本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





重森三鈴

没年月日:1975/03/12

 日本庭園の研究で知られる重森三鈴は、3月12日心不全のため死去した。享年78歳。昭和29年8月20日岡山県上房郡に生れ、大正9年日本美術学校本科、同11年研究科を卒業、同12年東洋大学に学んだ。昭和2年岡山県に、原始森林公園を創設し、昭和7年京都林泉協会を設立した。昭和14年「日本庭園史図鑑」26巻を完成、そのほか著述も多い。また東福寺本坊方丈庭園ほか築庭の数も多い。京都林泉協会々長。

金剛よしゑ

没年月日:1975/03/08

 宮大工金剛組38代目の女棟梁であった金剛よしゑは、3月8日、老衰のため死去した。享年80歳。金剛よしゑは明治27年(1894)5月25日、京都府福知山市に生まれ、明治42年3月京都府天田郡立高等小学校を卒業、大正6年(1917)9月、金剛組37代金剛治一と結婚。昭和7年(1932)9月金剛治一死去後は、38代をついで1000年以上つづいている宮大工金剛組当主となって組を守り、昭和9年(1934)の第1次室戸台風で倒れた大坂四天王寺五重塔再建で話題をよんだ。そのほかにも、四天王寺金堂・西大門を再建、旧水戸藩偕楽園好文亭復元、水戸弘道館修復、旧江戸城田安・清水門復元、永平寺鐘楼復元、大阪奈良の護国神社新築、東本願寺天満院建立、那智山青岸渡寺三重塔建立などの仕事を手がけた。その生涯はテレビ・ドラマ化されたが、晩年は戦没者慰霊のため千巻の写経を完成させた。

氷見晃堂

没年月日:1975/02/28

 木工芸家、重要無形文化財保持者の氷見晃堂は、2月28日午後2時5分、胃ガンのため金沢市の石川県立中央病院で死去した。享年68歳。明治39年10月30日金沢市に生まれた。本名与三治。雅号の晃堂は、自分でつけ、昭和18年頃より使用した。大正10年3月金沢市小将町高等小学校の高等科を卒業したが、当時、陸軍の種々ご用達をつとめていた御用商人の祖父や父が商人よりも他人の世話にならぬ手職を身に付けた方がよいという考えにしたがい、近くの指物師北島伊三郎について指物技術を3ヶ年修業した。さらに唐木細工で献上品などを製作していた池田作美に私淑し種々指導を仰ぎ、殊にデザイン面での強い影響をうけた。大正15年石川県工芸奨励会美術工芸展に「三重棚」を出品、準会員に推薦された。この年、江戸時代に途絶えていた砂みがき法を復活するなど、以後ほとんど独学研究によって古くから伝わる加賀指物の技法を再発掘し、現代に生かしてきた。昭和3年には石川県工芸奨励会正会員に推薦された。主として生活調度としての火鉢、棚、莨盆などの製作に長技を発揮して知られたが、中央展出品の活動は、戦後にはじまったといってよい。戦後第2回の日展(昭和21年)に初入選以来、第13回までの日展に11回入選、昭和30年から日本伝統工芸展に出品するようになり、昭和49年の第21回日本伝統工芸展までに18回入選、その間2回奨励賞、1回特別賞(第20回展「大般若理趣分経之箱」20周年記念特別賞)をうけ、審査員を第18回と第21回に、鑑査員を第8回から第13回、第15回から第18回、第20回・第21回までつとめた。昭和44年3月19日には、石川県指定の無形文化財(木工芸)技術保持者となり、翌45年4月25日には国指定の重要無形文化財(木工芸)技術保持者、世にいう人間国宝に認定された。前記したように伝統的な指物技術を守るとともに、それを改良工夫して合理的なものとし、やはり「砂磨き」と同様、江戸時代に絶えていた「木象嵌」の装飾技法を復活させ、殊に晃堂独特の加飾法として金銀の線を木肌に象嵌する「線象嵌」や「縮れ象嵌」の技法を創案し、木工芸に新しい息吹をふき込んだのが有名である。

三橋節子

没年月日:1975/02/24

 創画会に出品していた日本画家、三橋節子は、2月24日午前0時40分、転移性肺腫瘍のため京都府立病院で死去した。享年35歳。三橋節子は、昭和14年(1939)3月3日、大阪・パルナバ病院に生まれる。当時から両親の住居は京都市で京都で育っている。父三橋時雄、母珠の2男2女の長女として生まれ、母珠の従兄弟に長谷川海太郎(小説家林不忘、または牧逸馬)、長谷川潾二郎(画家)、長谷川四郎(小説家)などがいた。北白川小学校、近衛中学校をへて昭和29年鴨沂高校を卒業、同年京都市立美術大学日本画科(現・京都市立芸術大学)に入学、主として秋野不矩に師事した。昭和36年(1961)同大学を卒業したが、その前年の35年の新制作春季展に「立裸婦」が入選、同年24回新制作展に「立像」が入選となった。以後、新制作展日本画部(のち創画会展)、京都日本画総合展などに出品し、昭和40、42、44の新制作春季展で受賞、昭和42年末から45年初めにかけて京都美大同窓会美術教育研究会主催の旅行団に参加してインド、カンボジアに旅行し、昭和43年11月、同じ新制作展出品作家で陶芸家の鈴木靖将と結婚し大津市に新居をもった。昭和44年、第33回新制作展に出品した「カルカッタの少年達」「ベナレスの物売り」で新作家賞をうけ、さらに、昭和46年第35回新制作展では「土の香」「炎の樹」で2回目の新作家賞を受賞した。昭和48年(1973)「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため京大病院に入院して右腕切断の手術をうけ、以後は左手で制作、昭和49年滋賀県展に出品され「花折峠」で滋賀県芸術祭賞をうけ、同50年京都日本画総合展出品「余呉の天女」(絶筆)は京都府買上げとなった。作品略年譜昭和35年(1960) 「立像」(24回新制作展)。昭和39年 「樹」「白い影」(新制作春季展)、「樹1」(28回新制作展)。昭和40年 「柳桜」(新制作春季展)。昭和41年 「池畔」「池苑」(30回新制作展)。昭和42年 「吾木香」(筍々会3人展)、「疎林の中に立つ」(新制作春季展)、「白い樹」(31回新制作展)。昭和43年 「野草」(京都日本画総合展)、「アネモネ」(新制作春季展)、「インドの子供達」「カンチプラムの路上」(33回新制作展)。昭和44年 「牛頭骨のある静物」(京都日本画総合展)、「土のぬくもり」「乾いた土とサリー」(新制作春季展)、「ベナレスの物売り」「カルカッタの少年達」(33回新制作展)。昭和45年 「とわの土」(京都日本画総合展)、「路上」(新制作春季展)、「カンボジアの子供達」「カンボジアの村」(34回新制作展)、「クサマオとカラスウリ」(京都日本画総合展)。昭和46年 「土の詩」(京都同時代展)、「よだかの星」「おきなの星」(新制作春季展)、「炎の樹」「土の香」(35回新制作展)。昭和47年 「裏山の収穫」(京都日本画総合展)、「土の子」(京都同時代展)、「どこへゆくの」(新制作春季展)・「千団子さん」(新制作研究会展)、「登り窯」(京都百景展)、「鬼子母」「鬼子母神」(36回新制作展)、「インドの少年達」「石の詩」「こがらしの詩」「あめ屋さん」「なずな」「あけびの頃」「いとこたち」(2人展)。昭和48年 「湖の伝説」(京都日本画総合展)、「田鶴来」「三井の晩鐘」(37回新制作展)。昭和49年 「羽衣の伝説」(滋賀県美術協会展)、絵本原画「湖の伝説<雷の落ちない村>」13点、「花折峠」「雷獣」(1回創画会展)、「鷺の恩返し」「花折峠」(27回滋賀県展)。昭和50年 「余呉の天女」(京都日本画総合展)。

平野長彦

没年月日:1975/02/13

 日本画家平野長彦は、2月13日心臓マヒのため大阪市の自宅で死去した。享年71歳。矢野知道人に師事し、帝展、新文展等に作品を出品し、戦後は日展に発表した。風景や、仏画に独自の南画を描き、昭和30年大阪美術協会が発足してからは、その理事をつとめた。

水澤澄夫

没年月日:1975/02/13

 町田市立郷土資料館館長水沢澄夫は、2月13日午前1時45分、心不全のため町田市立中央病院で死去した。享年69歳。明治38年8月14日、栃木県に生れた。昭和2年3月第四高等学校文科乙類を卒業。昭和6年3月京都帝国大学文学部哲学科(美術専攻)を卒業した。その年から1年余は柳宗悦の民芸運動に共鳴して参加し、東京京橋に諸国民芸の店をひらいた。また同7年から9年にかけて美術雑誌「宝雲」の編輯に従事、一方同8年から10年までは東京帝大大学院に在籍し日本美術史(特に絵巻物について)を攻究した。同8年から鉄道省国際観光局に勤務、海外に日本文化紹介のため《ツーリスト・ライブラリー》の編集にあったが、同17年5月より財団法人国際文化振興会に勤務を転じた。同20年3月戦況苛烈に伴い山口県宇部市に疎開、8月終戦を迎えた。戦後は主として美術評論をめざし、その一方、森村学園専攻科、実践女子大等の講師を勤めた。昭和33年には、尾形光琳生誕300年にあたり世界平和評議会の顕彰で光琳がえらばれ、中国で光琳展開催につきその準備に努め、日本代表の一人として訪中。光琳画集出版。翌34年には、エジプト美術展を日本で開催の交渉のためエジプトへおもむき、2ヶ月間滞在した。さらに同37年には再度エジプトへ行き、ヨーロッパ各地をまわった。以後約10年気管支拡張症の悪化と胃潰瘍のためたびたび入院をくりかえし殆んど闘病生活をおくった。昭和48年より創設に関与した町田市立町田郷土資料館(現町田博物館)の初代館長に就いていた。主要著書―鉄斎(1939、アトリエ社・東洋美術文庫)、美術覚書(1941、昭森社)、弘仁彫像考(1947、美術出版社・制作3号)、近代画の歩み(1952、美術出版社・みづゑ文庫)、エジプトの美術(1963、社会思想社)、エジプト美術の旅(1963、雪華社)、浄瑠璃寺(1964、中央公論美術出版)、広隆寺(1965、同前)、秋篠寺(1968、同前)、安田靭彦(1974、講談社・日本の名画)。

末永一夫

没年月日:1975/02/11

 二科会会員の洋画家末永一夫は、2月11日午前2時30分、敗血症のため名古屋市の聖霊病院で死去した。享年63歳。末永一夫は、明治44年(1911)7月20日、岐阜市に生まれ、旧姓安岡(昭和16年まで)、昭和7年(1932)岐阜師範学校専攻科を卒業した。昭和16年第28回二科展初入選、翌17年北川民次に師事、以後毎回二科展に出品入選、昭和26年36回展出品の「瀬戸の山」「海」で特待賞をうけた。昭和31年二科会会友に推され、同37年(1962)に会員に推挙されて、同43年二科会員努力賞をうけている。その間、昭和34年丸栄画廊での個展をはじめ、同49年日動画廊名古屋支店、41年丸物画廊、44年日動画廊名古屋支店などで個展を開催した。また、昭和49年(1966)フランスのサロン・ド・コンパレーゾン、42、45年サロン・ドートンヌなどにも出品して昭和44~45年メキシコに写生旅行している。一方、名古屋市立汐路中学校をはじめ教職にあって、戦後の創造美術教育運動に参加し、昭和33~34年にはCBCテレビで児童画についての放映に出演している。二科展出品作品略年譜昭和16年(1941)28回展「工作」、29回展「お掃除」、30回展「待避壕」、昭和21年31回展「水産市場」「靴工場」、32回展「石炭のある風景」「森のある風景」、昭和25年35回展「瀬戸風景」、36回展「瀬戸の山」「海」、37回展「瀬戸風景」、38回展「堀川風景」、39回展「瀬戸の山」、40回展「瀬戸風景」「陶土採掘」、41回展「陶土採掘場」、42回展「陶土採掘場」、43回展「石炭石採掘場A、B」、44回展「石炭岩の山」、45回展「瀬戸の山B」、46回展「団地造成」、48回展「北陸の海A、B」「瀬戸風景」、49回展「団地造成」「崖」、昭和40年50回展「早春の箱根」「丘陵の畑A、B」、51回展「珪砂工場のある風景」「瀬戸風景」、52回展「団地のある丘」「陶土の山」、53回展「みかん山A、B」、54回展「削ずられていく蜜柑山」「樹のある蜜柑山」、55回展「ハカランダの咲く丘(タスコ)」「タスコの丘」、56回展「タスコの丘」、57回展「タスコの丘」、58回展「シャボテンと岩山」、59回展「海」。

石井光楓

没年月日:1975/02/09

 春陽会会員の洋画家、石井光楓は、2月9日午後6時30分、心不全のため横浜市の自宅で死去した。享年82歳。石井は、本名を政二、光楓は号である。明治35年(1892)3月10日、千葉県夷隅郡に生まれ、日本美術院研究所に学び、大正4年(1915)第2回院展洋画部に「夏の終り」「木曾の雪」が初入選、大正10年第3回帝展に「牛の蹄を切る」が入選した。大正10年(1921)絵画勉強のためにアメリカへ渡り、カリフォルニア・アート・スクール、ついでシカゴのアート・インスティテュートに学んだ。その間、1922、23、25年(大正11、12、14)ワシントン・アート・エキジビション、1924年ノース・ウェスト・アート・エキジビション、1925年メープル・アート・エキジビションに出品、大正14年(1925)フランスへ渡り、パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。1925、29、31年サロン・デ・ザンデパンダン、1926、27年サロン・デ・ナショナル・デ・ボザール、1927、28、31年サロン・デ・ザルティスト・フランセーズ、1927、28、30年サロン・ドートンヌに出品した。昭和4年(1929)再びアメリカへ渡り、さらに昭和6年(1931)再度フランスへ渡り、昭和11年(1936)11月帰国した。昭和15年までに、陸軍省嘱託として中国の中部南部方面に従軍し、昭和15年(1940)第18回春陽会展から出品し、昭和22年第24回展で春陽会賞をうけて会友、同24年26回展のとき会員に推挙された。昭和26年には千葉県立長生第一高等学校教諭となり、また、駐留米軍の通訳としてもはたらいている。15年間にわたる欧米滞在によって、フランス・ボルドー美術館、ベルギー・ブリュッセル美術館、アメリカではニューヨークのブルックリン美術館、オクラホマ州メッドフォード市カウンテアットニー図書館などに作品が所蔵されている。

寺島紫明

没年月日:1975/01/13

 日本画家寺島紫明は、1月13日脳出血のため西宮市の自宅で死去した。享年78歳。本名徳重。明治25年11月18日明石市に生れた。木綿問屋、柿屋を営む父徳松、母としの長男で、6歳と2歳年上の姉の三人姉弟であった。明治32年明石尋常高等小学校に入り、この頃からスケッチを好み、源氏物語など日本文学に親しむ。小学校卒業後はさらに文学への傾倒を深め、寺島玉簾のペンネームで「少年倶楽部」「兄弟姉妹」等の雑誌に応募し、入賞を重ねた。明治42年17歳の時、長姉の嫁ぎ先である大坂の木綿問屋丹波屋、三浦家に見習奉公に入る。この年10月父を失い、翌43年上京した。大正元年8月母にも死別し、この頃から文学を離れ画家を志し、翌大正2年鏑木清方に師事した。翌年「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)が入選し、三等賞となった。昭和2年第8回帝展に「夕なぎ」が初入選し、その後官展への出品を毎年続けた。戦後も、第2回展以来日展出品をつづけ、没する数年前の昭和46年までの出品がみられる。官展以外では、巽画会のほか青衿会、日月社、創造美術(第1回展)、兵庫県選抜展などがある。またそのほか街の展観としては、初期の郷土会をはじめ、昭和になってからは九皐会、清流会、尚美会、綵尚会、明美会等に出品している。美人を対象に描いたいわゆる美人画は、江戸浮世絵以来近代に至って多様な発展を示すに至っている。浮世絵の系統をひく鏑木清方は、江戸から東京を舞台に東京人の好みに投じた粋人柄な女性を描いて独自な美人画を展開した。玄人の粋に堕さず、素人の野暮に偏さないこの洗練された一つの女性像は、東京人における女性の典型であった。 関西に生れた寺島紫明は、上京し鏑木清方に師事した。紫明は、師の描く品よく爽やかな東京女性の理想像に深く共鳴しながらも、彼は全く別の独自の美人画を確立した。紫明の対象とする女性は、概して豊満な女性が多く、画面には官能を含めての女性美が重量感をもって示される。但し、その作品は卑俗な美人画には遠く、肉体を超え、官能を超えた女性讃歌といえよう。ほのぼのと匂やかな色彩と、制作にあたってモデルを用いないというデッサンのよわさが紫明画の特徴ともいえる。主な作品に、戦前の傑作「秋単色」が出色だが、戦後では、「甲南夫人」「舞妓」「夕ぐれ」などがある。寺島紫明作品年譜大正2年 21 長野草風の紹介で鎬木清方に師事す。(1913)大正3年 22 巽画会「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)、3等賞。大正4年 23 6月郷土会発足。大正5年 24 第1回郷土会展「夕立」「夕月」。大正6年 25 郷土会「港の唄」。大正7年 26 長田幹彦の小説「青春の夢」(東京日々新聞連載)さし絵を描く。昭和2年 35 第8回帝展「夕なぎ」初入選。昭和3年 36 第9回帝展「日輪」、パリー日本美術展「姥桜」。昭和5年 38 第11回帝展「爪」。昭和7年 40 第13回帝展「母娘」。昭和8年 41 第14回帝展「うつらうつら」。昭和9年 42 第15回帝展「女」。昭和10年 43 第1回九皐会「くつろぎ」「洗髪」。昭和11年 44 改組帝展第1回「あつさ」(対幅)。新文展「9月」(京都市買上げ)。第2回九皐会「素顔」「朝霧」「2月」。尚美展「昇る月」。昭和12年 45 第1回文展「朝」。第3回九皐会「元朝」(三幅対)。尚美展「晴れた朝」。昭和13年 46 第2回文展「微匂」。第4回九皐会「紅」「おしろい」「花の雨」「鷺娘」。昭和14年 47 第5回九皐会「昼の雪」「老妓」。昭和15年 48 奉祝展「良夜」。清流会結成第1回展「月夜時雨」「朝の空」。第6回九皐会「軒の雨」「紋服」。青衿会第1回「朝風」。昭和16年 49 第4回文展「寸涼」(特選)、綵尚会第3回「夏芸者」、清流会第2回「洗いかみ」「冬靄」「卯辰橋」、仏印巡回日本絵画展「夏」、綵尚会小品展「廊のうちは」。昭和17年 50 第5回文展「秋単衣」(特選)、無鑑査出品(李王家買上げ)、綵尚会第4回「暮春」「初夏」、青衿会第3回「町娘」、清流会第3回「夕星」、関尚美堂展「盛夏」。昭和18年 51 第6回文展「初冬」(招待出品)、綵尚会第5回「中年」「もみ裏」、絅尚会第2回「静心」「祭の月」。昭和19年 52 川西航空、仁川工場に軍令で奉職。昭和20年 53 8月終戦で9月に川西航空を退職。昭和21年 54 第2回日展「彼岸」。昭和22年 55 第3回日展「中年の夫人」(招待出品)。現代総合美術展(朝日新聞社主催)「婦女」。昭和23年 56 第1回創造美術展「芸人」、綵絅会「三十路」、神戸新聞創刊50周年記念、東西大家新作日本画展「女」。昭和24年 57 第5回日展「若婦」(依嘱出品)、現代美術展「女」、兵庫県公募総合美術展の審査員となり29年までその任に当る。昭和25年 58 第6回日展「春秋夕朧」(対幅)(依嘱出品)、兵庫県展「暮春」(賛助出品)。昭和26年 59 第7回日展「上女中」審査員。昭和27年 60 第8回日展「初振袖」(依嘱出品)。昭和28年 61 第9回日展「甲南夫人」、日月社第4回「朝」、銀座松坂屋で(第1回個展)。明治、大正、昭和名作美術展「春来たる」。昭和29年 62 第10回日展「夕ぐれ」<寺島紫明個展>(近鉄アベノ)、10月<清方、深水、紫明風俗個展>(日本橋三越)。昭和30年 63 第11回日展「成女」、日月社第6回「少女」、綵尚会「花子」。昭和31年 64 第12回日展「新涼」、日月社第7回「若い夫人」。昭和32年 65 第13回日展「黒い髪」、審査員、日月社第8回「婦女」、綵尚会第8回「朝」、尚美展「冬の夫人」。昭和33年 66 新日展第1回「婦女」、綵尚会「舞妓」、紫明門下で明美会結所。明美会第1回「春」「婦女」「朝」(賛助出品(神戸元町、ちぐさや画廊)。昭和34年 67 新日展第2回「仲居」、審査員。綵尚会「若い婦人」「夕」、明美会第2回「梅の頃」(賛助出品)。昭和35年 68 新日展第3回「三人」(政府買上げ)、綵尚会「丸髷」、日月社第11回「朝」、明美会第3回「五月」「少女」(賛助出品)、明美会4人展「黒い羽織」(特別出品)(大坂そごう)。昭和36年 69 新日展第4回「舞妓」文部大臣賞、白木屋<女性美の画家寺島紫明>展28点、関尚美堂共催。明美会第4回「夏」(賛助出品)。昭和37年 70 新日展第5回「二人の婦人」審査員、明美会第5回「おんな」賛助。昭和38年 71 新日展第6回「昼」、明美会第6回「初夏」(賛助出品)。兵庫県選抜美術展「女将」。<寺島紫明舞妓展>15点出品(浜松産業会館)。昭和39年 72 新日展第7回「舞妓」、明美会第7回「少女」(賛助出品)、近代日本美人画名作展「彼岸」(姫路やまとやしき 日本経済新聞社主催)。昭和40年 73 新日展第8回「夏」、孔雀画廊<寺島紫明作品展>、明美会第8回「初冬」(賛助出品)。昭和41年 74 新日展第9回「宵」、日春展第1回「老妓」日春展委員。昭和42年 75 新日展第10回「ひととき」兵庫県政100年郷土画家名作展「夕ぐれ」「3人」「夏」(神戸大丸)。昭和43年 76 新日展第11回「朝風」、兵庫県日本画青楠会第1回「秋」、日春展第3回「学生」。昭和44年 77 改組第1回日展「舞妓」、審査員。彩壺堂現代作家シリーズ第11回<寺島紫明作品展>22点出品、青楠会第2回「娘」、日春展第4回「暮春」。昭和46年 78 改組第2回日展「早朝」、改組第1回日展出品作「舞妓」に対し日本芸術院恩賜賞受賞、高島屋白寿会第22回「冬の日」。昭和46年 79 改組第3回日展「遅い朝」、梅田画廊三番街<寺島紫明新作展>、4月29日勲等旭日小綬章受賞、神戸新聞社兵庫県平和賞(文化部門)受賞。高島屋、白寿会第23回「初冬」、第6回日春展「春日」、明美会「秋」、(賛助出品)<寺島紫明展>(静岡産業会館)、5月22日大坂新歌舞伎座で観劇中倒れる。昭和47年 80 兵庫県立近代美術館美人画名作展(10月)「夏」「新涼」「舞妓」「女」「三人」、高島屋白寿会第24回「舞妓」、明美会「素描」(賛助出品)。昭和48年 81 東京ギャラリーヤエス<寺島紫明展>「芸人」「早朝」「舞妓」等、夏目美術店、八重洲美術店、関尚美堂共催。<山平義正地中海展>「舞妓」(賛助出品)、(そごう神戸店)。兵庫県現代芸術名作展、昭和10年作「くつろぎ」出品、神戸大丸店。明美会「舞妓」賛助出品。高島屋白寿会第25回「舞妓」。昭和49年 82 ぎゃらりー神戸<寺島紫明素描展>画稿「彼岸」「鷺娘」「舞妓」他出品。<小倉遊亀、寺島紫明、中村貞以自選、3人展>そごう神戸店「夕月」「彼岸」「中年夫人」「上女中」「成女」他出品、9月に一時危篤状態に落ち入る。昭和50年 82 1月12日午前6時30分脳出血のため西宮市自宅で死去、昭和51年 <美人画の名匠寺島紫明遺作展>なんば高島屋。10月、<寺島紫明回顧展>西宮市大谷記念美術館。(寺島紫明回顧展目録より抄録)

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