかは独立展に出品をつづけ、昭和23年第16回独立展において「風景A」「風景B」で独立賞を受賞し、翌年独立美術協会準会員、さらに翌年の昭和25年には同会会員に推挙された。同年の第1回アトリエ新人賞候補に選ばれ、昭和29年には朝日秀作展にも選出された。昭和33年(1958)に留学生として渡欧し、同35年までフランスに滞在、34年(1959)にはサロン・ドートンヌに入選した。帰国後も独立展、独立十人の会を中心に作品を発表、昭和38年、42年の安井賞候補展に選抜され、同41年日動画廊太陽展にも出品した。昭和42年再渡欧して1年間ヨーロッパに滞在した。独立展出品作品略年譜昭和13年・宇野港 同17年・川岸の馬 同22年・働く人、風景 同23年・風景A、風景B 同25年・風景(B)、後楽園外苑、風景A 同27年・働く人々、人と馬 同28年・馬A、馬B 同29年・働く人々A、働く人々B 同30年・風景A、風景B、風景C 同31年・山湖、後楽園外苑、砌場 同32年・岩山、後楽園 同33年・風景B、風景A、風景C 同35年・Santa Lucia、Parc de Sceaux、paris 14、paris 5、Montparnasseの街角 同36年・後楽園、Parc de Sceaux 同38年・マドリッド 同39年・南伊風景、南伊の女 同40年・奢れる伊呂具 同41年・黎明、罌粟と少女 同43年・ゼゴヴィヤ城外 同44年・黄昏時、らくがき 同45年・蝶を追う、田植時 同46年・五月 同47年・内海を望む丘 同48年・マドリッド、風景

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