浜田庄司

没年月日:1978/01/05
分野:, (陶)

 陶芸家、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)、文化勲章受章者の浜田庄司は、1月5日急性肺炎のため栃木県芳賀郡の自宅で死去した。享年83。本名象二。明治27年12月9日神奈川県橘樹郡で生まれ、東京府立一中在学時から工芸へ関心を寄せ板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる東京高等工芸学校窯芸科に入学、大正5年卒業した。同年、在学中識った先輩河井寛次郎が在職する京都陶磁器試験場に入り、河井とともに主に釉法の研究に携わり、またこの年富本憲吉との交遊が始まった。同8年バーナード・リーチを我孫子窯に訪れ、柳宗悦、志賀直哉とも識り、翌年初めて栃木県益子を訪れ、同6年リーチの誘いにより英国まで同行、セント・アイヴスの策窯を手伝い、同11年までリーチ・ポッタリで作陶を続け、翌12年ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を開催、同13年帰国した。帰国後益子に入り(昭和6年登窯築窯)、また柳、河井らと民芸運動を起し、昭和10年代まで沖縄、山陰、東北、九州、朝鮮などに精力的に出向き民芸品調査を行う一方、作陶に励んだ。昭和4年国画会会員となり(同11年退会)、同6年月刊雑誌「工芸」の創刊に同人として参加、翌年大原孫三郎の知遇を得、同12年その寄付による日本民芸館理事に就任した。戦後の同24年第1回栃木県文化功労賞を受け、同27年には毎日新聞社の文化使節として柳、志賀とともに渡欧し各地で講演会、講習会を開いた。同28年、昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受け、同30年には、第1回の重要無形文化財技術保持者に指定され、同32年文化財専門審議会専門委員となる。同37年日本民芸館官庁に就任、同39年紫綬褒章を受け、同43年には文化勲章を受章した。また、同49年日本民芸協会会長に就任し、同年から益子の邸内に益子参考館の設立を準備、同52年開館した。著書に『自選浜田庄司陶器集』(昭和44年)、『無尽蔵』(同49年)、『窯にまかせて』(同51年)などがある。

◆年譜
明治27年 12月9日、神奈川県橘樹郡の母アイの実家で生れる。本名象二。父久三は東京芝明舟町で文房具店を営む。
明治33年 溝ノ口小学校へ入学。絵と書を好む。
明治37年 東京へ戻り、三田の南海小学校に転校。
明治41年 東京府立一中に入学。
明治43年 ルノアールの言葉を読み、工芸の道へ進む志を強くする。板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる蔵前の東京高等工業学校へ進む決心を固める。写生に励み、また、書を丹羽海鶴に学ぶ。
明治45年 この頃、銀座の三笠画廊で、バーナード・リーチ富本憲吉の楽焼を見て、心を惹かれる。
大正2年 東京高等工業学校窯業科に入学。板谷波山に学び、先輩河井寛次郎を識る。かたわら白馬会研究所へ通いデッサンを習練。この頃、波山邸で山水土瓶を見、益子の名を知る。
大正3年 光風会第3回展「風景」「裏の庭」(水彩)。
大正4年 夏休みに、美濃・瀬戸・万古・信楽・伊賀・九谷・京都の窯場を巡る。帰途、京都市立陶磁器試験場に河井寛次郎を訪ね、卒業後就職する決心をする。
大正5年 東京高等工業学校を卒業、京都市立陶磁器試験場に入り、河井寛次郎と主に釉法の研究に携わる。大和安堵村の富本憲吉を訪ね交遊始る。
大正7年 夏、河井寛次郎と初めて沖縄へ行き、壺屋窯を訪れる。12月、神田の流逸荘のリーチ展で、初めてバーナード・リーチと識る。
大正8年 5月、バーナード・リーチを千葉県我孫子窯に訪ね、柳宗悦・志賀直哉とも識る。夏、河井寛次郎と朝鮮・満州を旅し、冬は、東京麻布のリーチの東門窯を手伝う。
大正9年 初めて栃木県益子を訪れる。6月、帰国するリーチの誘いにより英国へ同行。セント・アイヴスの築窯を手伝い、作陶を行う。
大正10年 セント・アイヴスのリーチ・ポッタリーで作陶続く。エリック・ギルやメーレらを識る。
大正11年 引続きリーチ・ポッタリーで制作。
大正12年 春、ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を催し、約80点を出品好評を得る。12月、第2回の個展(パタソン・ギャラリー)開き、年末ロンドンを発つ。
大正13年 フランス、イタリア、クレータ、エジプトを経て、3月末帰国。河井寛次郎と再会して、京都五条坂の同家に2ヶ月滞在。河井寛次郎柳宗悦を結ぶ。6月、栃木県益子に入る。12月11日、木村和枝と結婚、沖縄へ行く。
大正14年 3月まで沖縄に滞在、壺屋窯で制作。12月、日本での最初の個展を銀座の鳩居堂で開く。以後、東京及び大阪で年次展を開く。4月柳・河井とともに伊勢へ旅する。その車中ともに雑器の美を称揚する運動について語り合ううちに「民芸」の造語生れる。年末、柳・河井と木喰上人の日記を追って紀州を旅する。
大正15年 1月から4月まで京都五条坂の河井寛次郎方に滞在、彼の窯で制作する。益子での借間住いの制作が続き、秋から翌春にかけては沖縄壺屋窯で作陶。10月鳩居堂で個展。
昭和2年 大阪の土佐堀青年会館および東京の鳩居堂で個展。年末から翌年にかけて、御大礼記念産業振興博覧会への出品物蒐集のため、柳・河井とともに、東北・山陰・九州の民芸品調査を行う。
昭和3年 3月から5月、大礼博覧会出品の「民芸館」に作品を展示。11月鳩居堂で個展。
昭和4年 国画会会員となる。第4回国画展、「絵高麗菓子器」他。以後同展へ出品する。4月、柳と渡欧し、5月、ロンドンのパタソン・ギャラリーで個展。リーチを訪ねたのち、欧州を巡遊し、11月帰国。帰国後、熊谷直之の依頼で買集めた英国の家具その他を東京鳩居堂などで展観する。
昭和5年 1月、渡米中の柳の世話で、ハーヴァード現代芸術協会主催の日英現代工芸展に出品。4月、聖徳太子奉賛展に出品。9月益子に近村の農家を移築して住居とする。10月、大阪三越で、11月、東京鳩居堂で個展を開く。
昭和6年 月刊雑誌「工芸」創刊。同人となり、しばしば寄稿する。益子の住居に三室の登窯を築く。10月、ロンドンのパタソン・ギャラリーで、11月、東京鳩居堂で個展を開く。「工芸」13号に「李朝陶器の形と絵」を執筆。
昭和7年 倉敷で個展。山陰の諸窯を見学指導する。大原孫三郎の知遇を得る。秋、大阪三越と東京鳩居堂で個展。
昭和8年 年末、現代日本民芸展準備のため、柳・河井と東北・九州を巡り、苗代川・竜門司などの民窯を見る。「工芸」25号に「滞英雑記」、29号に「リーチ・ポッテリー」を執筆。
昭和9年 4月、来日したリーチを迎え、5月、長屋門を移築した仕事場でともに作陶。8月、柳・河井・リーチと各地を旅行する。現代日本民芸展のモデル・ルームの食堂を設計。
昭和10年 「工芸」55号に「日田のせいべい壺」を執筆。
昭和11年 5月、柳・河井とともに朝鮮満州を旅し、日本民芸館のために多くの蒐集をする。「工芸」68号に「河井のうけ方」70号に「新作展のこと」を執筆。第11回国画会展で棟方志功を見出す。国画会工芸部を退会。
昭和12年 5月、再び柳・河井と朝鮮へ蒐集の旅。9月日本民芸館理事に就任。「工芸」75号に「陶枕」を執筆。「工芸」77号浜田庄司特輯を行う。
昭和13年 「工芸」93号に「宋胡録など」を執筆。
昭和14年 4月、日本民芸協会同人たちと沖縄壺屋窯を訪れ、翌年にかけて制作・蒐集・撮影などを行う。「工芸」99号に「壺屋の仕事」を執筆。「月刊民芸」創刊。
昭和15年 5月、鳩居堂で富本・河井と3人展を開く。「富本憲吉河井寛次郎浜田庄司作品録」刊行。
昭和16年 柳・河井と華北を旅行。6月、第1回現代陶芸美術展に出品。
昭和17年 八室の大型登窯を築き、近村より民家を移築し、陶房・住宅・蔵などとする。
昭和18年 6月、東京高島屋で河井と2人展を開く。こののち、戦争のため、旅行・展覧会など困難となるが、制作は続く。
昭和22年 益子に天皇陛下を迎え、皆川マスの山水土瓶絵付をお見せする。国画会に復帰。
昭和24年 第1回栃木県文化功労章を受ける。12月、日本民芸館で「陶器の技法」と題し講演。
昭和27年 5月、毎日新聞社の文化使節として、柳宗悦・志賀直哉とともに渡欧。同月、富本、河井と三人展(東京高島屋)。各地巡歴ののち、8月、英国ダーティントンにおける国際工芸家会議に出席。リーチを作品展を開く。柳と北欧をめぐったのち、10月、リーチを加えて渡米。各地で講演会・講習会を催す。
昭和28年 2月、柳・リーチとともに帰国。リーチを益子に迎え制作し、各地をともに旅行する。8月は、柳・河井・リーチと信州松本の霞山荘に滞在、共著「陶器の本」のための座談を連日行う。11月、大阪のリーチ・河井・浜田の3人展に出品。昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。
昭和29年 2月、柳・リーチ・河井と「陶器の本」のために房州の浜田屋に滞在。日本伝統工芸展(日本橋三越)に出品。6月、大丸神戸店のリーチ・河井・浜田の陶芸3人展に出品。東京高島屋の富本憲吉を加えた陶芸4人展に出品。
昭和30年 2月第1回重要無形文化財技術保持者に指定される。
昭和31年 1月、札幌・宇都宮で「益子作陶30年記念展」を開く。4月、日本民芸館本館修理のため、抹茶盌50点の領布会を、柳の書幅・河井の茶盌とともに行う。10月、名古屋松坂屋で河井と新作陶芸展を催す。12月、東京三越で作陶展。
昭和32年 文化財専門審議会専門委員となる。5月、12月、大阪・東京三越で作陶展。
昭和33年 4月、12月、大阪・東京三越で作陶展。
昭和34年 春、佐藤惣之助碑建立のため沖縄へ旅行。この後もしばしば沖縄を訪れ、壺屋で制作を行う。7月、北海道で芹沢銈介と2人展を、また柳宗悦書軸・浜田庄司作陶展を催す。12月、東京三越で新作陶展。
昭和35年 6月、札幌で柳・河井とともに3人展を行う。11月、東京三越で新作陶器店。8月、「日本人の手・現代の伝統工芸」展(東京国立近代美術館)に出品。
昭和36年 10月、東京三越で「浜田庄司作品展」を開き、朝日新聞社より柳宗悦編「浜田庄司作品集」を刊行。バーナード・リーチの来日を迎え、大丸で2人展を開く。11月、大原美術館の陶器館開館式に出席。
昭和37年 前年死去した柳のあとを継いで日本民芸館館長となる。
昭和38年 6月、次男晉作をともない渡米、各地で講習会・展覧会を開く。ワシントン日米文化教育会議に出席。メキシコ・スペインを旅して民芸品を蒐集する。
昭和39年 1月、帰国。東京三越で旅行蒐集品展、日本民芸館で海外将来品展を開く。紫綬褒章を受ける。8月、現代国際陶芸展(朝日新聞社主催、東京国立近代美術館)に出品。
昭和40年 2月、三男篤哉とニュージーランドに招かれ、講習会・展覧会を催す。オーストラリアで講習会を行い、香港経由で欧州を巡遊して4月帰国。10月、岡山天満屋の日本民芸館同人展に出品。
昭和41年 妻和枝をともない米国旅行。留学卒業した次女比佐子を加えて欧州を巡る。朝日新聞社刊の作品集「バーナード・リーチ」を編輯。3月、ヴェネズエラ・コロンビアでリーチ、フランシーヌ・デル・ピエール、浜田3人展開催。
11月18日、河井寛次郎死去。
昭和42年 秋、ミシガン大学150年祭に招かれ、展覧会を開き、名誉学位を受ける。
昭和43年 春、デンマークのコペンハーゲンで個展。和枝、比佐子を同道して、セント・アイヴスにリーチを訪ねる。7月、沖縄タイムス賞を贈られ、11月、文化勲章を受ける。
昭和44年 1月、台湾を訪問。香港にリーチ夫妻を迎え、沖縄各地を旅行。5月、益子名誉町民となる。11月、朝日新聞社より「自選浜田庄司陶器集」を刊行。東京三越で「浜田庄司自選展」を開く。
昭和45年 大阪万国博覧会の日本民芸館館長に就任。5月、12月、例年のごとく三越で作陶展。
昭和46年 2月、沖縄で芹沢銈介棟方志功と3人展。
昭和47年 5月、朝日新聞社より「世界の民芸」(共著)、12月、日本民芸館より「浜田庄司七十七盌譜」を刊行。琉球電電公社の依頼により「沖縄の陶器」を監修編輯する。5月、大阪、12月、東京三越で作陶展。
昭和48年 ロンドン王立美術大学より名誉学位を受ける。4月、来日したリーチとともに輪島を旅行。8月、スコットランドへ旅行。
昭和49年 2月、日本民芸協会会長に就任。秋田県角館在の白岩窯復興についての調査を依頼される。4月から5月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。6月、大阪三越で作陶展。9月、発病し、入院療養。10月、栃木県益子の邸内に益子参考館と陶器伝習所の設立
を準備。
昭和50年 1月、大阪阪神百貨店、2月、岡山天満屋百貨店で「浜田庄司・目と手」展。講談社より「河井寛次郎浜田庄司・バーナード=リーチ」刊行。4月、退院し自宅で静養。秋より制作を再会、12月、東京三越で個展。益子参考館の石倉造展示館成る。
昭和51年 制作と蒐集、また益子参考館の建設を続ける。9月、日本経済新聞社より「窯にまかせて」を刊行。秋、川崎市文化賞を受く。12月、東京三越で作陶展を開く。
昭和52年 4月、益子参考館開館館長、理事長に就任。東京国立近代美術館において「浜田庄司展」が開催される。
昭和53年 1月5日、急性肺炎のため益子町の自宅で死去(83歳)。3月、日本民芸館で浜田庄司追悼展。
本年譜は、水尾比呂志編「浜田庄司年譜」(「浜田庄司展」図録所収昭和52年、東京近代国立美術館)、並びに「浜田庄司」展図録所収年譜(昭和56年山梨県立美術館他)を参照した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(268-271頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月21日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「浜田庄司」が含まれます。
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