本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





鷹巣豊治

没年月日:1962/04/16

東京国立博物館調査員、東洋陶磁会理事鷹巣豊治は、4月16日久留米市に出張中、脳内出血のため急逝した。享年71。明治23年11月20日佐賀県西松浦郡に生まれ、有田工芸学校陶画本科に学んだ。のち東京美術学校日本画本科に入学し、大正5年3月卒業、さらに研究科に学んだ。その後日本画家として自活するかたわら、板谷波山の作陶をたすけた。同14年4月東京帝室博物館雇員となり、美術課に勤務して以来、終生同館に勤務した。昭和6年5月鑑査官補、同15年2月鑑査官となった。同22年国立博物館官制の制定により文部技官に任ぜられた。同29年3月東京国立博物館学芸部美術課長となり、同30年11月に至った。この間、ハワイのホノルル美術館で開催の日本古美術展に出張した。同33年4月本官を辞し、以後調査員として在職した。帝室博物館入館以来、同館の模本の調査にあたり、これを整理した功績は大きい。絵画史、陶磁史に造詣深く、著書に「柿右衛門・鍋島」(昭和36年平凡社)がある。また晩年には陶画にも手を染めた。

龍村平蔵〔初代〕

没年月日:1962/04/11

織物研究家龍村平蔵は4月11日午前7時15分、急性肺炎のため兵庫県宝塚市の自宅において死去した。享年85才。明治9年、浪花の富豪平野家の分家に生まれたが、17才ごろ親達を説得して呉服の行商をはじめ、次いで西陣で仕入見習をし、繻子の営業を行った。明治38年、西陣に龍村製織所を設立、所謂龍村織物美術が発足した。以後、独自の織物技術を研究、高浪織、ゴブラン織、絞結織などの美術織物の創作を行い、また古代織物の研究や模造の類(名物裂の複元模造に優作)も製作した。昭和31年2月染織工芸に与えた業績」で日本芸術院恩賜賞を受賞、33年紫綬褒章を受けた。

児島善三郎

没年月日:1962/03/22

独立美術協会会員児島善三郎は、3月22日、肝臓癌のため千葉市の額田病院で没した。享年69。葬儀は、同26日独立美術協会葬として東京築地本願寺で行われた。明治26年福岡市に生まれ、県立中学修猷館を卒業後、長崎医学専門学校薬学科に入学した。しかし、大正2年春中途退学し、画家を志して上京した。本郷絵画研究所に一時学んだが、後は独学であった。間もなく病を得て帰郷、長い闘病生活を経て大正9年再び上京した。大正10年二科展に初めて入選、翌年の第9回二科展に「裸女」等を出品して二科賞を受けた。大正13年渡欧、パリに於いて研究をつづけ、またスペイン、イタリアを巡歴した。昭和3年帰国し、秋の第15回二科展に「横臥」「立てるソニヤ」「鏡」などの滞欧作22点を出品して認められ、二科会会友に推された。昭和5年には会員となったが、11月里見勝蔵、中山巍らと二科会を脱退して独立美術協会を創立した。その後は、終始同会の中心的作家として同会の発展につくすと共に、多くのすぐれた作品を発表した。殊に、戦後の活躍は目覚ましかった。留学中の初期には、西洋古典の研究につとめ、量感の把握を志したが、帰國後の中期には日本的な油彩画の樹立を唱え、思い切ったデフォルメと線の使用によって独自の画風を示した。晩年には桃山美術や琳派などの大らかさと柔潤、華麗な色調をとり入れ、格調の高い作品を数多く生んだ。中にも「アルプスへの道」「春遠からじ」「ダリヤ」「熱海」「箱根」「森と聚落」等はすぐれている。略年譜明治26年 2月13日福岡市の紙問屋児島善一郎の長男として生まれる。明治45年 3月福岡県立中学修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科に入学する。大正2年 長崎医学専門学校を中退し、画家を志して上京、駒込の染井に住む。大正3年 岡田三郎助の本郷絵画研究所に通学し制作研究に励んだが、過労のため病をえて翌年帰郷する。大正9年 5年間の闘病生活が続いたが、病気が恢復した後、再び上京して板橋に居を定め、制作を始める。大正10年 9月第8回二科会展に初入選「裸女」「十一月風景」「早春の下板橋附近」「雪景」「麻繰工場ある風景」「早春の池畔」を出品大正11年 3月平和記念東京博覧会に「肖像」を出品し、褒状を受ける。4月流乙荘に個展を開く、9月第8回二科会展に「裸女」「代々木風景(冬)」「春近き郊外」「浅き春」「横臥像」を出品し、二科賞を受ける。この年、代々木にアトリエを建てた。大正12年 9月第10回二科会展に「花を持てる女の立像」「窓外早春」を出品。このころ基礎的な研究に専念するため外遊を決意する。大正13年 3月門司出帆の鹿島丸で宿望の渡欧の途に就く。パリにアトリエをかまえ、制作するかたわら日本に作品を送り発表した。当時フランスには、海老原喜之助、高畑達四郎、前田寛治、佐伯祐三等がいた。9月に第11回二科会展に「丘上の家」「曇日薄暮」を出品した。在仏中スペイン、イタリア、ベルギー、イギリス、ドイツの各地を旅行。大正14年 9月第12回二科展に「堰のある風景」「ロアン河畔」を出品。昭和3年 父死去の報に接し、やむなくシベリア経由で帰国。9月第15回二科会展に「立てるソニヤ」「横臥」「南仏風景」等滞欧作22点を特別出品した。昭和4年 9月第16回二科会展に「パノラマ」「六月」「審判の前」「臥す」「立つ」「目」「粧」を出品。昭和5年 9月第17回二科会展に「5人の女」「立」「目」「桜」等を出品し、二科会会員に推される。11月二科会を脱し、林重義、里見勝蔵、林武、高畠達四郎、三岸好太郎、川口軌外、小島善太郎、中山巍、鈴木保徳、伊藤廉、清水登之、福沢一郎、鈴木亜夫等と共に独立美術協会を創立。昭和6年 1月第1回独立美術協会展に「独立美術首途(第二の誕生)」「横臥」「青いソファ」「赤い背景」「長椅子の上に」「立像」「プロフィル」「黄色のソファ」「二月郊外」「五月」「山水」「女の顔(彫刻・A)」「女の顔(彫刻・B)」を出品、9月第1回独立美術協会秋季展に「紅衣の婦人」他を出品。昭和7年 3月第2回独立美術展に「臥女」「庭の雪」「春を待つ庭」「サンルームの見える裸体」「無衣の女」「青空」「首飾りと女」「座したる女(神体)」「肖像」を出品。昭和8年 3月第3回独立美術展に「鏡」「春」「雲る上高地(徳本峠)」「新春の庭」「朝の庭」を出品。昭和9年 3月第4回独立美術展に「山麓の秋」「初秋」「松ケ丘」「赤松の丘」「雪後」「山嶺秋」「庭(秋の午後)」を出品。昭和10年 3月第5回独立美術展に「山路」「滝壷」「庭の松」「老松」「庭の初春」「代々木の原」「瀬戸風景」を出品。昭和11年 代々木から国分寺に居を移す。3月第6回独立美術展に「岩と松」「瀬戸の風景」「初夏の池」を出品。昭和12年 3月第7回独立美術展に「渓流.A」「渓流.B」「残雪」「松」を出品。昭和13年 3月第8回独立美術展に「箱根峠」「山湖」「菊」「箱根」「ダリヤ」を出品。資生堂画廊において個展を開催。昭和14年 3月第9回独立美術展に「富士清郎」「風景」「蓮花」「春待つ農家」「東風」を出品。昭和15年 3月第10回独立美術展に「菊」「武蔵野」「ダリヤ」「涼風」を出品。昭和16年 3月第11回独立美術展に「ダリヤ」「菊」「箱根秋晴」「寒空」「虞美人草」を出品。昭和17年 3月第12回独立美術展に「箱根秋晴」「夏草」「菊」「早春」「菊」を出品。昭和18年 3月第13回独立美術展に「静波」「あねもね」「厳冬」「ダリヤ」「岬」を出品。昭和19年 2月第14回独立美術展に「秘園」「菊」「富士早春」を出品。昭和22年 4月第15回独立美術展に「菊花」「M氏像」「雪景」「立春」「熱海の桜」を出品。昭和23年 5月第2回美術団体連合展に「満開」出品、10月第16回独立美術展に「牡丹」「青田」「アネモネ」「ダリヤ」を出品。昭和24年 5月第3回美術団体連合展に「早春」を出品、10月第17回独立美術展に「静物」「ダリヤ」「静物」「虞美人草」「静物」を出品。昭和25年 3月第1回秀作美術展に「壷のある静物」を出品、5月第4回美術団体連合展に「花」「春遠からじ」を出品、10月第18回独立美術展に「夏山」「静物」「立秋」を出品。昭和26年 荻窪にアトリエを新築し、国分寺から移る。1月第2回秀作美術展に「花」「春遠からじ」を出品、5月第5回美術団体連合展に「緑の丘」を出品、10月第19回独立美術展に「老松」「アルプスへの道」を出品。昭和27年 1月第3回秀作美術展に「アルプスへの道」を出品、5月第1回日本国際美術展に「芦之湖秋暉」を出品、10月第20回独立美術展に「高原」「百合」を出品。昭和28年 9月国立公園絵画展「東京・日本橋三越」に「発哺よりの展望」を出品。10月第21回独立美術展に「ダリヤ」「立雲」「犬吠岬」その他約15点を出品。昭和29年 1月第5回秀作美術展に「ミモザと百合その他」を出品、10月第22回独立美術展に「百合」「カイウと麒麟草」「トリトマ、虞美人草など」を出品。昭和30年 1月第6回秀作美術展に「カイウと麒麟草」を出品、5月第3回日本国際美術展に「橋」を出品、10月第23回独立美術展に「女と花」を出品。昭和31年 5月第2回現代日本美術展に「雪柳と海芋と波斯の壺」を出品、10月第24回独立美術展に「座像」を出品。昭和32年 1月第8回秀作美術展に「雪柳と海芋と波斯の壺」を出品、5月第4回日本国際美術展に「熱海」を出品。10月第25回独立美術展に「熱海夜景」「婦人座像」「熱海夜景」を出品。昭和33年 1月第9回秀作美術展に「熱海夜景」を出品、1月ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「ミモザの花とその他」「山湖」「アルプスへの道」を出品、2月第2回国際具象派美術展に「箱根」を出品、10月第26回独立美術展に「花」「少女座像」「聚落と森」を出品。昭和34年 1月第10回秀作美術展に「聚落と森」を出品、10月第27回独立美術展に「青衣」「熱海」「花」を出品、10月朝日新聞社主催により東京銀座松屋において児島善三郎自選展を開催、「新緑」「5人の女」「独立美術首途(第二の誕生)」「春遠からじ」「アルプスへの道」「犬吠岬」「聚落と森」など絵画100点彫刻2点計102点を出品する。昭和35年 1月第11回秀作美術展に「花」を出品、5月第4回現代日本美術展に「伊豆山早春」を出品、5月東京、日本橋画廊において、児島善三郎新作展を開催、「薔薇(ペルシャの壺)」「早春山麓」「早春(梅)」「芦之湖の秋」「花」「熱海」「熱海山手」「早春山荘」「熱海(雲)」等32点を出品、10月第28回独立美術展に「ダリヤ」「コッポ編のスェーター」を出品。昭和36年 1月第12回秀作美術展に「熱海」を出品、10月第29回独立美術展に「西伊豆」を出品する。この頃再び渡欧を決意、病身を完全に直す事に専念、2月療養のため千葉県稲毛町の額田病院に入院する。昭和37年 1月第13回秀作美術展に「西伊豆」を出品。3月22日午前10時25分、額田病院に未完の絶筆「花」「婦人像」「バラ」等を残して、肝臓癌のため逝去す。

吉田三郎

没年月日:1962/03/16

彫塑家、日本芸術院会員、日展常務理事の吉田三郎は、3月16日午前1時50分脳出血のため東京都北区の自宅で急逝した。享年72歳。明治22年5月25日石川県金沢市に生まれ、明治40年3月、石川県立工業学校を経て東京美術学校彫刻科に入学、同45年3月、同校を卒業した。同期生には後の芸術院会員の北村西望や故建畠大夢があった。在学中の第4回文展(明治43年)に「たちんぼ」が初入選し、次に第6回文展と第8回文展、以後帝展、新文展・日展を通じて連続作品を発表した。また大正11年平和記念東京博覧会審査員となり、第4回帝展審査員以来、没前まで審査委員を歴任すること20余回に及び、恐らく審査委員をつとめた回数では官展史上の記録保持者となろう。数多くの作品発表のうち、文展最後の第12回展に初特選となった出世作の「潭」や、大正8年第1回帝展で唯一の特選に挙げられた「老坑夫」は大正期随一の名作として彼の名を高からしめている。作風は、初期から「実体を確実に掴もう」という徹底した写実態度を示し、それがまた終始一貫、吉田芸術を特色たらしめる基盤をなすものであり、明治末から大正中期にかけて、若い彫塑家たちの心を揺さぶったロダンやコンスタンタン・ムニエの芸術への傾注は避け難いことであったようで、殊に彼の場合はムニエの造型性への心酔の度が高かったようにみられる。それは「老坑夫」においても一見して感じられることであり、主題として好んで選ばれる男性の像、それも年輪を重ねた老人や労働者の姿態が多い点でも、更に人体造型の解釈、肉付の問題でもその傾倒が顕著に窺われることである。しかしそれは漸次渾然溶融されて東洋的な静寂をたたえた吉田独自の作風を確立した。尚、上述以外の主な関係事蹟を列記すると、明治45年東京美術学校彫刻科本科卒業。大正7年第12回文展「潭」特選。同8年第1回帝展「老坑夫」特選。同9年10月帝国美術院推薦。大正10年帝展第3部審査員以後・文・日展審査員22回。同12年同志と美術団体白日会創立。昭和6年4月文部省在外研究員を命ぜられ古代彫刻研究のため1ケ年間ヨーロッパ視察。同10年多摩美術短期大学彫刻部主任。同22年東京都美術館参与。同23年東京教育大学芸術学科講師。第4回日展出品の「潮騒」が文部省買上げとなる。同25年第5回日展の「男立像」で24年度日本芸術院賞を受く。同29年第2回アジア芸術オリンピックに日本芸術代表としてマニラに赴く。同30年日本芸術院会員となる。同31年より日本体育協会スポーツ芸術部理事。日本彫塑家倶楽部委員長。同33年社団法人日展常務理事。文部省より昭和33年度文化勲章並びに文化功労受章者選考委員を命ぜらる。

正宗得三郎

没年月日:1962/03/14

二紀会委員正宗得三郎は、脳軟化症のためかねて療養中であったが、3月14日東京都府中市の自宅で逝去した。享年79。明治16年8月22日岡山県和気郡に生まれた。画号薇洲、春江、扇浦。同35年上京して暫くの間寺崎広業に日本画を学んだが、同年9月東京美術学校西洋画科撰科に入学し、同40年3月卒業した。同級生に山本鼎、森田恒友があり、上級に青木繁がいた。青木とは生活を共にし、その死後、蒲原有明とはかって遺作展を開き、また遺作集「青木繁画集」を編集、刊行した。はじめ白馬会や文展に出品したが、大正2年には文展の二科設置運動に加わり、同3年二科会の結成をもたらした。同4年二科会会員となった。これより前、同3年4月ヨーロッパに遊学し、モネ、ルノアール、ゴッホを学び、さらにマチスを知った。同5年7月帰国し、この年の第3回二科展に「トックの女」「リモオジュの朝」など36点の滞欧作を特別出品して視聴を集めた。同10年9月再び渡欧、同13年1月帰国、第11回二科会展に「アトリエ」「モレーの運河」「セーヌ支流」などの滞欧作を特別出品し、その新鮮な色調でその存在を強く印象づけた。以後昭和18年まで二科会会員として出品をつづけたが、その時の作品に「海岸の夕暮」(第7回展)、「青衣婦人」(第12回展)、「赤い支那服」(第14回展)、「初秋」(第20回展)、「瀬田の唐橋」(紀元2600年展)などがある。昭和22年黒田重太郎、鍋井克之、宮本三郎らと第二紀会を結成し、委員の長老として重きをなした。はやくから富岡鉄斎に傾倒し、その作品の感化を受けたが、鉄斎研究家としても屈指の人で、病臥中に多年の成果である「鉄斎」が出版された。このほか多くの著作がある。また昭和38年には「正宗得三郎画集」が平凡社から刊行され、この画家のほぼ全貌をうかがうことが出来る。畧年譜明治16年 8月22日岡山県和気郡の正宗浦二の三男として生まる。長兄忠夫(白鳥)は文学者、次兄敦夫は国文学者として知られる。明治35年 上京して寺崎広業の天籟画塾に入り日本画を学んだが、9月東京美術学校西洋画科撰科に入学。明治40年 東京美術学校を卒業。明治42年 第3回文展に初めて「白壁」入選。明治43年 高村光太郎の琅玕洞で第1回個展を開く。第4回文展に「夕日の反映」入選、白蔦会展に「落椿」を出品。この頃印象派に共鳴する。11月結婚して西大久保に住む。明治44年 第5回文展に出品したが落選、同志と落選展を開く。大正2年 大阪で個展。文展の二科設置運動に加わる。大正3年 4月フランスに留学、マチスに会う。大正4年 二科会会員となる。大正5年 7月欧洲大戦のため島崎藤村と同船で帰国、牛込矢來町に住む。第3回二科展に滞欧作36点を特別出品。大正6年 この頃から大正10年まで文化学院で指導にあたる。また富岡鉄斎と知り、屡々訪問するようになった。日本美術学院から「画家と巴里」出版。渋谷へ移転。大正7年 11月東中野にアトリエを新築して移る。大正10年 9月再渡欧。大正13年 6月帰国。大正14年 第12回二科展に「青衣婦人」を出品。アルスより「画家の旅」「マチス」を刊行。大正15年 この年から昭和7年まで成城学園で教鞭をとる。昭和2年 第14回二科展に「赤い支那服」出品。昭和18年 第30回二科展に「正宗得三郎回顧陳列」として1室を設け「菊」、「山間の六月」、「四万川」、「瀬田の唐橋」等25点を陳列。美術工芸会から「正宗得三郎画集」、人文書院から「ふる里」を刊行。昭和20年 東中野のアトリエを戦災で失い、長野県下伊那郡に疎開した。昭和21年 日本美術展に「山村風景」出品。昭和22年 4月黒田重太郎、中川紀元等と第二紀会を結成、9月東京都美術館に第1回展を開く。昭和23年 東京へもどる。昭和24年 1月、西府村に移る。9月肉腫に侵され、奇蹟的に回復。昭和25年 第4回美術団体連合展に「小菊」出品。昭和28年 5月白木屋で個展。8月高島屋で鉄斎展、9月「鉄斎百扇」を摸写。昭和30年 中里介山の「大菩薩峠」(河出書房版)に挿絵をえがく。12月府中へ移転。昭和32年 御嶽に大菩薩峠碑文(文は白井喬二)を書く。昭和36年 樋口一葉の肖像をえがく。11月脳軟化症のため臥床。12月多年の研究の成果たる「鉄斎」が平凡社より刊行さる。昭和37年 3月14日逝去。享年79才。

幸松春浦

没年月日:1962/03/06

日本画家幸松春浦は、3月6日死去した。享年61才。本名猪六。明治30年6月30日大分県大分市に生まれた。小室翠雲、姫島竹外に師事し、第2回帝展に初入選以来連年出品をつづけ、第7回、第8回では特選になった。昭和3年無鑑査となり、戦後日展には依嘱として出品した。中国、朝鮮等を巡迴し、主な作品に「秋思」「雪路」「老子」「旅愁」等がある。

小泉清

没年月日:1962/02/21

明治33年小泉八雲の三男として東京に生れた。大正12年東京美術学校を中途退学し、以後独学で洋画を学び昭和21年読売新聞社主催第1回新興美術展で読売賞を得、翌22年最初の個展をひらいた。23年梅原龍三郎の推せんで第2回一燈美術賞をうけ、29年、国画会に会員として迎えられ、初めて美術団体に所属することになった。新樹会展、新しき村展にも出品したことがあり終始フオーヴィスムの仕事をすすめていた作家であった。昨年11月、夫人は心臓麻痺で逝き、芸術上の苦悶や、更に病弱などが、彼を自殺にみちびいたものと思われる。享年62才。

横江嘉純

没年月日:1962/02/14

彫塑家、日展評議員の横江嘉純は、かねて肝臓疾患で療養中のところ肺炎を併発して、2月14日午後9時50分東京都目黒区の自宅で死去した。享年74歳。明治20年5月3日富山県婦負郡に生まれ、明治39年3月京都美術工芸学校を卒業後、さらに東京美術学校彫刻科の専科に入学、大正3年3月同校を卒業した。大正7年文展初入選ののち同15年に特選、昭和2年帝展に発表した「大乗」で帝国美術院賞をうけた。昭和4年帝展審査員をつとめており、文展、日展でも審査員を歴任し、終始官展系作家として重きをなした。昭和5年12月より1年3ケ月、同11年2月より半年、研究のため渡欧し欧州各地の彫刻を見学した。戦後は日展に参加し、昭和26年文部大臣賞を受賞するなど、日展参事、新日展評議員として斯界の重鎮であった。主要作には「大乗」「望洋」「母と子」等があるが、象徴寓意的な特色ある作風を示した。昭和30年11月、東京駅中央口前広場に建立された「愛の像」の制作者としても著名である。

北村明道

没年月日:1962/01/28

日本画家北村明道は1月28日、食道ガンのため逝去した。享年66才。本名延蔵。明治29年1月5日、群馬県高崎市に生れた。昭和2年第8回帝展に「御園生の春」が初入選となり、翌年第9回展に「あかつき置き」が入選、以後帝展、文展、戦後は日展に出品をつゞけていた。日月社の委員で、また郷里の群馬県美術運営委員などもつとめていた。中国に2回旅行し、歴史、風俗研究に興味をもっていた。代表作に日蓮上人一代絵巻がある。

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