本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





横尾茂

没年月日:2012/05/03

 自由美術協会会員の画家、横尾茂は5月3日午後1時40分、肝不全のために死去した。享年78。 1933(昭和8)年5月16日、新潟県東頚城郡浦川原村横住に生まれる。53年に上京し、働きながら56年4月に文化学院に入学して山口薫、佐藤忠良に学ぶ。60年3月に同校を卒業後、大森絵画研究所で人体デッサンを中心に研究。61年、第25回自由美術展に「野」で初入選。64年第28回同展に「遊歩」「帰路」を出品して佳作作家に推薦され、翌65年に同会員となる。74年第38回同展に「季の唄」「あひるちゃん」を出品して自由美術賞を受賞。同年には石彫「がんこもの」も出品している。日本画郎で行われる自由美術協会の井上長三郎、山下菊二、一木平蔵らによるグループ展に幾度も参加し、76年10月同画廊で初めての個展を行った。77年に線描による山水画のような背景にふたりの少女の顔をデフォルメして描いた「里のひろみとうちのはあちゃん」と、同じく線描による風景画「雨季」を出品し、前者で第20回安井賞を受賞。同作品について審査員であった本間正義は、油彩画でありながら「白描的な味わいで」「素朴でユーモラスな土俗的なにおいを発散しているところが、なんとも愉快である」と評している。79年第1回「明日への具象展」に「裾野」を出品。80年の第2回同展には「よこたわり」を、81年第3回同展には「里へ御出座の大威徳明王」を出品。85年に郷里の新潟浦川原にて「横尾茂の世界 雪と土とそしてふるさと」展を開催。88年にも浦川原芸術祭で「横尾茂と郷土の作家達展」を開催する。身近なモティーフに取材しながら、変化の激しい現代社会の表層を穿つ作品を描き、再現描写的な対象の把握を踏まえ、曲線を多用した有機的なかたちにデフォルメする独自の画風を示した。1950年代から、支持体に絵の具を塗り重ねていく油彩画技法に疑問を抱いており、70年代には塗り重ねた絵の具層を削る絵づくりが行われるようになった。学生時代に様々な技法を学ぶ中で、立体造形において粘土をつけていく塑像よりも彫りこんでいく彫像制作の作業に共感しており、絵の具層を削る技法は、「本質的なものだけを現出させる東洋の美学」に通ずるものと位置づけていた。郷里の浦川原区に横尾茂ギャラリーが開設されている。自由美術展出品略歴25回(1961年)「野」(初入選)、28回(1964年)「遊歩」「帰路」(佳作賞)、38回(1974年)「季の唄」「あひるちゃん」(自由美術賞)、40回(1976年)「おてんば」、45回(1981年)「望郷」「姉妹」、50回(1986年)「淡雪」、55回(1991年)「女の視線」、60回(1996年)「やだな娘」、70回(2006年)「悪夢(9.11)」

成瀬不二雄

没年月日:2012/04/26

 日本の洋風画研究者成瀬不二雄は4月26日、死去した。享年80。 1931(昭和6)年10月16日、福岡県福岡市に九州帝国大学仏文科教授成瀬正一の長男として生まれる。東京の森村学園小学校を卒業して、神戸甲南学園中学に学び、同高校を1年にて修了し神戸大学文学部に入学。53年3月神戸大学文学部芸術学を卒業し、翌54年3月同大学文学専攻科を終了。同年5月から神戸市立神戸美術館(後の神戸市立南蛮美術館)の嘱託となるが、同年11月に退職して神戸大学文学部芸術学助手となる。61年4月大和文華館学芸員となり、学芸係長、同課長、学芸部長を経て、同館次長となった。神戸大学在職中は、「ボードレールの詩的世界の成立とアングル及びドラクロアの影響について」(『近代』14号、1956年4月)、「ボードレールの詩「灯台」についての序説」(『近代』17号、1956年12月)、「ルーベンスとボードレール」(『近代』18号、1958年1月)、「レンブラントとボードレール」(『近代』19号、1957年5月)、「ゴヤとボードレール」『神戸大学文学会研究』(18号、1959年2月)に見られるように、ボードレールとそれに関わる美術家について研究を行っていたが、大和文華館に入った後、日本における西欧美術の受容を対象とするようになり、「桃山時代童子肖像画の一資料」(『大和文華』44号、1966年12月)、「日本洋画のあけぼの・秋田蘭画」『(美術手帖』283号、1967年6月)など、その後のライフワークとなる洋風画に関する論考が発表されるようになった。秋田蘭画における西洋的な空間表現の受容を論じ、近景を画面の前面に大きく描き、中景を水面などのモティーフとして、遠景を小さく描く特色ある構図を「近像型構図」と名づけてその系譜を跡づけ、また富士山が描かれた洋風画を悉皆的に調査し、実景と比較することによって、司馬江漢ら近世の洋風画の絵師たちが西洋風の写実を学びながらも、絵になる構図を求めて富士山を実景とは異なる位置に描いていることを実証するなど、洋風画史に大きな足跡を残した。それと並行して、従来、日本文化の近代化という文化史的側面から見られる傾向の強かった洋風画の美術的価値への理解を広めることに寄与した。1993(平成5)年、『国華』1170号掲載の「司馬江漢の肖像画制作を中心として-西洋画法による肖像画の系譜」によって第5回国華賞を受賞。97年3月に大和文華館次長を退職し2年間同館嘱託として在職、99年4月に九州産業大学大学院芸術研究科教授となり、洋風画史を講じた。晩年の著作となった『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)、『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)、『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)、『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)、『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)は半世紀近い調査研究の集大成となっている。主要著書『東洋美術選書 曙山・直武』(三彩社、1969年)『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(坂本満・菅瀬正と共著、小学館、1970年)『日本美術絵画全集25 司馬江漢』(集英社、1977年)『江戸の洋風画』(小学館、1977年)『百富士』(毎日新聞社、1982年)『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)

影丸穣也

没年月日:2012/04/05

 漫画家影丸穣也は、4月5日膵臓癌のため死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月3日大阪府に生まれる。本名久保本稔。中学卒業後自動車整備会社に勤めるが、体調を崩し退社。貸本漫画を読み、独学で作画を研究する。久保本稔名で57年単行本『怪獣男爵』(あたみ書房)でデビューする。以後、大阪の貸本漫画で活動し、貸本漫画誌『影』に発表の頃には影丸譲也のペンネームを使用。後に「穣也」とする。61年「拳銃エース」を『冒険王』に発表、少年誌にデビューする。63年上京。影丸の名前が有名になったのは68年『週刊少年マガジン』で連載した横溝正史原作の「八つ墓村」である。横溝の小説では「悪魔が来りて笛を吹く」(『東京スポーツ』)も手がけ、こちらは映画の画面を漫画に起こしている。また高校で番を張り、不良で剣の使い手氷室洋二が繰り広げる教師や大人たちとの抗争から少年院での闘いまでを描いた「ワル」(真樹日佐夫原作、『週刊少年マガジン』、70年4/5合併号から73年2号)は、異色の学園ものとなった。つづいて梶原一騎の原作で極真空手の創始者大山倍逹の半生を描いた実録漫画「空手バカ一代」(『週刊少年マガジン』)を先発のつのだじろうの後を受けて、73年48号から77年52号まで作画、この連載は空手ブームを巻き起こした。NHKの番組「プロジェクトX」や大河ドラマ「義経」などの漫画化も手がけた。全体的には梶原一騎原作が多く、劇画調といえる黒い画面にハードボイルドなストーリー、いわゆる「男っぽい」硬派な作品を得意とした。

中川幸夫

没年月日:2012/03/30

 生け花作家の中川幸夫は3月30日、老衰のため香川県坂出市内の介護施設で死去した。享年93。 1918(大正7)年7月25日、香川県丸亀市に生まれる。幼名は恒太郎。生家は代々土地持ちの農家で、母方の隅家も裕福な農家であり、祖父隅鷹三郎は樟蔭亭芳薫と号し、池坊生花の讃岐支部長を務めた。幼くして脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、大阪の石版画工房へ入社、ここで映画、文学、文楽などに眼を開く。同社を6年ほどで退職したのち、大阪の印刷会社2社に務め、雑誌、映画ポスター制作などに従事。41年、身体を壊し帰郷、翌年伯母隅ひさの勧めにより本格的に池坊を習い始める。終戦後から53年にかけて、印刷会社に勤務。このころ、池坊・後藤春庭に立華を学び、草月流・岡野月香を知り草月の花に感銘を受ける。49年、丸亀市の大松屋で初個展「花個展 中川幸夫」を開催、出品作品が『いけばな芸術』第2号に掲載される。50年、「白東社」に参加。この年、池坊全国選抜展(東京都美術館)に出品。52年、第2回日本花道展(大阪・松坂屋、主催は文部省)に出品するが落選、池坊を脱退。以後、流派に属さず、個人の生け花作家となる。同年、第1回白東社展(大阪・三越)に出品(55年第3回展まで出品)。54年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。55年、自費出版で『中川幸夫作品集』を刊行。56年、東京都中野区江古田へ転居、半田唄子(白東社同人、元千家古儀家元)との結婚挨拶状を友人・知人に送る。六畳一間のアパートに暮し、喫茶店、バーなどに花を活けて生計を立てたという。58年集団オブジェ結成に参加。61年第13回読売アンデパンダン展に出品(第14回、第15回も出品)。68年東京での初個展を銀座・いとう画廊で開催。84年銀座・自由ケ丘画廊で個展を開催、花液を海綿を介して和紙にしみこませる手法を用いた作品をはじめて発表。この年、半田唄子死去。93年、大野一雄舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」(横浜・赤レンガ倉庫)の舞台装置を制作。98年、1年間、山口県立萩美術館・浦上記念館で茶室のインスタレーション《鏡の中の鏡の鏡》を展示。同年、「Etre Nature」展(カルティエ現代美術財団)に写真作品15点を出品。2002年、大地の芸術祭において新潟県十日町市信濃川河川敷でパフォーマンス「天空散華 中川幸夫『花狂い』」を実施。2003年ころから郷里丸亀に転居、故郷に拠点を移していた。ザ・ギンザ・アートスペース(2000年)、鹿児島県霧島アートの森(2002年)、大原美術館(2003年)、宮城県美術館、丸亀市猪熊弦一郎美術館(ともに2005年)などで個展を開催した。作品集に上記のほか『中川幸夫の花』(求龍堂、1989年)、『魔の山 中川幸夫作品集』(求龍堂、2003年)など、評伝に森山明子『まっしぐらの花 中川幸夫』(美術出版社、2005年)、早坂暁『君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝』(求龍堂、2010年)、また中川幸夫をモデルとした小説に、芝木好子「幻華」(『文学界』1970年11月号)などがある。『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977年)で「世界で最も美しい本」国際コンクールに入賞。1999年織部賞グランプリ受賞、丸亀市文化功労者となる。2004年、第20回東川賞(北海道東川町)を受賞。2014年にはドキュメンタリー映画「華いのち 中川幸夫」(企画、監督、編集=谷光章)が公開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮮やかに浮かび上がらせた作品の数々で美術界からも高い評価を受けた。

川上貢

没年月日:2012/03/20

 建築史家で京都大学名誉教授の川上貢は3月20日午前10時45分、大阪府高槻市内の病院で肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年9月6日大阪府に生まれる。1946(昭和21)年京都帝国大学工学部建築学科に入学。49年に卒業後、同大学院の特別研究生として村田治郎に師事、53年に京都大学工学部講師、55年に助教授、66年に同教授となる。88年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より1990(平成2)年まで福井大学工学部教授、同年より95年まで大阪産業大学工学部教授を歴任。 京大助教授時代の58年に、「日本中世住宅の研究」にて同大より工学博士号授与、翌59年には同論文に対して日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 近世の書院造より以前の、実物遺構が現存しない鎌倉・室町時代の住宅建築の平面形式とその空間の具体的使われ方を歴史史料に現れる記述の分析を通じて解明するとともに、寝殿造から書院造に至る支配階級の住宅の変遷過程を初めて提示した学位論文は、『日本中世住宅の研究』(墨水書房、1967年)として公刊され、建築史学にとどまらず関連学会からも基本文献として評価されることとなった。実物遺構の調査に基づく研究としては、学部生当時から禅宗寺院の塔頭建築の意義と構成の考究に力を注ぎ、その成果は『禅院の建築』(河原書店、1968年)として刊行されている。 後年には、近世や近代の建築調査を主導することを通じて、多くの建造物の文化財指定、保存に貢献したほか、教育や学会活動の面でも大いに活躍した。76年から94年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務めたほか、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。さらに、日本建築学会の理事、監事や、87年より89年の間は建築史学会会長を務め、学会の発展に貢献した。94年より財団法人京都市埋蔵文化財研究所所長として、また98年より2006年まで財団法人建築研究協会理事長として、考古学調査や文化財建造物の保存修理にも指導的役割を果たした。これらの業績により03年に旭日中綬章を受章、10年には「日本建築史に関する研究・教育と建築文化遺産保存活動の功績」にて日本建築学会大賞を受賞した。 上記以外の主な著作に、『室町建築』(日本の美術199 至文堂、1982年)、『近世建築の生産組織と技術』(編著 中央公論美術出版、1984年)、『建築指図を読む』(中央公論美術出版、1988年)、『近世上方大工の組・仲間』(思文閣出版、1997年)などがあり、調査報告書の執筆や編集も数多く担当している。

杉岡華邨

没年月日:2012/03/03

 かな書の第一人者で文化勲章受章者の杉岡華邨は3月3日午前1時16分、心不全のため奈良市の県立奈良病院で死去した。享年98。 1913(大正2)年3月6日、奈良県吉野郡下北山村に生まれる。本名正美。1933(昭和8)年奈良師範学校(現、奈良教育大学)本科、34年専攻科を卒業後、郷里の尋常高等小学校に赴任。そこで習字の研究授業を命じられたのを機に書道に取り組み、40年に師範学校中学校高等女学校習字科教員免許状を取得(文検合格)。同年より書家辻本史邑のもとで本格的な書の勉強を始める。41年より奈良県立葛城高等女学校、43年より郡山高等女学校で勤務。この頃、国語学・国文学者の吉澤義則の著作『日本書道隨攷』や『日本書道新講』『日本国民書道史論』等から強い影響を受けてかなの道へ進むことを決意し、46年より尾上柴舟に師事、東京へ稽古に通い、柴舟が心酔する粘葉本和漢朗詠集を学ぶ。日展へは三度の落選を経て51年第7回日展に「はるの田」が初入選、その後も二度の落選を経験し、恒常的に入選するようになったのは54年第10回展の「平城京」以降と、40歳を過ぎての遅いデビューであった。57年に尾上柴舟が没すると日比野五鳳に師事し、五鳳のもとで寸松庵色紙、継色紙、西行系の古筆を学ぶ。翌年第1回新日展で西行の筆勢を彷彿とさせる「香具山」、61年第4回新日展で大字かな制作に取り組んだ「鹿」がともに特選・苞竹賞を受賞。65年より哲学者久松真一のもとに通い、思想的指導を受ける。76年日展評議員となり、78年改組第10回日展で「酒徳」が文部大臣賞、83年には「玉藻」により日本芸術院賞を受ける。広く和漢の書法を研究、とくに平安朝のかな書法を極め、宗教的精神や美学、文学的背景も含めた豊かな素養に基づき、流麗典雅で格調高い書風を確立した。84年読売書法会発足に伴い創立総務、85~88年日本書芸院理事長を務める。1989(平成元)年芸術院会員となる。95年文化功労者となり、2000年文化勲章を受章。この間の98年に回顧展「かな書の美 杉岡華邨展」を松屋銀座・心斎橋大丸で開催。この頃日本画家の中路融人との合作を手がけるようになり、同回顧展にも「最上川」を出品。同年奈良市制百周年に際し作品を寄贈したのを機に、2000年奈良市杉岡華邨書道美術館が開館、館長に就任する。01年奈良市名誉市民に推される。06年に脳梗塞で倒れるも翌年には回復、その後も制作を続け、日展には11年第43回展への「妹思ふ」まで出品、翌12年1月の「近江京感傷」が絶筆となる。13年に松屋銀座・高島屋大阪店で開催の生誕100年記念展を心待ちにしながらの死であった。 旺盛な創作活動とともに一貫して教育、研究にも携わり、48年より大阪第一師範学校教官、50年大阪学芸大学(現、大阪教育大学)専任講師、59年助教授、70年教授となって長らく後進の指導に努め、81年名誉教授となる。この間51年より文部省内地研究員として京都大学文学部に留学し、美学美術史、中国文学史、さらに平安朝文学にあらわれた書のあり方を研究。その後も研究心は尽きず、源氏物語にみられる書の研究をライフワークとし、07年に『源氏物語と書生活』(日本放送出版協会)を上梓した。その他の主要著書は以下の通り。『かな書き入門』カラーブックス(保育社、1980年)『古筆に親しむ かなの成立と鑑賞』(淡交社、1996年)『書教育の理想』(二玄社、1996年)『かな書の美を拓く 杉岡華邨・書と人』(ビジョン企画出版社、1998年)

田中三蔵

没年月日:2012/02/27

 ながらく朝日新聞東京本社にて、同紙の美術記事を担当したジャーナリスト田中三蔵は、膵臓がんのため2月27日死去した。享年63。 1948(昭和23)年8月2日、神奈川県川崎市に生まれ、幼少期を東京ですごす。67年3月、東京教育大学附属高等学校を卒業。74年、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、日本彫刻史を専攻した。同年4月、朝日新聞社に入社、高松支局に配属される。79年5月、同社大阪本社学芸部に異動。同社では、家庭面を担当した後、主に娯楽面で落語、漫才を中心とする大衆芸能を担当した。88年10月に東京本社に異動するまでの間、寄席から小さな落語会まで取材にまわり、やがて関西の落語家桂米朝、その一門の落語家たちをはじめ、多くの落語家、漫才師とも親しく交友しながら記事を執筆し、やがて落語家からも一目を置かれるようになった。 東京本社異動後は、はじめ家庭面を担当し、1990(平成2)年1月に雑誌『アエラ』編集部に勤務。91年5月、東京本社学芸部に戻り、文化面にて美術を担当することになる。95年7月に美術担当の編集委員となる。2008年8月2日に定年退職し、引き続き同本社専門シニア・スタッフとなる。病気療養中の10年12月、在職中に執筆した数多くの記事の中から107件を選定してまとめた『駆けぬける現代美術』(岩波書店)を刊行。また、日本大学芸術学部大学院(2002年4月から)、女子美術大学大学院で非常勤講師として教育にあたった。 田中は在職中、とりわけ美術担当記者として同紙に展覧会評、時評、論説等にわたる記事を1500件以上執筆した。90年代から2000年初頭の在職中に執筆した記事の中には、日本の近代美術の見直しと並行して「日本画」概念の再検討と新しい表現の出現のレポート、国立博物館、美術館の独立行政法人化の問題に関する連載、アジア諸地域の経済的な台頭を背景にしたアジアの現代美術のレポート等々、いずれも問題提起をこめた内容であり、現在でも印象に残る。美術ジャーナリストとしての視点は、上記の著作の「後書きにかえて」中で記されているとおり、「美術は進歩しない。拡大する」という認識と「美術の歴史は作家だけではなく、享受者がともに作る」という確信に基づくものであった。その確信は、田中自身「愚直に」を念頭に書いているが、地道な取材をもとに思考しながら書き続けたことから築きあげたものであった。つねに広い視野からの平衡感覚と、目まぐるしく変転する同時代の美術を見ながらも歴史意識をわすれていないために、田中の執筆した多くの記事は、今後も同時代の証言として残ることであろう。没後の12年4月12日、関係者により東京中央区銀座にて「田中三蔵さん お別れの会」が開催され、多くの美術関係者が集まった。

藤平伸

没年月日:2012/02/27

 陶芸家で京都市立芸術大学名誉教授の藤平伸は、2月27日老衰のため死去した。享年89。 1922(大正11)年7月25日、京都市五条坂の藤平陶器所を営む藤平政一の次男として生まれる。父政一と五条坂の作陶仲間として昵懇の仲であったのが、陶芸家河井寛次郎であった。じつは「伸」という名前の命名者は、父の畏友である河井寛次郎であったという。父の仕事を見ながら成長し、1940(昭和15)年に京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)窯業科に入学したが、二年生の時、結核に倒れて退学。四年間の闘病生活の間、スケッチや読書に明け暮れ、回復後は銅版画教室に通う。この時期の体験が後の作陶に大きな影響を与え、「病気をしていなかったら、いまの自分はなかった」と自ら語るように、死に対峙したことにより、清らかさの漂うメルヘン的な作風が培われたと考えられる。 51年頃、父のもとで陶芸の道に入り、53年に日展初入選。56年、京都陶芸家クラブに入って、六代目清水六兵衛氏の指導を受ける。以後、日展を主舞台に活動し、57年に第13回日展で陶板によるレリーフの「うたごえ」が、特選の北斗賞を受賞。我が国の工芸において富本憲吉、河井寛次郎、八木一夫等と共に近代の京都陶芸史に足跡を残す一人となった。70年に京都市立芸術大学に助教授として招かれ、73年に教授となって88年に退官するまで作陶と後進の指導を行っている。 その陶芸の作風には気負いは全く感じられず、まさに自然体の姿勢が創作への源ともなっていた。轆轤を使わず、手捻りやタタラで成形を行っている。作品は単に器だけでなく、人物(陶人形)や鳥や馬などの動物、建築物などの詩情溢れる陶彫も手掛けている。そのモチーフの多くは、中国・漢代や唐代などの俑に代表される、墓に埋納される明器からの影響を受けていた。器には鳥・花・人物などの具象的なモチーフを線描・刻線・貼り付けなどの技法を用いて、軽妙な作風を示している。それら心温まる陶彫と器の作品群などにより、「陶の詩人」とも呼ばれている。 62年に日展菊華賞、73年に日本陶磁協会賞、1990(平成2)年に京都美術文化賞、93年には毎日芸術賞などをそれぞれ受賞。日展評議員、京都市立芸術大学名誉教授でもあった。“遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の聲きけば 我が身さえこそ揺るがるれ”、という平安時代末期に後白河法皇により編まれた今様歌謡(『梁塵秘抄』巻第二)をとくに好み、書にも残している。この歌の精神を持った、まことに京都の文人らしい軽妙洒脱でメルヘンの世界をやきもので表現し、日本の創作陶芸において独自の境地を開拓した陶芸家であった。

福王寺法林

没年月日:2012/02/21

 日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

石元泰博

没年月日:2012/02/06

 写真家で文化功労者の石元泰博は、2月6日肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年90。 1921(大正10)年6月14日、アメリカ合衆国サンフランシスコで生まれる。両親は高知県からの移民。24年両親とともに高知県高岡町(現、土佐市)に移住。1939(昭和14)年高知県立高知農業学校(現、高知県立高知農業高等学校)を卒業、近代農法を学ぶために渡米し、カリフォルニア大学農業スクールに進むが、第二次大戦の開戦により、42年コロラド州の日系人収容所アマチ・キャンプに収容される。44年沿岸諸州への居住禁止を条件に終戦前にキャンプから出ることを許され、シカゴに移住。当初建築を学ぶためノースウェスタン大学に入学するが、キャンプ時代にとりくみはじめた写真趣味が高じ、シカゴでスタジオを経営していた日系人写真家ハリー・K.シゲタ(重田欣二)の推薦を得て地元のカメラクラブに入会、さらに写真を学ぶため48年、インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス、49年にイリノイ工科大学に編入)写真科に入学、ハリー・キャラハン、アーロン・シスキンらに師事した。52年同校を卒業。在学中50年に『Life』誌のヤング・フォトグラファーズ・コンテストに入賞、また優秀学生に授与される学内賞モホリ=ナジ賞を51年、52年に受賞するなど早くからその才能を示した。 53年に帰国。この際、ニューヨーク近代美術館の写真部長を務めていた写真家エドワード・スタイケンの依頼により「The Family of Man」展の出品作品の収集にあたるが、日本の写真界の協力が十分に得られず作品を集めることができなかった。同年開催の「現代写真展 日本とアメリカ」(国立近代美術館、東京)には、スタイケンが選択・構成を担当したアメリカ側の作家の一人として選ばれ出品。またこの年来日したニューヨーク近代美術館建築部門キュレーターの調査に同行、はじめて桂離宮を訪問、撮影に着手した。こうした過程を通じて知り合った吉村順三や丹下健三ら建築家や、批評家瀧口修造、デザイナーの亀倉雄策らが、バウハウスの流れを汲む正統なモダニズムにもとづく石元の作品をいちはやく評価する。丹下とは後に『桂 日本建築における伝統と創造』(丹下およびW.グロピウスとの共著、国内版、造形社、英語版、イェール大学出版部、1960年、改訂版、1970年)を出版した。54年には瀧口修造の企画により個展(タケミヤ画廊、東京)を開催。また54年開校の桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当する(滞米時等の中断をはさみ、66年まで)。57年第1回日本写真批評家協会賞作家賞を受賞(「日本のかたち」「桂離宮」に対して)。58年、造形・構成的な傾向の作品から街中での人物スナップまで、シカゴおよび東京で撮りためたさまざまな写真を三部構成にまとめた写真集『ある日ある所』(芸美出版社)を刊行。 56年に勅使河原蒼風のもとで華道を学んでいた川又滋と結婚。アメリカ国籍であったためビザ更新の必要があり、58年末に夫人とともにアメリカに戻り61年末までシカゴに滞在した。この間同地で撮りためた作品により、62年個展「シカゴ、シカゴ」(日本橋白木屋、東京)を開催。69年には写真集『シカゴ、シカゴ』(美術出版社)を刊行し、同書により翌年毎日芸術賞を受賞する。シカゴから戻ると当初は藤沢に居を定め、71年には品川に移住。この間、66年から72年まで東京造形大学写真科教授として教育に携わる。69年には日本国籍を取得した。 60年代以降の石元は、建築写真および日本の伝統文化をめぐる作品、シカゴおよび東京を中心とする都市風景をめぐる作品、ポートレイト、多重露光などの技法を駆使した実験的な作品など、多様な仕事にとりくんでいく。いずれにおいてもシカゴで学んだモダニズム写真を背景とした、確かな造形感覚や高い写真技術、また自らに妥協を許さない姿勢に裏打ちされたすぐれた仕事を数多く発表し、日本写真界における独自の評価を確立していった。この時期の代表的な作品に、芸術選奨文部大臣賞および日本写真協会賞年度賞(1978年)を受賞した「伝真言院両界曼荼羅」(73年撮影、個展、西武美術館、東京、1977年他国内外を巡回、写真集『教王護国寺蔵 伝真言院両界曼荼羅』平凡社、1977年)や、修復後の81年に再撮影した「桂」(個展「桂離宮」西武百貨店大津ホール、滋賀、1983年他、写真集『桂離宮 空間と形』磯崎新と共著、岩波書店、1983年)、山手線の29の駅の周辺を8x10インチ判カメラで撮影した「山の手線・29」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1983年)、同じく大判カメラで花を撮影した「HANA」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1988年、写真集『HANA』求龍堂、1988年)など。 80年後半から90年代以降、石元は、路上の落ち葉や空き缶、雪に残る足跡、自宅から見た雲など、刻々と形を変えていく被写体をめぐる一連の作品にとりくむ。「さだかならぬもの」と写真家自身が呼んだこれらの被写体をめぐる仕事は「石元泰博―現在の記憶」(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室、1996年)などで発表された。こうした試みは2000年代にかけて、より不定形な被写体である水面の反射や、渋谷の雑踏でのノーファインダー撮影によるスナップショットなどへと展開し、写真集『刻―moment』(平凡社、2004年)、『シブヤ、シブヤ』(平凡社、2007年)などにまとめられ、晩年になっても新たな探求を続ける姿勢が注目された。また90年代以降には、「石元泰博―シカゴ、東京」展(東京都写真美術館、1998年)、「Yasuhiro Ishimoto:A Tale of Two Cities」(シカゴ美術館、1999年)、「石元泰博写真展1946-2001」(高知県立美術館、2001年)、「石元泰博写真展」(水戸芸術館、2010年)などの回顧展が開催され、長いキャリアの再検証・評価も進められた。 上述以外の主な受賞・受章に83年紫綬褒章、1990(平成2)年日本写真協会賞年度賞、92年日本写真協会賞功労章、93年勲四等旭日小綬章などがある。96年には文化功労者に選ばれ、死去後、正四位旭日重光章が授与された。 01年の高知県立美術館での個展開催をきっかけに、石元は故郷高知県に作品の寄贈を申し入れ、全作品の寄贈が04年に決定し、プリント、ネガフィルム、ポジフィルム、蔵書等が生前より没後にかけ、段階的に寄贈された。これをうけて14年6月、高知県立美術館に石元泰博フォトセンターが開設され、著作権管理を含む石元作品の保存・研究・普及を担うアーカイヴとしての活動を開始した。

石岡瑛子

没年月日:2012/01/21

 デザイナー、アートディレクターとして国内、ならびにアメリカを中心に多彩な活動をした石岡瑛子は、1月21日膵臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年73。 1938(昭和13)年7月12日、東京都に生まれる。61年3月、東京藝術大学美術学部工芸科図案部卒業。資生堂に入社後、同社サマーキャンペーン「太陽に愛されよう」(1966年)等、担当したポスターがつぎつぎと注目を集め、65年には日本宣伝美術会(略称:JACC、通称:日宣美)主催の第15回公募展にて、「シンポジウム:現代の発見」ポスター3点により「日宣美賞」受賞。70年に石岡瑛子デザイン事務所を設立、フリーランスのデザイナーとして活動の幅を広げた。PARCOや角川書店の広告等を担当し、75年にPARCOの一連の広告デザインにより第21回毎日デザイン賞受賞。79年に制作された「西洋は東洋を着こなせるか」(PARCO)などのコピーとともに、無国籍的な鮮烈なイメージのポスターは、メッセージとともに高度成長期の日本において社会的な注目をあつめた。80年代以降、活動の場をアメリカ等の海外にひろげ、85年アメリカ等で公開されたポール・シュレーダー監督の映画「MISHIMA」の美術監督をつとめ、これによって同年第38回カンヌ国際映画祭芸術貢献賞受賞。87年、マイルス・デービスのアルバム『TUTU』のアート・ワークでグラミー賞受賞。88年、ブロードウェイのミュージカル『M.バタフライ』の舞台セットと衣装の部門で、トミー賞にノミネートされた。写真集『ヌバ』を契機に、第二次世界大戦をはさんでドイツの女優、映画監督、写真家として活動していたレニー・リーフェンシュタールに直接取材をかさね、プロデューサーとして企画構成にあたり、1991(平成3)年12月にレニー・リーフェンシュタール展(Bunkamura ザ・ミュージアム)を開催。92年に公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の映画「ドラキュラ」では、監督からの要望でコスチュームデザインを担当、これによって第65回アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。その後も、映画、ミュージカル、オペラ、ミュージック・ビデオ等において舞台美術、コスチュームデザインなどを担当して多岐にわたり効果的で斬新な視覚表現に取り組んだ。2002年、紫綬褒章受章。05年6月、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の教授として後進の教育にあたった(翌年3月まで)。08年、北京オリンピックの開会式では衣装デザインを担当した。 グラフィックデザインからはじめた石岡の仕事は、つねに時代の先端を意識しながら、近未来的な志向と東西両洋にわたる時間と空間の間を縦横に横断する柔軟な感性に裏づけられたもので、その感性からうまれたアイデアを卓抜した企画構成力によって実現してきたからこそ、国を越えて多くの人に新鮮な驚きと共感を呼び、世界的にも高く評価された。なお作品集には、国内において『石岡瑛子 風姿花伝』(求龍堂、1983年)、『EIKO ISHIOKA』(世界のグラフィックデザイン68、公益財団法人DNP文化振興財団、2005年)等があり、またそれぞれの大きなプロジェクトにあたっての回想的な文集に、『私デザイン』(講談社、2005年)がある。

山口桂三郎

没年月日:2012/01/17

 浮世絵研究者で国際浮世絵学会会長の山口桂三郎は1月6日、東京国立博物館での中国故宮博物院展開会式出席の後に転倒して救急治療を受けたが、1月17日未明に心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年11月3日、東京千代田区に生まれる。生家は駿河台ホテルを営んでいた。本名は昭三郎。桂三郎は自らの好む桂の字を入れた筆名である。明治大学史学科で神道美術を中心に学び、57年、明治大学大学院史学専攻修士課程を修了。59年に「雪舟」(『駿台史学』9号)を発表。60年、同博士課程を修了。59年12月「垂迹画の特長」(『美学』43号)を、61年には「拝殿と能舞台-万祥殿の建築について-」(『風俗』1巻2・3号)、62年には「板絵春日曼荼羅・仏涅槃図解説」(『国華』840号)、「風俗資料としての神道絵画」(『風俗』2巻2・3号)を発表するが、藤懸静也と出会って浮世絵の研究に進む。日本浮世絵協会に所属して、研究者のみならず、浮世絵版画の工房や技術者、愛好家や美術商をも含む浮世絵界全体を盛り立てるべく尽力し、会誌『浮世絵芸術』の編集発行に長く携わった。61年より日本大学、戸板女子短期大学、東洋大学、明治大学等にて非常勤講師をつとめて浮世絵について教授し、76年に立正大学教養学部助教授となり、80年に同教授となった。1991(平成3)年に日本浮世絵協会理事長となり、また同年から10年間、櫛形町春仙美術館館長をつとめた。98年日本浮世絵協会が国際浮世絵学会に改組されるにあたり、同会会長となり、国際浮世絵大会の実施、平成の浮世絵事典の編集刊行、学会企画の浮世絵展の実施を目標に掲げ、国際学会の開催や2008年に学会編による『浮世絵大事典』(東京堂出版)の刊行を実現させた。一方、衰退していく浮世絵制作技術を残し、次代に継承しようと、日本の伝統工芸品としての浮世絵の評価の確立に尽力。浮世絵の支持体である和紙製造、木版画の版木作成、摺りの技術の伝承のために、92年の東京伝統木版画協会の発足に参加し、「江戸木版画」が東京都伝統工芸品の指定を受けるのに寄与した。また、98年から04年まで安藤広重の「名所江戸百景」120景の復刻事業に参加し、それらの復刻作品の展覧会開催にも尽力して浮世絵作成技術の伝承と作品の普及につとめた。07年に「江戸木版画」が経済産業省の「伝統的工芸品」に指定される際にも、同省への説明に出向いている。99年3月に立正大学を定年退職して同名誉教授となり、長年の研究をまとめた「浮世絵における美人・役者絵の史的研究」で04年、立正大学より文学博士号を取得した。能楽にも造詣が深く、特権階級の文化や信仰にまつわる造形への理解を踏まえて、市井の人々の生活と深く結びついた浮世絵について考究し、その普及につとめた。著作には以下のようなものがある。『浮世絵名作選集19 江戸名所』(日本浮世絵協会編、山田書院、1968年)『東洋美術選書 広重』(三彩社、1969年)『浮世絵大系7 写楽』(編集製作:座右宝刊行会、集英社、1973年)『浮世絵大系11 広重』(同上、1974年)『浮世絵概論』(言論社、1978年)『浮世絵聚花4 シカゴ美術館 1』(鈴木重三と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花11 大英博物館』(楢崎宗重と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花12 ギメ東洋美術館・パリ国立図書館』(小学館、1980年)『原色浮世絵大百科事典6-9巻』(浅野秀剛と共著、大修館書店、1980-82年)『肉筆浮世絵 清長 重政』(集英社、1983年)『写楽の全貌』(東京書籍、1994年)『東洲斎写楽』(浅野秀剛・諏訪春雄と共著、小学館、2002年)

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

 日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された《聖武天皇・光明皇后御影》対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

細見華岳

没年月日:2012/01/01

 綴織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の細見華岳は1月1日、急性心不全のため死去した。享年89。 綴織は「爪で織る錦」とも称され、かつては天竺織、納錦、綴縷錦、などの字が充てられていた。経糸の下に原寸大の下絵を置き、杼に通した緯糸で経糸を綴りわけ文様を表す。その特長は、文様表現に必要な部分のみ色糸を入れるため、多彩で複雑な絵柄も自由自在に表現できる。綴織の技術者は爪先が櫛状に砥がれ整えられているが、細見華岳の爪も同様に整えられていたという。 綴織は正倉院御物にも確認されるが、日本で織りだされたのはいつ頃かは定かではない。林瀬平が織りだしたという説(『西陣天狗筆記』)や、京都御室にある仁和寺の僧が手内職に綴れを織り始めた、など諸説ある。明治時代に入ると2代川島甚兵衞の尽力もあり室内装飾品として重宝された。戦前までは京都の御室で織られたものが本綴れと称され、御室界隈には綴れを織る機屋が集中した。 細見華岳は1922(大正11)年8月23日、兵庫県氷上郡春日町(現、丹波市)の農家に生まれる。37年、京都西陣の帯の織元、京都幡多野錦綉堂に入所。綴織の技術を習得する。40年に始まる七・七禁令施行時には企業が川島織物などに合併されながらも仕事を続けていたが、43年に徴兵され満州第11国境守備隊に入隊する。敗戦後はシベリアに抑留され、48年に帰国。 帰国後、故郷の丹波へ戻ったが織物の道を再び志し、翌年、綴れの聖地御室に独立して綴織工房をもつ。独立後は羅の重要無形文化財保持者である喜多川平朗、友禅の重要無形文化財保持者である森口華弘などに指導を受けながら日本伝統工芸展を中心に活躍した。喜多川平朗に勧められ出品した第1回日本伝統工芸近畿展に出品し入選。その後、63年には第10回日本伝統工芸展に綴帯「ながれ」を出品し初入選。翌年の日本伝統工芸染織展では綴帯「陶彩」で日本工芸会賞を受賞する。65年、社団法人日本工芸会正会員に認定。68年、日本伝統工芸染織展にて日本工芸会賞受賞。この頃より「よろけ織」への挑戦を始める。75年、近畿支部日本伝統工芸展にて大阪府教育委員会賞受賞。同年、京都府伝統産業新製品作品展にて奨励賞受賞。 76年には、フランス・ポーランド・旧ユーゴスラヴィアで開催された「現代日本の染織展」に出品。84年の第21回日本伝統工芸染織展では紗変織夏帯「渚の月」にて文化庁長官賞受賞。翌年、第32回日本伝統工芸展では綴帯「友愛」にて日本工芸会会長賞を受賞。この作品は日中友好10周年を記念して中国へ行った時に訪ねた動物園の孔雀の美しさに感動し誕生したという。友愛の名はかつて戦った中国の人々が親切だったことに感動してつけられた。87年、第34回日本伝統工芸展では有紋薄物着尺「爽」が保持者選賞を受賞。1990(平成2)年には銀座・和光にて個展「綴と50年」を開催する。 翌年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部教授に就任。97年まで学生の指導にあたる。92年、京都府指定無形文化財「綴織」保持者に認定。93年には勳四等瑞宝章を受章。96年銀座・和光にて個展「つづれ織・波と光」を開催。京都市の指定より5年後の97年には重要無形文化財「綴織」保持者(人間国宝)に認定される。98年、式年遷宮記念神宮美術館に綴帯「晨」等を献納。2002年、京都市文化功労者表彰。03年銀座・和光にて個展「-つづれ織・糸の旋律-」を開催。05年、西陣織物館に綴織額を寄贈。翌年、横浜のシルク博物館にて「-綴織に心をこめて-人間国宝 細見華岳展」が開催される。11年には卒寿を記念して「細見華岳展―つづれ織・糸の旋律―」(銀座・和光)を開催。 作品は文化庁、東京国立近代美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

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