本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





小穴隆一

没年月日:1966/04/24

 春陽会会員の洋画家小穴隆一は、4月24日午前8時、急性肺炎のため死去した。享年72才。両親は長野県出身で、小穴は父の任地の長崎県において、明治27年11月28日に生れた。幼稚園、小学校を北海道函館で終え、開成中学校にすすんだが、洋画家を志して中退し、太平洋画会研究所に学び、中村不折に師事した。はじめ太平洋画会展、ついで二科会展に出品、大正11年第9回二科会展には、芥川竜之介をモデルにした「白衣」を出陳した。その後、小杉放庵を敬慕して春陽会展に出品し、大正15年無鑑査に推薦され、また昭和2年には春陽会所属の若い作家のグループ麗人社に第3回展から参加した。昭和9年春陽会会員に推挙され、昭和32年第34回展まで毎年出品したが、その頃健康を害し長い闘病生活に入っていた。随筆もよくし、著書に「くじらのお詣り」「二つの絵」「白いたんぽぽ」「芥川竜之介遺墨集」などがあり、俳号を一游亭と称した。また挿絵においては都新聞連載の坪田譲治作「子供の四季」「竜彦虎彦」などがある。作品略年譜夏の日(大正9年二科7回展)、一游亭(二科8回展)、白衣・花(二科9回展)、枇杷(二科10回展)、苺(春陽会3回展)、柘榴・風景(春陽会4回展)、裸婦・風景(春陽会5回展)、柘榴・秋田音頭・盆踊・いちご・桜の園(同7回展)、静物・花・撞球・裸婦・花(同9回展)、乾酪とからし・手鏡・鏡・壁鏡(同12回展)、トラともでる・京都小品・舞妓・静物・他(同14回展)、勝負(同20回展)、椿・静物(同27回展)、裸婦(同30回展)、アマリリス・カトレア(同32回展)、まゆみちやん・静物(同33回展)、静物(同34回展)、画室に於けるT夫人(同35回展)、向日葵・椿(同36回展)。

小合友之助

没年月日:1966/04/21

 染織家小合友之助は、4月21日脳軟化症のため日本専売公社京都病院で死去した。享年68才。明治31年3月28日京都市中京区に生れ、大正5年京都市立美術工芸学校図案科を卒業した。同年都路華香に師事し、西陣織の染織図案を研究した。昭和7年帝展に初入選し、同11年文展「洛北山川之図屏風」で選奨となった。戦後日展に出品し、24・29年には日展審査員をつとめた。同年京都市立美術専門学校に勤務し、翌年助教授、31年教授に就任し、後進の指導にあたったり又染織工芸に新風を吹き込んだ。

篠原新三

没年月日:1966/04/13

 日本水彩画会名誉会員篠原新三は、4月13日脳いっ血のため長野市の自宅で死去した。享年77才。葬儀は、日本水彩画会、北信美術会合同葬をもって行なわれた。明治42年大下藤次郎、丸山晩霞の日本水彩画会研究所に入り、大正2年石井柏亭、白滝幾之助らと同研究所を改制拡張し、新たな出発をした。同会で度々受賞し、昭和22年には日展委員をつとめ、又北信美術会顧問であった。

山下新太郎

没年月日:1966/04/11

 一水会委員、日展顧問の山下新太郎は、4月11日老衰のため、港区芝の自宅で死去した。享年84才。明治14年東京根岸、御隠殿前の表具師の家に生れ、東京美術学校で黒田清輝の指導をうけた。後フランスに留学して、ラファエル・コラン、フェルナンド・コルモンに師事し、滞欧中ベラスケス、ルノアールに傾倒してその感化をうけた。初期文展で受賞し、大正3年石井柏亭らと二科会を創立し、その幹部として活躍した。又絵画の修理についての関心も深く、第一次、第二次渡仏の際在仏東洋画の修復にあたった。その功績により昭和7年仏国政府よりレジョン・ドヌール勲章を受けた。昭和10年二科会員を脱退し、帝国美術院会員となり、同12年一水会々員となった。尚この年帝国美術院は勅令改正により帝国芸術院会員となった。同30年文化功労章を受領。著書に「油絵の科学」(昭和23年好学社)がある。年譜明治14年 8月29日東京都荒川区山下七兵衛(表具師)の長男として生る。明治18年 幼時より画を好み、特に天神像を好むことより、父と昵懇であった狩野芳崖に天神図の小品を依頼し手本とする。明治25年 この頃父の友人である新岡久頼(号旭宇)に書を習う。明治32年 西田長左衛門(義兄)に就いて英語、漢文を習う。明治34年 藤島武二に師事し、東京美術学校西洋画科選科に入学。明治37年 同校卒業。東京外国語学校仏蘭西語撰科に学び、後暁星校に転ず。明治38年 4月、米国経由渡仏。はじめコラン塾に学び、次いで国立巴里美術学校に入学。フェルナンド・コルモンの指導をうけた。明治40年 5月、スペイン旅行、(プラド美術館でベラスケス作「ブレダ開城」他の模写に従事)。グラナダ、セヴィリアをみて暮に巴里へ帰る。明治41年 「窓際」巴里サロンに出品。明治42年 「読書」「読書の後」巴里サロンに出品。明治42年 夏の終り頃健康を害し、スイス経由イタリアに旅行す。(ミラノ、ベニス、フローレンス、ナポリ等)11月マントン、マルセーユを経て、巴里に帰る。この年「靴の女」制作。明治43年 6月、帰国(スエズ経由)。7月山崎誉花と結婚。第4回文展「読書の後」(三等賞)「読書」「靴の女」。明治44年 第5回文展「窓際」(三等賞)。明治45年 長女出生。大正3年 長男出生。石井柏亭らと二科会創立。湯浅一郎と朝鮮旅行。(朝鮮鉄道局依頼により京城鉄道局経営朝鮮ホテルの壁画を描く)。大正4年 再度渡鮮壁画完成す。9月、第2回二科展(日本橋・三越)「端午」(長男登10ケ月の像)「供物」(誉花像)。大正6年 奈良に旅行。大正7年 三光町新居落成。昭和4年 16回二科展「鹿子紋」他4点。昭和6年 5月、朝鮮美術展審査員となり、小林万吾と渡鮮。9月23日神戸より渡仏。昭和7年 6月21日巴里発、7月24日神戸着帰朝。年末仏国政府よりシュバリエ・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を授与さる。第19回二科展「春近きセーヌ河」他35点(滞欧作特別陳列)。昭和9年 第21回二科展「神苑」、「薔薇」「海棠」。昭和10年 二科会を脱退。帝国美術院会員となる。昭和12年 同志と一水会を創立。第1回一水会展「神苑朝」「姉妹」。帝国芸術院会員。昭和13年 第2回一水会展「少女林泉」「少女」「中禅寺湖朝」「初夏」。昭和14年 第3回一水会展「北窗」「南窗」「奈良公園藤」。昭和15年 奉祝展「白樺の若木」。昭和21年 第1回日展「露台」。昭和22年 第9回一水会展「群青石の頸飾」。昭和30年 文化功労章受領。昭和36年 日展顧問。昭和41年 4月11日逝去。

川端竜子

没年月日:1966/04/10

 青竜社主宰川端竜子は、4月10日老衰のため東京都大田区の自宅で死去した。享年80才。本名昇太郎。明治18年和歌山県に生れ、東京府立第3中学中退後白馬会洋画研究所に入り、後太平洋画会研究所に移って洋画を学んだ。挿絵画家としてはやくその名を知られたが、大正2年渡米し帰国後无声会に加わった。以後日本画に転じ、大正4年同志と珊瑚会をおこし、また院展に奇抜な作品を発表して第3回院展「霊泉由来」で樗牛賞をうけ、翌年同人に推された。昭和4年会場芸術を提唱して青竜社を創立し、以来同社を主宰すると共に、毎回多くの大作を発表した。昭和10年帝国美術院会員となったが之を辞退し、同12年の帝国芸術院会員も辞退した。昭和5年「魚紋」で朝日賞を受け、同34年文化勲章を受けた。又37年自邸内に社団法人竜子記念館を建設し、自作を陳列して一般に公開した。大胆な線を駆使する独特のバロック的画風にその特色があり、没するまで闊達な筆致は衰えをみせなかった。略年譜明治18年 6月6日、和歌山県和歌山市に生る、本名・昇太郎。家業・呉服商。明治32年 日本橋城東小学校卒、府立第一中学校入学、同第三中学編入。明治37年 府立第三中学を中退、白馬会洋画研究所に入る。明治39年 白馬会研究所より太平洋研究所に移る。林夏子と結婚。北沢楽天主宰「東京パック」に入社。明治40年 「東京パック」を退社、「東京ハッピー」「少年パック」を編集。東京勧業博覧会油絵「秋色」第1回文展「隣の人」(油絵)、国民新聞社に入社。「少女の友」挿絵を担当。明治41年 国民新聞編輯局勤務、二回文展「とこしへにさらば」(油絵)。明治44年 「漫画・東京日記」を新潮社より刊行。大正2年 国民新聞社員の儘米国遊学、七月帰朝。国民新聞社退社、日本画団体「无声会」会員となる。大正3年 洋画より日本画に転向、大正博覧会「観光客」(二曲半双)。大正4年 再興第2回院展「狐の径」、同志と「珊瑚会」を組織。大正5年 第3回院展「霊泉由来」樗牛賞を受く。日本美術院院友となる。大正6年 第4回院展「神戦の巻」日本美術院同人に推挙さる。大正7年 第5回院展「慈悲光礼讃」。第4回珊瑚会展「大森八景」(二曲半双)。大正8年 第6回院展「土」及「安息」。大正9年 第7回院展「大安日」「花と鉋屑」「草露行」。第6回珊瑚会展「秋光揺溶図」「猿酒」。第一次作品展を高島屋に開催。大正10年 第8回院展「火生」、日本美術院米国巡回展「野火の巻」「霜の朝」。大正11年 第9回院展「つのづきの巻」「庭上印象」。第8回珊瑚会「牛」「鶏舎」「庭前秋色」。大正12年 第10回院展「鶏の舞踊」「盗心」「賭博者」。小川芋銭との十種展「冬沈潜鱗図」外十点。大正13年 第11回院展「竜安泉石」、中央美術社より「画室の解放」を刊行。大正14年 第12回院展「印度更紗」「佳人好在」。院展試作展「網」紙本襖絵「竹墻四季」制作。昭和元年 第13回院展行者道三部作の一「使徒所行讃」、聖徳太子展「雨を聴く」「水涯遊禽図」(六曲半双)制作。昭和2年 第14回院展「一天護持」(行者道三部作の二)「湯治」院展試作展「不動明王」。昭和3年 第15回院展「神変大菩薩」(行者道三部作の三)。日本美術院同人を辞退、三越主催「竜子作品展」開催。昭和4年 6月28日「青竜社」樹立宣言、第1回青竜展を上野公園府美術館に開催。「鳴門」「請雨曼荼羅」出品、宮中献納作品「南山三白図」(六曲一双)を制作。昭和5年 第2回青竜展「魚紋」「草炎」、「魚紋」に対し朝日新聞社より「朝日賞」を受く。昭和6年 第3回青竜展「真珠」「南飛図」。第1回個展(三越)「月明」外20余点。昭和7年 第4回青竜展「新樹の曲」「立秋」「後圃蒐菜」。第2回個展(三越)に「皐月」他二曲六双を制作。昭和8年 第5回青竜展「竜巻」(太平洋連作の一)「山葡萄」。第1回春の青竜展「春雪譜」「紫雲英」、第3回個展「日光に題す」を三越に開催。昭和9年 第6回青竜展「波切不動」(太平洋連作の二)「白馬苑」。第2回春の青竜展「修善寺風景」「愛染」。第1回大阪個展「花鳥十二ケ月」他八点、九月南洋委任統治領の島々を視察。昭和10年 第7回青竜展「椰子の篝火」(太平洋連作の三)「炎庭想雪図」。第3回春の青竜展「鶴鼎図」「浪戯」、第5回個展「南洋を描く」15点、第2回大阪個展「松鯉図」他10点。帝国美術院官制新たに公布され会員に任命さる。昭和11年 第8回青竜展「海洋を制するもの」(太平洋連作の四)「雷」。第1回新帝展「茸狩図」。第4回春の青竜展「花垣」。東京個展「花鳥に彩す」。大阪個展「双鯉」他18点。帝国美術院会員を辞退。昭和12年 第9回青竜展「朝陽来」(「大陸策」連作の一)「睡蓮」。第5回春の青竜展「十国峠俯観」「十国峠仰観」、東京個展「長城を征く」。大阪個展「熊野路」他15点、「潮騒」(四曲一双)制作、帝国芸術院会員に任命され、ただちに之を辞退。昭和13年 宮中御用命の「松鯉図」大宮御所御用命の「鯉巴図」を制作。第10回青竜展「源義経」(大陸策連作の二)「大同石窟」「草原行」(草描8点)。第6回春の青竜展に「戦勝の春」、東京個展「征馬」他12点、三越主催五作家展に「竜門」「鏑矢」、大阪個展開催、五月北支に赴く。昭和14年 第11回青竜展「香炉峰」(大陸策連作の三)「五鱗図」「中支点描」(草描)。第7回春の青竜展「長寿花」「銃後の春」、東京個展「南船行」と題す。大阪個展「墨心彩裳」他11点。五月中支に赴く。昭和15年 第12回青竜展「花摘雲」(大陸策連作の四)「花下行人」(この回から会場日本橋三越になる)。第8回春の青竜展「献華」「前庭訪春図」。東京個展「葦・金剛」と題す。五月、満ソ国境、北支に赴く、新京特別市の懇請に依り、新設の新京美術院長就任。昭和16年 第13回青竜展「曲水図」(六曲一双)「伊豆の国」(「国に寄する」連作の一)、第9回春の青竜展「春縁二題」(「愛犬図」「愛禽図」)。青竜社社人展として青々会展を設立、第1回を三越に開催「黒潮」「春厩」「紅葉の渡」を、聖戦美術展に「八達嶺頂上攻撃図」出品。大阪個展に「紅唇図」他12点。情報局、大政翼賛会後援にて「太平洋」「大陸策」の全作を高島屋に展示、4月、新京美術院東京研究所を開設、留日研究生の指導に当る。昭和17年 第14回青竜展「国亡ぶ」(南方篇連作の一)「大和の国」(「国に寄する」連作の二)(草描)「南島草描」、第10回春の青竜展「聖雪」「極楽鳥」。第2回青々会展「菊花節」「風神雷神」「稲妻」。大阪個展「薔薇十二題」南方戦線に従軍、聖戦美術展「荊棘に挑む」。昭和18年 第15回青竜展「真如親王」(南方篇連作の二)「越後」(「国に寄する」連作の三)草描「仏印草描」。第11回春の青竜展「牡丹獅子」「征空」。第3回青々会展「宵鯉図」「濁り江」「飛躍」。大阪個展に「花客十二題」。昭和19年 第16回青竜展「水雷神」(南方篇連作の三)「怒る富士」(駿河「国に寄する」連作の四)、草描「盛夏草描」。第12回春の青竜展「編隊」「軍荼利明王」「春の池」、第4回青々会展「断」「春鶏図」「昭和19年秋景」。大阪個展「鯉魚十二ケ月」出品、7月妻夏子没。昭和20年 第17回青竜展「臥竜」「爆弾散華」草描「奈良の寺々」。第13回春の青竜展に「八ツ橋(六曲一双)「松鯉図」出品。第5回青々会展「牡丹獅子」「寒鱗図」「木鼠」「句境四季」。新京芸術学院院長に就任。昭和21年 第18回青竜展「思潮」「倣赤不動」「句意十二ケ月」(草描)。第14回春の青竜展「富貴盤」「種痘」「想春」。第6回青々会展「魚籃観音」「山百合」「果笑図」。大阪個展牡丹を主題に制作。昭和22年 第19回青竜展「虎の間」「秋縁」「東山十題」(草描)。第15回春の青竜展「春窓図」「梅鶴図」「枝垂梅」。第7回青々会「楓溪図」「菊慈童」「千鳥」。大阪個展「近江八景」「太湖風情八趣」制作。憲法記念現代展「水中梅」。俳誌「ホトトギス」同人に推挙される。昭和23年 第20回青竜展「狩人の幻想」「刺青」「湘南点描」(草描)。第16回春の青竜展「花の瀬」「紅薔薇」「玉子」。第8回青々会に「水鶏」「犬山城」「秋暉」。大阪個展に高島屋五十周年記念展として「花王・獣王」「春鱗」(各二曲一双)その他を制作。昭和24年 第21回青竜展「獺祭」「都会を知らぬ子等」「多摩を溯りて」(草描)。第17回春の青竜展「花に潜む形」「暢びる」。第9回青々会「電」「百子図」「秋魚」。大阪個展開催。再建目黒不動本堂天井に「水竜図」を描く。昭和25年 第22回青竜展「沼の饗宴」「金閣炎上」「四国遍路」(草描)。第18回春の青竜展「水巴」「百子図」。第10回青々会「山眠る」「彩果図」「有馬有情」「菊三茎」。大阪大丸のため「向上十題」を制作。大阪個展(高島屋)開催。四国遍路(第一次)に赴く。昭和26年 第23回青竜展「翡翠」「夢」「四国遍路」(二)(草描)。第19回春の青竜展「蘇峰先生像」「山笑図」。大阪個展「吉祥十題」を制作。東京個展(三越)開催「連作奥の細道点描」。四国遍路(第二次)に赴く。講談社より「わが画生活」を刊行。第11回青々会「猿か人か」「柿壺」。昭和27年 第24回青竜展「涼露図」「本尊無事」「四国遍路」(三)(草描)。第20回春の青竜展「春興図」(二曲屏風)「猪苗代湖」「室戸崎」。東京個展(三越)第2回「連作奥の細道点描」。修禅寺宝物館天井に「竜」を描く。兼素洞主催、雪月花展(大観、玉堂、竜子)が「月」を受持ち、「天心」「地心」を出品。大阪個展(高島屋)に「墨客十二ケ月」を制作。6月前年に続いて奥の細道を行脚、第三次四国遍路に赴く。第12回青々会「仙桃図」「秋高し」「双鴨図」。昭和28年 第25回青竜展「風神雷神」「仏誕」「四国遍路」(四)(草描)。第21回春の青竜展「花鳥十二ケ月」(二曲屏風一双)。大阪個展(高島屋)に「水十題」を制作。3月、第2回雪月花展に雪を受持ち「飛雪」「雪峰」を出品。翠芳園の依嘱にて襖絵「千鳥図」(十枚)を制作。奥の細道行脚。11月、東京個展第3回連作「奥の細道点描」。外務省の依嘱にて、在ワシントン日本大使館を飾る作品二点を制作。昭和29年 第26回青竜展「寝釈迦」「夕月」。第四次奥の細道行脚、第五次四国遍路。昭和30年 高島屋にて古稀記念「竜子の歩み」展を催す。第27回青竜展「小鍛冶」「かつぱと毬藻」。第六次四国遍路(満願)句集「古稀」出版。昭和31年 第28回青竜展「渦潮」「酒房キウリ」。春の青竜展「金閣再現」「竜」。「東京愛着」個展開催(三越)。昭和32年 第29回青竜展「御来迎」「ミス・カッパ」。春の青竜展「河童青春」。七月富士登山、「富士と周辺」展(三越)を催す。四国遍路満願。昭和33年 高島屋にて創立30周年記念の「竜子の歩み」展を催す。第30回青竜展「やすらい」「日々日蝕」。ベニス・ビエンナーレ美術展「吾が持仏堂」(7点)。四国33ケ所巡礼、第1回巡礼余恵展(三越)を催す。昭和34年 文化勲章を受く。第31回青竜展「筏流し」「逆説生々流転」。春の青竜展「冬眠」「蟇の紐」。皇太子御成婚記念慶祝「紅白に因む」展(高島屋)を催す。同記念のタバコ「ピース」の図案(双鶴図)制作。第二次西国巡礼、第2回西国巡礼余恵展(三越)を催す。昭和35年 第32回青竜展「はたたく」「天橋図」。春の青竜展に「あやかる」「花下独酌」。第三次西国巡礼(満願)。第3回西国巡礼余恵展(三越)を催す。昭和36年 第33回青竜展「竜子垣」と「坂東33カ寺巡礼」(1)草描。春の青竜展「仮装魚籃観音」「仮装不動明王」。第一次坂東33ケ所巡拝、第1回坂東巡礼余恵展(三越)を催す。昭和37年 喜寿記念の「竜子の歩み展」(第三次)を高島屋にて催す。社団法人竜子記念館竣工。読売新聞社の嘱により大阪四天王寺講堂の壁画(仏教東漸)の揮毫を諾し、この取材のため、1月印度に赴き、釈迦生誕の地を訪い仏跡を巡拝、2月帰京。春の青竜展「白堊と群青」(印度風景)。第34回青竜展「孫悟空」「坂東33カ寺巡礼」(草描)(2)を出品。第二次坂東66ケ所巡拝、第2回坂東巡礼余恵展(三越)を催す。句集「喜寿」出版。昭和38年 春の青竜展「百蟇図」。6月6日社団法人・竜子記念館開館、第一次の作品展示(17点)を行う。第35回青竜展「海鵜」喜寿記念私家版句集を上梓。昭和39年 第36回青竜展「阿修羅の流れ」。春の青竜展「仏誕像」。池上本門寺天井画を描く。昭和40年 第37回青竜展に「伊豆の覇王樹」。春の青竜展「熊野犬」。昭和41年 2月中旬より病床に臥す。4月10日老衰のため死去。享年80才。従三位に叙せらる。和歌山名誉市民に推挙さる。和歌山県立美術館にて、名誉市民受賞記念展を開催。静岡県修善寺修禅寺に埋骨。5月青竜社構成員解散。

中井宗太郎

没年月日:1966/03/16

 元京都市立絵画専門学校校長、立命館大学教授の中井宗太郎は、3月16日逝去した。享年87才。明治12年(1879)9月19日、京都市下京区に生れ、生家は代々油商を営み、はじめ家業に従事したが、学業を志して上京し、中学・第四高等学校を経て、東大文学部哲学科を卒業し、明治42年京都市立絵画専門学校講師に就任、以後、昭和35年立命館大学教授を退職するまで51年のあいだ、京都にあって日本、東洋美術史研究、美術教育、美術評論に活躍した。その間には、国画創作協会による近代日本画運動に協会の鑑査顧問として参加し、特に村上華岳と深い親交関係をもち、晩年には福田平八郎と特に親しい関係にあった。また、立命館大学においては奈良本辰也、林屋辰三郎、北山茂夫らによる日本史研究会に参加、民主主義科学者協会に属した。晩年は中国文化の研究に進み、現代中国に対して深い関心を示していた。 略年譜明治12年 9月19日、京都市に生れる。明治38年 東京大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学。明治41年 卒業、大学院に入学。明治42年 京都市立絵画専門学校講師となり、美術史を講義する。大正3年 結婚。大正7年 1月、国画創作協会発会、竹内栖鳳とともに顧問として参加。大正8年 京都市立絵画専門学校教授に就任。大正9年 中国各地を視察旅行し、主として竜門石窟を研究、朝鮮を経由して帰国。大正11年 2月、ヨーロッパに留学、入江波光同道。大正12年 英・独・仏・伊・スペインの美術を調査研究し、8月帰国。大正14年 朝鮮美術研究のために出張。昭和17年 京都市立絵画専門学校校長に任命される。昭和23年 京都市立絵画専門学校教授を退職。昭和24年 立命館大学文学部講師となり「日本史研究会」グループに参加。昭和29年 立命館大学教授となる。昭和35年 立命館大学教授を退職。昭和41年 3月16日死去。著作:一立斎広重 大正5年 浮世絵研究会。東洲斎写楽 大正9年 浮世絵研究会。近代芸術概論 大正11年 二松堂書店。氷河時代とエジプト芸術 大正12年 市川美術図書出版部。ギリシャ芸術 大正14年 市川美術図書出版部。大同石仏について 大正14年 市川美術図書出版部。永徳と山楽 昭和2年 中央美術社。日本風俗画大成(桃山篇) 昭和4年 中央美術社。日本名画譜仏画篇解説 便利堂。司馬江漢 昭和17年 アトリエ社。華岳作品集 昭和17年 春鳥会。絵画論 昭和23年 日本科学社。京都の美術教育 高桐書院。浮世絵(岩波新書) 昭和28年 岩波書店。

蔵田周忠

没年月日:1966/03/07

 建築家・武蔵工業大学教授蔵田周忠は、3月7日午後3時8分、脳出血のため東京世田谷の国立第2病院で死去した。享年71才。蔵田周忠は、明治28年2月26日、山口県萩市に生れ、大正10年早稲田大学工学部建築学科選科を修了後、協和銀行九段支店(昭和2年)から杉並区立杉並公民館(昭和28年)にいたる建築設計活動、武蔵工大を中心とする教育活動、その他多くの著書にみられる文筆活動、日本建築学会・東京建築士会の創設と運営、一級建築士試験委員、中央建築審議会委員など広い社会的活動によって、日本建築界・デザイン界に貢献するところ大きく、昭和36年黄綬褒章、同40年勲四等瑞宝章を授与された。略年譜明治28年(1895) 2月26日・山口県萩市に生れる。大正2年 私立工手学校建築科を卒業。大正3年 三橋四郎建築事務所製図員となる。大正4年 曽根・中条建築事務所に勤務。大正9年 早稲田大学工学部建築学科選科に入学大正10年 早稲田大学工学部建築学科選科卒業。平和記念東京博覧会技術員となる。大正10年 関根建築事務所技師昭和2年 東京高等工芸学校講師となり立体デザインを担当(昭和18年9月まで)昭和5年 3月渡欧し、ドイツにあって建築・デザイン研究。昭和6年 5月帰国、蔵田周忠建築事務所を開所。昭和7年 武蔵工業専門学校教授となる。昭和8年 ドイツより勲章「ローテクロイツ」を贈られる。昭和24年 武蔵工業大学教授、東京芸術大学美術学部講師(昭和37年3月まで)作品 協和銀行九段支店、大阪土佐堀支店、京王閣遊園、明治天皇聖跡記念館(昭和2年) 三峰神社秩父宮登山記念館(昭和3年) 東京等々力住宅区計画(内4戸実施、昭和10年) 安川邸(北九州市戸畑、昭和11年) 貝島邸(東京尾山台、昭和12年) 甲府市庁舎(昭和13年) 武蔵工業大学(昭和14年) 山口市庁舎(昭和24年) 千葉県自治会館(昭和26年) 杉並区立杉並公民館(昭和28年)著書 エジプトの文化と建築(洪洋社、大正11年)印度の文化と建築(洪洋社、大正13年)、近代建築思潮(洪洋社、大正13年)、近代英国田園住宅抄(建築画報社、大正15年)、ロダン以後(中央美術社、大正15年)、ルネサンス文化と建築・上・下(洪洋社、大正15、昭和2年)、欧州都市の近代相(六文館、昭和7年)、近代的角度(信友堂、昭和8年)、現代建築(東学社、昭和10年)、生産工業的家具(洪洋社、昭和10年)、陸屋根(相模書房、昭和15年)、ブルーノ・タウト(相模書房建築新書、昭和17年)、建築透視図(アルス、昭和18年)、建築と製図(相模書房、昭和22年)、小住宅の設計(主婦の友社、昭和22年)、製図・建築ハンドブック(彰国社、昭和24年)、グロピウス・近代建築家シリーズ(彰国社、昭和28年)、民家帖(古今書院、昭和30年)、塔のある風景(彰国社、昭和32年)、日本近代建築の研究(相模書房、昭和34年)、訳書・グロピウス「生活空間の創造」(彰国社、昭和33年)

大矢黄鶴

没年月日:1966/02/28

 日本美術院院友の日本画家大矢黄鶴(本名三郎)は、脳いっ血のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。明治44年2月17日新潟県三島郡に生れ、はじめ児玉希望に師事し、後田中青坪に就いた。戦前は昭和11年文展「初秋」同15年奉祝展「爽秋」等があり、日本画会、日本画院にも出品した。戦後は、昭和21年第1回日展に「雪晴れ」を出品し、以後21年秋より没する前年まで日本美術院に拠った。この間昭和23年には日本美術院院友に推挙され、同25年には「春庭」が奨励賞となり、同32年「卯月の頃」が白寿賞・奨励賞となった。

角野判治郎

没年月日:1966/02/26

 光風会会員角野判治郎は、2月26日神戸市の自宅で脳いっ血のため死去した。享年77才。明治22年神戸市に生れ、大正5年東京美術学校を卒業した。昭和5年光風会会員となり、戦後は日展にも出品した。

森田亀之助

没年月日:1966/02/21

 前金沢美術工芸大学長で美術史家の森田亀之助は、2月21日脳出血により金沢市の自宅で死去した。享年83才。号亀之輔、煙無形、冥霊子、光明、華明。明治16年1月20日東京京橋区に生れ、同39年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。同校在学中とくに教授岩村透に就き西洋美術史と英語を修め、旁ら東京神田国民英学会、芝区セントアンドレウス夜学校で英語を修めた。美術学校卒業後は同校助手となり英語授業を分担し、大正4年には英語の外美術史担任となり、同6年助教授となった。大正14年欧州留学を命ぜられ、昭和2年帰朝したが、昭和4年再び暑中休暇を利用し欧州古写本絵飾調査の為渡欧し、同年教授となった。昭和19年東京美術学校を退職し、同年沢藤電機株式会社青年工員教育顧問として聘せられたが翌年これも退職した。同年戦災を蒙り家屋、書籍等悉く灰燼となったが、翌21年偶石川県金沢市において、美術工芸専門学校創立され、その校長として招かれたため金沢市に移住した。同25年同専門学校が短期大学になったので、その学長となった。美術学校卒業後同校勤務の外東京女子高等師範学校、多摩帝国美術学校、東京府立第一高女高等科第2学年等を兼務している。又金沢に在っては、金沢美術工芸大学長のほか、石川県文化財専門委員、北陸美術文化協会長などを兼ね北陸美術界のため活躍した。なおまた明治42年より美術学校勤務の余暇雑誌「美術新報」の編輯に参与し、大正3年頃迄毎月海外美術界消息、外国美術家評伝を執筆した。その他新聞雑誌等に美術関係の研究評論等を多く執筆している。主な寄稿誌は次の通りである。美術新報、美術週報、美術、芸術、中央美術、美術新論、アトリエ、南画鑑賞、旬刊美術新報、日伊文化研究、回教世界、中外、図画教育等。著書「芸術家と芸術運動」(大正4年)趣味之友社。「岡田三郎助作品集」本文評伝。(昭和21年)美術書院。

大下正男

没年月日:1966/02/04

 美術出版社社長大下正男は、北海道より空路帰京の途次、全日空ボーイング機の東京湾上での事故により逝去した。享年66才。大下正男は明治33年1月10日、東京市小石川に生れた。父・藤次郎、母はる(春子)の長男、水彩画家として知られる父・大下藤次郎は、明治38年7月、水彩画の普及と発展を意図して水彩画を主とする美術雑誌〝みづゑ〟を発行したが明治44年に没し、母の春子が刊行を継続した。(正男11才)。大下正男は、翌45年早稲田中学に進み、大正14年早稲田大学建築学科を卒業、曽根・中条建築事務所に勤務した。構造関係を主として担当し、昭和3年慶大医学部予防医学教室、昭和5年東京計器製作所、昭和10年慶応義塾幼稚舎、昭和11年三井銀行大阪支店、昭和12年慶大三田校舎新館などの建設にあたっている。昭和11年中条精一郎没したため昭和13年岡本馨とともに大下・岡本建築事務所を自宅に設け、家業の〝みづゑ〟編集に従事しながら、昭和16年まで建築事務所を経営していた。大下・岡本建築事務所時代の作品には、川端竜子アトリエ、満州国立美術学校東京分校、橿原丸貴賓室・特別室等がある。一方〝みづゑ〟も大正末頃から、これ迄大下春子を援けて編集にたずさわっていた水彩画家赤城泰舒に代わって次第に大下正男の編集となり、水彩専門の記事から一般洋画関係に内容は変ってゆく、昭和8年3月、初めて雑誌奥付に大下正男の名をあらわし、母、春子は発行人の名義となる。昭和16年建築事務所を解散し、美術図書出版に専念し、同年美術雑誌の戦時第一次統制に際し、〝みづゑ〟は〝新美術〟と改題し創刊号を出し、18年の第二次統制に際しては中心となって統合に当たり、藤本韶三とともに日本美術出版株式会社を設立し、〝美術〟を19年1月から発行した。戦後、21年9月になって〝美術〟を再び〝みづゑ〟の名称に戻し、〝三彩〟を発行、23年には新たに〝美術手帖〟27年には〝美術批評〟を創刊、更に美術単行図書の出版にも力を入れ、〝美学〟、〝ミューゼアム〟など研究雑誌の発行にも協力するなど、美術の普及、美術書の発展などに大きな功績をのこしている。晩年は、編集、出版の国際的交流に先鞭をつけ尽力していた。没後、大下正男編集委員会の下で、詳細な伝記、年譜、追想を収めた「追想・大下正男」(非売品)が同社から刊行されている。

早川慶五郎

没年月日:1966/02/03

 無形文化財技術保存選定保持者の早川慶五郎は、2月3日老衰のため名古屋市の自宅で死去した。享年86才。愛知県に生れ、70年間七宝焼の線付け師として活躍し、昭和28年無形文化財に選定された。同35年黄綬褒章、39年11月勲六等瑞宝章を贈られた。

有岡一郎

没年月日:1966/01/24

 立軌会会員の洋画家、有岡一郎は、1月24日午後11時、脳出血のため神奈川県の自宅で死去した。享年65才。有岡一郎は、明治33年(1900)8月26日、京都市で生れ、大阪府堺市で育ち、大正6年大阪市明星商業学校を中途退学して上京、本郷洋画研究所に入所して岡田三郎助に師事した。大正8年、第1回帝展から毎回官展に出品し、昭和9年15回帝展に「玉葱をむく女」を出品して特選となり黒田奨励賞を受賞、翌10年帝展改組のときの第2部会1回展に「T先生像」で文化賞をうけた。また、本郷研究所出身者による春台美術展(昭和5年以降)に創立時から参加した。戦争中には海軍から派遣されてジャワ、バリー島などに行き、昭和12年、大本営の依頼で「ジャワ沖海戦の図」を制作し、大東亜戦争美術展に出品した。戦後は、無所属から一時日展に出品したが、昭和25年立軌会に会員として参加し、第2回展から出品した。作品略年譜自画像(大正8年帝展1回展)屋根と樹(同2回展)安田君の肖像(同3回展)肖像(第4回展)首飾りの女(同6回展)初秋郊外(同7回展)二人の肖像(同8回展)本を持ってる肖像(同9回展)家族(同11回展)赤いチョッキの男(同13回展)樂器をもちて(同14回展)玉葱をむく女(同15回展黒田奨励賞・東京国立近代美術館蔵)T先生の像(第二部会1回展文化賞)マリアーヌと祖父(新文展招待展)港(文展2回展)青い手袋(同3回展)婦人像(二千六百年奉祝展)外誌より得たるモチーフ(同4回展)ジャワ沖海戦(大東亜戦争美術展)赤いチョッキの男(昭和24年5回日展)独唱者・先生・マンジアーレA、B(立軌会4回展)アンサンブル・アシジの聖・先生の肖像他4点(同5回展)食事・或る肖像他3点(同7回展)僧院の歌・祖父と孫たち・祭の日他3点(同8回展)楽隊と児共・習作(同9回展)画家・演劇・スラブの歌(同10回展)子供の歌A・子供たちの歌B・街他4点(同11回展)演劇・歌う聖母・素描(同12回展)歌う・歌う・習作(同13回展)歌う・素描(同14回展)ペトルーシカより・習作など5点(同15回展)

市野亨

没年月日:1966/01/20

 青竜社社人市野亨は、肝硬変のため自宅で死去した。享年55才。明治43年愛知県に生れ、はじめ朝見香城の門に入った。名古屋市民美術展、東海美術展、愛知社展等で受賞し、昭和9年第6回青竜社展にはじめて入選した。その後毎回同展に作品を発表し、没する前々年までつづけられた。その間に昭和11年青竜社社子、同13年社友、同17年社人になり、青竜社幹部として中部地方の代表的存在であった。略年譜明治43年5月30日 愛知県海部郡に生る。昭和9年 第6回青竜社展「樹下軍鶏」(六曲屏風片双)初入選。昭和10年 第7回青竜社展「谷間」昭和11年 第9回青竜社展「魚窓」(六曲屏風)(Y氏賞)青竜社社子となる。昭和12年 第10回青竜社展「猛禽舎」(四曲屏風)(奨励賞)昭和13年 第11回青竜社展「檻」青竜社社友となる。昭和16年 第9回春の青竜社展「冬日」(青雲賞)昭和17年 第15回春の青竜社展「初秋」青竜社社人となる。昭和40年 第36回春の青竜社展「暮色」

河村熹太郎

没年月日:1966/01/18

 日展会員の陶芸家河村熹太郎は、1月18日午後10時、鎌倉市の自宅で脳出血のため死去した。享年66才。河村熹太郎は、京都の陶芸家の家に生れ、大正末期から昭和初期にかけて、新進陶工の集団「赤土同人」さらに「燿々会」に関係して保守的な京都陶芸界の改新につとめ、昭和10年には従来の帝展工芸の傾向にあきたらず生産的工芸に新境地を開拓する目的で結成された「実在工芸美術会」(高村豊周、内藤春治など)に同人として参加した。戦後は愛知県猿投山に開窯、さらに鎌倉に新窯を開いて製陶していた。略年譜明治32年(1899) 4月14日、京都市粟田に生れる。大正9年 陶芸集団「赤土同人」を創立、新しい陶芸の運動をおこす。昭和2年 帝展に新設された第四部工芸に「花瓶」「青絵皿」の2点入選。河村蜻山、河合栄之助、楠部弥一らと燿々会を結成。昭和3年 9回帝展に「大瓶」入選昭和4年 10回帝展に「白瓷花瓶」入選昭和10年 10月「実在工芸美術会」創立に同人として参加。京都市嘱託となり陶磁研究のため中国・朝鮮を視察旅行。昭和11年 実在工芸美術会第1回公募展を都美術館にて開催。昭和12年 第1回新文展に「八方形染付富貴国香之図花瓶」「金襴手雲模様八角捻水指」を出品して後者が特選となる。パリ万国博に「八角形染付菊花食籠」を出品、名誉賞を受賞。昭和18年 第6回文展で審査員昭和24年 第5回日展審査員昭和25年 愛知県西加茂郡の猿投山山麓に散在する異色ある陶土に魅力を感じ新境地を開拓しようとして京都市五条坂の陶房を猿投町平戸橋畔に移す(さなげ陶房)。フランスにおける日本陶芸展に出品「方形鉄絵皿」がチェルスキー美術館に収蔵される。昭和31年 愛知県教育委員会より表彰さる。昭和32年 愛知県学術文化功労者として表彰される。昭和33年 中日文化賞を受賞。昭和36年 鎌倉のもと北大路魯山人陶房跡に新窯其中窯を築き、さなげ陶房における研究の実験工房として「茶碗道場」の創設に着手する。昭和38年 4月、其中窯初窯による個展を東京・三越において開催する。昭和40年 備前焼の研究作品を中心に其中山房において個展を開く。12月<やきものをつくる>(美術出版社)を出版。昭和41年 1月18日死去。

阿部晃工

没年月日:1966/01/17

 日府会理事、彫刻家阿部晃工(前号・東晃)は、1月17日午後0時20分、肝臓ガンのため日本大学板橋病院で死去した。享年59才。明治39年4月24日北海道士別市に生まれた。本名、喜二郎。上京して文展無鑑査の彫刻家柴田正重に数年間師事し木彫を修得、昭和5年4月東京美術学校彫刻科塑造部選科に入学し、同10年3月卒業、引続き研究科に残り12年3月修業した。在学中、学生相撲で右手肘関節を傷害して左手で主に製作という不自由さにもかかわらず、卒業前の昭和9年第15回帝展に「蒼」が初入選したのをはじめ、つづく文展や大小美術展に14回も入選するという記録をつくり、新鋭ぶりを発揮した。卒業後も引続き発表をつづけ、通算、文展、日展其他に38回入選、4回受賞、無鑑査・推薦3回、招待推薦2回、審査員推薦と経歴書に自筆している。戦後は官展系の団体展からはなれ、昭和26年6月、同志と計って、戦後唯一の彫刻公募団体、創型会の創立に参加し、翌年3月の旗上げ第一回展以後毎年6月都美術館で開催の創型会展に発表したが、同36年1月創型会を脱会した。美術家代表団の一員として37年と38年の2回、短期間渡欧、40年1月インド政府の招待で、仏像研究のため、インド、カンボジヤ等3週間歴訪。39年2月、社団法人日府会に招かれ常任理事委員となり、40年2月の第12回日府展では最高の日府賞を受賞した。晩年の作風は、なおも具象彫刻の領域にありながら、練熟の彫技を駆使した木彫をしばしば手がけ、大きな面を強調要約した簡潔な形態把握の力作に特色を示した。

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