本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





岡本綺堂

没年月日:1939/03/01

帝国芸術院会員岡本綺堂は3月1日病気のため逝去した。享年68歳、本名敬二、東京の生れで、戯曲、小説、随筆に多数の著作がある。

加藤英舟

没年月日:1939/02/15

故西村五雲と共に竹内栖鳳門下の先輩として知られた加藤英舟は2月15日逝去した。本名栄之助、明治6年名古屋に生る。初め名古屋の奥村石蘭に学び、同23年京都府立画学校に入学、幸野楳嶺の薫陶を受けたが、楳嶺没するに及び岸竹堂に師事し更に竹堂の没後竹内栖鳳の門に入つた。花鳥動物を得意とし、その画風は質朴温雅、伝統的技巧を守り、小品の花鳥画に佳作を遺した。文展第6回出品の「かすみ網」で褒賞を受け、昭和3年帝展委員に推薦された。主なる作品には、文展第2回出品の「野狐の図」、同第4回「秋晴の図」、同第6回「かすみ網」、同第9回「大羽打」、帝展第2回「小さき夢のさまざま」、同7回「花の市」、同8回「秋の園」、同第10回「湖辺の秋」、同第12回「巨椋早涼」、同第14回「秋の脊戸」等が挙げられる外、京都東本願寺黒書院の障壁画を揮亳をしてをり、又大正11年、皇后陛下の関西行啓に際しては川崎家よりの献上画を謹作した。

小林孝行

没年月日:1939/01/13

ニ科会の出品者で、九室会の会員であつた小林孝行は1月13日真鶴の海に投身自殺した。享年25歳。昭和7年ニ科に初入選となり、同11年よりニ科展に毎回超現実主義の作品を発表した。尚12年に銀座、サロン・ルウエに壁画を執筆した。14年3月紀伊国屋に遺作展が開催された。

野田英夫

没年月日:1939/01/12

新制作派協会の会員として近年注目されてゐた野田英夫は1月12日病気のため逝去した。日系米国市民で1910年3月3日北米加州サンノゼ市に生れた。桑港加州美術学校に入学し、当時スタツクポール、マキー、アーナルド・ブランチに師事し、尚デエゴ・リベラに壁画の指導を受けたことがある。31年ブランチの招聘により紐育ウツドスタツクに行き、同地で国吉康雄、ユージン、スパイカー、グローツ、リユーサ等を知り、壁画、テンペラ画の研究製作に従つた。34年日本を訪れ翌年銀座青樹社に個展を開催、又ニ科会に出品した。37年母校の加州ピドモント・ハイスクールの壁画を製作、次で欧州を遍歴し、9月帰朝、新制作派協会の会員となつた。米国に於ける展覧会ではウツドスタツク美協会展、ニユーヨーク・ホイツトニイ全米作家展、シカゴ・アートインステチユート展、桑港美術協会展、ワシントンココランギヤラリー展等に出品、度々授賞せられてゐる。油絵の外に壁画を得意とし、米国に多数の作品を残してゐるが、来朝後は新制作派展に出品し、好んで小市民的な題材に幻想を求めた特異な画風を示してゐた。尚、本年度の新制作派展に遺作の特別陳列が行はれ、11月に春鳥会より「野田英夫作品集」が刊行された。

佐崎霞村

没年月日:1939/01/09

木彫家佐崎霞村は病気のため1月9日逝去した。享年62歳。本名宗二、明治11年3月22日、造園師佐崎宗平(号可村)の次男として東京に生れた。初め京都の大仏師内藤光石に入門し、24歳の時上京して竹内久一に師事した。大正11年帝展に初入選し、昭和5年大作「執金剛神」が特選となり、無鑑査に推された。帝展には常に薄肉彫刻仏像を出品し、「聖観」「不動」「寂光」等が主なもので又毎回日本木彫会に出品したほか、昭和11年に比叡山阿弥陀堂本尊の木彫丈六如来像を制作し、同13年には浅草本願寺別院内陣蟇股彫刻を製作してゐた。

比田井天来

没年月日:1939/01/04

帝国芸術院会員比田井天来は宿痾のため1月4日64歳を以て逝去した。本名鴻、長野県の出身、故日下部鳴鶴の高弟で、書道の大家であつた。

彭城貞徳

没年月日:1939/01/04

洋風画家彭城貞徳は、1月4日逝去した。享年82。安政5年2月11日長崎市に生る。同市の宏運館に学び、明治5年上京、同8年高橋由一の天絵学舎に入り、洋風画を初めて学ぶ。同9年工部美術学校に入学アントニオ・フオンタネージの薫陶を受く。其後一時石版会社玄々堂の図案部に入り、次で17年長崎に帰郷、長崎商業学校等に教鞭をとる。明治26年米国市俄古万国博覧会に際し渡米、費府美術学校に学ぶ。28年英国に渡り、ウオータールー石版会社に入り図案家として働く。明治30年仏蘭西に至り、滞留5年の後同34年帰朝す。36年長崎に帰郷、東山学院、鎮西学院、活水女子校等に生徒を指導し、傍ら画塾を開く。大正4年上京日本橋芳町に商家を構へ、余暇制作す。終世中央画壇との交渉を有たず知らるるところ尠かつたが、その作品は一種の風格を持つてゐる。又音楽に趣味を持ち、就中尺八は二代目一調として知られてゐた。

to page top