本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





進藤蕃

没年月日:1998/04/17

読み:しんどうばん  洋画家の進藤蕃(本名、しげる)は、頸部腫瘍のため東京都港区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年、東京都に生まれ、同27年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、在学中は小磯良平の指導をうけ、同31年に首席で卒業、大橋賞をうけた。同35年、フランス政府給費留学生として渡仏、パリのエコール・ド・ボーザールにて、モーリス・ブリアンションに師事した。帰国後、安井賞展に5回出品するほか、女子美術大学、東京芸術大学、愛知県立芸術大学などで、非常勤講師をつとめた。同42年には、中根寛、小松崎邦雄とともに濤々会を結成、また同49年には井上悟、橋本博英、大沼映夫、山川輝夫などと黎の会を結成、東京セントラル美術館で展覧会を開催した。国内外を取材のため精力的に歩くが、なかでも中国の風景をテーマに、同58年にパリのグランパレ美術館にて、第10回FIAC展(国際現代美術展)において個展を開催した。平成6年には、「両洋の眼」展に出品、また笠井誠一、福本章とともに三申会展を開催した。南ヨーロッパをおもわせる明るい陽光のもとでの風景画、あるいは室内の静物画を得意としたが、ことに中国の桂林などでの取材旅行からうまれた80年代の一連の風景画は、明快な色彩構成のうちに深い情感をたたえるもので、コロリストとしての画家の資質がもっとも発揮され、質の高い具象表現となっていた。

佐竹徳

没年月日:1998/02/03

読み:さたけとく  日本芸術院会員の洋画家佐竹徳は2月3日午前9時3分、肺炎のため、岡山市の岡村一心堂病院で死去した。享年100。明治30(1897)年11月11日、大阪に生まれる。本名徳次郎。関西美術院で鹿子木孟郎に学び、後に上京して川端画学校で藤島武二に学ぶ。安井曽太郎にも師事した。大正6(1917)年、第11回文展に「清き朝」で初入選。同9年第2回帝展に「並樹」「静物」の2点が入選。同10年第3回帝展に「静物」を出品して特選受賞。この年、坂田一男からセザンヌ画集を見せられ感動する。同12年関東大震災の救済のために神戸から上京したキリスト教社会運動家賀川豊彦の講演を聞いて共感し、クリスチャンとなり、自然を神の造化として謙虚に見る姿勢を確立する。昭和4(1929)年第10回目帝展に「ダリア」を出品して再度特選となった。同5年帝展無鑑査となり、また、同年第11回帝展出品作「巌」で3回目の特選を受賞した。戦後も同21年第1回日展に「竹園」を出品して特選となり、その後も日展に出品を続けた。同24年頃から十和田奥入瀬の風景に魅せられ、長期滞在して制作。その後も風景を主なモティーフとした。同34年、セザンヌの作品に触発されて、赤土と青緑色のオリーブが織りなす岡山県牛窓の風景を好んで、同地にアトリエを構える。同42年第10回目新日展に牛窓風景に取材した「オリーブと海」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。翌43年同作品により第24回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となった。同44年社団法人日展の改組が行われ、あらたに理事に選出されて同48年まで在任。退任にあたり参与への就任を固辞して会員としてとどまった。同61年4月「リージョンプラザ・上田創造館快感記念小山啓三、佐竹徳二人展」年が開催され、翌年東京の日動サロンおよび大阪日動画廊で「佐竹徳展」が開催された。平成元(1989)年第1回中村彝賞を受賞。同3年には茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開催された。自然の素直な観照を緊密な構図、穏やかな色調で表現した。

森芳雄

没年月日:1997/11/10

読み:もりよしお  主体美術協会会員で武蔵野美術大学名誉教授の画家森芳雄は11月10日午前8時20分、老衰のため東京都世田谷区のアトリエで死去した。享年88。明治41(1908)年12月21日、東京麻布区北新門前町に貿易商社社員福與藤九郎の第7子三男として生まれる。幼時に叔母森ふみの養子となるが、渡欧時まで実家で生活した。父の職業柄、幼少時から西洋美術の図録に親しみ、大正14(1925)年、慶應義塾普通部に通学する一方、白瀧幾之助に木炭デッサンを学ぶ。翌年慶應義塾普通部を修了し、東京美術学校を受験するが失敗したため、本郷絵画研究所に入り、デッサンを中心に学ぶ。翌年も東京美術学校を受験するが、再度失敗し、東京近郊の農園に1年あまり勤務した。昭和3(1928)年1930年協会絵画研究所で中山巍に師事し、あらためて油彩画とデッサンを学び、翌年第4回1930年協会展に初入選する。同5年第17回二科展に初入選。同6年第1回独立美術協会展に入選した。同年渡仏し、今泉篤男、山口薫、浜口陽三を知る。同7年サロン・ドートンヌに入選。同9年に帰国して、翌年東京銀座の近代画廊で「渡仏作品展」を開催した。同11年第6回独立美術協会展に「日時計」「晴日」「広告塔」「ローマ郊外」を出品してD賞を受賞、同13年同会第8回展に「母子」「坐像」を出品するが、同14年第9回展の出品を最後に同会を退会する。同年第3回自由美術家協会に出品し、同会会員となる。同18年東宝映画撮影所特殊映画部に入り、同23年まで勤務した。この間、同22年日本美術会主催第1回日本アンデパンダン展に出品。同26年より武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に勤務し、後進の指導にあたった。同37年ヨーロッパに渡り、パリを中心に5ヶ月滞在。同年同教授となり、同56年に退職するまで長く美術教育にあたった。同37年、神奈川県立近代美術館で麻生三郎との二人展を開催する。同39(1964)年、麻生三郎、糸園和三郎、寺田政明らを含む38名とともに自由美術家協会を退会し、同年主体美術協会を結成してその代表となった。同40年日中文化協会による日本美術家訪中団の一員として中国へ渡る。同44年ヨーロッパ旅行。同46年インドへ、同47年モンゴル・シルクロードへ旅行。同年より東京芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとった。同49年、『森芳雄画集』(日本経済新聞社)を出版。同55年、『森芳雄素描集』(朝日新聞社)を刊行。同50年、東京渋谷の東急百貨店、大阪の梅田近代美術館で「森芳雄展」が開催された。同53年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「森芳雄教授作品展」が開催される。同54年には東京銀座の松屋および仙台の藤崎で「森芳雄デッサン展」が開催される。同56年には渋谷区立松涛美術館で「森芳雄展」が開催された。同61年、名古屋画廊で「森芳雄展」、平成4(1992)年にも同画廊で「森芳雄近作展」が開催された。平成元(1989)年、東京日本橋高島屋で「森芳雄展」が開催され、また、写真集『画家森芳雄平成元年80歳』(森芳雄写真集刊行会)が刊行された。平成2年には茨城県近代美術館で「森芳雄展」が開催されている。かたちを簡略化した象徴的人体像を画面内に配置することにより、かたち相互の拮抗や調和に、造形上の整合性と論理性を求め、「母子像」を多く描いた。

難波田龍起

没年月日:1997/11/08

読み:なんばたたつおき  洋画家の難波田龍起は、11月8日午後5時49分、肺炎のため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年92。明治38(1905)年8月13日、北海道旭川市に生まれ、翌年一家は東京に移った。大正2(1913)年、本郷区駒込林町に転居、ここは高村光太郎のアトリエの裏隣であった。同12年、早稲田第一高等学院に入学、同年9月の関東大震災にあたり、町内の夜警に立ち高村光太郎と知己となった。翌年頃から、自作の詩を携えて、光太郎のアトリエを訪れるようになった。同15年早稲田大学政経学部に入学したが、翌年退学。太平洋画会研究所、ついで本郷絵画研究所で一時学んだ。昭和3(1928)年、光太郎に川島理一郎を紹介され、川島が主宰し、青年画家たちが作品を批評しあう金曜会に参加するようになった。同4年、第4回国画会展に「木立(中野風景)」が初入選した。同8年頃、松本竣介、鶴岡政男らと親しくなる。とくに松本とは、その死(同23年)にいたるまで親交した。一方、同10年には金曜会のメンバーとともに「フォルム展」を結成した。同12年、自由美術家協会結成にあたり、会友として参加、翌年会員とり、同会を同34年に退会するまで毎回出品した。戦中期には、古代ギリシャ、ローマの芸術への憧憬を表現した作品を描いていた。しかし、戦後になると、自律的に抽象化を試みるように、幾何学的な構成による叙情的な抽象絵画を描くように展開した。しかし、次第に無数の鋭く、しなやかな線が交錯する表現へ、さらに60年代にはドロッピングによる表現へと変化し、「コンポジション」(同40年、東京国立近代美術館)などに代表される独特の抽象絵画を生み出すにいたった。70年代からは、再び意志的な線による構成がとられるようになり、青や茶を基調にした画面は静かだが、奥深い情感たたえるようになった。同57年に北海道立近代美術館で「形象の詩人 難波田龍起展」として、初めての本格的な回顧展が開催された。つづいて同62年には、東京国立近代美術館で「今日の作家 難波田龍起展」が開催され、回顧と同時に、新作「原初的風景」のシリーズも出品され、深いい精神性をただよわせた新たな表現が示された。この展覧会によって、翌年第29回毎日芸術賞を受賞した。平成6(1994)年、世田谷美術館でも「難波田龍起展 1954年以降ー抽象の展開・生命の響き」が開催された。同8年には、文化功労者に選ばれた。難波田は、抽象表現への一貫した思考と詩人的な叙情性によってうらづけられた、純度の高い作品を数多く残した。

日原晃

没年月日:1997/10/12

読み:ひはらあきら  洋画家で、日展参与をつとめた日原晃は、10月12日午後10時48分、胸部大動脈りゅう破裂のため死去した。享年87。明治43(1910)年2月19日、岡山県津山市に生まれ、昭和19(1944)年、日本大学芸術科を卒業、翌年の第1回日展に初入選した。28年の第9回日展に「田舎の町」を出品、特選及び朝倉賞を受賞した。また、光風会にも終戦後から出品をつづけ、29年に会員となり、後には評議員、名誉会員となった。日展では、41年に審査員をつとめ、翌年会員となり、評議員、参与を歴任した。45年には、岡山県文化賞、平成元(1989)年には津山市文化賞をそれぞれ受賞した。瀬戸内海や日本海などの港の風景や海景などを、おだやかな色彩と剛胆な筆致で描きつづけた。

間部学

没年月日:1997/09/23

読み:まべまなぶ  ブラジル、サンパウロ在住の画家間部学は9月23日午前1時(現地時間2日午後1時)、ひ臓ガン手術後の合併症により、サンパウロの病院で死去した。享年73。大正13(1924)年9月14日、熊本県宇土郡不知火村高良に生まれる。生家は旅館ののち理髪店を営んでいた。昭和6(1931)年、不知火尋常小学校に入学。翌年当尾尋常小学校に転校し、同校在学中クレヨン画に熱中する。同9年豊川尋常小学校に転校するが、同年8月18日、一家でブラジルサンパウロ州に入植する。日系人が共同で営む私立学校でポルトガル語、日本語の勉強を続け、コーヒー園での父の仕事の手伝いなどをして少年時代を送る。同15年サンパウロ州リンスに移転し、コーヒー園の仕事に従事する。同20年、油絵具を購入し、石油で絵具を解き、独学で油彩画を描き始める。同年中、写真屋を開業していた熊谷悌助に月1回の指導を受ける。同23年父の死去を契機にコーヒー園主として独立。一方で絵画の制作を続ける。同26年国立美術展(リオデジャネイロ国立美術館)に初入選し、以後同展に毎年出品。同28年第2回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、同展で展示された抽象画に刺激を受ける。また、同年日系画家による聖美会の行うコロニア展の第2回展に出品し、コロニア賞受賞。この年から、作風が構成主義的抽象へと移行する。翌年第4回サンパウロ近代美術展で小銀賞、翌30年の第5回同展では大銀賞、同31年の第6回同展では再度小銀賞を受賞。同32年第7回同展で大銀賞を受賞し、同年国立美術展(ブラジル・サロン・デ・ナシオナル・ベラス・アルテス)無鑑査となる。同33年第8回サンパウロ近代美術展で州知事賞受賞。同34年ブラジルにおける美術の年間総合最優秀賞であるレイネル賞の第1回目の受賞者に選ばれ、日系画家として注目されるようになる。同年第5回サンパウロ・ビエンナーレ展で国内大賞受賞を受賞。アンドレ・マルローに注目され、第1回パリ青年ビエンナーレ展のブラジル代表として推薦するようにとの要請を受けて、同展に出品し、最高賞(ブラウン賞)を受賞する。同35年、ブラジル代表としての作品発表が多くなったため、ブラジルに帰化する。同年第30回ヴェネツィア・ビエンナーレにブラジル代表として出品し、フィアット賞受賞。同40年代には作風にアンフォルメル的傾向があらわれ、即興的な制作を思わせる点などに東洋的との評もよせられた。同50年サンパウロ美術館で回顧展が開催され、同53年には熊本県立美術館を皮切りに、神奈川県立近代美術館、国立国際美術館を巡回する「マナブ・間部展-ブラジルの巨星=その熱い★(手へんに矛)」が開催されて、初期から近作までの100点が展示された。初期には遠近法などを踏まえた再現描写が試みられたが、1950年代に入ると、具象表現でありながら、自然の形態や色彩から離れ、単純な幾何学的色面に対象を分解したのち再構成する作風へと展開し、1960年代には抽象的作風へと移行した。数を限って明快な色彩を用い、大胆な構図で「生命」「望郷」「雄飛」などの抽象概念を表現した。ニューヨークやパリなどでも個展を開き、国際的に活躍する一方、日本とブラジルの文化的架け橋としても尽くした。平成8(1996)年には郷里熊本で回顧展を開催している。

牛島憲之

没年月日:1997/09/16

読み:うしじまのりゆき  文化勲章受章者の洋画家牛島憲之は9月16日午前0時27分、呼吸不全のため東京都港区の虎ノ門病院で死去した。享年97。明治33(1900)年8月29日、熊本市二本木町に地主牛島米太郎の4男として生まれる。大正2(1913)年古町小学校を卒業して熊本県立熊本中学校に入学。同8年同校を卒業して上京し、東京美術学校を受験するが失敗、白馬会葵橋研究所に入る。同11年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍する。同級に荻須高徳、小磯良平、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らのいる優秀なクラスであったが、在学中はあまり登校せず、歌舞伎に興味を抱き、藤間流舞踊、常磐津などに凝った。昭和2(1927)年同校を卒業。卒業制作は「自画像」「猿芝居」。同年、同研究科に進学する。また、同年東京美術学校西洋画科の同級生全員で親睦・研究団体「上杜会」を結成し、その第1回展から晩年まで同会への出品を続ける。同3年、第9回帝展に「あるサーカス」で初入選。翌年の第10回帝展に「春爛漫」を出品。同5年第2回聖徳太子奉賛美術展に「二人像」を出品するが、同年より同7年まで帝展には落選を続ける。同5年、デッサン力の不足を感じ小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に通う。同8年、東光会が結成されるとその第1回展から出品、また、同年第14回帝展に明るい色彩を点描風に用いた「貝焼場の風景」が入選する。同10年第4回東光会展に「貝焼場」「午後(貝焼場)」を出品してK氏奨励賞を受賞。翌11年東光会を退会した高間惣七、橋本八百二らと主線美術協会を結成し、同会会員となるが、同14年同会絵画部が解散。同16年創元会が結成されると第1回展に「元朝」「昼」を出品して受賞し、以後同展に出品を続ける。同21年日展が開催されると第1回展から出品し、第2回日展に「炎昼」を出品して特選となる。「炎昼」は、これ以後の画風の特色となる、写生をもとにデフォルメを加えた独自の形態と淡い色調による静謐な趣をそなえ、新たな展開を示したものであった。同24年、須田寿、山下大五郎らとともに創元会を退会し、日展をはじめ在来の公募展を排して会員だけの研究の場として立軌会を結成。第1回展に「家」「風景」「道」を出品し、以後、没するまで同会を活動の主要な場とした。同27年第1回日本国際美術展に「水辺(水門)」「早春」「午後(タンク)」を出品し、以後第9回展まで同展に出品を続ける。同28年第2回サンパウロ・ビエンナーレに「早春」「午後」「麦を刈る」を出品。同29年、第1回現代日本美術展に「樽のある街」「橋の風景」を出品し、以後同展に出品を続ける。同30年東京芸術大学講師となり、同34年助教授、同40年教授となる。以後、同43年、東京芸術大学を停年退官し、同校名誉教授となるまで、長く美術教育にたずさわり、後進の指導にあたった。同44年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。同53年京都国立近代美術館・日本経済新聞社主催で開催された「牛島憲之の芸術-五十年の歩み」展(神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館に巡回)は、初期からの代表作108点および素描・版画が出品される大規模な回顧展となった。同55年東京銀座松屋で「牛島憲之展-現代洋画家デッサン・シリーズ」(朝日新聞社主催)を開催。同56年、日本芸術院会員、同57年文化功労者に選ばれ、翌58年文化勲章を受章した。1930年代の「貝焼場」などに見られる鮮やかな色面による画面構成から、戦後は抽象絵画運動を傍らに見つつ、「水門」「タンク」といった幾何学的形態を淡い色調で描く具象絵画へと移行し、晩年は初期から貫かれている独特の形態感覚をもとに、写生にもとづきながら構図・色彩などに画家の造形的意図が明快に表出される画面に至った。平成2(1990)年世田谷美術館、熊本県立美術館、山梨県立美術館で「牛島憲之展-静謐なる叙情」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。また、昭和27年の第3回目の個展以後、東京のフジカワ画廊を会場としてたびたび個展を行っており、図録も刊行されている。画集としては、『牛島憲之版画集(第一、二輯)』(加藤版画研究所、同42、43年)、『牛島憲之画集』(同画集刊行会、同44年)、『牛島憲之画集(第二輯)』(同画集刊行会、同47年)、『牛島憲之素描集』(求龍堂、同50年)、『牛島憲之素描集』(平凡社、同50年)、『牛島憲之画集』(日本経済新聞社、同53年)、『牛島憲之素描集』(朝日新聞社、同56年)が刊行されている。

加藤金一郎

没年月日:1997/08/24

読み:かとうきんいちろう  新制作協会会員の洋画家加藤金一郎は8月24日午後10時23分、心不全のため名古屋市昭和区の病院で死去した。享年75。大正10(1921)年10月21日名古屋市に生まれる。昭和10(1935)年尋常小学校を卒業し、同15年頃、鬼頭鍋三郎に師事して緑ケ岡洋画研究所に通う。同15年光風会展に初入選。同23年第12回新制作協会展に「サボテン図」で初入選し、以後同会創立会員である猪熊弦一郎に師事したほか、坂本範一にも学ぶ。同27年第16回新制作展に「白の作品」「白と黒の作品」を出品して新作家賞受賞。同37年同会会員となる。同40年欧米を巡遊し、同45年フランス、イタリア、スペインへ旅行、翌46年スペインを中心に欧州を旅する。同48年エジプト、トルコ、ヨーロッパに旅行。同50年および53年メキシコへ渡り、その成果を同52年の「メキシコ紀行展」(名古屋日動画廊)、同54年の「メキシコ・グアテマラの旅」個展(日動サロン、名古屋日動画廊)などで発表した。ガラス絵も描き、同52年日本ガラス絵協会会員に推挙されている。同63年松坂屋本店で「画業45年記念展」が開催され、平成9(1997)年同じく松坂屋本店で「加藤金一郎新作展」が開かれた。初期から具象画でありながら、描く対象の持つ形と色彩から離れ、自在に画面を構成する作品を描いたが、晩年の「SANKAKUYAMA」のシリーズでは白を基調とし、明快な色彩を用いた抽象的な作風へと展開した。

奥村光正

没年月日:1997/07/11

読み:おくむらみつまさ  新制作協会会員の洋画家奥村光正は7月11日午前0時4分、肝臓がんのためパリの病院で死去した。享年55。昭和17(1942)年6月4日、長野県に生まれる。同42年東京芸術大学油画科を卒業し、同大学大学院油画科に進学。同年第31回新制作協会展に「前段階」で初入選する。同43年第32回同展に「コンポジション」を出品して新作家賞受賞。同44年東京芸術大学大学院油画科を修了して同年より同46年まで小磯良平教室の助手として勤務する。同年第33回新制作展に「カルテ」「カムフラージュの為の講義室」を出品して再度新作家賞受賞。また同45年第13回安井賞展に「カモフラージュのための講義室」を出品する。同45年第34回新制作展、翌46年第35回同展でも連続して新作家賞を受賞する。同47年、渡仏しパリで制作を始める。同年より国際形象展に出品。また同年第15回安井賞展に「一族の挽歌」「部屋の中の使者群」を出品する。同53年第13回昭和会展に「貝殻のある静物」を出品して昭和会賞受賞。同53年一時帰国し東京銀座の日動画廊で個展を開催する。同54年第22回安井賞展に「貝と枯葉」を出品。同59年、新制作協会会員となる。同年および平成元(1989)年、日動画廊(東京銀座、大阪、名古屋)で個展を開催。花、果物などの静物を主要なモティーフとし、簡略化した形態と洗練された中間色を多用する色彩で構成力の強い作風を示した。

田村一男

没年月日:1997/07/10

読み:たむらかずお  洋画家で、文化功労者の田村一男は、7月10日午前5時48分、心不全のため新宿区の病院で死去した。享年92。明治37(1904)年12月4日、東京府豊多摩郡中野町に生まれる。大正13(1924)年、磯谷商店に入店し、額縁作りに従事し、また岡田三郎助が主宰する本郷絵画研究所に入り、絵画を学んだ。昭和3(1928)年、第9回帝展に「赤山の午後」を初出品して、初入選をはたした。同6年、第18回光風会展に、「松の木風景」など3点が入選し、翌年磯谷商店を退き、中野区江古田にアトリエを構え、ここで終生制作をつづけることになる。同15年、光風会会員となり、同21年には同会の事務所を引継ぎ、自宅においた。また、同年の第2回日展に「高原初秋」を出品、特選となった。44年、社団法人日展の改組により、理事となり、後に参事、顧問をつとめた。同38年、第19回日本芸術院賞を受賞。同55年、日本芸術院会員となる。同57年、朝日新聞社より、「田村一男画集」を刊行。同61年には、長野県信濃美術館において「信州の風景画 田村一男・心象画の世界」展が開催された。平成4(1992)年、文化功労者に選ばれた。一貫して、山岳風景画を制作し、それは次第に写実性をはなれ、簡潔な構成と深い色彩による象徴的な風景画へと展開し、独自の恬淡とした画風を形成して評価された。

川口精六

没年月日:1997/07/07

読み:かわぐちせいろく  立軌会同人で幻想的な作風で知られた洋画家の川口精六は7月7日午前9時、脳こうそくのため千葉県柏市の病院で死去した。享年94。明治40(1907)年1月10日、群馬県前橋市文京町に生まれる。昭和6(1931)年川端画学校を修了し、10年第22回光風会展に「ホロホロ鳥」で初入選する。同12年第12回国画会展に「霜枯れの池隅」で初入選する。昭和14年第11回第一美術展で奨励賞受賞するが、同18年第一美術協会を退会する。以後自由美術協会展に出品し、同会会員となるが、同38年同会を退会。日本実在派展にも一時参加する。同46年立軌会会員となり、以後立軌展に出品を続けた。同46年に開かれた「現代の幻想絵画展」(朝日新聞社主催)に出品した「蛾A」「蛾B」などの一連の「蛾」のシリーズで知られ、蟻や蛾などの昆虫の群れをモティーフに想像の世界を絵画化した。

福島秀子

没年月日:1997/07/02

読み:ふくしまひでこ  画家の福島秀子(本名愛子)は、7月2日午前4時、肺ガンのため東京都小金井市の病院で死去した。享年70。東京都の出身、文化学院卒業後の昭和26(1951)年、秋山邦晴、北代省三、山口勝弘、鈴木博義、武満徹、福島和夫とともに、美術と音楽の領域を越えて、新たな芸術表現をめざす前衛集団「実験工房」を結成、これに参加した。この年の11月に開かれた第1回発表会では、前衛バレエ「生きる悦び」を上演、この美術を山口、北代とともに担当した。毎回の発表会では、それぞれがワークショップ的に参加、文字どおり実験的な表現を試み、総合的な芸術がめざされた。29年には、実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が開かれ、「月に憑かれたピエロ」など、全曲日本での初演となった。福島は、その舞台衣裳を担当した。また、戦後から抽象表現を試みていた福島は、画家としても、絵筆をつかわず、円形の型を推して画面を構成する抽象絵画を制作して、注目されていた。

麻田浩

没年月日:1997/06/20

読み:あさだひろし  洋画家の麻田浩は6月20日午前10時30分頃、自宅アトリエで死んでいるのを家人によって発見された。家族によると遺書があり、自殺とみられる。享年65。昭和6(1931)年10月27日、京都市に生まれる。日本画家の父(麻田辨二)と兄(麻田鷹司)をもつ。同26年、同志社大学に入学し、学内の美術クラブで絵を描き始めるが、まもなく本格的に絵画を学ぶため、新制作派協会に出品していた桑田道夫に師事する。同29年、新制作展に初入選。同30年、同志社大学経済学部卒業後、株式会社大丸に37年まで勤務。同39年、大阪・あの画廊において初個展。同40年より藤川デザイン学院(現京都芸短大)講師となる。同43年、新制作協会の会員に推される。同44年より成安女子短期大学講師、京都市立芸術大学教授を務める。同46年、国際形象展に出品(以後毎回出品)。京都よりパリに居を移し、油彩画制作と各種展覧会に出品のかたわら、フリードランデルについて銅版画を学ぶ。同49年、フランス・カーニュ・シュール・メール国際絵画フェスティバルに招待出品、プリ・ナショナル賞受賞。50年、安井賞展佳作賞受賞。同51年、ベルギー・オステンド・ヨーロッパ絵画展第2位賞受賞。パリ・ギャルリー・ロプシディエンヌにて個展。以後、パリをはじめヨーロッパの幾つかの都市で個展を持つ。同52年、カンヌ国際版画芸術ビエンナーレ銅版画部門第一位賞受賞。サロン・ドートンヌ会員に推挙される。同54年、明日への具賞展に出品(以後、毎回出品)。ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール会員に推挙される。同55年、クラコー国際版画ビエンナーレ展第三位賞受賞。フランス・アールザン・イヴリーヌ展に招待出品、グラン・プリ第二席受賞。同57年、京都に戻り住む。同58年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展プリ・アンリ・ファルマン受賞。同60年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展プリ・アルフレッド・シスレー受賞。平成元年、その超現実主義的な作風が評価され第2回京都美術文化賞受賞、翌年に受賞記念展を京都文化博物館で行う。同3年、ニューヨーク・ギャラリー・ためながにて個展。同5年、IMA絵画の今日展に同人として出品。同7年、宮本三郎記念賞を受賞、日本橋三越と京都大丸で受賞記念展が開催された。

大沢昌助

没年月日:1997/05/15

読み:おおさわしょうすけ  明快な色調の抽象画で知られた画家大沢昌助は5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため東京都大田区田園調布の自宅で死去した。享年93。明治36(1903)年9月24日、東京三綱町に生まれる。父は東京美術学校図案科の教授となった大沢三之助。御田小学校、御田高等小学校、芝中学校を経に学び、この間、絵に興味を抱いていた父から水彩画を学び、また、父の蔵書によって西欧美術に触れる機会を持った。父の交遊する富本憲吉、バーナード・リーチ、高村光太郎らを幼少から知るなど、美術に親しむ環境のなかで育つ。大正11(1922)年、東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学んだ後、藤島武二教室に入る。昭和3(1928)年同校西洋画科を首席で卒業。同4年第16回二科展に「丘上の少年」「青衣の像」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同9年、昭和3年の東京美術学校西洋画科卒業生による「三春会」が設立され同年その第1回展に「松」「梅林」「婦人像」を出品し、以後、同展にも出品を続ける。同11年第8回新美術家協会展に「作品A」「作品B」「作品C」「作品D」「作品E」「作品F」を初出品し、同年同会会員となる。同13年第25回二科展に「河岸」「夏の日」を出品して特待となる。同15年紀元2600年奉祝展に「入江のほとり」を出品。同年第27回二科展に「岩と人」「岩と花」を出品して会友に推挙される。同17年第29回二科展に「波」「運河」を出品して二科賞受賞。翌年同会会員となる。戦後は二科展の再建に会員として参加し、同展に出品を続ける。また、同22年から同26年まで美術団体連合展にも出品する。同27年第1回日本国際美術展に「夕暮」「不安の群像」を出品して以後、同展に出品を続け、また、同29年第1回現代日本美術展に「荒地の人」「化石の森」を出品して以後、同展にも出品を続ける。同年多摩美術大学教授となる。戦前から人物を主要なモティーフとし、堅実な写実を基本とする作品を描いていたが、同30年代に対象の形態、色彩を簡略化してとらえ、画面上で再構成する抽象的な作風に移行。同40年代には簡潔な線、明快な色面、大胆な構図による斬新な作品を描いた。同42年第52回二科展に「曲線風景」「白黒の像」を出品して青児賞を受賞。同45年同大学を退職。同56年池田二十世紀美術館で「大沢昌助の世界展」を開催する。同57年二科会を退会。以後、個展を中心に作品を発表した。平成3(1991)年9月、練馬区立美術館で「大沢昌助展」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。

末松正樹

没年月日:1997/04/28

読み:すえまつまさき  画家で、多摩美術大学名誉教授の末松正樹は、4月28日午後5時53分、脳出血のため東京都品川区の病院で死去した。享年88。明治41(1908)年8月28日、新潟県新発田市に生まれた。軍人であり、後に教職についた父四郎に従い、秋田市、朝鮮江原道春川、新潟市、宮崎市で幼少時代をすごした。中学時代から、美術や文学に親しむようになり、昭和2(1927)年に山口高等学校に進学した後も、芸術を愛好する仲間たちと絵画や詩をつくっていた。高等学校卒業後の同8年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわら日本に紹介されはじめたノイエ・タンツなどの前衛舞踏に関心をもち、舞踏家とも交友するようになり、また同11年には、滝口修造が中心となって組織された「アヴァンガルド芸術家クラブ」に参加した。同14年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。翌年、第二次世界大戦がはげしくなり、日本人画家が帰国するなかパリに留まっていたが、ドイツ軍の進駐を逃れて、マルセイユに移り、同地の日本領事館で働いた。同19年、マルセイユも危険となり、スペインに逃れようとするが、捕虜として警察に拘留された。同21年、復員船で帰国。この年の11月、パリ在住時代親しくしていた井上長三郎に再会し、ついで松本竣介、麻生三郎とも親しくなり、その縁から22年自由美術家協会に参加し、会員となった。また、帰国直後には、大戦中のヨーロッパ美術の動向を知る唯一の画家として、新聞、雑誌にヨーロッパ美術に関する記事を寄稿した。同29年再渡欧、フランスのプロヴァンス地方を訪れたことが契機となり、それまでの半抽象的な群像表現から、光を意識した色彩による流動的な抽象表現へと画風が変化した。同39年、自由美術家協会を退会し、主体美術協会結成に参加し、会員となる。同44年、福沢一郎の後任として、多摩美術大学学長代行に就任したが、翌年退任。平成4年、板橋区立美術館で「末松正樹-その抽象と舞踏の時代」展が開催され、初期から近作まで126点によって回顧された。

神原泰

没年月日:1997/03/28

読み:かんばらたい  画家・詩人として大正期の前衛芸術運動の指導者として活躍した神原泰は3月28日午後9時2分、心不全のため横浜市南区の佐藤病院で死去した。享年99。明治31(1898)年東京に生まれる。白樺派の正親町公和、園池公致と従兄弟であり、父親同士が親しかったことから有島生馬と幼少期から親交があり、雑誌「白樺」に紹介された西洋美術の新しい動向に早くから興味を抱いた。大正4(1915)年4月号の「美術新報」に掲載されたウンベルト・ボッチオーニ著・有島生馬訳の「印象派対未来派」に啓発されてマリネッティと直接文通するなど、積極的に未来派の研究を進めた。同6年に雑誌『新潮』や『ワルト』などに強烈な色彩と運動感をうたった未来派的な詩を発表。同年第4回二科展に「麗はしき市街、おゝ複雑ないらだちよ」で初入選。同年石油会社に入社し社員として勤務するかたわら、二科展に出品を続ける。同9年10月に東京丸の内の鉄道協会で「生命の流動、音楽的創造」と題して個展を開催し、同時に「第1回神原泰宣言」を発表。当時の画界を激しく批判して注目をあつめた。同11年中川紀元、矢部友衛らとともに、二科会で未来派的作品を発表していた古賀春江、横山潤之助や未来派美術協会に参加していた浅野孟府らに呼びかけて美術団体「アクション」を結成。同12年4月東京三越呉服店7階で「『アクション』第1回造形美術展覧会」を開催し、その作品目録に「『アクション』同人宣言書」を発表した。同宣言は「アクション」が同じ主義を持つ作家の集団ではなく、「前衛たらんとする熱情と喜び」を共にする団体であることをうたっているが、同13年10月に解散する。同月、神原を含む同会の同人の一部を中心に美術団体「三科」が結成される。また、同年11月に「造型」が結成されるとこれにも参加した。同14年アルス社から『ピカソ』を刊行。同年イデア書院から『未来派研究』を刊行する。昭和2(1927)年、「造型」が「造型美術家協会」に再編成されると同会には参加せず、以後、美術界の最前線からは距離をおいた。その後の作品の発表としては、同8年東京神田三省堂で「鎌倉の最後のハイカラな海辺風景」と題する個展があるが、出品作に海水浴風景などが含まれていたため、時節に不適切であるとして即日閉会となり、作品はすべて警視庁に没収された。同11年東京銀座伊東屋で検挙・拷問ののち難渋する岡本唐貴を援助する趣旨で開かれた「画友展覧会」に油彩画2点、素描1点を出品。戦後の同47年5月に東京銀座の日動サロンで「シンガポール・乳房-神原泰絵画展」が開かれ、同61年東京の南天子画廊で「神原泰 戦後作品自選展」が開催されて、大正期の抽象表現を基盤として継続されてきた画業が紹介された。神原は「人類の美術史上初めて絵画である絵画をつくった」画家として、パブロ・ピカソを高く評価し、生涯その研究・紹介に努め、そうした活動のなかで収集した蔵書のすべてを、昭和50年前後に岡山県倉敷市の大原美術館に寄贈した。平成2(1990)年、大原美術館から「神原泰文庫目録」が刊行されている。前述以外の著書に『ピカソ礼賛』(岩波書店 昭和52年)などがある。一方、石油業界でも活躍し、昭和53年に石油統計の業績により第1回大内賞を受賞したほか、世界石油会議日本国内事務局長などを歴任した。

藤松博

没年月日:1996/12/01

読み:ふじまつひろし  前衛的な作品で知られた洋画家の藤松博は12月1日午後2時35分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年74。大正11(1922)年7月12日、長野県に生まれる。昭和20年東京高等師範学校を卒業。瀧口修造と交友し、同27年読売アンデパンダン展に「手相」を出品。翌年同展に「花火」「玉のり」などを出品し、前衛的な作風で注目される。同31年渡米し、36年までニューヨークに滞在して活動する。帰国後、切り紙風のシルエットのような人体像や色斑による人体像を描き、抽象表現に学んだ具象画で注目された。代表作に「月(ひとがた)」や「旅人」の連作などがある。

鈴木良三

没年月日:1996/10/19

読み:すずきりょうぞう  元日展審査員の洋画家鈴木良三は10月19日午後9時3分、肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年98。明治31(1898)年3月29日茨城県水戸市東台665に下市病院院長鈴木錬平(とうへい)の三男として生まれる。県立水戸中学校を卒業して大正6(1917)年東京慈恵医大に入学。同年、叔父の幼なじみであった画家中村彝を訪ね、以後彝に師事。慈恵医大に在学しながら同年から川端画学校にも通学し、同11年平和記念東京博覧会に「夕づける陽」を出品する。同年慈恵医大を卒業するが、中村彝周辺の画家たちとともに「金塔社」を結成して活動し同年6月に第1回金塔社展を開催する。また、同年第4回帝展に「秋立つ頃」で初入選。この後も帝展に出品したほか光風会展、太平洋画会展などにも出品。昭和3(1928)年5月に渡仏し、同5年12月に帰国。この間、栗原信、永瀬義郎、中西利雄らと交遊し、また、スペイン、イタリア等を旅行している。滞欧中にパリから第11回帝展に「微睡」を、翌昭和6年の第12回帝展に「グラス風景」を出品。同7年芸術使節団の一員として東南アジアを訪問。同11年12月、有島生馬、石井柏亭、木下義謙、安井曽太郎らによって一水会が創設されると、同展に出品し、以後同展に出品を続ける。同14年第3回一水会展に「手術」「若き母」を出品して、具方賞を受賞。また、同年に行われた第1回聖戦美術展に「鉄道員の活躍」を出品する。同18年陸軍参謀本部と日本赤十字の依頼により従軍画家としてビルマ方面に赴く。戦後の同21年一水会会員となり、同27年同会委員となる。戦後の制作には海をモティーフとした作品が多く、海景の画家として知られた。同49年フランス、スペインなどを写生旅行。同56年茨城県県民文化センターで「画道60年記念鈴木良三展」が開催され、同60年東京セントラル美術館で「米寿記念鈴木良三海姿百景展」が開かれた。また、平成3(1991)年茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開かれており、年譜は同展図録に詳しい。その作風は中村彝が「鈴木良三君があの素直で平明な観照のもとに、美しき自然の諸相を描き」と評したように、簡略化した形態把握と豊麗な彩色を特色とした。

青山義雄

没年月日:1996/10/09

読み:あおやまよしお  洋画家青山義雄は、10月9日午前9時34分、膀胱がんのため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去した。享年102。明治27(1894)年1月10日、現在の神奈川県横須賀市に生まれ、父の転勤にともない三重県鳥羽、北海道根室で幼年時代をすごし、同39年に根室商業学校に入学した。しかし同41年、画家をこころざして同学校を中退し、講義録をもとに絵を独習しはじめた。同43年に上京、翌年1月に日本水彩画会研究所に入所し、大下藤次郎に師事し、同年10月に大下が没すると、永地秀太に指導をうけた。大正2(1913)年、根室にもどり、水産加工場、牧場、小学校の代用教員など、さまざまな仕事をしながら制作をつづけた。かねてより外国に渡る意志をもっていたが、同10年にフランスに渡った。パリでは、はじめアカデミー・ランソン、ついでグラン・ショーミエールでデッサンを学び、また日本人会の書記として、館に住み込みで働くようになった。また、この年には、はやくもサロン・ドートンヌに初入選し、翌年にも「二人の男」が入選した。この日本人会において、林倭衛、土田麥僊、木下杢太郎、大杉栄、小宮豊隆などパリに滞在する多くの日本人画家や文化人と親交した。同14年、喀血したため、医師のすすめで南仏カーニュに転居した。翌年、ニースの画廊に委託していた自作が、アンリ・マティスの眼にとまり、その色彩表現を賞賛されたことが機縁となり、その後マティスに作品の批評を受けるようになった。また、翌年、マティスを介して福島繁太郎を知り、その後福島からは物心にわたる援助を受けることになった。一方、フランスで制作をつづけるかたわら、昭和3(1928)年の第6回春陽会展から出品し、同9年の第12回展まで出品をつづけ、会員となっていたが、この年に同会を辞した。また、同年には、和田三造の紹介により、商工省の嘱託となり、ヨーロッパ各地の工芸事情を視察した、その結果を報告するために同10年に帰国した。帰国の翌年には、梅原龍三郎の勧誘をうけて国画会会員となった。同12年には、第1回佐分真賞を受賞、翌年には、第2回新文展の審査員として、幼年時代をすごした北海道根室に取材した「北洋落日」を出品した。同27年、フランスに渡り、ニースに住むマティスに再会、カーニュにアトリエをかまえて制作をつづけた。同32年には、63才にして運転免許をとり、ヨーロッパ各地を取材旅行するようになった。その後は、平成元(1989)年に帰国するまで、日仏間を往還しながら、旺盛な制作をつづけ、国内では個展において新作を発表していた。同5年、中村彝賞を受賞、同7年には茨城県近代美術館において中村彝賞受賞記念して初期から近作にいたる約120点からなる回顧展が開催された。南仏特有の明るい陽光からうまれた、その鮮やかな色彩表現は、終生衰えることはなかった。

土屋幸夫

没年月日:1996/09/04

読み:つちやゆきお  洋画家で、武蔵野美術大学名誉教授の土屋幸夫は、9月4日午前8時36分、肺気しゅのため東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年85。明治44(1911)広島県尾道市に生まれ、昭和6(1931)年に東京高等工芸学校を卒業、翌年第2回独立美術展に「イゝグラの坂路」が初入選した。以後、独立美術協会には、同8年の第3回展に「尾道風景」、同十年の第5回展に「出帆」、同11年の第6回展に「静物(母性的果実)」、同12年の第7回展に「歪められたる静物の印象」、同13年の第8回展に「飛翔の幻想」が入選した。一方、同8年には、郷里の尾道市商工会議所において最初の個展を開催、同11年には、銀座紀伊国屋画廊でも個展を開いた。同12年には、糸園和三郎、斎藤長三等が同9年に結成した前衛美術グループ「飾絵」の同人として参加、この年の第4回展に出品した。この当時の作品として残されている「仮装」(1936年)では、抽象表現を試みており、また「人形の行進(鬼)」(1937年)では、写実表現ながら、幻想性をつよく感じさせ、シュルレアリスムからの影響をしめしている。しかし、このグループは翌年4月に解散し、同月に結成された創紀美術協会に創立同人として参加した。同年7月の同協会京都前哨展に「果てなき嗜食」、翌年の第1回展に「哺乳の海邊」、「錯覚する者」、「苛める」を出品した。同14年には、美術文化協会創立にあたり同人として参加、翌年の第1回展に「蒐集狂的散点模様」、「睡れる提琴」、「小児季記憶のあらはれ(瀬戸内海の島々)」を出品した。同17年の第4回展まで会員として出品し、応召と戦後の復員までの中断をはさんで、同24年の第9回展まで出品をつづけた。また、戦後の同22年には、日本アヴァンギャルド美術家クラブ結成に参加し、同26年にはタケミヤ画廊で個展を開催した。同32年には、武蔵野美術大学に赴任し、後進の指導にあたるようになり、また同50年から同56年まで、現代芸術研究室を設け、ここを会場に自身の個展を開催するとともに、多くの新人にも作品発表の機会をあたえた。平成7(1995)年には、パルテノン多摩市民ギャラリーを会場に、「土屋幸夫1930ー1995展」を開催、初めての回顧展として初期から近作までを出品した。戦前の前衛画家として出発した土屋は、戦後も、アンフォルメルなど現代美術の潮流から影響をうけつつ、絵画や立体作品に、一貫した独自の造形感覚を示しつづけた。

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