本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





菅原精造

没年月日:1937/04/12

漆芸家菅原精造は4月12日パリ郊外ロスチヤイルド男のシヤンチイユ別荘で持病の肝臓癌の為逝去した。享年54。山形県の出身で、東京美術学校卒業後明治38年渡仏、爾来日本漆芸の伝統的技法を欧洲に伝へパリ工芸界の異色ある存在として認められて来た。有名な仏人漆芸家ジヤン・ジユナンの如きも其の技法は故人の指導に負ふ所多く、両人の協力に成る作品が多数にある。古くから乾漆技法に依る前衛彫刻の製作を試みて居り、其の作品は年々サロン・ドオトンヌに出陳され、特異な作風を記憶されて居たものである。(アトリエ14ノ7に依る)

福井江亭

没年月日:1937/03/08

元東京美術学校教授福井江亭は豫てより千葉県市原郡に於て静養中であつたが3月8日逝去した。享年73。本名信之助。天真堂と称した。明治11年洋画を学び、後南画を学ぶ。同17年川端玉章に師事し同門下の俊才であつた。24年日本美術協会に於て1等賞を受領、36年青年絵画共進会に於て1等褒状を受けた。31年日本画会の設立と共に審査員に挙げられ、又翌年平福百穂、結城素明等と無声会を組織して当時の画壇に新生面を開拓した。36年名古屋高等工業学校教授に任命され、42年東京美術学校教授に任ぜられた。大正5年同校教授を辞し、支那に渡り名蹟勝地を探ること5ケ年に及ぶ。昭和6年在支5年間の作品展を丸ビルに開催した。昭和元年以後は悠々画筆の生活を楽んでゐた。

松島白虹

没年月日:1937/02/22

日本画家松島白虹は2月22日東京帝大附属病院に於て逝去した。本名松太郎。明治28年、岡山市に生れ、大正10年東京美術学校日本画科卒業後、結城素明に師事、大正7年文展第12回に初入選し、その後帝展に9回入選、昭和11年新文展に「占茶」を出品した。尚大正10年より女子美術専門学校の教授の職に在つた。

久保田満明

没年月日:1937/02/14

日本画家久保田満明は2月14日食道狭窄症のため荏原区の自邸で逝去した。享年64。雅号は米?又米所の別号がある。故久保田米僊の長男として京都に生る。小学校を卒へるや直ちに米国オークランド中学校に学び、4年後帰朝。東京に遷り、はじめ洋画を原田直次郎に学び、後日本画を田崎草雲、橋本雅邦に就て学んだ。其後仏国に留学、滞在すること4年、帰朝後は三越呉服店及松竹興業会社に関係して衣裳考証、舞台装置等に従事し、故実考証に専念してゐた。尚日清戦役には成歓、牙山及威海衛に国民新聞記者として画筆をとつて従軍した事がある。 

島崎柳塢

没年月日:1937/01/21

日本美術協会理事島崎柳塢は豫て腎臓病で加療中の処1月21日荒川区の自邸で逝去した。享年73。本名は友輔、別に栩々亭山人、墨水漁夫等の号がある。東京牛込の出身、幼にして桜井謙吉に洋画を学び後竹本石亭、松本楓湖、川端玉章等に就て日本画を学ぶ。明治20年頃より諸会に作品を発表し、旧文展には毎次出品して3等賞2回、褒状3回を受領した。又日本美術協会に於ても早くより?々受賞し、同会委員、理事、審査員の任に就いてゐた。

佐竹永陵

没年月日:1937/01/08

日本美術協会委員佐竹永陵は、1月8日宿痾の為本郷の自邸で逝去した。享年66。旧姓黒田、本名は銀十郎。明治5年東京に生る。同20年佐竹永湖に師事し後佐竹家の養子となつた。永湖の父は谷文晁の高弟佐竹永海であり、永陵は三代に当る。内国勧業博覧会、大正博覧会に出品して受賞し、初期文展に於ては第6回に「夏景山水」「冬景山水」を、第9回に六曲一双「水墨山水」を出品して、3等賞を授与せられた。日本美術協会に於ては?々受賞及宮内省御買上の栄に浴し、又大正天皇の御前揮毫を奉仕したことがある。晩年は専ら日本美術協会に出品して文帝展に関係せず、作画の傍ら文晁の画風を研究し、その鑑定に従事した。

坂口右左視

没年月日:1937/01/06

元春陽会々友坂口右左視は、旧臘来胸を病み療養中1月6日逝去した。享年43。佐賀県唐津の出身で、日本美術院研究所に学び、大正12年春陽会第1回展に春陽会賞を受領、次で第3回展に於ても同様受賞し、無鑑査に推挙された。爾後連年出品、昭和6年会友となつたが、同9年退会した。その画風は要約された筆触を用ひて気魄ある表現を示し、非凡な才能を示したが、多く世に容れられず、不遇であつた。

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