糸園和三郎

没年月日:2001/06/15
分野:, (洋)

 洋画家糸園和三郎は、6月15日午後6時5分、肺炎のため東京都杉並区の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年8月4日大分県中津町(現・中津市)の呉服商の家に生まれる。中津南部尋常小学校5年生の時に骨髄炎にかかり手術を受ける。一年遅れて小学校を卒業した後は、病気のために進学を断念。1927(昭和2)年上京し次兄と共に大井町に住む。この年、父に絵を描くことを勧められ、川端画学校に通い始めた。1930年協会展に出品されていた前田寛治の作品に感動し、29年には前田の主宰した写実研究所に学ぶ。同年第4回1930年協会展に「人物」が、続いて30年には第8回春陽会展に「赤い百合」「上井草」が初入選する。31年第1回独立美術協会展に初入選。独立美術研究所にも通い、同年には研究所の塚原清一、高松甚二郎、山本正と四軌会を結成、展覧会を開く。32年ころ下落合に移り、伊藤久三郎と同じアパートに住む。34年四軌会に斎藤長三が加わり、飾畫と改称。飾畫展には飯田操朗、米倉寿仁土屋幸夫、阿部芳文(展也)らが参加した。このころからシュルレアリスムの傾向を示す作品を描き始める。38年、飾畫展は創紀美術協会に合流するため発展的に解散、続いて39年福沢一郎を中心に美術文化協会が結成されると、創紀美術協会もこれに参加した。41年、第2回展を前にした福沢及び瀧口修造の検挙は同会への威嚇となったが、糸園は2回、4回、5回の美術文化協会展に出品した。43年、井上長三郎靉光鶴岡政男寺田政明大野五郎松本竣介麻生三郎と8人で新人画会を結成。これは戦時下であっても自主的な表現活動をするための場であった。45年、笹塚の家が東京大空襲にあい、郷里にあった数点をのぞいて作品を焼失する。46年日本美術会創立に参加、47年美術文化協会を退会して新人画会のメンバーと自由美術家協会に参加した。一方で、46年頃から郷里中津で絵画塾を開いた。53年第2回日本国際美術展に「叫ぶ子」を、同年第17回自由美術家協会展に「鳥をとらえる女」、57年第4回日本国際美術展に「鳥の壁」(佳作賞受賞)を出品、生きるものの姿を緊密な構図で描出した。57年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。64年自由美術家協会を退会、以後無所属となる。68年第8回現代日本美術展に、人間と、アメリカ国旗やベトナムの地図を配した「黒い水」「黄いろい水」を出品、「黄いろい水」でK氏賞を受賞。70年前田寛治門下による「濤の会」、自由美術家協会の友人との「樹」を持ち、展覧会を開いた。77年、飾画を復活させている。56年から単身上京、三鷹に住む。57年から81年まで日本大学芸術学部で後進を指導した。76年、糸園に師事した卒業生たちが「土日会」を結成、以後糸園は同展に賛助出品をする。 この間、59年脳動脈瘤が見つかるが、手術によって制作ができなくなる危険性から手術は受けず、中津で一年半の療養生活を送ったほか、85年には右目を患っている。心に浮かんだ映像を長い時間をかけて醸成させ、キャンバスの上に写し換えるという糸園の作品は、画面から余計な対象物が排除されて静謐でありながら、詩情と人間のぬくもりを感じさせるものである。油彩画のほか、ガラス絵の制作もした。76年と83年に『糸園和三郎画集』が求龍堂から刊行。70年代以降は、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌展」(東京国立近代美術館 1972年)をはじめ、「日本のシュールレアリスム1925―1945展」(名古屋市美術館 1990年)、「昭和の絵画第3部 戦後美術―その再生と展開展」(宮城県美術館 1991年)など、洋画の変遷を展望しようとする企画展に作品が出品された。78年北九州市立美術館と大分県立芸術会館で糸園和三郎展が、1995(平成7)年、大分県立芸術会館で「糸園和三郎とその時代展」が開催された。2003年には画家や美術評論家をはじめ、友人、教え子、親族らによって『糸園和三郎追悼文集』が刊行されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(240-241頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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