本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





橋本永邦

没年月日:1944/05/06

 日本美術院同人・文展無鑑査橋本永邦は腹膜炎のため5月6日逝去した。享年59。本名乾。明治19年橋本雅邦の二男として生れ、雅邦・下村観山に師事、明治40年第1回文展に「諸菩薩問維摩説」を出品して3等賞に入り、第3回文展に「采女の眠」第4回に「薬師」を出品、爾来院展に毎回出品、大正10年に美術院同人となつた。その主な作品をあげれば、大正13年、第11回院展「朝の楼廓」大正15年第13回「山姥」昭和6年18回「湍怒」昭和9年21回「せせらぎ」昭和11年23回「二人静」昭和14年26回「邯鄲」等がある。

松岡寿

没年月日:1944/04/28

 洋風画界の長老元東京高等工芸学校校長松岡寿は、4月28日横須賀市の自宅に於て、慢性腸カタルのため逝去した。享年83。文久2年2月5日岡山に生れた。父は岡山藩士松岡隣にして、洋学研究の先駆者であつた。明治5年11歳の時父に従つて東京に移つた。同年川上冬崖の聴香読画楼に入門して初めて西洋画法を問い、又陸軍省偏教師仏蘭西人アベル・ゲリノーに就て図学を学んだ。明治9年工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージに師事した。同11年フオンタネージの後任フェレッチに慊らず、同志と退学して十一字会を組織し研鑚に努めた。同13年羅馬に留学し、羅馬美術学校名誉教授チェザーレ・マッカーリ Cesare Maccari に師事し、同16年国立羅馬美術学校に入学した。明治20年同校を卒業し、同年10月巴里に移り、翌21年11月帰京した。同22年同士と共に明治美術会を組織し、洋風画の啓発に努めた。同会展覧会に「父の像」「売卜者」等を発表した。又同25年には明治美術会に属する明治美術学校の創立に参画し、その経営と指導に尽瘁した。明治23年第3回内国勧業博覧会以来、屡々内外博覧会 鑑審査官となり、明治40年文部省美術審査委員会の設置と共に委員に選ばれ、大正2年第7回文部省美術展覧会に及んだ。又夙く明治30年に農商務省商品陳列館長に任ぜられ特許局審査官を兼ね、大正2年農商務省の図案及応用作品展覧会の創設に尽力してその審査員となり、美術工芸の発達に寄与するところがあつた。又教育家としては、明治25年以来工科大学造家学科の装飾画及び自在画の授業を担当し、明治39年には東京高等工業学校教授に任ぜられ、工芸図案科長となり、大正3年東京美術学校教授を兼ねた。同8年東京高等工芸学校創立委員を嘱託され、同10年同校々長に任ぜられ、多くの後進を誘掖した。その生涯の業績は、美術教育家或は行政家として大きいが、作家としては伊太利亜の官学派を伝え、上述の作品のほか、留学時代の「西班牙闘牛者」「伊太利ベルサリエーレの歩哨」大正7年大阪公会堂の為に描いた天井壁画「伊邪那岐・伊邪那美の二神の図」、昭和3年明治神宮絵画館のために描いた壁画「兌換制度御設定」昭和14年製作の「海老名弾正氏肖像」等がある。略年譜文久2年 2月5日岡山藩山屋敷に生る、父は岡山藩士松岡隣、母は同藩士人見宗元の妹なり明治5年(11歳) 父に従い東京に移る、川上冬崖の聴香読画楼に入門洋画を学ぶ、陸軍省雇教師仏国人アベル・ゲリー氏に図学を学ぶ明治9年(15歳) 工部大学校附属美術学校創設せられ、これに入門しアントニオ・フォンタネージに師事す明治11年(17歳) フォンタネージの後任フェレッチに慊らず同志と退校願書を出す、同志と十一字会なる団体を組織して研鑚に力む明治13年(19歳) 伊太利、羅馬に留学す、羅馬美術学校名誉教授Cesare Maccariに師事す明治16年(22歳) 国立羅馬美術学校に入学す明治20年(26歳) 羅馬美術学校卒業証書を受く、羅馬を去り巴里に移る明治21年(27歳) 10月帰朝す明治22年(28歳) 同志と明治美術会を組織す、10月任陸軍教授叙奏任官5等明治23年(29歳) 第3回内国勧業博覧会審査官被付明治25年(31歳) 明治美術会附属美術学校に於て洋画を指導す、工科大学講師を嘱託さる、臨時博覧会事務局監査官被仰付明治28年(34歳) 第4回内国勧業博覧会審査官被仰付、妙技2等賞を授けらる明治30年(36歳) 農商務省商品陳列館技師に任ぜられ、商品陳列館長を命ぜらる、兼任農商務省特許局審査官明治32年(38歳) 農商務省特許局審査官臨時博覧会鑑査官被仰付明治33年(39歳) 東京高等師範学校洋画講師を嘱託さる明治36年(42歳) 第5回内国勧業博覧会審査官並に臨時博覧会鑑査官被仰付明治39年(45歳) 任東京高等工業学校教授叙高等官4等明治40年(46歳) 東京勧業博覧会審査官を嘱託さる、美術審査委員会委員被仰付明治42年(48歳) 日英博覧会鑑査官被仰付明治43年(49歳) 美術審査員被仰付、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員を嘱託さる明治44年(50歳) 美術審査委員被仰付明治45年(51歳) 第2回東京勧業展覧会審査員を嘱託さる、美術審査委員被仰付大正2年(52歳) 美術審査委員会委員被仰付、農商務省第1回図案及応用作品展覧会審査委員を嘱託さる大正3年(53歳) 東京大正博覧会第二部出品鑑査員、博覧会審査官を嘱託さる、第2回図案応用作品展覧会鑑査委員を嘱託さる、臨時博覧会鑑査官被仰付、兼任東京美術学校教授、叙高等官3等大正4年(54歳) 第3回図案及応用作品展覧会審査員を嘱託さる大正5年(55歳) 第4回図案及応用作品展覧会審査員を嘱託さる大正6年(56歳) 大阪公会堂壁画の揮毫を完成す、第5回図案及応用作品展覧会審査員を嘱託さる大正7年(57歳) 第6回工芸展覧会審査委員を嘱託さる大正8年(58歳) 工芸審査委員会委員被仰付、東京高等工芸学校創立委員を嘱託さる大正9年(59歳) 工芸審査委員会委員被仰付大正10年(60歳) 工芸審査委員被仰付、任東京高等工芸学校長、叙高等官2等、1級俸下賜大正11年(61歳) 叙勲4等賜瑞宝章、工芸審査委員会委員被仰付大正12年(62歳) 依願免東京高等工芸学校長大正14年(64歳) 任東京高等工芸学校長叙高等官2等、1級俸下賜大正15年(65歳) 工芸審査委員会委員被仰付昭和2年(66歳) 叙勲3等賜瑞宝章、日仏展覧会委員嘱託昭和3年(67歳) 明治神宮聖徳壁画兌換制度御治定の図を完成す、陞叙高等官1等、依願免東京高等工芸学校長、仏蘭西政府よりL. Officier de instruction Publique章を贈らる昭和10年(74歳) 東京府養生館歴史画仁徳天皇の図を描く昭和12年(76歳) 東京府養生館歴史画皇太子殿下御外遊の図を完成す昭和19年(83歳) 4月28日没

外狩素心庵

没年月日:1944/04/22

 素心庵外狩顕章は4月22日急性肺炎の為逝去した。享年52。明治26年愛知県に生れ、曹洞宗大学を出て、大正2年二松学舎を卒業、同年中外商業新聞社に勤務、美術記者として独自の境を開いた。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に関する造詣深く、美術骨董界に貢献する所大きかつた。大正13年同社学芸部長、昭和3年参事、昭和18年嘱託となつた。又、多趣味で知られ、書道・絵に達し、詩や句も作つたが、ことに南画は数回展覧会に出品したことがある。遺著も数種ある。

幡恒春

没年月日:1944/04/17

 挿絵画家幡恒春は4月17日逝去した。享年62。明治16年生れ、同39年大阪朝日新聞に入り、16年間挿絵を担当した。村上浪六の挿絵に独自の筆致を認められていた。

渡辺一

没年月日:1944/03/23

 美術研究所嘱託渡辺一は昭和15年2月応召、中支を経てビルマに転戦、インパール戦線に於て3月23日戦死した。享年41。明治37年新潟県長岡市に生れ、県立長岡中学から第一高等学校を経て、東京帝国大学美術史科を卒業、同時に京城帝国大学法文学部に赴任し、田中豊蔵、上野直昭教授の助手となつたが、同5年辞職し、次いで同6年帝国美術院附属美術研究所の嘱託となつた。その後草創当時の美術研究所のために正確綿密な頭脳と真摯な実行力を駆つて資料の蒐集、索引等の作成及び整備につとめ、又創刊当初の機関誌「美術研究」の編輯に力を注ぎ、昭和10年には九州帝大法文学部の依嘱をうけて「日本上代絵画史」の講義に赴いた。弱冠にして既に稀に見る博識をうたわれたが、特に研究題目は中国絵画史の禅宗系統のもの、引いて我が東山水墨画画ような枯淡な方面を選び、応召2、3年前頃から美術研究所の事業の一つである「東洋美術総目録」の作成に専心、先ずその一端として東山水墨画派の研究を個々の作家に就いて進めつつあつた。その成果は「美術研究」に発表されている。黙庵、如拙、周文、正信等がその主要なものである。用意周到で、明哲な学風は大いに注目すべきものがありその完成は特に学会の期待するところであつたが、その途上で斃れたことは返すがえすも遺憾なことであつた。遺族には養母、夫人二男一女が茨城県下にある。

林重義

没年月日:1944/03/15

 文展審査員、国画会会員林重義は胃癌の為3月16日逝去した。享年49。明治29年兵庫県に生れ、京都市市立絵画専門学校に学んだが中途退学し関西美術院に転学した。大正9年鹿子木孟郎に洋画を学び、同12年二科展に入選して以来毎年出品し、大正15年には二科賞を受けた。昭和3年渡仏、翌年フランスより二科展に出品し会友に推挙された。5年帰国し滞欧作品を二科会に出陳し、後同士と共に脱退、独立美術協会を創設、以後独立展に出品を続けたが、独立展に超現実派の流行するに及び、資生堂に個展を開き純写実主義を主張、12年遂に独立を脱退した。翌13年文展に出品してからは主に文展に出品したが14年には同志と共に霜林会を組織し展覧会を開いた。昭和17年国画会々員となり、紀元二千六百年奉祝展、第6回文展には審査員となつた。氏の晩年は写実主義の中に日本的な味を出す事に努めていた。

高橋理一郎

没年月日:1944/02/16

 文部省建築課長、文部技師高橋理一郎は2月16日執務中脳溢血で急逝した。享年58。明治20年千葉県に生れ、明治45年東大工科卒業後文部省に入り、28年間余り建築課に勤務、在任中諸高校の拡張、震災復旧、高工新設工事等につくした。

飯田新七

没年月日:1944/02/03

 高島屋前社長飯田新七は2月3日京都東山区呉竹庵本邸で逝去した。享年86。安政6年京都に生れ、高島屋四代目の当主として呉服貿易業に専念、今日の隆盛をなし、我国の染織業の指導者として大いなる功績を残した外、社会事業にも貢献する所が多かつた 第4回内国勧業博覧会に審査官となつて以来、しばしば各種博覧会の委員となり、昭和10年から大礼記念京都美術館の評議員でもあつた。

佐藤光華

没年月日:1944/01/30

 文展無鑑査、佐藤光華は1月30日急性肺炎の為逝去した。享年48。本名長三郎、明治20年京都に生れ、京都絵画専門学校を卒業、大正9年第2回帝展に「吉祥天」出品以来数度入選し、昭和5年無鑑査となつた。出品作に「赫奕姫」「嬌婉」、「漢織呉織」「菊慈童」「瑞鷹」其他がある。

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