本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





多木浩二

没年月日:2011/04/13

 評論家の多木浩二は4月13日、神奈川県平塚市の病院で肺炎のため死去した。享年82。 1928(昭和3)年12月27日、兵庫県神戸市に生まれる。57年東京大学文学部美学美術史学科卒業。名取洋之助のスタッフとして『岩波写真文庫』の制作、編集に携わる。59年博報堂に入社。61年編集デザイン事務所ARBO(アルボ)を設立、旭硝子の広報誌『ガラス』の企画、編集、執筆、撮影を行なう。同誌関連での60年代におけるヨーロッパの建築体験が後に建築を考察する基盤となる。 美術評論では、55年第2回美術出版社芸術評論で「井上長三郎論」で佳作入選(『みづゑ』1955年8月号掲載)。その後、『美術手帖』、『デザイン』などに執筆をするようになる。60年代末の活動としては、日本写真家協会が主催した「写真100年展」(『日本写真史1840-1945』平凡社1971年に結実)の仕事を経て、中平卓馬、高梨豊らと68年に刊行した同人誌『PROVOKE―思想のための挑発的資料』(季刊、プロヴォーク社、3号まで)がある。彼らのブレボケ写真は既成のリアリズム写真を批判した。しかし90年代後半からの同誌への過大評価に対して、晩年多木は嫌悪に近い感慨をもっていた。 多木が扱う領域は建築、写真、美術、デザイン、都市と幅がひろい。主に関わった作家たちには、篠原一男、坂本一成、磯崎新、倉俣史朗、桑山忠明、楠本正明、大橋晃朗らの名があがってくるが、ミニマル系の系譜がみえてくる。彼の方向はジャンルを重層的に捉えているが、物と空間、そして社会との関係を深層の域から意識化していくことであった。初期の重要な著作『生きられた家』(田畑書店、1976年)は、初出は篠山紀信の写真集『家』に掲載されたテキストだが、単行本化、改訂を4度行ない、記号論的な思考を深化させていった。さらに『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)は、写真の芸術性よりも社会のなかに写真メディアが位置づけられる過程を問い、ベンヤミンを援用して論じていく。80年代に到り、モチーフは広がり、『絵で見るフランス革命』(岩波新書、1989年)で歴史論へと向かい、「やっとここまできた」と述懐していた。40数冊の書籍の多くが、青土社と岩波書店から上梓されており、身体論やキャプテン・クックなどへの広がりは、編集者三浦雅士との信頼関係によるところがある。1994(平成6)年からは八束はじめと季刊誌『10+1』(INAX出版)の編集を始める。美術論では、『神話なき世界の芸術家―バーネット・ニューマンの探究』(岩波書店、1994年)でアメリカ抽象表現主義の絵画を、『シジフォスの笑い―アンセルム・キーファーの芸術』(同、1997年、芸術選奨文部大臣賞)で歴史と絵画について考察した。さらに、60年代からモチーフとしていたデ・ステイルのなかから身体論(例えばリートフェルトの椅子)を含め、20世紀の特異な表象「抽象」について、モンドリアンの絵画をとおして考察していくことが晩年の課題であったが、形にはならなかった。日本近代絵画についての論考としては、靉光論「絵画というものの探求」(『靉光』展図録、練馬区立美術館他、1998年)などがある。教育者としては、67年和光大学助教授就任をはじめ、東京造形大学教授、千葉大学教授などを歴任した。著作目録については『建築と日常・別冊(多木浩二と建築)』(2013年)が参考となる。

大西博

没年月日:2011/03/31

 東京藝術大学准教授の大西博は3月31日、滋賀県長浜市の琵琶湖上で釣舟転覆水難事故に遭い死去した。享年49。 1961(昭和36)年6月18日、徳島県池田町に生まれる。東京都立保谷高等学校を卒業し、82年に東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。テンペラ絵画と油絵具の併用技法である混合技法を学び、1989(平成元)年に同大学大学院美術研究科油画技法・材料第一研究室を修了。フランドルやドイツの絵画に憧れ、92年から97年にかけてドイツのニュルンベルク美術大学絵画科に留学。ドイツ滞在中、自らが外国人であり日本人であるという認識から、キャンバスや油絵具等、それまで慣れ親しんできた画材と距離を置き、和紙に日本画の技術で描くことを試みるようになる。帰国後は東京藝術大学油画研究室、続いて油画技法・材料研究室の非常勤講師を担当し、2002年より同研究室の常勤講師となる。03年には東京藝術大学アフガニスタン文化支援調査団第三次調査団に参加、カブールでのラピスラズリの原石との出会いをきっかけとしてその精製法に取り組み、画材メーカーと水彩絵具「本瑠璃」を開発。自身の制作においても、同画材を使用したモノトーンの静謐な作風に到達する。06年、東京藝術大学美術学部絵画科(油画技法・材料)助教授となる。死の前月に開催された個展(表参道画廊)では南禅寺塔頭天授庵に設置される襖絵十二面を発表。没後の12年には東京藝術大学大学美術館陳列館で、同大学油画技法・材料研究室の主催により「大西博 回顧展 ―幻景―」が開催された。

佐藤忠良

没年月日:2011/03/30

 彫刻家で、東京造形大学名誉教授の佐藤忠良は3月30日、老衰のため東京都杉並区永福の自宅で死去した。享年98。 1912(明治45)年7月4日、宮城県黒川郡落合村舞野字仁和多利86番地(現、大和町落合字舞野)に生まれる。父は郡立黒川農学校の教師をしていた。1919(大正8)年、前年に父が没したため、母の実家である北海道夕張町に転居。1930(昭和5)年3月、札幌第二中学校を卒業、32年画家を志して上京、中学校の一年下であった船山馨(小説家、1914-1981)の下宿に同居しながら川端画学校に通学。34年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学、同級に舟越保武、山本恪二、昆野恆等がいた。37年4月、美術学校の先輩であった柳原義達のすすめで第12回国画会に「裸習作」等を出品、初入選で同会奨学賞を受賞。同年、中学の先輩にあたる本郷新、山内杜夫等が前年結成した造型彫刻家協会(ZTK)に参加。38年10月、第2回文部省展覧会に「女」が初入選。39年3月、東京美術学校を卒業、国画会彫刻部を退会した本郷新、山内杜夫とともに新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となる。同年11月の第4回同協会展に「海(トルソ)」、「空(トルソ)」を出品。以後、同協会展に2009(平成21)年まで、戦中、戦後の一時期をのぞき毎回出品。44年7月召集、満州に渡り、ソ連、朝鮮国境近くの東寧に派遣される。45年、終戦を知らぬまま約一か月間逃避行をつづけた後に投降、その後3年間シベリアの収容所(イルクーツク州タイシュタット)に抑留。48年夏、舞鶴港に帰還。東京世田谷の本郷新のアトリエに寄寓して、制作活動を再開。 52年9月、第16回新制作展に「群馬の人」を出品。この作品は翌年1月の朝日新聞社主催第4回秀作美術展に選抜された後、東京国立近代美術館に収蔵された。「群馬の人」は、後に「美男美女でない日本人の顔を作り続けたが、(中略)本当のいい男、女、言いかえれば生き生きした人間の顔を作りたかっただけだったのだ。」(『つぶれた帽子』より)と記しているが、当時は素朴ながら力強いリアリズムが評価された。59年、絵本『やまなしもぎ』(福音館書店)を刊行、以後『おおきなかぶ』(1962年)等絵本原画の制作が80年代までつづく。60年4月、「群馬の人」をはじめとする一連の日本人の顔をテーマにした作品に対して、第3回高村光太郎賞を受賞。50年代から60年代にかけては、女性像と並行して、小児をモデルにその無垢な表情と動作を表現した作品の制作をつづけた。66年、東京造形大学美術科主任教授となる。71年、同大学の学生たちとヨーロッパ各地を訪れる、これが初めてのヨーロッパ旅行であった。72年、第36回新制作展に「帽子・夏」を出品、この時期より帽子をかぶり、ジーパンをはいた女性像が現代的で新鮮な具象表現として注目された。73年10月、「支倉常長像」がメキシコ南部の都市アカプルコ・デ・フレアス市に設置されるにあたり、除幕式に出席。その帰途アメリカ、ヨーロッパ各地を巡り、ヘンリー・ムーア、マリノ・マリーニ、ジャコモ・マンズー等のスタジオを訪れる。74年1月、前年11月東京で開催した「佐藤忠良自選展」の評価により第15回毎日芸術賞、また「帽子・あぐら」(前年9月、第37回新制作協会展出品)により、同年3月芸術選奨文部大臣賞をそれぞれ受賞。75年10月、「カンカン帽」(1975年9月、第39回新制作展出品)により第6回中原悌二郎賞を受賞。 81年5月、パリの国立ロダン美術館にて、彫刻117点、デッサン20点からなる「Churyo Sato(佐藤忠良展)」開催。同年8月、「パリ・国立ロダン美術館開催記念;ブロンズの詩・佐藤忠良展」を国立国際美術館で開催。同展は、その後、83年までに全国8館を巡回。86年、東京造形大学名誉教授となる。88年11月、彫刻94点、レリーフ5点、デッサン50点等から構成された「佐藤忠良のすべて」展が岩手県民会館で開催され、これを皮切りに全国11会場を巡回。89年1月、1988年度朝日賞を受賞。90年6月、宮城県美術館に佐藤忠良記念館が開館。92年、彫刻芸術と地方文化の振興に寄与した功績により第41回河北文化賞受賞。同年8月、テレビ番組収録のためにシベリアの抑留地付近を再訪、同年10月にNHK衛生放送で「彫刻家佐藤忠良の世界」が二日間にわたり放送される。95年4月、生誕地である宮城県大和町の大和町ふれあい文化創造センター内に佐藤忠良ギャラリーが開設。98年3月、佐川美術館(滋賀県守山市)内に佐藤忠良館が開設、記念展が開催される。2008年9月、札幌芸術の森野外美術館内に佐藤忠良記念子どもアトリエが開設。10年12月、世田谷美術館で「ある造形家の足跡:佐藤忠良展」が開催され、彫刻87点、素描72点、絵本・挿絵原画79点等が出品された。同展が、生前最後の個展になった。 佐藤は、柳原義達(1910-2004)、舟越保武(1912-2002)とならんで、戦後の良質な具象彫刻において欠くべからざる存在であり、その作品は生活感情と時代感覚に根ざした現代の人間像として生き生きと表現した点で高く評価される。長期間にわたる創作のなかで生まれた数々の作品は、作風の上で大きな展開があるわけでもなく、また各時代の流行や風俗と無縁ではない。しかし一貫しているのは、写実を通して生きた人間を表現することに徹したものであった。上記の展覧会において刊行された図録等の他に、下記のような作品集、著作がある。主要な作品集『彫刻=佐藤忠良1949-1971』(現代彫刻センター、1971年)『佐藤忠良作品集』(現代彫刻センター、1973年)『佐藤忠良作品集 大きな帽子』(現代美術社、1978年)『旅の走り描き 自選素描集』(現代美術社、1980年)『アトリエの中から 自選素描集』(現代美術社、1980年)『佐藤忠良』(全2冊、講談社、1989年)『佐藤忠良作品集』(河北新報社、1990年)藤田観龍『佐藤忠良写真集―全野外作品』(本の泉社、2003年)『佐藤忠良 彫刻七十年の仕事』(講談社、2008年)主要な著述集等『対談 彫刻家の眼』(対談舟越保武)(講談社、1983年)『子どもたちが危ない―彫刻家の教育論』(岩波書店、1885年)『つぶれた帽子』(日本経済新聞社、1988年)『触ることから始めよう』(講談社、1997年)『ねがいは「普通」』(対談安野光雅)(文化出版局、2002年)『彫刻の〈職人〉佐藤忠良―写実の人生を語る』(草の根出版会、2003年)『生誕100年 彫刻家佐藤忠良』(美術出版社、2013年)

鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

 美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

吉村益信

没年月日:2011/03/15

 現代美術家でネオ・ダダのリーダーだった吉村益信は、3月15日、多臓器不全のため死去した。享年78。 1932(昭和7)年5月22日、大分市で薬局を営む父益次、母幸の九男として生まれる。48年、大分第一高等学校入学。一学年上に磯崎新、赤瀬川隼がいた。高校二年の時に青木繁の画集を見て画家になることを決意。この頃から、地元の画材店キムラヤに出入りするようになる。51年、東京藝術大学受験に失敗し、武蔵野美術学校に入学。同年、大分のキムラヤで結成されたグループ新世紀群に参加し、第1回新世紀群同人展に出品する。新世紀群には、磯崎新、風倉匠、中学生だった赤瀬川原平なども関わっており、後のネオ・ダダの原型となった。52年、新世紀群野外展を若草公園で開催(56年まで)。55年、武蔵野美術学校を卒業。この頃、国分寺の旧児島善三郎アトリエに移り、日本アンデパンダン展(第7~10、12、13回)、読売アンデパンダン展(第7~14回)に出品を始める。また、55年4月に新世紀群主催の座談会に池田龍雄を招いたことをきっかけに、「制作者懇談会」や岡本太郎主宰「アートクラブ」に出席し、アヴァンギャルドの精神を吸収していった。57年、赤瀬川隼の結婚式で磯崎新に描いてもらった図面をもとにしたアトリエ「ホワイトハウス」が新宿百人町に完成。若い前衛芸術家たちが集まるようになる。赤瀬川原平、風倉匠、磯崎新らに呼びかけ、60年に「オール・ジャパン」結成。しかし、本格的に活動を始める前に、篠原有司男が合流し、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を改めて結成する。4月には第1回展を銀座画廊で開き、吉村は折り畳み可能な「携帯絵画」を出品するとともに、ポスターを全身に巻いて街中を練り歩くパフォーマンスで注目を集める。その後も立て続けに、「安保記念イベント」(6月、ホワイトハウス)、第2回ネオ・ダダ展(7月、同上)、「ビーチ・ショウ」(7月、鎌倉安養院/材木座海岸)、第3回ネオ・ダダ展(9月、日比谷画廊)とイベントを行うが、10月に吉村が石崎翠と結婚したことで、ネオ・ダダは事実上解散する。ネオ・ダダ活動中は作品制作の余裕がなかったが、62年の読売アンデパンダン展で展示空間を埋め尽くすような作品「ヴォイド」を出品し話題となる。同年8月、国立市公民館での「敗戦記念晩餐会」、磯崎新邸での壮行会を経て、ニューヨークに渡る。 ニューヨークでは大工やディスプレイの仕事をしながら制作を続ける。その際、他の日本人作家たちにも仕事を斡旋するなど、リーダーとしての資質を発揮。渡米当初は「ヴォイド」シリーズの制作を続けていたが、66年にカステレーン・ギャラリーで開催した個展「HOW TO FLY」では、電球を使用した作品を発表し、ライト・アートの先駆となる。同年、ビザのトラブルで帰国を余儀なくされる。帰国後は、電球やネオンを使った作品の制作を続けるが、アトリエが手狭なために、自身は図面を引くだけで制作は工場に発注する「発注芸術」と呼ばれる制作方法をとる。ライト・アートと発注芸術は、68年の第8回現代日本美術展でコンクール優賞となった「反物質 ライト・オン・メビウス」に結実する。70年の大阪万国博覧会に際しては、「貫通」という会社組織を作り、若い作家たちを雇い、彼らに活躍の場を与えた。万博のせんい館のために作られた巨大なカラスのオブジェ「旅鴉」は、のちにデュシャンの作品になぞらえて「大ガラス」と改名されたことで知られる。吉村のリーダーシップが発揮された「貫通」も、万博の終了と共に仕事の機会が減るなどして解散。テクノロジーに彩られた万博のあと、吉村は第10回現代日本美術展にサヴィニャックのポスターを元にしたオブジェ「豚・pig lib;」を出品し、新しい作風を見せる。翌72年には、サトウ画廊で個展「群盲撫象」を開催し、象の身体部位を切り落としたようなオブジェを発表する。万博前後のこの時期は、異なるスタイルで自身の代表作となる作品を次々と作り出した豊穣な時期となった。75年にこれまで様々な組織を牽引してきた実績をかわれ、国内外の作家から要請されてアーティスト・ユニオン結成に伴うまとめ役を引きうけるが、79年には事実上消滅した。精神的にも疲弊していた吉村は神奈川県秦野市の山中にアトリエを構え、アートシーンの中心から離れていった。90年代に、戦後の前衛美術の再評価が高まるなか、福岡のギャラリーとわーるで行われた石松健男の写真展「60年代ネオ・ダダと!」(1992年)や福岡市美術館の「流動する美術―ネオ・ダダの写真」展(1993年)によって、ネオ・ダダにも注目が集まる。1994(平成6)年の個展「ウツ明け元年」(佐野画廊)で「豚;Pig Lib;」を再制作し、吉村はふたたび表舞台に登場する。その後も、「ヴォイド」や「携帯絵画」などの再制作を行い、ほとんど作品が残っていなかったネオ・ダダの再評価に寄与する。2000年には地元である大分市美術館で回顧展「応答と変容 吉村益信の実験展」が開催された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

 美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

村野守美

没年月日:2011/03/07

 漫画家の村野守美は、3月7日心不全のため東京都府中市の病院で死去した。享年69。 村野(本名、佐藤守)は1941(昭和16)年9月5日、中国の満洲(現、中国東北部)の大連に生まれた。48年に引き上げ、幼少期を福島県会津若松で過ごした。高校を中退後、上京し手塚治虫に師事する。一時期手塚の虫プロダクションで働き、「鉄腕アトム」などの原画を描いた。60年『少年』の夏増刊号にロボットものの「弾丸ロンキー」でデビューする。78年、『週刊漫画アクション』に連載した「ボクサー」が高い評価を得る。また79年『ビッグコミックオリジナル』におてんばな老婆を主人公にした「垣根の魔女」を連載、ともに代表作といわれる。「草笛のころ」や「だめ鬼」など彼の多くの作品は青年誌に掲載されていった。日常をきめ細かく取材する視点から紡ぎだされるストーリー、そしてやわらかな美しい輪郭線にみられる確かな画力により、多くのファンを持った。漫画家永島慎二は村野を「人間の心を読ませる事の出来る数少ない作家の一人」といった。アニメーションも手がけ、「佐武と市捕物帳」や「ムーミン」の制作演出にも携わり、「ユニコ―魔法の島へ」(1983年)は、脚本・監督をしている。童話や絵本も多数上梓しているが、80年代半ばから、宮沢賢治や高村光太郎などへモチーフを広げていき、外国の古典、「ピーターパン」「シンドバットの冒険」などを描いた。90年代、「神々の指紋」で著名なグレーアム・ハンコックを原作とした作品、また池波正太郎の江戸ものを手がけた。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

 美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

 文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

杵島隆

没年月日:2011/02/20

 写真家の杵島隆は2月20日、敗血症のため東京都新宿区内の病院で死去した。享年90。 1920(大正9)年12月24日アメリカ合衆国カリフォルニア州カレキシコに、移民一世の父母のもと生まれる。旧姓渡邊。24年にいわゆる排日移民法が施行され、その影響を懸念し、母の実家である鳥取県西伯郡の杵島家に預けられ、養子として育てられる。1938(昭和13)年鳥取県立米子中学校卒業。アメリカ国籍であったため進学に不都合を生じ、電気会社に就職するが、39年養父の知人増谷麟が重役を務める東宝映画株式会社に増谷の推薦により入社し、東宝の委託学生として日本大学専門部映画科に入学する。42年同大学を繰り上げ卒業し、東宝撮影所に勤務。43年杵島家の籍に入り日本国籍を取得、海軍飛行予備学生に志願、海軍航空隊に任官し各地を転戦、福岡の基地で特攻待機中に終戦を迎え、除隊後帰郷。 終戦直後に知人からカメラを譲られ、中学時代にとりくんだ写真撮影を再開、作品を作り始めるとともに、郷里で現像・焼き付けや撮影などの仕事を手がけるようになる。48年には同郷の写真家植田正治に師事。戦後に復刊した『アサヒカメラ』、『カメラ』など写真雑誌の月例懸賞欄に作品を投稿、入賞を重ねる。とくに『カメラ』1950年5月号月例で特選となった「老婆像」は、ソラリゼーションの技法によるマチエールを生かした表現により、同欄の評者を務めていた土門拳に高く評価され、杵島の存在を広く知らしめるものとなった。50年植田を中心に山陰地方の若手写真家が結成した「写真家集団エタン派」に参加。広告写真の懸賞にもたびたび入賞し、53年には上京してライト・パブリシティに入社、広告写真家として活動を始める。55年にフリーランスとなり、56年キジマスタジオを設立。 広告写真家としてさまざまな撮影を手がけるかたわら、「グラフィック集団」(55年の第2回展から参加)、女性写真の分野で活躍する秋山庄太郎、稲村隆正らが結成した「キネグルッペ」(56年に参加)などの活動に加わり、58年には個展「裸」(富士フォトサロン)で、皇居桜田門前で撮影した斬新なヌード作品を発表するなど、作家活動も並行して展開した。 60年代以降も広告写真やファッション写真などの撮影のほか、テレビCMの制作やショーウィンドーディスプレーなど幅広い分野の仕事を手がける。とくに蘭の撮影と、歌舞伎や文楽などの伝統芸能をめぐる撮影はライフワークとなり、75年に出版された写真集『蘭』(講談社)により76年日本写真協会賞年度賞を受賞した。その他の主要な写真集に『義経千本桜』(日本放送出版協会、全4冊、1981年)、『裸像伝説1945-1960』(書苑新社、1998年)がある。 58年に日本広告写真家協会の結成に参画した他、日本写真家協会副会長(88-90年)、東京写真文化館館長などを務めた。1991(平成3)年に勲四等瑞宝章、2001年に日本写真協会賞功労賞を受賞。また同年には米子市美術館で回顧展が開催された。詳細な年譜が同展図録に収載されている。

井波唯志

没年月日:2011/01/25

 漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

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