本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





高木背水

没年月日:1943/05/12

 洋画家高木背水は5月12日肝臓病のため逝去した。享年67。本名は誠一、明治10年佐賀県に生れ、大野塾に入門、後白馬会研究所に入り、明治30年20才の時から同会に出品を続けた。明治37年米国に留学、コロンビア大学美術科を卒業し39年に帰朝、第1回文展に「海辺の松」を出した。明治43年から2年間英国に留学し、英国帝室技芸院展に「英国風景」を出し、帰朝の年文展に「ウヰンザー橋の朝」を出した。また光風会にも出品し、大正2年には文展に「晩秋」、太平洋画会展に「春風桜花図」を出品し宮内省買上となつた。この年より明治大帝御像を描き翌年完成した。大正9年再度渡欧したが、これに止まらずこの後3回に及んでいる。なお朝鮮の美術のために尽力したほか、光風会、白日会、帝展に作品を発表し、その明るい画風は終生変らなかつた。

河合瑞豊〔初代〕

没年月日:1943/05/03

 陶芸界で知られた京都の河合瑞豊は東山の自宅で5月3日逝去した。享年81。京洛陶芸界の復興に力を尽くした人で、ことに禅家との関係が深かつた。

古屋正寿

没年月日:1943/04/30

 文展無鑑査古屋正寿は4月30日脳溢血のため急逝した。享年59。明治18年山梨県に生れ、41年東京高等師範図案専修科を卒え、大正2年より5年間群馬師範に奉職した。高師在学中より山内多門につき、多門没後川合玉堂の門に入り、第1回院展に入選、帝展には第5回より引続いて入選、その間第10回には特選を得、昭和9年に帝展無鑑査となつた。

不二木阿古

没年月日:1943/04/23

 文展無鑑査、東丘会の中堅であつた不二木阿古は4月23日逝去した。享年48。本名藤木政雄、明治29年兵庫県に生れ、15、6歳の頃島御風に師事、故北野恒富門に入り10余年の後、堂本印象門に転じた。旧帝展文展に数度入選。昭和12年に「将棋親旧」を出品し特選を得、16年無鑑査となり、印象塾東丘社に重きをなした。

景山栄次

没年月日:1943/04/12

 春台美術会の評議員景山栄次は渡満中、4月12日逝去した。享年34。故岡田三郎助に師事し、本郷絵画研究所を卒業、帝展文展に数回入選、春台賞2回受賞、前途を嘱望されていた。

村越道守

没年月日:1943/04/08

 彫金家、文展審査員、工芸作家協会常務委員村越道守は4月8日肺炎のため下谷区の自宅で逝去した。享年43。明治34年東京に生れ、東京高等工芸学校を卒業、帝展時代より出品を続け、特選2回、その様式化した作品は新機軸を出すものとされた。

平木政次

没年月日:1943/04/07

 明治洋画の先達平木政次は4月7日逝去した。享年85。安政6年江戸板倉藩邸に生れ、明治6年五姓田芳柳の門に入り、11年には玄々堂印刷所に入社した。明治10年第1回内国勧業博覧会には「九段招魂社より富嶽を望む図」を出品、第2回内国勧業博覧会には「不忍池畔」、明治20年東京府主催工芸品展覧会には「父の座像」を出品し、明治23年明治美術会委員となつた。また明治13年より教育博物館に入り植物標本図を作製、後、帝国大学理科、東京高等師範の助手としてこの方面にも尽力し、大正4年退官してからは旧藩主板倉家の家扶となつたこともある。作品としては文展第1回「残雪」が知られるほか、著書に「明治初期洋画壇回顧」がある。

大曲駒村

没年月日:1943/03/24

 「浮世絵志」主幹大曲駒村は3月24日逝去した。享年62。明治15年福島県に生れ、中学校卒業後銀行員となり、傍ら作句や絵画に趣味を持つていたが後「浮世絵志」を主宰した。

藤島武二

没年月日:1943/03/19

 帝室技芸員帝国芸術院会員、東京美術学校教授藤島武二は3月19日宿痾脳溢血のため本郷区の自宅に於て逝去した。 藤島武二は、慶応3年9月18日鹿児島市に賢方の三男として生れた。弱冠四条派の画家平山東岳に就いて絵画を学んだ。明治17年東京に出で、翌18年川端玉章の門に入り、玉堂と号し日本美術協会に出品して受賞した。併し、同23年宿志たりし洋風画の研究に転じ、曽山幸彦に師事した。その後中丸精十郎、松岡寿、山本芳翠等に技を問うた。同24年明治美術会々員となり、同会第3回展覧会に「無惨」を出品してその技を認められた。同25年同会第4回展に「福神」「上代婦人」を同26年同会第5回展に「桜狩」を出品した。「桜狩」は米国市俄古閣竜万国博覧会出品予定の大作であり、その初期の代表作であつた。(大正12年大震火災の為め焼失)此の年津市所在三重県尋常中学校助教諭として赴任した。同28年明治美術会第7回展に「少女」「一竿風月」等を出品、第4回内国勧業博覧会に「御裳濯川図」を出品して褒賞を受けた。同29年東京美術学校に西洋画科の設置さるるや黒田清輝の推薦によつて助教授に任ぜられ、爾来その逝去の日迄凡そ50年の間後進の誘掖指導に尽瘁した。此の年又白馬会の創立に与つてその会員となり、爾後毎歳同展覧会に発表して画名を高めた。即ち「池畔納涼」(第2回)、「池畔」(第3回)、「天平の面影」(第7回)、「諧音」(第8回)、「蝶」(第9回)等が知られる。同38年文部省より絵画研究の為め4箇年間仏蘭西、伊太利亜に留学を命ぜられ、初め巴里のグラン・シヨーミエールに入り、次で国立美術学校に入学、フエルナン・コルモンに師事し、次で伊太利亜に移り、カロリユス・ヅユランの薫陶を受けた。同43年1月帰朝し、同年の白馬会展覧会に滞欧作品30点を特別出陳し、その新鮮なる画風によつて多大の感銘を与えた。而して、此の年東京美術学校教授に任ぜられた。同44年第5回文部省美術展覧会に滞欧作「幸ある朝」「池」を、同45年第6回文展に「公園の一隅」を発表した。この年岡田三郎助と本郷絵画研究所を起したが、大正2年川端絵画研究所に洋画部が設置さるるや、専らその指導に当つた。大正2年第7回文展に「うつつ」を出品して3等賞を授けられ、同3年大正博覧会審査員、文部省美術審査委員会委員、臨時博覧会(米国桑港万国博覧会」鑑査官に挙げられた。爾後連年文部省美術審査委員会委員を命ぜられ、文展に「匂ひ」(第9回)「静」(第14回)「草の香」(第12回)等を出品した。大正8年帝国美術院の創立と共に同院展覧会審査委員を命ぜられ、同13年帝国美術院会員を仰付けられた。帝展時代の作品に「東洋振」「アマゾーヌ」(第5回)「芳恵」(第1回聖徳太子奉讃会展)「鉸剪眉」(第8回)や、昭和6年以来の海の連作があつて「大王岬に打寄せる怒涛」(第13回帝展)「東海旭光」の如きが知られる。昭和9年帝室技芸員を命ぜられ、同10年改組された帝国美術院会員を仰付けられた。同12年多数の功労に依り新しく制定された文化勲章を授与された。又この年帝国芸術院の創立と共に同院会員となつた。此の年満州美術展覧会の審査員として渡満し、蒙古、熱河、北京等を巡遊した。而して予て拝命せる御物「旭日照六合」を完成した。同13年再び渡満し、軍の委嘱によつて上海、杭州、蘇州等を旅行し、戦跡を写した。同15年紀元二千六百年記念展覧会に病を押して「蒙古高原」を制作して出品した。同17年第2回聖戦美術展覧会の審査委員長を委嘱された。同18年1月勲2等に叙せらられたが、3月19日宿病脳溢血再発し、同日午前10時30分遂に逝つた。同月23日青山斎場に於て告別式を執行、青山墓地に葬られた。その逝去に当り従3位を贈られた。 明治、大正、昭和に亘つて終始変ることなき努力と研鑚を続け、而も晩年に至るに従い豪壮なる構図と華麗なる賦彩か渾然として近代稀に見る芸術を作り成した。その近代洋風画の向上と後進を指導啓発した功績は長く伝えらるべきである。略年諧慶応3年 9月18日鹿児島市に藤島賢方の三男として生る、幼名猶熊、父賢方は早逝、また長兄、次兄も夭逝、専ら母たけ子刀自の手にて薫育さる明治15年(16歳) 小学校を卒え造士館(鹿児島中学校)に入学、17年まで在学、その間、四条派の画家平山東岳につき日本画を学ぶ明治17年(18歳) 洋画修業を志し笈を負うて上京、神田某英語学校に学ぶ明治18年(19歳) 一時帰郷、再び上京して川端玉章の門に入り玉堂と号す、日本美術協会に2回作品を出品し、受賞せしことあり明治19年(20歳) 旁ら東京仏語学校に入学、明治21年迄在学明治23年(24歳) 曽山幸彦につき初めて洋風画を学び、後転じて中丸精十郎に学ぶ、後更に新帰朝の松岡寿の麹町区飯田町の画室に学び、次で山本芳翠の天真道場に移りその指導を受く明治24年(25歳) 明治美術会に入会、通常会員となる、第3回明治美術会展覧会に油絵処女作「無惨」を出品す。明治25年(26歳) 3月25日 4月30日(春季展)明治美術会第4回展に油彩画「福神」「上代婦人」出品明治26年(27歳) 明治美術会第5回展に「桜狩」出品、尚この年4月尋常師範学校、尋常中学校、高等女学校の教員免許状を下附され、同年7月、津市所在三重県尋常中学校の助教諭を拝命明治28年(29歳) 明治美術会第7回展に「少女」「一竿風月」「風景」を出品、第4回内国勧業博覧会に「御裳濯川図」を出品、褒賞を受く明治29年(30歳) 東京美術学校に西洋画科の新設さるるや8月助教授に任ぜらる、この年白馬会創立され、同年秋第1回展に「春の小川」「四条河原の夏」「稲こぎ」「茂林初秋」「海辺に至る路」「郊外日暮」「鴨川晩景」「山径晩秋」「桜花の春」「伊勢塔世川」等10点の水彩画出品明治30年(31歳) 白馬会第2回展に「池畔納涼」「逍遥」「雨後暮色」「肖像」「林間透暉」「凍れる港」「読書」「雪の暮」「畑」出品明治31年(32歳) 白馬会第3回展に「浜辺の朝」「池畔」「貝拾ひ」「海辺の春風」「逗子の浜辺」「網小屋」「浜辺」「海辺の微雨」を出品明治32年(33歳) 白馬会第4回展に「夕空」「雨」「花」「習作」「路」「馬」「江」「晴」「風景」「花」「風景」「浜辺」「風景」「夕映」出品、この年タカ子と結婚す明治33年(34歳) 巴里万国博覧会に「池畔」出品明治35年(36歳) 白馬会第7回展に「天平時代の婦人図(天平の面影)」「雨後」「泊舟」「松」「花昌蒲」(石版画)「ミユーズ」(同)「菊、萩撫子花」(同)「花下少女」(同)明治36年(37歳) 白馬会第8回展に「諧音」を出品、雑誌「明星」に絵筆を執る明治37年(38歳) 白馬会第9回展に「蝶」「朝」「夕」「婦人肖像」を出品明治38年(39歳) 絵画研究のため文部省より仏蘭西、伊太利へ4年間の留学を命ぜられ、11月18日、日露戦争後初の便船にて渡仏、初め、巴里のグラン・シヨーミエールに入り、次で巴里の国立美術学校に入学フエルナン・コルモンの薫陶を受く巴里在留中、英吉利、白耳義、和蘭、独逸を巡歴、その間「公園の一隅」「セーヌ河畔」「フランス婦人像」「巴里寓居の記念」等を描く明治41年(42歳) 巴里を去つて伊太利亜羅馬に移り、コルモン教授の紹介にて、在羅馬仏国々立美術院長カロリユス・ヅユランの門に学ぶ、「ヨツト」「チヨチヤラ」「レマン湖」「幸ある朝」「池(ヴヰラ・デステ)」「黒衣の婦人」「ヴエニス」「ウツシー」「ポムペイ遺跡」「イタリー婦人像」「黒扇」「浴室の女」「神聖の森」「ローマの遺跡」等多数の制作あり。明治43年(44歳) 1月、満4ヶ年の留学を終え帰朝、同年白馬会展に滞欧中の作品30点を特別出陳、4月第2回東京美術及美術工芸展覧会の審査員嘱託、5月東京美術学校教授を拝命、従7位、高等官7等明治44年(45歳) 第5回文部省美術展覧会に滞欧中の作品「幸ある朝」「池(ヴヰラ・デステ)」を出品明治45年(46歳) 第6回文展に滞欧作「公園の一隅」を出品、同3月、岡田三郎助とはかり、本郷春木町に本郷洋画研究所を設立大正2年(47歳) 第7回文展に「うつつ」を出品、3等賞を受く、正7位、高等官6等、小石川区春日町の川端絵画研究所に洋画部が設置さるるに当り本郷洋画研究所は岡田氏に委ね、同洋画部を担当す、美術研究のため朝鮮へ出張を命ぜらる大正3年(48歳) 4月、東京大正博覧会の審査官、また9月には米国サンフランシスコ万国博覧会鑑査官、8月、文部省審査委員会委員を仰付けられ、大正7年まで毎年同委員を拝命大正4年(49歳) 第9回文展に「空」「匂ひ」を出品、従6位勲6等高等官5等大正5年(50歳) 第10回文展に「静」を出品、桑港万博尽力に付銀杯与らる大正6年(51歳) 陞叙高等官4等大正7年(52歳) 第12回文展に「草の香」、国民美術協会展に「包心」を出品、「少女」等の制作あり、叙正6位大正8年(53歳) 文部省審査委員会官制廃止され、帝国美術院規定制定さる、帝展審査委員に任ぜらる、第1回帝展に「カンピドリヨのあたり」を完成出品。大正9年(54歳) 帝展審査委員拝命、この年の第2回帝展に「朝」を出品、高等官3等大正10年(55歳) 帝展審査委員拝命、第3回帝展に「女の顔」出品、従5位、勲5等大正11年(56歳) 平和記念東京博覧会審査官、また帝展審査委員拝命大正12年(57歳) 明治神宮奉賛会壁画調成委員拝命、関東大震災のため帝展中止、これに代るべく大阪毎日新聞社主催の展覧会京都にて開催、「大震災後の東京の一部」出品大正13年(58歳) 5月、帝国美術院会員を拝命、第5回帝展に「東洋振り」「アマゾーヌ」を出品、第3回朝鮮美術展審査委員拝命大正14年(59歳) 11月正5位、勲4等、12月仏蘭西政府よりオフイシエ・ド・ランストリユクシヨン・ピユブリツク記章を受領、南画院「竹と芭蕉」出品大正15年(60歳) 第1回聖徳太子奉讃展に「芳惠」を出品昭和2年(61歳) 第8回帝展に「鉸剪眉」を出品昭和3年(62歳) 皇太后陛下より御大礼御祝品として油絵制作の御下命を拝す、また多年教育に従事したる功労により文部大臣より表彰さる昭和4年(63歳) 第10回帝展に「風景(淡路島遠望)」を出品昭和5年(64歳) 第2回聖徳太子奉讃展に「女人合掌」を出品、三重県鳥羽地方に写生旅行に赴く昭和6年(65歳) 宮中花蔭亭パネル制作の大命を拝す、和歌山県潮岬に旅行し約1ヶ月滞在、海を題材とせる多くの作品を描く、「潮岬」「太陽のある風景」「浪」「大洗の浪」「朝靄」「日の出」等、また花蔭亭パネル「紀州潮岬」を完成、第12回帝展に「春」を出品、従4位昭和7年(66歳) 第13回帝展に「大王岬に打寄せる怒涛」を出品、香川県下に旅行し瀬戸内海を主題とする多くの風景画を制作、「女木島」「支度湾遠望」「五剣山」「屋島よりの展望」「東海旭光」等昭和8年(67歳) 勲3等 10月に台湾に旅行、第14回帝展に昭和6年作「太陽のある風景」を出品、光風会展に「紀州風景」出品昭和9年(68歳) 帝室技芸員拝命、第15回帝展に「山上の日の出」出品、多年教育に従事したる功労に対し帝国教育会より表彰さる昭和10年(69歳) 5月第10回朝鮮美術展審査委員を委嘱され、朝鮮へ旅行、此の年5月、改組帝国美術院会員仰付けらる、この秋、室戸に旅行また約1ヶ月台湾へ旅行、「室戸岬の灯台」「室戸遠望」「室戸岬」「蕃女」等制作、第二部会展に「神戸港の朝陽」出品昭和11年(70歳) 3月平和記念東京博覧会審査官、新文展の開設にあたり同展審査委員を委嘱さる、新制作派協会展に「東海旭光」「室戸岬燈台」「蕃女」を出品昭和12年(71歳) 4月、新しく制定された文化勲章拝受、満州美術展の審査員として渡満、蒙古、熱河、北京等に旅行す、再び帝国美術院解消され、帝国芸術院創設、同会員仰付けらる、御物「旭日照六合」完成、新制作派協会展に「北国の春」を出品昭和13年(72歳) 再び満州美術展審査員として渡満し、又それより上海、杭州、蘇州等に旅行し戦跡の写生をなす、第2回文展に「耕到天」を出品、新制作派展に特別陳列として「荒れる日」出品、12月、三越本店に近作画個展を開催、「上海黄浦江」をはじめ、「瀬戸内海の日の出」「大洗の浪」「潮岬灯台」「新高山の日の出」「西湖」等約20点出陳、正4位、高等官2等昭和14年(73歳) 6月、夫人逝去、2月、三越本店に於ける紐育万国博出品展示会に「東海旭光」出品昭和15年(74歳) 紀元二千六百年記念展に「蒙古高原」出品、新制作派協会展に「風景(日の出)」その他出品昭和16年(75歳) 5月より病臥、7月、第2回聖戦美術展開く、審査委員長委嘱、「黄浦江を望む」出品昭和17年(76歳)新制作派協会展に主として滞欧作品15点の特別出品、秋、三越に於て回顧展が開催され、明治36年作「蝶」より昭和15年作「犬吠岬の灯台」に至る58点陳列、青山墓地に自ら墓碑建立昭和18年(77歳) 1月、勲2等に叙せらる、3月19日宿痾脳溢血再発、午前10時30分逝去、同23日青山斎場に於て告別式執行、従3位を贈らる

佐藤紫煙

没年月日:1943/03/10

 日本画家佐藤紫煙は3月10日逝去した。享年70。本名文治郎、明治7年岩手県に生れ、瀧和亭に就いて花鳥を学び衣笠豪石に山水画の描法を受けた。明治29年明治天皇日本美術協会へ行幸の際、御前揮毫を仰付けられ、大正天皇に献上の揮毫まで凡20回の光栄を担つた。明治30年京都府全国絵画共進会に出品の「秋蘭図」は1等賞、翌31年日本美術協会展には2等賞を受け、40年文展に対抗して開かれた正派同志会第1会展には3等賞を受けている。大正7年秋には文展審査に慊らず南北画系作家と共に建白書を時の文相に提出したことがある。

中村雅真

没年月日:1943/02/21

 奈良帝室博物館学芸委員中村雅真は2月21日奈良市山ノ上町の自宅で死去した。享年90。元貴族院議員であり、奈良の古老の一人として人柄を懐しまれた人である。

今口憲一

没年月日:1943/02/09

 洋画家今口憲一は2月9日逝去した。享年46。明治31年東京に生れ、慶大経済学部中退後、前田寛治写実研究所に学び、二科展、独立展に出品していた。昭和9年銀座画廊を創立し、経営にあたり、昭和11年には彩々会を作つている。

小野賢一郎

没年月日:1943/02/01

 「やきもの読本」で親しまれていた放送協会業務局次長兼企画部長小野賢一郎は2月1日逝去した。号蕪子、明治21年福岡県芦屋に生れ、早く新聞界に入り、毎日新聞社に名をなした。多才多趣味をもつて知られ、ことに陶器鑑賞界の通人であつた。陶器に関する著書は多数にのぼるが、その最も大なる業績として陶器大辞典の編纂がある。

大原孫三郎

没年月日:1943/01/18

 大原孫三郎は1月18日狭心症のため倉敷市の自宅で逝去した。享年64。明治13年に生れ早稲田大学専門部を卒業、実業界に重きをなしたほか、社会問題研究所、労働科学研究所、美術館を創立し、文化事業にも大きい功績があつた。その西欧絵画の蒐集品は大原コレクシヨンとして知られるが、また児島虎次郎その他美術家のよい後援者でもあつた。

藤井善助

没年月日:1943/01/14

 京都有隣館長藤井善助は急性肺炎のため1月14日自宅で逝去した。享年71。衆議院議員当選3回、育英事業につくした他、実業界で活躍するとともに東洋美術愛好者として知られ、支那古美術を主とする多年の蒐集品をあつめて京都岡崎に有隣館を設立していた。

五姓田芳柳

没年月日:1943/01/09

 明治の洋画家として知られた二世五姓田芳柳は1月9日淀橋区で病気のため逝去した。享年80。本名子之吉、元治元年下総の倉持正重六男に生れ、明治11年上京、五姓田義松に師事したが、13年初代芳柳の養嗣子となつた。義松渡欧後はワーグマンに学び、14年からはサンジヨバンニ及びカペレツチにも師事した。第2回内国勧業博覧会に「飾鳥図」、同第3回博覧会には「鷺沼平九郎大蛇を屠る図」「羅漢図」を出品、25年以降は明治美術会や各国博覧会にも出品した。35年トモエ会設立の際は会員となつたが、文展以降は作品を公表せず種々の依嘱に応じて主として歴史画、風俗画を描いている。その主要なものは明治時代を回顧したもので、大正6年「聖徳記念絵画館考証図」同「十三年昭憲皇太后金子邸へ臨時行啓図」同14年聖徳記念絵画館壁画「枢密院憲法会議」昭和6年―8年「明治天皇御事績画」81図、昭和10年「笠置山」「吉野山」などが知られる。日本赤十字社特別社員で、同社依嘱のものが多数であつた。

平岡権八郎

没年月日:1943/01/06

 文展無鑑査、光風会々員平岡権八郎は胃潰瘍のため1月6日聖路加病院にて逝去した。享年61。明治16年東京に生れ、白馬会に於て洋画を学び、明治43年第4回文展に「コツク場」を出品3等賞を得、大正6年第11回文展に「大隅氏の肖像」を出して特選に推された。引続き帝展文展に出品し、昭和12年新文展には無鑑査となり出品の「老給仕たち」は注目されるところとなつた。なお一方に花月楼を経営、新橋演舞場の取締役であつた。

武内桂舟

没年月日:1943/01/03

 日本画家武内桂舟は1月3日自宅で逝去した。享年83。本名は鋠平、文久元年江戸の紀州邸に生れ、狩野永悳の養子となり敬信と号したが後、生家にかえつた。早く尾崎紅葉の硯友社の同人となり、都の花や文庫などの挿絵をかき、明治27年頃から新聞の挿絵をかいて知られた。後、博文館発行の太陽、文芸倶楽部、少年世界の挿画主任として活躍、巌谷小波と共にお伽噺界にも貢献したところが多い。日露戦争の絵も多くかいたが、大正以降は挿絵木版界を退き、絹本に古代人形の精密なものを描いている。昭和12年には「御所人形図」が皇太后陛下の御用品となつたこともある。

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