清水多嘉示

没年月日:1981/05/05
分野:, (彫)

日本芸術院会員、文化功労者の彫刻家清水多嘉示は、文化功労者に選ばれた記念展(5月5-10日、三越)開催初日の5月5日心不全のため東京大田区の東邦医大付属大森病院で死去した。享年83。戦後の具象彫刻をリードした一人である清水は、1897(明治30)年7月27日長野県諏訪郡に生まれ、最初洋画から出発し、1920(大正9)年第6回二科展に「風景」「カルタ」が初入選し、同展に第9回展まで出品した。23年に美術研究のため渡仏しブルデルに師事、その建築的構造性を重んじる彫刻を学んだ。28年までの渡仏中、サロン・ドートンヌに絵画及び彫刻を毎年出品、また、サロン・デ・チューレリー、サロン・デ・ザンデパンダンの各会員に推された。28年に帰国後、院展、国展、春陽会展等に出品したのち、文展へ出品し、43年第6回文展ではじめて審査員をつとめ「植樹」を出品する。戦後は日展を中心に活躍し、53年第8回日展出品作「すこやか」で芸術選奨文部大臣賞、54年第9回日展「青年像」で日本芸術院賞をそれぞれ受賞した。また、51年には上野公園内設置の彫刻コンクールに応募した「みどりのリズム」が一位入選、翌52年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。54年ヴェニスで開催された国際造形芸術会議に日本首席代表として出席し、国際造形芸術連盟設立とともに、その執行委員に選任された。64年、ジュネーヴの国際電気通信連合(ITU)創立百年記念事業としてのモニュマンのための「国際彫刻コンクール」の審査員にザッキン、マリニらとともに挙げられ、翌年審査に携わる。65年に日本芸術院会員、80年文化功労者に選任されたほか、日展顧問、日彫会名誉副会長などを歴任、また武蔵野美術大学名誉教授でもあった。著作に『ドナテルロ』(1940年)『ブルデル』(1956年)などがある。
日展出品歴
1946年 第1回 「母子像」
1946年 第2回 「婦人の頭」
1947年 第3回 「海」
1948年 第4回 「裸婦」
1949年 第5回 「村上翁像」(依嘱)
1950年 第6回 「La Meditation」(参事)
1951年 第7回 「フラートン少佐」
1952年 第8回 「裸婦」
1953年 第9回 「青年像」
1954年 第10回 「F子の頭」
1955年 第11回 「マドモアゼル・カリーン」
1956年 第12回 「裸婦」
1957年 第13回 「裸婦」
1958年 社団法人日展第1回 「青年」(評議員)
1959年 第2回 「裸婦」
1960年 第3回 「裸婦」
1961年 第4回 「裸婦」
1962年 第5回 「響」
1963年 第6回 「浩」
1964年 第7回 「爽」
1966年 第9回 「裸婦}(理事)
1967年 第10回 「裸婦」
1968年 第11回 「裸婦」
1969年 改組第1回 「裸婦」
1970年 第2回 「裸婦」
1971年 第3回 「純」
1972年 第4回 「裸婦」
1973年 第5回 「裸婦」
1974年 第6回 「母子」(顧問)
1975年 第7回 「裸婦」
1976年 第8回 「躍動」
1977年 第9回 「陽光」
1978年 第10回 「躍動」
1979年 第11回 「飛躍」
1980年 第12回 「飛躍」
1981年 第12回 「瞑想」

出 典:『日本美術年鑑』昭和57年版(274-275頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「清水多嘉示」『日本美術年鑑』昭和57年版(274-275頁)
例)「清水多嘉示 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9947.html(閲覧日 2024-04-26)

以下のデータベースにも「清水多嘉示」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top