本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





岡文涛

没年月日:1943/12/28

 京都の日本画家岡文涛は12月28日逝去した。享年68。明治9年京都に生れ、絵画専門学校を卒業、山元春挙に師事した。旧文展第5回に「杉垣」を出したほか、8回9回と出陳したが、その後は官展から退いていた。

松本亦太郎

没年月日:1943/12/24

 文学博士、帝国学士院会員松本亦太郎は病気静養中のところ12月24日長逝、享年79。慶応元年高崎に生れ、明治26年東京帝大文科大学を卒業、その後エール、ライプチヒ等の諸大学に心理学を専攻し、京都帝大教授となつた。美術史の造詣も深く、京都日本画壇興隆につくした功績は大きい。その後日本女子大、日本大学などに教鞭をとり、近来は東大航空心理部の嘱託でもあつた。著書も多いが美術方面のものとして、明治末大正初期の日本画壇の問題をあつかつた「現代の日本画」やその他「絵画鑑賞の心理」「山水人物画談」などがある。

寺松国太郎

没年月日:1943/12/05

 文展無鑑査寺松国太郎は12月5日京都の自宅で逝去した。享年68。明治9年岡山県に生れ、田中苔石、小山正太郎、浅井忠に師事、明治43年第4回文展に「かげの人」を出品し褒状を受け、同44年日英博覧会に出品、褒状大正2年仏国サロン・ド・フランセーヌに入選し大正3年第7回文展に「櫛」を出品し3等賞を受けた。以後帝展、改組文展に出品を続け文展無鑑査となつている。人物画を得意とし洋画壇の先輩として知られたが、なお坦斎と号して日本画も描いた。

国枝金三

没年月日:1943/11/20

 文展無鑑査、二科会々員国枝金三は11月20日逝去した。享年58。明治19年大阪に生れ関西美術院を卒業し、大正3年第1回二科展以来出品を続けた。大正12年には会員となり、関西洋画壇に重きをなした。主な作品を挙げれば、大正5年第3回二科展「若葉の頃」大正6年第4回「島の四月」大正10年第8回「栴壇の木の家」大正14年第12回「都会風景」昭和15年第27回「囮」昭和16年奉祝展「秋の草」等がある。作品には都会風景画数多あり、晩年の花鳥の作品には日本画風の味があつた。

新田章童

没年月日:1943/11/16

 美術雑誌「都市と芸術」を主宰した京都の新田章童は11月16日逝去した。氏は「都市と芸術」を発行する事30年に及びその間京都美術界の発展に尽した。

都鳥英喜

没年月日:1943/11/12

 文展無鑑査、太平洋画会々員都鳥英喜は11月12日京都の自宅で逝去した。享年71。雅号木鶏。明治6年千葉県佐倉市に生れ、浅井忠に師事、明治35年京都高等工芸学校創立と共に講師となり、後教授となつて同校の為に尽力した。明治35年太平洋画会創立さるるや会員となり、第1回に「秋郊」第2回「大原女」第9回「大和下淵村」第25回「伏見風景」を出品し、文展には第1回に「故郷のたより」を出品、以来引続き出品した。その他日英博、国民美術協会に風景画の出品がある。大正8年仏国に留学し同11年帰朝、晩年の作品として昭和15年文展に「霽る日」、奉祝展に「夏日」等があつた。

小林柯白

没年月日:1943/11/08

 文展無鑑査、日本美術院同人小林柯白は胃潰瘍のため11月8日京都の自宅で逝去した。享年48。本名茂雄。明治29年大阪に生れ、今村紫紅、安田靫彦に師事し、大正12年19回院展に「山」を出品、翌年第10回には「蓮」第11回には「八瀬大原」を出品し、この年同人に推挙された。院展の外帝展文展にも出品したが、晩年の作として「長尾鳥」「せゝらぎ」「磯」「竜安寺の庭」等がある。

平井武雄

没年月日:1943/10/26

 文展無鑑査、日本水彩画会々員平井武雄は10月26日逝去した。享年61。明治15年北海道に生れ、明治40年東京美術学校洋画科を卒業、同年渡米、ニューヨークで5年間洋画を修業し、また古名画を模写した。帰朝後日本水彩画会の創立に参加し、大正12年には罹災会員救済のため、故丸山晩霞と共に支那、仏印、ビルマ、印度の各地に展覧会を催し翌年帰朝した。大正14年より昭和4年至るまで女子美術専門学校講師となり、昭和3年故芦原曠、小林茂等と昭和美術会を創立した。水彩画を得意とし晩年は専ら和紙に風景画を描いた。

柚木玉邨

没年月日:1943/10/25

 南画家柚木玉邨は10月25日逝去した。享年79。名は方啓、字は子爰、梶雄と称し、玉邨と号したが、別に瓊島仙客、鋤雲館主人、双壁斎主人等の号もある。慶応元年岡山に生れ、明治23年駒場農大を卒業、後実業に従事し、岡山県農会の技師となつた。20歳頃から清人胡鉄梅について学び、その後独学して宋元の古法を研究、大正年間には中国に遊んで得る所があつた。日本美術協会、泰東書道院、平安書道会などの審査員となり、著書に「玉邨画話」「瓊島仙館画存」「西来亭墨縁」「玉邨蘭竹」等の多数がある。なお洋画家柚木久太はその子息にあたる。

中沢岩太

没年月日:1943/10/12

 京都帝大および京都高等工芸学校の名誉教授、工学博士中沢岩太は病臥中のところ10月12日京都市上京区の自宅で逝去した。享年86。幼名東重郎、安政5年福井に生れ、明治12年東京理科大学の化学科を卒業、16年独逸に留学、20年帰朝とともに、東京工科大学教授、24年工学博士となつた。この間、内国勧業博覧会の審査官、特許局審査官、御料局技師として活躍、明治30年京都理工科大学創設と同時に学長として京都へ移つた。その後京都市工業顧問、陶磁器試験所顧問として工業の指導にあたり、35年京都高等工芸学校の創立とともに初代校長として久しくその任にあつた。43年には文展委員となり、第一部と第三部の審査主任をつとめ、その他各種の展覧会、博覧会等に審査長を依嘱されている。後年は趣味の生活に入り、日本画を狩野友信、前田玉英、洋画を浅田忠に学んだがことに美術工芸会に残した指導的功績は大きい。明治年間以来遊陶園、京漆園、道楽園、時習園の四園を設立して斯界の発展につとめたことは特記されるべきで、さらに昭和2年昭和工業協会となつて活躍をつづけていた。

橋本静水

没年月日:1943/09/11

 文展無鑑査、日本美術院同人橋本静水は9月11日縦隔膜腫瘍のため本郷の自宅で逝去した。享年68。本名宗次郎、はじめ正素と号し後静水と改めた。明治9年広島県尾道市に生れ、東京美術学校に学んだが中途退学し後、橋本雅邦に師事した。明治44年文展に「一休禅師」を出品受賞、大正5年院展に「あやはとりくれはとり」を出品し同人に推挙された。その他「遊魚の図」「猿沢の池」「文覚」等の代表作がある。なお雅邦塾二葉会の幹事として最後まで後進の指導に尽力した。

小柴春泉

没年月日:1943/08/26

 旧日本画会員小柴春泉は8月26日急病のため逝去した。享年46。明治31年生、小室翠雲について学び、旧文展に1回、帝展に4回ほど入選していた。

藤原兼永

没年月日:1943/08/17

 岐阜県関町の刀匠藤原兼永は8月17日病気のため自宅で逝去した。享年57。関伝の直系二十三代藤原包永の長男に生れ、独特の耐錆鋼日本刀を創り、渡辺兼永とともに関伝の二大巨匠と謳われていた。

田口省吾

没年月日:1943/08/14

 文展無鑑査、二科会々員田口省吾は8月14日逝去した。享年47。明治30年秋田県に生れ、大正10年東京美術学校を卒業し、昭和4年より7年までフランスに留学した。主に二科会に出品し昭和7年二科会々員に推薦された。同年第19回二科展には滞欧作品の特別出陳をし、第21回「裸体」第22回「阿片吸飲図」第23回「市の日」第24回「娘と子供達」第25回「土人の家族」第27回「小梨咲く高原」第29回「黄色の日傘」等があり、作品はいずれも現実的な態度に立ち、好んで群像を描いた。

田口掬汀

没年月日:1943/08/09

 美術雑誌「中央美術」を主宰した田口掬汀は8月9日逝去した。享年6 9。本名鏡次郎。明治8年秋田県角館に生れ万朝報、大阪毎日、東京日日などの記者をつとめ、美術一般に造詣深く創作評論で知られた。中央美術を創刊し、大正5年金鈴社の結成には大いに力を尽した。同社が華々しい活躍をして当時の日本画壇に大きな影響を与えたのも、その努力の賜である。後、東京府美術館常議員となつた。田口省吾は子息にあたる。

跡見玉枝

没年月日:1943/08/07

 閏秀日本画家跡見玉枝は胃潰瘍のため5月12日逝去した。享年8 6。本名勝子。女史は桜花を得意とし、明治30年渡米、帰国後内親王殿下の御用掛を拝命、昭和8年から皇室の御用命により御苑桜の写生をし両度にわたり皇后陛下に画帖を献上した。昭和18年照宮内親王御用命の桜の大幅3帖を謹写した。なお女史は花蹊女史の従妹に当る。

円山応鶴

没年月日:1943/07/20

 円山応挙末孫七世円山応鶴は7月20日逝去した。享年61。女史は明治16年生れ、盆画と鶴の絵に秀でていた。

島田墨仙

没年月日:1943/07/09

 文展審査員島田墨仙は7月9日胃癌のため東京荏原区の自宅で逝去した。享年77。本名豊、慶応3年福井藩島田雪谷の二男として生れ、はじめ父に絵を学んだが、没後独学、明治29年上京して橋本雅邦門に入つた。30年秋の日本絵画協会第3回展に大石良雄をかいた「致城帰途」を出して認められ、36年春の第5回内国勧業博覧会には「大石主税刺鼠之図」を出して3等銅賞を得、著名となつた。文展では「俊寛」「鯨波座禅」「到聖孔子四哲図」「基督」を出し授賞はされなかつたが、第6回帝展には委員に推された。その描くところはほとんど歴史画人物画であり、好んで先哲聖賢の肖像をあつかい、精神充実した気格高い作品を出した。晩年はいよいよ画技も冴え、「塙保己一」「山鹿素行」のごとき名作を出している。後者は芸術院賞に推され、芸術院会員に擬せられたところであつた。略年譜慶応3年 10月9日福井藩島田広意号雪谷の二男として生る、幼名豊作、後豊と改む明治9年 この頃より父について絵を学ぶ明治15年 父雪谷、兄雪湖第1回全国絵画共進会に出品明治17年 1月29日父没(57才)明治18年 福井中学及び女学校に絵を教う明治19年 5月4日母照子没明治26年 兄雪湖上京明治28年 第4回内国勧業博覧会の写真を見て上京を決意明治29年 上京して橋本雅邦門に入る、日本絵画協会第1回展に「雲竜」を出す、3等褒状明治30年 絵画協会第2回展「瀑布」、同3回展「致城帰途」銅牌明治31年 福島県立第二尋常中学校に奉職明治32年 絵画協会第6回展褒状1等明治33年 同7回展褒状1等明治34年 同9回展「野人競馬図」銅牌明治35年 笹川章門の女節衣子と結婚明治36年 第5回内国勧業博覧会「大石主税刺鼠之図」3等銅牌明治37年 磐城中学教諭を辞して上京明治40年 第1回文展「俊寛」大正4年 第9回文展「鯨波座禅」国民美術協会第4回展「黄尋飛銭」二曲半双大正6年 第11回文展「至聖孔子四哲図」3幅対、国民美術協会展「林逋先生」「深雪」「のどか」大正7年 第12回文展「基督」大正8年 如水会結成参加大正9年 如水会第1回展「樹下美人」「老孔問答」双幅、「釈尊」「智恵の水」、同2回展「枯木竹石」大正10年 東京会(春)「王摩詰」(秋)「李白捉月」大正11年 日仏交換美術展「樹下美人」、東京会(秋)「親鸞稲田閑居」大正12年 東京会(春)「聴雨」大正13年 東京会(春)「大雅堂」(秋)「拈華微笑」大正14年 日本南画院第4回展「漁夫吟」、東京会(春)「夕月」(秋)「秋雨」、第6回帝展委員となる大正15年 日本南画院5回展「金粟如来」、東京会(春)「達磨」(秋)「霊椿」昭和2年 第8回帝展「逍遥」、この年「田中光顕肖像」をかく、早大より渋沢子爵に贈る釈迦、基督、孔子の「世界三聖図」をかく、東京会(春)「白居易」(秋)「梅月」昭和3年 第9回帝展審査員となる、帝展「李耳」出品、日本南画院7回展「蕉逐雄弁」、東京会(春)「翁」(秋)「瑞鳳」昭和4年 イタリヤ日本美術展「秋夕」、日本南画院第8回展「虎渓三笑」、東京会(秋)「東坡」昭和5年 ベルリン現代日本画展「老子図」、久弥宮家襖「知音」、東京会(春)「夏雲」(秋)「吹笙」昭和6年 12回帝展「廊然無聖」、明治神宮絵画館壁画「王政復古」、フランス日本美術展「五月雨」、米国トレド―展「驟雨」、東京会(春)「此君」(秋)「秋色」昭和7年 日本南画院11回展「出山釈迦」、東京会(春)「晩春」(秋)「美少年」昭和8年 14回帝展「出山釈迦」、国民美術協会20周年記念展「富岳」、東京会(春)「白衣観音」(秋)「牧童」昭和9年 日本南画院13回展「山科閑居」、15回帝展「王妃舞」、大礼記念京都綜合美術展「李白捉月図」、日満綜合美術展「大石良雄」、宮内省下令「屈原」、東京会(春)「五月雨」(秋)「猟馬帯禽」昭和10年 坪内逍遥博士及び夫人の肖像画をかく、景岳会の依嘱による「橋本左内先生の肖像」、東京会(春)「月華曲」(秋)「竹里館」昭和11年 改組文展「出師表」、東京会(春)「驟雨」「李白行吟」「山中の傑物」(秋)「寒山拾得」昭和12年 東京会(春)「いざよひ桜」「人丸」、酒井秀治郎のために「楠公父子訣別図」をかく昭和13年 第2回文展「東湖先生と橋本左内」、小西幸寛のために「吉祥天女」をかく、東京会(春)「送仲磨還日本」(秋)「山陽先生」昭和14年 高田早苗夫妻の肖像画をかく、東京会(春)「日連上人」(秋)「定信公」昭和15年 大毎東日奉祝展「菅公図」、東京会(春)「光明皇后」(秋)「舎人親王と大安万侶」昭和16年 千葉県松戸神社のため二曲屏風一双「菅公図」をかく、第4回文展「塙保己一」、東京会(春)「鎌足公」昭和17年 第5回文展「山鹿素行先生」、東京会(春)「竹田と山陽と」(秋)「蕃山先生吉野に隠る」昭和18年 4月「山鹿素行先生」に対して帝国芸術院賞をうく、7月9日逝去、77歳

中村不折

没年月日:1943/06/06

 帝国芸術院会員中村不折は、6月6日東京都下谷区の自邸に於て逝去した。享年78。 不折は慶応2年7月10日江戸京橋に生れた。本名鈼太郎、明治3年一家を挙げて郷里長野県高遠に移つた。12歳の頃杉岡環翠門の南画家真壁雲郷に就て南画を学んだが、その少年時代を逆境の裡に送つた。同19年20歳の時長野に遊び、河野某に就て洋風画の初歩を学び、同20年東京に出で、十一字会研究所に入り、小山正太郎、浅井忠の薫陶を受けた。同28年彼は日清戦役に従軍し、遼東半島、朝鮮を跋渉して帰つた。この前後彼は新聞小日本及び日本等に挿絵を描いた。明治23年以来その作品を明治美術会に発表したが、同32年の同会に「淡煙」並びに「黄葉村」を出品し、前者は宮内省御用品となり、漸くその名を知らるるに至つた。同34年仏蘭西に留学し、初めラファエル・コランに師事したが、半歳にしてアカデミイ・ジュリアンに転じ、ジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、同38年帰朝した。同年太平洋画会々員となり、同会第4回展覧会に滞欧作を特別展観して、後進を啓発し、同39年の太平洋画会展に日本神代に題を採つて「八重の潮路」「無目堅間」等を出品した。同40年東京勧業博覧会審査員に選ばれ、大作「建国剏業」を発表して注目を惹き、1等賞を授けられたが、故あつて授賞を返却した。明治40年文展の創設と共に審査委員会委員となり、大正8年帝国美術院会員、昭和12年帝国美術院会員となつた。此の間自らも多くの作品を発表したが、道釈人物、習作、風景等多方面に亘つている。又明治39年太平洋画会研究所が創立されて以来、後進の誘掖に尽力し、昭和9年組織を改めて太平洋美術学校となるに及びその校長となつた。更に書道についても造詣深く、昭和11年その蒐集をもつて財団法人書道博物館を創立してその方面の研究鑑賞に貢献した。略年譜慶応2年 7月10日京橋に生る、名は鈼太郎、父源蔵、母りゆう明治3年(5歳) 一家を挙げて郷里高遠に移る、幼より画を好み、物の形を写すことを楽みとした明治10年(12歳) 松岡環翠門下の南画家真壁雲郷に就て南画を学ぶ明治12年(14歳) 父に従い松本に行き某商店に奉公す明治13年(15歳) 父に従い上諏訪に移る、白木屋呉服店に奉公す明治15年(17歳) 病を得て高遠に帰る、菓子職人となる明治17年(19歳) 高遠小学校の授業生となる明治18年(20歳) 伊那校の助教に転ず、夏期休暇を利用して長野に遊び、河野次郎に洋画の初歩を習う明治19年(21歳)図画及び数学の教師として飯田小学校に聘せらる明治20年(22歳) 4月上京、十一字会研究所(後に不同舎となる)に入りて小山正太郎に師事す明治23年(25歳) 明治美術会第二回展覧会に水彩画3点を出品す明治24年(26歳) 油絵を習い始む、自画像の作あり明治26年(28歳) 明治美術会展覧会に「人間不知比音」「憐むべし自宅の写生」「誰家新婦黄麦巡」3点を出品す明治27年(29歳) 浅井忠の斡旋によつて「小日本」に入社挿絵を担当す、湯島2丁目に転居す明治28年(30歳) 日清戦役に従軍し、3月広島を出発、満朝諸地を巡歴して8月帰朝、明治美術会に「鳳凰城」出品明治29年(31歳) 妻いと子を娶る、日本新聞社に入社し、挿絵を執筆す明治30年(32歳) 明治美術会展に「梅花園」出品明治31年(33歳) 8月黒田候一行に随つて富士登山、中根岸に移る。明治32年(34歳) 明治美術会展に「淡煙」「黄葉村」出品、「黄葉村」は巴里万国博にも出品褒賞受く明治33年(35歳) 明治美術会展に「春の渡し」出品明治34年(36歳) 6月仏国留学はじめコランの教えを受け、半年にしてアカデミー・ジュリアンに転じローランスの指導を受く、雑誌「国華」に「鳥羽僧正論」執筆明治37年(39歳) 秋ジュリアン画塾の競技に優勝を得明治38年(40歳) 睦実と伊太利亜に同遊、萩原守衛と英国に遊び、3月帰朝、太平洋画会々員となり、其の第4会展に滞欧中の作品発表明治39年(41歳) 太平洋画会第5回展に「八重の潮路」「無目堅間」「井辺の桂樹」「神史草稿」「夏の午前」等出品、真島町に新設されし同会研究所に教鞭をとる明治40年(42歳) 春東京博覧会審査委員を命ぜらる、同会に大作「建国剏業」「泉」出品1等賞を受く、不満の為これを返却す、秋創設の文部省美術審査委員会委員を命ぜらる、「白頭翁」「彫刻家」出品、此頃より前田黙鳳と健筆会を組織し、日本美術協会に展覧会を開く明治41年(43歳) 第2回文展に「半諾迦尊者」出品、明治42年(44歳) 談書会創始明治43年(45歳) 第4回文展に「半諾迦尊者」出品明治44年(46歳) 第5回文展に「跋★羅尊者」、第9回太平洋展に「雁の声」「春」「裸婦」等出品明治45年(47歳) 第6回文展に「迦諾迦伐蹉尊者」「巨人の跡」、第10回太平洋展に「落椿」「道」等出品大正2年(48歳) 上根岸町に移る、第7回文展に「神農」「老孔二聖の会見」、第11回太平洋展に「耕作」出品大正3年(49歳) 大正博覧会に「廓然無聖」「酒」出品、第8回文展に「和璞を抱いて泣く」「処女」出品大正4年(50歳) 第9回文展に「養身」「補納」出品、3月「芸術解剖学」刊行大正5年(51歳) 第10回文展に「黎明」「たそがれ」、第10回太平洋展に「医化学」出品大正6年(52歳) 第11回文展に「巣父汚流に飲はず」「維摩居士」出品、第14回太平洋展に「漁夫」「池畔」出品大正8年(54歳) 9月8日帝国美術院会員仰付らる、第1回帝展に「天の窟戸」「孟母断機」出品、第16回太平洋展に「エチユード」「散華」「鏡」出品大正9年(55歳) 第2回帝展に「賺蘭亭図」「冬の河辺」、第17回太平洋展に「不死の薬」出品大正10年(56歳) 第3回帝展に「摩崖」「雨」、第18回太平洋展に「冬がれ」「霜の朝」「習作」出品大正12年(58歳) 第4回帝展に「仙桃」「雨ぐも」、第19回太平洋展に「新緑の渡し」「清水」「雪の庭」出品大正13年(59歳) 第5回帝展に「始制文学」、第20回太平洋展に「春寒し」「微風」「名所図絵」出品大正14年(60歳) 第6回帝展に「華清池」、第21回太平洋展に「ひるね」「初夏の清流」「写生」「夕栄」出品大正15年(61歳) 第7回帝展に「桂樹の井」(竜宮の婚約)「六月の川」、第22回太平洋展に「清閑」出品、門人等より還暦寿像(堀進二作)を贈らる、聖徳太子展に「山高月小」「壷」出品昭和2年(62歳) 第8回帝展に「子虚賦」、第23回太平洋展に「王義之」「近眼の娘」「鏡」出品 3月「禹域出土墨宝書法源流考」出版昭和3年(63歳) 第9回帝展に「★芋不答宣使」、第24回太平洋展に「凝視」「音譜」「うしろむき」出品昭和4年(64歳) 第10回帝展に「廬生の夢」、第25回太平洋展に「山村錦秋」「荒駅晩秋」出品昭和5年(65歳) 第11回帝展に「蘇武之苦節」、第26回太平洋展に「肖像」「暮雪」「習作」出品昭和6年(66歳) 第27回太平洋展に「春近し」「岩殿山」「黄葉の庭」出品昭和7年(67歳) 第13回帝展に「酔李白」、第28回太平洋展に「初冬の河畔」出品昭和8年(68歳) 第14回帝展に「小雨の渡し」、第29回太平洋展に「雪後」出品、雄山閣より「法帖書論集」13巻の刊行に着手昭和9年(69歳) 7月、太平洋画会研究所を太平洋美術学校と改組、推されて其校長となる、第15回帝展に「伯夷叙斉」出品昭和10年(70歳) 松田文相により帝国美術院改組、新帝国美術院会員となる、此秋帝展開かれず、二部会展に「芦の湖」出品、第31回太平洋展に「箱根の朝」「深秋」出品昭和11年(71歳) 財団法人書道博物館成る、平生改組後の文展に「妙義山」出品、第32回太平洋展「印旛沼」出品昭和12年(72歳) 安井改組の帝国芸術院会員となる、文展に「球盛」出品、第33回太平洋展に「古器と新人」出品昭和13年(73歳) 第2回文展に「沈黙」出品、第34回太平洋展に「錦絵の屏風」「習作」出品昭和14年(74歳) 第35回太平洋展に素描並びに油絵の回顧陳列をなす、計65点「賺蘭亭図」文部省買上げとなる、10余点を文部省に寄贈す、出品の新作「懸泉」「海岸の三人娘」等、「不折画集」刊行、第3回文展「河鹿島」昭和15年(75歳) 紀元二千六百年奉祝美術展「湖畔」昭和16年(76歳) 第4回文展「仙果」昭和17年(77歳) 第5回文展「眺望」昭和18年(78歳) 下谷区の自邸に於て逝去

奥平武彦

没年月日:1943/05/26

 京城帝大教授奥平武彦は5月26日腸チフスの為逝去した。享年44。明治33年生れ、大正13年東大法学部卒業後同学部助手、大正15年京城帝大助教授となり政治学政治史を講じた。昭和3年から5年まで英仏独米諸国に留学、昭和5年同大教授となり、14年以降は朝鮮総督府宝物古蹟名勝紀念物保存委員、朝鮮博物館委員、李王家美術館評議員となり朝鮮美術のために貢献する所が少くなかつた。著書に「李朝」「朝鮮の宋元明板覆刻本」「李朝の壷」「朝鮮古陶」等がある。

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