本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





板倉星光

没年月日:1964/12/17

 日本画家板倉星光(本名捨次郎)は、12月17日心筋こうそくのため、京都府乙訓郡の自宅で死去した。享年69才。明治28年12月2日京都市上京区に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。本科2年在学中の大正4年第9回文展に「露」が初入選し、文帝展を通じて11回入選している。この間昭和4年第10回展「春雪」翌11回展「春雨」が特選となった。翌6年第12回日展で推薦となったが、新文展となってからは無鑑査となった。戦後は菊地塾に拠り日展に依嘱出品をしている。作品は人物を主とし、ことに美人画を得意とした。

新井完

没年月日:1964/12/16

 元京都美術専門学校教授で洋画家の新井完は、12月16日兵庫県夙川の自宅で没した。享年80才。明治18年兵庫県姫路市に生れ、同43年東京美術学校西洋画科を卒業した。同44年第5回文展に「青きもの」が初入選、その後も文展に出品し、大正8年第1回帝展の「満潮」、同11年第4回帝展の「水浴女」はいずれも特選となった。その後帝展委員、審査員をつとめたが、昭和10年帝展改組後は中央画壇から離れた。昭和20年から同25年まで京都美術専門学校の教授をつとめ、同36年には兵庫県文化賞を受けた。

寺内万治郎

没年月日:1964/12/14

 洋画家、日本芸術院会員、寺内万治郎は12月14日東京渋谷の日赤中央病院で胃ガンのため逝去した。享年75才。明治23年11月25日大阪市に生まれた。大正5年東京美術学校西洋画科を卒業した。同7年第12回文展に「茶萸」を出品して以来帝展に出品をつづけ、同14年第6回展の「裸婦」と昭和2年第8回展の「インコと女」で特選を受賞、同3年には推薦となり無鑑査の資格を与えられた。その後、新文展、戦後の日展、社団法人日展或いは光風会に裸体や人物画を発表しつづけ、これに独自のアカデミックではあるが重厚な作風を発展させて行った。昭和26年の第6回日展出品の「横臥裸婦」その他一連の裸婦によって日本芸術院賞を受け、同35年には日本芸術院会員に推された。これらのほか母校及び東京教育大学、新潟大学の講師として多くの後進を指導した。略年譜明治23年 大阪市生。明治42年 大阪府立天王寺中学校卒業。大正5年 東京美術学校西洋画科卒業。大正14年 第6回帝展「裸婦」出品、特選。昭和2年 第8回帝展「インコと女」出品、特選。昭和3年 帝展推薦。昭和4年 光風会会員。昭和8年 帝展審査員、第14回帝展「二人の女」出品。昭和9年 同、第15回帝展「青衣姉妹」出品。昭和10年 第二部展「浴衣」出品、帝室博物館買上。昭和13年 第2回文展「赤いコート」出品。昭和14年 第3回文展審査員。昭和15年 奉祝展「新秋」出品。昭和16年 第4回文展審査員。昭和17年 派遣画家としてフィリッピンに滞在。昭和18年 東京美術学校講師。昭和 年 第6回文展審査員。昭和21年 第2回日展審査員、「画字T君像」出品。昭和24年 第5回日展審査員。昭和25年 第6回日展出品「横臥裸婦」並に裸婦連作により日本芸術院賞を受く。日展第2科参事。東京美術学校講師辞任。昭和26年 第7回日展審査員。昭和27年 東京教育大学教育学部講師。昭和28年 第9回日展審査員。昭和30年 第11回日展審査員。昭和31年 第12回日展「裸婦」出品。昭和32年 第13回日展審査員、「髪」出品。昭和33年 日展評議員、「裸婦立像」出品。昭和34年 新潟大学教育学部講師。昭和35年 日本芸術院会員、第3回日展に「横臥裸婦」出品。昭和35年 社団法人日展理事。以後昭和39年第7回日展まで毎年「裸婦」出品。昭和39年 12月14日東京の日赤中央病院で死去。

河合瑞豊〔3代〕

没年月日:1964/12/09

 陶芸家河合瑞豊は、12月9日、京都市東山区の自宅で狭心症のため逝去した。享年51才。本名喜太郎。京都市立美術工芸学校卒業、昭和31年日展特選、32年三代瑞豊を襲名、33年から屡々日展出品依嘱者となっている。現代工芸美術協会会員。

近藤洋二

没年月日:1964/11/05

 太平洋美術会委員、近藤洋二は11月5日朝鎌倉市の自宅附近の県道で交通事故にあい死去した。享年66才。明治31年6月19日川越市に生れ、大正5年旧制川越中学校卒業後ただちに、本郷洋画研究所と川端画学校に学。昭和3年から5年まで滞仏。同4年サロン・ドートンヌに「ラ・メイゾン」が入選し、また同年の帝展にもフランスから出品入選した。その他文展・太平洋点に出品。昭和10年から太平洋画会会員となり、以後運営委員となり、とくに戦後は会の再建と運営の中心的存在であり、太平洋美術学校教授としても活躍した。

中沢弘光

没年月日:1964/09/08

 洋画家、日本芸術院会員、帝室技芸員、文化功労者中沢弘光は、9月8日東京文京区の日本医科大病院で老衰のため逝去。享年91才。明治7年東京芝に生れた。若くして曽山幸彦に師事し、のち堀江正章、黒田清輝に学んだ。はじめ明治美術会に出品したが、明治29年黒田らの白馬会結成に参加し、これに多くの作品を発表した。また同年東京美術学校西洋学科選科に入学し同33年卒業した。明治40年第1回文展以来、始終帝展に発表し、初期文展では度々受賞、同43年から審査員となった。大正8年からは帝展の審査員をつづけ、昭和5年帝国美術院会員、同12年帝国芸術院会員、同19年帝室技芸員となった。戦後も日展に出品、同32年文化功労者となり、日展顧問であった。そのほか、光風会、白日会、日本水彩画会等の長老として重きをなした。その作風は、甘美な抒情性をたたえている。主なものに「おもいで」(国立近代美術蔵)「まひる」(同前)「かきつばた」(同前)、「野路(露)」(同前)「花下月影」(同前)「鵜飼」(宮内庁蔵)「鵜の森」(東京都美術館)、「静思」(東京芸大蔵)等がある。略年譜明治7年 8月4日元日向佐土原藩(元島津仮)の藩士を父として東京芝に生る。明治20年 曽山(大野)幸彦の画塾に入る。明治24年 大野氏没後堀江正章の指導を受く。明治26年 明治美術会へ「上己」初出品。明治29年 東京美術学校西洋画科選科入学、白馬会の結成に参加。明治33年 東京美術学校卒業。パリ万国博覧会に「猿廻し」出品。明治37年 白馬会第9回展「裸体、霧」。明治38年 白馬会第10周年記念展「冬の山麓」。明治40年 東京勧業博覧会に「嵐のあと」出品、一等賞。明治40年 第一回文展に「夏」出品、三等賞。ほか「森の一隅」「冬」出品。明治41年 第二回文展に「雄鹿半島の一角」出品三等賞。ほか「雄鹿半島の地蔵岩」「怒濤」出品。明治42年 第三回文展に「おもいで」出品、二等賞ほか「まいこ」出品。明治43年 文展審査員となる。第四回文展「まひる」「温泉」出品。明治44年 第五回文展に審査員として「嵯峨のほとり」「暖炉の前」「奈良の晩春」出品。明治45年(大正1年) 白馬会解散の後、杉浦非水、三宅克巳、山本森之助ら7人と光風会を結成し、この年6月第1回展を開く。第6回文展に審査員として「岸の丘」「乳の祈願」「皷」出品。大正2年 第7回文展に審査員として「海苔とる娘」「水に近く」出品。大正3年 第8回文展に「ながれ」「女滝」「灯」を無鑑査出品。大正4年 第9回文展に「ゆく春」「夏の人」「三つの思い」を無鑑査出品。大正5年 第10回文展に「春日の神子」「青き光」を無鑑査出品。大正6年 第11回文展に「朝鮮歌妓」「帰途」を無鑑査出品。大正7年 第12回文展に「かきつばた」「桃咲く丘」を無鑑査出品。大正8年 帝展審査員となる。第1回帝展に「ひやけ」「光明」出品。大正9年 第2回帝展に審査員として「野路」「春」出品。森脇忠と共著「スケッチの描き方」、(アルス社)大正10年 第3回帝展に審査員して「壁に凭りて」「湖上にて」出品。大正11年 欧州遊学。約1年余フランス、イタリア、イギリス、スペインを巡歴。大正12年 帰国。大正13年 白日会を同志と結成。第5回帝展に委員として「休息」「裸体」出品。大正14年 第6回帝展に委員として「温泉」「おどりの前」出品。大正15年 第7回帝展に委員として「花下月影」「洋装」出品。昭和2年 第8回帝展に委員として「ヤシマツクを着けたる女」「海」出品。昭和3年 第9回帝展に審査員として「染井のほとり」出品。昭和4年 第10回帝展に審査員として「雪の追憶」出品。昭和5年 帝国美術院会員となる。第11回帝展に「峡谷温泉」出品。昭和6年 第12回帝展に「散華」出品。昭和7年 第13回帝展に「汐汲」出品。昭和8年 第14回帝展に「更くる夜」出品。昭和9年 第15回帝展に「奈良所見」出品。昭和11年 文展招待展に「鵜飼」出品。昭和12年 帝国芸術院会員となる。第1回文展に「嶋の鴎」出品。昭和13年 第2回文展に「北京万字楼」出品。昭和14年 第3回文展に「夜光虫ひかる」出品。昭和15年 奉祝展「鵜の森」昭和16年 第4回文展に「静思」出品。昭和17年 第5回文展に「歓喜」出品。昭和18年 第6回文展に「波切り」出品。著書「屋根窓」(有光社)昭和19年 帝室技芸員拝命。戦時特別展に「山上朝拝出品。著書「回想の旅」(教育美術戦興会)昭和21年 第1回日展に「春来る」、第2回日展に「夜明け」出品。昭和22年 第3回日展に「微笑」出品。昭和23年 第4回日展に「化粧」出品。昭和24年 第5回日展に「蓮露」出品。昭和25年 第6回日展に「女子信教」出品。昭和26年 第7回日展に「静聴」出品。昭和27年 第8回日展に「斗花」出品。昭和28年 第9回日展に「鶴の踊り」出品。昭和29年 10回日展に「誘惑」出品。日本橋三越にて米寿記念展を開き初期よりの代表作約110余点陳列。昭和30年 第11回日展に「仏都、寧楽」出品。昭和31年 第12回日展に「月のぼる」出品。昭和32年 第13回日展に「蜑今昔」出品。文化功労者に列す。昭和33年 第1回日展に「初ちぎり」出品。社団法人日展顧問となる。昭和34年 第2回日展に「尼僧」出品。昭和35年 第3回日展に「清水音羽の港」出品。昭和36年 第4回日展に「金堂拝観」出品。昭和37年 第5回日展に「裸婦」出品・昭和38年 第6回日展に「京の一日」出品。昭和39年 5月勲3等旭日章を受章。9月8日逝去。正四位に叙せらる。

岡直巳

没年月日:1964/08/28

 文学博士岡直巳は8月28日胃癌のため死亡した。享年60才。明治37年4月22日宮城県宮城郡に生れ、昭和5年慶応義塾大学文学部美術史学科卒業。同8年8月同学大学院(東洋美術史専攻)修了。同13年4月高野山大学文学部仏教芸術科教授に就任し、17年には同学を退職して慶応義塾大学嘱託となり福沢全集の編集に協力した。19年に三十三間堂の仏像研究に体して日本諸学振興委員会より研究助成金を受ける。33年8月文部技官として国立博物館奈良分館に勤務し、その後同館は奈良国立博物館と名称を変えたが、36年4月に同館学芸課長となった。主要論文として昭和37年3月に東北大学より文学博士を与えられた「神像彫刻の研究」(参考論文「鎌倉時代彫刻論」)があり、他に「神像彫刻の一考察」(仏教芸術33、昭和32年9月)、「神像彫刻に就て」(古美術3、昭和38年10月)、「東大寺技楽面考」(大和文華研究47、昭和37年3月)のほか彫刻史関係で34の論文があり、また主として昭和13年ごろまに執筆した近世絵画に関するもの25編がある。著書は「興福寺の彫刻」(近畿日本叢書6、昭和37年4月)、「仏教彫刻」(鹿鳴荘、昭和26年10月)ほかである。

藤井達吉

没年月日:1964/08/27

 藤井達吉は、明治14年6月14日愛知県碧海郡に生れた。18才の時、名古屋の服部の七宝店に入り七宝制作を学び、明治37年24才のときポートランド博覧会出品のため渡米、翌年帰国し広く工芸全般に亘る研究に精進した。日本美術協会会員、また正木直彦を会頭とする吾楽会の会員であった。大正元年、第1回フューザン会展に参加して刺繍壁7点を出品したが殆ど公募展には出品しなかった。大正12年頃から伝統工芸の技法研究に入り“鳥毛立女屏風”(御物)の手法を探研した作品などがある。昭和16年真鶴に移り、更に第二次大戦中小原村、更に25年碧南市に疎開した。制作の巾は絵画、彫刻、工芸の面では七宝はもとより、刺繍、金工、漆工、染色、紙工芸などに亘り、ことに紙漉きの過程中に染色したこうぞ等の繊維を漉き重ね、紋様を作りだす独特の漉き込み和紙は近年小原の特産となっている。昭和30年以来、所蔵の古美術品と自作など約2,000点を愛知県文化会館に寄贈している。8月27日黄だん、急性気管支炎のため没した。享年83才。

磯井如真

没年月日:1964/08/23

 重要無形文化財保持者、磯井如真、本名雪枝は、明治16年3月9日香川県高松市に生れた。同36年3月香川県工芸学校用器漆工科卒その後山中商会で漆工技術を磨き、香川県立工芸学校、或は県立工芸技術研究所に勤務した。昭和8年文展初入選以来、毎年入選をつゞけ、戦後は日展に出品し、24年日展審査員となった。又、28年には、その独自の技術、蒻醤が女性の措置を講ずべき無形文化財として選定された。蒻醤とは、タイ、ビルマ地方において特異な発達を遂げた漆芸線彫加飾の技法、漆器の面で刀で模様を線彫しその中に色漆をうめて模様を表現する方法。日本には室町時代に渡来、利休茶会記にもかな書で「きんま手」とあり珍重された。わが国では文政年間名工玉楮象谷が松平家の保護によりそれにともなう藍胎漆器と共に製作し以来高松地方の特殊漆芸として伝承されたもの。如真の代表作には、きんま八角盆、彫漆しやくなげ(手箱)などがある。略年譜明治36年 3月19日香川県高松市に出生。明治 年 3月香川県工芸学校用器漆工科卒。明治 年 4月大阪市北区山中商会入社漆工芸技術を修得。明治42年 高松市に於て自営。大正5年 9月香川県立工芸研究所教諭心得を命ぜられる。昭和4年 2月香川県立工芸研究所技術師嘱託。昭和8年 文展入選。昭和11年 文展特選。昭和14年 同特選。昭和15年 同無鑑査となる。昭和24年 日展審査員。昭和28年 助成の措置を講ずべき無形文化財として選定。昭和28年 4月岡山大学教授。昭和30年 第2回伝統工芸展にて文化財保護委員会委員長賞。昭和36年 紫綬褒章を受章。昭和39年 8月23日脳出血のため高松市の自宅で逝去した。享年81才。

野島康三

没年月日:1964/08/14

 国画会会員野島康三(号・熈正)は、39年(1964)8月14日、神奈川県葉山の自宅において死去した。享年75才。明治22年(1889)浦和市に生れ、慶應義塾在学中から写真研究に入り、写真家として成功し、かたわら洋画を春陽会展、国画会展に出品、また大正期、昭和初期には岸田劉生、万鉄五郎、富本憲吉、梅原龍三郎などの後援者・蒐集家として美術界に貢献した。略年譜明治22年(1889) 2月12日銀行家野島泰次郎の長男として浦和市に生れる。明治38年 慶應義塾普通部に入学。明治40年 写真を始める。第2回写真品評会、東京写真研究会第1回展に出品する。明治43年 東京写真研究会に入会する。大正元年 病気のため慶應義塾大学を退学する。大正4年 三笠写真館を開設する。大正8年 兜屋画堂を開設し、関根正二、村山槐多の遺作展を開催するとともに、中堅作家の発表の場とする。大正9年 兜屋画堂を閉鎖する。三笠写真館を移譲し、野々宮写真館を東京・九段下に開設する。大正11年 東京小石川竹早町の自邸を開放して、岸田劉生、万鉄五郎、小林徳三郎、富本憲吉などの個展を開催する。大正13年 第2回春陽会展に洋画を出品し入選する。昭和元年 国画創作協会の第2部(洋画)開設に関与し、油絵を出品して同会会友に推される。日本写真会第2回展に富本憲吉、柳宗悦の肖像を出品する。昭和2年 第6回国画創作協会展に出品する。野島主催の野々宮写真展を開催。昭和3年 国画創作協会第1部解散し、梅原龍三郎が第2部を国画会と改称して発足するのを助け、評議員として参加する。昭和4年 国画会に裸婦など出品。昭和7年 自費を投じ写真雑誌「光画」を発刊。伊奈信男、木村伊兵衛、中山岩太などなど編集に当り近代写真の樹立を目ざす。小石川自邸に李朝陶磁器展及び日本古民芸展を開催。昭和8年 写真の個展開催(銀座紀伊国屋ギャラリー)12月「光画」廃刊。昭和9年 銀座三昧堂にて写真の個展を開催。昭和10年 慶応大学カメラクラブ顧問および全日本写真連盟委員となる。昭和11年 福原信三夫妻とハワイ旅行。昭和14年 福原信三と国画会に写真部を創設。昭和28年 第2回写真の日(6月1日)に日本写真協会より表彰される。昭和38年 日本フォトセンター(株)相談役としてパークスタジオ建設を後援。昭和39年 8月14日神奈川県葉山一色の自邸で永眠。75才。11月23日より1週間有楽町フォトサロンでフジ・フィルムの協力と国画会、日本写真会、野々宮会、一色会の共催によって野島康三回顧遺作展を開催した。なお故人の遺志により、一美術愛好家として国画会の絵画、彫刻、写真、版画、工芸の5部門に「野島賞」を設定した。

石川寅治

没年月日:1964/08/01

 日展監事、示現会代表の洋画家石川寅治は、8月1日渋谷区原宿の伊藤病院で敗血症の療養中心臓衰弱のため逝去。享年90才。明治8年高知市に生れ、明治24年上京、小山正太郎の不同舎に入った。はじめ明治美術会に出品したが、同34年明治美術会の解消の後同志と太平洋画会を結成してその主要会員となった。また研究所を設けて後進を指導し、その後身たる太平洋美術学校校長をもつとめた。その間、明治35年から3年にわたって欧米を巡歴した。同40年以降文、帝展をはじめ戦後の日展まで多くの作品を発表した。初期文展で屡々受賞し、のち帝展の委員、審査員を度々つとめた。昭和22年太平洋画会を脱会し、新に示現会を結成してその主宰者となった。また、大正7年以来東京高等師範学校講師となり、昭和24年には東京教育大学講師を依嘱されて多くの学生を指導した。同28年多年洋画界、教育界につくした功績によって日本芸術院恩賜賞を受けた。初期には婦人像が多かったが、のちには好んで港や船をえがき、アカデミックな作風から次第に印象主義的な明るい画調に移った。略年譜明治8年 4月5日高知市に石川義忠の長男として生る。明治24年 2月洋画修業を志して上京し、小山正太郎画塾不同舎に入学。中村下折、下村為山、岡精一筆の後輩として勉学した。明治26年 明治美術会展に初めて「野鴨」を出品。明治28年 明治美術会展に「湯浅伍助」を出品。明治29年 明治美術会展に「農家」を出品。28年より29年に亘り、師、小山が浅草パノラマ館に日清戦争「平壌包囲攻撃」及び「旅順総攻撃」の大画面作製に当り助手を勤めた。明治30年 明治美術会展に「帰来洗刀」を出品。明治31年 明治美術会展に「裸婦」を出品。明治32年 パリ万国博覧会に油絵「竹林」を出品。明治34年 郷里高知で結婚した。11月満谷国四郎、吉田博、中川八郎の同志と太平洋画会を結成。翌年より毎年展覧会を開催。また研究所を下谷区真島町に設置して後進の指導につとめた。明治35年 10月絵画研究の為アメリカへ渡り、ボストン、バッファロー、デトロイトで所持の水彩画の展覧会を開催。明治36年 3月ヨーロッパに渡り各国の美術館を見学。明治37年 6月印度洋を航して帰国。明治38年 翌39年にわたり師、小山が浅草パノラマ館に日露戦争「旅順総攻撃」及び「奉天会戦」の大画面作製にあたり、助手をつとめた。明治40年 東京勧業博覧会にパステル画「静物」を出品して3等賞牌を受く。第1回文展に「秋雨」「乙女」(パステル)を出品。明治41年 第2回文展に「菊」「白百合」「金魚」を出品「菊」は三第賞。明治42年 第3回文展に「葡萄」「桃の節句」を出品。明治44年 10月第5回文展に油絵「雨の日」を出品。12月より翌年3月まで琉球に旅行し那覇、首里、中城、糸満等各地を写生した。大正元年 第6回文展に「鞆の津」「まる窓」を出品。大正2年 第7回文展に「港の午後」「雨やんだ朝」「虫干」を出品。「港の午後」は2等賞。大正3年 大正博覧会に油絵「秋晴」「漁村」の真書を出品。第8回文展に油絵「母の着物」「西日さす浜辺」を出品。大正4年 第9回文展に油絵「深潭」「野うるし咲く頃」を出品。大正5年 第10回文展に油絵「水郷の黄昏」を出品。サンフランシスコ世界大博覧会に「静物」を出品して三等賞牌を与えられた。大正6年 台湾に旅行し二ケ月に亘り蕃界に出入して各地を写生し30余点の油絵を描き台北で展観し、更に内地に持帰り東京及び大阪三越で展覧会を開催して台湾の風景を紹介した。立太子礼奉祝献納画台湾風景を描くために渡台して「高雄港」を写生した。第11回文展に油絵「驟雨の徴」を出品。文展規定により推薦以後無鑑査。大正7年 師、小山の後を受けて東京高等師範学校講師になり図画専修科を担当、爾来15年間図画教育に尽した。10月台湾総督府嘱託になり新庁舎会議室に2面の壁画を描くことになった。同月満州、朝鮮に写生旅行し、大連で展覧会を開催した。大正8年 台湾に渡り総督府新庁舎の壁画を納入した。文部省教育検定委員会臨時委員となり、昭和8年8月迄15年間勤続。第1回帝展の審査員に選ばれ、同展に油絵「雨歇んだ朝」「深碧の流」を出品。大正9年 第2回帝展に審査員として油絵「卓上」「深淵」を出品。大正10年 東京市外滝野川中里にアトリエ並に住宅を建築して移転。第3回帝展に審査員として油絵「化粧」「驟雨の後」を出品。大正11年 平和記念東京博覧会審査官となり同展に「妙高山」を出品。第4回帝展に審査員として「雨後」「高雄港」を出品。大正12年 台湾総督府より、明治神宮絵画館へ献納の北画揮毫を依嘱され材料蒐集のため渡台。大正13年 第5回帝展に委員として「晴れ行く朝」「花園」を出品。大正14年 中等図画教科書「最新図画」を編輯し冨山房より発行。第6回帝展に「南国の船」「ダリヤ」を出品。大正15年 聖徳太子奉賛展委員となり、同展に「浴後」を出品。第7回帝展に審査員として「花」「柏島の朝」を出品。台湾総督府より明治神宮絵画館に献納の「北白川宮殿下台北入城」の壁画を完成した。昭和2年 文部省より教員検定委員会無試験検定調査事務を嘱託する。第8回帝展に「野尻湖」「仔猫」を出品。昭和3年 同7年まで、朝香宮妃充子内親王殿下並に喜久子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。第9回帝展に審査員として「少女」を出品。昭和4年 第10回帝展に「下田港」を出品。昭和5年 上海より蘇州、杭州へ旅行、江南風景を写生す。第11回帝展に審査員として「蘇州の春」を出品。昭和6年 第12回帝展に審査員として「凝視」を出品。昭和7年 第13回帝展に「雨後の港」を出品。昭和8年 第14回帝展に「瀞峡」を出品。昭和10年 第2部会の審査員となり「造船所」を出品。昭和11年 新文展の委員となり、「鏡前」(臨時、招待展)。昭和12年 3年間、朝香宮湛子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。海軍館に「地中海海戦」を描き、第1回新文展に「憩い」を出品。昭和13年 第2回新文展審査員となり「港」出品。海軍省嘱託となり、中支那方面に派遣され「渡洋爆撃」「鎮江攻略」の作戦記録画を描く。昭和14年 海軍省軍務局事務嘱託となる。第2回新文展審査員となり「長江遡帆」を出品。昭和15年 支那事変に於る勤労により賜品及従軍記章拝受。紀元2600年奉祝展委員となり「出湯の宿」を出品。昭和17年 第5回新文展に「港」を出品。昭和18年 第6回新文展に「造船場」を出品。海軍省より「南太平洋海戦」の記録画作製を命ぜられ資料蒐集のためラバール方面に出張、帰還後完成。中村不折の後を受けて太平洋美術学校校長に就任。昭和19年 11月東京都板橋区に住宅を建築して移転。昭和21年 3月第1回日展に「裸女」を出品。昭和22年 東京都美術館参与となる。第2回日展に「農事忙」を出品。11月太平洋画会を脱退し、新に示現会を結成しその代表となる。昭和23年 第4回日展に油絵「佐渡金山」を出品。昭和24年 東京教育大学講師となる。第五回日展審査員となり「新緑の頃」を出品。昭和25年 日展参事となる。第6回日展に「新緑の庭」を出品。昭和26年 第7回日展審査員となり「山間の温泉郷」を出品。昭和27年 第8回日展「岩風呂」を出品。10月上野公園精養軒で喜寿の祝賀会を開催。昭和28年 5月多年の功績により恩賜賞授与。第9回日展に審査員として「白川村の春」を出品。昭和29年 第10回日展に「川なかの温泉」を出品。昭和30年 第11回日展に審査員として「銚子の海」を出品。昭和33年 日展改組され社団法人日展となり監事に就任。昭和38年 米寿祝賀会及び記念会展を開催。昭和39年 8月1日没

堂本漆軒

没年月日:1964/07/29

 漆工芸家、堂本漆軒は明治22年11月3日京都市で生れた。本名五三郎。富田香漆に師事し漆芸を学んだ。昭和3年第9帝展が初入選となり、そのご屡々入選をつづけ、昭和18年までに文帝展入選8回、戦後は日展に作品を発表し、26年以来出品依嘱、29年第10回日展審査員晩年は日展評議員をつとめていた。官展以外は京都市展、京都工芸展などにも出品し、京都工芸作家協会理事、全日本工芸美術家協会京都支部の要職をつとめるなど長老として京都漆芸界の発展に大いに尽力した。日本画家、堂本印象の実兄にあたる。

魚住為楽

没年月日:1964/07/15

 重要無形文化財保持者、魚住為楽は、明治19年12月20日、石川県小松市に生れた。明治40年6月から翌41年9月大阪久保田鉄工所に入所、金工業を学び、41年11月から大正5年まで天王寺区寺町山口徳蔵について仏具製作修業のかたわら鈴の鋳造について研究、24才からまた、金沢にて銅羅について独学研究をはじめた。昭和10年から19年まで、正木直彦、香取秀真について砂張鋳造を研究し、11年第1回帝展に1尺2寸の銅羅を出品した。同12年、1尺8寸、余韻1分16秒の銅羅「銘雲の井」を完成。13年から14年にかけて法隆寺夢殿厨子ヤリカンナ施工、昭和27年、銅羅制作の技術は無形文化財に選定された、更に30年2月15日重要無形文化財に指定された。なお28年には石川県知事賞をうけている。39年7月15日胃ガンの受逝去、25日従五位勲四等旭日小綬章を贈られた。

金山平三

没年月日:1964/07/15

 日本芸術院会員、帝室技芸員の洋画家、金山平三は、7月15日心外腹炎のため東京大塚のガン研附属病院で没した。享年80才。明治16年神戸市に生れ、同42年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。暫くの間同校助手をつとめたが、同45年渡欧し、4ケ年にわたり欧州各地を巡歴し、大正4年帰国した。その後は専ら文展、帝展に出品し、風景画、静物画に佳作を発表して特選を受け、大正8年以来昭和9年まで帝展の審査員をつとめた。昭和10年の帝国美術院改組以来官展から遠ざかったが、同19年には帝室技芸員を命ぜられた。戦後日展審査員に任命されたが辞退し、個展によって発表した。殊に同31年には画業50年展を日本高島屋に於いて開催し、その代表作を回顧的に陳列した。外光派に出発した彼は、練達した筆さばきによる独自の東洋的な油彩画に到達していることがわかる。代表的な作品には「夏の内海」(大正5年文展、国立近代美術館蔵)、「氷すべり」(同6年文展」、「菊」(昭和3年帝展、東京国立博物館蔵)、「下諏訪のリンク」(同11年帝展三井コレクション蔵)等がある。略年譜明治16年 12月18日兵庫県神戸市において、金山春吉の次男として生る。明治42年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。明治45年 1月渡欧。4ケ年にわたり欧州各地に留学。大正4年 12月帰国。大正5年 第10回文展に初めて「巴里の街」「夏の内海」出品、後者特選。大正6年 第11回文展「氷すべり」「造船所」出品、前者特選。この年無鑑査。大正8年 第1回帝展に審査員となる(以降15回展まで審査委員をつとむ)。「雪」「花」出品。京都市牧田久吉次女らくと結婚。大正11年 第4回帝展に「菊」「下諏訪リンク」出品。昭和3年 帝展9回出品「菊」、帝室買上げとなる。昭和7年 明治神宮聖徳記念絵画館に「平壌の戦」奉納。昭和10年 帝国美術院改組に際し、同志と共に同展への不出品を声明。二部会に「東北の春」「信濃雪」(李王家買上)。昭和15年 奉祝展に「信濃路」出品(宮内省買上)。昭和19年 7月帝室技芸員を拝命。昭和20年 5月、山形県の庄司薬局方に疎開。皇太子に「菊」、義宮に「ダリヤ」を献上。昭和21年 10月、日展第2部の審査員に任命されたが辞退。昭和30年 4月、大阪美交社において近作発表展を開く。昭和31年 5月、画業50年展を日本橋高島屋に開催。昭和32年 2月28日、日本芸術院会員となる。昭和39年 7月15日東京大塚のガン研附属病院で逝去。

須田珙中

没年月日:1964/07/10

 日本美術院同人の須田珙中(本名善二)は、7月10日食道ガンのため文京区の自宅で死去した。享年57才。明治40年1月21日福島県岩瀬郡に生れ、昭和9年東京美術学校日本画科を卒業した。在学中の昭和7年第13回帝展に「白河の夏」が初入選となり、翌8年同展に「秋」が入選、この年松岡映丘に師事した。同9年第15回帝展に「高原」が入選した。昭和11年の改組文展には「渓の葉月」を出品し、同13年には松岡映丘の死去により前田青邨門下となった。この後も官展への出品をつづけ昭和15年2600年奉祝展「梢」、同16年第4回文展「南覇の井」、同5回「楽士」などがあり、第6回文展「琉球」では特選となり、政府買上となった。戦後は昭和21年第2回日展「ピアノ」、同3回「燁燭」、同5回「夕映」、同6回展「浴女」(依嘱出品)などがあるが、昭和26年には東京芸術大学美術学部講師となった。翌27年には長年出品をつゞけた日展を脱退し、日本美術院に所属し第38回院展に「牛」を出品し、佳作賞、白寿賞を得た。また同34年には芸大助教授となり、同38年には大学院研究科生等も指導し、後進のため尽力した。尚昭和36年には日本美術院同人となったが、院展での主な作品には第40回展「馬」(奬勵賞・白寿賞)、同41回展「山水石組」(日本美術院次賞・大観賞)、42回展「念持仏」日本美術院次賞・大観賞)、43回展「深海曼陀羅」、44回展「篝火」(日本美術院賞・大観賞)、45回展「正倉院」(日本美術院賞・大観賞)などがあり、穏健な近代的傾向を帯びたアカデミックな作風を示した。

宮脇憲三

没年月日:1964/06/16

 光風会会員宮脇憲三は、6月16日午後4時死去した。享年48才。大正4年12月15日姫路市に生れ東京美術学校卒業。昭和24年および25年光風会でO氏賞をうけ、26年会員に推挙。33年から34年にかけて外遊。

中村好宏

没年月日:1964/06/07

 国画会会員、中村好宏は胃ガンのため東京新宿区の慶応病院で死去した。享年60才。明治37年4月25日香川県高松に生れ、大正11年香川県立工芸学校卒業。昭和3年東京美術学校図案科卒業後梅原龍三郎に師事。昭和2・3年には春陽会に出品したが、5年より国画会に出品、8年と12年に国画奨学賞をうけ、18年会友、19年会員となり、会務委員として活躍した。戦後21年にハマ展の初代委員長として横浜の画壇復興に尽力した。没後39年9月10日から13日まで横浜有隣堂で、また40年6月5日から13日まで高松美術館で遺作展が開かれた。国画会出品作品目録8年「静物」(国画会奨学賞)、12年「風景」(国画会奨学賞)、18年「人物」、19年「椿と子供」、31年「樹」「どぶ川と舟」「沼の淵々」「裸婦」、32年「沼(舟と裸婦)」、33年「2人」、34年「池」「沼」、35年「沼」「沼」、36年「裸婦」「裸婦」、37年「田園風景」「田園風景」、38年「沼の朝」「風景」、39年「バッタ」

辻愛造

没年月日:1964/06/03

 国画会会員、辻愛造は6月3日、兵庫県西宮市の自宅でガンのため逝去した。享年68才。明治28年12月21日大阪市南区に生れた。大正元年、大阪で赤松麟作に師事し、4年に上京、太平洋画会研究所に学んだ。大正6年第4回院展洋画部に入選して以来、8年第6回展まで出品、入選している。その後、春陽会にも出品したが、同15年国展洋画部創設以来、同展に出品、毎年入選、昭和3年には国画賞をうけ、昭和4年に会友、同9年「摂津耶馬渓」など出品して会員に推挙された。風景画が主で、自選作品として「丸山夜桜の図」、「室津」、「片田の浜」などをあげている。また、大阪回顧風景の連作を、水彩やガラス絵で数多く描いている。昭和32年11月に兵庫県文化賞を授賞した。作品略年譜大正6年 第4回院展「日盛り」大正7年 第5回院展「夏山」「夏の果樹畑」大正5年 第5回国展「円山夜桜之図」「道頓堀風景」昭和10年 第10回国展「麦崎」昭和15年 第15回国展「曇日」昭和22年 第21回国展「家島」昭和29年 第28回国展「普門の浜」昭和33年 第32回国展「奥香落」昭和36年 第35回国展「志摩風景」昭和37年 明治・大正・昭和大阪懐古風景・素描淡彩150景完成昭和38年 日本風景ガラス絵20余点完成、個展を開く37~39年 大阪懐古風景(ガラス絵)40余点制作昭和39年 第38回国展「塩津」昭和40年 第39回国展に遺作として39年作の「麦崎」「奥香落」を出品する。昭和40年 5月辻愛造ガラス絵画集を発行昭和40年 6月「大阪懐古風景ガラス絵遺作展」開催

田中朝吉

没年月日:1964/05/15

 七宝焼図案師田中朝吉は、5月15日名古屋市の自宅で、ボウコウ炎とカタル性肺炎のため死去した。享年87才。愛知県出身。一時東京美術学校で日本画を学んだが、七宝焼デザインに専心し、皇室、外国貴賓への贈答用の七宝焼の大部分を手がけ、昭和32年無形文化財を指定された。昭和31年に黄綬褒賞、同40年第一回の生存者叙勲で勲六等単光旭日章をうけた。

小川翠村

没年月日:1964/05/11

 日本画家小川翠村(本名俊一郎)は、5月11日胃ガンのため京都市東山区の自宅で死去した。享年61才。明治35年5月15日大阪府泉南郡に生れ、19才で京都に出、西山翠嶂に師事した。大正9年第2回帝展に「朝」が初入選し、後第6回展「庭園晩秋」、9回「老園逢春」、10回「残る秋」が特選となった。昭和5年第11回帝展で推薦となり、戦後は日展に出品し、依属になっている。作品は専ら花鳥風景を得意とする。

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