本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





松原定吉

没年月日:1955/12/30

 染色家松原定吉は、12月30日東京都江戸川区の自宅で脳出血のため逝去した。享年62歳。富山県魚津市の出身で、11歳の時上京、染物業に従事した。江戸ゆかたの染め方「長板中形」が、30年1月重要無形文化財に指定された際、その技術の保持者として認定された。

安井曽太郎

没年月日:1955/12/14

 日本芸術院会員、帝室技芸員、一水会委員、日本美術家連盟会長などの要職にあつた洋画壇の巨匠安井曽太郎は、12月初めから神奈川県湯河原の自宅で肺炎療養中同14日心臓麻痺のため逝去した。享年67歳。明治21年5月17日京都市に生れ、若くして平清水亮太郎に洋画の初歩を学び、同37年浅井忠の研究所に入り、のち関西美術院に移つて浅井、鹿子木孟郎の指導を受けた。同40年渡仏、アカデミイ・ジュリアンに入つてジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、素描コンクールにおいて屡々首席を占めた。滞仏中ミレー、ピサロの感化を受け、更にセザンヌに傾倒し、またイタリア、スペインに遊んでイタリア・ルネッサンス彫刻或いはグレコの芸術に惹かれた。大正3年帰国し、同4年二科会第2回展覧会に滞欧作品44点を特別陳列して識者の注目を集め、二科会々員に推挙された。その後、毎歳二科会に発表、ドラン、ボナール等の感化を示しながら遂に昭和5、6年頃に至つて肖像画或いは静物画、風景画に自己の様式をきずき、いくつかの名作を描いた。昭和10年帝国美術院会員に任命されると共に二科会々員を辞し、同11年同志と一水会を創立してその会員となつた。同12年帝国芸術院の創設に際し芸術院会員を仰付けられた。なお此の年門下生たちによつて連袖会が結成された。この頃満洲、朝鮮に遊んで熱河、京城などの風景画を製作し、以後2、3年の間しきりに上高地風景を描いた。昭和19年梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、同校が芸術大学となつて後まで熱意をもつて後進を指導した。昭和18、9年には北京に赴き、風景、肖像画を描いた。昭和23年以来湯河原に移り、病身をいたわりながら製作をつづけ、多くの人物画や静物、風景を描き、明快な色調と平明な描写に線描を加え、独自の画境を示しつつあつた。同24年日本美術家連盟の創立とともにその会長に推され、終生同連盟の発展につくした。同27年多年の功労によつて文化勲章を受けた。以上のほか、国立近代美術館評議員、神奈川県立近代美術館運営委員であつた。 安井は、大正初年以来終始梅原竜三郡と並び称せられた。滞欧作以来絶えず発展を示したその芸術は、わが近代洋画の中軸をなしたが、その作風は写実精神に貫ぬかれている。昭和10年前後のいくつかの作品は、わが洋画史上記念碑的な作品として後世に遣るであろう。略年譜明治21年 5月17日、京都市中京区、木綿問屋を営む安井元七の五男として生る。母よね。明治27年 4月、京都市生祥尋常小学校に入学。明治31年 4月、卒業、京都市立商業学校に入学す。明治36年 4月、洋画家を志して同校本科1年修了後中途退学し、それより同校の図画教師平清水亮太郎につき鉛筆、水彩画を学ぶ。明治37年 夏、浅井忠の研究所に入り、浅井忠、鹿子木孟郎の指導を受く。明治39年 3月、関西美術院創立され、同院に移る。明治40年 4月末、津田青楓と同行渡仏、6月パリのアカデミイ・ジュリアンに入学し、ジャン・ポール・ローランスに師事す。リュ・ドゥ・テアートルに住み、12月パリ郊外ヴィトリーに移住。明治41年 夏、津田青楓と共にグレに遊びグレ風景を描く。明治42年 6月、津田青楓と共にフロモンビール村に、7月、更に藤川勇造を加えた3人でオーヴェルニュ・ビルロング村に遊ぶ。作品に「田舎の寺」等あり。明治43年 リュ・ドウ・シュル・シュミディのアパートに移り、夏再度ビルロング村に遊ぶ。その後、アカデミイ・ジュリアンのジャン・ポール・ローランス教室を去り、自由研究に入つてリュ・ドゥ・ヴォージラルにアトリエを持つ。作品「林檎」「パンと肉」「藁屋の庭」等。明治44年 夏、ブルターニュに赴き、秋再びビルロング村に遊ぶ。作品「垣」「村の道」「曇り日」「春の家」等。大正元年 5月、福見尚文と共にヴェトイユに製作旅行し、夏イギリス、オランダ、ベルギーを回遊、また秋には長谷川昇、沢部清五郎とスペインに見学旅行す。作品「青き壷」「少女」「肖像」「巴里の縁日」等。大正2年 秋、小川千甕と共にイタリアに見学旅行す。作品「足を洗ふ女」「黒き髪の女」「赤き屋根」等。大正3年 リュ・ドゥ・バルイエールのアトリエに移る。更にリュ・ドゥ・ババンのアトリエに転居せるも、この頃より健康を害す。8月第一次世界大戦勃発と病のため留学中の主要作品45点を携えてロンドンに逃れ、初秋ロンドン発帰国す。11月、京都の自宅に帰る。作品「孔雀と女」「下宿の人々」等。大正4年 冬、紀州湯崎温泉に避寒、夏但馬の竹野梅岸に避著し、専ら健康の回復につとめる一方、10月第2回二科会展に滞欧作品44点を特別出陳し、二科会々員に推挙さる。なおこの年鹿木孟郎の後任として関西美術院に教鞭をとる。大正5年 冬、熱海伊豆山に静養、健康回復し、5月豊島区に居を定む。「ダリヤ」「丘の道」「女」「芽出し頃」「林檎」を第3回二科展に出品。大正6年 7月6日水野はまと結塘。「肖像」「女」「グロキシニヤ」「少女」(公開を禁ぜられ撤去)を第4回二科展に出品す。大正7年 「孟宗薮」「静物」「早春」「支那服を着たる女」「梅林」「林檎と密柑」「少女」(公開禁止撤去)を第5回二科展出品。大正8年 「樹蔭」「ダリヤ」「春」を第6回二科展に出品。大正9年 秋、2ケ月程比叡山麓に滞在製作す。「薔薇」「化粧」「静物」を第7回二科展に出品。大正10年 「人物」「静物」を第8回二科展に出品。大正11年 平和記念東京博覧会洋画部審査員となる。「椅子による女」を第9回二科展に出品。大正12年 6月9日長男慶一郎出生。震災後しばらく京都に滞在す。大正13年 「黒き髪の女」「裸女」「桐の木」「女立像」「風景」「京都郊外」「薔薇」「素焼壷の薔薇」「新緑」「ダリヤ」を第11回二科展に出品。大正14年 9月京都画箋堂に於いて個展。「柿実る頃」「薔薇」「裸女」「秋の村」を第12回二科展に出品。昭和元年 燕巣会創立され、その同人となり、第1回展に「松林」「ダリヤ」「画室」「京都郊外」を出品。昭和2年 「ダリヤ」「モデル」を第2回燕巣会展に出品、「ダリヤ」「林檎と莓」「初夏」「薔薇」「桐の花咲く庭」を第14回二科展に出品。昭和3年 春、奈良に滞在製作す。「静物」「早春」を第3回燕巣会展に出品、「菊」「桃」「花と少女」「小菊」を第15回二科展に出品。昭和4年 熱海に製作旅行す。「樹間の海」を第4回燕巣会展に出品。「熱海附近(一)」「熱海附近(二)」「座像」を第16回二科展に出品。昭和5年 「婦人像」「芍薬」を第17回二科展に出品。昭和6年 外房太海にて風景画を製作。「ポーズせるモデル」「外房風景」「薔薇」を第18回二科展に出品。昭和7年 国立公園協会の依嘱を受け、7月十和田湖奥入瀬に旅し、風景画の連作をなす。「薔薇」を第19回二科展に出品。昭和8年 4月清光会創立され、その同人となつて毎回出品す。「湖畔の道」「雉子」を第1回清光会展に出品。「奥入瀬の渓流」「風吹く湖畔」「モデル」を第20回二科展に出品。昭和9年 3月末犬吠岬へ旅し、秋十和田湖奥入瀬に再遊す。12月東京都新宿区に自宅、アトリエを新築転居す。「裸女」「薔薇」を第2回清光会展に出品。「金蓉」「T先生の像」を第21回二科展に出品。昭和10年 3月末鵜原に旅行し、「鵜原風景」を製作。6月帝国美術院会員を仰付けられ、二科会会員を辞す。秋、裏磐梯に旅行し製作す。「少女」「風景」を第3回清光会展に出品、「果物」「紅葉する黄櫨」「松と睡蓮」を藤島武二、梅原龍三郎、安井曽太郎新作洋画展に出品す。「三宝柑」を現代10大家洋画展出品。昭和11年 春、仙台に赴き「本多先生の像」を描き、5月朝鮮美術展審査のため、朝鮮に旅行す。12月同志と一水会を結成し、逝去まで同会に属して委員をつとむ。「女児」を第3回現代10大家洋画展に出品、「菊」を青樹社洋画展に出品。昭和12年 4月満州国美術展審査のため藤島武二と共に新京に赴き、帰途熱河承徳にて製作、7月帰国す。6月官制改正により帝国美術院は帝国芸術院と改められ、帝国芸術院会員を仰付けらる。この年門下生等により連袖会組織さる。「少女像」「ばら」を第4回清光会展に出品、「深井英五像」「承徳喇嘛廟」を第1回一水会展に出品。昭和13年 7月末より3ケ月間上高地に滞在、風景画を連作す。「薔薇」「京城府」を第5回清光会展に出品、「薔薇」を第1回連袖会展に出品。昭和14年 「白樺と焼岳」「薔薇」を第6回清光会展に出品、「福島夫人像」「霞沢岳」を第3回一水会展に出品。昭和15年 5月銀座三昧堂にて「安井曽太郎作肖像画観賞会」を開催、6月より10月中旬まで上高地に再遊す。「女と犬」を第7回清光会展に出品、「黒扇」を紀元二六〇〇年奉祝展、「菊」を第4回一水会展に出品。昭和16年 12月紀州白浜と瀞峡に遊び、太平洋戦争開戦に遇う。「果物」を第8回清光会展、「焼岳」「池と穂高」第5回一水会展に出品。昭和17年 痔疾手術、湯河原に静養して製作す。「読書」を第9回清光会展、「上高地晩秋図」を第6回一水会展、「鏡の前」を満洲国建国10週年慶祝展に出品。昭和18年 夏、野尻湖に遊び、秋展覧会審査のため北京に赴き、同地にて宇佐美寛爾の肖像を描く。「ばら」を第10回清光会展、「玉笛(崔承喜の像)」を第7回一水会展に出品。昭和19年 6月梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、7月帝室技芸員を命ぜらる。夏北京、北満に旅し、秋北京にて「宇佐美氏像」を描く。また華北交通依嘱の「連雲港の日の出」を描くため冬連雲港において製作。年来北京にて病む。「静物」を芸術院会員陸軍献納展に出品。昭和20年 3月帰京、直ちに埼玉県大里郡に疎開す。「藤山愛一郎氏像」製作。昭和21年 第1回日展審査員となる。秋、帯状疱疹により眼を病み出京、治療を受く。「安倍先生像」を第1回日展に、「桜」「栗」を第11回清光会展に、「T夫人の像」「大観先生像」を第8回一水会展に出品。昭和22年 11月埼玉から新宿の自宅に帰る。「紫禁城」「静物」第12回清光会展、「北京の図」「連雲の町(一)」「連雲の町(二)」第9回一水会展出品。昭和23年 2月静養のため湯河原、熱海に滞在、7月帰京す。眼病回復し「小坂氏像」製作。「上高地」「秋の明神岳」を第13回清光会展、「藤山氏像」を第2回美術団体連合展、「徳川氏像」を第10回一水会展に出品。昭和24年 初夏、神奈川県湯河原天野屋別荘(旧竹内栖鳳画室)に居を移す。なお5月銀座松坂屋において「安井・梅原自薦展」開催せられ、重要作品85点を陳列。6月日本美術家連盟創立せられると共に同連盟会長に推さる。「薔薇」を第14回清光会展に、「M子氏像」を第3回美術団体連合展に、「湯河原風景」「小坂氏像」を第11回一水会展に出品。昭和25年 雑誌文芸春秋の表紙絵を1月号より担当以後毎号執筆す。「櫟の若葉」を第15回清光会に、「小宮君像」「孫」「桃」「大内氏像」を第12回一水会展に出品。昭和26年 10月学制改革により東京芸術大学美術部教授に配置換え、11月神奈川県立近代美術館運営委員となる。「画室にて」を第13回一水会展に出品。昭和27年 3月自己の便宜により芸大教授を辞任、9月国立近代美術館評議員となり、11月梅原龍三郎と共に文化勲章を受領す。「楠の新芽」を第17回清光会展に、「黒卓の桃」を第1回日本国際美術展に、「来の宮風景」「立像」「天津桃」「腰かける裸女」を第14回一水会展に出品。昭和28年 5月酒田市本間美術館に「安井・梅原展」開催、10月神奈川県立近代美術館に「安井曽太郎自薦展」を開催。12月天野屋に静養中の大原総一郎の肖像に着手(未完)。「湯河原の若葉」を第18回清光会展に、「銀化せる鯛」を第2回日本国際美術展に、「腰かけのポーズ」「湯河原風景」を第15回一水会展に出品。昭和29年 2月国立近代美術館の「近代の肖像画」展に安井作の肖像画15点陳列さる。5月九州に飛行機旅行、坂本繁二郎に会う。8月神奈川県湯河原に自宅、アトリエを新築転居す。「櫟と楠」を第19回清光会展に、「桃」を第1回現代日本美術展に、「赤き橋の見える風景」を第16回一水会展に出品。昭和30年 2月渡辺忠雄の、7月河上弘一の肖像を描きはじむ。6月国立近代美術館の「巨匠の二十代」展に安井の作品31点陳列。11月市立神戸美術館の「安井曽太郎と前田青邨展」に安井の作品20点陳列さる。12月14日午後5時25分心臓麻痺のため逝去。12月18日東京築地本願寺に於て葬儀を執行。この年「安倍能成君像」を第3回日本国際美術展に出品、「葡萄とペルシヤ大皿」を七大家新作展に出品。なお日本美術家連盟主催年末連盟展出品のため製作中の「秋の城山」が絶筆となつた。

斎藤佳三

没年月日:1955/11/17

 図案装飾家斎藤佳三は、11月17日胃癌のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年69歳。本名佳蔵。明治20年秋田県に生れ、大正5年東京美術学校図案科を卒業した。のち同校講師を勤め、また斎藤装飾美術研究所を創立した。主として美術工芸、服装方面で活躍したが、作曲をも試みた。著者に「世界の服飾史」「新しき民謡」などがある。

奥田誠一

没年月日:1955/10/27

 文化財専門審議会専門委員奥田誠一は、10月27日動脈硬化症に肺炎を併発し、東京都台東区の自宅で逝去した。享年73歳。明治16年6月15日三重県津市に生れた。号次郎坊。同43年東京帝国大学文科大学心理学科を卒業、同45年同心理学教室副手、大正3年同美術史研究室の副手となつた。同11年特許局技師兼農商務省技師に任ぜられ、昭和2年特許局意匠課長に進み、同17年退官した。この間、大正13年宮内省御物管理委員会臨時委員、昭和4年国宝保存会委員、同8年重要美術品等調査会委員、同25年文化財専門審議会専門委員となつて重要文化財の保護に尽瘁した。また帝室博物館学芸委員、国立博物館調査委員をもつとめ、さらに東京帝国大学文学部美学美術史学科講師、東京工業大学窯業学科講師として後進を指導した。また大正13年には自ら東洋陶磁研究所を創設して東洋陶磁の研究、鑑賞のために尽力し、別に古陶磁研究会、彩壷会、亦楽会等に関係し、名実共に東洋陶滋研究、鑑定の第一人者であつた。主な編著書に「陶磁器百選」(便利堂)「東洋陶磁集成」(東洋陶磁研究所)「日本工芸史概説」(雄山閤)「呉須赤絵」(座右宝)「陶器の読み方」(創芸社)「陶器大学」(座右宝)「茶碗談義」(創芸社)「異説天目考」(座右宝)「安南古陶磁図録」(同上)「日本の陶磁」等がある。

河面冬山

没年月日:1955/10/26

 漆工家河面冬山は、10月26日逝去した、享年73。本名冬一。明治15年1月20日広島市に生れ、同41年東京美術学校漆工科を卒業した。帝展以来官展に出品し、無鑑査となつたが、専ら宮内省御用品を製作して知られる。その主なものに大正天皇御即位式用御料車内賢所、大正天皇銀婚式奉祝献上品絵巻物箱、今上天皇御成婚奉祝高等文武官より献上御書棚、秩父宮御成婚奉祝宮内官献上御書棚等がある。昭和27年文部省無形文化財保護の選定を受け、また文化功労者に選ばれた。

辻善之助

没年月日:1955/10/13

 東京大学名誉教授、学士院会員、元文化財専門審議会々長文学博士辻善之助は、10月13日肺炎のため東京都新宿区の自宅で逝去した。享年78。明治10年4月15日兵庫県姫路市に生れ、同32年東京帝国大学を卒業、大学院に学び、同38年史料編纂官となつた。同42年日本仏教史の研究で学位を得た。大正12年兼任東大教授、昭和4年から同13年まで史料編纂所長をつとめた。退官と共に東大名誉教授に推された。この間、昭和7年帝国学士院会員となつた。「日本仏教史の研究」で学士院賞を受け、同27年仏教文化史の研究の功績によつて文化勲章を受けた。また文化財専門審議会々長として戦後の文化財保護事業につくした。「大日本史料」「大日本古文書」「鹿苑日録」「大乗院寺社雑記」等の編修出版に多くの功績があり、そのほか主な著書に「日本仏教史」「日本文化史」「社寺領性質の研究」「増訂海外交通史話」等がある。

居串佳一

没年月日:1955/10/05

 独立美術協会々員居串佳一は、10月5日北海道に於ける独立展開催のため同地旅行中急性肺炎のため札幌の宿舎で急逝した。旧姓水野。明治44年2月26日北海道網走に生れ、昭和6年網走中学枚を卒業した。同9年上京して画業に専心したが、その前同7年第2回独立展に「風景」「船着場」が初入選したのをはじめその後毎回入選し、同11年第6回展の「群」「海に生く」「氷上漁業」によつて海南賞を受け、翌年会友、同16年会員に推された。紀元二六〇〇年奉祝展に出品した「弓」はイタリア政府買上となつた。同19年千島に従軍したが、戦後北海道に疎開し、26年再び東京に居を定めて活躍していた。彼は、終始北海道の風物やアイヌの生活を主題とした写実的な作品を描いた。

服部亮英

没年月日:1955/09/28

 光風会会員服部亮英は、肝臓癌のため東京都大田区の自宅で死去した。享年68。明治20年9月16日三重県河芸郡に生れた。大正3年東京美術学校西洋画科を卒業、同5年から7年まで東京日日新聞、同8年から9年までやまと新聞及び新愛知新聞、同10年から12年まで東京朝日新聞に、それぞれ漫画家として在社した。大正14年帝展に初入選し、爾来毎年入選して無鑑査となつた。昭和3年光風会会員となり、この年春シベリア経由渡欧、フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリスを巡遊し、同4年帰国した。この間、サロン・ドウトンヌに出品した。同8年中国に遊び、さらに同11年から14年にわたつて北京美術学校に在職した。

荒井龍男

没年月日:1955/09/20

 モダンアート協会会員荒井龍男は、膀胱癌のため東京大学病院小石川分院に入院中9月20日急逝した。享年51。明治38年大分県中津市に生れた。昭和8年パリに遊学し、サロン・ドオトンヌ、サロン・チュイレリーに出品した。同12年自由美術家協会の創立に参画し、長い間同会に発表したが、同25年同志とモダンアート協会を創立してその会員となり、また国際美術家協会委員となつた。同27年アメリカに渡り、紐育リバーサイド美術館に於いて個人展覧会を開き、翌28年にはパリのギャラリー・クルーズに於て、さらに29年にはブラジルのサンパウロ近代美術館に於いて個人展覧会を催し、同美術館に大作4点が収蔵された。30年には再度サンパウロ美術館に個展を開き、また同地のビエンナーレ展の日本代表に選ばれた。この年帰国、東京京橋のブリヂストン美術館に於いて個展を開催したが、膀胱癌手術の結果悪く、急死したものである。彼は終始前衛絵画のためにつくしたが、その早逝は惜しまれる。

菊池契月

没年月日:1955/09/09

 京都日本画壇の長老で日本芸術院会員、帝室技芸員、京都市立美術大学名誉教授、京都市名誉市民であつた菊池契月は脳塞栓のため9月9日午後7時10分、京都市の自宅で死去した。享年75歳。本名完爾。明治12年長野県下高井郡に細野勝太郎の次男として生れた。13、4歳頃から画を好み児玉果亭について学んだが、画家となることを家人に反対され、明治29年親友の町田曲江とともに郷里を出奔して京都に赴いた。京都でははじめ南画系の内海吉堂に師事したが、師の吉堂はその画才の秀れていることと南画系にふさわくないことを見ぬいて自ら、四条派の系統をひいて当時著名であつた菊池芳文の門に送つた。芳文の塾に入つてからは急速にその才能を伸ばし、明治31年第4回新古美術品展に「文殊」を出品して褒状1等を、翌年第2回全国絵画共進会展に「資忠決死」によつて褒状1等を受けたのをはじめ、連年各種の展覧会に於いて受賞した。その後、芳文の長女アキと結婚、菊池家を嗣ぎ、明治40年文展が開催されてからは毎年出品、続けて賞を受け、華々しい活躍を示した。「供燈」「鉄漿蜻蛉」等はこの時期の代表的な作品である。大正7年には審査員に挙げられた。大正11年から約1年間英、仏、伊を中心に欧州を巡遊して帰朝、その後帝展に「立女」を発表、翌14年帝国美術院会員となり、また一方では菊池塾展を開いて毎年、清澄で気品の高い作品を次々と発表した。昭和に入つてその画風はますます円熟し、洗練されて「南波照間」「朱唇」「浬歯」等の優作を生み出している。七絃会、珊々会、春虹会等にも常に格調の高い作品を発表した。明治42年以来京都市立美術工芸学校、絵画専門学校に教鞭をとり、一時は学校長となつて絵画教育にも尽瘁、昭和25年には京都市立美術大学名誉教授の称号をうけた。昭和23年以後は病気のため制作は少くなり療養を続けていたが、遂に再起しなかつた。昭和29年京都市より名誉市民の称号を贈られ、名誉市民表彰規程により、9月23日京都市美術館において市民葬が行われた。略年譜明治12年 11月14日長野県下高井郡に細野勝太郎二男として生れる。名完爾。明治25年 この頃より児玉果亭に学ぶ。明治29年 町田典江とともに京都に出る。明治30年 内海吉堂に師事、後菊池芳文の塾に転じた。明治31年 第4回新古美術品展「文殊図」褒状1等。明治32年 第2回全国絵画共進会展「資忠決死」褒状1等。明治33年 第6回新古美術品展10年回顧展「聖徳太子遇飢人」3等賞銅牌。日本絵画協会日本美術院共催第9回絵画共進会「栲幡娘姫」褒状2等。明治34年 第7回新古美術品展「垓下別離」3等賞銅牌。明治35年 第8回新古美術品展「寂光院」2等賞銀牌。明治36年 第5回内国勧業博覧会「愴秋」3等賞銅牌。全国絵画共進会「閑話」2等賞銀牌。明治37年 第9回新古美術品展「落花」3等賞銅牌。明治38年 第10回新古美術品展「近藤重蔵」3等賞銅牌。明治39年 第11回新古美術品展「栄華」3等賞銅牌。菊池芳文の養嗣子となる。明治40年 第12回新古美術品展「姜詩妻」3等賞銅牌。第1回文展「春暖」。明治41年 第13回新古美術品展「故園の花」2等賞銀牌。第2回文展「名士弔喪」2等賞。明治42年 京都市立美術工芸学校教諭心得となる。第14回新古美術品展「達磨」2等賞銀牌。第3回文展「悪者の童」3等賞。明治43年 京都市立絵画専門学校助教諭となる。第4回文展「供燈」2等賞。明治45年・大正元年 第17回新古美術品展「木蓮」。第6回文展「茄子」3等賞。大正2年 第18回新古美術品展「煎茶人物図」。第7回文展「鉄漿蜻蛉」2等賞。大正3年 大正博覧会「媼」銅牌。第8回文展「ゆふべ」2等賞。大正4年 第9回文展「浦島」2等賞。大正5年 第10回文展「花野」、推薦。大正6年 第11回文展「蓮華」、推薦。大正7年 京都市立絵画専門学校教授となる。第12回文展「夕至」、審査委員。大正8年 第1回帝展「庭の池」、審査委員。大正9年 第2回帝展「少女」、審査委員。大正10年 第3回帝展「鶴」、審査委員。大正11年 欧洲へ外遊。大正12年 帰朝。日本美術展「水汲み女」。大正13年 第5回帝展「立女」、帝展委員。大正14年 帝国美術院会員となる。第1回菊池塾展「春風払絃」。大正15年・昭和元年 第2回菊池塾展「経政」。第7回帝展「赤童子」。昭和2年 第3回菊池塾展「敦盛」。昭和3年 沖縄地方へ旅行。第4回菊池塾展「女」。第9回帝展「南波照間」。御用画「若菜、着綿」。昭和4年 第5回菊池塾展「桜」。昭和5年 第6回菊池塾展「婦女」「麦」。第1回七絃会展「搗布図」「狗児」。ローマ日本美術展「菊」「聖徳太子影」。昭和6年 京都市立絵画専門学校長事務取扱、京都市立美術工芸学校長事務取扱となる。第7回菊池塾展「朱唇」。シャム日本画展「調馬」。昭和7年 京都市立絵画専門学校長兼同教授、京都市立美術工芸学校長となる。第8回菊池塾展「少女」。第3回七絃会展「柘榴」。昭和8年 京都市立絵画専門学校長を辞し教授専任となる。第9回菊池塾展「友禅の少女」。第4回七紘会展「涅歯」。昭和9年 帝室技芸員となる。京都市展「生暖」。第5回七絃会展「菊」「早苗」。第15回帝展「散策」。第1回珊々会展「北条時宗」。昭和10年 第1回春虹会展「旗手」。第2回珊々会展「松明牛」。第6回七絃会展「太子孝養図」。昭和11年 京都市立絵画専門学校教授を辞す。第7回七絃会展「吉法師、竹千代」。昭和12年 帝国芸術院会員となる。第3回春虹会展「遅日」。第3回珊々会展「朝爽」。第1回文展「麦拒」、審査員。第8回七絃会展「迦楼羅」。昭和13年 第3回京都市展「清水」。第2回文展「交歓」、審査員。第9回七絃会展「華」。昭和14年 第10回七紘会展「忠度」。昭和15年 第6回珊々会展「少年家康」。第11回七絃会展「吹奏」。昭和16年 第7回珊々会展「郭公」。第12回七紘会展「厳親」。昭和17年 第7回京都市展「紫★」。第8回珊々会展「観画」。満洲国建国10周年慶祝絵画展「孔雀鳩」。第13回七絃会展「樵翁」。日本画家報国会献納作品展「菊図」。昭和18年 関西邦画展「北政所」。第8回京都市展「小楠公弟兄」。昭和19年 第9回京都市展「萩」。昭和22年 法輪寺多宝塔天井画「龍」。七絃会復活展「彼岸」。昭和25年 京都市立美術大学名誉教授となる。昭和29年 京都市名誉市民の称号を贈られる。昭和30年 第2回薫風会展「不動」。9月9日没。

北沢楽天

没年月日:1955/08/25

 漫画界の長老北沢楽天は、8月25日大宮市の自宅で脳出血のため逝去した。享年79歳。明治9年7月20日生。本籍は埼玉県大宮市。大幸館絵画研究所において松室重剛、堀江正章に師事した。最初横浜の英字週刊誌ボクス・オブ・キューリアスに入社して絵画を担当したが、明治33年時事新報社に入つて漫画を描いて認められた。同38年4月漫画週刊誌「東京パック」を創刊し、漫画の普及につくした。昭和2年から同4年までヨーロッパを巡遊したが、この間も漫画を描いて毎週送り、またロンドンにおいて個展を開催した。帰国後「楽天全集」7巻、「楽天パック」を刊行し、また「家庭パック」を発行した。終戦後は大宮市郊外に隠棲し、筆硯を楽しんでいた。

池長孟

没年月日:1955/08/25

 旧池長美術館館長池長孟は、8月25日神戸市の自宅で胃潰瘍のため逝去した。享年64歳。明治24年11月24日神戸市兵庫に生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学法科を卒業し、のち暫く文科に学んだ。大正11年米、英、仏、瑞、伊、墺、独、白の8ケ国を巡遊し、翌年帰国した。同12年私立育英商業学校の校主兼校長となつた。この前後から「荒つ削りの魂」「開国秘譚」等の戯曲を著し、また大正9、10年頃から蒐集した南蛮美術を収載した豪華版「邦彩蛮華大宝鑑」を出版した。同15年神戸市に池長美術館を設立し、多年にわたる南蛮美術を収蔵陳列し、これを公開した。昭和23年第1回兵庫県文化賞を受けたが、同26年美術館並びに収蔵美術品を神戸市に委譲した。これ今日の神戸市美術館である。近世以降の洋風美術を蒐集し、その散佚を防いだ功績は没し難いものがある。

杉田禾堂

没年月日:1955/07/29

 日展参事、全日本工芸美術家協会委員長杉田禾堂は、7月29日逝去した。享年69歳。本名精二。明治19年8月1日長野県松本市に生れ、同45年東京美術学校鋳造科を卒業した。大正8年同校講師となり、昭和3年には商工省工芸指導所嘱託第二部長、同7年大阪府商工技師を歴任、同12年商工省貿易局嘱託として欧米各国に出張した。作家としては官展に出品し、昭和4年帝展特選及び推薦となり、同8年帝展審査員となつて以来、新文展、日展の審査員を屡々勤め、同25年日展参事となつた。同26年全日本工芸美術家協会設立と共に初代委員長に就任し、美術工芸界の長老であつた。

本阿弥光遜

没年月日:1955/07/26

 美術刀剣保存協会評議員、審査顧問本阿弥光遜は、7月26日新宿区の自宅で肺臓癌のため逝去した。享年77歳。明治12年4月29日群馬県前橋市に生れ、12歳の時上京して本阿弥琳雅の門に入つて刀剣鑑定と研磨を修業した。明治40年独立し、日本刀研究会を起して刀剣趣味の普及に尽力した。戦後は、美術刀剣保存協会の審査顧問であり、評議員を兼ねて貴重刀剣の認定に協力した。著書に「日本刀」(大正3年)、「日本刀大観」、「刀剣鑑定講話」等がある。

大串純夫

没年月日:1955/07/14

 東京国立文化財研究所美術部研究員、文部技官大串純夫は、7月14日急逝した。享年43歳。明治45年7月18日東京に生れ、昭和12年3月東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。14年3月まで大学院に学ぶかたわら国華社編輯員、成蹊高等学校講師の職に在り、14年美術研究所嘱託兼東洋美術国際研究会嘱託に就任、同会のArt Guide of Nipponを編纂した。18年応召、終戦時満州からシベリヤに移されて抑留5年。25年引揚後成蹊大学講師を嘱託され、26年文部技官に任じ美術研究所勤務を命ぜられた。27年12月文化財保護委員会事務局美術工芸課に併任され、翌年7月アメリカに於ける日本古美術展覧会要員として出張、29年3月出陳美術品と同船して帰国した。平安・鎌倉時代の仏教絵画を専攻し、近年は説話を軸とする絵巻物研究に専念していた。主な論文は次の通りである。昭和15年8月-16年7月 来迎芸術論1-5 国華597 599 604 605 608昭和16年11月-12月 十界図考上・下 美術研究119 120昭和28年2月-3月 信貴山縁起絵巻の詞 国華731 732昭和28年9月 信貴山縁起関係説話 美術研究170昭和28年9月-11月 信貴山縁起絵巻画面解釈 国華738-740昭和29年9月 信貴山縁起絵巻の成立をめぐる歴史的諸条件 美術研究177

芝葛盛

没年月日:1955/07/13

 文化財専門審議会専門委員、正倉院評議会々員、宮内庁調査員芝葛盛は、7月13日肝臓病のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年75歳。明治13年4月3日東京都新宿区に生れた。明治36年東京帝国大学文科大学卒業後史料編纂掛となり、大正3年宮内省図書寮編修官を拝命し、編修課長として昭和21年退官するまで、長年月にわたつて歴代天皇の実録編集を担任した。この間、東京帝国大学文学部講師、立教大学、国学院大学、日本女子大学等に国史を講じた。昭和21年帝国学士院帝室制度史編纂室主任、同24年再び宮内庁調査員となつた。同12年国宝保存会委員を仰付けられ、同25年文化財専門審議会専門委員を命ぜられ、第一分科会と第三分科会に所属し、長年月にわたつて文化財保護のためにつくした。また、昭和15年6月、同21年9月、同27年6月両陛下に御進講申上げた。著書に「皇室制度」「平安時代の風俗」等がある。

西村卓三

没年月日:1955/07/11

 日展依嘱西村卓三は、7月11日京都市上京区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年47歳。明治41年1月29日画家西村五雲の二男として京都市に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、京都市立絵画専門学校を卒業し、なお同校研究科に在籍し、また父五雲の画塾晨鳥社に於いて引続き業を修めた。昭和7年第13回帝展に「湖畔小景」が初入選し、次いで第15回帝展の「織工」が特選となつた。その後、新文展、日展にほとんど毎回出品し、昭和25年第6回日展以来日展依嘱となつた。その間、昭和10年京都市立美術工芸学校教員となり、同15年から24年に至るまで同校教諭として後進の指導にあたつた。京都日本画壇の中堅として将来を嘱目されたが、その急逝は惜しまれる。

恩地孝四郎

没年月日:1955/06/03

 版画家恩地孝四郎は6月3日心臓衰弱のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年63歳。品川区の高福院で告別式が行われた。明治24年、当時裁判官の職にあつた恩地轍の四男として東京に生れた。東京美術学校に入学、洋画、彫刻を学んだが間もなく中途退学した。その頃から詩と版画の雑誌「月映」を創刊し抽象的な作品を発表、更に萩原朔太郎を中心とする「感情」の同人にも加わり、詩や版画、或は装幀にも活躍した。作品は帝展及び日本創作版画協会(後の日本版画協会)に出品していたが、まもなく帝展を離れ、版画協会で作品を発表、同会の発展には終始尽力した。また国画会版画部の会員でもあつた。大正初期以来、創作版画の振興に尽力し、また版画に於て抽象作品を描きつづけた最も早い一人であつた。木版画家であるが、フロッタージュの技法をとり入れたモノタイプの作品も多く、また製本装幀を得意として、すぐれた才能をみせた。晩年は好調で、ブラジル・サンパウロやスイスのルガルノ、或は米国に於ける展覧会に招かれて出品、大変好評であつた。略年譜明治24年 7月2日、東京府淀橋に生れた。明治42年 独乙協会中学校卒業、白馬会洋画研究所に学ぶ。明治44年 東京美術学校洋画科予科に入学。翌年彫刻部に移る。大正2年 再び洋画部に戻る。田中恭吉等と詩と版画の雑誌「月映」を創刊、既に抽象的な作品を発表する。大正3年 東京美術学校中途退学。大正4年 4月、小林のぶと結婚。6月、室生犀星萩原朔太郎を中心に同人雑誌「感情」を創刊、同誌の装幀もする。大正5年 「卓上社」展その他で版画作品を発表。画集「幸福」出版。この頃より盛んに装本の仕事を初める。大正8年 日本創作版画協会の会員となり、毎年出品する。昭和4年 昭和2年よりこの年まで帝展に出品、以後帝展を離れる。昭和6年 日本創作版画協会は発展解消して日本版画協会となり、同会々員となる。昭和11年 国画会版画部に会員として参加。昭和14年 自宅に、研究会「一木会」を作る。昭和17年 「工房雑記」「博物誌」を発行。昭和18年 エッセイ集「草・虫・旅」、版画と詩集「虫・魚・介」を発行。昭和26年 ブラジル・サンパウロ国際展に招待出品「リリック11」、スイス、ルガルノ展出品「リリック12」ほか。昭和27年 日本橋三越で個展開催。アブストラクト・アートクラブ会員となる。「日本の現代版画」「本の美術」発行。昭和28年 アメリカ、リバーサイド美術館に於ける日米アブストラクト展に「リリック29」を出品。昭和30年 サンパウロ国際展に「フォルム7」ほか5点を出品。6月3日午後自宅で没。作品は「ポエム」「フォルム」「リリック」「オブジェ」等各々数年に亘る連作のほか「山田耕筰像」(昭和15年)「氷島の著者像」(昭和18年)「或るバイオリニストの印象」(昭和22年)等木版肖像作品も多い。

羽田亨

没年月日:1955/04/13

 元京都大学総長、京都大学名誉教授、文学博士羽田亨は、かねて膵臓癌のため京都大学病院井上内科に入院中であつたが、肺炎を併発して4月13日逝去した。72歳。京都府に生れ、明治40年東京帝国大学文科大学を卒業した。同42年京都大学文学部講師となり、大正12年文学博士の学位を得、同13年教授に進んだ。昭和13年から同20年まで第10代京都大学総長に在任、同21年同学名誉教授となつた。28年東洋史の研究の功績によつて文化勲章を受け、29年には京都名誉市民に推された。また支那学研究に対し、27年フランス、アカデミーからジユリアン章、30年1月フランス政府からレジヨン・ド・ヌール勲章を授与された。著書には「西域文明史概論」「西域文化史」などがあり、晩年には開国百年記念会々長として明治文化史、日米文化交渉史の編纂を主宰していた。

川上全次

没年月日:1955/04/12

 第二紀会彫刻部会員川上全次は、ベルギー留学中アントワープに於いて客死した。享年42歳。大正2年9月18日東京市神田に生れ、暁星中学校を経て東京美術学校彫塑科に入学、昭和13年卒業した。同14年から20年まで軍務に服したが、同18年には日本彫刻家協会から第二奨励賞を受けた。戦後日展に出品し、同22年には特選を受けた。同26年第二紀会彫刻部発足に際し参加して会員となつた。これより前25年にサロン・ド・プランタンに於いて1等賞を得、留学を命ぜられ、同27年8月ベルギーへ赴いた。同28年国立美術学校を卒業し、続いてロワイヤル・アカデミイへ入学し、翌年にはグランプリ賞を受けた。将来を嘱望された彫塑家であつたが、その客死は惜しまれる。

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