文展要項審議

1937年06月

帝国芸術院成立後文部当局では之と切離して文部省美術展覧会開催の準備を進め、昨年度文展の欠陥を改め恒久的な制度を樹立すべく考究中であつたが、六月二十九日正午より文相官舎に細川護立侯、岡部長景子、松浦鎮次郎、正木直彦、清水帝国芸術院長の五顧問を招き、文部省からは安井文相、伊東次官、菊池専門学務局長事務取扱代理、本田学芸課長、有光学務課長等出席、当局の原案を提示して各顧問の意見を求め展覧会要項を審議決定して午後四時散会同時に決定事項を発表した。

文展要綱第二回審議

1937年07月

文部当局では六月二十九日の相談会に引続き、文展に関して残された無鑑査の範囲、鑑審査の方法、審査員選任等の問題を審議すべく七月二日午前十時より正午迄文相官舎に細川候、岡部子、松浦、正木、清水帝国芸術院長の五顧問を招き、伊東次官、菊池局長事務取扱代理、本田、有光両課長等出席協議を重ねた。

シアトルヘ日本座敷雛型寄贈

1937年07月

シアトルのワシントン大学附属博物館では各国住宅の原寸雛型を蒐集してゐるが、同地岡本総領事を通じ日本住宅雛型の寄贈を乞うて来たので、国際文化振興会の手に依つて床の間を中心として違棚、書院等附属した雛型を作製し、七月上旬発送同館に寄贈した。

川端竜子帝国芸術院会員辞退

1937年06月

昨年六月帝国美術院会員の辞表を提出した川端竜子は、満洲国旅行中の処六月二十七日夜帰京、帝国芸術院会員の任命を受けぬ意志を表明し、已に発会後である為早速辞表を提出した。

オリンピツク芸術委員会設立

1937年06月

オリンピツク大会芸術競技参加に関しては従来大日本体育芸術協会が当つてゐたが、東京大会の準備に就ては当然組織委員会に統合する必要がある為具体案考究の結果、競技部内の専門委員会として芸術委員会を設置することとなり、六月二十八日組織委員会総務委員会に於て決定した。委員の氏名は左の通りである。 委員長 男爵森村市左衛門、副委員長 渋沢秀雄、委員 吉村忠夫中村岳陵矢沢弦月伊原宇三郎伊藤廉硲伊之助池田勇八高村豊周、成沢金兵衛、土浦亀城、小林政一、小森宗太郎、沢崎定之、諸井三郎、中島健蔵、深田久弥、宮本昌常

大分県美術協会創立

1937年06月

大分県下美術家及び愛好者を会員とし、同県美術界の向上発展並に親睦を図る目的を以て大分県美術協会が結成され、六月二十五日其の創立発会式が挙げられた。会長に大分高等商業学校長石丸優三を推し、毎年展覧会開催の予定である。

帝国芸術院官制及会員発令

1937年06月

帝国芸術院官制及び会員の任命は六月二十四日官報を以て公布されたが、之に先だつて二十三日午前十一時文部省から発表された。新会員は文芸十六名、音楽四名、能楽二名、建築二名、書道二名、又官制附則に依つて帝国美術院長は帝国芸術院長に、帝国美術院会員四十六名は帝国芸術院会員に各辞令を用ひずして任命された。会員数総計は七十二名である。

東皓会結成

1937年06月

予て東京美術学校出身日本画家同志の間で月次懇話会を催してゐたが、邦画壇進展に寄与する目的から新団体東皓会を結成した。会員は岩田正己、服部有恒等二十一名である。

帝国芸術院組織経過

1937年06月

帝国芸術院官制の閣議決定と共に文部省では、予定の人選に基き会員任命の内交渉を開始したが、美術部門に於ては新官制の制定と共に帝国美術院は廃止され、其の院長及び会員は其の侭帝国芸術院長及び会員に任命されることとなる為、昨年六月平生文相の態度に慊らず辞表を提出した侭現在に及んでゐる十数名の帝国美術院会員の中には、今次の組織に疑問を抱いて辞退の意を表した者が多かつた。文部当局では伊東次官初め日本美術院其の他の辞退会員等と懇談を重ね翻意を促す所あり、二十一日細川護立侯は横山大観和田英作、及び梅原竜三郎と会見した上文部当局との間に斡旋し、文部省では同夜別記の如き声明書を発表、一方辞意を表した会員等も過去の行掛りを棄てて参加することとなり、新組織の人選決定を見るに至つた。

帝国芸術院設置

1937年06月

文部省では帝国美術院に代へて帝国芸術院の創設を企図し予て案を練りつゝあつたが、六月十七日成案を見るに至つたので同十八日の閣議に官制案を上程可決され、直ちに御裁可の手続が取られると共に、官制要綱並びに其の趣旨に関する安井文相談を発表した。

文展開催決定

1937年06月

文部省では昨年臨時的に文展を開いたが愈々之を永続的に実施することとなり、昨年の規定に改正を加へて今秋より第一回として開く方針で六月十五日其の大綱を決定した。

ベルリン大会場模型寄贈

1937年06月

ドイツの第十一回オリンピツク組織委員会から日本の大会組織委員会宛に、縦五・五米、横二・五米に及ぶ精巧なるベルリン大会競技場模型が寄贈され、六月十七日帝国ホテルでデイルクセン独逸大使、徳川組織委員会々長其の他関係者列席贈呈式が行はれた。

菊池容斎六十年祭

1937年06月

菊池容斎の六十年祭が菊池祥郎、結城素明其他の発企に依り六月十六日執行された。当日午前、下谷区谷中の墓地に於て墓前祭を行ひ、午後更に九段能楽堂に於て靖国神社宮司加茂百樹を斎主として、美術界其の他関係者等多数列席の下に厳粛な祭典を挙行した。尚当夜は結城素明の容斎に関するラヂオ放送があり、十八日より四日間東京美術学校に於て遺墨物展が開催された。

海洋美術会発会

1937年06月

去る五月二十七日海軍記念日を中心に日本橋三越で海洋美術展が開かれたが、同展覧会の世話人石井柏亭、小林万吾等洋画家六名と海軍省軍事普及部、海軍協会側の関係者が六月十一日夜雨月荘に会合の席上、海事思想普及を目的とし洋画家を会員とする海洋美術会発会を決定した。

帝国芸術院設置報道さる

1937年06月

文部省では美術界紛争の禍根を絶つ為展覧会を帝国美術院と切離して文部省主催とし、帝国美術院は一旦解消して、美術の外、文学、音楽、其の他の芸術全般に亙る奨励機関を設置すべく具体案作製中なる旨六月十五日の各新聞に報道された。

国民芸術研究所創立

1937年06月

川路柳虹を主事とし、田辺孝次及び斎藤佳三を理事として国民芸術研究所が創設された。美術を中心とし国民芸術一般の綜合的研究を目的とするもので、研究者として所員を置き、研究発表等に関し諸種の事業を行ふ予定である。

京都青年美術家クラブ組織

1937年06月

京都に於ける日本画、洋画、彫刻、工芸の諸部門を含む青年美術家に依り、親睦団体京都青年美術家クラブが組織され、六月五日夜京都ホテル北館電気クラブで発会式を挙げた。

文部省人事異動

1937年06月

文部次官河原春作は六月五日辞職した為後任として専門学務局長伊東延吉が次官に任ぜられ、同時に専門学務局長事務取扱を命ぜられた。

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