本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





富永謙太郎

没年月日:1985/01/15

 村松梢風作「近世名勝負物語」の挿絵などで知られる挿絵画家富永謙太郎は、1月15日午前4時51分、心筋梗塞のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年80。明治37(1904)年2月12日静岡県に生まれる。高等小学校卒業後上京、絵看板屋などで働きながら絵を学ぶ。昭和2年独立し友人と商業美術工芸社を設立、絵看板を描く。6年島田啓三を知り、ポケット講談社で子供雑誌の挿絵を描き始める。7年『ポケット講談』に書いていた作家藤森順三の紹介で菊池寛の知遇を得、認められて『日の出』に菊池寛の短編「妻は見たり」の挿絵を描く。翌8年には読売新聞に載った菊池寛「結婚街道」の挿絵を描き、また江戸川乱歩「地獄の花嫁」など現代小説や探偵小説の挿絵を多く手がける。竹田敏彦、長田幹彦、久米正雄、横溝正史、富田常雄らとの仕事も多く、写実的な美男美女の挿絵を得意とした。代表作に、菊池寛の少女小説第一作「心の王冠」、読売新聞で28年から8年間続いた村松梢風「近世名勝負物語」、江戸川乱歩「地獄の道化師」などがある。作家クラブ名誉会員で岩田専太郎、志村立美とともに挿絵界の三巨匠として知られた。

寺本忠雄

没年月日:1985/01/14

 挿絵画家寺本忠雄は、1月14日午前零時21分脳梗塞のため、東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年83。明治34(1901)年2月15日東京市深川区に生まれる。独学で絵を学び、大正8年『少年倶楽部』『武侠少年』などの少年雑誌でデビュー。のち『オール読物』『講談倶楽部』『富士』『サンデー毎日』ほか、大衆雑誌、婦人雑誌の現代小説に挿絵を描く。大正13年より新聞小説も手がけ、朝日新聞、読売新聞、報知新聞、国民新聞などに挿絵を描いた。この間、大正10年荒木十畝に師事、日本画を学び、読画会に入る。菊池寛、久米正雄、直木三十五らとのコンビによる小説挿絵を多く担当し、代表作に昭和7年菊池寛作「妖麗」(『講談倶楽部』)、同年中村武羅夫作「薔薇色の道」(『富士』)、同10年小島政二郎作「感情山脈」(朝日新聞)の挿絵がある。写実的な美人画をよくしたが、戦後、時代小説に転向、江戸川柳を絵画に描くなど、独自の境地を拓いた。『夫婦草紙』『夫婦絵草紙』など3冊の著書を残している。

小野末

没年月日:1985/01/10

 洋学家で安井曽太郎記念会理事の小野末は、1月10日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年74。明治43(1910)年4月10日新潟市に生まれる。本名末吉。昭和9年新潟師範学校卒業後上京、安井曽太郎に師事しその内弟子となった。同13年2回一水会展に初入選、同18年7月一水会展で「早春」などで一水会賞を受賞する。戦後の同21年一水会会員となる。同23年10回一水会展に「華街展望」で一水会優賞を受賞。また、同24年一燈園新人賞、同25年第1回アトリエ新人賞を受けた。同26年一水会委員となるが、同47年には一水会を退会した。この間、一水会展、個展の他、現代日本美術展などに出品、同34年には国際具象派協会創立に参画した。同35-38年の間渡欧、同40年には東南アジア、エジプト、ギリシャ、同47、49、50年の三度にわたりメキシコを訪れた。また、同31年に設置された安井曽太郎記念会の運営に携わり、安井賞の評議員、運営委員もつとめた。同53年東京セントラル美術館と梅田近代美術館で回顧展を開催する。同56年、東京、大阪の高島屋で個展「砂漠の歌」を開催、「乾いた湖」「カボルカの砂丘」など大作15点を発表し、翌年この個展により昭和56年度芸術選奨文部大臣賞を受賞した。安井写実主義から出発し、一時フォンタナなどの抽象絵画にもひかれたが再び写実に徹し、自然の厳しい凝視から生まれた緊迫感のある画面をつくりあげた。作品は他に、「闘牛」「岩山」などがある。

中里無庵

没年月日:1985/01/05

 唐津焼の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の中里無庵(12代中里太郎右衛門)は、1月5日急性肺炎のため佐賀県唐津市の済生会唐津病院で死去した。享年89。明治から大正にかけて疲弊した唐津焼の中興の祖とも目された中里は、明治28(1895)年4月11日唐津市に、旧唐津藩御用窯の窯の伝統を持つ「御茶盌窯」窯元11代中里太郎右衛門(天祐)の次男として生まれた。幼名重雄。大正3年佐賀県立有田工業学校を卒業後、父天祐について学び、同13年父の死去を受けて昭和2年12代中里太郎右衛門を襲名する。同4年から佐賀・長崎両県下の古唐津窯跡発掘調査に着手し、唐津焼特有の「タタキの技法」を研究、古唐津焼の復興に努めるとともに、自らの作陶にも研究の成果を生かし、同6年「刷毛目鉢」を商工省主催18回工芸美術展に発表した。この間、大正11年に材木商無呂津忠七の養嗣子となっていたが、昭和27年には無呂津重雄から中里太郎右衛門に改名した。同30年文部省文化財保護委員会から唐津焼の無形文化財に選択される。翌31年3回日本伝統工芸展に初入選、翌年の4回展出品作「叩き壷」あたりから、独自の「タタキ技法」を軸にした作風を築いていった。以後、伝統工芸展に連続出品し、「叩き青唐津水指」(5回、文化財保護委員会買上)、「叩き黄唐津壷」(13回、文化庁買上)などを発表した。また、同40年には韓国各地を訪問し、同年、岸岳飯洞甕下窯を参考にし御茶盌窯の一隅に割竹式登窯を築窯した。同41年紫綬褒章を受章する。同44年京都紫野大徳寺本山で得度し、法名洞翁宗白、号無庵を受け、同年長男忠夫に13代中里太郎右衛門を襲名させた。同48年韓国ソウル市国立近代美術館で父子展を開催したのをはじめ、同54年には西ドイツ、スイス、オランダ巡回の「唐津展」に出品するなどしばしば海外でも作品を発表した。同51年国の重要無形文化財保持者として認定された。同55年、読売新聞社主催で「人間国宝中里無庵展」を開催、同59年には、東京大阪他で「御茶盌窯開窯二五〇年」を記念して父子展を開催する。

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