本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1918(大正7) 年12月29日

 十二月二十九日 日 晴 午前十時半白瀧幾之助歳暮ノ祝儀トシテ来リ光風会ノ将来ナドニ付語ル 同氏ヨリ借用セル陶宮ノ書籍ヲ返附シタリ 午後池之坊ノ村上刀自吉例ニ依リ松竹梅ヲ生ク 森岡柳昨日帰京セル由ニテ来訪 共ニ晩餐ヲ取ル 後チ荻原氏来リ森岡去リ夜半迄荻原氏ト語レリ

1918(大正7) 年12月28日

 十二月二十八日 土 曇 曇天ニテ残雪ト寒林トノ色合甚ダ面白シ 夜岡常次研究所会計報告ノ為ニ来ル 又同人ノ為ニ金策ヲ講ズ 苦境気ノ毒ナリ 而シテ研究所ノ一ケ年ノ不足金ハ二百円未満也

1918(大正7) 年12月25日

 十二月二十五日 水 曇 三越ノ武田氏 伊勢辰ノ主人ヲ同道シ申ニ因メル玩具ノ画帳ニ付話アリ 清水良雄モ銅版画ヲ持参シ同席ス 午後二時青山斎場ニ於テ千田操殿葬儀執行セラル 夜栗山清太郎五年越描溜メタル作品ニ付批評ヲ請ヘリ 又鹿児島彦次郎画会ノ計画アリテ来談 二名共十二時過マデ語レリ

1918(大正7) 年12月23日

 十二月二十三日 月 雪 木村英俊君午後来訪 薩摩旅行ノ感想及銅像ノ説等ヲ聴ク 黒田鵬心君モ来リ同席セリ 木村氏ヘハ予テ話シ置タル歙州星月硯一面ヲ贈ル 鹿児島彦次郎玄関マデ来レリ

1918(大正7) 年12月22日

 十二月二十二日 日 午前曇 午後雨 高村光雲翁ト共ニ帝室技芸員ヲ代表シテ寺崎君ノ病気見舞ヲナス 同君ニハ本田医師ノ許ヘ赴カレタリトノ事ニテ子息ラシキ人玄関ニ出テ応対セリ 稍々小康ヲ得タリト云フ容態ト見ユ 此見舞ノ事ハ一昨夜燕楽軒ニテ光雲翁ト打合セ置キ今午前十一時ヲ期シ自動車ヲ雇ヒ翁ヲ千駄木ニ迎ヘ又送リテ零時半頃帰宅セリ

1918(大正7) 年12月21日

 十二月二十一日 土 訪客 岡村三郎 坂井 杉浦 中澤 岡野 山本 中井 岡 電話 鈴木貫一郎 小川 児島 高村光雲 (欄外 参謀本部)

1918(大正7) 年12月19日

 十二月十九日 木 雨 午前児島虎次郎来訪 個人展覧会ノ事ヲ語ル 柴田三郎モ来レリ 午後一時小川君ト相約シテ九鬼男ヲ訪問シ先ヅ美術館問題ヲ説明シ次ニ少シク帝室技芸員ニ関シ述ブル所アリ 猶ホ後日ヲ期シテ二時半頃辞去ス 四時頃読売ノ記者清水彌太郎氏来リ美術館建設ニ付テノ談話ヲ筆記セリ 後チ夕刻柴田氏 川瀬スミト云ヘル一少女ヲ同伴シ同女ノ作品ニ対スル批評ヲ請ヘリ (欄外 雨潤会)

1918(大正7) 年12月18日

 十二月十八日 水 晴 午前九時半頃御写真部ニ出頭シ御写真見本四枚ニ修正ヲ加ヘシメテ提出シ伊東事務官直ニ之ヲ持参ス 後チ殿下ヨリ御下賜金(十五円)アリ 十一時四十分頃退出ス 夜八時野村氏来ル 後援会ノ報告ニ付説明ヲ聴キ又先般来天地会ノ名義ヲ以テ国民美術ノ為ニ徴集セル会費全部ヲ渡ス 岡田君ト兼清モ入来

1918(大正7) 年12月17日

 十二月十七日 火 雪空 午前中電話ニテ調度ト明日ノ都合ニ付打合セ置ク 小川君ト九鬼男訪問ノ事ヲ談合ス 午後二時登校 学期末ノ競技成績ノ調査ヲナス 教室制設定以来最初ノ競技ナレバ便宜上三四年級ノ成績ヲ三四室共合併シテ席次ヲ定ムルコトヽセリ 寺崎君ヘノ寄送品ノ回文ヲ覧タリ 六時頃帰宅ス

1918(大正7) 年12月16日

 十二月十六日 月 晴 午後渡邊氏 午後近清君入来 四時ヨリ上野精養軒ヘ赴ク 漆工科辻村 堀井ノ二氏ト会合シテ内情ヲ十分聴取シ同科ノ改善ニ就キ盡力センコトヲ告グ 七時ヨリ本郷燕楽軒ニ催サル天地会ト彫塑部トノ合併忘年会ニ出席ス 波蘭人Z氏ヲ招シタリ 又此画家ノ個人展覧会ノ為メニ後援ス可ク而シテ石井氏ヲ代表者ニ選ミ万端相談セシムルニ決シ十一時過散会 十二時帰宅ス

1918(大正7) 年12月14日

 十二月十四日 土 日仏協会主催丸之内中央亭ニ於ケル曾我君送別ノ午餐会ニ出席シ二時過散会後隣街ナル田中君ノコンプレツソル会社ニ寄リ此処ニテ半時間許語リ夫レヨリ帰途内務大臣ヲ霞ケ関ノ新官舎ニ訪ヌ 不在ナリシ 帰宅後間モ無ク小川君入来 昨日電話ニテ語リタル帝室技芸員ノ向上ニ資スル新海案ニ就キ協議ヲ遂ゲタリ

1918(大正7) 年12月13日

 十二月十三日 金 晴 電話ニテ用ヲ弁ズ 小川君ヘ神谷氏ヨリ知ラセノ事ト新海君ノ意見トヲ語ル 漆工科ノ堀井氏ニ来週ノ月曜頃ニ何トカ処置センコトヲ予告ス (欄外「蜻蛉」曾我君送別会)

1918(大正7) 年12月12日

 十二月十二日 木 晴 約束ニ因リ新海君来訪 帝室技芸員ニ関スル用向三件ノ相談ヲ受ク 又予而聞及居タル上海ノ呉昌碩ノ画ト之レニ要スル陶製ノ軸トヲ贈ラル 午後直ニ知足ヲ以テ新海君紹介ノ経師屋ニ送リテ表装ヲ命ズ(下二番町榎本) 小林萬吾君教授ノ辞令ヲ受ケタル礼トシテ来ル 石橋和訓君ト六時半頃ヨリ二時間許語ル 照子名代トシテ先ヅ中村君ヲ訪問シ夫レヨリ谷中ト浅草方面ノ墓参ヲナス(谷中ニ安藤ト長田ノ墓 浅草ニ宗円寺ト寿松院)

1918(大正7) 年12月11日

 十二月十一日 水 初雪 午前十時ヨリ十二時半ノ間ニ於テ調度ト御写真部トノ間ヲ往復シ額縁ニ関スル問題ヲ解決セリ 今朝入手セル八卷氏ノ履歴書ヲ提出シ午後調度ヨリノ電話ニ因リ八卷氏ヘノ通告ヲ学校ノ庶務掛迄取次グ 博物館主事神谷氏ヨリ電話アリ建議書ニ付テノ総長ノ伝言ヲ聞ク

1918(大正7) 年12月10日

 十二月十日 火 午前十一時過登校 校長ト理事会ノ件ニ付熟談ヲ遂ゲ後チ大村氏ヨリ調度職ノ新候補者八巻於兎三ヲ紹介ス Zieleniewski氏ヲ桜木町ニ訪ネ多数ノ作品ヲ観一時間許語レリ 午後二時精養軒ニ到リ校長ニ遇ヒ同卓ニテ午食ヲ取ル 了リテ期成ニ出席ス 会スル者二百名余 数番ノ演説アリ 満場異議ナク期成会成立シ一同食卓ニ就ク 又二三ノ卓上演説アリ七時過散会セリ 荻原君寄送ノ独山ノ掛物成ル

1918(大正7) 年12月9日

 十二月九日 月 電話ハ曾我君ヨリ(十六日出発ニ決定ノ由)正木校長ヘ(昨日ノ話ニ付追加ス) 訪客ハ午後二人仲省吾君(青木氏ト打合セタル顛末)高山六郎君(福岡ヨリ四五年振ニ上京)

1918(大正7) 年12月8日

 十二月八日 日 曇 松方正作君午前十一時半頃来訪 一時間ノ余種々画談アリ 小林萬吾君四時頃入来 理事会ニテ試験問題ヲ議決セシ由ヲ聞キ少シク考フル所アリ直チニ正木校長ニ電話ヲ懸ケテ所見ヲ述ブ 竹澤君明後十日渡米ニ付四谷三河屋ニ於テ送別会ヲ開ク 来会者久米 合田 小代 菊地 吉岡 佐野

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