小川芋銭

没年月日:1938/12/17
分野:, (日)

 日本美術院同人小川芋銭は1月以来中風のため茨城県牛久沼畔の自宅に於て静臥療養中のところ12月17日逝去した。享年71歳。
少年時代本多錦吉郎画塾に洋画を学び、又同時に日本画をも独学し、同40年前後には平民新聞、読売新聞等に主として農民を主題とした漫画を執筆、大正4年迎へられて珊瑚会々員に、同6年日本美術院同人に推薦された。
 明治29年以降は概ね郷里牛久に住し、専ら沼畔の風物に取材した。仕事は姶んど水墨及び水墨淡彩に一貫し、東西画の素養に基く独自の南画を創作して後年の構図、筆意の逞しさは宋元画に想到せしむるものがある。晩年は漂渺として明快に向ひ、六曲一双「江村六月」或ひは二曲一双「桃花源」は其の人柄と特色を示すと共にこの作者として珍らしい大作であらう。尚、書及び俳諧にも造詣があり、老荘の学に親しみ、好んで河童を描いたことは有名である。画号は明治20年頃より大正10年頃まで牛里(俳句に多く用ゆ)、草汁庵、芋銭、大正11年頃より晩年まで芋銭子、莒飡子等を用ひ、昭和3年頃稀に字銭子を用ひた。
略年譜
年次 年齢
明治元年 2月18日赤坂溜池、山口筑前守藩邸に、小川伝右衛門賢勝の長男として生る。幼名不動太郎、後茂樹吉と改む
明治4年 4 一家山口氏旧領牛久村に帰農
明治11年 11 東京に出で京橋区新富町某小間物商の丁稚となる、此頭より余暇を偸みて絵を学ぶ
明治13年 13 親戚本多錦吉郎の画塾彰技堂に洋画を学ぶ
明治17年 17 濁力洋画の研修に従ひ、又市隠抱朴斎に就て漢画を問ふ
明治19年 19 機縁ありて加地為也に画事を問ふといふ
明治21年 21 朝野新聞に客員となる
明治24年 24 此頃朝野新聞に漫画を掲載、初めて芋銭の号あり
明治26年 26 父の命により帰国し農事に従ふ、余暇を愉みて画作す、翌々年妻を迎ふ
明治40年前後 同30年頃以降、いばらき新聞、雑誌文芸界、平民新聞、東亜新報、国民新聞、雑誌ホトトギス 読売新聞等に挿絵、漫画等を描く
明治41年 41 「草汁漫画」を刊行す
明治44年 44 東京三越に小杉未醒と共に芋銭未醒漫画展を開く
大正4年 48 平福百穂、川端龍子、森田恒友等の組織する珊瑚会々員となる
大正6年 50 珊瑚会第3回展出品「水郷二題」外4点 日本美術院同人となる、同院第4回展出品「沢国五景」
大正7年 51 院展第4回試作展出品「雪景」、珊瑚会第4回展出品「百魔絵巻」「虚陵米価」等、院展第5回「峡谷朝雷」「峡谷秋草」「陶土之丘」
大正8年 52 珊瑚会第5回展「抱甕痴」、院展第6回「樹下石人談」、同院同人作品展「恍惚郷」
大正10年 54 日本美術院米国展出品「水虎と其脊族」「若葉に蒸さるゝ木精」、院展第8回「山彦の谷」
大正11年 55 同院第8回試作展「朧夜」、院展第9回「沼四題」(桧原、鰌取り、小鰕漁、家鴨小屋)
大正12年 56 同院第9回試作展「白雲想」、院展第14回「水魅戯」、茨城美術展創立会員となり、「樹間如水人如魚」を出品
大正13年 57 同院第10回試作展「新緑潤国土」院展第11回「夕風」「芦花浅水」
大正14年 58 同院第11回試作展「月輪穿沼」、院展第12回「野干燈」
大正15年 59 聖徳太子奉讃展出品「早夏清朝」、院展第13回「丹陰霧海」
昭和2年 60 同院第12回試作展「雪姥と黒狐」
昭和3年 61 院展第15回「浮動する山岳」「荒園晴秋」、還暦記念として「芋銭子開七画冊」を刊行
昭和4年 62 同院第14回試作展「畑のお化け」、院展第16回「止水」「怒涛」
昭和5年 63 院展第17回「積雨収」「太古香」、羅馬開催日本美術展出品「河伯安住所」
昭和7年 65 同院第16回試作展「十二橋」、院展第19回「海島秋来」
昭和9年 67 院展第21回「反照」
昭和10年 68 帝院改組に当り参与に推さる、日本美術院第19回試作展「長沙散歩」、8月「雲巒煙水」「江村六月」六曲塀風一双成る、院展第22回「雪巒煙水」
昭和11年 69 帝国美術院第1回展「暁烟」、院展第23回「聴秋」
昭和12年 70 院展第24回「湖上迷樹」、11月日本橋東美倶楽部に、草汁会主催の名を以て自己発意による古稀記念新作展開催、「新嘗之慈雲」外約60点出品、古稀記念として「芋銭子開八画冊」刊行
昭和13年 71 2月東京俳画堂より「河童百図」公刊、12月17日没
(主として「故小川芋銭遺作展」目録による)

出 典:『日本美術年鑑』昭和14年版(113-114頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2017年03月01日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「小川芋銭」が含まれます。
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