本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





原弘

没年月日:1986/03/26

わが国のグラフィック・デザインの草分けで武蔵野美術大学名誉教授の原弘は、3月26日午前7時、心不全のため東京都新宿の自宅で死去した。享年82。明治36(1903)年6月22日長野県飯田市に生まれ、大正10年東京府立工芸学校を卒業。同校で印刷を学び、タイポグラフィーの研究に従事する。同13年村山知義らの三科公募展に出品。同14年「Die Neue Typographie」を翻訳自費出版する。バウハウスやロシア構成主義に興味を抱き、グラフィック・デザインにおけるエレメントの構成を日本に紹介して日本のモダン・デザインを主導した。昭和5年花王石鹸新製品パッケージ図案指名コンペで採用される。同8年写真家名取洋之助が設立した日本工房に参加。同12年パリ万博、14年ニューヨーク万博の写真大壁画を担当する。16年東方社に参加し、宣伝雑誌「FRONT」の図案、構成に従事。戦後23年より武蔵野美術大学で教鞭をとるほか、日本宣伝美術会中央委員、日本デザインセンター取締役などを歴任した。東京オリンピックのグラフィック計画に参加したほか、書籍装幀にすぐれ、ライプチヒ書籍美術賞のほか、昭和28年には『世界の現代建築』の装幀で文部大臣装幀美術賞を受賞している。著書に『グラフィック・エレメント』などがある。

河本五郎

没年月日:1986/03/23

日展評議員の陶芸家河本五郎は、3月23日午前7時35分、心不全のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年67。大正8(1919)年3月15日愛知県瀬戸市に製陶業を営む柴田重五郎の二男として生まれる。昭和11年愛知県立窯業学校を卒業し、国立陶磁器試験所意匠部伝習生となった。昭和25年染付陶芸家河本礫亭の家を継ぎ河本姓を襲う。また加藤嶺男らと陶芸グループ「灼人」を結成した。28年第9回日展に「草紋花器」が初入選し、同年の朝日現代陶芸展で「灰釉花器」が最高賞を受賞。この頃より磁器から陶器制作へと移る。続いて、33年ブリュッセル万国博覧会でグランプリ、34年カリフォルニア国際博覧会でデザイン賞金賞、35年朝日日本現代陶芸展で最高賞・日本陶磁協会賞、37年第5回新日展で「黒い鳥の器」が特選・北斗賞、40年西ドイツ国際手工芸展特別展で「灰釉壷、三点ユニット」が金賞を受賞するなど、国際的に活躍した。瀬戸の伝統に現代的造形と感性を盛り込み、瀬戸の現代陶芸の代表的作家として活動した。

山本正年

没年月日:1986/03/14

日展評議員の陶芸家山本正年は、3月14日午前0時58分、胃ガンのため千葉県鴨川市の亀田総合病院で死去した。享年73。大正元(1912)年9月20日北海道後志支庁に生まれる。本名同じ。昭和10年東京高等工芸学校工芸彫刻部を卒業、京都国立陶磁器試験場研究生となる。京都市立工業研究所、京都市立第二工業学校窯業科などに勤務しながら、昭和15年京都山科の辻晋六工房に入り作陶生活を始めた。23年千葉県安房郡富山町に築窯し、28年第9回日展に「花生」が初入選し、31年第12回日展で「花生踊」が特選を受賞する。32年第13回日展に「花器」を無鑑査出品し、33年第1回新日展に「パネル踊り」を委嘱出品。また、国際陶芸展、日本陶芸展にも第1回より招待出品したほか、日本の現代工芸の外国展にもしばしば出品した。71年文化使節として9ケ国を歴遊している。35年日展会員となり、また光風会や千葉県美術協会の理事、評議員などもつとめた。

石本秀雄

没年月日:1986/03/09

日展参与、佐賀大学名誉教授の洋画家石本秀雄は、3月9日心不全のため佐賀市の県立病院好生館で死去した。享年77。明治41(1908)年12月8日、長崎県西彼杵郡に生まれる。昭和3年長崎東山学院中学を卒業し東京美術学校師範科に入学、同5年一九三〇年協会第5回展に「我が家」他で入選、翌6年美校図画師範科を卒業した。同年、佐賀県立小城中学校に赴任し、以後教鞭をとる。同9年第2回東光会展に「冬の女」他を出品しK氏奨励賞を受賞、また第15回帝展に「校庭の春」で初入選した。同13年東光会会員、同18年からは佐賀師範学校で教え、同24年新制佐賀大学発足にともない教育学部教授となる。戦後は東光会展、日展に制作発表し、同26年第7回日展に「画家の家族」で特選、朝倉賞を受け、同35年には改組第4回日展に「対話」で菊華賞を受賞、同38年日展会員となった。この間、佐賀大学教育学部に特設美術科を開設することに尽力する。同43年には佐賀美術協会理事長に就任。同49年、佐賀大学を停年退官し名誉教授の称号を授与された。後年は男性的な力強い筆触による一連の風景画に独自の造形力を発揮し、「熔岩桜島」(昭和52年)、「桜島晩夏」(同58年)、「黒神雨後」(同59年)などの作品がある。佐賀新聞文化賞、西日本文化賞なども受賞した。

阪本文男

没年月日:1986/02/26

モダンアート協会会員の洋画家阪本文男は、2月26日午後零時5分、肺ガンのため川崎市の市立川崎病院で死去した。享年51。昭和10(1935)年2月14日、東京都港区に生まれる。19年に新潟県柏崎市に疎開し、同28年柏崎高校を卒業するまで居住。高校在学中絵画部に入り油絵を始め、同校で教鞭をとっていた国領經郎に学ぶ。29年東京芸術大学油画科に入学し、小磯良平教室に学んで33年卒業。34年第9回モダンアート協会展に「記号」で初入選。36年同会会友、38年会員となる。初期から抽象画を描いたが、この頃より人体の一部が幾何学的にモティーフの中に組みこまれる「ヘルマフロディトス」の連作を始め、42年国際青年美術家展に「ヘルマフロディトス-青い帯」を出品してストラレム優秀賞第一席を受賞。43年より安井賞展、現代日本美術展にも出品する。45年頃より水色を背景とし、紙のしわや乾いた花・果物、剥製の鳥などをモティーフとする独自の画風を展開。「アリスの遊び」「バラの座」などのシリーズを制作、発表する。58年、代表作となった「余白の系」を制作するが、59年に肺ガンで入院して以後入退院をくりかえしていた。枯れゆくものの中に存在の本質の顕在化を見出し、明快で乾いた幻想的作風を示した。没後の63年4月横浜市民ギャラリーで「阪本文男回顧展」が開催された。

山本丘人

没年月日:1986/02/10

日本画革新運動の旗手として知られ文化勲章受章者の日本画家山本丘人は、2月10日午後10時50分、急性心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年85。明治33(1900)年4月15日東京市下谷に生まれ、本名正義。父昇は東京音楽学校事務官だった。上野桜木町に育ち、大正4年東京府立第3中学校から東京府立工芸学校に転入する。7年第1回国画創作協会展を見て日本画を志し、8年卒業後、東京美術学校日本画科に入学。松岡映丘に師事して大和絵を学び、2年生より日本画科選科に移った。13年同科を卒業、映丘の木之華社に入り、新興大和絵運動に加わる。昭和2年第7回新興大和絵会展に「画人の像(松岡映丘)」が入選し、4年同第9回展で「五月雨」が新興大和絵賞を受賞。同会会友となった。この間、昭和3年第9回帝展に「公園の初夏」が初入選、以後帝展に入選を続け、11年の文展鑑査展で「海の微風」が選奨となる。また5年より丘人と号し、7年銀座資生堂ギャラリーで初の個展を開催。6年新興大和絵会の解散後、9年杉山寧ら映丘門下の同志と瑠爽画社を結成し、13年の解散まで展覧会を行なった。18年には川崎小虎を中心とする国土会の結成に参加する。19年奥村土牛とともに東京美術学校日本画科助教授となり、同年第4回野間美術賞を受賞。戦後22年には女子美術専門学校教授(26年まで)となった。また日展で審査員をつとめたが、23年上村松篁、吉岡堅二らとともに創造美術を結成、「世界性に立脚する日本絵画の創造」を目指す。24年第2回創造美術展出品作「草上の秋」により、翌25年第1回芸能選奨文部大臣賞を受賞した。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品し、さらに49年日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、同会に出品した。36年第25回新制作展「夕焼け山水」、38年第27回「異郷落日」、39年第28回「雲のある山河」などダイナミックで骨太な風景画から、次第に、45年第34回「狭霧野」、49年第1回創画展「流転之詩」、51年第2回春季創画展「残夢抄」など、再び大和絵的な優美な感性の作風へと移行した。また、未更会、五山会、椿会、遊星会などへの出品のほか、26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、27年第1回日本国際美術展、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレなどの国際展にも出品。34年にはフランス、イタリア等を巡遊している。39年「異郷落日」により日本芸術院賞を受賞し、52年には文化勲章を受章した。32年ブリヂストン美術館、39年日本橋高島屋、47年渋谷東急で個展を開催、没後62年横浜そごう美術館で遺作展が行なわれた。

大樋長左衛門

没年月日:1986/01/18

大樋焼9代目窯元で日本工芸会会員の大樋長左衛門は、1月18日午前3時44分、心不全のため石川県河北郡の金沢医科大学付属病院で死去した。享年84。明治34年3月20日石川県金沢市に、大樋焼窯元の家に生まれる。雅号芳土奄、陶土斎。昭和2年父長左衛門(宗春)より業を継ぎ、9代目長左衛門を襲名する。中国、朝鮮半島の窯跡を訪ねて古陶を研究し、釉薬の改良などにつとめる。日本伝統工芸展に出品し、日本工芸会会員として活躍、抹茶碗の名人として知られた。長男の大樋年朗も日展理事の陶芸家。

梅原龍三郎

没年月日:1986/01/16

昭和洋画の巨匠、文化勲章受章者の梅原龍三郎は、1月16日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。故安井曽太郎とともに昭和洋画界の双壁をなし、恵まれた資質が自ら成熟し豪華絢爛たる独自の芸術境を拓いた梅原は、明治21(1888)年3月9日、京都市下京区に、染呉服業を営む梅原長兵衛の子として生まれた。兄姉は七・八名いたというが多くは早世し、事実上次男、末子であった。はじめ龍三郎、のち良三郎と改め、26歳のとき再び龍三郎を名のった。同36年、京都府立第二中学校を三年で中退し、伊藤快彦の画塾鐘美会で洋画の手ほどきを受け、同年聖護院洋画研究所設立にともない鐘美会も併合されたため、同研究所、さらに同39年創設の関西美術院を通じ安井曽太郎らとともに浅井忠の指導を受ける。同41年田中喜作とともに渡欧し、パリのアカデミー・ジュリアンでバッセの教室に通うが、到着早々その作品に接し感動したルノワールを、翌年カーニュに訪れ以後師事した。同年、ルノワールに勧められブルターニュに赴き、同地で斉藤豊作、和田三造と交友、秋からはアカデミー・ランソンに通った。同44年ピカソを知りそのアトリエを訪問、また、プラド美術館でティツィアーノ作品の自由模写などを行う。翌45年から帰国直前にかけて盛んに制作した。大正2年、ルノワールの影響を示す初期の代表作「首飾り」を制作し帰国。同年、白樺社主催で梅原良三郎油絵展覽会をヴィーナス倶楽部で開催、滞欧作110点他を出品し画壇に大きな衝撃を与えた。翌3年二科会創立に会員として参加、また、新設された巽画会洋画部の審査員をつとめる。その後、一時画風を模索したが、同5年作の「ナルシス」あたりで独自の画風をつかんだ。同6年二科会を退会。同9年再渡欧し、サロン・ドートンヌのルノワール回顧展に接した。翌年帰国後鎌倉市に居住し、長与善郎、岸田劉生との親交をはじめる。同11年春陽会創立に会員として参加したが、同14年劉生の意見に同調し春陽会を脱会、翌年川島理一郎らと国画創作協会に入り第2部(洋画部門)を創設し、さらに昭和3年同協会第1部(日本画)解散にともない、国画会を結成し主宰するに至った。同8年、後藤真太郎が組織した清光会に安井らと会員として参加し、以後同展へも出品する。同10年、帝国美術院会員(12年帝国芸術院会員)となり、同19年には東京美術学校教授に就任、また、帝室技芸員に任じられた。この間、同8年から台湾、鹿児島、同14年に北京をはじめて訪れ、とくに北京へは同17年まで5回赴き、国画会展に「桜島(青)」(10回)、「竹窓裸婦」(13回)、「雲中天壇」(15回)、「北京秋天」(18回)など戦前の代表作を発表した。戦後は、同21年の第1回日展審査員をつとめたが、翌年から国画会の日展不参加を表明した。また、同26年には国画会名誉会員となって会の運営から離れた。翌27年安井とともに東京美術学校を退官、同年共に文化勲章を受章する。同年、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ展の国際審査員をつとめた。戦後間もなくから、富士と浅間を題材にとりくみ、琳派や南画の伝統を摂取した豊かな装飾性と自在なフォルムによる、生命感あふれる絢爛たる画風を展開、安井の写実主義との画風の対照を示しながら、安井・梅原時代を築きあげた。同31年第30回国画会展に久しぶりに出品し、絵具をチューブから絞り出し直接描く手法をみせ話題を呼んだ。同32年、前年作「富士山図」で第27回朝日文化賞を受賞。一方、同年日本芸術院会員を辞任した。日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回から出品し、また、同27年以来しばしば渡欧し、ヴェニスやカンヌの景観を好んで描いた。同44年東京国立近代美術館へ自作「自画像」など14点を寄贈、同48年にはフランス政府からコマンドール勲章を授与され、翌年、ルノワール作品ほかの愛蔵品を国立西洋美術館などに寄贈した。同35年の画業50年記念回顧展をはじめ、多くの回顧企画展が開催され、画集も数多く刊行された。同59年、文集『天衣無縫』を出した。没後自筆の遺言状が明らかにされ、「葬式無用弔問固辞する事 梅原龍三郎 生者は死者の為に煩わさるべからず」とあった。この遺言に従い公的な葬儀、告別式は行われず、1月18日午後1時から東京都新宿区の自宅で冥福を祈る集いが行われた。また、遺作の管理、遺作展の開催などについては、故人の遺志により河北倫明に一任され、昭和63年3月初期から晩年までの作品187点による梅原龍三郎遺作展が東京国立近代美術館で開催された。

渡辺素舟

没年月日:1986/01/16

東洋文様史研究の先駆者で、多摩美術大学名誉教授の渡辺素舟は、1月16日午前7時30分、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年95。明治32(1899)年11月16日、愛知県西春日井郡に生れる。大正5(1916)年3月、東洋大学専門部国漢文科を卒業後、昭和6(1931)年には帝国美術学校講師、同9年からは多摩帝国美術学校教師となり、工芸史を講ずるとともに東洋工芸史に関する研究を発表した。また、同14年に東京高等工芸学校講師となり、同19年には東亜同文会嘱託となった。同23年からは多摩造形芸術専門学校教授、同28年、同校が4年制の多摩美術大学として発足するにともない同大学教授となり、同40年3月定年退職するまで工芸史を講じた。この間、同30年からは東京都文化財専門委員をも勤め、また、同36年9月には東洋文様史研究に対して文学博士の学位を受けた。 主要な著書を刊行順に記す。『日本の工芸美術』(図案工芸社、昭和2年)『支那陶磁史』(中央出版社、同4年)『図案の美学』(アトリエ社、同7年)『日本工芸史』(厚生閣、同13年)『平安時代国民工芸の研究』(東京堂、同18年)『東洋図案文化史の研究』(冨山房、同26年)『東洋文様史』(冨山房、同46年) この他に、定期刊行物「塔影」、「美之国」、「美術新報」などを中心に、昭和20年頃までは多数の論考、展覧会評を発表した。晩年は日本工芸会評議員を永くつとめた。

吉村貞司

没年月日:1986/01/04

美術評論家で杉野女子大学教授の吉村貞司は、1月4日肺炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。本名弥吉三光。明治41(1908)年9月24日福岡県に生まれる。昭和6年早稲田大学独文科を卒業後、東京社、武侠社(のち婦人画報社)に入り『婦女界』などの編集長をつとめる側ら、詩作、評論活動を展開する。同10年文芸雑誌『翰林』同人となり、同誌上に小説や翻訳を発表する。また、日本伝統研究所をおこし、『伝統』を創刊した。同15年『近代文学と知性の歴史』を刊行。戦後は『新婦人』編集長となり歴史文学運動を展開する。同33年東京造形美術学校教授となり、のち杉野女子大学教授に転じ日本美術史を講じた。この間、美術評論、とりわけ現代日本画の評論を始め、日本画の改革をめざす主張に呼応した画家たちによる有明会、野火展、始原展などの結成に関与した。主著に『東山文化-動乱を生きる美意識』(昭和41年)、『日本美の特質』(同51年)などがあり、『吉村貞司著作集』(全8巻、同54~55年)が刊行された。

井手則雄

没年月日:1986/01/03

元宮城教育大学教授の彫刻家、詩人、井手則雄は、制作と静養のために滞在中であった福島県双葉郡富岡町小浜の小浜海岸で不慮の事故のため1月3日午後2時ころ死去した。享年69。大正5(1916)年8月25日、長崎県北松浦郡に生まれる。則雄とも号す。昭和9年東京開成中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科塑造部に入学。14年同校を卒業して同研究科に進学する。16年同科を修了して同校セメント美術研究室助手となる。この間、同12年第24回二科展に「窄き門」で初入選。翌13年より構造社展に出品し、14年第12回同展に「亡友Wへの供奉」を出品して研究賞受賞、翌年も同賞を受賞して会友に推され、16年にも研究賞を受賞する。17年美術文化協会に参加。戦後は21年日本美術会の創立に参加。22年には前衛美術会の創立に参加する。27年、戦時中海軍兵として綴った詩集『葦を焚く夜』を出版。34年より鉄彫刻の制作を始める。48年より56年まで宮城教育大学美術科教授をつとめ、美術教育にたずさわる一方、制作、評論、詩作と多岐にわたって活動する。著書に『美術のみかた』(昭和35年 酒井書店)、『西洋の美術』(38年 筑摩書房)、『現代彫刻入門』(44年 造形社)、詩集『終らないもの』(45年 昭森社)などがある。

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