本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





山川秀峰

没年月日:1944/12/29

 文展無鑑査山川秀峰は12月29日脳溢血の為逝去した。享年47。本名嘉雄、明治31年京都に生れ、鏑木清方・池上秀畝に師事した。昭和3年第9回帝展に「安倍野」を出品して特選となり、11回帝展の「大谷武子姫」は再び特選、翌6年には無鑑査となつた。第13回展の「序の舞」、二千六百年奉祝展の「信濃路の女」等の優品がある。また青衿会を伊東深水と共に催し、美人画の開拓に努めていた。帝展文展出品目録大正8年 帝展1回 振袖物語(対) 初入選大正9年 帝展2回 郷秋の唄大正13年 帝展5回 夢(二曲屏風半双)大正15年 帝展7回 宮古路豊後掾昭和2年 帝展8回 蛍(四曲屏風半双)昭和3年 帝展9回 安倍野 特選昭和4年 帝展10回 盲女朝顔昭和5年 帝展11回 大谷武子 特選昭和6年 帝展12回 素踊 無鑑査となる昭和7年 帝展13回 序の舞昭和8年 帝展14回 蔭に憩ふ昭和9年 帝展15回 アコーデオン昭和13年 文展2回 佳日昭和14年 文展3回 彼岸昭和15年 奉祝展 信濃路の女昭和17年 文展5回 月輪

松本文三郎

没年月日:1944/12/21

 帝国学士院会員、京大名誉教授、東方文化研究所長、文学博士松本文三郎は気管支カタルのため京都銀閣寺の自宅で逝去した。享年76。号亡洋、明治2年金沢に生れ、26年東京文科大学卒業、32年独逸に留学し、一高、京大教授を歴任、初代文学部長を勤めた後現職に推された。印度哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても種々の論文を発表していた。美術関係の主なる著書に「印度の仏教芸術」「東洋の古代芸術」などがある。

河野桐谷

没年月日:1944/11/15

 美術評論家河野桐谷は11月15日逝去した。享年66。本名穣。明治12年東京に生れ、早稲田大学文科を卒業し、劇の研究に志し、後秋田雨雀、楠山正雄等と共に美術劇場を起した。また国桂文芸会に従事、戯曲と美術に関する著書を出し、「南画鑑賞」の主幹として健筆を揮つた。

吉田喜蔵

没年月日:1944/10/25

 洋画家吉田喜蔵は腎臓炎の為10月25日逝去した。享年56。明治22年滋賀県大津に生れ、黒田清輝に師事、大正15年よりフランスに留学、昭和2年帰朝して後、洋画研究所を経営後進の指導に当つた。昭和2年帝展に「南仏風景」出品後はもつぱら個展により、パステル画が多かつた。

島崎鶏二

没年月日:1944/10/10

 二科会員、文展無鑑査、洋画家島崎鶏二は10月10日逝去した。明治40年島崎藤村の息として生れ、川端画学校で学んだが、昭和4年から3年間渡仏、帰朝後清新な写実画風の作品を発表して嘱目された。二科会に発表した「うちわ」(22回)「水」(23回)「川辺」(24回)「桔梗」(25回)「竹」(26回)「笛」「弓」(27回)「白い花」「蔬菜」(28回)「牧草」(29回)など、いずれも当時注目を惹いた作品である。

長谷川栄作

没年月日:1944/10/06

 文展審査員長谷川栄作は腎臓病の為10月6日逝去した。享年55。明治23年東京に生れ、15歳の時吉田芳明に師事、翌年から芳州と号し、東京彫工会、日本美術工会、日本美術協会等に出品した。明治40年、勧業博覧会において褒状をうけ、大正3年文展に入選以来、連年発表を続け、大正9年帝展無鑑査、11月帝展審査員となり、発病の前年昭和17年まで官展で活躍した。一方、昭和6年には栴檀社を結成、昭和10年東邦彫塑院を結成し在野展の上にも種々の足跡を残した。略年譜明治23年 土浦藩の出、長谷川勝太郎長男として浅草に生る明治30年 栃木県那須郡に移住明治35年 東京品川に移る明治36年 高等小学校中退、象牙彫刻家島村俊明門下の鈴木智明に師事明治37年 鈴木没後、吉田芳明方に起臥師事明治38年 芳州と号す、東京彫工会 日本美術工会、日本美術協会等に出品明治39年 伯父乃木希典の那須野別墅に行き「乃木将軍農耕姿立像」原型をつくる明治40年 東京府勧業博覧会「河辺」(木)を出品褒状明治42年 吉田芳明方を出る大正元年 「乃木将軍の顔」を油土でつくる大正2年 荘原郡に工房成る、「乃木将軍農耕姿」第2回作大正3年 25歳、第8回文展「夢」入選大正4年 「乃木将軍及両親三座像」(木)なり、長府乃木館に置かる、第9回文展「春よ永遠なれ」(木)3等賞大正5年 3月「乃木将軍夫妻像」桃山乃木神社に納む、第10回文展「S氏像」(木)大正6年 6月栴檀社を結成、第1回展に「心を見つめて」「華魁」(木)2点、第11回文展「引接」(木)「私の顔」(銅)「引接」は特選首席となる、早大英文科沙翁祭のため「シェイクスピヤ像」(石膏)をつくる大正7年(29歳) 矢野君江と結婚 第2回栴檀社展「あまい囁に酔える時」「白耀」「羽衣」「習作」(木)、第12回文展「地上にある誇り」(木)特選大正8年 第3回栴檀社展「ゆあみ」「尋声」(木)、第1回帝展「幸よ、人類の上にあれ」(木)冬、北品川御殿山に邸宅及工房を新築大正9年 「後藤恕作立像」をつくる、第4回栴檀社展「齲歯笑」「乙姫」「悩を知らしむ」(木)帝展無鑑査となる大正10年 3月栴檀社解散、「斑鳩皇子像」(木)をつくる大正11年 2月北村西望の曠原社に参加、4月平和博に「男女像」を出品、帝展審査員となる、第4回帝展「母性礼讃」(木)を出す、11月曠原社を脱退大正12年 「聖徳太子十六歳の御像」「坪内博士座像」(木)をつくる大正13年 御殿山桜で「墨染の像」つくる、「原敬胸像」つくる、五日彫塑合同展に「坪内博士座像」、第5回帝展「施薬」(木)委員たり大正14年 赤坂乃木神社内陣の木彫狛一対をつくる昭和元年 「伊豆志乙女」「手古奈」(木)をつくる昭和2年 赤坂乃木神社石彫狛一対をつくる、第8回帝展「華清池の楊貴妃に想を得たる試作」委員たり、この年「彫塑の手ほどき」を博文館より出版昭和3年 第9回帝展「華」、委員たり昭和4年 小石川伝通院の「準提観自在菩薩像」をつくる、赤坂乃木神社石彫狛一対、第10回帝展「女の顔」(鋳)出品、「宝生如来」(木)を作る昭和5年 荻窪古河家希願孤児院の「地蔵菩薩」(木)をつくる昭和6年 品川神社の「漆昌厳像」(銅)、山口玄洞・及夫人のため「観世音菩薩像」「地蔵菩薩像」(木)をつくる、第12回帝展「乃木将軍」(鋳)エチオピア皇帝に納む昭和7年 「吉田松陰座像」「品川弥二郎座像」(鋳)をつくる、帝展審査員たり昭和8年 水戸県庁内「農人形銅像」をつくる、同台座3面に「田植」「刈込」「収穫」の浮彫をなす、「関和知像」(鋳)をつくる、5月満州国へ芸術使節としてゆき、「乃木将軍像」を納む、チチハル・マンチュリ・奉天・熱河へ廻る、伊賀白鳳城建築に与り、「鯱」「川崎克半身像」(鋳)をつくる、第14回帝展審査員「双柿舎に於ける逍遥先生」(鋳)を出品昭和9年 「渡辺海旭半身像」(鋳)をつくる、調布高女の「精進鐘」「栗原幸蔵」をつくる、第15回帝展「徳富蘇峰先生」昭和10年 東邦彫塑院を結成して帝院改組問題に声明す、歌舞伎座「坪内逍遥半身ブロンズ像」をつくる、11月東邦彫塑院第一会展に「玄峰師」を出す昭和11年 「西村庄平像」(鋳)「山脇房子女史像」(鋳)五反田雉宮神社「海老沢啓三郎半身像」をつくる、帝国美術院参与となる、文展(招待展)「宝華素影」(木)昭和12年 岩崎家「釈迦如来」「観世音菩薩」「地蔵菩薩」三尊を作る、第1回文展審査員「のぼるもの」(木)、秋杏雲堂病院に入院昭和13年 「渡会陸二博士胸像」、「山本条太郎胸像」、小石川護国寺の本尊「大日如来」(木)昭和14年 長府覚苑寺の「乃木将軍軍服姿立像」「翁」「伊藤琢磨胸像」をつくる、第2回東邦彫塑院展「病舎にて」(鋳)聖戦美術展「病舎の一隅」(鋳)第3回文展「桂翁」(鋳)昭和15年 東邦彫塑院「舞楽春庭華」(木)「吉田芳明像」(鋳)、瑞穂会展「幸運」(鋳)「伊豆志乙女」(木)長府豊浦国民学校「乃木将軍軍服立像」昭和16年 橿原神宮「聖徳太子座像」第4回文展審査員「以露葉」昭和17年 東邦彫塑院解散、3月日本彫刻家連盟なり幹部委員となる、「伊藤博文立像」(鋳)「鈿女命像」(木)をつくる、第5回文展審査員「山崎朝雲像」(鋳)昭和18年 肺炎をおこし腎臓病再発、調布高女「川村理助立像」(木)をつくる、建艦展「吉田松陰座像」(鋳)10月より伊東に静養昭和19年 「漁夫の首」をつくる、5月帰宅、7月杏雲堂病院に入る、「観世音菩薩像」2体をつくる、8月退院、10月再入院、6日没 一乗年活山道栄居士

泉二勝磨

没年月日:1944/10/03

 文展無鑑査、二科会々員泉二勝磨は10月3日逝去した。享年40。明治38年東京に生れ、昭和4年東京美術学校を卒業、昭和6年フランスに留学、同14年帰朝した。その間フランス汽船「ノルマンディー」の装飾に師デュナン氏と共に従事し、ギリシャ、エトリユスク、仏中世の絵画彫刻を主に研究した。昭和14年二科展に「花売娘」等出品、15年二科展に「朔雲童児」出品、16年二科に「東郷大将バルチック艦隊を睨む」を出品して注目され、同年二科会員に推された。また氏は多摩帝国美術学校に彫刻図案を講じている。

茨木猪之吉

没年月日:1944/10/02

 茨木猪之吉は10月2日、穂高で登山中に消息を絶つ。明治21年静岡県に生る。はじめ浅井忠に学び、のち太平洋画会研究所、日本美術院洋画部に於て研究、春陽会に出品し、又日本山岳画協会の会員であつた。

熊岡美彦

没年月日:1944/10/01

 東光会の創立者、文展審査員熊岡美彦は急性喘息のため淀橋区の自宅で死去した。享年56。明治22年茨城県石岡市に生れ、42年東京美術学校に入学、和田英作、藤島武二に師事し、大正2年卒業、同年文展に入選した。その後満谷国四郎等と親交があり、画技に精進、大正8年第1回帝展に特選に推され、14年の第6回帝展には「緑衣」を出して初の帝国美術院賞を受けた。翌年から帝展委員となつたが、同年から昭和4年にかけて欧洲に留学、帰朝後斎藤与里とともに東光会を結成した。昭和7年には熊岡洋画研究所を設立して後進を育成し、11年には支那・台湾・朝鮮を漫遊、その後も文展の審査員として力強い作風で活躍していた。略年譜明治22年 茨城県石岡市に生る、源蔵次男明治42年 土浦中学校卒業、東京美術学校入学大正2年 同校卒業、第7回文展に「かつらした」「花屋の店にて」入選大正3年 第8回文展「椅子によれる少女」「カーネーション」「静物」大正4年 第9回文展「母と子の肖像」(褒状)「静物」大正5年 第10回文展「裸体」大正7年 第12回文展「編物する二女」大正8年 第1回帝展「朝鮮服を着たる女」(特選)大正9年 第2回帝展「春」(無鑑査)大正10年 第3回帝展「抱かれたる子供」(特選)大正11年 第4回帝展「子供と犬」「ダリヤ」(無鑑査)大正13年 第5回帝展「ベランダの裸女」「庭に遊ぶ子供」大正14年 第6回帝展「緑衣」(帝国美術院賞)「裸女」大正15年 第7回帝展「仰臥」「麗日」(委員)この年渡欧昭和3年 槐樹社展に滞欧作品を送る昭和4年 帰朝、10回帝展「裸女」昭和5年 槐樹社解散、同志斎藤与里とともに東光会を結成す、滞欧作個展をひらく、11回帝展「集まる緋鯉」昭和6年 12回帝展に「山上裸婦」昭和7年 自邸に熊岡洋画研究所を設立、13回帝展「裸婦観漠」昭和8年 14回帝展「筍」昭和9年 15回帝展「不空羂索観音」昭和10年 熊岡洋画道場設立、小品個展をひらく、現代綜合美術展「山上の裸婦」昭和11年 第4回東光会「支那室の裸婦」他6点、支那、台湾、朝鮮を漫遊昭和12年 第5回東光会「草上裸婦」台湾風景8点、第1回文展「銀屏」昭和13年 第2回文展「山上群馬」、第6回東光会「柘榴」昭和14年 第3回文展「厦門南普陀」、第7回東光会「妙義の秋」、この年、北・中・南支従軍昭和15年 第8回東光会「森の放牧」、奉祝展「落日珠光」、この年個展開く昭和16年 第9回東光会「竹下清身」等、第4回文展「山の娘」昭和17年 第10回東光会「柿」「夏蜜柑なる伊豆」等、第5回文展「春雪」昭和18年 第6回文展「群嶽春装」昭和19年 淀橋区の自宅に逝去、56歳、妻多香子、二男二女あり

大野静方

没年月日:1944/09/17

 日本画家大野静方は喘息のため、杉並区の自宅で死去した。享年63。東京深川の生れで、故山本笑月、長谷川如是閑の実弟にあたり、水野年方の門に学んだ。後年浮世絵史の研究に入り、「浮世絵の版画」などの著がある。

青戸精一

没年月日:1944/09/17

 文部省科学局調査課長青戸精一は9月17日逝去した。享年43。明治35年島根県に生れ、昭和2年東大法学部政治科を卒業後、東大農学部大学院に入り農政学を修めた。昭和4年文部省に入り、12年文部書記官、宗教局保存課長となり、18年科学局調査課長となつた。在任中法隆寺の保存事業に尽す所が多かつた。

荒木十畝

没年月日:1944/09/11

 帝国芸術院会員・旧姓朝長・本名悌二郎、明治5年9月長崎県に生れ、明治25年21歳の時上京して荒木寛畝に師事し、翌年荒木家の嗣子となる。始め琴湖と号したが、この時十畝と改めた。28年日本美術協会に入り、30年には末松謙澄の日本画会創立に参画してこれが牛耳を執り、30歳にして父寛畝の後を襲つて女子高等師範学校講師となり、幾何もなく教授に進んで爾来十数年我が国の絵画教育に多大の貢献をなした。明治37年米国聖路易の万国博覧会に出品して銀牌を受け、明治40年文部省美術展覧会が開かれるや同志と共に正派同志会を組織して之と対抗したが、同展第2回には迎えられてその審査員となり、3回以来引続き審査委員として年々力作を発表、大正8年帝展第1回展に「黄昏」を出品して非常な好評を博し、2回には審査委員に挙げられ、大正11年には日華連合絵画展覧会を開き日華の文化提携に尽瘁した。12年帝国美術員会員に推され、毎回出品、昭和6年には暹羅に於ける日本美術展覧会を計画して成績をあげ、14年には再び日華文化親善の途を拓こうと支那に遊んで功績をあげた。晩年画室を大磯に移し、更に箱根仙石原に移して制作三昧に入ろうとしたが19年9月1日突如心臓麻痺を以て長逝した。行年73歳。法名開悟院十畝日顕居士、新宿区浄輪寺に葬つた。著書に「東洋画論」がある。略年譜明治5年 長崎県に生る、父は平蔵、母は寿賀、兄妹数名あり明治25年(21歳) 上京、荒木寛畝に師事す明治26年(22歳) 荒木寛畝の養嗣子となる明治28年(24歳) 日本美術協会員となる明治30年(26歳) 日本画会の組織に参画す明治34年(30歳) 東京女高師の講師となる明治37年(33歳) 米国聖路易万国博覧会に「秋汀群鴨」を出品し銀牌受領明治38年(34年) 日本美術協会展に銀賞受賞明治40年(36歳) 文部省美術展覧会開設されるや同志と共に正派同志会を組織対抗す明治41年(37歳) 文展第2回に審査員となり「渓流」を出品明治42年(38歳) 第3回文展に審査員「夏景山水」と「雨後」を出品明治43年(39歳) 日英大博覧会に出品金牌受領、第4回文展に「歳寒三友」を出品明治45年(41歳) 第6回文展に「園の秋」「葡萄」大正2年(42歳) 第7回文展に「棕梠と蘇鉄」大正3年(43歳) 第8回文展に「雨後」大正4年(44歳) 第9回に審査委員となり「四季花鳥」を出品大正5年(45歳) 第10回文展に審査委員「清妍」出品大正6年(46歳) 第11回文展に「四季花鳥」出品大正7年(47歳) 第12回に「牡丹」大正8年(48歳) 帝国美術院第1回展に「黄昏」を出品、女高師を辞任大正9年(49歳) 第2回帝展に「深山の秋」、第14回読画会展に「残照」大正10年(50歳) 第3回帝展に「松」六曲一双、某家のため「春苑双美」(孔雀牡丹)の大作を揮毫す大正11年(51歳) 日華連合絵画展覧会を主宰し「春暖」を出品、第4回帝展に「秋夕」、秩父宮御成年式に皇后宮よりの命を奉じて四季花鳥屏風を揮毫大正12年(52歳) 帝国美術院会員にあげられ正5位勲4等に叙せらる、日本画会を改革す大正13年(53歳) 第5回帝展に「朝」出品昭和元年(55歳) 聖徳太子奉讃展に「春寒」第7回帝展に「夜梅」出品、「十畝画選」刊行昭和2年(56歳) 第8回帝展「白鷹」、読画会展に「秋圃」出品昭和3年(57歳) 第9回帝展に「鶴」、読画会展に「春」、名古屋勧業博覧会に「茄子」出品昭和4年(58歳) 国際美術展に「雨霽」、読画会展に「鳳凰」出品、日華連合絵画展の開催につき中国に赴き12月帰朝昭和5年(59歳) 第11回帝展に「軍鶏」、読画会展に「海の幸」「萓草」昭和6年(60歳) 日本画会展に「瑞雪」、読画会展に「葡萄栗鼠」、12回帝展に「五位鷺」10月夫人と共に暹羅に赴き同地に日本美術展を開く昭和7年(61歳) 第13回帝展に「寂光」出品、此の年の春暹羅より帰る昭和8年(62歳) 居を市外に移す、第14回帝展に「玄明」、読画会に「白栗鼠」出品昭和9年(63歳) 第15回帝展に「窈冥」、読画会に「九十九島の夕」、日本画会に「けしの花」、京都市主催綜合展に「泰山木」出品昭和10年(64歳) 第27回読画会展に「麗春」「五月雨」「晩秋」「寒空」の四部作出品、台湾美術審査員として同地に赴く昭和11年(65歳) ラジオにて「日本画を新しく吟味せよ」と放送、文展無鑑査部に「雄風」の大作発表昭和12年(66歳) 帝国芸術院創立され会員となる、日本画会に「渓間」、読画会に「四季花鳥」出品、朝鮮美術展に審査員として赴く昭和13年(67歳) 第3回文展に「怒涛」、読画会展に「浅春」出品、6月東京美術倶楽部に個展を開く昭和14年(68歳) 日華連合展の為中国に赴く、読画会展に「駒ケ嶽遠望」「鯉」出品、中央公論に「文展改革論」を発表す昭和15年(69歳) 読画会展に「鷺」出品、大毎東日の美術展に「煙雨」出品昭和16年(70歳) 読画会に「夏二題」出品昭和17年(71歳) 献納画「浄晨」揮毫、第5回文展に「煙雨」、読画会に「雨後」出品、「東洋画論」を上梓す昭和18年(72歳) 献納画「九官鳥」「朝輝」「霊峰」「鷹」を揮毫昭和19年(73歳) 画室を大磯に移し、献納画「秋」を揮毫す、9月10日画室に門弟を集め美術談を試み、翌11日午前11時心臓麻痺を以て逝く、行年73、牛込浄輪寺に葬る、法名開悟院殿十畝日顕居士

本野精吾

没年月日:1944/08/13

 京都工業専門学校講師本野精吾は肝臓硬化症のため13日逝去した。享年63。東大工科出身京都高等工芸創立以来図案科科長の職にあり、昭和18年改組と共に教授を辞し講師となつていたものである。

橋田庫次

没年月日:1944/08/06

 洋画家橋田庫次は8月6日、逝去した。享年50。明治28年高知県に生れ、本郷研究所に学び故岡田三郎助に師事、大正15年第7回帝展に「後庭」を出品し入選、第10回には「秋草」第12回には「木洩日」第14回には「霜月」、文展第3回に「木かげ」により入選した。その他春台美術会にも出品していた。

楽吉左衛門

没年月日:1944/07/08

 楽焼の宗家として知られている第13代楽吉左衛門は7月8日京都上京区の自宅で逝去した。享年58。

野口謙蔵

没年月日:1944/07/05

 文展無鑑査、東光会々員野口謙蔵は7月5日滋賀県蒲原郡の自宅で病没した。享年44。野口小蘋の甥にあたり、明治34年滋賀県に生れた。大正13年美術学校卒業彼は郷里にあつて和田英作、平福百穂などに師事し、昭和4年帝展に「梅干」入選、6年、8年、9年と特選になり、昭和13年無鑑査、18年審査員におされた。もつぱら郷土風光を題材に新鮮な詩情をもり、日本風な一つのスタイルを作つた。歌人米田雄郎と親しく歌もよくした。略年譜明治34年 6月17日蒲原郡野口正寛二男として生る。母屋恵大正8年 彦根中学校卒業、東京美術学校西洋画科入学、上京後は伯母野口小蘋宅に止宿大正13年 美術学校卒業、その後はひき続き郷里にあり、和田英作に師事す、また平福百穂に日本画を学び、歌人米田雄郎と交わる昭和4年 第10回帝展「梅干」昭和5年 第11回帝展「蓮」、この年同郡岡崎喜久子と結婚昭和6年 第12回帝展「獲物」(特選)昭和7年 「放生」不出品昭和8年 第14回帝展「閑庭」(特選)昭和9年 第15回帝展「霜の朝」(特選)、東光会第2回展「蓮と少女」昭和10年 東光会第3回展「五月の風景」「初冬の一隅」昭和11年 東光会第4回展「蓮と朝顔」「夕日の家とひまはり」昭和12年 東光会第5回展「野草」「冬日」昭和13年 文展無鑑査となる、第1回文展「応召風景」、東光会第6回「ヒヨドリ」「雪後水村」「晩秋一隅」昭和14年 第2回文展「豆の花」、東光会第7回「朝かげの庭」「冬田と子供」「がくの花」昭和15年 第3回文展「太陽と村落」、奉祝展「朝」、東光会第8回「白梅」「雪後」「草千里」「朝日」昭和16年 第4回文展「畔木の秋」東光会第9回「夕月」「凍る朝」「冬田」「不動尊」昭和17年 東光会第10回「青田の朝」昭和18年 文展審査員となる、文展第6回「望」、東光会第11回「冬草原」「虹のある雪景」、文展審査より帰後身体衰弱す昭和19年 加多児性黄疸と病名決定 7月5日午後永眠す、44歳、家族喜久子のほか二男あり

木崎好尚

没年月日:1944/06/26

 木崎好尚は6月26日逝去した。享年80。本名愛吉。慶応元年大阪に生れ、明治26年大阪朝日新聞社に入社、22年間在勤し、大正3年退社後は専ら金石学研究を続け「摂河泉金石文」「大阪金石史」を著し、最後の「大日本金石史」は帝国学士院賞を送られた。晩年は頼山陽、田能村竹田の研究に没頭「頼山陽全書」外数著がある。

大給近清

没年月日:1944/05/31

 美術研究所事務嘱託大給近清は5月31日死去した。享年61。明治17年東京に生れ、学習院を経て29年東京美術学校西洋画科を卒業、久しく黒田清輝に師事し、昭和2年黒田清輝の遺産による美術奨励事業開始とともに美術研究所においてその遺作の管理に当つていた。

森田勝

没年月日:1944/05/28

 文展無鑑査、春陽会々員森田勝は5月28日信州の自宅で逝去した。享年41。明治37年東京に生れ、万鉄五郎、小林徳次郎に師事、東京美術学校を修了、昭和4年より昭和10年までフランスに留学した。昭和10年春陽会に滞欧作を出陳、春陽会賞を得、11年「アルゼリアの公園」「裸婦」を出品、この年会友となり昭和17年第20回には「柿」を出品した。

池上秀畝

没年月日:1944/05/26

 旧帝展審査員池上秀畝は狭心症の為、5月26日下谷区の自宅で死去した。本名国三郎、享年71。明治7年長野県に生れ、早く荒木寛畝の門に入り南北合派を研究し、花鳥画を能くした。明治40年正派同志会第1回展で2等賞銀牌を受け、明治43年第4回文展に「初冬」を出品3等賞、大正5年第10回文展に「夕月」を出品特選となり、大正6年第11回文展に「峻嶺雨後」を出品ふたたび特選となつた。大正7年同志と共に新結社を発表し、文展審査に対抗の気勢を示し、これが文展改革の原因となつた。帝国美術院が創設されるや、日本画部の推薦となり、大正13年には帝展委員に任命された。その後引続き帝・文展に出品、「沼の雨」「渚の月」「秋雨」「老秋」などを出した。伝神洞画塾を主催して多数の門下を育てたが、18年以降は各神宮への奉献画が多い。

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