本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





福田眉山

没年月日:1963/10/28

 日本画家福田眉山は、10月28日芦屋市の自宅で脳出血のため死去した。享年88才。本名周太郎。明治8年兵庫県赤穂に生れ、同28年久保田米僊に従って東上し、国民新聞社に入社した。苦学して東京美術学校に通ひ、この間徳富蘇峰に敬事する。明治33年在学3年にして学校を中退し、同年日本美術院に所属する。ここで岡倉天心、橋本雅邦らの指導を受けた。明治42年より45年にわたり中国大陸を、また大正10年には朝鮮各地を昭和13年には再度中国旅行を試み、内外の山水を探索し、それに材を得た絵巻、屏風等の作品が数多い。主なる作品に「兄の刺嘛」(平和博覧会大正3年)、「支那大観」(二冊大正5年)、「支那三十画巻」(大正8年)「金剛秋色図巻」(大正12年献上)「「洞庭湖真景」(大正14年大覚寺客殿襖)「大峨眉」(昭和11年神護寺地蔵院襖絵)他。

板谷波山

没年月日:1963/10/10

 陶芸家、日本芸術院会員、文化勲章受賞者板谷波山は10月10日直腸ガンのため自宅で死去した。享年91才。略年譜明治5年(1872) 3月3日、茨城県下館市に生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業を営む旧家で、父善吉は半癡と号し風流文事を愛し南画を描いた。母は宇多子、波山はその三男である。明治15年(1882) 7月、父善吉没す。明治18年(1885) 下館小学校卒業。明治20年(1887) 上京し成城学校(陸士予備校)に入学。明治21年(1888) 陸士予備試験の体格検査に不合格、軍人志望を断念、下宿の近所の河久保正名の画塾に通う。明治23年(1890) 東京美術学校に入学。明治27年(1894) 東京美術学校彫刻科を卒業。同予備校美術学館彫刻科に教鞭をとり、同時に攻玉舎中学図画経師を兼ねる。卒業制作「元禄美人」(木彫)明治28年(1895) 瓜生岩子媼の媒酌により福島県出身の鈴木まると結婚、新居を本郷に構える。明治29年(1896) 9月、白井雨山氏の勧めにより石川県立工業学校木彫科主任教諭として金沢に赴任。31年木彫科廃止のため辞職を決意したが、校長の要望により陶磁器科を担当。この間約7年焼物の研究に没頭した。当時勤川と号した。明治33年(1900) 9月、母宇多子没す。明治36年(1903) 陶芸作家を決意し、8月石川県立工業学校を退職、9月上京、東京高等工業学校窯業科嘱託となる。東京田端に住家、工房をつくり、11月3日移住。このころより波山の号を使用す。明治37年(1904) 平野耕輔氏の指導により、三方焚口の洋風倒焔式丸窯を夫人まると2人で築き、1年3カ月で完成す。ロクロ工人として深海三次郎(有田出身)工作を手伝う。明治39年(1906) 4月、初窯を焼上げ好成績を得る。明治40年(1907) 1月、第2回窯は地震の被害をうけ、完全な作品は、「窯変瓢型花瓶」1点のみ。内国勧業博覧会美術部に出品、入賞。出品作「窯変瓢型花瓶」「染付百合花図花瓶」「錆釉八ツ手葉花瓶」明治43年(1910) 第1回東京美術工芸展審査員となる。深海三次郎中国に招聘され、現田市松(石川県小松出身)後任となる。明治44年(1911) 9月、窯業共進会へ出品、一等賞金牌を受く。「フキの葉文花瓶」「菊花図飾皿」「蝶貝名刺皿」東京勧業展審査員となる。大正2年(1913) 7月東京高等工業学校嘱託を辞職。マジョリカ陶器を製作。夫人まる協力し作銘玉蘭を用う。東京府工芸展に花瓶を出品、八百円で東京府買上となり、名声を挙ぐ。「彩磁花鳥文花瓶」(東京府工芸展出品)「貝水指」このころインド、ペルシャなどのサラサ文様に興味をもち図案に取入れる。大正3年(1914) 3月東京大正博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「彩磁花鳥文花瓶」(大正博出品)大正4年(1915) 東京府工芸図案会審査会委員となる。シカゴ市博覧会に「笹葉文花瓶」を出品受賞。大正天皇御大典にさいし、東京市献上品「東京十五景」のうち、磁製扇面浅草観音風景額を作る。大正5年(1916) 「白磁八ツ手葉彫文花瓶」大正6年(1917) 日本美術協会展覧会に出品金牌第1席を受賞。「葆光彩磁珍果文花瓶」(日本美術協会展)『白磁瑞獣香炉』大正8年(1919) 「葆光彩磁紅牡丹文花瓶」大正9年(1920) 「彩磁獅子騎乗童子文大花瓶」大正10年(1921) 「葆光彩磁草花文花瓶」大正11年(1922) 3月平和記念東京博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「白磁宝相葉彫文花瓶」(平和博出品)大正12年(1923) 12月摂政宮殿下御成婚を祝し、久邇宮家献上の「彩磁瑞鳳文花瓶」及全国文武官献上の「彩磁松竹梅花瓶」を作る。「窯変天目茶碗」「肩衝茶入」大正14年(1925) 大正天皇御成婚25年奉祝の文武官献上文房具中硯屏および筆架をつくる。小型磁器焼成窯を築く。工芸家にて工芸済々会を結成、11月第1回展を高島屋にて開催。「紅棗磁花瓶」(第1回工芸済々会展出品)「葆光彩磁呉須模様鉢」昭和1年(1926) 「葆光彩磁葡萄文香炉」(第2回工芸済々会出品)昭和2年(1927) 東京府美術館開館記念聖徳太子奉讃展覧会審査員となる。6月帝国美術院展覧会に工芸部新設され、その委員。7月帝展審査員となる。茨城工芸会を主催し現在に至る。関東在住の陶芸作家の団体東陶会結成され、それを主宰、現在会長として在任、「氷華磁瑞花文大花瓶」「葆光彩磁禽果文大花瓶」(奉讃展出品)「紫金磁珍果彫文花瓶」(帝展出品)昭和3年(1928) 9月帝展審査委員となり、出品作は院賞を受く。「彩磁草花文花瓶」(帝展出品)「白磁枇杷彫文瓶」昭和4年(1929) 帝国美術院会員となる。「彩磁唐花文様花瓶」(帝展出品)昭和5年(1930) 10月フランス政府よりバルム・オフィシェー・アカデミー賞を贈らる。「彩磁草文様花瓶」(帝展出品)昭和6年(1931) 「彩磁柘榴文花瓶」(帝展出品)昭和7年(1932) 帝展出品の「彩磁草花文花瓶」政府買上。「彩磁花卉文花瓶」「葆光彩磁草花文花瓶」(帝展出品)昭和8年(1932) 帝展出品作政府買上。「黄飴瓷文壺」(帝展出品)昭和9年(1934) 12月帝室技芸員を拝命。昭和10年(1935) 帝国美術院改組にさいし会員となる。「葆光彩磁草花文花瓶」「窯変鶴首花瓶」(帝展出品)昭和11年(1936) 「淡紅磁四方香炉」(文展出品)昭和12年(1937) 6月帝国美術院、帝国芸術院と改組、会員となる。「彩磁名華文花瓶」昭和13年(1938) 「朝陽磁鶴首花瓶」(文展出品)昭和14年(1939) 「彩磁水差」(文展出品)昭和15年(1940) 紀元2600年展覧会審査員となる。「彩磁山草文水差」(2600年展出品)昭和16年(1941) 学士会館において全工芸美術家による古稀の祝賀宴を受く、長岡市の有志により古稀記念の作品展開催、「彩磁草花文花瓶」(文展出品)昭和17年(1942) 「白磁延寿文様花瓶」(文展出品)昭和20年(1945) 4月、戦災により住居工房全焼、下館市に移住し、茨城県筑波郡菅間村洞下に仮工房を設け制作を続行。「黒飴瓷仏手柑彫文花瓶」(日展出品)昭和21年(1946) 「彩磁唐華文水差」(日展出品)昭和22年(1947) 「彩磁草花文花瓶」(日展出品)昭和23年(1948) 「白磁牡丹彫文花瓶」(日展出品)昭和24年(1949) 「凝霜磁蓮口花瓶」(日展出品)昭和25年(1950) 東京旧地に工房を再建、現窯を復興。「蛋殻磁鳳耳花瓶」「彩磁美男蔓水指」(日展出品)昭和26年(1951) 3月、下館市名誉市民に推挙される。「祥桃瑞芝文花瓶」(日展出品)昭和27年(1952) 「蚕殻磁呉須絵鯉耳花瓶」(日展出品)昭和28年(1953) 6月下館小学校に胸像建立さる。11月文化勲章を受く。「彩磁桔梗文水差」(日展出品)昭和29年(1954) 3月、茨城県名誉県民に推挙さる。「黄磁枇杷彫文花瓶」(日展出品)昭和30年(1955) 「彩磁桜草文水差」(日展出品)昭和31年(1956) 5月、水戸市にて大観・波山展を開催。「銅燿磁唐花文花瓶」(日展出品)昭和32年(1957) 「簸釉草文花瓶」(日展出品)昭和33年(1958) 8月、夫人まる病没。10月、日本橋三越においてはじめて個展を開催。「青磁瓢花瓶」「彩磁花禽文水指」昭和34年(1959) 4月、東京会館において米寿賀宴催さる。「凝霜鯉耳水指」(東陶会出品)

榊原苔山

没年月日:1963/09/18

 竹杖会々員の日本画家榊原苔山は、9月18日夕狭心症のため京都市の自宅で死去した。享年74才。本名秀次。明治23年京都に生れ、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校本科を卒業後同研究科を経て竹内栖鳳の門に入った。以後第3回文展に初入選以来主として官展に作品を発表し、昭和5年には帝展推薦となった。榊原紫峰は実兄にあたる。

佐藤清蔵

没年月日:1963/09/14

 彫刻家、元日本美術院同人、日本芸術院会員の佐藤清蔵は、9月14日午前2時15分、老衰のため京都市で逝去した。享年75才。旧号、朝山。号、阿吽洞・玄々。明治21年8月19日福島県相馬郡に生まれた。幼時から父祖相伝の宮彫師の家業たる木彫を父と伯父に学び、のち出京して18才頃から山崎朝雲に師事した。大正3年再興日本美術院の第1回展に際して同人となり、院展木彫の中心的存在として多くのすぐれた問題作を次々と発表した。その主なものに、「呪咀」「シャクンタラ姫とドウシャンタ王」「釈迦に幻れた魔王の女」など、豊満で官能的な作品をつくり、一脈インド彫刻にも通うような呪術的で神秘的な作調を示した。大正11年日本美術院から派遣されてフランスに留学し、ブールデルに師事し、またルーブル美術館などで古典彫刻を研究して同13年帰国した。「哺牛」「田中氏像」「牝猫」「鷹」など、西欧留学によって得た西洋近代彫刻への咀嚼と彼の内にもある伝統的要素とがよく結晶した作調が生まれてきた。その後松田改組の帝展に、モニュメンタルな力作「八咫烏」を発表、また新文展の審査委員となったが、自作の発表はなく、むしろ昭和14年11月大日本護国会で紀元2600年紀念事業として計画した和気清麿銅像の建立に、朝倉文夫、西村西望とともに原型の依嘱をうけ、三者競作のかたちで製作した同像の採用実現や、戦後三越岩瀬社長の懇望によって約10年の歳月を費した労作「天女像」(昭和35年4月完成除幕)などの衆目の話題作が、彼の晩期を飾る仕事となった。略年譜明治21年 8月18日、福島県相馬郡に生まれる。生家は代々宮彫師で、この家業を父や伯父に学んだ。本名清蔵、号、朝山(山崎朝雲に師事した頃より昭和14年頃まで)、阿吽洞、玄々(この両雅号は大体、昭和21年以降より)18才より木彫家山崎朝雲に師事する。大正2年 「問答(悉達多太子と婆羅門僧像)」を製作。大正3年 10月、再興日本美術院第1回展に「呪咀」「野人」「シャクンタラ姫」を出品する。10月24日、平櫛田中、内藤伸、吉田白嶺とともに、日本美術院同人に推される。他に「聖徳太子像」「婆羅門像<行者>」を制作。大正4年 9月、第2回院展に「シャクンタラ姫とドウシャンタ王」「阿具尼」「シャクンタラ姫」を出品する。他に「嵐」(塑像)を制作。大正7年 9月、第5回院展に「愛染<慾染>」を出品する。大正8年 9月、第6回院展に「上宮太子」「釈迦に幻れた魔王の女<三魔>」を出品、他に「冬日行」を制作。大正9年 「閑来」「蘇東坡」「巣鶏」を制作。大正11年 9月、第9回院展に「木花咲耶姫」を出品。9月2日に創立25年記念祭を行った日本美術院からフランスに派遣される。(同人として、他に小林古径、前田青邨が同行)。アントワーヌ・ブールデルについて彫刻を学び、ルーブル美術館などで古典を研究する。大正13年 7月22日帰朝。「イタリーの女」「インディアン」「悲しきエトランゼの娘」(以上素描)「エジプト彫刻断片」「眼」「影」「憂」(以上木版画)などを制作。9月、第12回院展に「女の顔その一」「女の顔その二」「或る構図の一部<女>」、「男」(以上ブロンズ)を出品する。他に「童女」(木版画)。大正15年 5月、聖徳太子奉讃展に「或る構図の一部の二」を出品。9月、第13回院展に「哺牛」「ベコ」「牛」を出品する。その他「裸女」(塑像)「寒山拾得」を制作。その頃より、現在の大田区に居住。昭和2年 9月、第14回院展に「画家の像<画人>」、「青年の顔」(ともにブロンズ)、「青年」(塑像)を出品。他に麋(木彫下絵素描)二図など。昭和3年 9月、第15回院展に「田中氏像」(ブロンズ)、「牝猫」「冬眠」「銀鳩の子」「鳩巣」(木心乾漆)を出品する。昭和4年 3月、院第14回試作展に「銀鳩」を出品する。9月、第16回院展に「筍」「猫<動(猫と鴨)>」「蜥蜴」を出品、他に「双鹿」など。昭和5年 9月、第17回院展に「鷹<山上(鷹)>」「鼠」を出品。他に「蒼鷹」「大黒」「猫」。昭和6年 9月、第18回院展に「鷹<飛(鷹)>」「白菜」「麋」「鳩<山鳩>」を出品する。他に「鷹(習作)」「銀鳩」「山鳩」「琵琶」など。昭和8年 皇太子誕生を祝して「鷹」(浮彫)を制作献上。他に「青鳩」など。昭和10年 3月、東京府美術館10周年記念展に「蔬筍」(昭和4年院展出品の「筍」と昭和6年院展出品の「白菜」を一組にしたもの)を出品する。5月、松田改組帝国美術院第二部会員に平櫛田中とともに任命される。11月、日本美術院より図録「朝山彫刻集」が刊行される。昭和11年 2月、第1回改組帝展に「八咫烏」を出品、政府買上げとなる。昭和12年 4月、明治・大正・昭和三聖代名作美術展に「牝猫」(昭和3年、第15回院展出)が出品される。6月、帝国芸術院会員となる。10月、第1回文部省美術展第三部の審査委員に任命される。昭和14年 10月、第3回文部省美術展第三部の審査委員に任命される。11月、大日本護国会では紀元2600年記念事業として和気清麿銅像の建立を計画、北村西望、朝倉文夫、佐藤朝山の3名に原型を依嘱し、その中から一つを選出することになったが、北村西望、朝倉文夫はともに辞退し、朝山の制作だけが実現することになった。昭和15年 12月18日和気清麿銅像除幕(宮城の濠端)。この頃より朝山号を廃し、本名の清蔵を名のる。昭和16年 「二宮尊徳像」(帝国農業会より献上)。昭和20年 5月24日に戦災で馬込のアトリエが焼失、「八咫烏」など多くの作品を失い、無常感にとらわれて、郷里福島県山中の神社へ疎開隠遁する。終戦後、高島屋の招待により兵庫県西宮市甲東園芝川山荘に移る。昭和22年 「大黒天」(第13回清光会)を制作。この頃より、京都市右京区に定住する。昭和24年 「大黒天像」「鼠像」などを制作。昭和25年 「柿」(置物)、「聖大黒天」、「鼠」(置物)など。この頃より玄々、阿吽洞の号を用いる。昭和26年 「大慈大悲救世観音菩薩像」「栗鼠」(置物)、「大黒天」「笑門福来」などを制作。昭和27年 「山兎」「蒼鷹」(置物)、「巣籠鶴」(置物)、「鶴」(置物)、などを制作。昭和28年 「宝の小槌」「大慈大悲救世観音菩薩像」「笑門福来」「福来面」(置物)、「山彦」などを制作。昭和29年 「麝香猫」「神狗」などを制作。昭和35年 4月、約10年の歳月を費した労作「天女像」三越本店で除幕される。なお同店で<天女像完成記念佐藤玄々名品展>開かれる。昭和38年 9月14日、京都市で老衰のため逝去。

勝田蕉琴

没年月日:1963/09/09

 日本画家勝田蕉琴は、9月9日老衰のため東京都北区の自宅で死去した。享年84才。本名良雄。明治12年福島県に生れ、若くして南画家野出蕉雨に師事した。明治32年橋本雅邦の門に入り、同35年東京美術学校日本画選科に入学した。同38年同校卒業後岡倉天心の推薦により印度王族タゴール家に招聘され渡印、仏画製作並びに仏教美術の研究に従事し、また印度政府の依嘱により、同国美術学校で東洋画を教授する。明治40年帰国し、その後は第1回文展をはじめ、戦後まで官展を舞台に活躍した。尚昭和26年以後は毎年革新美術協会に出品していた。主要作品明治40年 第1回文展「出城」「降魔」明治45年 第7回文展「林の中から」大正4年 第9回文展「曾根づたい」大正8年 第1回帝展「粉雪降る朝」大正15年 第7回帝展「無塵地」昭和3年 個展開催。「玉子と玉葱」他。昭和4年 第10回帝展「海濤図」昭和14年 第3回文展「仔牛」昭和16年 第4回文展「玄豹」(伊大使館買上)昭和17年 第5回文展「夏の夕」(文部省買上)昭和25年 第6回日展「鮮菜」

菅楯彦

没年月日:1963/09/04

 日本画家で関西画壇の長老である菅楯彦は、4日肝硬変のため大阪市の自宅で死去した。享年85才。本名藤太郎。明治11年3月4日日本画家菅盛南の長男として鳥取市に生れた。幼時父母に従い大阪に移り、明治22年父の病気により高台小学校高等小学科第2年を中退し、絵筆により一家を支えることになった。終生画道の師につかず独学で研究をすすめたが、その間大和絵、四条円山、北南宋、狩野派、浮世絵等、実地研究の他国学を本居派鎌垣春岡に、漢学を山本憲に就いて学び、併せて仏教美術史、宗教史等の研究も積んだ。ことに鎌垣師には有職故実を学び、後年歴史画を描く基礎をつくった。又雅楽を好み、舞楽を習って、晩年は四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献した。明治33年より37年迄大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、ここで多くの歴史参考図を製作した。作品は、きめの細い大和絵風の歴史画や、洒脱な大阪の庶民風俗に画材を求めたものが多い。昭和24年に大阪府芸術賞、同26年大阪市民文化賞のほか、同33年には日本画家としては最初の芸術院恩賜賞を授与された。また同37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。略年譜明治11年 3月4日 鳥取県に生れる。明治22年 大阪高台小学校高等小学第2年中退。この頃より絵筆により一家を支えた。明治33~37年 大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、多くの歴史参考図を製作した。大正12年 東京三越にて個展開催。昭和4年 「春宵宜行」(仏国政府買上)日仏展出品。昭和10年 明治神宮聖徳絵画館壁画制作「皇后冊立」。昭和24年 大阪府文芸賞受領。昭和26年 大阪市文化賞を受ける。「山市朝雨」日展招待出品。昭和33年 日本芸術院恩賜賞を受ける。昭和37年 大阪市名誉市民にえらばれる。昭和38年 9月4日没す。代表作明治神宮絵画館壁画、「菊池千本槍」(大阪市立美術館)他、鏑木清方と共著の画集「東京と大阪」(毎日新聞社刊)などがある。

毛利教武

没年月日:1963/08/27

 彫塑家、日展委嘱、日本彫塑会会員、毛利教武は、8月27日午後8時、かねて療養中だった胆石症のため、東京都杉並区の自宅で逝去した。享年77才。明治17年4月2日東京で生まれ、はじめ松本正春に彫刻の初歩を学び、明治32年高村光雲に師事、のち東京美術学校彫刻科に入り36年卒業した。同年及び翌37年東京彫工会出品、つずけて銀賞牌をうけた。38年陸軍看護兵として出征。39年海軍省銅像懸賞に応募、2等賞、また40年春行われた東京勧業博覧会には2等賞及び協賛賞を受けた。同年秋の第1回文展では、彫刻部に出品した「ゆくへ」が3等賞に挙げられ、米原雲海の「神来」と共に、僅か2名の受賞者の1人となり、記念すべき歴史的な栄誉をになった。翌41年には東京彫工会展審査員となり、若くして頭角をあらわした。以後文展に出品したが、43年第4回文展に落選したので暫らく出品を控え、大正元年第1回フューザン会に只1人の彫刻家として参加出品した。その後、意のおもむくままに官展に作品を発表したが、昭和3年御大典博覧会美術顧問及び審査員、翌4年名古屋市美術展の審査員をつとめた。6年帝国美術院の推薦となり、16年文展審査員また直土会結成に参加。戦後の晩年は、つとめて日展に依嘱の資格で、作品を発表した。戦災で過去の作品は殆ど焼失したが、現存の代表作には、「手」「クレオパトラとカルミニヨン」(ともに大正8年作)などがある。彼はわが彫刻界の先達的な耆宿作家であり乍ら、作風には、初期の「ゆくへ」のような浪漫的な作調にはじまって、常に一歩時流に先んじた尖鋭な近代的要素を示す作調を示し、むしろ官展系としては破格で進歩的な制作態度が窺われた。一方、彫刻界の煩瑣な俗流人事にも恬淡とし、それは晩年の現日展の委嘱出品のままの処遇でも知られよう。長男に武彦(新制作・日本画)、次男に武士郎(無所属・彫刻)、三男に建築デザイナーと美術一家として知られる。

川面義雄

没年月日:1963/08/10

 版画複刻の技術者、川面義雄は、明治13年4月17日大分県宇佐郡に生れた。家は代々醸造業を営んでいたが、明治24年日本画の修業を志して上京し、東京美術学校に入学、38年卒業した。41年、審美書院に複刻模写の技術者として入社し、同年8月発行の「東洋美術大観」(大正7年7月全巻完成)を初め、同書院発行の古美術書16種の着色木版の製作に従事した。大正12年頃、原三溪所蔵の名宝の複刻模写を行い、昭和16年まで大和絵同好会、大塚工芸社、東京美術社、聚楽社大阪山中商会等の発行する美術書の着色木版の製作にたずさわっていた。更に昭和17年徳川黎明会の委嘱により同会所蔵の国宝源氏物語の複製に着手、24年中巻を完成。28年には文化財保護委員会の技術保存事業の一つとして、東京国立博物館保管の単庵「鷺」、大阪四天王寺蔵の扇面古写経の着彩木版の複製を行った。続いて29年から東京芸術大学の依頼により、再び徳川黎明会本の源氏物語の着彩木版複製に着手し33年に上・下二巻を完成した。現代における複製木版技術の第一人者で、精妙細緻な技術を大成し、昭和34年10月紫綬褒賞を授与されている。38年8月10日心臓ぜんそくの為逝去した。享年83才。

甲斐仁代

没年月日:1963/07/28

 一水会々員の女流洋画家甲斐仁代は、かねて療養中のところ江古田にある中野療養所で死去した。享年61才。明治35年佐賀県に生れ、大正11年女子美術学校西洋画科を卒業して翌年二科会に初入選した。以後二科会には毎年出品をつづけ、また婦人洋画協会の創立に参加するなど活躍した。岡田三郎助の教えを受け、牧野虎雄の旺玄社に属するなどの時期もあったが、後一水会に出品し戦後会員に推された。作品は終始純粋な芸術観に貫かれ、豊潤な色彩感覚とデリケートで風格ある画面に魅力を示していた。しかし戦後はあまり目立つこともなく。朋友の石橋夫妻に支持されながら自己の画境を深めていた。略歴明治35年 佐賀県に生れる。大正8年 青島女学校卒業。上京。女子美術学校西洋画科入学。大正11年 同校卒業。卒業制作「眼帯をした人」大正12年 二科会展初入選。大正14年 婦人洋画協会展出品。昭和12年 一水会展出品。昭和22年 一水会々員に推薦される。昭和32年 日展出品。昭和38年 7月28日死去。9月一水会展に遺作特別陳列。昭和39年 6月、女流画家協会展に遺作特別陳列。10月、日動サロンにて遺作展開催。

原田治郎

没年月日:1963/07/25

 元東京国立博物館職員原田治郎は病気療養中のところ、肺炎を併発し、東京都台東区の自宅で逝去した。享年84才。明治11年12月2日山口県に生れた。若くして、米国カリホルニヤ大学に学び、同38年名古屋高等工業学校の講師となり、のち同校及び第八高等学校教授として英語を指導した。昭和2年帝室博物館の嘱託となって以来、戦後国立博物館の事務官に任ぜられ、28年にわたって、英文列品目録や解説の編集事務や渉外事務にあたった。この間、明治37年の米国セントルイズ万国博覧会はじめ、同43年の日米博覧会、大正3年の桑港博覧会、或いは第二次大戦後の再度にわたる米国に於ける日本古美術展覧会に要員として出張を命ぜられ、さらに昭和10年には交換教授として米国オレゴン大学に赴き、同時に諸大学、美術館に於いて、日本文化に関する講演を行い、オレゴン大学から名誉文学博士の称号を受けた。かように、その生涯の大半を日米文化の交流に献げた。その主なる著書に“Garden of Japan”London;1926“Hiroshige”London;1929“English Catalogue of Treasures in the Imperial Repository Shosoin”Tokyo,1932“Examples of Japanese Art in the Imperial Household Museum”Tokyo;1934“The Lesson of Japanese Architecture”London;1937“A Glimpse of Japanese Ideals”Tokyo;1937.

桑原福保

没年月日:1963/07/18

 東光会々員桑原福保は、明治40年山梨県東八代郡に生れた。昭和2年山梨県立師範学校を卒業ののち、昭和8年に上京、熊岡美彦の門下となり油絵を学んだ。翌9年東光会展に初入選以来毎年同展に出品をつづけ、昭和17年には「緑陰」「黄色い傘」「少女像」を出品し東光賞をうけ、翌年会友、さらに昭和22年第13回東光会展で「ぶらんこ」で会員に推された。また、昭和11年、文展に初入選、以来、官展出品をつづけ、戦後は日展に連続入選して、29年岡田賞、31年以後は出品依嘱者となって毎年出品している。33年から35年までアメリカ経由で渡欧留学したが、38年7月18日病没した。享年56才。

江崎孝坪

没年月日:1963/06/27

 日本画家江崎孝坪は、6月27日脳軟化症のため目黒区の自宅で死去した。享年62才。本名孝平。明治37年6月15日長野県に生れ、のち前田青邨に師事した。終始官展を発表の場とし、人物画を多く描き、強い線描と、明快な色彩に特色を示した。晩年は挿絵や映画、舞台芸術等にも多く活躍している。主要作品昭和2年 第8回帝展 「晩秋」(初入選)昭和4年 第10回帝展 「山路」昭和11年 第1回改組帝展 「浜正月」昭和15年 日本画大展覧会(大礼記念京都美術館)「雲と防人」(大毎・東日賞)昭和15年 2600年奉祝展「出発」昭和16年 第4回文展 「撃て」(特選)昭和17年 第5回文展「基地」昭和18年 第6回文展 「出発」(招待)昭和19年 戦時特別展 「海犬養岡麿」昭和22年 第3回日展 「像造」(招待、特選)昭和33年 第1回日展 「フラメンコ」昭和35年 第3回日展 「スパニッシュ」昭和36年 第4回日展 「少年」挿絵「乞食大将」(大仏次郎作)、「太閤記」(吉川英治作)「雲と風と砦」(井上靖作)。映画「七人の侍」他(衣裳考証)舞台装置「新忠臣蔵」他。

稲垣稔次郎

没年月日:1963/06/10

 染織家 月本工芸会理事・無形文化財技術保持者稲垣稔次郎は6月10日京都府立医大附属病院で移動性ガンおよびガン性助膜炎で死去。享年61才。彼は明治35(1902)年3月3日京都府右京区に日本画家を父として生まれた。大正11(1922)年3月京都市立美術工芸学校図案科卒業、同年11月松坂屋図案部に勤務して高級衣裳のデザインに従事したが、昭和6(1931)年5月退職し、それ以後作家生活に入った。昭和15年国画会に「西瓜の図」を出品して国画賞受賞、同16年文展に「善隣譜」出品、特選、同18年同じく文展出品の「牡丹の図屏風」で特選となり、同21年日展出品「糊絵屏風松山之図」で三たび特選となった。昭和22年富本憲吉と国画会を退会して新匠会を組織した。昭和23年第1回個展ではじめて型絵染を発表した。24年京都市立美術専門学校講師、26年日展審査員、27年京都市立美術大学助教授となり、33年同大学教授、37年には型絵染の技術に対して無形文化財の指定をうけた。

遠山清

没年月日:1963/06/10

 光風会々員遠山清は、明治36年11月15日名古屋市で生れた。中学卒業後上京し、東京美術学校図画師範科に学び大正15年卒業した。昭和3年第9回帝展に「青島風景が初入選となり、また同年の光風会展では光風賞を得て洋画家として第一歩を印した。以後帝展及び光風会に出品をつづけ、昭和9年光風会々員となり、16年第28回展の「婦人像」で岡田賞を受賞した。光風会々員として出品をつづけるかたわら戦後は日展にも出品し、日展の出品依嘱となり、更に35年に会員、38年審査員となったが同年6月10日、脳卒中で逝去した。享年59才。なお33年~34年の間欧州に遊学している。

富本憲吉

没年月日:1963/06/08

 京都市立美術大学々長、文化勲章受章者富本憲吉は、6月8日午前9時、大阪府立成人病センターで肺癌のため逝去した。享年78才。明治19年6月5日奈良県生駒郡に、富本豊吉の長男として生れた。東京美術学校図案科建築部を経て、ロンドンに留学して室内装飾を学んだ。明治44年帰国し、翌年イギリス人バーナード・リーチと共に六世尾形乾山に師事して陶芸の道に入った。のち郷里の安堵村、つづいて東京世田谷に窯をきずいて制作にふけった。昭和2年には国画創作協会に工芸部を設け、同9年帝国美術院会員、同12年帝国芸術院会員に推された。戦後、芸術院会員、母校教授を辞して京都に移り、制作にはげむと共に新匠工芸会(のち新匠会と改称)を結成し、また京都市立美術大学の教授となり、最晩年には学長に推された。昭和36年、永年陶芸界につくした功績によって文化勲章を授けられた。はじめ、柳宗悦等の民芸運動に参加したが、のちには白磁或いは金銀彩の豪華な作品を創造し、極めて秀れた作品が多い。併し、晩年自己の一品制作にあきたらず、陶工をして模造品を作らせて市販したことは、かつてウィリアム・モーリスに私淑した精神を生かしたものである。略年譜明治19年 奈良県生駒郡、富本豊吉長男として生れ。家は法隆寺々侍の出であった。明治37年 奈良県立郡山中学校を卒業、東京美術学校図案科建築部に入学。明治41年 在学中卒業制作を提出して、英国に室内装飾研究のため私費留学した。ロンドン市立セントラル・スクール・オブ・アーツのステンドグラス科に入学、かたわら古代ペルシャ陶器、エジプト美術を研究した。英国留学はウィリアム・モーリスの思想と工芸の仕事に興味をもったためという。明治42年 東京美術学校図案科建築部卒業。明治43年 回教建築研究のため、農商務省より印度派遣。明治44年 英国より帰国。暫時清水組にて建築設計に従事、のち木版画、染織に専心、在日中の英人バーナード・リーチと親交を結ぶ。明治45年 バーナード・リーチと共に楽焼を始める。(六世尾形乾山をリーチに紹介し、その通訳をしているうちに、自分でもはじめるようになった。)大正2年 郷里安堵村に楽焼窯を築く。大正3年 東京で第1回楽焼試作展をひらく(楽焼研究も堂に入り始め、赤楽地に自宅井戸端の柘榴を線彫りにした花瓶等多く作成。大正4年 安堵村に本窯を築く。大正5年 安堵村周辺の風景の中より「竹林月夜」「大和川急雨」「曲る道」等と題する模様を創作する。大正8年 信楽焼研究のため近江へゆく。日常陶器の多量生産に関心があった。染附、白磁と手がけ始める。大正9年 肥前波佐見焼研究のため、家族を長崎に移し、中尾山波佐見、有田窯へ通う。大正11年頃 染附、老樹図陶板の作がある。陶板なる語を創案する。大正12年 朝鮮に赴き、清涼里、浅川巧宅に滞在し、李朝白磁、象嵌等研究する。大正15年 東京府北多摩郡に本窯を移し居住。野草花、洋花、小鳥などを写生して模様化し、染附、象嵌、技臘、色絵等にて大鉢、大皿、中皿、飾筥、花生等に昭和21年頃まで絵付する。昭和2年 4月、第6回国画創作協会に工芸部、彫刻部が新設され、すでに会員となっていたので工芸部を担当した。昭和3年 国画創作協会第1部(日本画部)解散。他の部門は国画会と改称して再出発した。昭和9年 帝国美術院会員となる。(この間東京の冬季の陶土凍結をさけ、九谷、信楽、益子、波佐見、京都、瀬戸等各地の陶業を研究、九谷では10カ月滞在して本格的上絵の研究をすすめる。)昭和19年 東京美術学校教授となる。昭和20年 学生と共に高山市に疎開し、終戦と同時に帰京、芸術院会員、東京美術学校教授等の一切の公職を辞退して、郷里の旧居に移り水墨画にしたしむ。昭和22年 国画会を脱退し、新匠工芸会を結成する。昭和23年 第1回新匠工芸会開催(東京高島屋)昭和24年 京都市立美術専門学校客員教授となる。京都市上京区に居住。花「白雲悠々」「風花雪月」等の文字を模様として作品に入れ始める。昭和25年 京都市立美術大学教授となる。この頃米国在の日本大使館に買上げの金銀彩蓋付壺に始めて銀に白金を混ずる事に成功、作品に色絵金銀彩椿図陶板(大原美術館蔵)、自作陶器図案50図画帖(大原美術館蔵)、自作陶器図案百図画帖(岐阜某氏蔵)等がある。昭和26年 新匠工芸会で新匠会と改称、羊歯を連続模様にすることに約1年かかって成功。作品に金銀彩羊歯文蓋付飾壺(文化財保護委員会蔵)、色絵四辨花蓋付飾壺(英国日本大使館買上)等がある。昭和30年 第1回の重要無形文化財保持者(色絵磁器)の設定をうける。11月作陶45周年記念展を東京高島屋に開く。作品に金銀彩四辨花模様八角大飾筥(文化財保護委員会蔵)等がある。昭和35年 作品に金銀彩羊歯文蓋附飾壺、色絵四辨花飾筥、大飾皿、染附竹林月夜大飾皿(各宮内庁買上げ)等がある。昭和36年 文化勲章を授与される。作陶50年記念展を東京高島屋で開く。作品に金銀彩羊歯文飾筥、染附絵替り組皿5枚、染附色絵並用絵替り組皿5枚(各文化財保護委員会蔵)等がある。昭和37年 6月、京都市東山区に移る。作品に金銀彩四辨花飾筥(イタリー、ローマ・アカデミー蔵)、金銀彩描きおこし四辨花文蓋附飾壺(文化財保護委員会蔵)等がある。昭和38年 3月、京都市立美術大学教授を定年退職。5月同大学学長となる。6月8日肺癌のため死去。78才。叙従三位。勲二等旭日重光章を授与される。昭和39年 6、7月大阪大丸、京都伊勢丹、倉敷大原美術館に於いて「富本憲吉陶芸展」開催。著作目録富本憲吉模様集(版画) 大正4年 田中屋富本憲吉模様集 大正12年 自家限定版窯辺雑記 大正14年 文化生活研究会富本憲吉模様集 昭和2年 文化生活研究会楽焼工程 昭和5年 采文閣模様寸感(自刷) 昭和6年 自家限定版富本憲吉陶器集 昭和8年 自家限定版製陶余録 昭和15年 昭森社陶器 昭和23年 朝日新聞社富本憲吉陶器集 昭和31年 美術出版社富本憲吉模様選集 昭和32年 中央公論社自選富本憲吉作品集 昭和37年 朝日新聞社

石川公一

没年月日:1963/05/30

 学習院大学助教授で元国立近代美術館渉外調査係長、石川公一は5月30日原因不明の脳内出血の為、都下小金井市桜町の桜町病院で急逝した。享年42才、石川公一は大正10年1月10日東京府小石川区に生れた。昭和17年山形高等学校を卒業、同年京都大学法学部政治に学科入学した。翌18年12月、召集を受け海軍に入り、19年9月応召中のまま、京大法学部を卒業、20年に復員すると更に東大文学部哲学課に入学して美学を専攻した。卒業後は大学院において造型美術の理論を専攻、主にドイツ現象学派の美学を学んだ。27年に国立近代美術館調査渉外係長に就任、その後、陳列保存係長に代ったりしたが、38年3月迄同館に勤務、38年4月、学習院大学助教授として転任し同校の哲学科、史学科また大学院での講義を担任していた。尚33年から35年へかけてドイツに留学、ミュンヘン大学でゼーデルマイヤーに師事す、帰国後は、一層美学、美術史の問題に深い関心と研究を進めていたところで、その急逝が惜しまれる。略年譜大正10年1月10日 東京府小石川区に生る。昭和17年4月 京都大学法学部政治学科入学昭和18年12月 応召により海軍に入隊昭和19年9月 京都大学法学部卒業(応召中)昭和20年9月 海軍中尉として復員昭和21年4月 東京大学文学部哲学科入学(美学専攻)昭和24年3月 同卒業、4月大学院入学昭和27年11月 大学院退学し、国立近代美術館調査渉外係長に就任昭和33年12月~35年3月 ドイツ学術交換学生として渡独、ミュンヘン大学美術史研究室またバイエルン中央美術研究所等に学ぶ。昭和38年4月 学習院大学助教授に就任昭和38年5月 5月30日没。主要論文、著書等流行について(被服文化26年1月~27年5月)。作品の構造(美学8号、27年4月)、現代の美意識-近代芸術の変貌(文化服装学友会誌20号、27年3月)、未開芸術の問題(美学9号、27年7月)、明治大正の洋画(みづゑ4月号、28年)、表現の問題としてのリアリズム、その一(美学22号、24号、30年、31年)「近代洋画の歩み」(今泉篤男共著)東都文化出版昭和30年、「デーゼルマイヤー:近代芸術の革命」(美術出版社32年、絵画の時間性(文芸日本、32年1月)、浪漫主義の美術(近代思想史講座4巻、弘文堂33年)、浪漫主義の絵画(前同、4巻、34年)、抽象美術(前同、8巻、34年)、カンディンスキー(美術手帖7・8月号、35年)、前田寛治のリアリズム(みづゑ11月、35年)「ドイツ美術」(前川誠郎と共著)講談社37年〔翻訳〕「ゼーデルマイヤー:中心の喪失」(阿部公正と共訳)美術出版社近刊、「L.Venturi:Painting and painters-How to look at the picture」(和光功と共訳)みすず書房近刊、

松林桂月

没年月日:1963/05/22

 日本芸術院会員、帝室技芸員、日展顧問、文化勲章受章者松林桂月は、5月22日午後9時、東京信濃町の慶応病院で脳軟化症のため逝去した。享年87才。桂月は、明治9年8月18日、山口県に伊藤篤一の次男として生れた。本名篤。明治31年松林家を嗣いだ。これより前、明治26年上京して野口幽谷に師事した。はじめ日本美術協会、展に出品し、つづいて文展に出品して屡々受賞した。大正8年以来帝展審査員となり、昭和7年帝国美術院会員同12年帝国芸術院会員に推され、同19年帝室技芸員を、命ぜられた。同33年美術界につくした功績によって文化勲章を授与された。近代に於ける南宗画界の代表作家で、南宗画の振興につくした功績は大きかった。略年譜明治9年 山口県に生る。明治26年 上京して野口幽谷に師事す。明治29年 日本美術協会展に「菊花双鶏」を初出品、二等褒状を受く。明治30年 日本美術協会展に「怒濤健鵰」を出品、銅牌を受く。明治31年 松林家の養子縁組成り孝子(号雪貞)と結婚す。病気療養のため郷里荻に帰省。明治34年 再度上京警視庁医務局に奉職。麹町三番町に新居を営む。明治34年 東京南宗画会委員嘱託。警視庁を辞職し、土手三番町に転居。明治37年 米国セントルイズ万国博覧会に「菊に鶏」出品。明治39年 岩溪裳川に就き漢詩を学ぶ。明治40年 正派同志会に参加、文展不出品。明治41年 第2回文展に「遊鴨図」を出品。明治42年 東京市麻布長谷寺前に転居。第3回文展に「葡萄図」出品。明治43年 第4回文展「夏山浴雨」出品、褒状を受く。明治44年 日本美術協会展委員、日本画会評議員。第5回文展に「秋山晩晴」出品、3等賞を受く。大正元年 麻布笄町に転居。第6回文展に「寒汀」出品、3等賞を受く。同年 第3回東京勧業博覧会審査員となり、「秋塘真趣」を出品。第7回文展に「松林仙閣」出品、3等賞を受く。大正3年 日本美術協会展委員。第8回文展に「秋晴」出品、3等賞を受く。大正4年 日本美術協会展に「春溪」出品、金牌を受く。大正8年 帝国美術院創設され、第1回展より審査員となる。大正9年 平和記念展審査員。大正11年 第4回帝展審査主任。大正14年 世田谷区に転居。大正15年 聖徳太子奉讃展審査員となり、「潭上余春」を出品。中央公論社より「田能村竹田」を出版。昭和4年 朝鮮総督府美術展審査員。台湾総督府美術展審査員。第10回帝展に「長門峡」出品。昭和7年 帝国美術院会員となる。昭和8年 明治神宮絵画館壁画「鳥羽伏見戦争図」完成。昭和11年 「愛吾盧」成る。昭和12年 満州国第1回美術展審査員。帝国美術院会員となる。三越にて個展。昭和14年 紐育万国博覧会に「春宵花影」出品。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展審査員となり、「秋樹林」を出品。昭和16年 第4回文展に「晩秋」出品。昭和17年 大東亜戦争美術展審査員。満州国美術使節として出張。昭和18年 大日本美術工芸資材統制会特別会員。第6回文展「秋郊」出品、政府買上となる。昭和19年 帝室技芸員を命ぜらる。昭和21年 文部省主催第1回日展審査主任。昭和22年 東京都美術館20周年記念展審査員。日中文化協会理事に推さる。昭和23年 日本美術協会理事長に推さる。東京都美術館顧問となる。横山大観、川合玉堂、上村松園野田九浦等と白寿会結成。昭和24年 日展運営会常任理事。第5回日展審査主任となり、「秋陰図」を出品。昭和25年 横山大観、川合玉堂、和田三造、佐藤朝山等と無名会を結成。日本芸術院会員選考委員となる。国立博物館主催「日本南画名作展」の選考委員となる。昭和26年 芸術院賞選定委員。第7回日展に「長門峡」出品。昭和27年 「桜雲洞詩鈔」出版。昭和29年 日展理事満期のため辞任。昭和32年 「桜雲堂画集」出版。昭和33年 文化勲章を授けらる。昭和34年 日本橋三越にて個展。昭和35年 日本南画院結成、会員に推さる。昭和36年 山口県荻市名誉市民に推さる。昭和37年 日本橋三越にて個展開催、「夏橙」「白梅紅梅」「池畔」等出品。南画振興のため後素会結成。紺綬褒章を受く。昭和38年 脳軟化症のため慶応病院にて逝去。

武石弘三郎

没年月日:1963/05/11

 わが明治彫塑界以来の長老だった武石弘三郎は5月11日午後4時58分老衰のため、鎌倉市の自宅で逝去した。享年85才。明治11年7月新潟県に生まれ、明治34年、わが洋風彫塑界の先覚、長沼守敬の愛弟子として東京美術学校塑造科最初の卒業生となった。間もなくベルギーに渡り、8年間滞留研究を続け、その間ブリュセル国立美術学校で優等生にあげられた。また当時のベルギーの世界的な巨匠コンスタンタン・ムニエを比較的早く紹介した。明治42年帰国、青壮年期は文展、帝展に出品したが、殊に戦後は全く発表がなく、殆んど穏棲の老後生活だった。大理石彫刻も早くから手がけ、代表作には、秩父宮登山姿や西園寺公、北白川宮、森鴎外、川端玉章らの胸像がある。

小林太市郎

没年月日:1963/05/06

 神戸大学文学部教授小林太市郎は5月7日狭心症のため京都市の自宅で急逝した。享年61才明治34年12月27日西陣の織元の家に生れ、染織中学に進んだが、同志社中学に転じ、京都大学文学部哲学科選科からフランスに留学してソルボンヌ大学で三年の課程を終えた。帰国後東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を径て、昭和25年5月神戸大学文学部教授となり、この間29年度には京都工芸繊維大学工芸学部講師、33年度には広島大学文学部講師をつとめた。氏は和漢洋の豊富な語学力と駿博な知識及び深い洞察に基いて広汎な著作活動を行い、別表の如く多彩な内容を示している。37年3月31には「大和絵史論」により文学博士の学位を授けられたが、同書はまた第一回の毎日出版文化賞の受賞図書でもあった。なお神戸大学文学会編「研究」の34号は氏の追悼特集号である。主要著作目録ベルグソン「精神力」訳 (昭和7年 第一書房)支那と仏蘭西美術工芸 (昭和12年 弘文堂)ダントルマール「中国陶瓷見聞録」訳註 (昭和18年 第一書房)王維の生涯と芸術 (昭和19年 全国書房)柿右衛門と伊万里図説 (昭和19年 大雅堂)北斎とドガ (昭和 全国書房)大和絵史論 (昭和21年 全国書房)禅月大師の生涯と芸術 (昭和22年 創元社)漢唐古俗と明器土偶 (昭和22年 一条書房)中国絵画史論孜 (昭和22年 大八洲出版社)乾山・京都篇 (昭和23年 全国書房)東洋陶磁鑑賞録中世篇 (昭和25年 便利堂)乾山「過凹凸★記」訳注考証美術史34.25 (昭和34年35年)マラルメの詩論 美学42(昭和35年)芸術の理解のために (昭和35年淡交新社)光琳と乾山(世界の人間像) (昭和37年角川書店)王維(絶筆 集英社)

池田勇八

没年月日:1963/03/31

 彫塑家、元帝展審査員・旧日展依嘱、池田勇八は、3月31日午後1時、狭心症のため東京都練馬区の自宅で逝去した。享年76才。明治19年8月28日香川県綾歌郡の牧畜業の家に生まれた。明治36年3月琴平工芸学校を卒業して、9月上京、東京美術学校彫刻選科に入学した。同窓に朝倉文夫がいた。明治40年3月同校を卒業。間もなく開かれた東京勧業博覧会に出品、銅牌を受賞、早くも彫刻界へデビューした。明治42年第3回文展に「馬」が初入選し、以来文展・帝展と、終始官展に拠って連年動物彫塑を発表、常に題材を自己の愛好する動物にしぼり、愛情をもって地道にその姿体を追求して特色を示し、官展の重鎮として、“馬の勇八”の異名を天下にとどろかせた。詳しい経歴や作品については、次に揚げる年譜で知られるが、殊に戦後の晩年は、公設展への発表を殆んど控え、渋谷東横百貨店の画廊で個展を開催、毎年一般鑑賞者に親しまれた。略年譜明治19年 8月28日香川県綾歌郡に生まれる。父池田森杉、母きよの次男明治33年 香川県琴平工芸学校入学。明治36年 3月同校卒業。9月上京。9月東京美術学校彫刻選科に入学。入試作「鳩」明治40年 3月同校彫刻科卒業。卒業製作「笛声」(芸大蔵)東京勧業博に出品「柔術」(銅牌)明治42年 文展初入選「馬」を出品。その他「仔馬追込み厩舎」明治43年 東京滝の川田端にアトリエを建てる。文展初入選「ぼんやりした馬」(褒賞)「動物園の犬」を出品。明治44年 「うさぎ馬」(褒賞)「川まで」を文展出品。明治天皇御料馬「金華山号」(宮内省買上げ)大正天皇御料馬「ダップ号」(宮内省蔵)大正元年 「山羊」(文展出品、文部省買上げ)「坂路」「平原の夕」等。大正2年 「心いき」(東宮御所蔵)「神山詣り」(近代美術館蔵)「鬨声」(梨本宮買上げ)を文展に出品。「春陽をあびて」大正3年 「まぐさ」(褒賞)「餌」「熊の名残」を文展出品。東京大正博に「山羊の群れ」(銅牌)「乳」「手入れ」を出品。その他「長白山と仔豚」「桜木」等。大正4年 「坂路」(その2)「みづかい」(褒賞)を文展出品。太平洋画会展に「堆積の横」出品(宮内省買上げ)。その他「草」「馬の群像」(宮内省蔵)「土手の草」「歩ゆむ豚」「母仔」「羊」等(子安農園蔵)大正5年 「川辺にて」(文展特選)「雄姿」「俄か雨」「たぬき」「牛頭」等。大正6年 「目かくし」(特選)「となかい」を文展出品。「仕事に出掛る」「日向ほっこ」等。大正7年 「麓そだち」(文展特選)「微風」(文展出品)「農馬」「水飲の場」等。大正8年 朝鮮、支那へ仏像研究のために行く。第1回帝展に無鑑査出品となる。「昔日の夢」「放牧地」「羊の群」(その1.その2)大正9年 帝展審査員となり、「春日」「高原の夕」を出品。その他「秋田犬」「二匹の仔犬」「うす日」等。朝鮮、支那へ再度視察研究に行く。大正10年 帝展審査員。「馬上の新山氏」「収穫」(生命保険協会蔵)を帝展に出品。第1回個展を生命保険協会で開催。「夕日を浴びて」「路傍の会話」等。以後昭和15、16年までに個展を20回開催。大正11年 北村西望、北村正信、国方林三、建畠大夢、関野聖雲、長谷川栄作氏らと昿原社を作る。帝展審査員。「小憩」(宮内省蔵」「頸環」を帝展出品。個展出品作「午後の陽」「優勝馬」等。大正12年 支那へ美術視察研究に行く。関東大震災のため帝展なし。「はがいまき」「斜陽」「秋深かし」「放牧地へ行く道」等個展に出品。大正13年 昿原社解散。帝展無鑑査出品。以後1934年(昭和9年)まで同じ。帝展出品作「嶺」「揚柳下」個展出品作「種牛」「雛」等。大正14年 「スタート所見」(帝展出品)個展出品作「駝鳥の雄雌」「曇り日」「虎」「吼える獅子」等。大正15年 今上陛下御料馬「吹雪」(宮内省蔵)「放牧地所見」(御大典時に献上)「若草」「静か」「仔牛」「門飾り」等を個展に出品。昭和2年 「イレネー号銅像」(十勝農場に建設)昭和3年 「雲」(帝展出品)「放牧地の所見」(個展出品)昭和4年 「轡心地」(帝展出品)「トールヌソール号」(個展出品)昭和5年 「名馬オーバーヤン」(日展出品)「ピアゴールドとトールヌソール初仔」「水辺」「噴水」等(個展出品)。昭和6年 「残月」(帝展出品)「神翁銅像」昭和7年 「開墾地の人」(帝展出品)「山下太郎氏像」ロスアンゼルス国際オリンピック芸術部審査員に任命される。「打球」を出品。昭和8年 「真崎将軍胸像」(帝展出品)この年の前後に「北白川宮成久王」御像および三笠宮、東久邇宮稔彦王、竹田宮恒徳王、朝香宮殿下の各御乗馬像製作。昭和9年 「渚の若武者」(帝展出品)「犬50題彫塑展」を三越本店で開催。「名犬ロー」「母性愛」「深き眠り」「和犬」「グレーハウンド」「羊を追う犬」「ボーズ」等。昭和10年 松田文相帝展改組により、畑正吉、石川確治、日名子実三、吉田久継、開発芳光、上田直氏らと共に第三部会を組織し、第一回三部会を開催。出品作「古式打球」等。以後15年まで同会の審査員をつとむ。昭和11年 ベルリン国際オリンピック審査員を任命される。「スタート地点へ」を出品。「ダービーのゴール」「優勝馬」等三部会出品。昭和12年 「尾花なびく」「T氏乗馬像」(三部会出品)昭和12年 「繋駕競争」「新田長次郎氏妻像」等を三部会へ出品。昭和14年 「李王殿下御乗馬像」「愛馬行進曲六曲対立木彫」三部会出品。昭和15年 「軍用動物供養塔」「閑」「新田長次郎氏銅像」三部会出品。昭和16年 三部会を退く。昭和19年 戦時特別展出品「大地を征く」昭和20年 北区にて戦災にあい、神奈川県藤沢市の家に移る。この間に原型や作品その他参考資料の殆んどを破損あるいは焼失する。昭和21年 日展復帰、無鑑査出品「スタートの前の種々相」昭和22年 彫刻材料不足のためこのころ主として線彫りまたはうす肉による木彫の製作多し。「羊の群れ」「鶏」「牧場」等。昭和25年 日展依嘱出品「皐月晴れのある日」以後1957年(昭和32年)まで同じ。昭和26年 「母仔」(日展)その他「山下汽船会長胸像」「トキノミノル号」等。昭和27年 「勝馬」(日展)「母子情溢」(現代美術展)等。昭和28年 「スタート」(日展)(芸術院蔵)等。「牧場の晨」(伊勢神宮遷宮奉賛綜合美術展出品)(伊勢神宮蔵)等。戦後第1回個展「馬とともに50年記念展」を日本橋三越で開く。「乳」「戯れ」「群れ」「馬場所見」等20数点を出品。以後1961年(昭和36年)まで毎年個展を日本橋三越、渋谷東横で開催。昭和29年 「生存の様相」(日展)「暁」(都市美彫塑展出品)個展出品作の主なものは「哺乳」「土龍を嗅ぐ」「飛越後」「尾花を蹴って」「若草をけって」等。昭和30年 住居を東京練馬区に移す。高松市美術展審査員を依頼され郷里へ赴く。出品作「草原の所見」(高松美術館蔵)「羽音」(日展)個展出品作「春風を嗅ぐ」「炎陽たつ頃」「駿馬」「仔牛」「眠る仔犬」「天馬」「母に寄り添う」等。昭和31年 「犬」(日展)「大木赴夫氏の像」。個展出品作「放牧地の母仔」「勝馬」「牡牛」「雄たけび」「蝶を追う」等。昭和32年 「放牧地の母仔」の馬像建設(馬事公苑蔵)「神翁銅像」建設(大楽毛市場蔵)「釧路の馬」(日展)個展出品作「空」「コリー」「嬉しさのあまり」「哺乳後」「ボルゾィ」「エヤデル」「ドイツポインター」「和犬」「愛犬太郎」「主を見送る」昭和33年 「春風旗★共合唱」の馬像建設(日高牧場蔵)この年より専ら個展に専念。個展出品作「日は暮れかかる阿寒の山路」「駒」「障碍」「銜味」昭和34年 「放牧地への楽しき道」の馬像建設(東京競馬場蔵)個展出品作「のきば」「二頭の若駒」「スワン」「ライオン」「松崎伊三郎氏像」「仔犬のたわむれ」等。昭和35年 個展出品作「三頭の駒」「はなれ馬」「嘶き」「楽しき足どり」「はみかえし」「咆哮」「挽馬」「虫」等。昭和36年 個展出品作「和合」「虎親子」「猿の母仔」「遽か構え」「孔雀水盤」「あひる水盤」「母の懐」「松崎薫氏像」「羊の親仔」等。昭和37年 「塩野八五郎氏像」2月より健康すぐれず、静養。秋にやや回復し、木彫「牧場のスケッチ」などを数点製作したが、11月末軽い脳溢血のため再び床に伏す。昭和38年 1月末健康やや回復し、「卯年の始作兎」「兎の紙切り」(献上)を作る。その後もっぱら回顧展の準備に専念。十勝農場の依頼「イレネー号」製作予定中であった。3月31日突然狭心症のため死去。11月19日-24日、日本橋三越にて故人が生前から希望企画していた「動物彫刻60年回顧展」(毎日新聞社後援)を開催。

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