本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





富樫光成

没年月日:1967/12/23

 彫漆、鎌倉彫を専門とした富樫光成は12月23日脳血栓のため東京都豊島区の自宅で逝去した。83才。明治17年1月4日新潟県岩船郡に生れる。本名助蔵。明治39年上京、堆朱楊成に師事し漆芸の道に入った。農商務省、商工省の各展覧会、日本漆芸展などに入賞、昭和2年以降は帝・文展に入選12回、中でも第9回帝展出品作「梅文鎌倉彫文庫」などは主な作品である。その後は文展無鑑査、日展出品依嘱作家に選ばれ、又、日本伝統工芸展に出品していた。昭和42年3月日本橋三越で漆芸個展を開催。元芸大漆芸科非常勤講師をつとめていたが、晩年は、日本女子大桜楓学園に勤務していた。〔主要作品〕「堆朱彫縞文手箱」(文化財保護委員会無形文化課買上)「鎌倉彫椿文硯箱」「堆朱彫瀑布図文庫」「鎌倉彫朝露文飾箱」「彫漆曲輪香合」「鎌倉彫むさし野茶入」他。

小山周次

没年月日:1967/12/18

 日本水彩画会名誉会員の小山周次は、病気療養中のところ12月18日死去した。享年85才。明治18年6月27日長野県小諸市に生れ、私立小諸義塾を卒業後大平洋画会研究所、日本水彩画会研究所に学んだ。水彩を専門とし、北支、米、仏に各半年程滞在した。二科展に出品し、昭和初年から約20年間程成城高校美術科に教鞭をとった。

大河内信敬

没年月日:1967/12/01

 新樹会、光風会、日展会員の大河内信敬は、12月1日東京女子医大附属病院でりんぱせん肉しゅのため死去した。享年64才号清水丁三。明治36年8月21日東京下谷に大河内正敏の次男として生れ、昭和3年明治大学商科を卒業した。大正7、8年の頃水彩画を板倉賛治に、版画を小泉癸己男に学び、また太平洋画会研究所で岡田三郎助に教えをうけた。昭和5、6年の頃、本郷絵画研究所で寺内万次郎の指導をうけた。同8年「画室の一隅」が第14回帝展に初入選し、以後引続き約10年程を官展に出品した。昭和12年渡欧し、欧州各地の美術を視察して1年後帰国した。その後伝統芸術に関心をもち、花道、茶道、盆石などを学びまた庭園にも深い興味をもった。昭和15年光風会々員となり、この年渡支した。昭和22年朝井閑右衛門らと新樹会を結成し、以後毎年出品し、昭和43年開催の同展には遺作十数点が陳列された。尚同展のほか、光風会、日展にも出品していた。 主要作品「苔寺石庭」(第4回文展)「春雪の丘」(昭和38年)「雪後」(昭和39年)「冬の丘」(昭和40年)。

中川為延

没年月日:1967/11/22

 彫刻家、二紀会理事の中川為延は、11月22日午前9時17分、脳出血による心臓衰弱のため死去した。享年63才。明治37年6月1日広島市に生れ、昭和5年3月東京美術学校彫刻選科塑造部を卒業、同8年同校研究科を修業した。在学中の昭和4年第10回帝展に「ポーズせる女」が初人選してより、「銀河の下」(昭5・第11回帝展)、「残夢」(第12回帝展)、「実る秋」(第13回帝展)、「想」(昭9・第15回)と帝展に出品をつづけ、昭和11年の文展<鑑査展>には「徒然」、「白衣の凱旋」(昭13・第2回文展)、「海を護る男」(昭16・第4回文展)、「建設譜」(昭17・第5回文展)、「坑内敢闘」(昭19・戦時特別展)を、更に戦後に及んで、昭和21年第2回日展に「博愛紀念館新生日本ノ一部」、「回春」(昭23・第4回日展)、「影」(昭24・第5回日展)、「洋」(昭25・第6回日展)と官展系有数の中堅作家として認められたが、昭和27年二紀会彫刻部創設に当り委員として迎えられた。以後毎年同会展に作品発表をつづけるはもとより、彫刻部の基礎づくりと発展に尽力した。没前、昭和42年4月、二紀会が社団法人となるにおよび理事に推された。はやくよりセメント彫刻を手がけ、殊に戦後昭和25年より小野田セメント株式会社がスポンサーとなって開催している野外彫刻展(白色セメント造形美術会)の委員となって、当素材彫刻の推進普及に寄与したことは特筆される。前記の官展出品時代の主題においても窺われる通り、終始人体の写実主義の領域にありながら、様式化の強い一種の理想主義的作風を示した。

金重陶陽

没年月日:1967/11/06

 重要無形文化財、日本工芸会理事の備前焼の陶芸家金重陶陽は、11月6日午後10時30分、脳軟化症のため国立岡山病院で死去した。享年71才。金重陶陽は、明治29年(1896)1月3日、岡山県和気郡において備前焼窯元の名門“六姓”のひとつに生まれ、本名を勇。15才の頃から父、楳陽に陶製法を学び、以後、備前焼の制作に没頭し、一時期低俗な雑器焼となっていた備前焼を格調ある作風に復興させるべく室町・桃山期の古備前の作風復元に努力、窯変をもった芸術的作品の制作に成功し、備前焼中興の祖といわれた。昭和17年技術保存資格者となり、同19年日本美術及工芸統制協会代議員、同22年生活用品芸術陶磁器認定委員、同23年芸術陶磁器第2部資格者、同29年岡山県無形文化財の指定をうけ、同30年6月伝統工芸の保護育成を目的とした日本工芸会の創設に参加、理事をつとめ、同32年11月から33年2月にかけて欧米を巡遊。昭和33年一水会陶芸部新設に際して委員となり、同34年11月、中国文化賞、同35年1月山陽新聞社文化賞、同年3月には岡山県文化賞をうけた。昭和39年、41年にはハワイ大学夏期大学講師をつとめ、同41年には紫綬褒章をうけた。主要作品:備前緋襷平水指、備前筒水指(昭和36年)、備前手鉢(同37年)、備前筒水指、備前壺(同39年)、累座壺(同40年)、備前緋襷平水指、備前陶板(同40年)

鴨下晁湖

没年月日:1967/10/20

 日本画家で挿絵家としても知られる鴨下晁湖は、10月20日脳血せんのため死去した。享年77才、本名中雄。明治23年東京に生れ、東京美術学校に学んだ。松本楓湖に師事して大和絵を学び、歴史画を描いた。巽画会に作品を発表し、又第1回文展に「山法師」を出品して三等賞になった。以後文展第9回展に「春闌」第10回「紅燈」(六曲半双)を出品し、帝展になってからは「牡丹燈記之巻」(第4回)「楊貴妃」(第5回)「淋池燈影」(二幅対)(第7回)「秋思」(第8回)「春興図」などがある。戦後は出版美術家連盟会員として専ら挿絵を専用とし、ことに時代物の挿絵に定評がある。

伊藤渓水

没年月日:1967/10/19

 日本画家伊藤渓水は、10月19日老衰のため京都市東山区の自宅で死去した。享年89才。本名一雄。明治12年宇和島に生れ、同28年大阪の画家平井直水の門下となった。第1回文展出品の「春」が初入選以来文帝展を通じて11回入選し、大正4年サンフランシスコ万博では金賞になった。昭和3年から京都に転じ、山元春挙の門に入り早苗会々員となった。戦後は昭和22年に日展委員をしている。

互井開一

没年月日:1967/10/12

 洋画家、三軌会委員長の互井開一は、10月12日午前6時15分クモ膜下出血のため、東京・中野医療組合病院で死去した。享年63才。告別式が三軌会葬として中野区宮前の宝仙寺で行なわれた。明治37年7月20日埼玉県北葛飾郡に生れた。大正13年埼玉師範卒業。昭和3年文部省図画科検定試験合格。7年に上京するまで県下に教鞭をとる。同年日本水彩展、太平洋画会展に出品し、その後両展とも数回出品した。8年光風会展出品、以後4回出品。9年第21回二科展に「男鹿風景」が入選し、旺玄社展にも出品受賞した。10年第二部会展に「八丈島風景」を出品。11年文展(鑑査展)に「真夏の海(水彩)」、14年第3回文展「男鹿風景(水彩)」、15年紀元2600年奉祝展「男鹿風景(水彩)」がそれぞれ入選、この年銀座・天元画廊で個展を、あと満洲各地で個展を開催した。翌16年には銀座・青樹社でも個展を開く。18年古郷八郎、滝沢清らと三紀会を結成し、第1回展を銀座・さざれ画廊で開催したが、同年戦争のため解散した。20年岐阜県下に疎開。戦後22年白日会会員となり(翌年退会)、第3回日展に「波切」を出品したのをきりに、生来の野武士的反骨の精神は従来の官展の封建的なぬるま湯にひたることを潔しとせず、官展系団体と絶縁し、24年2月には自ら同志を誘い、新水彩作家協会を創設(30年三軌会と改称)し、会の育成と発展に非常な努力を重ねてきたことはいうまでもなく、水彩画の従来おかれている、油彩に対する水彩の主従関係をくつがえして、水彩画芸術の主体性を確立するために専念してきたたくましい反抗の姿勢は高く評価されよう。彼の作風には、晩年に向うに従い、色彩は鮮麗明快さをますます加えるとともに、軽妙濶達なフォルムを交錯させて、リズミカルでさわやかな独自な表現様式がうち立てられた。ほとんど彼の主宰の感があった三軌会展が、43年3月に祝賀すべき第20回記念展を前に控えて、巨星・互井開一を失ったことは誠に惜しまれる。晩年の代表作には、「魚と花」「枯草」「オンフール」「海浜」「リスボン郊外」「札幌郊外」「ヨットハーバー」等が数えられる。なお三軌会展以外の主な活躍の事蹟を列記しておくと、28年日本橋・白木屋で個展。30年<造形>誌にて互井開一・特集を行なう。31年銀座・兜屋画廊にて個展。32年埼玉名栗観音堂の大ガラス絵完成<平沼弥太郎建立>、渡欧(ヨーロッパ各地・エジプト・東南アジア1年間)。33年日本橋・白木屋にて滞欧作発表。35年名古屋松坂屋にて個展。37年より東京電機大学主任講師となる。39年4月北海道札幌にて個展。再び渡欧(ヨーロッパ各地6ケ月間)。41年銀座・松屋にて大個展を開く。互井開一画集を自費出版(三彩社)する。

鈴木清

没年月日:1967/10/06

 陶芸家鈴木清は、10月6日狭心症のため京都第一日赤病院で死去した。享年61才。明治36年9月12日京都市東山区に生れ、京都第二工業学校を卒業した。昭和10年国画会で初めて陶芸を発表し、同15年には国画賞を受けた。昭和16年文展出品の「茄子之図大鉢」は特選となった。戦後国画会を退会し、富本憲吉に師事して同氏中心に結成された新匠会会員となり以後毎年東京京都の同会に出品をつづけた。昭和27年朝日新聞社主催第1回現代陶芸展で「桔梗鉄絵角皿」が文部大臣賞を受け、同32年には日本工芸会正会員となり、現代工芸界の指導的地位を占めて活躍していた。また昭和11年には琉球に、同17年には朝鮮各地に研究のため視察旅行をしている。

笠置季男

没年月日:1967/09/28

 彫刻家、二科会理事、多摩美術大学彫刻科主任教授の笠置季男は、9月28日午後6時25分、じん臓ガンのため東京目黒区の東邦大学医学部附属大橋病院で死去した。享年66才。明治34年1月7日兵庫県姫路に生れた。大正10年大阪府今宮中学校を卒業、昭和3年3月東京美術学校彫刻本科塑造部を卒業した。在学中から藤川勇造に師事し、昭和2年第14回二科展に「首」が初入選し、美校卒業翌年の第16回展では「裸女立像」を出品、樗牛賞を受けた。更に昭和6年第18回展に「顔」「腰かけた裸婦」を出品、二科賞を受賞、翌7年第19回展には、「立像(習作)」「立像」「M嬢の像(習作)」を出品、二科会会友となり、昭和11年第23回展では「少年工」「青年」「書見」で会員に推挙された。以後18年第30回展の中絶に至るまで専ら二科展を発表舞台とした。戦後の21年9月第31回展から二科会の復活をみたが、日展参加に対する会規一部変更の件で僚友の松村外次郎、渡辺義知らと訣別し、ひとり二科会に止まって彫刻部の大黒柱的存在となった。35年には、パリ、コンパレーゾン展出品の機会に渡仏した。40年第50回二科展では青児賞を授賞した。作風は、逸早く戦後の動向に呼応して、幾何学的抽象の方向をとり、毎年、主にセメントによる大作を精力的に発表した。二科展出品の代表作には、「和」(25年)、「力」(27年)、「地上の形態」(30年)、「躍進」(32年)、「裂」(33年)、「生存」(38年)などがあり、野外作品として、「花の精」(セメント・36年作、調布市深大寺バラ園)、「哺」(セメント・36年作、愛知県蒲郡市庁舎中庭)、「自鵬」(セメント・37年作、蒲郡市庁舎前)等がある。なお、戦後早くより、小野田セメント会社が主催してきた野外彫刻展(白色セメント造形美術会)の委員を当初からつとめ、この分野での推進に寄与したことは大きい。

小出三郎

没年月日:1967/09/21

 独立美術協会会員の洋画家小出三郎は、9月21日午前零時8分、心筋コウソクのため大阪府豊中市の自宅で死去した。享年60才。小出三郎は明治41年(1908)8月5日、大阪市に生まれ、大正15年大阪府立天王寺中学校を卒業、大阪美術学校に入学したが程なく退学して大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎らの指導をうけた。昭和12年第7回独立美術展に出品入選してから毎回出品、昭和15年第10回展では「伊豆の漁港」を出品して独立賞をうけ、翌16年独立美術協会会友に推挙され、同22年会員に推薦された。その他、昭和11年全関西美術協会会友同13年会員となり、同22年前田藤四郎、吉原治良らと汎美術家協会を創設、同31年には田中佐一郎、中間冊夫らと“いちいち会”を結成した。晩年には関西における独立美術協会の重鎮として活躍し、昭和33年毎日新聞社主催、関西洋画壇傑作展に「漁港」、同40年京都新聞社主催、名作にみる裸婦展に「人・A」「人・横」が出品された。作品略年譜昭和7年 「曇り日」「裸婦」、同8年「腰かけたる裸婦」、同9年「仰臥裸婦」、同10年「窓際」「横臥裸女」、同11年「立てる女」、同12年「青いリボン」、同15年「伊豆の漁港」、同16年「農家」「伊豆の山麓」、同17年「農家」「山ふところ」、同22年「鞍馬」「八瀬」、同23年「みのり」「山麓」「農家」、同25年「紅衣」「腰かけの女」「帽子の女」、同26年「立てる裸婦」、同27年「青いリボン」、同28年「立つ」、同29年「六甲」、同33年「裸・青」、同34年「京都東山」、同35年「裸・A」、同37年「人・B」、同38年「緑の中の人・横」「緑の中の人・立つ」、同39年「人・横」「人・座」「富士山」

中村研一

没年月日:1967/08/28

 日本芸術院会員、日展理事、光風会会員中村研一は8月28日胃癌により国立癌センターで死去した。享年72才。明治28年5月14日福岡県小倉市に生れた。画家志望に反対する父を鹿子木孟郎に説得してもらって大正9年に東京美術学校西洋画科を卒業し、この年入隊(翌年除隊)したが同年第2回帝展に出品した「葡萄の葉蔭」は初入選し、大正博出品「若き画家」は三等賞を受賞した。翌3回帝展の「涼しきひま」は特選となった。12年から昭和3年まで滞仏し(大正15年一時帰国)、この間アスランに影響される。昭和2年にはサロン・ドートンヌ会員となった。帰国後も9回帝展「裸体」特選、10回帝展「若き日」特選、11回帝展「弟妹集ふ」帝国美術院賞と連続受賞した。昭和12年には軍艦で訪英している。とくに彼の太平洋戦争中の戦争画はアカデミックな描写力によって好評であった。昭和25年芸術員会員となった。戦後は妻をモデルとした婦人像と裸婦像で記憶される他、辛辣な時評や随筆でも知られていた。主要作品目録2回帝展「葡萄の葉蔭」3回「涼しきひま」(特選)9回帝展「裸体」(特選)10回「若き日」(特選)11回「弟妹集ふ」(美術院賞)12回「画室」13回「車を停む」14回「海辺にて」15回「ハンモック」昭和10年二部会「瀬戸内海」昭和12年1回文展「朝」2回「室内」3回「初秋」昭和15年紀元二千六百年奉祝展「北京官話」4回「座像」5回「安南を憶ふ」野間奨励賞 6回「雪嶺(三宅)先生」昭和19年戦時特別文展・陸海軍省特陳「コタバルB」(朝日賞)「プリンス・オブ・ウエルズの轟沈」昭和20年 不明、21年「マラヤの装」22年3回日展「サイゴンのゆめ」23年4回「白いブルーズ」24年5回「婦人像」25年6回「裸体」26年7回「裸体」27年8回「裸婦」28年9回「立てる裸婦」29年10回「裸体」30年11回「窓辺の像」31年12回「ハンモック」32年13回「縞のきもの」33年1回日展「家居」34年2回「緑の中」35年3回「バルコン」36年4回「爪」37年5回「裸婦」38年6回「婦人像」39年7回「裸体」40年8回「座裸婦」41年9回「裸体」42年10回「庭」。著書に矢崎美盛との対話による「絵画の見方」(岩波新書)がある。

和田三造

没年月日:1967/08/22

 日本芸術院会員、日展顧問、財団法人色彩研究所長の洋画家和田三造は、8月22日午前零時10分、燕下性肺炎のため東京逓信病院で死去した。享年84才。和田三造は黒田清輝に師事し、東京美術学校西洋画科選科卒業後、第1回文展に、後に日本における外光主義の記念碑的作品を評価されるようになった「南風」を出品、二等賞をうけた。その後、海外留学、帰朝後は工芸美術の研究にもあたり、東京美術学校教授となって、図案科の指導を担当、また日本標準色協会を設立して色彩研究を開拓、晩年は日本画を製作。昭和33年、文化功労者の表彰をうけた。略年譜明治16年(1883)兵庫県に生れる。明治30年 福岡市修猷館中学に入学。明治33年 7月、同校を中途退学し、9月上京して白馬会洋画研究所に入所、黒田清輝に師事。明治34年 東京美術学校西洋画科選科に入学。明治37年 同校を卒業。明治38年 白馬会第10回展に「牧場晩帰」を出品、白馬会賞を受ける。明治40年 白馬会第11回展に「肖像」を出品、第1回文展に「南風」を出品、二等賞を受ける。明治41年 第2回文展に「煒燻」を出品、二等賞を受け無鑑査となる。明治42年 3月、文部省海外研究員としてヨーロッパに留学、フランスを中心とし各国を巡遊して、絵画、工芸図案を研究。大正3年 5月、西欧留学よりの帰途、美術・工芸の研究日的で印度、ビルマ等に滞在。大正4年 秋、帰国。大正5年 印度に再遊し印度美術を研究。第10回文展審査委員を命じられる。大正6年 第11回文展審査委員、「バーの午後」を出品。大正7年 第12回文展審査委員。南蛮絵更紗「山の幸」「海の幸」を完成。大正8年 第1回帝展に無鑑査となり、「老人」「檳榔子の細道」を出品。大正12年 日本画を制作、第1回発表会準備中に東京日本橋高島屋において関東大震災にあい焼失。大正13年 朝鮮総督府の大壁画を制作。東宮同妃両殿下の肖像を描き献上。第5回帝展委員となり、「夏の午後」を出品。首相官邸ロビーの壁面「城」を描く。大正14年 第6回帝展委員、「読書」を出品。大正15年 第7回帝展委員。「ダリヤ」「羽衣」(朝鮮総督府壁画画稿)を出品。昭和2年 6月、帝国美術院会員を命じられ、同時に帝展委員を免ぜられる。この年、日本標準色協会を創立し、日本で初めての試みとして日本標準色カード500色を制定して公開昭和4年 第10回帝展に「ポンペイを憶ふて」出品。昭和5年 第11回帝展に「老婆の像」出品。昭和6年 陸軍省より満州事変記録画を依嘱される。「色名総鑑」を発行。昭和7年 海軍省より上海事変記録画を依嘱される。10月、東京美術学校教授を命ぜられ、図案科を担当する。昭和8年 明治記念館の明治天皇一代記の壁画「大葬」を制作。3月、工芸審査委員会委員となり9月商工省よりベルリン、パリへ工芸品調査のため出張を命ぜられる。昭和9年 商工省輸出工芸展審査員。昭和10年 改組帝国美術院会員となる。第二部会展に「画室の内」を出品。昭和11年 文展招待展に「按摩さん」を出品。昭和12年 欧米各国に出張を命ぜられる。6月、帝国芸術院会員に任命される。昭和13年 色彩研究協議会を設置。3月、商工省工業品規格統一調査会色規格委員に命ぜられる昭和14年 4月、第1回貿易局輸出工芸図案展覧会審査員。昭和16年 1月、陸軍省恤兵部より南支、仏印に出張を命ぜられる。「寺内司令官室」を制作。昭和18年 満洲国宮内府嘱託となる。第6回文展に「ブキテマ高地を望む」を出品。商工省色規格委員会と協力して「無彩色標準色票」を完成し公にする。昭和19年 6月、東京美術学校教授を退官。昭和20年 日本標準色協会を財団法人日本色彩研究所に改組し理事長となる。昭和21年 商工省色規格委員会と協力して「色相標準色票」を完成、公布する。昭和25年 日本橋三越主催により横山大観、川合玉堂らと無名会をつくり作品を発表。昭和26年 わが国最初の総合標準色票「色の標準」を完成。昭和29年 第10回日展に「事務所の一隅」を出品。「色名大辞典」を発行。昭和30年 大映映画「地獄門」制作にあたり色彩デザインを担当、アカデミー賞最優秀外国映画賞をうけ、あわせて衣装デザイン賞(色彩)をうけた。4月、新世紀美術協会の設立に名誉会員として参加、8月創立会員展を開催、「裸婦」を出品。昭和31年 第1回新世紀展に「雪の旦」を出品。改良マンセル色票系完成。昭和32年 第2回新世紀展に「共立講堂緞帳下図」を出品。高島屋ギャラリーにて日本画展を開く。昭和33年 社団法人日展の発足にあたり顧問となる。文化功労者の表彰をうける。昭和34年 第4回新世紀展に「若き日の大隈先生」「南風」「白馬」「磐梯山」「肖像」を特別陳列。昭和36年 千疋屋ホールに瀬戸片モザイク壁画を制作。第4回日展に「鹿ケ谷法然院裏門竹林」を出品。昭和38年 共立女子大学外部壁面に陶材による壁画を制作。日本橋三越に於て日本画個展を開く昭和40年 下関市山口銀行ホールに壁画「竹林七賢」を制作。読売大ホールの緞帳制作。昭和41年 第9回日展に「十二神将」を出品。昭和42年 日本万国博協会色彩調査研究会委員となる8月22日死去。

内藤伸

没年月日:1967/08/21

 彫刻家、日本芸術院会員の内藤伸(号・山上居)は、えん下性肺炎と心不全のため、島根県松江市灘町の市立病院に入院中のところ、8月21日午前0時20分死去した。享年84才。松江市の名誉市民で26日午前10時から松江市公会堂で市民葬が行なわれた。明治15年10月1日、島根県飯石郡に生れ、幼時より松江市の商家に養われていたが、だんだん彫刻を好むところとなり、上京して高村光雲の門に入った。更に明治34年東京美術学校彫刻選科に学び、明治37年同校を卒業した。明治41年第2回文展に「安住と迷想」が初入選してより、第4回に「湯あがり」(褒状)、第6回に「藤原時代の女児」、第7回に「牛刀」(褒状)等を出品して認められたが、これよりきき、平櫛田仲、米原雲海山崎朝雲らが岡倉天心の肝いりで、明治40年以来結成していた日本彫刻会の第4回展(大正元年)に「藤原時代の女児」他3点、第5回展に「木の実」「牛刀」を参加出品していたよしみもあり、大正3年再興日本美術院に参加して、「独房」他1点を出品し、その第1回展の開会中に平櫛田中、吉田白嶺、佐藤朝山らと共に美術院同人に推挙せられ、同彫刻部の基礎をつくった。その第2回展に「山上」「壺」「狩」、第3回に「若葉の頃」、第4回に「浴の乙女」「獅子」と毎年発表を続けたが、大正8年故あって同人を辞した。以後大正9年第2回帝展の審査委員を任命されてより、新文展、戦後の日展にいたるまで官展系の有力な木彫作家としてわが彫刻界の指導的地位にあって多くの後進を育成した。その顕著な業績のひとつとして、昭和4年日本木彫会を創立主宰し(昭和36年解散)、日本近代木彫の振興と普及に尽力し、例えば彼がかつて「木彫の技法と心境」(「中央美術」大正13年7月・8月号)を発表しているように、独自な研究を体系づけて木彫技法を新案工夫し、それを多くの後進に提唱指導し、また作品に彩色を用いるなど、近代木彫の格調高く創造的な新しい展開に寄与したことは大きい。その作風の趣味性として、新古典主義ともいえるローマンチックな想念を形体化したことが特徴づけられる。昭和20年戦災に遭い、郷里に疎開したまま、殊に昭和27年2月から動脈硬化症を発病し、晩年中央での活躍がみられなかったことは誠に惜しまれる。代表作に「牛刀」「山上」「獅子」「芳醇」「六道将軍」「上宮太子」「子安」「竜猛・恵果」「光明皇后」「唯仏是真」「天安川原」等の多くがある。また歌集「山並」(昭和29年)がある。略年譜明治15年 10月1日、島根県飯石郡に生れる。明治34年 東京美術学校彫刻選科に入学。明治37年 7月、同校彫刻選科卒業。明治41年 第2回文展「安住と迷想」入選。明治43年 第4回文展「湯あがり」褒状。大正元年 第6回文展「藤原時代の女児」出品。大正2年 第7回文展「木の実」褒状、「牛刀」。大正3年 再興日本美術院に参加、第1回展に「独房」他1点を出品、同人に推挙される。大正4年 第2回院展「山上」「壺」「狩」出品。大正5年 第3回院展「若葉の頃」出品。大正6年 第4回院展「浴の少女」「獅子」出品。大正10年 第3回帝展審査委員。「芳醇」「獅子」出品。大正11年 第4回帝展審査委員。「六道将軍」出品。大正14年 第6回帝展「子安」「恵果阿闍梨」出品。大正15年 第1回聖徳太子奉讃展に「上官太子」出品。第7回帝展「竜猛菩薩」出品。昭和2年 帝国美術院会員となる。第8回帝展「光明皇后」出品。昭和4年 第10回帝展「国引」出品。日本木彫会創立。昭和5年 第11回帝展「楠公像」出品。昭和6年 第12回帝展「唯仏是真」出品。昭和9年 第15回帝展「東郷元帥之像」出品。昭和12年 第1回文展審査員。「野田中将像」出品。昭和15年 紀元二千六百年奉祝美術展「順天我往」出品。昭和17年 第5回文展「天翔る神」出品。昭和19年 戦時特別展「防人」出品。昭和20年 東京淀橋区の自宅戦災に遭い、郷里飯石郡に疎開。昭和22年 第3回日展「白芙蓉」出品。昭和24年 第5回日展「峰嵐」出品。同展審査員。昭和27年 2月動脈硬化症を発病。日本木彫会を再興し、その第1回展に「聖観音」出品。昭和28年 松江市の自宅に移る。昭和29年 第10回日展「歌神」出品。歌集「山並」出版。昭和33年 社団法人日展顧問。松江市名誉市民に推さる。昭和37年 内藤伸と藤門会木彫展(於・松江市)開催昭和42年 8月21日永眠。

新村出

没年月日:1967/08/17

 文化勲章受章者・学士院会員・文学博士新村出、号重山は8月17日老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年90才。10月7日京都市名誉市民として市の公葬が営まれた。明治9年10月4日山口市で県令関口隆吉次男として生れた。22年新村猛雄に養子入籍した。29年7月第一高等学校卒業。32年7月東京大学文科大学博言学科卒業。35年2月より東京高等師範教授のかたわら東大大学院で国語学を専攻し、37年8月より同学文学部助教授として教鞭をとった。40年1月京都帝大助教授。同年3月より42年4月まで英・仏・独に留学し、帰国後42年5月より昭和11年10月停年退官まで京大教授。その問43年文学博士を授けられ、44年10月より京大図書館長となる。大正8年9月より10月にかけて中国旅行、10年5月より12月、および昭和7年3月より7月に欧米旅行を行う。昭和3年1月帝国学士院会員、9年12月より国語審議会委員を勤めた。以後昭和12年音声学協会、13年日本言語学会、17年日本民族学協会、25年日本ダンテ学会、26年日西文化協会等の会長を歴任した。昭和19年には学術会議会員となり、31年には文化勲章授章。言語学、国語学の分野における数多くの業績については「東方言語史叢考」(昭和2年)、「東亜語源表」(昭和5年)、「国語学叢録」(昭和18年)などの他、「広辞苑」(昭和30年)などの例をまつまでもなく、ここで立入る必要はないが、美術関係では「摂津高槻在東氏所蔵吉利支丹遺物」(京大考古学研究報告7大正12年)「日本吉利支丹文化史」(地人書院 昭和16年)、「吉利支丹研究余録」(国立書院 昭和23年)などの「キリシタン」関係のみならず、「船舶史考」中に載録された「エラスムスと貨狄」「エラスムス貨狄考拾遺」などに見られるように16・17世紀のヨーロッパ文物交渉史関係全般にわたって基礎的な研究を残したことを記さなければならない。

金沢秀之助

没年月日:1967/08/09

 日展・光風会会員金沢秀之助は8月9日杉並区の河北病院で心筋梗塞のため死去した。72才であった。明治28年12月1日秋田県横手市に生れた。大正9年東京美術学校西洋画科卒業。大正9年春から13年秋までパリのアカデミー・ランソンで学び、帰国後岡田三郎助の主宰する春台会、二科会、ついで帝展、二部会、日展に出品した。昭和33年日展が民間団体となってからは会員となった。他に光風会、白岬会、十柯会などの会員でもあった。かつてはアカデミックな画風であったが戦後日展特選になった「牛屋の店」あたりから厚いマティエールをもつ構成的な作風に変り、沈滞しきった日展油絵部の中では最も意欲的な一人であった。戦後の主要作品目録を次に列記する。昭和22年3回日展「窓」23年4回「白い帽子」27年8回「肉屋の店」(特選)28年9回「X繊維業者組合」29年10回「砂丘」30年11回「旅の楽師」31年12回「手をくむ女」32年13回「人と牛肉」33年1回日展「渓流に濯ぐ」(会員)34年2回「漁船と海女」35年3回「夕やけ」36年4回「祭礼の海女達」37年5回「潮騒」38年6回「聖衆来迎」39年7回「海女」40年8回「憩ふ海女達」41年9回「たそがれの海女」42年10回「奈良公園にて」

河村蜻山

没年月日:1967/08/01

 陶芸家で日展監事であった河村蜻山、本名半次郎は8月1日胃病のため鎌倉市の道躰医院で死去した。77才であった。明治23年8月1日に京都市の陶芸家の家に生れた。41年京都陶磁器試験所を卒業し、父の業をついで蜻山と号した。以後大正中期にかけて伝統の束縛のとくにつよい京都の工芸界に新しい動きを起した。染付、窯変、青磁、白磁、三島手、赤絵、金襴手等多方面にわたる作風に秀れた作品を残し、またよく後進の指導にも尽した。昭和38年には多年の活動の功によって恩賜賞を受賞した。略年譜明治23年 8月1日京都市に生れる。明治41年 京都陶磁器試験所卒。明治43年 神坂雪佳主宰佳都美会創立に参加。大正13年 同会解散。美工院創立に加わり理事となる大正15年 日本工芸美術会創立、常務委員となる。日本美術協会審査員。聖徳太子奉讃会第一回展委員、陶板奏楽図出品。燿々会創立。蒼玄会創立、その指導にあたる。昭和2年 8回帝展工芸部(第四部)開設、「楽姫之図」「瑠璃地黒花文花瓶」出品。昭和3年 9回帝展「春妍啼鳥」「高坏竹之画」出品。昭和4年 国際美術協会創立、会員となる。10回帝展「染付四方形花瓶」出品。昭和5年 11回帝展審査員。「染付釣舟花器衝立連作」出品。昭和6年 日本陶芸協会創立総務となる。12回帝展「染付芭蕉果物皿」出品。昭和8年 日本陶器株式会社顧問(~12年)。14回帝展「瑠璃磁群鷺花瓶」出品。昭和10年 日本陶芸協会解散。昭和11年 1回文展審査員「磁器染付松竹梅文大皿三枚揃」昭和12年 文展審査員。昭和13年 千葉県我孫子に移窯。2回文展「磁器鶏口吹墨花瓶」昭和14年 3回文展「青瓷香炉」昭和15年 紀元2600年奉祝展「八方形染付蒼々万古花瓶」昭和16年 工芸美術作家協会創立、常務委員。4回文展「四方形白瓷牡丹文花瓶」昭和17年 5回文展「茶葉末瓷香炉」昭和18年 美術統制会設立、部会委員。美術報国会常任幹事。6回文展「花瓶赤絵」昭和19年 日本美術統制会査定委員。戦時特別美術展「花鳥絵変十枚」昭和21年 1回日展「花瓶赤絵花鳥文」昭和22年 3回日展「花瓶染付三友図」昭和24年 5回日展「磁器富貴清香染付花瓶」昭和25年 6回日展「陶器染付花瓶」昭和26年 7回日展「花瓶四方形兎文」昭和27年 日展参事。昭和28年 9回日展「花瓶青瓷」昭和29年 鎌合に移住、10回日展「陶器花瓶流転」昭和30年 11回日展「花瓶茶金瓷」昭和31年 12回日展「水注金襴手春光」昭和33年 1回日展評議員、「緑地金襴手渦文花瓶」昭和34年 2回日展「花瓶染付蒼生」昭和35年 3回日展「花瓶果実文」昭和37年 5回日展「花瓶梅」昭和38年 37年度日本芸術院恩賜賞受賞。6回日展「花瓶染付落葉」昭和40年 日展監事、8回日展「花瓶染付松」昭和41年 9回日展「赤絵金彩空」昭和42年 8月1日死去する。

長谷川路可

没年月日:1967/07/03

 日本画家で、フレスコやモザイクをよくするので知られた長谷川路可は、7月3日脳溢血のためローマ市メルチーデ病院で死去した。享年69才。本名竜三。明治30年神奈川県藤沢市に生れた。暁星中学在学中に洗礼を受け、大正10年東京美術学校日本画科を卒業した。この年渡欧し、渡欧中にベルリン中央アジア探検隊採集の古代フレスコを模写して昭和2年帰国した。その後帝展に出品し戦後は昭和25年イタリアに赴き、ローマ郊外チヴタヴッキァ市の日本聖殉教者聖堂内「日本二十六聖人殉教図」壁画(フレスコ画)を制作し、昭和30年完成した。この聖堂は日本二十六聖人が1862年列聖された際、記念に1864年建立されたもので、祭壇には26聖人の殉教図が描かれていた。しかしこの壁画は、第2次大戦の戦災によって破壊されたので、長谷川路可が新しい資料にもとづいて祭壇の周囲と天井に新らたに描き直したものである。彼はその功によりローマ市の名誉市民となり、又その名も国際的に知られるに至った。昭和39年には東京オリムピック競技場にモザイク壁画「力・美・悠久」の三部作を完成している。昭和42年6月、「日本二十六聖人殉教図」の天井画を描き加え、またイスラエルの教会にも壁画を描く予定だったが7月3日死去した。葬儀は、チヴタヴッキァの教会で行われた。略年譜1897(明治30)7月9日神奈川県藤沢市に生れた。1920(大正9)第2回帝展「ジェロニモ次郎祐信」出品1921(大正10)東京美術学校日本画科を卒業。「流される信徒」(細川ガラシア夫人)(卒業制作)パリ・アンデパンダン、サロンドートンヌ等に出品、シルバースター賞受賞。後会員となる。フォンテンブロー研究所でボードワン教授にフレスコを学ぶ。ベルリン中央アジア探険隊将来の古代フレスコ画の模写に従事。1927(昭和2)帰国。喜多見カトリック教会にフレスコ壁画制作。「教会の復活と聖ミカエル」「殉教者」1928(昭和3)新興大和絵会に参加。1930(昭和5)ローマにおける日本美術展覧会に参加し欧州米国を廻って帰国。カトリック美術協会を結成。1931(昭和6)第12回帝展「湖畔のまどい」出品。1932(昭和7)第13回帝展「熱国の夜」出品。1933(昭和8)第14回帝展「生物学研究室におけるT博士像」出品。1934(昭和9)第15回帝展「艦橋に立つ末次提督」出品1935(昭和10)名古屋定光寺の納骨堂にフレスコ壁画制作。名古屋徳川美術館、徳川義親邸の建築装飾に従事。(フレスコ壁画)1940(昭和15)日本大学芸術科、フレスコ専科に勤務。1949(昭和24)鹿児島市ザビエル記念教会に壁画制作。「少女ベルナデッタに御出現のルルドのマリア」「臨終の聖フランシスコ・ザビエル日本布教の図」(日本画三点)1950(昭和25)渡欧。ローマにおける世界宗教美術展に参加。「受胎告知」「長崎の切支丹」「細川ガラシア夫人」出品。ローマ法皇ピオ十二世に「切支丹絵巻」(全三巻)を献上。1951~1954この間チヴタヴッキァ(ローマ市郊外)の日本二十六聖殉教者教会にフレスコ壁画「日本聖殉教」制作。のちローマ名誉民証を受けた。1957(昭和32)帰国。武蔵野美術大学に勤務。1958(昭和33)東京ブリヂストン美術館でフレスコ作品を発表。岩国市庁舎壁画制作(モザイク)1959(昭和34)熱海、古屋旅館大浴場壁画制作(フレスコ)1960(昭和35)チヴタヴッキァ壁画制作に対し、第8回菊池寛賞を受領。若い弟子達と「東京フレスコ・モザイク壁画集団(略F・M)」と称するフレスコ・モザイクによる壁画グループを結成。1961(昭和36)早稲田大学文学部エレベーターホール床(モザイク)1962(昭和37)船橋ヘルスセンターホテル(フレスコ、床モザイク)1964(昭和39)東松山カントリークラブ(モザイク〉浜松仏教会館壁画(フレスコ)国立競技場ロイヤルホール(床モザイクメインスタンド、モザイク)静岡シャンソンビル(フレスコ)1965(昭和40)日本美術家連盟理事。戯曲「細川ガラシア」に於る衣装考証及び舞台美術監修。1966(昭和41)長崎日本二十六聖人記念館にザビエル像(フレスコ壁画)制作1967(昭和42)3月、同館に「長崎への道」(フレスコ壁画)制作。遺作となる。6月、ローマ法王パウロ六世の招聘により謁見のため渡伊。同時にチヴタヴッキァ日本二十六聖殉教者教会の壁画及びイスラエルに於ける「聖母子」(モザイク壁画)制作に赴き、7月3日ローマに没す。勲四等旭日小綬章を授与され、従五位に叙せられる。

木村重夫

没年月日:1967/06/14

 美術評論家、詩人の木村重夫は、6月14日、肺結核のため東京都中野区江古田の武蔵野療園で死去した。享年67才。筆名遠地輝武(おんちてるたけ)。木村重夫は、明治34年(1901)兵庫県姫路市に生まれ、大正12年日本美術学校西洋画科を卒業。大正15年からは詩作と美術批評に専心し、昭和4年以後はプロレタリア美術運動に参加し、昭和6年にはプロレタリア美術運動の理論機関誌「プロレタリア美術」「美術新聞」などの編集に参加した。戦後は、昭和27年頃から肺結核にたおれ、闘病生活のなかから昭和33年からは「近代美術研究」を主宰・発行してきた。美術関係の著書には「現代日本画家論」「国画の形成」「美と教養」「川端竜子論」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「新鋭の日本画家」「日本近代美術史」「小杉放庵」「生々流転の研究」「現代絵画の四季」などがある。その他、詩集に「遠地輝武詩集」「千光前町二五番地」などがあり、詩評諭に「石川啄木の研究」「近代日本詩の史的展望」「現代詩の体験」などの著書がある。

町田曲江

没年月日:1967/06/05

 日本画家町田曲江は、6月5日老衰のため死去した。享年88才。本名春之助。明治12年3月3日長野県下高井郡に生れ、少年の頃郷里の南画家児玉果亭の教えをうけた。明治29年同郷の細野完爾と共に郷里を出、京都で南画家内海吉堂の門に入った。翌年吉堂の添書をもって上京し、寺崎廣業の門に入り、同時に白馬会研究所で黒田清輝に油絵を学んだ。明治43年から大正4年にわたり滞欧、作品は主として文帝展、日本画院等に発表し、ことに初期文展頃の活躍が知られる。戦後は日本画院同人で、信州美術会長、信濃美術会々長をしていた。略年譜明治34年 「寡婦」第11回日本絵画協会第6回日本美術院連合共進会出品褒状一等明治40年 「仏陀の光」東京府主催勧業博覧会出品一等金牌。「悲報に接したる仏徒の歩み」第1回文展三等賞。明治41年 国画玉成会に参加。明治42年 関根正直長女ゆきと結婚。明治43年 欧州に留学し、フランスでアルフレット・フーシェ教授の指導でインドの仏教美術の研究に従い、帰朝の際印度に寄り仏蹟を巡歴した。大正2年 帰国。大正4年 「三大門」第9回文展褒状。大正6年 「五十鈴の川上」(三枝折)第11回文展出品。大正7年 「天安河原」(六曲屏風一双)第12回文展出品。大正9年 「十月頃」(対)第2回帝展出品。大正10年 「九官鳥」第3回帝展出品。大正13年 「猫」(対)第5回帝展出品。大正14年 「若き鹿と孔雀」(六曲一双、右森、左庭)第6回帝展委員に推薦され、無鑑査となる大正15年 「喜々羨望・慈雨頻来」(二幅対)第7回帝展、無鑑査出品。(以下無鑑査出品)聖徳太子奉讃美術展覧会委員となり、「久米路橋」出品。昭和2年 「浄化」第8回帝展出品。昭和3年 「健馬」第9回帝展出品。「御操練ノ図」明治神宮絵画館壁画揮毫。昭和4年 「高姿」第10回帝展出品。昭和5年 「摩訶摩瑜利」第11回帝展。昭和6年 「清幽」第12回帝展出品。昭和7年 「鳥小舎」第13回帝展出品。昭和8年 「なぎさ」第14回帝展出品。昭和9年 「晩晴魚竿」第15回帝展出品。「神武天皇御即位式」養正館壁面。昭和11年 「哀愁」(右廃墟、中世尊、左迦毗羅衛城)文展招待展出品。昭和13年 「天岩戸」第2回文展無鑑査出品。昭和14年 「東天鴻基」第3回文展無鑑査出品。昭和15年 「伊那佐の浜」紀元2600年奉祝美術展出品昭和16年 「八紘一宇」第4回文展無鑑査出品。「明治天皇広島大本営軍務御親裁之図」(朝鮮明徴会壁画)昭和18年 「建津之身命」文部省戦時特別展出品。昭和42年 6月4日正六位に叙せられ勲五等双光旭日章を授与される。昭和42年 6月5日逝去。

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