本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





島野重之

没年月日:1966/12/22

 光風会会員、日展評議員の洋画家島野重之は、12月22日午後0時5分、肝硬変のため東京・新宿区の西北診療所で逝去した。享年64才。島野重之は、明治35年(1902)4月10日、滋賀県彦根市に生れ、昭和2年東京美術学校西洋画科を卒業、同4年同校研究科を修了、昭和2年第8回帝展に「偶得信」が初入選、以降、帝展、光風会展に出品し、昭和3年光風会賞を受賞し、同6年光風会々員に推挙され、同12年第1回文展に「水辺初夏」を出品して特選となり、昭和洋画奨励賞をうけ、同14年文展無鑑査となった。戦後は日展の出品依嘱者となり、昭和28年第9回日展に審査員をつとめ、昭和33年社団法人日展の発足のとき評議員に就任した。作品略年譜偶得信(昭和2年8回帝展)、少女と小鳥(9回同展)、中田氏肖像・田端駅附近(昭和4年16回光風会展)、黄い服(11回帝展)、静物(18回光風会展)、アトリエにて(14回帝展)、座像(21回光風会展)、水辺初夏(第1回新文展特選)、室内(2回文展)、お茶時(3回文展)、草の上(5回文展)、水郷(30回光風会展)、早春(昭和21年第1回日展)、婦人と猫(5回日展)、T子の像(39回光風会展)、木蔭(9回日展)、夏(13回日展)、うすれ日(49回光風会展、文部省所蔵)、雪の山路(50回光風会展)、雪国(51回光風会展)。

野間清六

没年月日:1966/12/13

 文化財専門審議会専門委員、女子美術大学教授野間清六は、12月13日、脳軟化症のため東京信濃町の慶応病院で逝去した。享年64才。野間清六は明治35年2月12日、滋賀県、青山立愍の二男として生れ、のち野間家の養子となった。昭和5年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、翌年帝室博物館(現東京国立博物館)に鑑査官補として入り、以後、定年で東京国立博物館学芸部長を辞す迄同館に勤続していた。その後は女子美術大学教授となり、また以前からの文化財専門審議会専門委員の職にあった。その間、大学講師、展覧会審査員などもしばしばつとめ、著書も多い。略年譜明治35年2月12日 滋賀県蒲原郡、青山立愍の二男として生れる。幼名次郎。明治38年 野間家の養子となる。昭和5年 東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。昭和6年 帝室博物館鑑査官補昭和13年 帝室博物館鑑査官となる。昭和26年 東京国立博物館美術課長昭和29年 桑港日本美術展のため渡米。東京国立博物館普及課長昭和32年 東京国立博物館学芸部長シュヴァリエ・ド・ノワール勲章を受く。昭和34年 文化財専門審議会専門委員となる、埴輪展のため渡米。昭和38年 パリ日本古美展のため渡欧。昭和39年 東京国立博物館を定年退職。昭和41年12月13日 脳軟化症にて逝去、従四位勲三等旭日中綬章を賜る。(著書)日本古楽面(昭和10年)、日本美術大系-彫刻(16年)、日本彫刻の美(18年)、日本仮面史(18年)、古仏の微笑(21年)、美を慕う者へ(22年)、日本の名画(26年)、御物金銅仏(27年)、日本美術辞典(27年共著)、日本の面(28年)、日本の絵画(28年)、土の芸術(29年)、墨の芸術(30年)、飛鳥、白鳳、天平の美術(33年)、日本美術(33年)、日本美再発見(38年)、続日本美再発見(39年)、金銅仏(39年)、小袖と能衣裳(39年)、装身具(41年)、インターナショナル日本美術(41年)。

河井寛次郎

没年月日:1966/11/18

 陶芸家の河井寛次郎は、11月18日午後1時5分、京都市東山区の専売公社京都病院で老衰のため死去した。享年76才。河井寛次郎は、柳宗悦、浜田庄司らとともに昭和初年から民芸運動に挺身し、民族的で健康な民衆的な陶芸を主張し、釉薬の研究などにもすぐれた業績をあげた。ロンドン、ニューヨークなどでの個展や昭和32年ミラノ、トリエンナーレ国際工芸展における最高賞受賞など国際的にも著名であった。年譜明治23年(1890) 8月24日、島根県能義郡安来町(現、安来市)に生る。明治43年 松江中学校卒業、東京高等工業学校(現、東京工大)窯業科に入学。明治44年 赤坂、三会堂で、バーナード・リーチの新作展を見て感激、その後間もなくリーチを桜木町の寓居に訪う。大正3年 東京高等工業学校卒業、(前年、腸チフスを病み、一カ年休学)。京都市立陶磁器試験所に入る。大正5年 同試験所に浜田庄司入所、爾後、研究、制作をともに励む。大正6年 試験所を辞し、清水六兵衛の顧問となり、各種の釉薬をつくる。浜田とともに琉球及び九州諸窯を視察す。大正8年 浜田とともに朝鮮、満州、大連等を旅す。大正9年 山岡千太郎の好意により、京都、五条坂に窯を築き鐘溪窯と名づく。三上やす(現、つねと改名)と結婚。大正10年 東京、大阪両高島屋で、当時同店の宣伝部長川勝堅一の斡旋により、宋、元、明、李朝等古陶磁の手法を逐った作品「第一回創作陶磁展」を開き、絶讃をうける。(爾後、年次展を開催)また、東京、流逸荘で「李朝陶磁展」を見、李朝陶磁器の真髄に触れるとともに、この会を主催した柳宗悦を知る。大正11年 前年中の快心作の写真集『鐘溪窯第一輯』を刊行。大正12年 黒板勝美博士の知遇を受け、また大毎京都支局長、岩井武俊を識る。創作についての反省始まる。大正13年 イギリスより帰朝した浜田を介し、柳宗悦との親交始まる。恩賜京都博物館で「陶器の所産心」と題して講演を行ない、新たな所信を披瀝す。大正14年 第5回東京高島屋展に用途を重んじた新しい作風を示す。大正15年 柳、浜田とともに「日本民芸美術館」設立の念願起こす。黒板博士の努力で「河井氏後援会」生る。作家としての一大転換機をむかえ、作品の発表を差し控えて、制作に専念す。昭和2年 「河井氏後援会」主催の作品展を、東京丸の内の日本工業倶楽部で開く。柳編纂の『雑器の美』に「陶器の所産心」を掲載す。昭和3年 御大礼記念国産振興博覧会に、柳、浜田、その他日本民芸美術館同人とともに、民芸品で家具調度を整え「民芸館」と名づけた建物を新築出品す。昭和4年 帝国美術院より院展無鑑査として推薦さる。3カ年の沈黙ののち、東京高島屋で、第6回作品展覧会を開く。昭和5年 米国ハーヴァード現代芸術協会主催の「日英現代工芸品展覧会」に出品。大阪高島屋主催大阪美術倶楽部で「作陶10年記念展」を催す。昭和6年 柳、浜田とともに雑誌『工芸』を発刊。柳とともに鳥取、島根を旅し、鳥取の牛の戸窯の開窯に立会い、松江では郷里の工人を指導す。この年の展覧会に色絵を出品す。昭和7年 ロンドンの山中商会支店で個展を開く。練上手、抜蝋の作を出品。昭和8年 日本民芸美術館主催の東京高島屋での「綜合新工芸展覧会」に作品を出品す。東京、上野で開催の第8回国展に賛助出品す。倉敷文化協会主催の個展を倉敷市商工会議所で開く。柳とともに現代民窯展準備のため、中国、九州の諸窯を歴訪す。昭和9年 東京、上野の松坂屋で開催の「陶匠十家展」に出品。バーナード・リーチを自窯にむかえて、ともに制作す。東京高島屋で開催の「現代日本民芸展」にモデルルームとして浜田の食堂、リーチの書斎とともに台所を設計し出陳す。昭和10年 再度リーチを自窯にむかえる。大原孫三郎翁より柳に対し、民芸美術館設立の資金寄付の申出をうけ、協議に参画す。この年陶硯の制作に没頭す。柳と四国に旅す。昭和11年 東京高島屋で陶硯百種展を開く。柳、浜田とともに朝鮮を旅し会寧を経て満州吉林にはいる。大阪高島屋で陶硯展を開く。『工芸』68号は河井寛次郎特輯号を刊行。東京駒場に、「財団法人日本民芸館」を設立。理事となる。昭和12年 パリ万国博覧会に出品の鉄辰砂草花丸文大壺がグランプリを受賞す。再度、柳、浜田とともに朝鮮を旅す。昭和14年 民芸協会同人とともに沖縄に渡島す。米人ギルバートソンは2カ年間作陶のため弟子入りす。昭和15年 銀座鳩居堂で富本、浜田、河井の「三人展」を催しこの機会に三人の作品図録を出版す。東京、大阪両高島屋で「作陶20周年展」を催す。昭和16年 柳、浜田とともに華北を旅す。昭和18年 東西高島屋で浜田との二人展開く。昭和19~20年 戦火はげしくほとんど窯立たず、文筆に没頭す。棟方志功は版画にて鐘溪窯を賛える「鐘溪版画柵」24図を制作す。昭和21年 長女、良に養嗣子、博(現在博次と改名)をむかえる。高島屋での個展復活。昭和22年 寛次郎詞「火の願ひ」を棟方志功版画にて制作47図を完成す。自詞を自刻した陶版「いのちの窓」を完成。酒瓶を主とした個展を開く。昭和23年 『化粧陶器』『いのちの窓』を出版。陶版「いのちの窓」の個展を開く。昭和24年 日本民芸館西館で「辰砂について」と題し講演を行なう。柳著『河井寛次郎』を札幌の鶴文庫より出版。この年から異なった角度による不定形の造型始まる。昭和25年 「還暦記念展」を東京、大阪両高島屋で開く。日本民芸館では、館所蔵の河井作品300点を陳列、還暦記念展とす。昭和26年 フランスで開催の陶器展に出品。この頃しきりに木彫を試作す。昭和27年 仏人ラルー入洛し、1カ年余弟子入りす。東京高島屋増築記念として富本憲吉、浜田とともに「三人展」を開く。昭和28年 朝日新聞社より『火の誓ひ』出版。『いのちの窓』の英訳を刊行。夏、リーチ、柳、浜田とともに共著『陶器の本』(仮称)の原稿執筆のため信州松本在霞山荘に滞在。東京高島屋主催「作陶40年展」を東京の光輪閣、大阪高島屋で催す。陳列作品700点。昭和29年 大丸神戸店でリーチ、浜田と「陶芸3人展」を開く。東京高島屋でリーチ、富本、浜田とともに「陶芸4人展」を催す。泥刷毛目の手法を制作。前年よりひきつづき共著『陶器の本』の原稿執筆のため、春、千葉県房州、夏信州松本在霞山荘にて、リーチ、柳、浜田とともに滞在す。昭和31年 日本民芸館本館建物修理のため、浜田とともに抹茶碗を寄贈し、柳の書軸を加えて、民芸館にて頒布会を行う。東京、大阪、両高島屋で個展を開催。20年振りに新型陶硯、練り上げ手、陶板花手文の筒描き始む。昭和32年 朝日新聞社主催で、京都、東京両高島屋および名古屋のオリエンタル中村で「陶芸40年展」を開く。ミラノ、トリエンナーレ展で「花文菱形扁壺」グランプリを受賞。京都の民芸使節団をひきいて沖縄に渡島。昭和33年 木彫で手、人物像、動く手、動く足、面等を造る。またこれらで陶土の原型をつくる。一方幾何学的貼付陶文の試作、色釉を使った打薬の手法を始む。腸閉塞と腸癒着のため大手術をうける。昭和34年 木彫の制作つづく。秋の高島屋展に木彫の面20余点を出品。三彩打薬の手法漸く安定し、壺、大鉢、茶碗、皿等の製作に打ち込む。緑釉および陶彫の試作始まる。北海道、青盤舎で柳、浜田との「三人展」開く。昭和36年 大原美術館は四人の陶匠(富本、リーチ、河井、浜田)作品の常時陳列施設として「陶器館」を開設。昭和37年 雑誌『民芸』1月号に「六十年前の今」の第1回を掲載、第59回まで続く。和蘭のマーガレット王女来訪。天満屋広島店で、個展を開く。昭和38年 名古屋オリエンタル中村、天満屋岡山店で個展を開く。昭和39年 東京、大阪両高島屋および名古屋オリエンタル中村で個展開く。昭和40年 大原美術館は『河井寛次郎作品集』の刊行を企画。天満屋広島店で個展を開き、広島より郷里安来に旅す。また天満屋福山店の「日本民芸館同人陶器展」に賛助出品す。昭和41年 京都高島屋で「寛次郎、博次、武一三人展」を催す。名古屋オリエンタル中村で「寛次郎博次父子展」を開く。天満屋岡山店、東西両高島屋でそれぞれ個展を開く。6月頃より躰の衰弱はげしく、11月2日、専売公社病院に入院、11月18日午後1時5分永眠す。12月1日紫野大徳寺山内の真珠庵で日本民芸協会葬を執行。法名、清心院鐘溪寛仲居士。享年77才。昭和42年 3月、京都府立総合資料館で、河井寛次郎コレクション約300点を出品し「民芸展」を催す。5月、東西高島屋で、6月、大原美術館で「河井寛次郎遺作展」を催す。またこの年に、大原美術館より大型図録、『河井寛次郎作品集』を出版。

加藤顕清

没年月日:1966/11/11

 日本芸術院会員、日展常任理事、日本彫塑会会長加藤顕清(本名、鬼頭太)は、気分すぐれず藤沢市の自宅に引籠り中、9日午後2時半ごろ二階アトリエの階段から誤って転落、藤沢の別府外科病院に入院したが、11月11日午前4時35分不慮の事故による脳内出血、骨盤骨折のため急逝した。享年71才。葬儀は日本彫塑会葬で17日港区芝の青松寺で行なわれた。明治27年12月19日、岐阜県に生まれ、まもなく移住して、幼少年時代を北海道に育った。上京して大正4年東京美術学校彫刻科に入学、同9年3月同科塑造部本科を卒業、12年同研究科を修業した。引続いて西洋画科本科に再入学して油絵を修め、昭和3年3月卒業した。彫刻科在学中の大正10年第3回帝展に「静寂」が初入選し、以後毎年入選した。昭和3年第9回帝展で「女人像」が特選に挙げられ、第10回・11回展と連続特選の栄を担った。その後長年に亙って、帝展、文展、日展等の審査員をつとめるなど、終始官展系の有力作家として活躍し、また後進の指導育成に尽したことは、下記の略年譜で明らかであるが、殊に戦後芸術完成の境地に達した昭和25年第6回日本美術展出品の「人」、第7回展の「人間像」(昭和26年展、日本芸術院賞)の頃より、あたかも死去の時、第9回日展開催中で絶作となった「呼びかける人間像」に至るまで一貫して、造形、精神両面にわたる人間性の追究に重点を置き、そのよりよき表現に向って専念するところが窺えた。一方、早くからヒルデブラント美学を根底にした独自の造形理論を確立し、それに関し、また西洋美術史に対する見解などについて、随時依頼に応じて執筆した原稿も、この世代の実技家として比較的多かった。なお死去直前まで、明治百年記念の北海道開拓者顕彰像を制作中であったが、完成をみずして終ったことはまことに惜しまれる。略年譜明治27年 12月19日岐阜県に生まれる。明治27年 北海道雨竜郡に移住す。大正2年 北海道旭川中学卒業。(現旭川東高等学校)大正3年 上智大学哲学科入学中退。大正4年 東京美術学校彫刻科入学、高村光雲教授、白井雨山教授の教を受く。大正9年 東京美術学校彫刻科卒業、奈良にて古代彫刻の研究をなす。大正10年 第3回帝展に「静寂」を出品し初入選、その後毎年入選。大正12年 東京美術学校研究科修業。東京美術学校油絵科に再入学、藤島武二教授、長原孝太郎教授の教を受く。昭和3年 東京美術学校油絵科卒業。第9回帝展に「女人像」を出品、特選受賞。昭和4年 第10回帝展に「群像」を出品、特選受賞。昭和5年 第11回帝展に「立像」を出品、特選受賞。昭和6年 帝国美術院展覧会審査委員仰付らる。奈良にて上代彫刻の研究(専ら飛鳥仏像について)昭和7年 北海道庁嘱託。昭和8年 阿寒国立公園その他北海道内国立公園の美化施設及びアイヌ人の彫刻技術指導。東京美術学校講師嘱託。昭和9年 日本彫刻家協会創立、会長。昭和10年 北海道庁千島調査委員委嘱、南北千島樺太踏査。昭和11年 文部省美術展覧会審査員委嘱。綜合北方文化研究会常任理事。北方の文化、自然及び生活様式、生産様式の綜合的研究。昭和13年 北海道第二拓殖計画委員委嘱。昭和16年 第4回文部省美術展覧会審査員委嘱。「コタンのアイヌ」を出品。昭和17年 海軍省嘱託アリューシャン方面戦線最高顧問、キスカ島施設監督官。昭和18年 第6回文部省美術展覧会審査員委嘱。昭和21年 東京芸術大学講師。日本彫刻家連盟委員長。東京都都市美委員会委員委嘱。昭和23年 日本美術展覧会審査員委嘱。昭和25年 日本美術展覧会審査員委嘱。日展参事。昭和26年 文部省著作権審議会委員委嘱。昭和27年 日展出品「人間像」に依り26年度芸術院賞受賞。昭和29~30年 イタリー・ローマにてギリシャ古典彫刻の研究。フランス・パリにて近代美術の研究。ドイツ・ミュンヘンにてアドルフ・ヒルデブラントとハンス・マレーヌの研究。スエーデン、デンマーク、ノールウエーにて北欧新古典彫刻の研究。昭和30年 フィンランド、ラップランド、ナルビーク、アイスランド、アラスカ等北方圏旅行。日本、イタリア美術協会会長(在ローマ)。昭和31年 再度奈良にて上代の彫刻及び中国古代彫刻の研究。昭和32年 日本美術展覧会審査員委嘱。日展評議員委嘱。昭和33年 日展実行委員委嘱。昭和35年 日展審査員委嘱。日本都市建設協会技術委員。昭和36年 東京都都市美協会常務理事。アジア善隣協会長、足立正氏の委嘱によりインドネシア・ジャカルタ市にカルティーニ像建設の為出張。昭和37年 2月日本芸術院会員任命。3月日展理事。昭和38年 3月東京教育大学講師委嘱。8月カルティーニ像完成建設除幕式の為インドネシア国に招へいされ再度出張。ジョクジャカルタに滞在ボルブドゥールにてヒンズー教彫像の研究。昭和39年 1月日本放送協会(NHK)美術顧問嘱託。4月文部省中等教育美術講習会講師委嘱。9月弁財天と世界女性群像(江の島・湘南港)完成除幕。昭和40年 2月日展常任理事。4月文部省中等教育美術講習会講師委嘱。10月キスカ会名誉会長。昭和41年 6月日本彫塑会会長就任。11月11日没。

斎藤五百枝

没年月日:1966/11/06

 挿絵画家として知られる斎藤五百枝は、脳出血のため東京都中野区の自宅で死去した。享年84才。明治14年12月21日千葉県上総国長生郡に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中白馬会展10周年記念展に「夕陽」が入選し、卒業後は岡田三郎助に師事した。大正、昭和初期へかけては新聞、雑誌の挿絵家として活躍し、新聞の美術記者、日活映画の美術部主任等の職に従事した。晩年は染色の研究をしていた。

上田英次

没年月日:1966/10/26

 奈良国立博物館学芸課美術室長兼資料室長の上田英次は、10月26日午後11時25分、京都第一赤十字病院で後腹膜部しゅようのため死去した。享年56才。上田英次は、明治43年(1910)7月17日、奈良市に生れ、奈良市立第一椿井小学校を経て郡山中学校を卒業、昭和6年京都市立絵画専門学校に入学、同10年同校を卒業。翌11年院展に「観測所の朝」を出品入選したが、昭和22年国立博物館奈良分館(現、奈良国立博物館)学芸課に勤務、同32年文部技官に任官、同年普及室長に任ぜられ、同39年資料室長、同40年美術室長兼資料室長を命ぜられた。その間、「西方寺蔵十王図」解説(大和文化研究第2巻第4号)、「柳里恭展観作品目録」「柳里恭印譜・落款」(大和文化研究第4巻第5・6合併号)、「長谷寺の肖像画」(大和文化研究第5巻第2号)などを執筆し、「聖徳太子絵伝展」(昭和40年・奈良国立博物館)の企画展観に参画した。なお、昭和37年以降は正倉院古裂調査員をつとめ、また奈良市史編纂調査員の役にあった。

岩田千虎

没年月日:1966/10/06

 日展会員、彫刻家岩田千虎は、10月6日午前0時33分、大阪府堺市の自宅で脳卒中のため死去した。享年72才。終始、動物のみの写実彫刻をつくって著名だった千虎は、それにふさわしい職歴の持主である。明治26年10月28日熊本県に生まれる。大正4年大阪府立農学校畜産科卒業、大正10年大阪府立農学校教諭、昭和18年大阪府立獣医畜産専門学校教授、昭和22年大阪府立浪速大学(現、大阪府立大学)獣医科講師、同家畜病院長、同24年同校を退職して、自宅で岩田家畜病院を開業、現在に至った。本業に縁の深い彫刻をはじめたのは農学校教諭時代からで、大阪在住で、元東京美術学校彫刻科助教授であった黒岩淡哉に師事し、昭和8年第20回二科展に出品して初入選し、ついで北村西望にも指導を仰ぎ、昭和9年第15回帝展に石膏像「牡牛」が初入選し、以来帝・文展を通じ10回連続入選した。戦後の日展でも依嘱出品を続け、昭和36年新日展第4回では「闘牛」で菊華賞を受け、翌年第5回日展では審査員をつとめ、38年日展会員となった。以上は主に官展での出品歴であるが、千虎は実に展覧会発表以外の製作歴が豊富である。次に後日の参考のため列挙しておく。<昭和10年>東久邇宮御愛馬及御愛犬を製作、東久邇宮盛厚王成年記念作を製作。<昭和11年>三笠宮に単独拝謁を賜り騎馬像の彫塑作品を献上。<昭和12年>賀陽宮御愛馬奥陸号を製作す。滋賀県大津関寺長安寺の牛仏を寄進す。<昭和13年>賀陽宮御愛馬松駒号を製作献上す。<昭和14年>閑院宮に騎馬像を献上して御陪食を賜る。<昭和16年>李王琅御愛馬秋康号を謹製す。満州国皇帝、蒙古王に作品を献上す。<昭和17年>皇太子殿下に単独拝謁を賜り騎馬像を献上す。<昭和14年以来戦争中の大作>第四師団司令部に馬像寄贈、第四師団司令部に騎馬奇襲の浮彫額面寄贈、輜重兵暁部隊に輜重難路通過の彫塑寄贈、金岡陸軍病院に桃太郎像寄贈、陸軍獣医学校に騎兵斥候の彫塑寄贈、天王寺動物園にリタの像其他の像製作す、北池田村に緊裸農夫の像其の他石田梅厳像等製作す。<戦後の大作>京都府綾部市庁前平和像、南極探検カラフト犬15頭慰霊像・堺大浜公園、(33年に、第一次南極観測隊の際、南極に残留したカラフト犬タロー、ジローを彫って話題をまく)、大阪動物愛護会動物慰霊碑像、福岡県若松第三中学校太郎犬の像寄贈、大阪府動物慰霊像寄贈、婦人補導院鬼子母像寄贈、岡山県吉備津鼻ぐり塚牛豚像、百千鳥耳原伝説像、市民会館噴水に子供の像寄贈、和歌山労災病院庭に伏虎の像寄贈、白鷺サナトリウムに純愛の像寄贈。なお死後、正六位勲五等瑞宝章を贈られた。

加藤菁山

没年月日:1966/09/25

 瀬戸陶芸協会参与の陶芸家加藤菁山は、9月25日愛知県瀬戸市追分町の陶生病院で、胃ガンのため死去した。享年70才。瀬戸陶芸界の長老で、瀬戸陶芸協会生みの親である。帝展、文展、日展などに入選し、戦後愛知県から文化功労者として二回表彰された。

船戸洪吉

没年月日:1966/09/05

 美術記者、評論家船戸洪吉は、9月5日腸閉塞のため東京築地の国立がんセンターで逝去した。享年49才。大正5年10月21日朝鮮江原道洪川に生れる。昭和19年2月青山学院英文科中退後、毎日新聞社に入社、サンデー毎日の編集を経て学芸部に移り、美術関係を担当した。27年3月から9月迄欧州に美術見学のため留学し、帰国後は美術批評、評論に筆をとり、32年には「画壇」を美術出版社から出版している。36年毎日新聞副参事、37年学芸部副部長の職にあり、また39年からは事業部兼務となり、同年、国際美術展の作品収集並びに調査のため欧米に派遣され、同展はじめ各展覧会事業に尽力していた。

高畠華宵

没年月日:1966/08/31

 大正から昭和にかけ挿絵界で一世を風びした高畠華宵は8月31日東大病院で心筋こうそくのため死去した。享年78才。本名幸吉。明治21年4月6日愛媛県宇和島市に生れ、15才の時挿絵画家を志して大阪に出、花鳥画家平直水に就いた。翌36年京都市立美術工芸学校日本画科へ入ったが3年で中退し、同39年洋画家を志し浅井忠の関西美術院に入った。翌年洋画研究をのぞみ上京したが、事情あって就学せず42年寺崎広業の門に入った。ここも暫時にして辞め、以後独習で挿絵を続けた。明治44年中将湯の商標である中将姫を書いて一躍その名を知られるに至った。その後大正に入ってから講談社出版雑誌(講談倶楽部、面白倶楽部、少年倶楽部他)単行本、新聞挿画等広汎な出版物の挿絵、装画に筆をふるった。しかし戦時に入ってからは、感傷的雰囲気をもつその画風から第1線を退き、戦後は児童向出版物などに執筆していた。又昭和34年には渡米して個展を開いたり、日本画の指導にあたったりしたが、晩年は比較的恵まれず、昭和39年明石愛老園に身を寄せ不遇の日を送った。このような境遇を伝えきいた往年のフアン達が集り40年10月「華宵会」(会長鹿野琢見 文京区弥生2-4-2)が発足した。この会が中心となって昭和41年1月4日より上野松坂屋において華宵名作回顧展が開かれた。開会前日心筋梗そくで倒れ、4月全快状態に回復したが、7月再び脳血せんで倒れ、31日逝去したものである。同日勲五等双光旭日章に叙せられ、8月3日出版美術家連盟(会長-岩田専太郎)各出版関係者により鳥居坂教会で「さし絵葬」が営まれた。11月10日より明石天文科学館に於て遺作展「華宵をしのぶ名作展」が開催された。

原勝郎

没年月日:1966/07/16

 新樹会会員の洋画家原勝郎は、7月16日午後1時15分、じん臓ガンのため東京都港区の自宅で逝去した。享年77才。原勝郎は、明治22年(1889)6月4日、千葉県山武郡に生れ、葵橋洋画研究所に学び、大正7年(1918)に挿絵画家としてハワイに行き、1920年アメリカへ渡る。1922年フランスのパリへ移り、1924年以後、39年まで毎年サロン・ドートンヌに出品した。1925年サロン・デ・ザンデパンダンに出品、1927年サロン・デ・チュイレリーに出品、1935年にはアントワープのギャラリー・ロワイヤルにおいて個展を開催する。1937年パリのロージェ画廊で個展、1939年12月、第二次世界大戦のために帰国した。昭和17年日動画廊において滞欧作品による個展を開催し、戦後は新樹会に招待され、昭和24年第3回展から会員として参加、以後毎年出品、昭和25年には北荘画廊において木内克と二人展を開催した。昭和41年第20回新樹会展に絶筆を含め遺作9点が陳列された。作品略年譜麦の秋、森A・B、静物A・B、樹、風景、庭、筍(昭和25年第4回新樹会展)冬の畑、リウ・アルマンモアザン、丘と畑、風景、静物A・B(5回新樹会展)干物、村の入口、葱、海老、田と畑(6回新樹会展)裏の畑、樹、リンゴ畑、静物(7回新樹会展)森、新緑、静物、風景、静物(8回新樹会展)風景A・B、自然公園(9回新樹会展)樹、自然公園、椅子と花、風景A・B(10回新樹会展)裏道、裏山、森、風景、静物A・B(11回新樹会展)冬、村の入口、森(12回新樹会展)裏山、山ぞいの畑、樹、風景、静物(13回新樹会展)樹、丘1・2(14回新樹会展)丘、風景A・B(17回新樹会展)樹、静物A(19回新樹会展)静物(絶筆)、ケイ・フラマン、リュ・モンパルナッス、風景1・2・3、樹1・2・3(20回新樹会展)

栗原信

没年月日:1966/07/04

 二紀会委員の洋画家栗原信(本名信賢)は、7月4日午後9時56分、東京都中野区の小原病院で脳血栓のため死亡した。享年72才。栗原信は、戦前二科会会員となり、戦争中は陸軍報道班員として従軍、戦後は二紀会創立に参画し、また新潟大学教授として後進を指導、日本美術家連盟理事としても活躍した。著書に「六人の報道小隊」(昭和18年)がある。年譜明治27年(1894) 3月24日、茨城県東茨城郡に生れる。大正元年 茨城師範学校を卒業。大正5年 二科展に「木」初入選。大正6年 二科展に「竹藪」「夕暮」入選。大正7年 東京・本郷区・小学校の図画専科訓導となる。二科展に落選し、小説家を志して井伏鱒二、和田伝らと同人雑誌「世紀」を発刊。昭和元年 再び画業に入り、二科展に「伊豆の山」「夏の庭」入選。昭和2年 太平洋画会展に「曇り日」「夏」を出品、二科展に「佐渡の浦路」「小木浜の岩」入選。昭和3年 5月、小学校訓導を辞し、フランスへ留学、アカデミー・グランショミェールに籍をおく。昭和6年 6月帰国、二科展に「トレド遠望」「冬のノートルダム寺院」など10点を特別出品し、昭和洋画奨励賞を受賞。昭和7年 二科展に「春日野の新緑」他2点を出品、会友に推される。昭和8年 二科展に「四月の妙高山」他1点出品、台湾に旅行。昭和9年 満州に旅行。このあと、昭和20年敗戦にいたるまでに20回におよぶ満州・中国に取材旅行を行なう。昭和10年 二科展に「夏の喇嘛塔」他2点を出品。昭和11年 二科展に「居庸関」他2点を出品、会員に推挙される。昭和12年 二科展「北平」「妙高の春」出品。昭和13年 中支・徐州戦に従軍、二科展に「小休止15分(徐州西方追撃戦)」を出品。昭和14年 陸軍美術協会に参加、二科展に「大陸(黄色い瓦)」「大陸(城外)」を出品。昭和15年 二科展に「蒙古の旅」他2点を出品。昭和16年 二科展に「酪農部落(北満)」他1点を出品、陸軍報道班員としてマレー半島作戦に従軍。昭和17年 二科展に「マレー娘」他11点を出品。昭和18年 二科展に「永豊鎮」を出品。ビルマ作戦に従軍。昭和19年 南支・長沙作戦に従軍。二科会解散。昭和20年 満州・新京において敗戦をむかえる。昭和22年 5月旧二科会会員の正宗得三郎、宮本三郎らと第二紀会を創設、9月第1回展を都美術館において開催し、「夏」「野ばら」を出品。第23年 二紀展に「平野早春」他2点出品。昭和24年 二紀展に「白馬高原」他1点出品。昭和25年 二紀展に「河原の部落」「原始林」を出品。新潟大学芸能学科洋画科教授に就任。昭和26年 二紀展に「雪の日の白樺林」「都会の午後」を出品。昭和27年 二紀展「釣船」他2点出品。昭和28年 二紀展「山の晩秋」他2点出品。昭和29年 二紀展「常盤橋風景」他2点出品。昭和30年 二紀展「北越海岸」「秋(東大構内)」。昭和31年 二紀展「山上湖」「大阪」。昭和32年 二紀展「山門」出品。サンパウロ・ビエンナーレ展に日本委員として参加。昭和33年 中南米諸国を写生旅行する。昭和34年 二紀展に「コーヒー園(ブラジル)」他2点を出品。昭和36~37年 ヨーロッパに写生旅行。昭和38年 二紀展に「ラパンアジール酒場」他2点を出品。昭和39年 ヨーロッパ、中近東に写生旅行。二紀展に「ソレント」「マロニエ林」出品。昭和40年 インド旅行。二紀展に「箱根」他1点出品。12月ギリシャ、アフリカ、東ヨーロッパ旅行。昭和41年 5月帰国。6月24日より新宿・ギャラリー・アルカンシェルで水彩画による個展を開催、同月29日個展会場において脳血栓のためたおれる。7月4日死去。6日、二紀会葬として東京中野の宝仙寺で葬儀が営まれた。

板垣鷹穂

没年月日:1966/07/03

 東京写真大学教授、美術評論家の板垣鷹穂は、7月3日午前零時35分、ボーエン氏病のため東京・信濃町の慶応大学病院で死去した。享年71才。板垣鷹穂は明治27年(1894)10月15日、東京に生れ、独協中学、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部(美学専攻)に入学、在学中の大正9年、東京美術学校講師(西洋美術史、西洋彫刻史担当)となり(大正15年まで)、大正10年東京大学を中退、大正13年文部省在外研究員としてヨーロッパに留学、西洋美術史を研究し、大正14年帰国した。著作活動は、大正12年「新カント派の歴史哲学」(改造社)にはじまり、近世ヨーロッパ美術の研究を中心とした研究を数多く発表した。中期以後は、建築・都市・写真・映画などの新しい表現分野についても積極的に評価し、広い視野にたった評論活動を展開し、戦後は、東京大学講師、武蔵野美術大学講師、早稲田大学教授、東京写真大学教授などを歴任し、美学、美術史を講じて後進を指導、晩年は芸術家の<個性>の構造解釈に深い関心をよせ、最後の論文は「INDIVIDUALITY AND SOCIETY-A Methodological Essay on the History of Italian Art(個性と社会)」(ANNUARIO 3、ローマ日本文化館)であった。主要著作年譜新カント派の歴史哲学(改造社・大正12)、西洋美術主潮(岩波書店・大正12)、近代美術史潮論-民族性を主とする(大鐙閣・大正15)、フランスの近代画、西洋美術史要、K・シュミット:現代の美術(訳書)、芸術と機械との交流(岩波書店・昭和4)、国民文化繁栄期の欧州画界、イタリアの寺(芸文書店)、現代日本の芸術(信正社・昭和12)、ミケランジェロ(新潮社・昭和15)、造型文化と現代、建築(育生社弘道閣・昭和17)、芸術観想(青葉書房)、写実(今日の問題社)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(新潮社・昭和20年)、芸術概論(理想社・昭和23)、肖像の世界(六和商事出版部・昭和25)

畑正吉

没年月日:1966/06/24

 我国彫刻界の耆宿、畑正吉は6月24日三鷹市の自宅で病没した。享年84才。明治15年2月12日富山県高岡市に生まれた。同39年東京美術学校彫刻科を卒業し、翌年から農商務省海外練習生として滞欧留学3ケ年。帰国の翌44年第5回文展に「歳三十」が入選し、第7回文展では「某人肖像」で褒状をうけ、帝展の初期までは毎回入選。大正2年東京美術学校教授となり、奉職したが、大正9年文部省から1カ年の欧米留学を許された。帰国後の同11年、東京高等工芸学校教授に転任し、以来昭和16年まで本官に任じ、なお講師として長年同校の教職にあった。一方、造幣局、賞勲局の嘱託となり、昭和20年辞任するまで多くの記念メダル彫刻の製作にたずさわった。それらのうちでも殊に薄肉彫の長技を存分に発揮し、佳作も多い、終始官展に作品を発表し、昭和6年には帝国美術院の推薦となった。日本彫刻家連盟、能美会会員を経て、戦後は日本彫塑会会員として、同展及び日展に随意出品していた。特に晩年は能彫刻に力を注ぎ、昭和28年、30年には能彫個展を開くなど、彫刻団体、能彫会の有力な会員でもあった。学校教授時代の門下生に、寺畑助之丞、本郷新ら現在著名作家が多い。

山田守

没年月日:1966/06/13

 東海大学教授、山田守建築設計事務所長の山田守は、6月13日午前4時15分、胃がんのため死去した。山田守は、大正9年、東大建築学科を卒業、分離派建築会の主要なメンバーとして活躍し、逓信省営繕技師として今日の逓信建築の基礎を築き、昭和初年には、関東大震災後の橋梁復興に尽力し、戦後は東京厚生年金病院をはじめとする病院建築の発展と近代化に大きな功績を残した。年譜明治27年(1894) 4月19日、岐阜県羽島郡に生れる。明治45年 大垣中学校卒業。大正6年 第四高等学校卒業。大正9年 東京帝国大学工学部建築学科を卒業、分離派建築会を組織、逓信省営繕技師となる。大正13年 門司電話局(門司市)。大正14年 東京中央電信局(東京・大手町)。昭和2年 大阪中央電信局(大阪・堂島)。昭和3年 復興院橋梁課嘱託となり永代橋、清州橋など隅田川6大橋、及びお茶の水聖橋の設計に関与する。昭和4年 中国、シンガポール、印度、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、チェコ、オーストリー、ハンガリーなどヨーロッパ諸国及びアメリカに出張、その間フランクフルト・アム・マインにおいて開催された第2回国際新建築会議に出席。昭和5年 名古屋中央電話局(名古屋市)。昭和9年 宇部電話局(宇部市)。昭和10年 日本技術協会常務理事となる、以来科学技術の教育・普及につとめる。昭和11年 熊本貯金局、神戸中央電話局。昭和12年 東京逓信病院竣工、これに対して逓信協会賞を受ける。広島貯金局。昭和13年 大阪逓信病院(大阪・桃谷)。昭和15年 逓信省営繕課長に就任。昭和17年 現東海大学の前身航空科学専門学校の設立に協力する。昭和19年 国防電話局(東京・永田町)勲三等瑞宝章をうける。昭和20年 逓信省を退官する。昭和21年 通信建設工業株式会社を設立、専務取締役となる。昭和24年 通信建設工業株式会社を解散、山田守建築事務所を開設する。昭和26年 東海大学理事に就任し、工学部建設工学科主任教授となる。昭和28年 東京厚生年金病院(東京・飯田橋)文部大臣賞を受ける、防衛庁東京中央病院(東京・三宿)。昭和29年 大阪厚生年金病院、建築学会賞をうける。昭和30年 九州厚生年金病院(北九州市)。昭和31年 大阪市立医科大付属病院(大阪・天王寺)。昭和32年 逓信建築の功労に対し前島賞をうける。厚生年金保険庁舎(東京・杉並)長沢浄水場。昭和33年 熊本逓信病院(熊本市)。昭和35年 メキシコ建築家協会より外国特別会員に推される。社会保険横浜中央病院(横浜市)、国際電信電話研究所(東京・恵比寿)、AOAビル(東京・青山)、市立岸和田市民病院(岸和田市)。昭和37年 大阪船員保険病院(大阪・港)、大和郡山市庁舎、郡山綜合病院(奈良県郡山市)。昭和38年 日本武道館の設計競技に当選。昭和39年 藍綬褒章を受ける。日本武道館(東京・千代田区)、京都タワー・ビル(京都市)、市立清水綜合病院(清水市)。昭和40年 勲三等旭日中綬章をうける。玉造整形外科病院(島根県)、ヨーロッパ諸国、アメリカ、ブラジルに建築調査旅行。昭和41年 4月頃より健康を害し療養、6月13日逝去。

川口軌外

没年月日:1966/06/05

 洋画家の川口軌外は、6月5日午前0時5分、脳軟化症のために死去した。享年73才。本名を孫太郎。川口は、長い滞欧生活のあいだにアンドレ・ロートやフェルナン・レジェに学んで、帰国後は二科展、独立展、戦後は国画会展などに作品を発表、幻想的で構成的な作風を展開、しばしば国際展にも出品した。年譜明治25年(1892) 11月10日、和歌山県有田郡に生れる。明治36年 小学校卒業、吉備実業学校に入学。明治38年 吉備実業学校中退。明治39年 和歌山県師範学校に入学。この頃、洋画グループに参加する。明治44年 師範学校を中退、洋画家を志して上京、太平洋画会研究所に入所して中村不折に師事。大正3年 日本美術院洋画部へ移り、小杉未醒に師事。大正5年 結婚。安井曽太郎滞欧作品に感銘する。大正8年 フランスに留学、イタリア、スペインなどを旅行する。大正11年 帰国。10ケ月滞日。「少女とミモザの花」「トアレット」「静物」「風景1、2」を二科展に出品。大正12年 再渡仏する。このころ、佐伯祐三、前田寛治、里見勝蔵らと交遊する。大正15年 アカデミー・ロートに学ぶ。昭和2年 フェルナン・レジェに師事し、作風はしだいに構成的になる。昭和3年 フランスより15回二科展に「ボヘミヤン」「静物」を出品。昭和4年 帰国。二科展に「車のある風景」「寺院」「坐せる女」「キャフェにて」など10点を特別出品し、二科賞を受賞する。1930年協会に加入する。昭和5年 二科展に「月空」「静物」「ビワの実」を出品、二科会々友となる。11月、二科会を脱会して、独立美術協会創設に参画して会員となる。昭和6年 第1回独立展に「詩思」「智」「マンドリン」「写像」など10点を出品。昭和7年 第2回独立展に「スブニール」「地維」「白い花」など7点を出品。昭和8年 第3回独立展に「柘榴」「牡丹花園」「月夜の雪景」「花束」を出品。昭和9年 第4回独立展に「少女と貝殻」「蓮」「瀞峡」を出品。昭和10年 第5回独立展に「鸚鵡と少女」「貝殻」など4点を出品。昭和11年 第6回独立展に「白蓮」「浴女」「貝殻」を出品。昭和12年 第7回独立展に「エスキースB」「偶感A」など4点を出品。昭和13年 第8回独立展に「群鳥」「静物」など4点を出品。昭和16年 第11回独立展に「漁夫A」「ダリヤ」など4点を出品。昭和17年 第12回独立展に「花と果物」「桃」など4点を出品。昭和18年 独立美術協会会員を辞す。昭和20年 和歌山県の郷里に疎開し、専ら野菜、果実などの静物画を描く。昭和22年 国画会会員にむかえられ、21回国画会展に「ビワ」「桃」など5点を出品。昭和23年 第22回国画会に「花」「女」を出品。昭和24年 第23回国画会に「菊と婦人」「花」を出品。昭和25年 和歌山より上京する。第24回国展に「果物と花」「室内」を出品。昭和26年 第25回国展に「月」「人」を出品。昭和27年 第1回日本国際美術展に「鳥の情態」「花と裸婦」「静物」を出品。国展に「油送船」他2点を出品。昭和28年 第2回日本国際美術展に「日傘と人」「作品」を出品。サンパウロ国際ビエンナーレ展、ニューヨーク・アブストラクト・アーチスト展に出品。27回国展に「製油所と船」「異影」「群像」を出品。昭和29年 第28回国展に「円」「港の朝」他1点。第1回現代日本美術展に「円」「製油所の港」を出品。昭和30年 第29回国展に「作品」A・B・C、第3回日本国際美術展に「水浴する人たち」「夏の浜にて」を出品。昭和31年 第30回国展に「群像」「構図」、第2回現代日本美術展に「集団」「人体」を出品。昭和32年 第31回国展に「人体」「港」、第4回日本国際美術展に「人体」を出品。昭和33年 第32回国展に「鳥と樹」「作品」、第3回現代日本美術展に「樹間と鳥」を出品。神奈川県立近代美術館において<川口軌外・脇田和展>開催される。昭和34年 第5回日本国際美術展に「三つのポーズ」出品。昭和35年 第4回現代日本美術展に「水浴の人たち」「作品」(水浴の人)を出品。この頃、健康を害する。昭和36年 第6回日本国際美術展に「作品」を出品。昭和37年 第5回現代日本美術展に「群像」「顔のある木」を出品。脳軟化症におかされ半身不随となる。昭和38年 第7回日本国際美術展に「鳥」を出品。国画会々員を辞す。昭和39年 第6回現代日本美術展に「森の中」「人」を出品。昭和41年 6月5日死去。

小谷津任牛

没年月日:1966/05/30

 日本美術院同人の小谷津任牛は、5月30日胃潰瘍のため、死去した。本名三郎。明治34年9月4日東京四谷に生れた。小学校卒業後日本郵船に勤め、大倉商業夜学専修科に学んで、卒業後同社社員となった。勤務のかたわら日本大学法文科に学んだが、後転じて川端画学校日本画部に入った。在学中院展に初入選し、小林古径に師事した。昼間会社に勤務し、夜間制作の十数年を送り、昭和15年日本郵船を退職し画業に専念した。この間昭和5年日本美術院院友、同18年無鑑査、同21年同人になった。作品略年譜昭和2年 第14回院展「薄暮」昭和3年 第15回院展「天主教女人」昭和5年 第17回院展「緩歌漫舞」院友となる。昭和6年 第18回院展「少女遊戯図」昭和7年 第19回院展「虫愛づる姫君」「蝶愛づる姫君」昭和8年 第20回院展「六賢台」昭和9年 第21回院展「婦女能楽図」昭和10年 第22回院展「犬」昭和11年 第24回院展「織女」昭和12年 第23回院展「蓮の花開く」昭和13年 第25回院展「名笛初調」昭和15年 第27回院展「秋の客」昭和17年 第29回院展「数珠掛桜」(日本美術院賞)昭和18年 第30回院展「礼楽図」(無鑑査)昭和21年 第31回院展「うたげ」(日本美術院賞)同人となる昭和22年 第32回院展「手毬桜」昭和23年 第33回院展「花蔭」昭和24年 第34回院展「鏡」昭和25年 第35回院展「舞踏」昭和26年 第36回院展「朝」「夕」昭和27年 第38回院展「西施を真似る女」昭和29年 第39回院展「朝霧」昭和30年 第40回院展「江島縁起」昭和31年 第41回院展「月夜」昭和32年 第42回院展「夜の衣をかえし寝る小町」昭和33年 第43回院展「ビグマリオン」昭和34年 第44回院展「なぎさ」昭和35年 第45回院展「青いターバン」昭和36年 第46回院展「燭」昭和37年 第47回院展「白河の花の宴」昭和38年 第48回院展「俊成九十の賀」昭和39年 第49回院展「山のいで湯」昭和40年 第50回院展「円」 以上

河村俊子

没年月日:1966/05/11

 洋画家、立軌会・女流版画会・国際アートクラブ会員河村俊子は、2年間の欧米・メキシコ旅行を予定し、海外渡航の手続もすませ、4月初日の出発間ぎわ健康診断にて胆石手術を余儀なくされ、その手術がもとで5月11日午後3時44分、普通なら健康体を保ちながら惜しくも急逝した。享年56才。明治43年2月28日東京に生まれる。聖心女子学院卒業。昭和元年から小林万吾に油絵の指導をうけ、更に14年熊岡美彦の絵画研究所にも学んだ。昭和15年第8回東光会展に初入選し、16年17年と続いて受賞し、18年第11回東光会展で会友に推され、同年第6回文展にも入選した。戦後、昭和21年第2回日展に入選以来、25年第6回日展まで入選を続けた。その間、22年には東光会会員となり、また同年第1回女流画家展、第1回美術団体連合展にも参加出品した。ところで26年から画風の変化により日展出品を断念し、27年には東光会をも退会した。以後専ら個展発表を心がけ、28年・30年・32年・35年と意欲的な個展を開くとともに、30年には版画にも興味をもち、日本板画院に入会した。31年には立軌会の会員に迎えられ、国際アートクラブにも入会、現在に至った。36年には女流版画会にも入会、会員となった。41年1月夢土画廊での第5回目の個展が最後となった。

安倍能成

没年月日:1966/05/07

 学習院院長、安倍能成は、皮膚病のため東京、文京区の順天堂病院に入院治療中であったが、急性顆粒白血球減少症を併発、7日逝去した。享年82才。明治16年12月愛媛県松山市に生まれた。明治42年東大哲学科を卒業、慶応大学予科、法政大学、旧一高の講師をつとめるかたわら文芸評論を執筆、大正13年9月から哲学研究のため1年4カ月欧州に留学した。帰国後、旧京城帝国大学教授を経て、昭和15年第一高等学校校長に就任した。戦後は、20年貴族院議員、21年幣原内閣の文部大臣、国立博物館長を経て学習院院長に就任した。また21年4月から34年7月まで、皇太子の学問に関する参与となった。夏目漱石在職の松山中学の卒業生という縁もあり、阿部次郎、小宮豊隆、和辻哲郎らとともに漱石門下の逸材といわれ、カント哲学の権威として知られていた。「カント実践哲学」「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「西洋道徳思想史」「孟子荀子」「岩波茂雄伝」など多くの著書がある。39年には勲一等瑞宝章を受けている。

岸田日出刀

没年月日:1966/05/03

 東京大学名誉教授・工学博士の岸田日出刀は、5月3日午後3時30分、心筋こうそくのため山梨県山中湖畔の別荘で死去した。享年67才。岸田日出刀は、昭和4年以降東京大学工学部建築学科教授をつとめ、建築意匠に関する論文を多数発表し建築の造型意匠の権威として知られ、また前川国男、丹下健三など現代日本建築界に活躍している建築家を育成した功績も大きく、日本建築学会会長、文化財専門審議会第二分科会専門委員、東京オリンピックの施設特別委員長などを歴任した。手がけた主要な作品には、故内田祥三との共作東大安田講堂(1922-25)、東大図書館(1928)、衆・参院議長公邸、高知県庁、西本願寺津村別院などがある。著書も多く主要なものに、「日本建築史」(昭和7年)「欧州近代建築史」(昭和8年)「第11回オリンピック大会と競技場」(昭和12年)「薨」(昭和12年)「堊」(昭和13年)「過去の構成」(昭和13年)「熱河遺跡」(昭和15年)「扉」(昭和17年)「日本の城」(昭和19年)「焦土に立ちて」(昭和21年)「窓」「縁」などがある。略年譜明治32年(1899) 2月6日、福岡市に生れる(郷里は鳥取県)大正5年 東京府立第三中学校卒業。大正8年 第一高等学校二部甲類卒業。大正11年 東京帝国大学工学部卒業。大正12年 東京帝国大学工学部講師。大正14年 東京帝国大学工学部助教授となり、ヨーロッパ諸国に出張(1年間)昭和4年 東京帝国大学工学部教授・工学博士。昭和11年 ヨーロッパのヴェルクブント運動に刺激されて創設された日本工作文化連盟に参加。昭和23年 日本学術会議会員に選ばれる。昭和25年 建築界につくした功績によって昭和24年度日本芸術院賞を受賞。昭和34年 東京大学工学部教授を定年退職。昭和41年 5月3日午後3時30分死去。

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