刑部人

没年月日:1978/03/08
分野:, (洋)

日展会員、新世紀美術協会会員の洋画家、刑部人は、3月8日午前0時18分、腎不全のため東京・飯田橋の日本医大附属第一病院で死去した。享年71。刑部人は明治39年(1906)栃木県に生まれ、小学時代に父の転任にともなって上京、栃木在住時から絵画に関心をいだき、大正13年3月東京府立第1中学校を卒業した。小学校時代から川端竜子鶴田吾郎などの指導をうけたが、中学卒業の年に東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作教室に学び昭和4年(1929)3月卒業した。在学中の昭和3年、第9回帝展のとき初入選し、昭和6年島津鈴子と結婚、島津を通して金山平三を知った。帝展、新文展に出品をつづけ、昭和18年無鑑査、戦後の昭和21年第1回日展、同23年4回日展で特選となり、同24年以降出品依嘱、同42年日展審査員をつとめ、43年日展会員におされた。また、昭和33年第3回新世紀美術展から委員として参加、以後、毎回出品し、昭和26年以降、日本橋三越において毎年個展を開催した。その作風は、初期に和田英作の影響をうけたが、戦後、昭和21年ころからは金山平三に師事し、一緒に写生旅行するなどして風景画の製作に金山の影響をうけた。 

◆年譜
明治39年 5月5日、栃木県下都賀郡に於て、父刑部真一(28歳)、母フキ(20歳)の4人兄弟の長男として生まれる。刑部家は、同地に続いてきた旧家で代々名主を勤め、父刑部真一も若くして教育者となり、当時すでに家中村立家中尋常高等小学北校(現在の町立家中小学校)の校長となっていた。
大正2年 4月、栃木県下都賀郡家中村立家中尋常高等小学北校に入学する。1学年からの学業成績は抜群で、同校修了まで常に首席を通し続ける。また、この頃から絵に関心を持ち始め、三宅克己の水彩画を模写したりする。更に同校3年生頃より、川端竜子鶴田吾郎の主幹するスケッチ倶楽部の通信講義録『スケッチ速習録』を購読し、鉛筆画や水彩画を学習するようになる。
大正7年 3月、父の東京転任にともない、家中尋常高等小学北校5年修了と同時に上京し、東京府北豊島郡西巣鴨町に居住する。この頃から大森・新井宿に川端竜子を訪ねるようになる。4月、東京府北豊島郡西巣鴨町立時習尋常高等小学校(現在の豊島区立時習小学校)に転入学する。
大正8年 3月、時習尋常高等小学校を卒業する。4月、東京府立第一中学校(現在の日比谷高等学校)に入学する。府立一中の同級生には高見順(高岡芳雄)、岡本武夫などがいてそれぞれ後年まで交友が続けられる。
大正11年 12月、東京府北豊島郡池袋に転居する。この頃、川端学校に通い石膏素描など本格的な勉強を始める。
大正13年 3月、東京府立第一中学校を卒業する。4月、東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学美術学部油画科)に入学する。
大正15年 4月、同校西洋画科の和田教室に編入し、和田英作の指導を受ける。
昭和3年 4月、特待生となり、1年間の授業料が免除となる。10月、帝国美術院第9回美術展覧会に『友人の肖像』が初入選する。
昭和4年 3月、東京美術学校西洋画科を次席で卒業する。卒業制作は『自画像』(東京芸術大学芸術資料館蔵)、『少女』が陳列される。同校西洋画科研究科に入学する。10月、第10回帝展(16日-11月20日、東京府美術館)に『初秋の庭』を出品する。
昭和5年 3月、東京美術学校西洋画科研究科を退学する。10月、第11回帝展(16日-11月20日、東京府美術館)に『裸体』を出品する。
昭和6年 3月28日、京都府出身、左記在住の嶌津(島津)源吉、トミの長女鈴子と結婚する。4月7日、東京府豊多摩郡落合町大字下落合にアトリエを新築して居住する。
昭和8年 10月、第14回帝展に『湖畔』を出品する。
昭和9年 10月、第15回帝展に『初秋の河口湖』を出品する。
昭和12年 10月、第1回文部省美術展覧会が開催され、『放牧双牛』(日本大学第2学園蔵)を出品する。
昭和15年 4月、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)助教授となる。10月、紀元2600年奉祝美術展覧会が開催され、『裏庭』を出品する。
昭和16年 10月、第4回新文展に『休息』を出品する。
昭和18年 8月、新文展無鑑査となる。
昭和19年 3月、東京・青山の東部第6部隊に於て、『機関銃隊』を描く。3月、陸軍美術展覧会が開催され、『機関銃隊』を出品する。11月、文部省戦時特別美術展覧会(戦時特別文展・25日-12月15日、東京都美術館)が開催され、『少年通信兵』が招待出品される。
昭和20年 3月9日、栃木県下都賀町、古沢三郎方に疎開する。3月、東京高等工芸学校を退官する。4月、栃木県立栃木高等女学校(現在の県立栃木女子高等学校)教諭となる。9月、疎開先を引上げて上京する。この秋、栃木高等女学校を退職する。
昭和21年 3月、文部省主催第1回日本美術展覧会(日展)に『冬の軽井沢』を出品し、特選となる。5月、山形県大石田に写生旅行(5日―22日)をする。この時、金山平三夫妻と同行する。
昭和23年 10月、第4回日展に『渓流』を出品し、特選となる。
昭和24年 10月、第5回日展に『水門』を出品(依嘱)する。12月、栃木県宇都宮市の民映画廊に於て、個展(24日―26日)を開く。
昭和25年 10月、第6回日展に『断崖』を出品(依嘱)する。
昭和26年 10月、大石田に滞在中の金山平三と共に、十和田湖に写生旅行(13日-30日)をし、奥入瀬などで描く。10月、第7回日展に『竜頭の滝』を出品(依嘱)する。12月、第1回刑部人油絵個人展(4日―9日、東京・日本橋・三越)を開き、『林檎の花(福島県藤田)』『十和田の秋(十和田湖畔)』など23点を出品する。
昭和27年 10月、第8回日展(29日―12月1日、東京都美術館)に『奥入瀬渓流』を出品(依嘱)する。11月、富山に赴き(5日―8日)、高見之通の肖像(衆議院蔵)を描く。12月、第2回刑部人油絵個人展(16日―21日、東京・日本橋・三越)を開く。『渓流B(蓼科』『渓流C(奥秩父)』『十和田湖』『水ぬるむ(栃木県)』『安茂里の春』『杏の丘』『富士』『林檎の花咲く』。他。
昭和28年 3月、富山に赴き(17日―21日)、前年来揮毫の高見之通の肖像を仕上げる。4月、長野県安茂里に写生旅行(13日―23日)をする。大石田から同地に赴いた金山平三と同行となる。8月、京都、神戸へ写生旅行(5日―14日)をする。神戸滞在中の金山平三と共に川崎造船所などで描く。10月、十和田湖に写生旅行(16日―11月1日)をし、和井内、子ノ口に滞在して描く。途中から金山平三と同宿となる。10月、第9回日展に『三瀬海岸』出品(依嘱)する。
昭和29年 1月、金山平三と共に箱根に写生旅行(22日―30日)をし、冬の十国峠や芦の湖などを描く。2月、第3回刑部人油絵個人展を開く。4月、大石田に在住の金山平三と共に十和田に赴く。同地で越冬していた佐竹徳と合流し、和井内、子ノ口に滞在(10日―5月22日)して描く。8月、東京に引上げた金山平三と共に熱海に写生旅行(9日―11日)をする。9月、十和田に滞在(17日―10月3日)して『十和田湖畔』を描く。10月、第10回日展に『十和田湖畔』を出品(依嘱)する。
昭和30年 2月、第4回刑部人油絵個人展(8日―13日、東京・日本橋・三越)を開く。10月、十和田に写生旅行をする。現地で合流の金山平三と共に子ノ口・和井内に滞在(9日―21日)し、『渓流錦繍(十和田奥入瀬)』などを描く。第11回日展に『渓流錦繍(十和田奥入瀬)』を出品(依嘱)する。
昭和31年 2月、第5回刑部人油絵個人展(7日―12日、東京・日本橋・三越)を開く。10月、第12回日展(28日―12月1日、東京都美術館)に『山の牧場(奥日光・光徳牧場)』を出品(依嘱)する。
昭和32年 2月、第6回刑部人油絵個人展(12日―17日、東京・日本橋・三越)を開く。11月、第13回日展に『修道院裏庭』を出品(依嘱)する。
昭和33年 2月、第7回刑部人油絵個人展(4日―9日、東京・日本橋・三越)を開く。この年、別府貫一郎、二瓶等、松村巽、沖田稔と共に新世界美術協会に委員として参加する。新世界美術協会は和田三造川島理一郎大久保作次郎、吉村芳松、柚木久太を中心に昭和30年3月結成され、翌31年第1回公募展を開催する。6月、第3回新世紀美術展(15日―27日、東京都美術館)に『渓流(奥入瀬)』を出品する。11月、第1回新日展に『道』を出品(委嘱)する。
昭和34年 2月、第8回刑部人油絵個人展(3日―8日、東京・日本橋・三越)を開く。3月、第4回新世紀展(2日―15日、東京都美術館)に『雪の山』を出品する。11月、第2回新日展に『林間』を出品(委嘱)する。
昭和35年 2月、第9回刑部人油絵個人展(2月2日―7日、東京・日本橋・三越)を開く。第5回新世紀展(18日―27日、東京都美術館)に『山河』を出品する。9月、この月二度日光へ赴き、中禅寺湖畔の菖蒲ヶ浜に滞在(2日―6日、22日―26日)し、土地の老人をモデルに頼んで『樵夫』を制作する。10月、秋田県男鹿半島に写生旅行(21日―11月1日)をする。大石田に滞在中の金山平三を訪ね、同行して入道岬に至り畠や二の目潟などに逗留して『入道岬(男鹿半島)』『二の目潟(男鹿半島)』『えぞ浜(男鹿半島)』などを描く。11月、第3回新日展に『樵夫』を出品(委嘱)する。
昭和36年 2月、第10回刑部人油絵個人展(7日―12日、東京・日本橋・三越)を開く。第6回新世紀展に『長崎坂道』を出品する。11月、第4回新日展(1日―12月6日、東京都美術館)に『写生』を出品(委嘱)する。
昭和37年 2月、第11回刑部人油絵個人展(6日―11日、東京・日本橋・三越)を開く。第七会新世紀展に『那須』を出品する。6月28日、壊疽性盲腸炎のため東京医科大学病院に入院し、手術を受ける。翌7月19日退院する。11月、第5回新日展に『りんご園』を出品(委嘱)する。
昭和38年 2月、第12回刑部人油絵個人展(5日―10日、東京・日本橋・三越)を開く。第8回新世紀展に『牧舎』を出品する。6月、日光・戦場ヶ原に赴き、ずみの花と牧牛の『高原』を描く。11月、第6回新日展(1日―12月6日、東京都美術館)に『高原』を出品(委嘱)する。
昭和39年 1月、第13回刑部人油絵個人展(28日―2月2日、東京・日本橋・三越)を開く。2月、第9回新世紀展に『冬の渓流(塩原)』(東京都美術館)を出品する。7月1日、胆嚢炎のため東京医科大学病院に入院する。翌8月1日に退院する。8月25日、胆嚢炎のため日本医科大学附属病院に入院する。翌9月1日、同病院長松倉三郎医学博士の執刀により胆嚢炎、胆石の手術を受ける。同月26日退院する。
昭和40年 2月、第14回個展(三越)を開く。3月、第10回新世紀展に『渓流(塩原)』を出品する。11月、第8回日展に『秋庭』を出品(委嘱)する。
昭和41年 2月、第15回個展(三越)を開く。3月、第11回新世紀展に『塩原岩風呂』を出品する。8月、千葉県関宿の鈴木貫太郎記念館に『明治38年5月27、8日の日本海々戦図』を描く。11月第9回日展に『渓流(塩原)』を出品する。
昭和42年 1月、第16回個展(三越)を開く。3月、第12回新世紀展に『下曽我梅林』を出品。10月、日展審査員となる。11月、第10回日展に『天平古寺(海竜王寺)』を出品する。
昭和43年 1月、第17回個展(三越)を開く。3月、第13回新世紀展に『加茂川春雪』を出品する。4月、初めて吉野に写生旅行。9月、日動サロンにおいて個展。11月、第11回日展に『室生新緑』を出品。日展会員となる。
昭和44年 2月、第18回個展(三越)を開く。3月、第14回新世紀展に『中禅寺湖畔冬』を出品。11月、改組第1回日展に『萩』を出品する。
昭和45年 1月、第19回個展(三越)を開く。3月、第15回新世紀展に『松籟』を出品。11月、第2回日展に『法隆寺西門』を出品する。
昭和46年 1月、第20回個展(三越)を開く。3月、第16回新世紀展に『千曲川鳥瞰図』を出品。5月、日動サロンにおいて個展。11月、第3回日展に『奈良初秋』を出品する。
昭和47年 1月、第21回個展(三越)を開く。3月、第17回新世紀展に『渓流残雪』を出品。11月、第4回日展|『春昼(東大寺大湯屋)』を出品する。
昭和48年 1月、第22回個展(三越)を開く。5月、第18回新世紀展に『東大寺大湯屋』を出品。8月、小平久雄肖像(衆議院蔵)を描く。11月、第5回日展に『吉野山上千本』を出品する。
昭和49年 1月、第23回個展(三越)を開く。5月、第19回新世紀展に『吉野山上千本』を出品。11月、第6回日展に『藤の花』を出品。
昭和50年 1月、第24回個展(三越)を開く。5月、第20回新世紀展に『塩原秋景』を出品。11月、第7回日展に『十和田秋色』を出品。
昭和51年 1月、第25回個展(三越)を開く。2月1日、フジ・テレビの日曜番組、テレビ美術館で«刑部人とその作品»が放映される。5月、第21回新世紀展に『東北の春』を出品。11月、第8回日展に『塩原渓流』を出品する。日動サロンにおいて刑部人記念展が回顧展の形で開催され90余点が出品される。11月、『刑部人画集』(日動出版部)刊行される。
昭和52年 1月、第1回日洋展に『奥入瀬』を出品する。2月、第26回個展(三越)を開く。3月、紺綬褒賞をうける。10月、第9回日展に『弓ヶ浜遠望』を出品する。
昭和53年 1月、国東半島へ写生旅行。2月、第27回個展(三越)を開く。3月8日、横行結腸ガンから腎不全を併発して逝去した。勲4等瑞宝章をうける。3月14日、千日谷会堂にて葬儀。6月、遺族より作品23点が栃木県立美術館に寄贈される。
昭和54年 10月、栃木県立美術館において「四季の彩=日本の風景美刑部人展」開催される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(282-285頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「刑部人」『日本美術年鑑』昭和54年版(282-285頁)
例)「刑部人 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9670.html(閲覧日 2024-03-29)

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