本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





増村益城

没年月日:1996/04/20

読み:ますむらましき  髹漆の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の漆芸家増村益城は4月20日午前2時12分、腹膜炎のため東京都豊島区の平塚胃腸病院で死去した。享年85。明治42(1910)年7月1日、熊本県上益城郡益城町(旧津森村)田原344に父増村仁五郎、マタの七男として生まれる。本名成雄(なりお)。大正6(1917)年津森尋常小学校に入学し、同12年同校を卒業して同校高等科に入学するが、翌年熊本市立商工学校漆工科に入学。その頃、同校漆工科教員には財間六郎、藤芳太直(美術史、蒔絵)、川俣熊三郎(会津漆芸)らがいた。昭和2(1927)年同校漆芸科を卒業し、同校研究所研究生となる。同4年同研究所を修了。翌5年1月、熊本市立商工学校漆工科の同期生であった山本剛史の誘いにより奈良の漆芸家辻富太郎(永斎)に師事し、同7年1月やはり山本剛史の誘いによって上京して赤地友哉に師事する。同11年第13回東京工芸品展に本名成雄の名で「皆朱輪花盆」を出品し三等賞を受賞。翌年より独立して漆芸家として作家活動を始める。同13年第3回実在工芸展、同14年第4回同展に出品。また同14年第3回日本漆芸院展に益城の名で「黒呂色平卓」を出品して第二席となる。同15年紀元2600年奉祝記念展に「乾漆八花盆」で入選。同17年第5回文展に「髹飾卓」で入選。戦後も官展に出品し、同22年第3回日展に「髹飾卓」で入選以後、日展に出品を続ける。同27年第1回漆芸作家大同会に「柿紅葉銘々皿」を出品して研究賞を受賞し、以後同展に出品を続ける。同30年第1回日本漆芸展に「溜塗文机」を出品して文大臣賞受賞。同31年より日展のほか日本伝統工芸展にも出品し、同32年第4回同展に「乾漆盛器(日の丸)を出品して日本工芸会総裁賞受賞。翌年第5回同展に「乾漆根来盤」を出品して日本工芸会奨励賞、同35年第7回同展では「髹飾線文盛器」で日本工芸会文化財保護委員会委員長賞を受賞して、同40年より同展鑑査員をつとめる。同53年重要無形文化財「髹漆」保持者に認定され、同年より人間国宝新作展にも出品する。また、同年熊本岩田屋伊勢丹で「増村益城漆芸展」が開催された。後進の育成にも尽くし、同43年より香川県漆芸研究所講師、同51年より石川県輪島漆芸研究所講師をつとめる。同62年日本工芸会参与となった。乾漆技法を用い、複雑な曲線をもつ近代的な形、絵付けをせず、朱色、黒など漆本来の色一色で仕上げる独特の仕上げにより、現代生活に根ざした作風を確立した。同56年5月東京三越本店で「増村益城髹漆展」、同62年10月には熊本県立美術館で回顧展「増村益城展」が開催され、没後の平成7年には東京国立近代美術館で遺作展が開かれた。

神吉敬三

没年月日:1996/04/18

読み:かんきけいぞう  上智大学教授で美術評論家の神吉敬三は4月18日午前9時2分、肺ガンのため埼玉県伊奈町の埼玉県立がんセンターで死去した。享年63。昭和7(1932)年5月8日、山口県下関市長府町松小田に生まれる。同14年下関市名池小学校に入学するが同年9月、旧国鉄職員であった父の職務の関係で東京池袋高田第二小学校に転入する。同17年静岡市森下小学校に転入し、同20年同校を卒業して静岡県立静岡中学校に入学する。同年9月岐阜県立第二中学校に転入し同22年4月、埼玉県立浦和中学校に転入。同23年同校を卒業し同県立浦和高校に入学して、同26年同校を卒業した。同27年上智大学経済学部商学科に入学。同30年4月、聖イグナチオ教会で受洗し、クリスチャンとなる。同31年、上智大学を卒業してスペイン政府給費留学生としてスペイン国立マドリード大学哲文学部に留学。翌32年6月、同大学スペイン学コースを卒業して7月にドイツ美術研究のためドイツを訪れる。同年9月マドリード大学哲文学部美術史コースに学ぶ。同33年7月パリ・カトリック協会給費生としてフランス、ベルギー、オランダに遊学。翌34年8月イタリア美術研究のためイタリアに渡るが、同年9月上智大学の帰国要請によりマドリード大学を中退して帰国し、上智大学外国語学部イスパニア語学科助手となる。同36年上智大学外国語学部イスパニア語学科専任講師、同40年同助教授となり、同44年同教授となった。同48年より翌年までスペイン政府の招聘によりスペイン高等科学研究所美術部門(ベラスケス研究所)で研究したほか、同50年スペイン王立サン・フェルナンド美術アカデミー客員、同52年スペイン王立サンタ・イザベル・デ・ウングリア美術アカデミー客員となるなど、スペインでの研究活動も積極的に行い、その内容は気候、風土、生活習慣などの体験的理解にもとづくものであった。また、同47年よりしばしば国立西洋美術館購入委員をつとめた。同52年より地中海学会初代事務局長となったほか、日本イスパニア学会理事をもつとめるなど、学会活動にも寄与した。同60年日本スペイン協会より会田由賞受賞。平成9年地中海学会賞受賞。平成3年より大塚国際美術館創設のプロジェクトのひとつとして、エル・グレコの大祭壇衝立の復元に取り掛かり、没するまでこれに従事した。著書に『ゴヤの世界』(講談社原色写真文庫 1968年)、『ゴヤ』(ヴァンタン版 原色世界美術全集 集英社 1973年)、『グレコ』(新潮社美術文庫 1975年)、『ベラスケス』(世界美術全集 集英社 1976年)、『ピカソ』(現代世界美術全集 講談社 1980年)、『青の時代』(ピカソ全集1 編・著 講談社 1981年)、『バラ色の時代』(ピカソ全集2 編・著 講談社 1981年)、『キュビスムの時代』(ピカソ全集3 編・著 講談社 1982年)、『幻想の時代』(ピカソ全集5 編・著 講談社 1981年)など、また、翻訳書にフォンタナ著『白の宣言』(現代芸術25 1964年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『大衆の反逆』(角川書店 1967年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『芸術論集』(オルテガ著作集3 白水社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『バロック論』(美術出版社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『プラド美術館の三時間』(美術出版社 1973年)などがあり、16世紀以降のスペインの巨匠について幅広く研究するとともに、日本でのスペイン美術紹介に尽力した。上智大学のほかに東京大学、東北大学、慶応義塾大学、学習院大学などでもスペイン美術史を講じ、後進の指導にも尽くした。没後、著作集『巨匠たちのスペイン』(毎日新聞社 1997年)が刊行され、年譜・著作目録は同書に詳しく掲載されている。

塩見仁朗

没年月日:1996/04/06

読み:しおみにろう  創画会会員の日本画家塩見仁朗は4月6日午前6時16分、心不全のため京都市北区の社会保険京都病院で死去した。享年67。昭和4(1929)年宮崎市に生まれる。同26年京都市立美術専門学校日本画科を卒業し、同研究科へ進学する。在学中の、同29年第18回新制作協会展に日本画「青島風景」で初入選。同31年京都市立美術専門学校研究科を卒業する。同36年第25回新制作展に亜熱帯の植物を描いた「林間緋桐A」「林間緋桐B」を出品して新作家賞を受賞。同40年第29回同展に「樹陰青熟」「樹間白花」を出品して新作家賞、同42年第31回同展に「樹叢間隙」「樹陰白光」を出品して新作家賞を受賞し、翌43年第32回同展でも同賞を受賞して、同44年同会会員となった。同49年新制作協会日本画部が同会を連袂退会して創画会を結成するのに参加し、同会設立会員となる。同52年より57年まで京都日本画専門学校副校長をつとめ、平成4年から京都市立芸術大学客員教授となって教鞭を取った。初期には火山に興味を抱き、桜島、霧島などを描いた作品が多いが、昭和30年代後半から奄美、沖縄、南太平洋の島々などを訪れ亜熱帯、熱帯の植物をモティーフに生命の横溢する情景を神秘的雰囲気で描いた。

日下八光

没年月日:1996/03/23

読み:くさかはっこう  東京芸術大学名誉教授で装飾古墳壁画の模写で知られる日本画家日下八光は3月23日午後5時45分、肺機能障害のため東京都清瀬市の国立療養所東京病院で死去した。享年96。明治32(1899)年9月18日徳島県那賀郡羽浦町大字岩脇に生まれる。本名喜一郎。大正13(1924)年東京美術学校日本画科を卒業。昭和3(1928)年から4年にかけて大谷光瑞の請来品で当時、朝鮮総督府博物館所蔵となっていた西域壁画を東京美術学校の委嘱により模写し、同6年より約10年にわたり当時の帝室博物館で古画の模写に励む。この間、同12年東京府豊島師範学校講師、同15年東京府女子師範学校講師をつとめる。同18年より東京美術学校に奉職し、同19年同校助教授、同20年同校教授となった。この間、昭和5(1930)年第11回帝展に「錦の秋」で初入選。この後、同7年第13回帝展に「晩秋」を出品し、後第15回帝展、第5、6回新文展、第2、5回日展に出品し、官展でも活躍した。同28年から30年にかけて文化財保護委員会の委嘱により宇治平等院鳳凰堂装飾画の現状模写および復元を行い、つづいて同30年から同じく文化財保護委員会の委嘱により装飾古墳壁画の模写に従事した。陰湿な古墳内部での模写作業に忍耐強くのぞみ、技法、画法等に関する学究的な姿勢を失わず、模写を手がけた古墳についての研究書として昭和42年に朝日新聞社から『装飾古墳』を刊行。また模写された絵画は同44年2月から3月にかけて東京国立博物館で行われた「装飾古墳模写展」ならびに、平成5年国立歴史民俗博物館で開かれた「装飾古墳の世界」展に展示された。経年変化や表面の凹凸により明瞭に認識できない古墳壁画を、美術材料学、考古学、美術史学などの学識者の研究成果をもとに現状模写、復元模写し、関連学界の調査研究に寄与した。昭和42年東京芸術大学を定年退官し、同学名誉教授となった。著書に『装飾古墳の秘密』(講談社)、『東国の装飾古墳』(近刊)がある。

斎藤三郎

没年月日:1996/03/18

読み:さいとうさぶろう  洋画家の斎藤三郎は、3月18日午前4時50分、多臓器不全のため埼玉県浦和市元町の自宅で死去した。享年78。大正6(1917)年5月10日、埼玉県熊谷に生まれる。父は橋梁技師で日本画もたしなんだ。東京物理学校(現、東京理科大学)在学中の一時期、本郷絵画研究所に通う。昭和15(1940)年物理学校を中退して第二次世界大戦に出征。戦地で画家になることを決意し独学で多くのデッサンを描く。同20年復員。同21年第31回二科展に「向日葵」が初入選し、以来同展に出品を続ける。同23年第33回展に「敗戦の自画像」を出品して特待、同25年に「信仰の女」を出品して二科賞を受け会友に推挙、同29年会員となる。同35年に会員努力賞、同36年にはパリ賞受賞により翌年フランス、スペインに遊学。昭和30年代には抽象画を描いたが、渡欧後はスペインの踊り子や風景をテーマに鮮やかな色彩で情熱的、華麗な世界を描き、大衆的な人気を集め続けた。同47年「セビージャの祭」で内閣総理大臣賞を受ける。平成2(1990)年勲四等瑞宝章受章。

浅野弥衛

没年月日:1996/02/22

読み:あさのやえ  画家浅野弥衛は、2月22日午前6時45分、脳梗塞のため三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年81。大正13(1914)年10月1日、三重県鈴鹿市の参宮街道に面した、江戸時代から煙草の仲買商を営んでいた旧家の長男として生まれた。昭和7(1932)年、中学校を卒業後、職業軍人となり、同年満州に渡り、翌年帰国したとされる。この頃から絵筆を手にするようになり、また戦後詩人として知られるようになる津市在住の野田理一(1907年生まれ)と親交するようになり、野田の所有していたヨーロッパの画集や雑誌から、欧米の新しい芸術運動を知った。しかし、未知の表現も、彼にとって「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」(「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」、『中日新聞』1971年3月13日)と回想しているように、後に独自の抽象絵画にむかう姿勢を、すでにしめしていた。本人の回想によれば、「昭和十三年か、十四年か、」に美術創作家協会に初出品し、「上野の美術館」に自作である「モノクロームの小さい作品」を見るために上京した、としている。(「ふるさと」、『朝日新聞』1961年1月17日)しかしながら、この初出品については、改称する以前の自由美術家協会展の第2回展(同12年)から第4回展(同15年)までの出品目録では確認できず、また改称後に上野で開催された第5回展(同16年)の出品目録は未見のため、確認できていない。戦争中は、三度応召し、戦後の同25年に鈴鹿信用組合理事となり、また美術文化協会会員となった。同28年、鈴鹿信用組合が鈴鹿信用金庫に改組され、その代表理事に就任、同34年まで勤め、その間、昼間は銀行での勤務、帰宅後の夜に制作をする生活がつづいた。同38年、美術文化協会を退会。その後、名古屋、東京、三重県内での個展を毎年開催しながら、制作をつづけた。その独自の抽象表現を築いたのは、1950年代後半からで、乳白色の画面をひっかいた無数の鋭い線によって表現され、ナイーブだが、独特の叙情的な小世界をつくりあげていた。この線を主体にした表現は、その後も一貫して追求され、徐々に評価をたかめていった。同62年から平成2(1990)年まで、愛知県立芸術大学の客員教授をつとめ、翌年には三重県民功労賞を受賞した。歿する直前の同8年1月に、郷里の三重県立美術館において初期から近作にいたる約250点によって構成された回顧展「浅野弥衛展」が開催され、自らの資質に沿いながら制作をつづけてきたこの寡黙な抽象画家の全貌が紹介された。

吉原通雄

没年月日:1996/02/18

読み:よしわらみちお  具体美術協会のメンバーで、現代美術家の吉原通雄は、2月18日午後6時49分、脳内出血のため死去した。享年63。昭和8(1933)年兵庫県芦屋市に生まれ、父は美術家の吉原治良。関西学院大学在学中の同29年、具体美術協会の結成に参加、第1回展から同47年の第21回展まで、毎回出品した。第1回展では、地面にひろげたベニヤ板に、コールタールを流し、上から砂をふりかけ、アスファルト道路をはぎとったような絵画作品を出品した。同33年の大阪で開催された第2回「舞台を使用する具体美術」発表会では、美術と舞踏を融合させた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を演出した。同40年には、オランダとドイツの前衛グループ「ヌル」が主宰するヌル国際展に、具体グループが招かれ、父治良とともにアムステルダムのステデライクミュージアムに赴き、展示にあたった。具体美術協会解散後は沈黙していたが、近年再び活動をはじめていた。

里見宗次

没年月日:1996/01/30

読み:さとみむねつぐ  グラフィックデザイナーの里見宗次は、1月30日午前2時40分、心不全のため奈良県大和郡山市の病院で死去した。享年91。明治37(1904)年11月2日大阪府住吉区に実業家の三男として生まれる。幼少期には長兄の同級生だった小出楢重が里見家に出入りし、その感化を受ける。東京の美術学校受験のため、日本画家の井口華秋に師事するが、フランスより帰国した小出の留学生活を目のあたりにし、パリ行きを決意。大正11(1922)年フランスに渡り、同23年に日本人で初めてエコール・デ・ボザール(パリ国立美術学校)の本科に入学。最初は油絵を学んだが、自活のためショパン広告社、のちフレガット広告社に勤務、商業美術に転じ戦前のパリで「ムネ・サトミ」の名前で活躍する。昭和3(1928)年に制作したゴロワーズのたばこポスターで国際的に注目され、同9年KLMオランダ航空のポスター等、アール・デコ様式の作風を展開、グラフィックデザイナーとしての地位を確立した。12年のパリ万国博覧会で日本国有鉄道のポスターが名誉賞と金杯を受賞。第二次世界大戦で一時帰国、外務省よりタイ・仏印国境画定委員としてサイゴンへ派遣、のちバンコクへ移りそこで終戦を迎える。以後もバンコクに残り、同27年に再び渡仏、制作を行った。同49年勲三等瑞宝章を受章。平成元(1989)年に帰国。作品集に『巴里花画集』(京都書院 平成3年)、著書に『のすどディアマン―ある広告美術家の歩いた道』(昭和56年)がある。

村上三郎

没年月日:1996/01/11

読み:むらかみさぶろう  具体美術協会のメンバーで、神戸松蔭女子学院短大教授の現代美術家の村上三郎は、脳挫傷のため兵庫県西宮市の自宅にて死去した。享年70。大正14(1925)年兵庫県神戸市に生まれ、昭和18(1943)年に関西学院大学に入学した。在学中に応召、戦後に復学し、同大学大学院にすすみ美学を専攻し同26年に修了した。美術については在学中に一時伊藤継郎に師事し、同24年の第13回新制作派展に出品、同29年の第18回展まで毎回出品した。同27年頃、新制作派協会内の先鋭分子とともに「0(ゼロ)会」を結成した。また、同年第5回芦屋市展に出品、平成9(1994)年の第47回展まで毎回出品した。昭和28年、白髪一雄と二人展を開催、このとき吉原治良と初めて出会った。同30年、具体美術協会会員となり、同年の第1回具体展から同47年の第21回展まで、毎回出品した。東京で開催された第1回展では、木枠に張ったハトロン紙の壁を何重にも重ね、身体ごとぶつかり打ち破るパフォーマンスをおこなった。また、同32年の大阪で開かれた第1回「舞台を使用する具体美術」では、ハトロン紙の巨大な屏風を棒をつかって破壊するパフォーマンス「屏風と取組む」をおこなった。具体美術協会での活動のほか、児童画教育にも携わり、平成2年には、神戸松蔭女子短期大学教授となった。

岡本太郎

没年月日:1996/01/07

読み:おかもとたろう  1970年に日本で開催された万国博覧会のシンボル太陽の塔で知られた美術家岡本太郎は1月7日午後3時32分急性呼吸不全のため東京都新宿区の慶応義塾大学病院で死去した。享年84。明治44(1911)年2月26日、神奈川県川崎市に生まれる。父は漫画家の岡本一平、母は歌人・小説家の岡本かの子。大正6(1917)年青山の青南小学校に入学するが教師に反感を持ち1学期でやめ、日本橋の日新学校に入るが、翌年慶応幼稚舎に入学。昭和4(1929)年、慶応普通部を卒業して東京美術学校に入学するが半年で退学。同年、父母が渡欧するのに同行し、翌5年よりパリで一人暮らしを始める。同7年、ピカソの抽象絵画に触発され抽象画を描き始め、同年サロン・デ・シュールアンデパンダンに出品したほか、アプストラクシオン・クレアシオン協会に参加し、アルプ、ブランクーシ、ドローネー、カンディンスキー、モンドリアンらと交遊する。同協会展に「リボン」「コントルポアン」などの抽象作品を次々に発表。同年GLM社から初めての画集『OKAMOTO』が刊行される。同12年、純粋抽象へのあきたらなさも一因となってアプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退する。同13年国際シュールレアリスト・パリ展に「痛ましき腕」を出品して純粋抽象から具象的イメージを取り込んだ画風へと展開。ブルトン、エルンストら、シュールレアリストとの交遊を深めるが、芸術家としての孤独な立場に悩み、パリ大学に入学して哲学、心理学、社会学、民族学などを学ぶ。同14年パリ大学民族学科を卒業。同年ジョルジュ・バタイユを中心にコレージュ・ド・ソシオロジーを設立。同15年、第二次世界大戦の勃発により帰国を決意し、8月に日本に着き、翌16年の第28回二科展に滞欧作を特別陳列する。翌年1月に召兵され同21年6月に復員。美術界が政治・社会の変化に緩慢な対応を示すのを批判し、絵画制作のみならず、文筆活動、講演などを通して広く問題提起を行う。同23年花田清輝らとともに「夜の会」を結成。同27年、縄文土器に衝撃を受け、その後の制作へのひとつの指針を得る。同年11月より翌年5月まで戦後はじめての渡仏。同28年サンパウロ・ビエンナーレ日本代表、翌29年ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表となる。同31年建築家丹下健三設計による東京都庁舎に「日の壁」「月の壁」ほかの登板レリーフによる壁画を完成し、同34年丹下との協力による制作によってフランスの「今日の建築」(ARCHITECTURE D’AUJOURD’HUI)誌の設定した国際建築絵画大賞を受賞する。その後も壁画、モニュメント等、建築と結びついた作品を数多く制作する。同38年フランス、イタリア、アメリカ、メキシコを巡遊。同39年韓国に取材旅行。同42年中南米を訪れる。同年、1970年の日本万国博覧会・テーマ展示プロデューサーに就任。翌年、国際協力要請のためパリ、プラハ、ロンドンを訪れる。同45年、大阪で行われた万国博覧会では、「太陽の塔」「青春の塔」「母の塔」を含むテーマ館を完成し、テーマ館長をもつとめた。同45年大阪そごうで「太陽・生命・歓喜-岡本太郎展」を開催。同50年代に入ると、壁画、モニュメント、タブローの制作のみならず、テレビ、映画への出演、鯉のぼりやレコード・ジャケットのデザイン、文字の画集『遊ぶ字』に見られるレタリングなども行い、多岐にわたる活動によって広く人々に知られるようになった。同53年10月、西宮市大谷記念美術館で「岡本太郎の世界-現代の神話」展が開催され、同月平凡社から全作品集『岡本太郎』が刊行された。また、同55年東京新宿の小田急グランドギャラリーで「挑む-岡本太郎展」が、平成2年生誕地川崎の川崎市市民ミュージアムで「川崎生まれの鬼才 岡本太郎展」が開催されている。著作も多く、主要なものに『アヴァンギャルド芸術』(美術出版社 1950年)、『日本再発見-芸術風土記』(新潮社 1958年)、『岡本太郎著作集』全9巻(講談社 1979-80年)などがあり、画集に『岡本太郎の全貌』(編集・山本太郎 アトリエ社 1955年)、『T.OKAMOTO』(文・瀧口修造 美術出版社 1956年)などがある。没後、岡本太郎美術館が開設されることとなった。 

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