麻生三郎

没年月日:2000/04/05
分野:, (洋)

 洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の麻生三郎は、4月5日午後10時急性肺炎のため、神奈川県川崎市多摩区生田の自宅で死去した。享年87。1913(大正2)年3月23日、東京府京橋区本湊町に生まれる。1930(昭和5)年、明治学院中学部を卒業、太平洋美術学校選科に入学。同学校で、佐藤俊介(後の松本竣介)を知る。36年にエコール・ド・東京の結成に、寺田政明吉井忠、柿手春三とともに参加。38年2月から9月まで、ヨーロッパ各地を旅行。西洋古典絵画の深さにふれたというヨーロッパ体験は、その後の表現に影響を与えた。39年、第9回独立美術協会展に出品後、美術文化協会の結成に参加。翌年の同協会第1回展に滞欧作品を出品。43年に、イタリアでの見聞をまとめた『イタリア紀行』(越後屋書房)が刊行された。同年、井上長三郎靉光鶴岡政男糸園和三郎寺田政明大野五郎松本竣介といった同世代の画家たち8人があつまり、麻生の言葉によれば、「自分たちの生存と意志表示の集まりとして」(「松本竣介回想」より)新人画会を結成した。44年まで、わずか3回の展覧会を開催しただけであったが、戦時下の困難な状況、つまり「あたりまえのことができない時代」(同前)のなかでの画家たちの自主的な活動として、その意義は大きいといえる。45年4月、長崎町のアトリエを空襲によって、作品とともに焼失する。47年、新人画会の他の同人たちとともに自由美術家協会に入会する。戦中から、戦後にかけては、ひたむきに子ども、妻をモデルに、身近の人間に目をむけ、また、そうした人間のいる風景にも、実在する重さを見出して、描きつづけた。それは、麻生のつぎのような言葉からも、充分につたわってくる。「人と家、土、空、川と、つまりはどこにもある人の住んでくらしている街、ちいさい路地の一角、石のすきまから出ている雑草のかたまりでもいいのだ。そのままある自然のかたちで満足して仕事をつづけた。べつにかわった風景をさがしあるいたことはないし、そのような必要もない。」(「川のある家〈たった一人の風景〉」、79年)そうした中から、「赤い空」などのシリーズが生まれた。50年、文芸評論家佐々木基一(1914〜93)を知り、これを契機に荒正人、埴谷雄高とも交友するようになる。52年、武蔵野美術学校(現 武蔵野美術大学)で後進の指導にあたるようになる。また同年、野間宏の小説「真空地帯」の装丁を手がけた。62年、「森芳雄麻生三郎展」を神奈川県立近代美術館で開催。63年には、第13回芸術選奨文部大臣賞を受賞。64年、自由美術家協会を退会、以後無所属として活動をつづける。79年には「麻生三郎展 1934-1979」を東京都美術館で開催。81年に武蔵野美術大学を退職。83年、『麻生三郎作品集 ASO 1983』(南天子画廊)を刊行。86年、著述集『絵そして人、時』(中央公論美術出版)を刊行。1994(平成6)年10月から翌年3月まで、初期から近作にいたる約130点によって構成された回顧展「麻生三郎展」が、神奈川県立近代美術館、茨城県近代美術館、三重県立美術館を巡回した。  麻生自身のことばによれば、「凝視と解体の力が同じくらい迫ってくるというそのことがレアリズムだとわたしは考える。」(「靉光と昭和十年代の画家たち」、67年)というように、晩年にいたるまでの作品は、黒、灰色におおわれた画面に、震えるような、神経質な線描によって描かれた人間がわずかに判別できるという独特の表現であった。これは、見つめることで思索を深め、見つめつづけた時間の集積が、画面に表れていたといえる。人間と人間のいる風景を凝視し、ヒューマニスムの精神にうらづけられたレアリストとしての姿勢を、その初期から晩年までつらぬきとおした画家であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成13年版(232-233頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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