本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





船越春珉

没年月日:1940/12/26

 鋳金家船越春珉は肺炎の為め下谷病院に入院中12月26日逝去した。享年73歳。日本美術協会顧問、日本彫金会々員であり、工芸界の長老であつた。

岩井尊人

没年月日:1940/12/18

 岩井尊人は12月18日逝去した。享年49歳。奈良県の出身で、渡欧、ジヨージ・クラウゼン、スタンレー・アンダーソン、ピブワス等に絵画彫刻を学び、英国RBAの会員であつた、法学士で広田内閣の際には文相秘書官となつた。

小村雪岱

没年月日:1940/10/17

 日本画家小村雪岱は10月17日脳溢血の為急逝した。享年54歳。明治20年埼玉県川越町小村繁門の長男として生れ、後書家安並賢輔の養嗣子となつて本名安並泰輔と称した。明治40年東京美術学校日本画科卒業、在学中は下村観山教室に学んだ。卒業後松岡映丘の門に入り画道精進の傍ら国華社に入り、古名画の模写に従事し、又「北野天神縁起」「平家納経」の一部の模写を東京美術学校の依囑により完成した。その間風俗考証によく通暁するところとなり、その独自の画風は国画院同人として認められるところがあつた。特にその舞台装置には異才を発揮し、その作品は大正13年以来300余の多きに達したが、就中「安土の春」「桐一葉」「藤娘」等はその最も代表的なものと称されて居る。尚一方挿画家としても令名があり、その繊細な風趣ある人物図は世に愛好せられ、泉鏡花作の「日本橋」に染筆したのをはじめとして多くの作品が遺されて居る。次にその遺作に就いて主要なものを列記する。舞台装置(脚本名) (作者名) (上演年月及劇場名)忠直卿行状記 菊池寛原作 林和脚色 大正13年8月 公園劇場安土の春 正宗白鳥 大正15年3月 新橋演舞場淀君小田原陣 松居松翁 大正15年4月 歌舞伎座黄門記 岡本綺堂 昭和2年1月 歌舞伎座桐一葉 坪内逍遥 昭和2年10月 歌舞伎座春日局 福地桜痴 昭和4年1月 歌舞伎座大菩薩峠 中里介山 昭和5年9月 歌舞伎座治承の秋 高山樗牛原作 姉崎正治脚色 昭和6年6月 歌舞伎座一本刀土俵入 長谷川伸 昭和6年7月 東京劇場岩倉具視 松居松翁 昭和8年4月 歌舞伎座藤娘 岡鬼太郎補 昭和12年3月 歌舞伎座秀頼の最後 真山青果 昭和12年4月 東京劇場挿絵(作品名)(作者名)(掲載年月及新聞名)多情仏心 里見弴 大正11年12月 時事新報闇に開く窓 里見弴 昭和4年9月 朝日新聞おせん 邦枝完二 昭和8年9月 朝日新聞突かけ侍 子母沢寛 昭和9年3月 都新聞お伝地獄 邦枝完二 昭和9年9月 読売新聞忠臣蔵 矢田挿雲 昭和10年10月 報知新聞浪人倶楽部 村松梢風 昭和10年12月 読売新聞旗本伝法 土師清二 昭和12年1月 東京日々新聞喧嘩鳶 邦枝完二 昭和13年8月 東京日々新聞両国梶之助 鈴木彦次郎 昭和13年9月 都新聞

長谷川利行

没年月日:1940/10/12

 二科出品の洋画家長谷川利行は10月12日東京市養育院に於て逝去した。享年49歳。京都の生れで、大正14年以降二科に出品、昭和2年に樗牛賞を受けた。又屡々新宿天城画廊に個展を開催、奇矯な人柄と作風を知られてゐた。

金復鎮

没年月日:1940/08/18

 彫刻家金復鎮は8月18日京城の自宅で逝去した。享年40歳。朝鮮忠清北道清州郡に生る。大正14年東京美術学校卒業後、左翼運動のため昭和3年より6年間囹圄の身となり、同10年より暫く京城中央日報学芸部長を勤務、又朝鮮美術院を創立して後輩の指導に当つた。帝展、文展に入選3回、鮮選では6回特選となり推薦であつた。大作に全北金堤郡金山寺の丈60尺の弥勒仏があり、又忠北報恩僧離山法住寺の丈80尺の弥勒仏を未完成のままで逝去した。

川北霞峰

没年月日:1940/08/14

 京都の日本画家川北霞峰は8月14日逝去した。享年66。本名源之助、明治8年9月京都に生れ、幸野楳嶺、菊池芳文に師事した。文展初期より帝展に亘つて出品し、第6回帝展には審査委員となつた。その主なる作品に「晩秋」(第1回文展、3等)、「竹径春浅」(第2回文展、3等)、「浦の夕」(第3回文展、3等)、「渓間の秋」(第8回文展、3等)、「立川」(第9回文展、3等)、「海辺八題」(第10回文展、特選)、「吉野の奥」(第11回文展、特選)、「暮色」(第1回帝展)、「山寺の月」(第6回帝展)、「琵琶の音」(第13回帝展)等がある。又京都市立美術工芸学校に於て後進を指導した。

坂井犀水

没年月日:1940/07/31

 美術記者坂井犀水は7月31日逝去した。享年70歳。本名義三郎、明治4年3月石川県に生れた。明治24年帝国博物館技手兼臨時全国宝物取調局技手に任ぜられしも、後辞し、関西学院等にて宗教を研究す。34年「東京評論」を発行、傍ら「美術画報」を編輯す。38年雑誌「月刊スケツチ」を発行、又白馬会機関誌「光風」の編輯に当る。42年「美術新報」主幹、後「美術」及び「美術週報」主筆となる。43年白馬会会員となる。大正2年国民美術協会創立に参与し、同会理事兼主事となつた。その著書に「画聖ラフアエル」(明治35年)、「日本木彫史」(昭和4年)及び「黒田清輝」(昭和12年)がある。

岡不崩

没年月日:1940/07/29

 日本画家岡不崩は7月29日逝去した。行年72。本姓名和氏、名吉寿、初め蒼石と号す。明治2年7月福井県に生る。弱冠東京に出で、狩野友信及び狩野芳崖に師事し、明治22年東京美術学校に入学した。翌23年9月東京高等師範学校講師となり、毛筆画の教育に尽瘁す。28年辞し、一時九州に赴いたが、33年東京に帰り、府立第二高等女学校教諭兼女子師範学校教諭に任ぜられた。35年同志と謀り、真美会を創立し、自ら理事となり活躍す。晩年画界を退き、専ら意を古事、古典の研究に注ぎ、就中万葉集に関する貴重なる研究を遂げた。即ち刊行されたるものに「万葉集草木考」「古典草木雑考」があり、外に未定稿本多し。

乾南陽

没年月日:1940/06/29

 日本画家乾南陽は6月29日瀧野川の自宅で逝去した。本名長光、明治3年高知に生る。同30年東京美術学校を卒業、橋本雅邦、山名貫義、下村観山に師事、一時教職にあつた。旧文、帝展に数回出品せるほか、聖徳記念絵画館の「五箇条御誓文之図」及び東京府養正館の壁画等を執筆し、最近は東台邦画会、日本画会の会員であつた。

呉建

没年月日:1940/06/27

 東京帝国大学教授、呉内科の呉建博士は6月27日心臓病のため逝去した。享年58歳。博士は予て油絵を余技とし、忙中数多くの大作を執筆、帝展文展には入選6回に及んでゐた。

喜多川玲明

没年月日:1940/06/19

 日本画家喜多川玲明は6月19日痼疾の喘息の為逝去した。享年41歳。明治33年京都に生れ、京都美工校、同絵画専門学校を卒業、菊地契月に師事し、同塾の中堅作家であり、旧帝展、文展に出品してゐた。

牧俊高

没年月日:1940/06/14

 牧俊高は脳溢血のため滝野川区の自宅で逝去した。享年62歳。本名寛五郎、東京の出身で、能姿の木彫を得意とし、帝展に連年出品、文展の無鑑査に推され、又東邦彫塑院の会員であつた。本年8月三越に遺作展が開かれた。

瀬野覚蔵

没年月日:1940/05/04

 洋画家瀬野覚蔵は5月4日逝去した。明治21年京都に生る。初め松原三五郎の門に入り、後白馬会洋画研究所に於て黒田清輝、岡田三郎助に師事した。大正3年より屡々渡支、「覚蔵滞支記念画集」がある。爾来、帝展文展に出品、今次支那事変の勃発するや昭和13年中支各地に従軍、本年2月には陸軍省囑託として南寧、海南島の各戦線を歴訪した。近年執筆の国防館壁画「突撃」、近衛師団所蔵の静岡県下特別大演習図等はその代表作である。

宮川香山

没年月日:1940/04/20

 陶工二世宮川香山は4月20日老衰の為横浜中区の自邸に於て逝去した。享年82歳。本名半之助、安政6年初代香山の長子として京都に生れ、明治6年父と共に横浜に移り、長年の間陶磁器製作に専心し、真葛焼を完成した。帝国美術院展覧会に第四部が置かるるやその審査員に推され、又日本美術協会委員として斯界に重きをなした。

明珍恒男

没年月日:1940/03/18

 奈良県美術院主事明珍恒男は3月18日急性肺炎のため奈良市の自宅に於て逝去した。享年59歳。明治15年8月19日長野県に生れ、年少にして高村光雲に師事した。17歳にて東京美術学校木彫科に入学、同36年卒業するや直ちに日本美術院二部(後の奈良美術院)に入所し、逝去に至る迄の38年間国宝仏像の修理に従ひ、修理技術者として多大の業績を貽した。昭和10年、新納忠之介の跡を継いで奈良美術院主事に就任した。自身の創作では主なるものとして京都の東寺食堂の十一面観音、大阪四天王寺復興五重塔の扉彫刻8面が挙げられる。保存行政上の方面に於ても予て文部省宗教局囑託、三重県社寺宝物調査囑託、滋賀県社寺宝物修理囑託、奈良県史蹟名勝天然記念物調査委員等の任にあり、尚「仏像彫刻」(スゞカケ出版社刊行)をはじめ古美術に関する研究論文30余稿を残した。

今井貫一

没年月日:1940/03/18

 大阪市立美術館前館長今井貫一は3月18日逝去した。明治3年徳島県に生れ、東大史学科を卒業後、教職、大阪市立図書館々長を経て、昭和10年予て創設に当りし市立美術館の館長に就任、同14年病の故退き、爾後同館の顧問であつた。

江馬長閑

没年月日:1940/03/12

 京都の漆芸家江馬長閑は3月12日逝去した。享年60歳。小西春斎、山本利兵衛に師事し、旧帝展に出品、京都工芸美術協会評議員、京都工芸院の同人であつた。

田村豪湖

没年月日:1940/03/09

 日本画家田村豪湖は3月9日逝去した。享年68歳。本名代吉、明治6年2月新潟県に生る。橋本独山、佐竹永湖等に師事し、嘗て日本画会々員、美術研精会々員であつた。日本美術協会或は初期文展に出品した。

正木直彦

没年月日:1940/03/02

 東京美術学校名誉教授正木直彦は3月2日逝去した。同5日小石川区音羽町護国寺に於て東京美術学校葬を以て葬儀を執行した。文久2年10月26日大阪府に生れ、25年東京帝国大学法律科を卒業した。翌26年奈良県尋常中学校長に任ぜられ、又帝国奈良博物館学芸委員となつて古美術の調査に従ふ。30年文部大臣秘書官となり、次いで視学官、大臣官房秘書課長、文書課長兼美術課長を歴任し、34年8月東京美術学校長に任ぜられた。爾来昭和7年退官に至る迄30有余年の間美術教育に従事した。同年同校名誉教授の名称を授けられた。明治40年文部省美術審査委員会の創設に参画し、永年同委員会主事として文展に寄与し、大正8年帝国美術院の創設と共に同院幹事を仰付けられ、昭和6年同院々長となり、同10年に及んだ。辞職後は同院顧問となり、又同院廃止後は文部省の美術行政顧問となつた。又此の間同院附属美術研究所主事に在職した。以上のほか夙くより内外博覧会審査長或は鑑査官となり、又帝室技芸員詮衡委員、工芸審査員会委員をはじめ、諸種の委員会委員或は会長、理事、顧問として美術の事に関与するところ極めて広汎に亘つた。客臘より寒冒に臥し、肺炎を併発し遂に再び立たなかつたものである。享年79。略年譜文久2年 10月26日和泉国堺ニ於テ生ル明治25年 帝国大学法律科卒業明治26年 任奈良県尋常中学校長明治27年 奈良公園内社寺宝物名所旧蹟取調事務長ヲ囑託ス明治28年 帝国奈良博物館学芸委員被仰付明治30年 任文部大臣秘書官、叙高等官6等、帝国奈良博物館学芸委員被免、任文部省視学官明治31年 兼任文部大臣秘書官、叙高等官6等、大臣官房秘書課長ヲ命ス、大臣官房秘書課長ヲ免シ更ニ文書課長兼美術課長ヲ命ス、仏蘭西万国博覧会出品調査委員ヲ命ス明治32年 御用有之欧米各国ヘ被差遣、大臣官房文書課長ヲ免ス、大臣官房美術課長ヲ免ス、11月欧洲ヘ向ケ出発明治34年 3月帰朝、任東京美術学校長、叙高等官4等、第5回内国勧業博覧会評議員被仰付明治35年 普通教育ニ於ケル図画取調委員長ヲ命ス明治36年 第5回内国勧業博覧会審査官被仰付、図画教科書編纂委員長ヲ囑託ス、臨時博覧会評議員被仰付、臨時博覧会鑑査官被仰付、陞叙高等官3等明治37年 叙従5位、御用有之米国ヘ被差遣、8月米国ヘ向ケ出発、11月帰朝明治40年 東京勧業博覧会審査部長ヲ囑託ス、陞叙高等官2等、文部省美術審査委員会主事ヲ命ス、叙正5位明治41年 叙勲4等授瑞宝章明治42年 東京美術工芸展覧会幹事長ヲ囑託ス、日英博覧会評議員被仰付、御用有之英国ヘ被差遣、日英博覧会鑑査官被仰付明治43年 2月英国ヘ向ケ出発、日英博覧会出品物審査ニ関スル事務ヲ囑託ス、同会美術部審査主任ヲ命ス、11月帰朝明治44年 東京勧業博覧会審査長ヲ囑託ス、授旭日小綬章、美術審査委員被仰付大正元年 叙従4位大正2年 叙勲3等授瑞宝章、第1回図案及応用作品展覧会審査委員ヲ囑託ス(昭和6年ニ至ル)大正3年 東京大正博覧会審査官ヲ囑託ス、臨時博覧会評議員被仰付、臨時博覧会鑑査官被仰付大正7年 臨時議院建築局顧問被仰付、第6回工芸展覧会審査委員ヲ囑託ス大正8年 帝国美術院幹事被仰付大正9年 陞叙高等官1等、叙勲2等授瑞宝章大正11年 平和記念東京博覧会審査官ヲ囑託ス大正12年 叙従3位、仏国美術展覧会準備委員ヲ囑託ス大正13年 万国装飾美術工芸博覧会出品鑑査員ヲ囑託ス昭和2年 明治神宮外苑管理評議委員ヲ囑託ス昭和3年 対支文化事業調査委員被仰付昭和5年 補帝国美術院附属美術研究所主事、国際観光委員会委員被仰付、叙勲1等授瑞宝章昭和6年 中華民国ヘ出張ヲ命ゼラル、国立公園委員会委員被仰付、金杯1箇ヲ賜フ帝国美術院長被仰付昭和7年 叙正3位、依願免本官、東京美術学校名誉教授ノ名称ヲ授ク、明治大正美術史編纂委員会委員長ヲ囑託ス、対支文化事業調査会委員被仰付昭和13年 中華民国ヘ出張ヲ命ス昭和15年 3月2日薨去

田中頼璋

没年月日:1940/02/16

 日本画家田中頼璋は腎臓炎のため2月16日広島市の自宅に於て逝去した。享年73歳。本名大治郎、明治元年島根県浜田に生る。16歳の時長州の萩に赴き、森寛斎に師事した。暫く豊文と号したが明治35年上京、川端玉章の門に入る。当時日本美術協会に出品の「楼閣山水」が銅牌を、同37年の「山居水住」が銀牌を授与せられ、出世作となつた。其後、文展第2回に出品の「鳴瀧」が3等賞に入り、爾後文展、帝展に連年入賞し、帝展第5回に於て審査員に就任し、現在に及んでゐたもので、尚屡々御前揮毫の栄に浴した。

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