本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





谷口吉郎

没年月日:1979/02/02

 建築家谷口吉郎は、2月2日胃ガンのため東京都港区元の前田外科病院で死去した。享年74。1904(明37)年6月24日石川県金沢市の九谷焼窯元の家に生まれ、四高を経て28年東京大学工学部建築学科を卒業した。30年東京工業大学講師となり、翌年には助教授、43年には教授となった。この間、38年より2年間外務省、文部省より在外研究員として欧米に派遣され、65年退官するまで建築計画、意匠学、設計等について研究、教育した。退官後も幅広い活動で内外に知られ、作品は終戦直後に長野県馬籠における島崎藤村記念堂の設計で建築学会賞を受賞した。そのほか戦前では慶応幼稚舎校舎が有名で、戦後には東宮御所をはじめ東京国立博物館東洋館、東京国立近代美術館、迎賓館赤坂離宮和風別館、ホテルオークラ等現代日本の代表的な建物を設計した。また記念碑的なものも多く手がけ高村光太郎、森鴎外、志賀直哉ほか文学者の詩碑や文学碑も設計し、東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑等、墓碑類も多い。一方戦後、明治の歴史的建築が急速に失われゆくのを惜しんで、四高時代の同級生土川元夫名鉄副社長の協力を得、それらを移築集合させた博物館「明治村」の建設を実現させ、64年以来同館々長をつとめた。ライト設計の帝国ホテル移築をはじめ、森鴎外、夏目漱石旧宅など各地より貴重な建物をはこび、内容充実に努めた功績は高く評価された。建築におけるその作風は、いづれも繊細な日本の伝統的様式を近代に生かしたもので、清明な造形表現を特色とした。工学博士。日本芸術院会員。文化勲章受領。略年譜1904 6月4日、石川県金沢市に生まれる。生家は九谷焼の窯元であった。1911 石川県立師範学校付属小学校入学。1918 石川県立第二中学校入学。1922 第四高等学校入学。学生時代は旅行部部員として夏はアルプス、冬は長野県へスキーに出かけるなどの活躍ぶりを示す。1925 第四高等学校卒業。東京帝国大学工学部建築科入学。1928 東京帝国大学工学部建築学科卒業。卒業研究は伊藤忠太教授の指導を受け、卒業設計は「製鉄所」の計画案。1931 東京帝国大学大学院入学。佐野利器教授の指導を受け、工場建設を研究。1930 東京工業大学講師となる。1931 東京工業大学助教授となる。佐野利器教授のお世話で松井絹子と結婚。1932 東京工業大学水力実験室、東京都目黒区大岡山1933 佐々木邸、東京都大田区田園調布東京工業大学建築材料研究所、東京都大田区石川町三井邸家族室、東京都世田谷区若林1935 南薫造山荘、長野県軽井沢町自邸、東京都品川区小山1936 東大航空研究所にて「建築物の風圧に関する研究」を始め、数年間風洞実験に従事。1937 慶應義塾幼稚舎校舎、東京都渋谷区恵比寿梶浦邸 東京都中野区中央1938 慶應義塾大学予科日吉寄宿舎、神奈川県横浜市港北区箕輪町日本大使館建設工事の技術交渉のため、外務省嘱託としてドイツに出張。1939 第二次世界大戦勃発により、避難船・靖国丸にてアメリカを経て帰国。1940 木下杢太郎らと「花の書の会」を始め、「花の書」を創刊。1942 論文「建築物の風圧に関する研究」に対し日本建築学会学術賞を受賞。1943 工学博士号を受く。東京工業大学教授となる。1944 11月頃より雑誌「文藝」に「雪あかり日記」を書き始める。1947 藤村記念堂、長野県木曾郡山口村徳田秋声文学碑、石川県金沢市末広町卯辰山公園1948 慶應義塾中等部三田校舎、東京都港区三田慶応義塾幼稚舎合併教室、東京都渋谷区恵比寿1949 藤村記念堂その他に対して日本建築学会作品賞を受賞慶應義塾大学通信教育部事務室、東京都港区三田慶應義塾大学第三校舎(四号館)、東京都港区三田慶應義塾大学第二校舎(五号館)、東京都港区三田慶應義塾大学学生ホール、東京都港区三田島崎藤村墓所、神奈川県中郡大磯村地福寺1950 慶應義塾大学病院は号病棟、東京都新宿区信濃町1951 慶應義塾女子高等学校第一校舎(三号館)、東京都港区三田慶應義塾大学第二研究室(万来舎)、東京都港区三田佐々木小次郎の碑、福岡県北九州市小倉区赤坂手向山公園木石舎、新日本茶道展(松坂屋上野支店)出陳慶應義塾普通部日吉校舎、神奈川県横浜市港北区日吉本町原民喜詩碑、広島市基町城趾公園1952 石川県繊維会館、石川県金沢市西町兒島喜久雄墓碑、東京都港区南青山梅窓院慶應義塾女子高等学校第二校舎(四号館)、京都港区三田慶應義塾大学病院ほ号病棟、東京都新宿区信濃町慶應義塾大学第三研究室、東京都港区三田慶應義塾大学体育会本部、東京都港区三田1953 桃季境、プール・付属家、静岡県熱海市伊豆山十和田記念碑、森県十和田町佐藤春夫詩碑、青森県十和田町宮田重雄画室、武蔵野市吉祥寺山本別邸、書斎・書庫、神奈川県湯河原町慶應義塾大学日吉第三校舎、横浜市港北区日吉町1954 慶應義塾大学病院特別病棟、東京都新宿区信濃町高田保墓碑、奈川県大磯町高田保公園森鴎外詩碑、東京都文京区千駄木石川県議会議事堂、石川県金沢市広坂薄田泣菫詩碑、岡山県倉敷市連島町連島公園国立科学博物館理工学館、東京都台東区上野公園石橋家墓所、府中市多磨町東京都多磨霊園展覧会、現代の眼「日本美術史から」<会場構成>、国立近代美術館1955 相模原ゴルフクラブ、クラブハウス、神奈川県相模原市当麻集団週末住居、長野県北佐久郡軽井沢町志賀邸、京都渋谷区東新聞功労者顕彰碑(自由の群像)、東京都千代田区千鳥ヶ淵公園高崎市議会議事堂、高崎市高松町1956 『修学院離宮』(毎日新聞社)を刊行、毎日出版文化賞を受賞高村光太郎葬儀<式場構成>、東京都港区南青山東京都青山葬儀所1956 慶應義塾大学医学部基礎医学第一校舎、東京都新宿区信濃町秩父セメント株式会社第二工場、埼玉県秩父市木下杢太郎詩碑、伊東市湯川伊東公園幸田延音楽碑、東京都大田区池上本門寺慶應義塾中等部三田校舎、東京都港区三田1957 慶應義塾大学医学部基礎医学第三校舎、京都新宿区信濃町佐伯邸、東京都千代田区一番町佐伯別邸、長野県北佐久郡軽井沢町弟橘媛歌碑、神奈川県相模原市当麻相模原ゴルフクラブ1958 東京工業大学創立70周年記念講堂、東京都目黒区大岡山原敬記念館、岩手県盛岡市本宮藤村記念館、長野県小諸市丁懐古園慶應義塾発祥記念碑、東京都中央区明石町佐藤邸、京都渋谷区松濤警視庁築地警察署数寄屋橋巡査派出所、東京都中央区銀座第四高等学校寮歌記念碑(南下郡の碑)、金沢市広坂金沢大学1959 千鳥ヶ淵戦没者墓苑、東京都千代田区三番町解体記念碑、東京都荒川区南千住回向院蘭学記念碑、京都中央区明石町石川県美術館、石川県金沢市兼六町青森県立体育館、青森市横山町別宮邸、東京都世田谷区成城小林邸、東京都渋谷区松濤1960 桃季境、本館玄関・ロビー、静岡県熱海市伊豆山火野葦平文学碑、北九州市修多羅高塔山公園東宮御所、東京都港区元赤坂八火翁光永星郎之碑、東京都谷中霊園展覧会、小林古径遺作展<会場構成>、国立近代美術館展覧会、伝統工芸店「日本人の手」<会場構成>、国立近代美術館1961 東宮御所その他の業績に対して日本芸術院賞を受賞。明治建築の保存を土川元夫氏にはかる。青森県庁舎、青森市長島秩父セメント株式会社製管工場、秩父市大野原1962 日本芸術院会員となる。財団法人明治村認可、常任理事となる。ホテルオークラ、ロビー、東京都港区虎ノ門新渡戸稲造記念碑、岩手県盛岡市内丸岩手公園資生堂会館、東京都中央区銀座文京区立鴎外記念本郷図書館、東京都文京区千駄木日夏耿之介詩碑、長野県飯田市通町森鴎外文学碑、北九州市中央公園三菱金属鉱業株式会社大井工場、東京都品川区西品川秩父セメント株式会社熊谷工場、埼玉県熊谷市三ヶ尻1963 永井荷風文学碑、東京都荒川区南千住浄閑寺田邊元墓碑、群馬県吾妻郡長野原町吉川英治墓所、東京都府中市多磨町東京都多磨霊園不二禅堂、東京都渋谷区代々木石井漠「山を登る」記念碑、東京都台東区浅草浅草公園資生堂画廊、東京都中央区銀座大下夫人葬儀<式場構成>、東京都港区南青山東京都青山葬儀所1964 博物館明治村初代館長に就任。展覧会、現代の眼「暮らしの中の日本の美」<会場構成>、国立近代美術館慶應義塾幼稚舎講堂(自尊館)、東京都渋谷区恵比寿名古屋大学古川図書館、名古屋市東山区不老町室生犀星文学碑、金沢市中川除町湘南ヨットハーバー、藤沢市江の島1965 3月18日、博物館明治村開館。東京工業大学教授を定年退官、同大学名誉教授となる。乗泉寺、東京都渋谷区鶯谷町良寛記念館、新潟県出雲崎町正宗白鳥文学碑、長野県北佐久郡軽井沢町尾崎士郎墓所、川崎市多摩区生田春秋苑博物館明治村、犬山市大字内山1966 帝国劇場、ロビー・客席、東京都千代田区丸の内1967 ㈱谷口吉郎建築設計研究所を設立する。明治村茶会運営委員会委員長となり、第1回明治村茶会開催。1968 文化庁文化財保護審議会委員となる。東大寺図書館、奈良市雑司町東京国立博物館東洋館、東京都台東区上野公園淡交ビルヂング、京都市北区紫野宮西町平和塔(ピース・パゴダ)、サンフランシスコ市ポスト街ジャパン・センター日本モンキーセンター栗栖研究所、犬山市犬山官林1969 東京国立近代美術館、東京都千代田区北の丸公園鴎外遺言碑、東京都三鷹市下連雀禅林寺小説徳川家康記念碑、栃木県日光市山内二社一寺入会地文学者之墓、静岡県駿東郡小山町冨士霊園柿傳、畳席、京都新宿区新宿東宝ツインタワービル<外装>、東京都千代田区有楽町1970 柿傳、椅子席、東京都新宿区新宿志賀直哉赤城文学碑、群馬県富士見村茶道研修会館、京都市北区第二淡交ビル、京都市北区1971 硫黄島戦没者の碑、東京都小笠原村硫黄島ホテルオークラ・アムステルダム ロビー中山義秀文学碑、成田市成田山公園八王子乗泉寺霊園、東京都八王子市加住町東京會舘、東京都千代田区丸の内清水家墓所、東京都大田区池上本門寺第四高等学校寮歌記念碑(北の都の碑)、金沢市広坂放送功労者顕彰碑(しあわせの像)、東京都渋谷区神南志賀直哉葬儀<式場構成>、京都青山葬儀所1972 河文、水かがみの間、名古屋市中区丸の内ホテルオークラ、久兵衛・山里、東京都港区虎ノ門亀井勝一郎墓碑、東京都多磨霊園1973 文化功労者となり文化勲章を受章。比島戦没者の碑、フィリピン共和国ラグナ州カリラヤホテルオークラ別館、ロビー、東京都港区六本木春日大社収蔵庫(宝物館)、奈良市春日野町石川県立中央公園噴水広場、金沢市広坂吉田富三墓碑・シロネズミの碑、東京都文京区本駒込吉祥寺森鴎外遺言碑、島根県津和野町養老館1974 中部太平洋戦没者の碑、サイパン島迎賓館別館(遊心亭)、東京都港区元赤坂吉屋信子墓碑、鎌倉市長谷高徳院日本学士院会館、東京都台東区上野公園国立飛鳥資料館、奈良県高市郡明日香村佐藤春夫詩碑、東京都港区三田慶應義塾大学新聞創刊の地記念碑、東京都千代田区霞が関1975 山本和夫詩碑、福井県小浜市門前明通寺1979 2月2日、満74歳8ヶ月で永眠。従3位勲1等瑞宝章追贈。(略歴・主要作品年譜 谷口吉郎建築設計研究所作製)

山口玲凞

没年月日:1979/02/01

 日本画家山口玲凞は、2月1日心筋硬ソクのため鎌倉市の清川病院で死去した。享年84。本名松之助。1894(明27)年5月23日京都市中京に生れ、1907年2月菊池芳文に師事した。芳文没後菊地契月の門に学んだ。1912年第6回文展に「今朝の秋」が初入選し、以来文、帝展に出品、1932年帝展無鑑査となった。戦後は日展に出品し、1950年依嘱出品となった。作品は花鳥画を得意とし、1940年開催の紀元2600年奉祝展では「芥子」を出品し宮内省買い上げとなり、また小御所再建に際しては襖絵を揮毫した。略年譜1894(明27) 京都市中央区ニ生ル1907 菊池芳文ニ入門1908 芳文先生ヨリ松齊ノ号を頂ク1912 文展6回「今朝の秋」1914 文展8回「冠鶴」1917 文展11回「花の頃」(六曲屏風)「吉野桜」1918 菊池芳文逝去 菊池契月ニ師事1920 文展14回「秋の雨」1925 菊池契月ヨリ玲熈ノ画号ヲ受ケル。帝展6回「玉蜀黍」1926 帝展7回「金閣寺」1927 帝展8回「鵜」1928 帝展9回「青田」1929 帝展10回「吉野山」1930 帝展11回「厳島」1931 帝展12回「里の春」1932 帝展13回「湖上展望」 帝展推薦 無鑑査1933 帝展14回「秋草」1934 帝展15回「白雨」1935 帝展16回「干網」1936 帝展17回「閑光」1937 帝展18回「麦笛」1939 帝展19回出品1940 皇紀2600年記念展「芥子」(宮内省買上)1949 日展7回「蓮」出品1950 日展8回「爽朝」(芋)出品1951 日展9回「裏千家」1952 日展10回「苔」1953 日展11回「睡蓮」1954 日展12回「雪」1955 日展13回「けし」(外務省買上)1956 日展14回「藤」出品1958 新日展1回「鯉」1959 新日展2回「赤目」1960 新日展3回「ダリヤ」1961 新日展4回「麦」1961 鎌倉ニ居ヲ移ス1962 銀座松屋ニテ個展開催1963 新日展6回「北山杉」1964 新日展7回「花渦」日本、シャム国際絵画展「菊」(シャム皇帝御買上)京都小御所「御襖画」揮毫鎌倉美術協会第1回展出品1965 新日展8回「富士出現」1966 新日展9回「孔雀」1967 新日展10回「皐月富士」1968 新日展11回「菖蒲」1969 秋葉総本殿可睡齊ニ高階瓏仙禅師像揮毫1972 横浜野澤屋百貨店ニテ個展開催1975 秋葉総本殿可睡齊大襖絵完成1975 平塚梅屋デパートニテ個展完成その他 久邇宮家御殿御天井画鳳凰木揮毫嵯峨車折神社拝殿天井画花鳥揮毫1979 2月1日心筋硬そくニテ死去ス

赤松俊秀

没年月日:1979/01/24

 文化財保護審議会専門委員、歴史的風土審議会専門委員、仏教美術研究上野記念財団評議員、四天王寺女子大学教授、京都大学名誉教授、文学博士赤松俊秀は、1月24日脳出血のため京都市北区の自宅で死去、享年71。1907(明治40年)4月28日、北海道石狩国上川郡に生まれ、北海道町立旭川中学校、第三高等学校を経て、28年京都帝国大学文学部に入学、国学史を専攻、31年卒業後文学部副手となった。32年京都府史跡勝地保存委員会臨時委員を嘱託されてより51年京都府教育委員会の初代文化財保護課長を退職するまでの19年間、戦中戦後の、京都府の史跡、寺宝等の文化財の調査と保存に専念した。その間、京都帝国大学文学部、大谷大学(教授嘱託)、同志社大学(61年まで)に出講、51年京都大学文学部助教授に就任、53年教授に昇任、62年文学博士の学位を授与され、65年文化財保護審議会専門委員に任命され、71年京都大学を定年退官し、京都大学名誉教授の称号を受けた。その間、愛媛大学、香川大学、岡山大学、関西学院大学、東北大学、名古屋大学、大谷大学へ出講、72年大谷大学文学部教授に、75年四天王寺女子大学教授に就任、74年には多年に亙る文化財保護の功績により紫綬褒章を授けられた。 その日本古代、中世史研究は、仏教、社会経済、政治、美術、文学、古文書と多方面に及び、主要著書としては、『鎌倉仏教の研究』(1957年、平楽寺書店)、『続鎌倉仏教の研究』(66年、平楽寺書店)、『古代中世社会経済史研究』(72年 平楽寺書店)、『京都寺史考』(同年、法蔵館)、『平家物語の研究』(80年、法蔵館)があり、史料公刊には『醍醐寺新要録』(51~53年、京都府教育委員会)、『隔冥記』(58~67年、鹿苑寺)、『教王護国寺文書』(60~72年、平楽寺書店)等がある。

大江文象

没年月日:1979/01/23

 陶芸家、愛知県無形文化財保持者の大江文象は、1月23日心不全のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年80。1898(明治31)年7月23日愛知県知多市に生まれ、幼時小寺雲洞に日本画を学んだのち、北大路魯山人に師事し、独自の櫛目技法を完成する。33年第14回帝展に「黄瀬戸麦画投入」が初入選以来、帝展、文展、日展に9回入選する。麦の群生模写や特にウズラの彫絵を得意とし“ウズラの文象”として知られた。77年愛知県無形文化財保持者に指定される。また、瀬戸陶芸協会参与をつとめた。主要作品に「黄瀬戸釉麦絵花瓶」「櫛目花鳥文花瓶」「花鳥文顔血」など。

蓮實重康

没年月日:1979/01/11

 美術史家、東海大学教授、文学博士蓮實重康は、肝臓腫瘍のため1月11日東京大学附属病院で死去、享年73。1904(明治37)年5月30日、東京市麻布に生まれ、静岡県立静岡中学、静岡高等学校を経て、30年京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業、大学院に入学、32年東京帝室博物館美術課嘱託、36年帝室博物館鑑査官補に任官、41年帝室博物館鑑査官に昇任、50年国立博物館より文化財保護委員会事務局保存部美術工芸課に転任した。その間、前後4回軍務に服し、終戦をビルマのラングーンで迎え、46年帰還した。49年美術史学会創立により2年間学会代表となり、52年奈良国立博物館学芸課長に就任、54年度京都大学文学部に講師として出講、57年京都大学文学部助教授に転任、60年教授に昇任、61年文学博士の学位を授与され、68年定年退官、東海大学教授に就任した。その間、奈良学芸大学、広島大学に出講、海外ではコペンハーゲン、ボン、ミシガンの各大学で講義し、また京都大阪両府の文化財専門委員を委託された。 研究の領域は多方面に亙が、その中心は日本の中世近世絵画史であり、京都大学における講義もその分野に集中している。主著は「雪舟等楊新論-その人間像と作品-」(1977年、朝日出版社)。1960年文化財保護に尽力した功績により文化財保護委員会より表彰され、78年勲三等に叙し、瑞宝章を授けられた。

中山正実

没年月日:1979/01/07

 洋画家で壁画を専門とし、またカラー銅板画の草分けとして知られる中山正実は、1月7日心不全のため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年81。1898(明31)年1月3日神戸市に生れ、1919年神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業した。同年東京商大専攻部に学ぶ傍ら、川端画学校で藤島武二の指導を受けた。1921年第3回帝展に「鉱山の夕」が初入選し、24年に渡欧した。パリでアカデミー・グラン・ショミエールに学び、またルーブル美術館で模写をすすめ、サロン・ドートンヌに入選した。翌年壁画研究のためイタリアに旅行し、サロン・ドートンヌに再入選した。27年帰国し、第8回帝展に「古都礼賛」、以後31年まで毎年帝展出品をつづけた。32年神戸商大の壁画を依嘱され、以来壁画制作に専念し、前後6年を費やして神戸商大附属図書館の大壁画「青春」、及同大学講堂壁画三部作「光明、富士、雄図」を完成した。39年橿原神宮外苑大和国史館の壁画「阿騎野の朝」を制作依嘱され、翌年これを完成、更に41年には神戸裁判所調停会館壁画「正義」「平和」を完成した。そのほか銅板画を制作し、わが国でのカラーエッチングの創始者でもある。年譜1898(明治31年) 1月2日神戸市に生まれる。父は播州赤松氏の一族。青年時代に神戸に移り商人となる。1914 独学で油絵を描き、印象派の研究をする。1915 神戸高等商業学校(後の神戸商大)入学、神戸洋画会会員となる。1919 神戸高等商業学校卒業。同年、東京商科大学専攻部に修学の傍ら、川端画学校洋画科に学び藤島武二に師事。1921 第3回帝展に初入選「鉱山の夕」(50号・神戸大学所蔵)1924 1月渡欧、巴里アカデミー・グラン・ショミエールで、佐伯祐三と同時同教室に画技を習練、ルーヴル美術館の名画模写(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジオルジオネ、レンブラント、ルノアール等)。前田寛治、中野和高らと帝展同期の親交が続き、共に日仏フェニックス協会の創立メンバーになる。同年、巴里サロン・ドートンヌに入選「セーヌ河畔の人々」新人最高の栄誉、ラ・ロトンド(第1教室、100号・神戸大学所蔵)に飾られ、巴里の諸新聞で報道。1925 壁画研究のため伊太利各地を巡歴。アッシジでヂオットを模写。同年、巴里に帰来後、ポーランド出身巴里派の異才ユージェヌ・ザックに師事。キスリング、パスキン等を画友に、翌年にかけて、フレスコ壁画の実験・カンヴァス壁画貼付技術(マルフラージ)の実習・銅板画法の受講等。1926 巴里サロン・ドートンヌ再入選「猫と子供等」(30号)。同年12月、巴里郊外オーボンヌ・カトリック教会で、洗礼を受ける。霊名 FRANCOIS1927 帰国、第8回帝展入選「古都礼賛」(500号・神戸大学迎賓室壁画)。1928 第9回帝展入選「新秋」(250号・神戸大学図書館所蔵)。1929 第10回帝展入選「農家の夕」(250号・神戸大学所蔵)。1930 第11回帝展入選「母子像」(戦災消失)。同年、聖徳太子奉讃展入選「冬」(250号・神戸大学図書館所蔵)。1931 第12回帝展入選「幼き霊に捧ぐ」(消失)。1932 神戸商業大学(現・神戸大学)図書館壁画「青春」の制作を委嘱されて、一切の展覧会出品を絶ち、美術団体等に関与せず、壁画の制作に没頭。1935 壁画「青春」を完成(2000号)、その後、直ちに同大学講堂壁画三部作の制作に着手(完成までに満3カ年を要す)。壁画制作の傍ら、エッチングの研究を続け、日本最初のカラーエッチング「信仰への道標」その他を制作。1937 東京大森馬込にアトリエを建設。1938 神戸商業大学(現・神戸大学)講堂壁画完成(2000号)。1939 大和国史館万葉室壁画「阿騎野の朝」を制作。1940 同壁画を完成(スプリット・フレスコ800号)。1941 紺綬褒章を受ける。同年、神戸裁判所調停会館会議室壁画「正義と平和」を完成(フレスコ250号)。1944 第2次世界大戦中、江田島海軍兵学校壁画「海ゆかば」を完成。終戦の翌日、同校校庭にて焼却(スピリット・フレスコ1000号)1945 戦災、神戸楠町のアトリエを作品数百と共に焼失。1946 G.H.Q.通信隊の美術顧問を委嘱される。同隊美術教室教官として、米軍将兵に油絵、リノカット、エッチング等を指導。1947 銀座、資生堂画廊で個展、油絵16点を発表。1946 G.H.Q.副司令アレン将軍、米空軍ヴァンデンバーグ将軍、その他十二将星の肖像制作を委嘱される。1950 壁画切支丹三部作のための試作「殉教」(120号)カトリック美術展に出品。この後、毎年宗教画を同展に出品。1954 彦根市カトリック教会壁画「聖ヨゼフとキリストを中心にした群像」(ケイシンフレスコ)完成。1955 和歌山県新宮市カトリック教会壁画「聖家族」(ケイシンフレスコ)完成。同年、和歌山市カトリック教会壁画「聖母被昇天」(ケイシンフレスコ)完成。1957 カトリック美術展に初めてカラーエッチング十余点を発表。1958 銀座、兜屋画廊で「カラーエッチングと壁画」個展。1959 日本橋、高島屋で「カラーエッチング」個展。1960 日本版画協会会員に推挙され、委員に選ばれる。東京国際版画ビエンナーレ展出品。1961 ニューヨーク国際版画協会(IGAS)に選ばれ、銅版作品「無限への飛翔」100点刊行される。大阪、梅田画廊で銅版画個展。1962 東京国際版画ビエンナーレ展に再び出品。ニューヨークIGASに再び選ばれて、銅版作品「宇宙の花園」200点を刊行。オーストラリヤ、国立ニューサウスウェルス美術館(シドニー)に銅版画「エデンの園」買上げられる。1963 フィラデルフィア美術館、ロックフェラーコレクション等に作品買上げられる。同年夏、日本美術家連名版画工房で銅版技法講習指導。同年11月より、1965年8月末日まで日本版画協会事務所運営を担当する。同協会総務、国際版画ビエンナーレ諮問委員。1964 米国ミネソタ大学美術館、エルキンスパーク美術学校、シラキュース大学アートセンター等に作品買上収蔵。1966 スイス、ルガノ国際版画展出品(4月)、墺、ウイーンで萩原英雄と二人展(5、6月)、墺政府買上。同二人展を西独バイロイトで開く(6月)。京王百貨店で回顧展(6月)、ニューヨークで個展(12月)、ニューヨークIGASより作品刊行第3回目。東京凌霜クラブ開設に際し、神戸大学六甲台図書館壁画「青春」の下絵(250号)を寄贈。1967 日米版画展出品(1月)。アメリカ月刊誌“Together”4月号が作品2点を採用(原色刷2頁と解説)。大阪で個展(5月)。1968 1月3日「古稀」を迎える。伊太利ペッシア市、国際版画展に出品3点、いずれも同市立美術館に収蔵。1969 日本万国博、キリスト教館建築委員。1970 カラーエッチング2点、D・ロックフェラーコレクションに買上げられる。同年、現代宗教美術展(東京渋谷、日動画廊)に、作品10点を出品、そのうちの油絵「殉教」120号-1950年作をローマ法王庁に寄贈。1972 「芸術新潮」に論文「幻の名画を追って十年」を発表(ムリリョ作品「帯の聖母」を発見の記録)。973 壁画修復の新技法を発見・開発して、旧作の神戸大学壁画「青春」を完全修復し、学長より表彰を受く。1974 キリスト教美術協会を結成、同士数名と教派を超えて創立委員となる。銀座日動サロンで発表展。1975 第43回版画展審査委員長、日本版画協会名誉会員。1976 大阪凌霜クラブ開設に当たり、神戸大学六甲台講堂壁画「光明」「雄図」の下絵(計250号)を寄贈。同年11~12月、兵庫県立近代美術館に、戦前作品「猫と子供等」及び戦後作品「黙示録の四騎士」を出品。1977 衆議院25年勤続議員、江田三郎の肖像画制作、2月、国会に納入。(30号F)4月、第45回版画展に多色銅版画大作(80号)「最後の審判」を発表。之れによって5カ年に亘る黙示録連作を完成。1978 5月神戸大学に色彩銅版画140点を寄贈、展覧会6月、神戸「そごう」に於て個展。1979 1月7日永眠(81歳)(年譜資料は遺族作成に拠る。)

森公挙

没年月日:1979/01/02

 日本画家森公挙は、前立腺がんのため京都大学附属病院で死去した。享年76。明治京都画壇の重鎮であった森寛齋の孫で、16才の時山元春挙の門に入った。その後団体に属さず、無所属で制作活動を続けた。

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